Welcome To My ”俺の感性”

音楽のレビューというか感想をてけとーに書き殴るブログです。

映画

新海誠監督の映画『君の名は。』を観た。

『新海誠はオタクを見捨てたのか?』

2013年の夏に劇場公開された前作の『言の葉の庭』を、先着順で配られたポストカードを手に入れたくらい公開して直ぐに映画館へ足を運んだレベルの新海誠作品フアンの僕が、なぜ約三年ぶりとなる新作『君の名は。』を公開終了間近になってから観に行く事になったのか・・・?というより、新海誠監督の新作が久々に公開されると知った僕は、前作との時と同じノリでロングランにはならないことを決めつけて公開一,二週間以内に観に行こうと決めていた。しかし、前作の『言の葉の庭』から約三年、新海誠監督を取り巻く状況は一変していたんだ。公開から一週間、二週間、そして公開から一月を超えて聞こえてきたのは「興行収入50億突破!100億突破!150億突破!200億突破!」、そんなあたかも信じられないニュースが各報道やメディア間で持ちきりで、僕は「いやいやいやいやいや、お前は一体何を言ってるんだ?」と、初めは何かの間違いなんじゃあないか?と耳を疑った。そしてこの時点で、僕は「新海誠は俺たちオタクを見捨てたのか?」という疑念が脳裏によぎった。

そもそも自分が知ってる新海誠監督のイメージっつーと→スタジオジブリのパヤオが引退するする詐欺と言う名の引退宣言してからというもの、いわゆる「ポスト宮﨑駿」として挙げられる『エヴァンゲリオン』の庵野監督をはじめ、『時をかける少女』や『サマーウォーズ』の細田守監督や今はなき今敏監督と並んで、この新海誠監督も一応はその「ポストパヤオ」というレッテルを貼られる人物の一人で、しかし庵野監督や細田監督に作品の知名度や売上的な意味でも圧倒的な差をつけられているのが現状だ。要するに、細野守監督がいわゆる一般人ピーポー向けの「メインストリーム」すなわち「大衆アニメーション」の代表格とすると、この新海監督の作品はいわゆる俺たち「オタク」向けの「アンダーグラウンド」なインディペンデントで活躍するアニメ映画監督、少なくとも今まではそういった「棲み分け」されていたハズだった。しかし、今回の『君の名は。』は、既に細野監督の全作品の売上を筆頭に、そして三年前の当時は『言の葉の庭』が「前座」扱いだった宮﨑駿の長編引退作となる『風立ちぬ』をはじめ、歴代ジブリ作品の売上すらブチ抜いてしまったのだ。

それでは、なぜ『君の名は。』はここまで「売れた」のか?その大きな要因の一つとなったのが、他ならぬ本作のほぼ全ての音楽を担当したRADWIMPSの存在だ。まず『君の名は。』の批判的な意見の一つに「RADWIMPSの壮大なPV映画」みたいな批判が少なからずあるのも事実で、その批評は決して間違いとは言い難いが、しかしこの『君の名は。』をここまで大衆的かつメインストリームの作品にブチ上げた最もたる要因その功績として存在するのも事実だ。自分の中で、いわゆる邦ロックってバンド名はよく耳にするけど肝心の『音』がまるで聞こえてこない、全く届いてこないネガティブなイメージがあって、このRADWIMPSはその最もたるバンドの一つで、実際に本作で初めてRADWIMPSの音楽を聴いても、如何せん「ただのバンプ」というか「バンプを聴いて育った世代の音楽」←それ以上でもそれ以下でもない以外の感想しか出てこなかった。とは言え、そのRADの主なファン層であるティーンや女性層を『音楽』で惹きつけることに成功したのも事実だ。

映画が始まってまず驚いたのは、俺たちの神木きゅんこと神木隆之介演じる主人公の立花瀧と上白石萌音演じるヒロインの三葉による、新海作品の専売特許とも言えるポエムの語り部から幕を開ける。そのポエムの後に「君の名は。」というタイトルテロップがスクリーンにデカデカと映し出され、そしてRADWIMPSによる主題歌の「夢灯籠」をバックに、いわゆる「普通のアニメ」にありがちなオープニングで始まる。正直、映画の冒頭からここまで「音楽」を全面に押し出した演出は、新海作品では初の試みだったからとにかく驚いた。このオープニングから読み解けるキーワードは「普通のTVアニメ」すなわち「大衆アニメ」だ。

しかしどうだろう、これまでの新海誠監督および新海作品といえば、例えば前作の『言の葉の庭』で言えばシスコンや足フェチが大喜びしそうな、現に足フェチの僕は公開後にブルーレイで買ったくらい 、つまり「普通のアニメ」とは一線を画した「オタクアニメ」として我が道を行く、それこそ「本物のオタク」と呼ぶに相応しい変態監督だった。そんな「普通じゃないアニメ」が、映画の冒頭から「普通のアニメ」みたいな演出を見せられて妙な違和感を憶えたファンも少なくないだろう。

その大衆アニメ的なオープニングが終わると、パジャマ姿で眠っているヒロイン宮水三葉の姿を足の指先から上半身へと舐め回すようなカメラワーク、そのファーストカットから前作の「言の葉の庭」を踏襲した新海誠らしい変態性を垣間見せると同時に、僕はこのファーストカットを見てある映画を思い出した。それこそ、是枝裕和監督の『海街diary』という映画のファーストカットで、この映画も布団で眠る長澤まさみの足の指先から上半身へと舐めるように映し出すカメラワークから始まるのだ。当然、足フェチの僕はこの長澤まさみの足が映し出された瞬間に「はいフェチ映画」と呟くと同時に、是枝監督は新海誠監督と同じ変態性もといフェチズムの持ち主なのではないかと推測した。まさしくそれは「言の葉の庭」でヒロインの雪野先生の生足を見た時に感じたものと全く同じモノ、すなわちデジャブだった。このファーストカットから「新海誠は俺たちオタクを試してきてる」と。そして何が驚いたって、瀧くんのバイト先の先輩である奥寺ミキを声で演じる人物こそ、他ならぬ長澤まさみだった。僕はこの冒頭のシーンからの長澤まさみの声優起用に猛烈な「縁」を感じざるを得なかった。もっと言えば、この冒頭のシーンに特別な意味を感じ取れなきゃ『君の名は。』を理解することは不可能なんじゃないか。

『君の名は。』のストーリーというか設定を軽く述べると、主人公の立花瀧は東京の都心に住む普通の男子高校生で、ヒロインの宮水三葉は岐阜県飛騨の山奥に住む女子高校生で、華やかな東京の暮らしに憧れながら、妹の四葉と一緒に宮水神社の巫女を務めている。話のキモはこの二人が奇妙な夢を見ることで身体が入れ替わる現象と、1200年ぶりに地球に接近するという架空の彗星「ティアマト彗星」の存在が二人の運命を引き裂いていく。「入れ替わり」の現象によって二人の距離が徐々に縮まっていき、お互いを「恋人」として意識し始める一種の焦燥感を現すシーンでは、メインテーマ曲となる例の「前前前世」の曲とともに物語が急速に加速していく演出、観客を一気にその世界観へと引き込む演出効果は、紛れもなく「音楽の力」によるものだ。

しかし、ある日から二人の「入れ替わり」は起きなくなる。その時、巫女である三葉は祖母の一葉と妹の四葉と一緒に山奥にある御神体へと向かう。その御神体へと向かうシーンは『星を追う子ども』的な冒険ファンタジーをフラッシュバックさせ、そして御神体に辿り着くと祖母の一葉は御神体を取り囲む「川」を超えたら先は「あの世」と言う。この「(三途の)川」を超えたら「あの世」というギミックも、宮﨑駿の『千と千尋の神隠し』や『崖の上のポニョ』で言うところの「トンネル」抜ければ「異世界」と同じメタ的な意図を含んだギミックを用意している。まさか、ここでジブリのモノマネして失敗した駄作と言われる『星を追う子ども』の冒険ファンタジーっぷりを再見するなんて夢にも思わなかった。

『瀧=マシュー・マコノヒー』

主人公の瀧くんは三葉に会いに行こうと東京から岐阜へと向かう。物語はサスペンス風に変わり、瀧は衝撃的な真実に辿り着く。それは三葉の住む糸守町は、三年前にティアマト彗星が直撃して町ごと消滅していたことを知る。瀧くんは御神体へと向かい、三葉が奉納した口噛み酒を飲み干す。すると糸のように三葉の過去を知る旅というか、これはもう新海誠なりのワームホール的な五次元世界だと、つまり瀧くん=『インターステラー』のマシュー・マコノヒーだと僕は解釈した。それ以降は、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるSFにありがちな「未来を変えて命を救う」みたいな展開で、ティアマト彗星から住人を避難させるために三葉は仲間と奔走する。ここでは坂道で走ってズッコケてズザザザみたいな細田監督の『時をかける少女』のオマージュをふんだんに盛り込み、最後はティアマト彗星の隕石が糸守町へと衝突する瞬間、その災害シーンを思い切って新海誠は描いている。この災害シーンで感慨深いと思ったのは、「言の葉の庭」が前座扱いだった「風立ちぬ」で震災シーンを描いたパヤオを三年の時を経てリスペクトしたというか、2011年以降の日本に降り掛かった数多くの災害をエンターテイメントの世界に盛り込んでもエエやん的なノリを踏襲した象徴的なシーンだった。逃げずにしっかりと描ききった誠を見直した自分がいた。

物語は再び東京のシーンへと戻る。そこは糸守町の住人は奇跡的に避難している世界線だった。あれから8年後、瀧と三葉は「誰かを探している」思いを胸に秘めながら、それぞれ東京での生活を勤しんでいた。この東京のラストシーンはちょっと本当に凄くて、ある雪の日に「すれ違う」シーンは『秒速5センチメートル』の主人公の遠野貴樹とヒロインの篠原明里が最後に「すれ違う」シーンのセルフオマージュだし、というより、この『君の名は。』をSF映画として解釈すれば、これはもう御神体のワームホール(五次元世界)に突入した瀧くんが別の世界線から遠野の想いを繋いできたという解釈もできるし、逆にワームホール(五次元世界)に突っ込んだ瀧くんが辿り着いた世界線が「糸守町の住人が救われる世界線」だとするなら、その世界線こそが『秒速5センチメートル』の遠野が「ヒロインの篠原明里と結ばれる世界線」と解釈できるし、それこそ『君の名は。』の最大のテーマである「人と人、あの世とこの世を繋ぐ糸」は、新海誠作品の『過去』と『今』を繋ぐ糸でもある、そのトンデモなく超絶的なスケールに、そして『君の名は。』は「新海誠レガシー」の賜であるという答えに辿り着いた瞬間、最後の最後で瀧(遠野)と三葉(篠原)が時空と次元を超越して出会った瞬間、僕は大粒の涙を流していた。つまり、ラストの東京のシーンは『君の名は。』の世界というより、新海誠作品のパラレルワールドの一つとして認識すべきかもしれない。

『否定と肯定』

これは「救い」すなわち「救済」の物語だ。これは俺たち童貞の星だった新海誠によるオタクの救済なんだって。鬱映画だなんだと評される『秒速5センチメートル』の主人公をはじめ、新海誠監督はこれまで一貫して「否定」の世界の人間を描いてきた。しかし、この『君の名は。』では一転して「肯定」の世界を繰り広げている。まず『秒速5センチメートル』の遠野とヒロインを「肯定」することで、俺たち秒速フアンの鬱な思い出すら「肯定」、すなわち救いの手を差し伸べてくれているし、あの『星を追う子ども』の失敗すら『君の名は。』という名の『新海誠レガシー』の一部として徹底して「肯定」している。それすなわち、全ての新海誠作品の「肯定」でもある。瀧くんはワームホールという五次元空間を介して、俺たち童貞や雪野先生を含む過去の「否定の世界」の住人を『君の名は。』という「肯定の世界」へと救済しているんだ。つまり、これまで一貫して誠が描いてきた「否定の世界」に対する理解がないと、一体何のために『君の名は。』で「肯定の世界」をやったのかが分からなくなる。

『コンプレックス』

確かに、確かにこれまでの新海誠は「否定の世界」の住人だったし、そもそも「クリエイティブ」および創造の原動力って、それこそオタク特有の内省的なコンプレックスであって、俺たちオタクは誠の「コンプレックス」に共感し、その「コンプレックス」を「クリエイティブ」に昇華した作品を支持してきたハズだ。しかし、皮肉にもこの『君の名は。』では誠のキョロ充的なコンプレックスが解消されただけで、本来のオタクとしてのコンプレックスを昇華するクリエイティビティはまるで発揮されていないし、まるで応用されていない。これって音楽業界に例えると、インディーズバンドがメジャーという商業主義に魂を売って従来のフアンに叩かれる構図そのもので、つまり女子供という周りの目が気になってしょうがないキョロ充層がメインの客層であって、それが『君の名は。』がここまで売れた大きな理由でもある。『秒速5センチメートル』の主人公遠野は「否定の世界」の住人らしい葛藤を持つ内省的なキャラクターだったが、今作の主人公の瀧くんとは葛藤なんてない、「セックス!セックス!セックス!セックスがしたい!」という感情、ヒロインの三葉にいたっては西野カナばりの「会いたい会いたい会いたいな」みたいな、それこそ本作のメイン層であるティーン・エイジャーの煩悩に訴えかける「セックス・エネルギー」によって、次元と時空を超えて出会ったんだ。

『売れた要因』 
 
ではなぜ『君の名は。』はここまで売れたのか?おいら、ヒロイン三葉の同級生の勅使河原克彦のキャラデザを見た時、またしてもデジャブを感じたのだけど、それはずっと前に『心が叫びたがってるんだ。』とかいうアニメ映画を見たのだけど、それに出てくる坊主頭のキャラとデザインがクリソツで、まさかと思って調べてみたら案の定「ここさけ」の田中将賀氏が『君の名は。』のキャラデザを手がけていて、更に作画監督としてジブリ界隈の安藤 雅司氏を起用しており、それによりこれまでのB級的なキャラデザから一転してイマドキっぽい洗練されたA級のキャラクターデザインへと大きな変化をもたらしている。その現代アニメーションを代表する「ここさけ」と日本の伝統的なアニメーションである「ジブリ」を両脇に固めた時点で勝ちは決まったようなもんで、まず一般ピーポーの視聴に耐えうるキャラデザが「売れた」要因の一つと言える。

『批判』

つまり、ジブリ界隈の大衆性とイマドキのアニメを代表するキャラデザ、そしてSNSという今の時代を象徴するギミック、そして『時をかける少女』や『エヴァンゲリオン』などのセカイ系を全て飲み込んだ、もはや「こっちのがシン・ゴジラだろwww」って笑っちゃうくらい、ある意味で業界の「タブー」を犯した全日本アニメーションが『君の名は。』である。確かに、面白いというか皮肉なことに『海街diary』の是枝監督も言っていたことだが、『君の名は。』の批判する意見の一つに「売れる要素を詰め込んだだけ」という批評がある。確かに、タイトルの『君の名は。』からして「借り物」だし、「入れ替わり」の設定はB級ラノベに腐るほどある陳腐な設定かもしれない。アニメーションの側に至っても流行りの絵柄やジブリ界隈の人材を吸収し、キャラだってシスコン的な役割を担うバイトの先輩やジブリリスペクトなロリコン的な役割を担う四葉、そして「なんでもお見通しキャラ」である祖父のババアを網羅し、何と言っても極めつけにはティーン・エイジャーに大人気のバンプもといRADWIMPSが音楽担当ってんだから、むしろ逆に「売れないわけない」と誰しもが思うはずだ。その批判は否定しようもない事実かもしれない。しかし、そのあらゆる過去と今の要素をコピーして繋げて一つのアニメーションとして形にする創作技術って、それこそ日本人が得意とする技術の一つだと思うし、つまり『君の名は。』のテーマである「糸」は物語のセカイを超えて、伝統的な日本アニメ業界とイマドキの日本アニメ業界を繋ぐ「糸」としての役割も担っているんだ。確かに、それなら別に誠がやる必要がない、それこそ細田監督にやらせればいいだろ的な意見も理解できる。でもこの『ほしのこえ』を踏襲したSF的なスケール感や『星を追う子ども』を踏襲した壮大な冒険ファンタジーを一つに繋ぐことができる人材って新海誠の他にいなくて、それこそ全てのタイミングが合致した末に生まれた作品というか、紛れもなく「本物のオタク」による「本物のオタク」のための究極のエンターテイメント映画と言える。

ところでおいら、新海誠監督が描くセンチメンタルでエモーショナルな作風と岩井俊二監督が描く少女漫画的で二次元的な作風は互いに似たフィーリングを持っていると感じていて、今になってそれを確信づける出来事があった。おいら、だいぶ前に岩井俊二監督の新作映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』を観たんだけど、そのとあるシーンで帽子かぶった奴がピアノを弾くという意味深なシーンがあって、その時はRADWIMPS=帽子被ってる奴らみたいなイメージしかなかった僕は「まさか」と思って調べてみたら案の定その帽子被った人物がRADWIMPSの野田洋次郎だと知った時はちょっと驚いたというか、言ってしまえばそれも『君の名は。』のテーマである「人と人」を繋ぐ「糸」があって、もっと言えば今作のスペシャルサンクスに岩井俊二監督の名があったのが全てというか、自分の中で過去の何気ない伏線が「糸」のように繋がっていくことに謎の感動を憶えた。

音楽の世界でも、この手の自身の過去作品や他社の過去作品をオマージュして集大成的なアルバムと語るアーティストは決して少なくない。そういった意味でも、この『君の名は。』はただのアニメ映画というよりはもの凄く「音楽的」なギミックが秘められた作品と捉えるべきかもしれない。

『君の名は。』=『日本のインターステラー』

『君の名は。』の批判の一つに、瀧くんと三葉の世界線が三年ズレてるのが会話の内容で気づくだろ的なことや、いわゆるタイムリープ的なシーンのSF的解釈がガバガバで説得力がないという批判めいた意見も目につく。確かに、宇宙と地球の近くて遠い存在を繊細に描き出した、相対性理論をはじめ物理学的な解釈を応用した処女作の『ほしのこえ』と比べるとSF的な説得力は乏しいかもしれない。しかし、マシュー・マコノヒー主演のクリストファー・ノーラン監督の映画『インターステラー』を観た人の視点からだとどうだろう?この映画を好きな人なら瀧くんが御神体で五次元空間(ワームホール)に入った瞬間に「これは日本のインターステラーだ!瀧くんこそマシュー・マコノヒーなんだ!」ってなるでしょ。そう、現代の「ヒーロー像」その象徴が瀧くんなんだ。SF映画といえば、その代表格である『バタフライ・エフェクト』も新海誠に多大なる影響を与えている。例えば『秒速5センチメートル』のラストシーンの「すれ違い」は『バタフライ・エフェクト』の影響と言われているけど、自分は『君の名は。』の最後の東京のシーンの「すれ違い」の方がSF的な俺の解釈や同じ「8年後」という設定も相まって俄然『バタフライ・エフェクト』っぽいなと思った。なぜなら、『バタフライ・エフェクト』は複数のエンディングが用意されたマルチエンディング方式の映画で、通常は「すれ違いエンド」なんだが、有名なのはストーカーエンドと「君の名は?」みたいに声をかけるハッピーエンドのパターンだ。この件で本当に面白いのは、最後の東京の雪のシーンで『秒速』と『BE』の「すれ違い」のオマージュをやって見せた後に、『秒速』の遠野とヒロインが次元を超えて結ばれるハッピーエンドで締める辺りは本当に誠は天才かよと思ったし、男泣き不可避だったよね。

『アニメ界のクリストファー・ノーラン』

当然、日本一のジョジョヲタである僕は、『ジョジョの奇妙な冒険』と『君の名は。』をリンクさせながら見ることもできた。そもそも、クリストファー・ノーランの『インターステラー』はジョジョ6部そのまんまだと思ってて、ジョジョ6部で徐倫がミュウミュウのスタンド攻撃を食らって3つの出来事しか記憶できない時に手に記憶を刻むやり方は『君の名は。』でもあるし、もっというとラストの東京のシーンは新海誠作品が一巡した先の話、もっと言えば瀧くんが多次元世界からD4Cを使って遠野を連れてきた世界の話、すなわちパラレルワールドだと解釈できる。そういった意味でも、「奇をてらったように見えて王道」であるパターンの荒木飛呂彦やクリストファー・ノーランの作家性と肩を並べるレベルまで誠は到達したのかもしれない。漫画界のクリストファー・ノーランが荒木飛呂彦ならば、アニメ界のクリストファー・ノーランは新海誠だ。

『オレはいったい誰なんだッ』

ふと「君の名は。」の対義語って何だろう?と考えてみた。巷では既に駄作認定されている現在連載中のジョジョ8部ジョジョリオンの主人公の東方定助も記憶がない設定で、彼の有名なセリフに「オレはいったい誰なんだッ!?」ってのがあって、これって「君の名は。」の対義語なんじゃねーのと思ったのと、恐らくもう一度ロカカカの実を食べて記憶を消失するであろう主人公の東方定助とヒロインの康穂が瀧くんと三葉みたいなラストシーンを迎えたら面白いんじゃねーの飛呂彦?的な妄想が捗った。イマドキのSNS要素やパラレル要素やジョジョ歴代最高にエモーショナルな作風的にも全然アリじゃね?

東方定助「オレはいったい誰なんだッ!?」

広瀬康穂「君の名は。」

???「僕の名前は・・・チ・・・チンポリオです!」


個人的に消化不良だと思った点は、三葉の親が最後の最後までヒール役になってて、最後の東京のシーンで三葉が父親と電話してるシーンを入れても良かったんじゃねーかとは思った。序盤に何かと絡んできたDQN系の同級生や高校生になった四葉の「その後」は描かれているのにも関わらず、唯一父親だけはフォローが一切なくて親父完全にヒールやんって悲しくなった。でもその辺は小説版でフォローされてるらしい?あと名古屋民や岐阜県民は名古屋駅のJR構内が一瞬映る時にニヤリとできます。

じゃあ果たして本当に新海誠は俺たちオタクを見捨てたのだろうか?いや違う。 「否定の世界」のオタクを裏切ったとか、大衆アニメに魂を売ったとか、キョロ充化しかたとか、いやそうじゃない。過去作と比べてどうとかでもない、過去作があってこその『君の名は。』であり、根本的な部分は何も変わっちゃあいないし、紛れもなく正真正銘の新海誠映画だ。じゃあ一体何が変わったのか?それは「否定の世界」から「肯定の世界」へと変わっただけだ。この映画を叩こうとすればするほど、つまり「否定」しようとすればするほど、更にその上を行く「肯定」のエネルギーによって全力で「肯定」仕返してくる。むしろ叩けるか?これ本当にパンピー向けの大衆アニメか?これ実は俺たち「本物のオタク」向けのオタク映画なんじゃねーか?って。つまり、表面上はパンピー向けの大衆アニメだが、しかしその裏にはコアなオタクしか気づけないギミックだったりメタ的な要素だったり、そして何よりも「新海誠レガシー」の結晶、その集大成であることを示している。むしろ誠にとっては次作が勝負だと思う。『君の名は。』で「新海誠レガシー」という名の過去の遺産を全て食いつぶしてしまったわけで、もう同じ手が使えない全く新しいシン・海誠の次作が楽しみでしょうがない。

おいら、近年著しく増え続けている「オタク気取りのニワカ」が大嫌いで、まさにこの『君の名は。』に批判的な人間って「オタク気取りのニワカ」だと思う。まずメイン層の女子供は「なにかわからんが最後出会えて泣ける~」みたいなノリで楽しめるだろうし、逆に僕みたいな「本物のオタク」は一回観ただけでここに書いた『君の名は。』の全てが理解できるハズだ。そのパンピーと「本物のオタク」の間にいる1番中途半端なオタク気取りのニワカに限って、安易に『君の名は。』を叩いてしまう。この『君の名は。』が凄いところは、今の日本に蔓延るニワカを炙り出すための作品としても機能するところだ。事実、この『君の名は。』を叩ける人材って少なくとも日本では宮﨑駿しかいませんし、実際にパヤオに『君の名は。』を見せても一言「絶対に許しません!」と一蹴するのは目に見えている。この『君の名は。』を観たら余計に「ポスト宮﨑駿」なんて言えないハズだ。むしろパヤオのオリジナリティに改めて脱帽するだろうし、現代日本が持ち寄る全日本アニメーションを集結させた誠の創作術とは比較対象にすらならない。僕は「超えちゃいけないライン」の上に立つ人間こそ、その分野の『神』に最も近い存在となれると思っていて、日本アニメ界の『神』は他ならぬジブリの宮﨑パヤオで、つまり新海誠は『君の名は。』でその神であるパヤオに日本で最も近い存在となったと言えるだろう。

面白いのは、恐らく新海作品を観たことがないリア充カップルは映画館で『君の名は。』を観た後にセックスできてWINだし、一方で黄金の童貞」である俺たち本物のオタクは、セックスこそできないがカップルやオタク気取りのニワカが一生知ることのない『君の名は。』の全てを理解することが出来る、つまりオタクの世界にとって「クリエイティブ」を理解する=セックス以上の快楽を得ることと同意で、それこそリア充と非リアがお互いにWINWINな関係になれる映画って作ろうと思っても簡単に作れるもんでもないし、そこが新海マジックだと思った。とは言え、俺たち童貞オタクの誰しもが「新海誠の童貞奪った女ぜってー許さねぇ...」とこの映画を見終えた後に泣きながら囁いたはずだ。やっぱり童貞の星だった新海誠の童貞をトリモロスことができるのは、日本には約数百人しか存在しないとされる「本物のオタク」しかいなんじゃないかって。それこそライムスター宇多丸や老害サブカルおじさんの批評でもない、今の誠には「正当な評価」が必要だ。その「正当な評価」ができるのは俺たち本物のオタクしかいないんだ。誠のこれ以上の暴走モードを止めるのは俺たち童貞しかいないんだ。だから待ってろ誠・・・俺たち「本物のオタク」が・・・

「新海誠の『童貞』をトリモロス!」 

ジョジョ4部映画化について

ちょっと前に『ジョジョの奇妙な冒険』が実写映画化決定みたいな噂という名の定期ネタが話題を呼んだかと思ったらガチで4部を実写化する事が決まったらしい。そもそも、「日本一のジョジョヲタ」である僕が「もしジョジョ(7部)を実写映画化するなら」という問に答えると、まず監督は『ドライヴ』のニコラス・ウィンディング・レフン監督で、配役はクリント・イーストウッド(スティーブン・スティール役)をはじめ、『ドライヴ』のライアン・ゴズリング(ジャイロ役)、『インターステラー』のマシュー・マコノヒー(マウンテン・ティム役)、『ミステリアス・スキン』のジョセフ・ゴードン=レヴィット君(ジョニィ役)、『ナイトクローラー』のジェイク・ギレンホール(ディエゴ役)、『偽りなき者』のマッツ・ミケルセン(リンゴォ役)、そして『ジュノ』のエレン・ペイジ(ホットパンツ役)は自分の中で既に配役が決まってたりする。まぁ、それは兎も角として、今回は絶賛クソアニメとして絶賛放送中のジョジョ4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写化で、監督はクソ映画請負人でも知られる三池崇史監督、主演は今をトキメク山崎賢人とのことで、この時点でクソ映画待ったなしでもう今の気分は最高にハイ!ってやつなんだが、とは言え実際に観てみないと何とも言えないので、淡い期待と絶望的な不安を抱きつつ気長に劇場公開を待ちたい。どうやら飛呂彦と脚本の意見交換とかもしてるらしいので、その辺は大きく「ハズす」ことはないのかなと一安心。それこそ、「日本一のジョジョヲタ」である僕に監修させるべき事案なんじゃあないか?(えっ)

これは長年のジョジョヲタなら共感してもらえるはずなんだが、そもそも大昔から『ジョジョ』っつーのは二次創作がことごとくクソ以下の作品しかなくて、例外中の例外はカプコンの三部格ゲーだけで、いくらジョジョを取り扱った二次創作がクソ以下だからといって、既にクソ以下の前例が腐るほどあるからと言って、もはやジョジョヲタ界隈では『タブー』とされてきたジョジョの実写化、すなわちパンドラの箱に遂に手を出してしまったのだ。ともあれ、この実写映画化はその「ジョジョの二次創作はクソ」という長年の『伝統』を受け継ぐ、そのルーティーンにダメ押しを決める『伝説』の映画となるに違いない。

つうか、もし監督が園子温だったらどーなってた?

Acid Black Cherryの『L -エル-』映画化決定!主演はCHVRCHESのローレン・メイベリー!

・・・じゃねーのかよ!

L=ローレン・メイベリー説
 

ドキュメンタリー映画『The Distortion of Sound』

『音質の低下とテクノロジーの進化が音楽を聴く方法をどう変えたのか?』という、フィジカルからデジタルへの変化を描いたドキュメンタリー映画。面白かったので。

新海誠監督の新作映画『言の葉の庭』を観た。

 ポストカード
    
       
【ネタバレ注意】


新海誠
監督の新作映画『言の葉の庭』を観てきた。結論から言えば...泣いた。

    『言の葉の庭』=『フェチ映画』

おいら、新海誠監督の作品は『新海誠特集』がTVでやってた時にひと通り鑑賞した記憶があるんだが(『雲のむこう、約束の場所』だけは未見)、その中でも一番に評価が高い『秒速5センチメートル』は数回観たことがあって、その都度KATATONIA状態すなわち鬱状態になったりするほど、まさに最高傑作に相応しい良作だった。その次の作品となった長編『星を追う子ども』は露骨にジブリを意識した作風で、正直なところあまり良い作品とは言い難かった。そして、その前作から約二年ぶりの新作となる本作『言の葉の庭』は、上映時間が45分の中編モノで、ストーリーは”現代の東京を舞台に、男子高校生と生きることに不器用な年上の女性の淡い恋の物語”という感じの、ハッキリ言えば【シスコン映画】みたいなソレというか、馬鹿でもわかる至ってシンプルなラブストーリー的なアレ。で、今回のキャラデザは前作に引き続いて土屋堅一さんの担当で、靴職人を目指す高校生の主人公秋月孝雄を演じるのはパヤオ『千と千尋の神隠し』のハク役としても有名な入野自由君、ヒロインの雪野百香里を演じるのは人気若手声優の花澤香菜さんという、まぁ、いわゆる”声ヲタ”にもバッチリ”ブヒらせ”アピールしてますよ的なキャスティングで、入野君は僕と同い年とは思えないほど完璧な演技力を、オットリとした大人しい感じの声でブヒらせる花澤さんの演技も(こんな教師おるか?)とか若干思いながらも、最終的には”この人しかいない”と納得させるほどの存在感を見せている。しかもお互いに”2月生まれ”ということで(花澤さんに至っては僕の誕生日と一日違い)、やっぱ”2月生まれ””雨”の相性って抜群やなッ!と再確認した次第で、なんつーか成功するべくして成功した作品なんだと納得(えっ)。で、新海監督の作品といえば、ご存知の通りその【映像美】が高く評価されているが、この『言の葉の庭』の序盤にも緑と情緒に溢れた、まるでパヤオの『千と千尋』もしくは『ポニョ』を連想させる、【トンネルを抜けた先】にある【あの世とこの世の間】の異次元空間、それこそ夢の世界のように幻想的な日本庭園が登場するんだけど、まずこの日本庭園の絵があまりにも美しく壮観で思わず引き込まれた。で、本作の舞台と言っていいその庭園に引かれ合うように、15歳の少年と27歳のオトナの女性の淡く儚く刹那的な恋物語を、まるで【梅雨の始まり】を知らせるかのような池泉が奏でる雨音と同じように繊細かつ丁寧に紡いでいき、”雨”というノスタルジックな魔法に限定されたロマンティックな「雨宿り」の物語は、【梅雨の終わり】と共にテンポよく一気にクライマックスへと向かっていく。っと、その前に、話の中盤に孝雄が靴を作っていると言ってユキノの足を採寸する場面で、ヒールを脱いだユキノの足に孝雄が人差し指で触れるシーンからの絵のワンカットワンカットの魅せ方に(あっ、この監督【おはD】もとい【変態】だわ)と確信したというか、さすが【日本一の変態】と名高いパヤオの影響を直に受けているだけあって、過去作品にはないある種の【エロス】というか、本作一番の見せ場および作画ニキの真骨頂というか、新海誠流の【男のフェミニズム】を感じ取れた俺的瞬間最高視聴率がこのシーンだった。だって、アニメであんなにも綺麗な足って今まで見たことなかったもん。これには割りとマジで足フェチな”俺の感性”にビビッとキタ。要するに、『言の葉の庭』=『フェチ映画』というわけです。

  『パヤオ(ロリコン) VS 新海誠(シスコン)』

 話を元に戻して、やはり本作『言の葉の庭』の目玉はクライマックスの”あのシーン”で、まぁ、ベタでクサいシーンではあるんだが、一回りも年齢の離れたカレシを持つ母親の子供とはまるで思えないほどマジメで誠実に生きる孝雄、一方で教師イジメにあって”金麦ヤケ酒BBA”と化したユキノ先生、互いに大人しく素朴な性格の男女が感情をむき出し(愛のむきだし)にして本音でぶつかり合い、遂にユキノが孝雄を抱きしめて互いに泣きじゃくると同時に、まるで(クンニしろオラァァァ)ならぬ(オラオラ泣けよオラァァァ)と言わんばかりの、秦基博さんによる主題歌”Rain”が流れ出すというベッタベタでクサいクライマックスの展開にMy Heart is epicッ!! この新海誠作品史上最もエモーショナルな場面の入野君と花澤さんの演技には盛大な拍手を送りたい。ハイライトは孝雄の「あんたは一生ずっとそうやって、大事な言葉は絶対に言わないで、自分は関係無いって顔して、ずっとひとりで、生きてくんだ!」の場面(特に「大事な言葉は絶対に言わないで」のトコロすき)。そしてこの孝雄とユキノが抱きしめ合う超絶エモいシーンで、ユキノの左足の指の描き方を見てまたしても新海監督マジ変態紳士やと思った。わかりやすい話、ユキノの家でDT孝雄フラれて出て行く→ユキノ泣きながら孝雄のセリフを回想→BGMが流れ出すと同時にユキノ怒りの裸足ダッシュからのズコー!(ユキノの美しい足はもうボロボロ)からの~スパロボばりに無駄にイカしたカットインからの激おこ状態の孝雄→「金麦クソババア!」からのワイ→(自分、涙いいすか?)からの秦基博→「言葉にでき~ず~♪」。なにやらこの主題歌、大江千里さんの”Rain”が原曲のカバー曲らしいんだけど、なんか初めて聴いた印象は【山崎まさよし×ケツメイシ】的な雰囲気のある曲で、本作のストーリー/コンセプトとマッチしてるように感じた。けど、俺の中で【新海誠映画=山崎まさよし】というイメージが完全に出来上がっちゃってるせいで、正直なところ(まさよしー!早く来てくれー!)ってなったのは言うまでもない。

 本作、『秒速5センチメートル』みたいな、まるでSEKAI NO OWARIのような後味の悪いラストではなくて、むしろ今回は逆に主人公とヒロインの二人が再び【未来】へと歩き出す(再生の物語)、まるでSBRみたいに【希望】に満ちたラストで、確かに完全なハッピーエンドではないかもしれないが、見終わった後に妙な清々しさを感じたほど、少なくとも『秒速』が地獄とすると『言の葉』の後味は天国のように感じるレベル。本編約45分という上映時間の短さを微塵も感じさせないほど”濃密”な、本当に無駄のないストーリー展開は見事としか言いようがない。申し訳ないが前作は黒歴史と言ってしまいたいぐらい。結論として、所々に入る金麦や伊右衛門の露骨な宣伝やイイ意味でダサいカットインの演出や『秒速』リスペクトな中二病ポエム的なセリフなどなど、色々な意味で『秒速』より好きですコレ。もっかい劇場で観たいけど、そこは早くも今月にDVD/ブルーレイ化されるまで我慢。だけど、本作の物語に大きく関わってる”梅雨”の時期の今だからこそ、せめて一回は劇場で観ることをオススメしたい。しかし(あれっ?なんでオレ一人で『言の葉の庭』とかいうラブストーリーを観ているんだろう・・・えっ泣)ってなるならないの保証はできない。俺が唯一言えることは、シスコン野郎は大人しく観ときゃエエんちゃうん?そんで(雪野タソ~ブヒィ!)とか叫んどけばエエんちゃうん?という事ぐらい。あと思ったのは、一回りも年齢の離れたカレシを持つ孝雄の母親と、孝雄とユキノが置かれた状況がまるで同じなのはナニか深い意味があるんやろか?この孝雄の母親が割りとマジでクズ設定にした理由が知りたくなった。なにはともあれ、この『言の葉の庭』は俺のフェチ心をくすぐるような、それこそ新海誠の【映像美】ここに極まれりな作品でした。

 ちなみに、同時上映されたショートフィルムの『だれかのまなざし』はコチラも新海誠監督の作品で、父子家庭的な親子とネコの思ひでポロポロ的なストーリーでまぁまぁシンミリできて良かった。この短編では、『言の葉の庭』で孝雄の母役を演じていたベテラン声優の平野文さんが語り役として出演している。そして『言の葉の庭』が完全に幕を閉じた後に、パヤオことスタジオジブリの新作『風立ちぬ』の予告映像が四分間流れ始めた。主演にエヴァの庵野秀明監督という謎のキャスティングから、音楽には久石譲ユーミンとかいう最強の布陣。ストーリーは1920年代の日本で、あの当時の若者の生き様を描いた、いわゆる【戦争モノ】っぽいんだけども、どうやら実在の人物であり零戦の設計者である堀越二郎の半生を描いた映画とのこと。これも予告編だけでスデに涙が出てきそうな感じだった。7月20日に公開らしい。なんつーか、『ポニョ』よりもパヤオ映画っぽい雰囲気だったから、なおさら期待したい。

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