Welcome To My ”俺の感性”

音楽のレビューというか感想をてけとーに書き殴るブログです。

ジョジョ

クリストファー・ノーラン監督の映画『ダンケルク』を観た

「ダンケルクを観た」

「ノーラン凄い」

「ハンス・ジマー凄い」

「ダンケルクを生きのびた俺凄い」


・・・ってなるくらい、まず空から「お前たちは包囲された」というナチスのビラが降り注ぐ市街地を、数人の兵士が放浪するほぼ「無音」の静寂シーンから、突如としてけたたましい銃撃音が鳴り響き、そのあまりにもリアルな音響と爆音にビビってその場で死んだふりしてたら、いつの間にか映画終わってた・・・。

というのは冗談で、まずはじめに、これから書くことは同時刻にアップしたスティーヴン・ウィルソンTo the Boneの補完記事として捉えていただきたいのだけど、そもそも何故「日本一のジョジョヲタ」である僕が、ジョジョの実写映画を観に行かず(つうか、いつの間にか上映終了してた)クリストファー・ノーラン監督の最新映画『ダンケルク』を観に行ったのか・・・?

そもそもの話、昨年にジョジョ4部の実写化が発表された時に、僕は真っ先に何を思ったかって、それこそ「いやいやいやいや、ジョジョってもう(実質)実写化されてるじゃん」ということ。確かに、「お前は一体ナニを言っているんだ」と思うかもしれない。でも初めてクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』を観た時に、僕は「これはジョジョ映画だ!」と確信したのだ。それはもう物語のモノローグ的な序盤のオカルト/ホラー全開のシーンが映し出された瞬間に、身を乗り出して「これはジョジョ映画だ!」と心の中で叫んだほど。というのも、この『インターステラー』は宇宙と地上を舞台にした父と娘の親子愛の映画で、その「父と娘」の話を『ジョジョの奇妙な冒険』に置き換えると、まんまジョジョ6部の空条承太郎(父)空条徐倫(娘)の話と全く同じだと気づく。勿論、ジョジョ6部は最終的に「ケープ・カナベラル」という『インターステラー』の元ネタにもなった映画『コンタクト』にも登場する場所で、ジョジョ6部でもラスボスのプッチ神父と最終決戦を繰り広げた舞台でも知られる。ジョジョ6部には、他の部とは比べ物にならないくらい、SF映画やSF小説を筆頭に、いわゆる数理物理学的な科学的要素と人類や宗教哲学にも精通するギミックが沢山盛り込まれた作風でもあり、(読めば分かるが)その難解至極な終盤のストーリーは、ジョジョ愛好家の中にも「ジョジョ6部だけは苦手」という人を数多く生み出すほど、言うなれば「荒木飛呂彦なりのデビルマン」を描き出したかのような凄みのある作品だった。

映画『インターステラー』は、それこそジョジョ6部最終話の【アオリ】でお馴染みの「引力、即ち愛!!」を地で行くような究極のエンタテインメント映画でもあって、重力を操るスタンド使いやメビウスの輪から、2進法や宇宙服での戦闘、そしてプッチ神父のスタンドの最終形態である『メイド・イン・ヘブン』は、『時間』の概念を超越することで世界を一巡させ、つまり人は自らの『未来』とその『運命』を知ることで『覚悟』が生まれ、その『覚悟』とは即ち人類の『幸福』であるとプッチ神父は説いた。しかし、そのプッチ神父の「自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪」は、最終的に主人公の徐倫たちが残した最後の『希望』によって破られることになる。しかし、このジョジョ6部を読み終えた時、誰しもが一度は思ったであろう事がある。それは「プッチ神父が唱えた思想は果たして本当に邪悪であり、本当に間違いであったのか」ということ。

その疑問に対する一つの答えという名の『メッセージ』が、日本では今年の5月に公開されたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のばかうけ映画『メッセージ』の中で解き明かされたのである。僕はこのばかうけ映画を初めて観た時、ノーランの『インターステラー』を初めて観た時と全く同じ体験、すなわち「これはジョジョ映画だ!」と、そして「ジョジョ実写化」の伏線が全て繋がったと思った。この『メッセージ』にもSF映画の金字塔である『コンタクト』からの影響を伺わせるオマージュ(北海道)やギミック(素数,カルト教団の焼身自殺)が多々あるのだが、先ほどの『インターステラー』は重力および相対性理論などの物理学および科学的要素をはじめ、オカルト/ホラー的な映画の「ガワ」を司るギミックの面でジョジョ6部に直結すると書いたが、この『メッセージ』は物理学や科学を応用したSFモノではなく、一種の「運命決定論」あるいは「宿命論」などの思想的な内面を描き出した、つまりジョジョ部のプッチ神父が唱えた「人は運命を知ることで幸福になれる」つまり「覚悟こそ幸福」という、ジョジョ6部では「間違ったもの」として主人公たちに「否定」された思想を、このヴィルヌーヴはこの『メッセージ』の中で一転して「肯定」するような描き方がされている。

この映画とノーランの『インターステラー』に共通するのは、【They=彼ら】の存在、すなわち「未来人」であり、しかしその「未来人」の描き方というか正体がノーランとヴィルヌーヴではまるで違う。ノーランは【They=彼ら】の正体を『未来の人類』であると抽象的に描いたが、このヴィルヌーヴは【They=彼ら】の正体をタコ足(七本)の宇宙人みたいなビジュアルで描き出している。

【彼ら=ヘプタポッド】の文字言語解読のために言語学者の第一人者であるルイーズは奔走する。ばかうけ宇宙船に乗ったイカ足のヘプタポッドは、3000年後に人類から助けられるために贈り物という名の「武器」を人類に提供しに来たという。その「武器」とは「言語」だった。それは円状の形をした未知なる文字。それは表意文字で、そのロゴグラムには「時制」の概念がないと、その非線形の文字には時系列はないと判明する。ヘプタポットは『時』を超越した存在であり、ヘプタポットの言語を理解することでルイーズ自身もその『時』を超越した存在へと近づき、徐々に彼らと同じ感覚で『時』を理解できるようになる。

ヘプタポットはルイーズという1人の人間(ヒューマン)を選別し、そしてルイーズは自らの運命を受け入れた。一方でプッチ神父はそれを全ての人類に強要したのだ。ルイーズは自らの運命を肯定し、それすなわち「娘の死」を肯定することであり、そのルイーズの『覚悟』とプッチの『覚悟』には天と地ほどの差がある。同じ「運命論」であるにも関わらず、なぜルイーズの『覚悟』は人類に受け入れられ、一方でプッチの『覚悟』は人類から「否定」されたのか。その答えは、映画の最後でルイーズが未来の夫に対して言った言葉が全てで、それは「この先の人生が見えたら、選択を変える?」という「運命決定論」を象徴するセリフだった。「決定」された「娘の死」まで全てを受け入れたルイーズの覚悟と非情な運命は、私利私欲のために人類にそれを強要したプッチとは真逆の『勇気』と『覚悟』があった。自らを「人間を超越した存在」であり『神』すなわち「未来人」であると勘違いしたプッチには、人間の気高さや清らかな美しさ、人間の心の強さや人を愛する心、そして人間が持つ『正義』の心は、『悪意』そのものであるプッチには永遠に理解できないだろう。つまり、プッチは「正義」の心を持つ人間に敗北する『運命』を背負っていたのだ。

将来自分の娘が病で亡くなってしまう事を知りながら、つまり全てを知りながらも自らの決定された未来とその決定された運命を全うするルイーズの存在は、一種の未来人であり、そういった意味では『インターステラー』と全く同じ【They=彼ら】の正体は未来の自分であると解釈できる。つまり、ジョジョ6部のディオの骨から生まれた緑色の赤ちゃんこそ、『メッセージ』で言う所の地球外生命体ヘプタポット的な立ち位置(宇宙人)として解釈可能だし、その緑の赤ちゃんというヘプタポット=『未来人』に取り込まれたプッチ神父『メイド・イン・ヘブン』を発動し、1人の『未来人』すなわち『神』として「人は運命を知ることで幸福になれる」という幸福論を人類に説き伏せようとしたのである。改めて、この『メッセージ』では運命論を「肯定」する描き方をしているのに対して、ジョジョ6部ではその運命論を「否定」して描いている。やっぱ6部を完全に理解することは難しいと改めて思うのは、ジョジョ6部ではヘプタポットの役割を担っていたのはラスボスのプッチ神父という「倒すべき敵」であり、決して「肯定」してはならない存在であり、もしもその思想が「正しいもの」であっても、ジャンプ漫画ではラスボスの思想あるいは信条は全て「否定」=「拒否」されなければならないのである。しかし、作者の荒木飛呂彦は「敵」に未来人の思想を植え付けるという、今考えてもトンデモナイくらい意地悪なことやってのけてて、そらジョジョ6部を理解できるやつなんて(少なくとも完結した当時は)誰一人としていねーっつうか、もし居るとしてもそれはクリストファー・ノーランドゥニ・ヴィルヌーヴ荒木飛呂彦『メッセージ』の基となった短編小説「あなたの人生の物語」の原作者であるテッド・チャンくらいだろう。ここでテッド・チャンの名前が出たが、ジョジョ6部が完結したのが2003年なので、1998年発表の「あなたの人生の物語」と同じく1997年公開の映画『コンタクト』は、間違いなくジョジョ6部を紐解く上で欠かせない2大コンテンツと呼べるものである。

もう一つ、その『インターステラー』『メッセージ』よりも前に、「日本一のジョジョヲタ」である僕が難攻不落と呼ばれたジョジョ6部を理解する上で参考にした映画がある。その映画こそ、ブリット・マーリング主演の『アナザーアース』だ。僕がティーンエイジの頃にジョジョ6部を読んだ時、プッチ神父が唱える思想や宇宙が一巡する終盤をどう解釈していいのかわからなくて、4回くらい繰り返し読んで初めて一つの解釈にたどり着いた。それは「これは宇宙が再びビッグバンを起こして、地球が2つに分裂したという解釈でいいのかなぁ?」という至極曖昧な答えだった。しかし、結果的にそれはある意味正しい解釈であったというか、その子供の頃に感じたジョジョ6部の解釈を真っ向から肯定するような映画が『アナザーアース』だったんだ。この映画は地球と全く姿形をした「もう一つの地球」が接近してくるという設定の物語で、SF映画好きなら知らない人はいないSF映画界の隠れた名作だ。つまり、その映画にもある多次元世界あるいはパラレルワールド的な世界観は、後の7部の話へと直接的に大きく関わってくる。ちなみに、ブリット・マーリングが主演を務めているNetflixのオリジナルドラマ『The OA』も、いわゆる臨死体験をテーマにしたこれまたSF的なドラマで、なんだろう、ジョジョ5部のブチャラティがディアボロに腹パンされた以降の感覚って、このドラマの臨死体験に近い感覚なんだろうなって思ったし、これも一種の「実写ジョジョドラマ」なのでオヌヌメです。

ここ最近、これはもう実質ジョジョ映画だろっていう映画が本当に多い。2014年に公開されたジェイク・ギレンホール主演の『ナイトクローラー』もその内の一つだ。まずギレンホールが演じる主人公のサイコパスな性格はジョジョ4部の吉良吉影に通じる部分があったし、そして何と言ってもその主人公が作中で突如「恐怖とは~」とか言い始めて、ジョジョの世界でも重要なテーマとなっている「恐怖」について語り始めた瞬間に、僕は「はいジョジョ映画」と言ってこの映画を実写ジョジョ映画認定した。そんな中、日本一のジョジョヲタである僕が考えた最強のジョジョ実写化ってなんだろうと、ふと思い立った時に、まず作品の基礎的な部分でインスパイアされるのは、昨年公開されたニコラス・ウィンディング・レフン監督の映画『ネオンデーモン』だ。まずはそのモデル業界を舞台にしたファッション性で、『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦もファッション雑誌をはじめ、グッチやブルガリなどのハイブランドとのコラボ作品を発表しているし、この映画に出てくる奇抜なファッションとモデルがクロスオーバーしたビジュアルで思いしたのは、以前ジョジョ界隈でも話題を呼んだヘアメイクアップアーティストの原田忠氏がジョジョをオマージュした作品だった。他にも、デヴィッド・リンチ映画にも精通するファッション・シュールな演出やグロテスク/ホラー/サスペンスフルな演出もジョジョ特有の世界観に通じるものがある(勿論、荒木飛呂彦もリンチ作品に影響を受けている)。そして極めつけは、作中で「目玉を吐き出す」シーンが出てくるのだけど、ご存知、「目玉」といえばジョジョ5部の「この味は!...ウソをついてる『味』だぜ...」でお馴染みのシーンだ。そういう面でも、要するに「僕が考える最強のジョジョ実写化」は、ニコラス・レフン監督を迎えて、原田忠氏が監修した『ネオンデーモン』的なビジュアル(美術)をリンチ的なファッション・シュール的な演出で、そしてNetflix資本でジョジョ5部を実写ドラマ化することです。これが実現すれば間違いなく実写化は成功します。だからネトフリ頼む!

面白いのは、ジョジョ6部が完結して10年以上経ってから、クリストファー・ノーラン『インターステラー』ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』によって、実質『ジョジョ実写映画化』されたことで、逆に言えば、今になって映画化されたSFネタを荒木飛呂彦は14年前に漫画の世界でやっていたという事実に驚愕する。いわゆる「日本一のジョジョヲタ」を自称している僕が「6部推しには負ける」と言うのはここで、ジョジョ6部のSF的な世界観や哲学的な思想は、今や新・2大映画巨匠と呼ばれるまでになったノーランヴィルヌーヴによって初めて「メインストリーム」にアップデイトされたというか、だからこれまでパンピーが「6部好き」と言っても説得力が皆無で、必然的に6部好きはニワカの烙印を押されるようなものだった。しかし、ティーンネイジャーの頃に読んだ時は難しくて理解できなかったジョジョ6部が、完結から14年経ってようやく『理解』できたような、そしてようやく心から「完結した」と呼べる気がした。「何も知らないジョン・スノウ」がジョジョのアニメ化や実写映画化に湧き上がる中、「日本一のジョジョヲタ」である僕はたった一人でジョジョ6部の「完結」に歓喜し、激情し、そして涙していたんだ。

こうやって全てを『理解』して思うのは、やっぱりジョジョ6部って荒木飛呂彦の最高傑作なのかなって。気になるのは、飛呂彦自身が『インターステラー』『メッセージ』を観た時に一体何を思ったのか。恐らく喜んだに違いない、世界最高峰の2大映画監督によって実現したジョジョ6部の実質ジョジョ実写映画化をね。そして、ノーランとヴィルヌーヴが現代の映画界で2大巨匠と騒がれるようになったのとほぼ同じタイミングで、荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』があらゆるメディアミックスをはじめ、「メジャー作品」として認知されるようになったのも、全て荒木飛呂彦という「未来人」の計算通りなのかもしれない。なんだろう、ガチの「天才」って飛呂彦のことを言うんだと思う。つまり、ノーランヴィルヌーヴと同じ感性を持つと証明された荒木飛呂彦、それは間違いなく日本におけるトップクリエイターの1人であることの証明であり、もはや人間国宝に認定すべき人材であると。

おいら、2回目に観て泣ける映画こそ本当にいい映画だと思ってて、この映画『メッセージ』はまさにそれだった。と言うより、少なくともこの『メッセージ』は2回目で初めて理解できる映画だ。1回観た後に2回目を見れば、物語の最初と最後が繋がって一周していることが分かる。2回目からは全然違ったものに見えてくる。オープニングから全てが違った表情で見えてくるし、それと同時にプッチ神父にはないルイーズの『覚悟』に僕は激情したのだ。あたかも「過去」であるかのような映像(フラッシュバック)が実は「未来」だったという演出も、この映画を象徴するとても「意味」のあるギミックとしてあって、まずヘプタポットという『時』を超越した存在を映画の基礎的な部分に落とし込んでいる。また『時』の流れが存在しないヘプタポットの存在を円形文字(言語)として暗示し、そしてルイーズが娘に名付ける名前も「ハンナ(Hannah)」という前から読んでも「逆」から読んでも同じ名前で、そこでもこの映画の『時間』表現を示唆している。

ここで思い出されるものこそ、スティーヴン・ウィルソンTo the Boneである。まるでヘプタポットの円形文字を示唆するように、時計の針一周分の60分ジャストのこのアルバムは、まるで『メッセージ』のように『時』は多面的とばかり、まるで時の流れに縛られて生きる人間と同じく「アルバム」のように1曲目から曲順に時間が流れていくのではなく、それこそ時制の概念がないヘプタポットと同じように、Spotifyのプレイリストのように『時(曲)』を断片的にかい摘んで聴けちゃう、実に「フレキシブル」な作品である。そして、このアルバムに隠された最大のギミックである「逆再生」は、まさに『メッセージ』「ハンナ(HannaH)」と全く同じ事を意味している。僕は以前、相対性理論天声ジングルに対しても「逆再生」できるアルバムであると書いた。その天声ジングルのオープニングを飾る”天地創造SOS”の歌詞を見れば、全てが伏線で繋がっていることが分かる。それこそ『メッセージ』はSOSである。そして、この天声ジングルの最後の曲に「FLASHBACK(フラッシュバック)」が待ち受けているのは、果たして偶然だろうか?この偶然を『メッセージ』のフラッシュバック演出と全く同じと想定すると、自然と面白いものが見えてくる。つまり、『天声ジングル』「逆再生」すると、映画『メッセージ』と全く同じ物語になるのではないかと。この真実(トゥルース)に気づいた時、やっぱりえつこには勝てないと僕は悟った。同時に、これ以上(理解)を進めると「俺の感性」『神の領域』に足を踏み入れてしまうのではと、僕は恐怖する反面、こんなに面白い世界に生まれてなんて幸運なんだとも思った。スティーヴン・ウィルソン≒荒木飛呂彦≒やくしまるえつこは、自らの作品の中でノーランヴィルヌーヴの世界と共鳴させていたのだ。僕はTo the Boneの中で、約10年前にSWと出会った瞬間から、このレビューを書く運命にあると言った。つまり、これは僕が音楽という名の新しい言語を『理解』していく中で、ルイーズと同じように『未来』を予測(フラッシュバック)してたからなのかもしれない。

僕が初めてヴィルヌーヴ監督の存在を知ったのは、2010年に公開された映画『灼熱の魂』だった。この映画は円盤を買うほど衝撃を受けた初のヴィルヌーヴ体験で、しかしまさかその時はヴィルヌーヴが現代映画界を代表する巨匠になるなんて、ましてやこの『メッセージ』でジョジョ6部実質実写化するなんて思っても見なかったし、SF的な観点から言えば、その時から「日本一のジョジョヲタ」である僕はジョジョ6部の実写化その未来を予測していたのかもしれない。勿論、過去にANATHEMAの記事で『ジョジョの奇妙な冒険』ヴィルヌーヴ『灼熱の魂』を共振させたのも後の伏線だったのだ。正直、自分の中でこの『メッセージ』『灼熱の魂』を超える一本になったし、もはや生涯のBEST映画の一本と呼べる作品だった。

ちょっと待って、『ダンケルク』の話どこいった?っていう指摘は全くもってその通りで、それはノーラン自身が「観客を戦争体験に連れて行く」と豪語するように、それこそ昨今流行りの兆しを見せているVRを過去のものにするかの如く、そして『インターステラー』でもこだわり抜かれたノーランの「本物志向」は、戦争映画としての徹底したリアリズムに一役も二役も買っている。正直、ジョジョ6部の実質実写映画化だった『インターステラー』の後に、どうやらノーランの新作が「戦争モノ」だったり「実話」だったり「上映時間106分」だったりするらしいと聞いた時は、「おいおいクリント・イーストウッド化するのはまだ早いぞノーラン」と思ったのだけど、実際にこの『ダンケルク』を観たらその考えは2秒で改まった。物語は、第2次世界大戦に起きた「ダンケルクの戦い」を基にしており、ドイツ軍の電撃戦によってフランスとイギリスの連合軍がダンケルクの浜辺に追い詰められ、そこから脱出を図ろうとする兵士を描いた、言うなれば「撤退戦」である。いわゆる「戦争映画」というと、過去に数々の名作に溢れているが、それらと比較するとノーランが描く「戦争」はまるで違ったもに映った。

荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』が一種の「シチュエーションバトル漫画」とするなら、この『ダンケルク』は一種の「シチュエーション映画」である。前作の『インターステラー』をはじめ、『インセプション』『メメント』などの過去作を観ても分かるように、ノーランは複雑な「時間軸」を映画にハメ込んで観客の頭の中を翻弄する少し意地悪な監督でもある。この『ダンケルク』でも自身の専売特許とも呼べる『時間軸』を応用しているのだが、しかし今回のノーランはメチャクチャ優しい監督に見えた。何が優しいって、開始10分もしない内にこの映画は【陸(防波堤)での1週間】【海での1日】【空での1時間】という3つのシチュエーション(トリプティック)から描かれる映画だよと、わざわざテロップで観客に通達してくれちゃうほどの優しさ。「うわ、ノーランめっちゃ優しい」って。しかし、今回ばかりはその「優しさ」はありがた迷惑でしかなかった。何故なら、ノーランが言う「観客をダンケルクに連れて行く」には、今の自分が置かれた立場(名も無き一兵士)や状況(防波堤で駆逐艦待ち)や戦況(追い込まれてヤバい)を序盤で手っ取り早く「理解」してもらわなければならない。そこはこの映画を理解する上で必要最低限の必須事項である。その「優しさ」は一瞬にして「恐怖」へと変わるのだ。「うわ、ノーランマジこえぇ」って。上映10分で半ば強制的に全てを「理解」させられてしまった観客は、果たして「ダンケルク」から無事に脱出することができるのか?!

もはやイントロからクライマックスだよね。この映画は他の戦争映画と違ってドンパチは一切なし、というか映画の設定的に一方的に撃たれる側、爆撃される側なので、何度も言ってるけど僕は開始直後の銃撃音を聴いた瞬間にその場で死んだふりしたから。それくらい、まず「音響」がトンデモナイ映画だ。自分はIMAXとかではなく普通の映画館で観たんだけど、それでも本物の戦場に放り出されたような錯覚を起こすほど、そのリアリティの極地に引きずり込むような「音響」にド肝を抜かれた。そのいつ撃たれるか分からない「恐怖」、ようやく辿り着いた軍艦がいつ空から爆撃されるか分からない「不安」、ようやく辿り着いた軍艦がいつ魚雷で撃沈されるか分からない「恐怖」、この『ダンケルク』は9割以上それらの様々な「恐怖」がスクリーン一面に充満する戦争映画、と言うより、これはもう一種のサスペンス映画と言ったほうが正しいかもしれない。しかしノーラン映画には、その観客を更に「恐怖」のドン底へと誘う世界最高峰の仕事人が帯同する。その人物こそ、今やノーランの嫁(プロデューサー)以上にノーランを知る人物であり、そしてクリストファー・ノーランドゥニ・ヴィルヌーヴという2大巨匠を繋ぐ存在となった映画音楽界の重鎮ハンス・ジマーである。

今やハンス・ジマーRadioheadとコラボするほど、映画音楽界だけでなく、あらゆる音楽シーンに強い影響を与えている最重要人物の1人だ。この度、ヴィルヌーヴ監督の映画『ブレードランナー 2049』の劇伴を担当するというニュースを聞いた時は、ここで遂に繋がってしまうのかと歓喜したのは言うまでもない。この『ダンケルク』でのハンス・ジマーは、ノーランから観客へ与えられた「恐怖」と同調するように、観客の高まる心拍数を直に煽るような音階を執拗に繰り返し繰り返すことで、緊迫感溢れる本物の戦場で必死に逃げ惑う、極度の緊張感に苛まれた兵士の精神状態へと様変わりさせる。ノーランが持ち前の「本物志向」を徹底させた「視覚」の面で観客を戦場に引き込む役割ならば、相方であるハンス・ジマーは兵士という名の観客を「音」の面から本物の兵士の精神状態へと引き込む役割を果たしている。この二人のコンビネーションは過去作の相乗効果をもたらしている。

また、ノーラン監督自身が『マッドマックス怒りのデスロード』『ゼロ・グラビティ』にインスパイアされたと語るように、劇中のセリフも極端に少なくて、それが逆に戦場のリアリティの向上に拍車をかけている(観客を宇宙に放り込むのが『ゼロ・グラビティ』なら、観客を戦場に放り込むのが『ダンケルク』みたいな)。それに関連して、映画の主人公とされる人物の名前がほとんど最後まで明かされなくて、観客を含めた1人のモブ兵士として扱った映画でもある。つまり、それは名のある英雄=ヒーローではなく、戦場の末端に属する階級の低い歩兵の一員として、そしてこの『ダンケルク』という撤退戦を戦い抜いた全兵士が皆平等に英雄であるという、ノーランなりのリスペクトでもあるのだ。しかし、トム・ハーディ演じる【空】中戦は最後の最後までカッコイイし、まさに映画の美味しいとこどりみたいなカッコ良さで、まさに「英雄」そのものだった。

当然、3つの視点から語られるということは、それぞれの時間軸が重なる瞬間が見せ場となってくるわけで、実際にその瞬間を迎えた時のカタルシスったらなくて、そういう面でもこの映画はドM向けの映画なのかもしれない。実話なんでネタバレもクソもないと思うんだけど、とにかく、やっぱりノーランは期待を裏切らないなと戒められた映画だった。つまり、ノーラン凄い。ハンス・ジマー凄い。俺凄い。

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別冊マーガレットの『岸辺露伴は動かない』を読んだ

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この出来事は、この僕が何故「日本一のジョジョヲタ」を自称しているのかを証明するかのような出来事だった。

これはクソみたいな女兄弟がいる人なら共感してくれると思うのだけど、おいら、子供の頃は暇さえあれば姉が読んでいた『リボン』『マーガレット』をはじめとした、いわゆる「少女漫画」をパラパラと読みふけっていた、それこそ小学生の頃に『ジョジョの奇妙な冒険』と出会うよりもまず先に「少女漫画」に触れていた子供だった。いつだったかな、確か相対性理論『天声ジングル』のレビュー記事の中で、僕はジョジョは男が読む少女漫画であるしたがって「女はジョジョを理解することができないのに何故読むのか?女は女向けの少女漫画を読んでいればいい」からの僕が認めるジョジョヲタはやくしまるえつこだけとも書いたことがあって、それこそ今回の『ジョジョの奇妙な冒険』=『岸辺露伴は動かない』シリーズと「少女漫画」の運命いや必然的な引かれ合いは、まさにその証明としか言いようがない出来事だった。

今回の裏表紙の岸辺露伴を見てもそうなのだけど、最近の、というよりジョジョ7部『スティール・ボール・ラン』の終盤以降の荒木飛呂彦先生が描く絵というのは、それこそ「少女漫画」に連載されていてもおかしくないくらい、どこか物凄く「中性的」いや「女性的」な、すなわち「ジェンダーフリー」の精神がその現代的な画風から滲み出ていて、それこそ常に絵柄が変化していく「オルタナティブ漫画家」であることでも知られる飛呂彦だが、この件について「日本一のジョジョヲタ」の僕が思うに、飛呂彦って基本的に男女問わず全ての主要なキャラクターを描く時に、まず足がかりにあの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」を描くイメージをもって、本来意図するキャラへと近づけていく漫画家であると。ではなぜ「モナ・リザ」なのか?ご存知な人もいるかと思うが、「モナ・リザ」の絵にまつわる『謎』は幾つもあって、その諸説の一つに実は「モナ・リザ」のモデルって「男性」「ダ・ヴィンチの愛人」であるという一説は特に有名な話で、つまりはそれがこの話の「答え」で、要するにキャラクターを描く時に始めに「モナ・リザ」をイメージして描くことで、最終的に「男性」にも「女性」にもペンを動かす事ができる、例えば描き始めは「モナ・リザ」で絵が完成するまでの過程でジョジョ8部『ジョジョリオン』の主人公東方定助とヒロインの広瀬康穂、そのどちらの「性別」=「SEX」にも持っていけるというわけ。この「モナ・リザ」の話は、飛呂彦自身がどこかの雑誌のインタビューでそれっぽい事を語っていたような気もするし、それはただの僕の捏造かもしれないのであしからず。

で、今回の『岸辺露伴は動かない』シリーズのエピソード9を読んでみての感想なんだけど、流石にいつもと違って「少年(青年)漫画」ではなく「少女漫画」に記載されるというだけあって、今回のテーマは人の「D・N・A」にまつわる「奇妙」で「運命的」な、露伴シリーズらしからぬ?露伴シリーズ初となる「恋バナ」となっている。これまでの露伴シリーズにはなかった「恋」をテーマにしているので、果たして飛呂彦に「恋バナ」が描けるのであろうか?『ジョジョの奇妙な冒険』「恋バナ」と言うとジョジョ1部のジョナサンとエリナ、ジョジョ2部のジョセフとスージーQ、ジョジョ4部の広瀬康一と山岸由花子、ジョジョ5部のジョルノとミスタ、ジョジョ6部の徐倫とアナスイか、、、う~ん・・・と懐疑的に思ったフアンも少なくないはずだが、そこはさすがの飛呂彦の奇妙な感性と科学的な嗜好と知識をもって「荒木飛呂彦なりのラブストーリー」を、これはもはや「荒木飛呂彦なりの『君の名は。』」を描き出すことに成功している。

露伴シリーズは基本的にジョジョ4部の世界線もしくはパラレルワールドの話で、今回のエピソードには懐かしの山岸由花子が登場する。今回の露伴ちゃんは野球好きのセクハラキャラと化していて、今の画風で描かれる山岸由花子はもはや別人、というより実写映画版で山岸由花子役を演じている小松菜奈に寄せて描いたのかもしれない、と噂されるくらいには似ている。正直、読み終えた率直の感想としては、これまでのエピソードと比較してもかなり面白い部類に入ると思った。登場する子供の「逆さまの言葉」ネタとか最近の探偵ナイトスクープであった気がするし、「5センチのシッポ」が生えているとか、「皮膚が保護色化する」とかメタルギアかな?ってなるし、その流れで「それが原因で子供がイジメられる」からの「普通の規準」の話に繋がって、結論として露伴はそれが子供の「個性」であると、その子供の「個性」を尊重する場面は実に露伴らしいクールなカッコよさがあるし、そもそも露伴自体が「普通」ではない「個性」の塊なので、露伴は自分とその子供に共通するシンパシーを感じたに違いない。露伴の名言「だが断る」も登場するし、山岸由花子の口の悪さも相変わらずでサイコーだし、とにかくジョジョ4部フアンにはたまらない話かもしれない。話の後半は、テーマとなる「D・N・A」が指し示す『運命の引かれ合い』すなわち『LOVE』へと展開していく。特に、今回のキーセリフとなるきっといいヤツを、逆さまの言葉しか喋れない子供が生まれて初めて「普通」に喋るシーンとかベタな伏線回収だけど好きな演出。他の露伴シリーズと比べて話自体はわりとシンプルな感動モノで、それこそ『マーガレット』読者をはじめ初見の人でも理解できて楽しめるような内容にはなってる。素直に泣けるっちゃ泣けるくらいシンプル。皮肉な話だけど、少女漫画特有の男には到底理解不能なブッ飛んだ話の展開と比べたら、逆に超マジメな話に見えるかもしれない。でもこれ本当に映画『君の名は。』に近い「運命論」の話で、もはや『君の名は。』を観たと飛呂彦が宣言しているようなもんで、中でもクライマックスのきっといいヤツ」=「君の名はみたいなシーンは間違いなく確信犯です。そういった意味でも、この「恋バナ」を「少女漫画雑誌」で描いたのは大きな意義があったと思う。これで「少女漫画」を制覇したとならば、今度は「ホラー漫画」かな?いや、ジョジョそのものが「ホラー漫画」だからないか。

絵的にも普段連載している本家ウルトラジャンプの『ジョジョリオン』よりも丁寧に描いている印象で(皮肉)、正直『ジョジョリオン』よりもジョジョっぽい絵柄を意識して戻しているのが分かる。絵の構図やコマ割り、セリフ回しや演出面でも、いつも以上に気を使って丁寧に、しかし飛呂彦らしく「リズム」にノッて楽しく描いているのがよく分かる。普段のウルトラジャンプや漫画本のモノクロ仕様だが、青紙のジョジョは初めて?だと思うので、自分自身約20年ぶりに『マーガレット』を読んで懐かしく感じたと同時に、ジョジョの絵柄と青紙が醸し出す雰囲気は、より少女漫画チックで最高にマッチしているし、何よりも新鮮だった。とにかく、ジョジョフアンならマストバイの一冊です。

勿論、ここまでの話は全て僕の「日本一のジョジョヲタ」アピール以外ナニモノでもなくて、改めて子供の頃に少女漫画を通過した人間の方がより『ジョジョの奇妙な冒険』という名の「男が読む少女漫画」を理解できるんじゃあないかって、だから今度は「日本一のジョジョヲタの僕が実写版ジョジョの映画を観た」って記事書いちゃってもイイっすか~?だって僕、きっといいヤツなんで!

ジョジョ4部映画化について

ちょっと前に『ジョジョの奇妙な冒険』が実写映画化決定みたいな噂という名の定期ネタが話題を呼んだかと思ったらガチで4部を実写化する事が決まったらしい。そもそも、「日本一のジョジョヲタ」である僕が「もしジョジョ(7部)を実写映画化するなら」という問に答えると、まず監督は『ドライヴ』のニコラス・ウィンディング・レフン監督で、配役はクリント・イーストウッド(スティーブン・スティール役)をはじめ、『ドライヴ』のライアン・ゴズリング(ジャイロ役)、『インターステラー』のマシュー・マコノヒー(マウンテン・ティム役)、『ミステリアス・スキン』のジョセフ・ゴードン=レヴィット君(ジョニィ役)、『ナイトクローラー』のジェイク・ギレンホール(ディエゴ役)、『偽りなき者』のマッツ・ミケルセン(リンゴォ役)、そして『ジュノ』のエレン・ペイジ(ホットパンツ役)は自分の中で既に配役が決まってたりする。まぁ、それは兎も角として、今回は絶賛クソアニメとして絶賛放送中のジョジョ4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写化で、監督はクソ映画請負人でも知られる三池崇史監督、主演は今をトキメク山崎賢人とのことで、この時点でクソ映画待ったなしでもう今の気分は最高にハイ!ってやつなんだが、とは言え実際に観てみないと何とも言えないので、淡い期待と絶望的な不安を抱きつつ気長に劇場公開を待ちたい。どうやら飛呂彦と脚本の意見交換とかもしてるらしいので、その辺は大きく「ハズす」ことはないのかなと一安心。それこそ、「日本一のジョジョヲタ」である僕に監修させるべき事案なんじゃあないか?(えっ)

これは長年のジョジョヲタなら共感してもらえるはずなんだが、そもそも大昔から『ジョジョ』っつーのは二次創作がことごとくクソ以下の作品しかなくて、例外中の例外はカプコンの三部格ゲーだけで、いくらジョジョを取り扱った二次創作がクソ以下だからといって、既にクソ以下の前例が腐るほどあるからと言って、もはやジョジョヲタ界隈では『タブー』とされてきたジョジョの実写化、すなわちパンドラの箱に遂に手を出してしまったのだ。ともあれ、この実写映画化はその「ジョジョの二次創作はクソ」という長年の『伝統』を受け継ぐ、そのルーティーンにダメ押しを決める『伝説』の映画となるに違いない。

つうか、もし監督が園子温だったらどーなってた?

aikoの新曲『プラマイ』のMVにジョジョリオン

取り急ぎ。この曲好き。

ジョジョ4部のアニメ化について

アナセマ×ジョジョ

ジョジョ4部のアニメ化が決定した。確かに、1部から3部までは『ジョジョの奇妙な冒険』でありながらも『ジャンプの王道』を貫き通した作品で、『王道』だけあってアニメ化も比較的しやすかったと思う。しかし、4部以降、特に今回アニメ化が決定した4部というのは、作者である荒木飛呂彦オルタナティブなセンスが爆発した、それこそジョジョの最高傑作と呼ぶに相応しい作品だ。上記の年表にもあるように、日本一のジョジョヲタである僕が導き出した→『ジョジョの奇妙な冒険』=【ANATHEMAの音楽遍歴】であると理解ッ、そして解釈すれば、ジョジョ4部はANATHEMAのDiscographyで言うところの中間に位置する5thアルバム『A Fine Day to Exit』と6thアルバム『A Natural Disaster』に当たる。この中期のアルバム以降、ANATHEMAの音楽性は"オルタナティブ"→ポスト・プログレッシブへと大きな変貌を遂げていく。一方で荒木飛呂彦も4部以降、これまでの『ジャンプの王道』から徐々に方向転換し、本当の意味で『奇妙な冒険』らしさを全面に押し出してくる。その"らしさ"すなわち、荒木飛呂彦の本性でもあった。特に4部はジョジョの中でも最も"異質"とされる作品で、これまでの『王道』を嫌った(奇をてらった)ストーリーをはじめ、日常に潜む隣合わせの恐怖、子供から宇宙人まで魅力的なキャラクター、まるでイギリスの空模様のように優柔不断な雰囲気、ドンヨリとした世界観を描き出していた。1部から3部とは何から何まで違っていた。過去を振り返らずに、自らをNEXTステージに押し上げる貪欲な姿勢、これぞ"オルタナティブ"だ。だから、これまでアニメ化した1~3部と同じやり方、同じ演出じゃあ失敗するのが目に見えている。

じゃあどこの誰ならアニメ化していいんだ?となると、それこそ宮﨑駿率いるジブリスタジオ以外に、ジョジョ4部から醸し出される巨匠江戸川乱歩からの影響、それこそ『少年探偵団』からの多大な影響、その実に奇妙奇天烈な"オルタナティブ精神"を満足に、事細かく表現できるスタジオが存在するのだろうか。このクリエイティブ国家において、江戸川乱歩という偉大なる人物の作品で育った宮﨑駿、その下の世代のクリエイターとして荒木飛呂彦の名前ももれなく追従してくる。だから僕は、「もしジョジョ4部をアニメ化するとしたら?」という長年の問には、「ジブリ」以外他に考えられなかった。というより、ジブリ以外のスタジオがジョジョ4部独特のシュールな世界観を忠実に表現することなど不可能に近い。

3部までは『納得』できた、しかし荒木飛呂彦の真の才能が爆発した4部以降はダメなんだ。タブーなんだ。こう言っちゃあ悪いが、萌アニメしか描けない深夜アニメ如きじゃあ4部以降の"オルタナティブ"を正しく表現できるわけがない!できるわけがない!できるわけがない!できるわけがない! だから僕は、一人のジョジョファンとして、ジョジョヲタガチ勢を代表して、そして日本一のジョジョヲタとして、ジョジョ4部のアニメ化には断固反対だ。
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