Welcome To My ”俺の感性”

音楽のレビューというか感想をてけとーに書き殴るブログです。

スティーヴン・ウィルソン

岡田拓郎 『ノスタルジア』

Artist 岡田拓郎
new_20170721111510

Album 『ノスタルジア』
20170829114732

Tracklist
01. アルコポン
02. ナンバー
03. アモルフェ(Feat. 三船雅也)
04. ノスタルジア
06. イクタス
07. 手のひらの景色
08. ブレイド
09. グリーン・リヴァー・ブルーズ
10. 遠い街角(Feat. 優河)

「森は生きているとは何だったのか?

スティーヴン・ウィルソンTo the Boneのレビューを書いている約一ヶ月間、そのSWの音楽を聴きながら頭の中で常に気にかけていた事があって、それというのも、2015年に解散した森は生きているの中心人物である岡田拓郎くんがOkada Takuro名義で「ソロデビュー・アルバム」を、同じくユニバーサルから「メジャーデビュー」を果たしたSW『To the Bone』と同じくあのHostess Entertainmentからリリースされると知ったからで、僕にとってこの一連の出来事はもはや「運命の引かれ合い」としか思えなかった。

先日、AbemaTVの『72時間ホンネテレビ』を観てて何よりも嬉しかったのは、元スマップの「森(くん)は生きている」ことで、しかしその一方でバンドの方の森は生きているが2015年に突如として解散したことが、個人的にここ最近の中で最もショッキングな出来事としてあって、何故なら森は生きているの存在は、現在はイギリスを拠点に活動する神戸出身のThe fin.とともに、このクソみたいな邦ロックが蔓延る今の邦楽シーンおよび日本語ロックシーンに現れた「救世主」、まさに「希望」そのものだったからだ。


改めて、森は生きているの遺作となった2ndアルバム『グッド・ナイト』は、それこそピンク・フロイドをはじめとした60年代から70年代のプログレッシブ・ロックおよびサイケデリック・ロックに代表されるアンダーグランド・ロック、トラディショナルなジャパニーズ・フォーク、アヴァンギャルド、アンビエントや環境音楽、そして現代的なポストロックが時を超えてクロスオーバーしたような、これぞまさにイギリスを発信源とするPost-Progressiveに対する極東からの回答であるかのようだった。その中でも約17分の大作”煙夜の夢”は、(まずこの曲をMVにしちゃう変態っぷりも然ることながら)それこそSWの創作理念の一つである聴き手を「音の旅」に連れて行くような、ちょっと童貞クサい純文学を実写映画化したような壮大なスケールで綴られた組曲で、それはまるでSW率いるPorcupine Treeの初期の名曲”The Sky Moves Sideways Phase”への回答のようでもあり、もはや森は生きている「日本のPorcupine Tree」あるいは「日本のTemples」に値する存在その証明でもあり、そのバンド内で中心的な役割を担っていた岡田くんSWは「ほぼ同一人物」と呼んじゃっても差し支えないくらい自分の中で親近感を持つ存在で、その僕がリスペクトする二人の音楽家が遂にこの2017年に邂逅してしまったのは、今世紀最大の衝撃だったし、同時に泣きそうなくらい嬉しかった。

「SWは『To the Bone』で何を示したのか?

スティーヴン・ウィルソンは、この「メジャーデビュー・アルバム」で自身のことを「プログレ側の人間」であると同時に「ポップス側の人間」であるということ、そして何よりも誰よりも「ニューエイジ側の人間」であるという自己紹介、あるいは明確な意思表示を音の中に詰め込んでいた。それはまるで現代の「キング・オブ・ニューエイジ」として「シン・時代」の幕開けを宣言するかのような歴史的な一枚だった。音楽的な面で特に『To the Bone』最大のコンセプトとして掲げていたのが、他ならぬ「ポップ・ミュージックの再定義」である。この度、SWがメジャー・デビューする上で避けて通れなかったのは、現代の音楽シーンの変化は元より、音楽リスナー側の環境の変化への対応で、つまり従来の「アルバム」として聴く時代は終わりを告げ、現代の音楽リスナーはSpotifyApple Musicなどのサブスクを使って「プレイリスト」という形で「自分だけのアルバム」を作って聴く「シン・時代」、それに対する適応である。これまでアンダーグランドの世界で「プログレ側の人間」として、当たり前のように「アルバム」で聴くことを前提に作品をクリエイトしてきた彼が、今度は一般大衆が「プレイリスト」で聴くことを前提にした、いわゆる「一口サイズのポップス」に挑戦しているのだ。結局このアルバムの何が凄いって、いわゆる「初老」と呼ばれ始める保守的になりがちな年齢(アラフィフ)にありながらも、あえて先進的で未来志向(リベラル)な考え方を選択する、あえて「困難」へと挑戦し続ける姿勢はまさに「ミュージシャン」、それ以前に「人」として人間の鑑だと呼べるし、それは同時に彼がこの地球上で最も「Progressive(進歩的)」な存在であることを証明している。このアルバムは、まさにそんな彼の「存在証明」でもあった。

そのSW『To the Bone』で示し出した「ポップスの再定義」・・・何を隠そう、岡田拓郎くんはこの『ノスタルジア』の中でSWと全く同じことをやってのけているのだ。この『ノスタルジア』は、森は生きているのどの作品とも違う。端的に言ってしまえば、SW『To the Bone』で80年代の洋楽ポップスを現代の音にアップデイトしたならば、岡田くんはこの『ノスタルジア』で当時のポップス(大衆音楽)だった70年代の歌謡曲をはじめ、吉田拓郎さだまさしなどの伝統的なジャパニーズ・フォークを現代の音に結合することで、この2017年の現代においる「ポップスの再定義」を実現させている。もちろん、SWがイメージする「ポップス」が「ただのポップス」でなかったように、岡田くんがクリエイトする「ポップス」も「ただのポップス」ではない。決してただの懐古主義的なノリではなくて、あくまでも「イマ」の音楽として邂逅させることを目的としている。お互いに共通するのは、まずSW『To the Bone』というタイトルは、あらゆる意味で自身を構築する「骨」となった「過去」への憧憬、あるいは「郷愁」であり、それすなわち岡田くんの『ノスタルジア』へとイコールで繋がる。

アルバムの幕開けを飾る一曲目の”アルコポン”から、それこそ2017年を象徴するバンドの一つと言っても過言じゃあない、ブルックリンのCigarettes After Sexにも精通するスロウコア然としたミニマルでローなテンポ/リズム、プログレ/サイケ界隈では定番のミョ~ン♫としたエフェクトを効かせたペダルスティールをはじめ、「80年代」のシューゲイザーをルーツとした電子ギターのリフレインやアコースティック・ギター、ピアノやパーカッション、マンドリンやオートハープ、それらの森は生きているでもお馴染みの楽器が奏でる色彩豊かな音色が調和した、その優美なサウンドにソッと寄り添うようにたゆたう岡田くんの優しい歌声と文学青年の悶々とした日々を綴った歌詞世界が、まるで休日の部屋に差し込む日差しを浴びながら昼寝しているような心地よい倦怠感ムンムンの蜃気楼を描き出していく様は、まさに表題である『ノスタルジア』「郷愁」の世界そのものであり、もはや「日本のThe War On Drugs」としか例えようがない、まるで80年代のAORを聴いているような懐かしさに苛まれそうになる。何を隠そう、SW『To the Bone』で「80年代愛」を叫んだように、そのSWと同じように岡田くんはペット・ショップ・ボーイズに代表される「80年代」のAORを愛する人間の1人で、この曲の中にはそんな彼の「80年代愛」が凝縮されている。なんだろう、確かに自然豊かな森のささやきのように多彩な音使いは森は生きているを素直に踏襲しているけど、そのいわゆる「ピッチフォークリスナー」ライクな雰囲気というか、森は生きているで培ってきた従来の音使いにモダンなアプローチを加えることで一転してグンと洗練された美音へと、そのベースにある音像/音響としては「ピッチフォーク大好き芸人」みたいなイマドキのインディへと意図的な「変化」を起こしている。その「変化」を裏付ける証拠に、今作のマスタリング・エンジニアにはボブ・ディランをはじめ、それこそCigarettes After SexThe War On Drugsの作品を手がけた(テッド・ジェンセン擁する)STERLING SOUNDグレッグ・カルビを迎えている事が何かもう全ての答え合わせです。

今作は岡田くん初のソロ・アルバムというわけで、森は生きているでは主にコーラスやコンポーザーなど言わば裏方の面でその才能を遺憾なく発揮していたけど、このソロアルバムでは「シンガーソングライター」としてボーカルは勿論のこと、森は生きているでは今作にもサポートで参加しているドラマーの増村くんが歌詞を書いていたが、今作では作曲は元より作詞まで自身で手がけ、ミックスからプロデュース、他ミュージシャンとのコラボレーション、そして様々な楽器を操るマルチプレイヤーとして、1人のミュージシャンとしてそのポテンシャルを爆発させている。ところで、SW『To the Bone』の中で強烈に印象づけたのは、ヘタなギタリストよりもギターに精通してないと出せないようなギターの音作りに対する徹底した「こだわり」だった。同じように岡田くんも今作の中でギターリストとして音楽オタクならではの「こだわり」を、ギターに対する「プレイヤー」としての「こだわり」を、様々なエフェクターやギター奏法を駆使しながら理想的な音作りを貪欲に追求している。それと同時に、SW『To the Bone』で垣間見せたのは、「80年代」という「過去」の音楽に対する咀嚼力の高さで、つまり創作における基本的な創作技術を忠実に守ることによって、SWがこのアルバムで掲げた「ポップスの再定義」を実現させる上で最大の近道へと繋がった。そのSSW界の先輩であるSWの背中を追うように、バンド時代では実現不可能だった、ある種の『夢』をこの岡田くん(SW)は果たそうとしていて、その『夢』を実現する過程の中で最重要課題となる「過去の音楽」への向き合い方、しかしその「過去」という『ノスタルジア』をどう理解(解釈)し、そしてどう料理するか、その最善かつ最適な方法を彼らは既に熟知している。

話は変わるけど、2013年に相対性理論『TOWN AGE』がリリースされた当初の主な評価として挙げられた、何故に「やくしまるえつこのソロっぽい」という風にフアンの間で賛否両論を巻き起こしたのかって、それこそトクマルシューゴ大友良英をはじめとした国内の実験音楽やニューエイジ界隈に影響されたやくしまるえつこヤクマルシューゴに変身したからだ。何を隠そう、岡田くんが”ナンバー”という曲の中でやってることって、(こう言ったら岡田くんに怒られるかもしれないが)端的に言ってしまえば「岡田拓郎なりのシティ・ポップ」、すなわち『NEW (TOWN) AGE』なのだ。つまり、さっきまで「80年代」のAORのノスタルジーに浸っていた彼は、今度は「90年代」に一世を風靡した「渋谷系」への憧憬あるいは「郷愁」に浸ることで、昨今オザケンの復帰により俄然現実味を帯びてきた「90年代リバイバル」に対する岡田くんなりの「答え」を示し出している。

話を戻すと、その”ナンバー”が付く曲タイトルは数多くあるけれど、”名古屋ナンバー”には気をつけろっていう話は置いといて、例えばトリコットの場合だと”神戸ナンバー”だったり、実は相対性理論の曲にも”品川ナンバー”とかいう名曲がある。勿論、その曲を意図して名づけられた訳ではないと思うが、そういった面でも、この曲には相対性理論(やくしまるえつこ)と岡田くんの強い「繋がり」を(少々強引だが)見出した。しっかし、このタイミングであの問題作『TOWN AGE』再評価の流れ、それを作り出した本人が森は生きているの岡田くんという神展開・・・こんなん泣くでしょ。

改めて、この『ノスタルジア』を聴いて思うのは、やっぱりトクマルシューゴというかヤクマルシューゴ的ないわゆる理系ミュージシャンの系譜に合流した感はあって、そのナントカシューゴ界隈をはじめジム・オルーク大友良英など、あらゆる界隈から岡田拓郎という1人の音楽家の「ルーツ」すなわち「骨」を紐解いていくようなアルバムだ。なんだろう、今後岡田くんはトクマルシューゴヤクマルシューゴの間の子であるオカマルシューゴと名乗るべきだし、もはやトクマルシューゴの後継者争いはヤクマルオカマルの一騎打ちだ。

現代...というか今年は特にだったけど、今って「映画」と「音楽」と「小説(文学)」それぞれの分野が隣り合わせで密接に関係している、つまり「繋がっている」ことを切に実感させられる時代でもあって、もはや言わずもがな、当たり前のようにこの岡田くんも得体の知れない「ナニか」と「繋がっている」。例えるなら、SW『To the Bone』を聴いて、その「80年代」のイメージを最も的確に表した映画がジョン・カーニー監督『シング・ストリート 未来へのうた 』だとすると、岡田くんの『ノスタルジア』は井の頭公園の開園100周年を記念して製作された、橋本愛主演の映画『PARKS パークス』だ。

この映画『PARKS パークス』は、『孤独のグルメ』の原作者ふらっと久住のバンドザ・スクリーントーンズによるDIY精神溢れる音楽をバックに、今にも井之頭五郎が登場してきそうなほど、緑に囲まれた井の頭公園を華やかに彩るような色とりどりの楽器が鳴り響く音楽映画だ。驚くなかれ、この映画の音楽を監修したのが他ならぬトクマルシューゴで、しかもそのエンディング曲を担当しているのが相対性理論ってんだから、更にそのサントラの中に大友良英と岡田くんも参加してるってんだからもう何か凄い。

改めて、劇中に井之頭五郎がヒョコっと登場してきそうなくらい、『孤独のグルメ』の音楽にも精通するパーカッションやアコギや笛などの楽器を駆使した、それこそトクマルシューゴ節全開のDIYな音楽に彩られたこの映画『PARKS パークス』は、リアル世界の井の頭公園でも園内放送されたやくしまるえつこによる園内アナウンスから幕を開ける。話の内容としては、序盤は「50年前に作られた曲に込められた恋人たちの記憶」を巡って奔走する普通の青春音楽ドラマっぽい感じだったけど、後半から急に「過去」「現在」「未来」が複雑に絡んでくるSFサスペンス・ドラマ的な序盤のイメージに反して予想だにしない展開に変わって、その瞬間に「あ、この映画普通じゃないな」って察した。というか、そもそも相対性理論の曲がテーマ曲になっている時点で察するべきだった。劇中クライマックスで「何が起こった!?」って考えている内に、エンディングの”弁天様はスピリチュア”が流れてきた時点で全てを察したよね。

とりあえず、能年玲奈系の顔立ちをした若手女優の永野芽郁橋本愛大友良英の組み合わせってだけで某『あまちゃん』を思い出して「うっ、頭が・・・」ってなるんだけど、まぁ、それはともかくとして、主演の橋本愛がギターを抱えて演奏するシーンとかきのこ帝国佐藤千亜妃にソックリだし、この映画にはトクマルや「謎のデブ」こと澤部渡(スカート)を筆頭に、今作のサントラにも参加しているミュージシャンがカメオ出演しているのだけど、中でも音楽監修のトクマル本人が出てきたシーンのトクマルの演技がヤバすぎてクソ笑ったんだけど。

オカマルシューゴ

そしてエンドクレジットで岡田くんと相対性理論が一緒の画に収まっているの見たら、「うわうわうわうわうわ・・・遂に繋がっちゃったよ・・・こんなん泣くって」ってなった。正直、ここまでクレジットを凝視した映画は初めてかもしれない。で、気になる岡田くんが手がけた曲は”Music For Film”というタイトルで、曲自体はまさに劇中クライマックスで「現実か虚構か」の狭間でSFっぽくなる絶妙なタイミングで登場するのだけど、肝心の曲調はそれこそハンス・ジマー坂本龍一『async』みたいなアンビエントで、なんだろう、ここでも再度「繋がってんなぁ・・・ハア」とため息ついた。

しかし、この映画『PARKS パークス』に関してもっとも面白い話は他にある。それというのは、映画の話の中で主演の橋本愛染谷悠太がバンドを組むってことになるんだけど、そこでバンドメンバーを集めて奔走する場面のシーンを筆頭に、それこそジョン・カーニー監督『はじまりのうた』をオマージュしたような演出が随所にあって、なんだろう、ここで初めてSWと岡田くん、そしてやくしまるえつこが「音楽」という枠組みを超えて、その「音楽」と密接に関係する「映画」を通して一本の線で繋がった瞬間だった。なんかもう面白すぎて泣いたよね。なんだろう、人って面白すぎると泣けるんだなって。

ポップスにおける普遍性=アヴァンギャルド

これらの「映画」「音楽」「文学」の垣根を超えた「繋がり」からも分かるように、いわゆる「シューゴ界隈」からの実験的な音楽に対して敬意を払いつつも、何だかんだ叫んだって彼は森は生きているを一番の「ルーツ」としていて、それこそROTH BART BARON三船雅也をゲストに迎えた”アモルフェ”は、いわゆる「New Age」を一つのルーツとする岡田くんのミュージシャンとしての本質をピンズドで突くような「ニューエイジ・フォーク」だ。個人的に、この曲を聴いた時にまず真っ先に頭に浮かんだのがデヴィン・タウンゼンド『Ghost』で、このアルバムはデヴィンの変態的な才能が岡本太郎ばりに爆発した、サブカル系ニューエイジ・フォークの傑作である。そのアルバムの表題曲”Ghost”のカントリー・フォーク然とした曲と岡田くんの”アモルフェ”には、「アヴァンギャルド」と「ポップス」という2つの精神が混在している。面白いのは、かつて音楽雑誌『ストレンジ・デイズ』森は生きている『グッド・ナイト』を取り上げた時のインタビューで(その号の表紙はSW『Hand. Cannot. Erase.』)、岡田くんはポップスにおける普遍性=アヴァンギャルドであると語っている。この彼の発言というのは、それこそ音楽界の異才あるいは奇才あるいは変態と称されるデヴィンSWの創作理念と共通する一つの「答え」で、その「答え」を突き詰めていくと最終的に辿り着くのが、それこそ今なおポップス界の頂点に君臨するビートルズである事は、もはや人類の共通認識でなければならない。



改めて、SW『To the Bone』で最大の野望として掲げていた「ポップスの再定義」、その「野望」あるいは「夢」を実現させるには従来の考えを捨てて、全く新しいやり方で一般大衆の耳に届くような、いわゆる「一口サイズのポップス」の制作に早急に取りかからなきゃならなかった。それは『To the Bone』に収録されたシングル曲を見れば分かるように、これまで「プログレ側の人間」として10分を超える長尺曲を得意としてきた彼が、いわゆる「ポピュラー音楽」として必須条件とも呼べる曲の長さが3分から4分の曲を中心にアルバムを構成している。その「一口サイズのポップス」、それは岡田くんもこの『ノスタルジア』の中で全く同じ考え方を示していて、もちろん森は生きている”煙夜の夢”のような超大作は皆無で、基本的に2分から3分の一口サイズの曲を意図的に書いてきているのが見て取れる。これは森は生きていると最も違う所の一つで、ひとえに「ポップスとは何か」を考えた時に、まず真っ先に曲が一口サイズになる現象は、SWと岡田くんに共通するものである。

表題曲の#4”ノスタルジア”やMVにもなっている#5”硝子瓶のアイロニー”は、まさに今作における「一口サイズのポップス」を象徴するような曲で、序盤のフォーク・ロック的な流れから一転して、ポップス然としたアップテンポなビートアンサンブルをはじめ、クラップやスライド・ギター、そして「80年代」のニューウェーブ/ポストパンクの影響下にあるモダンなアプローチを効かせたシンセを大々的にフィーチャーしている。これもバンド時代にはなかった試みの一つで、大衆の心を鷲掴みにするポップスならではの「キャッチー」な要素を与えている。しかし、一見「王道」のポップスのように見えて「ただのポップスじゃない」、その「実験性」と「大衆性」の狭間で蜃気楼のように揺れ動く幽玄な音世界は、まさに「70年代」の革新的かつ実験的な音楽から脱却を図ろうとする「80年代」の音楽が持つ最大の魅力でもある。その流れからの#6”イクタス”は、例えるならRoyal Blood的なブルージーな解釈がなされた岡田くんなりの哀愁バラードで、これがまたサイコーに良い。

様々な分野で、とある作品やとあるモノを評価する際に、よく「メジャーマイナー」「マイナーメジャー」という表現を用いた例え方をされる場合がある。例えば、漫画の世界だと『ジョジョの奇妙な冒険』荒木飛呂彦なんかは典型的な「メジャーマイナー」の作家である。その表現法を「音楽」の分野に応用して、この『ノスタルジア』がどれに分類されるのかちょっと考えてみた。はじめに、『To the Bone』におけるSW「メジャーマイナー」だと仮定すると、岡田くんの『ノスタルジア』トリコット『3』「マイナーメジャー」に分類される。まずSW『To the Bone』で、3大メジャーレーベルのユニバーサルから「メジャー」デビュー、Spotifyを活用した「イマドキ」のプロモーションやバズマーケティング、オエイシスの作品でも知られる「メジャー」なプロデューサーを迎え、ぞしてその音楽性は「80年代」のポピュラー音楽をリスペクトした「ポップスの再定義」を図っていることから、少なくともガワの面では「メジャーメジャー」と言っていいくらい「メジャー」だが、しかしその反面、音楽性は幼少の頃から「プログレ側の人間」かつ「ニューエイジ側の人間」であるSWがクリエイトするポップスはポップスでも「ただのポップス」ではない「マイナー」な音楽だから、SW『To the Bone』「メジャーマイナー」という結論に至る。あっ、予め言っておくと、「音楽」の分野に「メジャーマイナー」「マイナーメジャー」などの表現を使う場合、とあるモノや作品の知名度や人気を表わす本来の使い方ではなくて、今回の場合はあくまでも「音楽性」とその「精神性」を表しているので、その辺の誤用はあしからず。

それでは、岡田くんの『ノスタルジア』トリコット『3』が何故「マイナーメジャー」に分類されるのか?まずトリコット『3』の場合は、ひと足先に「メジャー」に行って「最悪の結果」に終わった盟友赤い公園に対するアンチテーゼとして解釈すると、この『3』でトリコットが示したのは、それこそ「インディーズ」=「マイナー」からでも「メジャー」を超えられる、「メジャー超え」できるという歴史的な証明である。まずアルバム一枚1500円ポッキリという点も「インディーズ」ならではのプロモーション戦略と言えるし、その音楽性もいわゆる「マスロック」とかいう「マイナー」な音楽ジャンルと、いわゆるJ-POPという「メジャー」なポピュラー音楽をクロスオーバーさせた、まさに「マイナーメジャー」と呼ぶに相応しい作品だった。

改めて、SW『To the Bone』「メジャーマイナー」ならば、岡田くんの『ノスタルジア』「マイナーメジャー」である。まずは森は生きているの存在をこの言葉を応用して表すならば、それは「マイナーマイナー」だ。その童貞文学青年みたいな、60年代や70年代の音楽が大好きなサイコーにオタク臭い音楽性から、その知名度的にも『ストレンジ・デイズ』みたいなオタク全開の音楽雑誌を愛読しているような童貞オタクしか知らない、これ以上ないってほど「マイナーマイナー」な存在である。それでは、その「マイナーマイナー」森は生きている「マイナーメジャー」の岡田くんは一体何がどう違うのか?まずは岡田くんがこの『ノスタルジア』でやってること、それは紛れもなく「ポップスの再定義」である。SW『To the Bone』で「80年代」の音楽をイマドキのポップスに再定義すると、この岡田くんは「マイナーマイナー」森は生きているを音楽的ルーツにしながらも、ピッチフォークリスナーライクな「マイナーメジャー」然としたインディ・ムードや「メジャー」に洗練されたプロダクション、そして70年代のジャパニーズ・フォークをルーツとする「大衆的(ポピュラー)」なメロディを駆使して、「日本の伝統的な大衆音楽」をイマドキのポップスにアップデイトしている所は、もう完全に「マイナーメジャー」としか言いようがない。でも結局のところ、「メジャーマイナー」とか「マイナーメジャー」とか、正直そんなんどうでもよくて、最終的にお互いに一緒の「ホステス所属」ってことに落ち着くし、なんかもうそれが全てですね。

この『ノスタルジア』「マイナーメジャー」的な作品である、その真実を紐解くような曲が#7”手のひらの景色”だ。僕は以前、椎名林檎『日出処』のレビュー記事の際に、とある曲で森は生きているの名前を出した憶えがある。そのお返しとばかりに、この曲は初期の椎名林檎やメジャー以降のきのこ帝国がやっててもおかしくないオルタナ系のJ-POPで、さっきまでは「マイナーメジャー」だった彼が一転して「メジャーマイナー」に変化する瞬間の怖さというか、あわよくば椎名林檎みたいなドが付くほど超メジャーなポップスに急接近するとか・・・岡田くん本当に天才すぎる。ある意味、これは「アンダーグランド」から「メインストリーム」のJ-POPに対するカウンターパンチだ。皮肉にも彼はSWと同じように、「アンダーグランド」の人間こそ「メインストリーム」の事情を最もよく知る人間であるという事実を、岡田くんはこのアルバムで証明している。なんかもう赤い公園津野米咲に聴かせてやりたい気分だ。

確かに、今作は「一口サイズのポップス」が詰まったアルバムだが、その中で最も長尺(6分台)となる#8”ブレイド”は今作のハイライトで、それこそ森は生きているのプログレッシブな側面を岡田くんなりに料理した名曲だ。まずイントロのフルートやサックス、そしてインプロ感むき出しのジャズビートを刻むドラムとピアノの音使い、叙情的な音作りまでSWがソロでやってきた事、すなわち「Post-Progressive」の音世界そのもので、特に暗転パートのシュールなアコギの響かせ方、音の空間の作り方がStorm CorrosionあるいはSWの2ndアルバム『Grace for Drowning』に匹敵するセンスを感じさせるし、更にはクライマックスを飾るメタル界のLGBT代表ことポール・マスヴィダル顔負けのフュージョンの流れを汲んだソロワークとか、なんかもう天才かよってなったし、この曲聞いてる間はずっと「holy...」連呼してたくらい。この曲は、まさに岡田くんの音楽的ルーツの一つでもあるジャズ/フュージョンに対する愛が凝縮されたような曲で、何を隠そう、SW『To the Bone』にもジャズ/フュージョンを扱った”Detonation”という”ブレイド”と同じくアルバム最長の曲があって、そういった「繋がり」を改めて感じさせたと同時に、なんかもう岡田くんマジ天才ってなった。26歳で既にSWと肩を並べる、いやもう超えてるんじゃないかってくらい、もはや嫉妬通り越して結婚したいわ。ごめん俺、もう岡田くんと結婚するわ。大袈裟じゃなしに、この曲をSWに聴かせたら2秒で来日するレベル。

そこからギャップレスで#9”グリーン・リヴァー・ブルーズ”に繋いで、流水のように瑞々しいピアノと初期Porcupine Treeみたいなアンビエンスを効かせた音響系のピアノインストぶっ込んでくる余裕・・・なにそれ天才かよ。そんなん「え、もしかして坂本龍一の後継者ですか?」ってなるし。

SW『To the Bone』って、ある意味では彼が幼少期に母親からドナ・サマー『誘惑』をプレゼントされた事を伏線とした、言うなれば「女性的」なアルバムだったわけです。勿論、僕はずっと前から「Post-Progressive」とかいうジャンルは「女性的」なジャンルであると説いてきた。まさにそれを証明するかのような作品だった。この『ノスタルジア』にも、やっぱり「女性的」な、どこかフェミニンな雰囲気があって、そのアンニュイな作風は『To the Bone』と瓜二つと言える。例えば日本のアイドル界隈を見れば分かるように、「女性」というのは大衆のアイコンとして存在し続けるものである。この『ノスタルジア』における「象徴」として存在しうるのが、他ならぬシンガーソングライターの優河をボーカルに迎えた#10”遠い街角”である。

元々、森は生きているのデビュー当時から「ポップス」に対する素養の高さ、その若かりし野心と類まれなるセンスを断片的に垣間見せていたけれど、この岡田くんのソロでは表面的に、かつ真正面から「ポップス」を描き出している。その結果が、「ポップス=アヴァンギャルド」であるという答えだった。なんだろう、自然に寄り添うようなアンプラグド的なDIY精神を貫いていた森は生きているに対して、一転して現代的というか未来志向のモダンなアレンジを取り入れた岡田くんソロといった感じで、例えるなら森は生きているがこってり味の豚骨ラーメンで、岡田くんのソロがアッサリしょうゆ味みたいな感覚もあって、なんだろう、毎年ノーベル文学賞が発表される時期になると集合する重度のハルキストが、村上春樹を差し置いてノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロに寝返ったような感覚もあって、なんだろう、村上春樹作品に出てくる主人公がSEXして童貞卒業したような感覚。まぁ、それは冗談として、そのヴィンテージな音世界とモダンなサウンドとの融合、それこそ「懐かしい、でも新しい」みたいな糸井重里のキャッチコピーにありそうな音楽は、まんま『To the Bone』の世界に繋がっている。

確かに、どんだけ岡田くん好きなの俺みたいなところもあって、でもこんなん聴かされたら流石のやくしまるえつこも岡田くんを認めざるを得ないでしょ。何故なら、岡田くんを否定することはスティーヴン・ウィルソンを否定する事となり、それすなわち「日本のSW」であるえつこ自身を否定することになってしまうからだ。それはともかくとして、岡田くんはこの『ノスタルジア』で、やくしまるえつこに肩を並べる「日本のSW」である事を証明してみせたのだ。リアルな話、もしSWがライブをするために来日した場合、この今の日本でSWのサポートできるミュージシャンって岡田くんしかいないでしょ(えつこは元より)。というか、SWに見せても恥ずかしくない唯一の「日本の音楽」が岡田くんの音楽です。それくらい、「繋がり」という点からこの『ノスタルジア』は、ありとあらゆる角度からSW『To the Bone』を補完するものであり、そしてこの「2017年」を締めくくるに相応しいサイコーのアルバムだ。

ノスタルジア
ノスタルジア
posted with amazlet at 17.12.29
オカダ・タクロウ
Hostess Entertainment (2017-10-04)
売り上げランキング: 15,956

Steven Wilson 『To the Bone』

Artist Steven Wilson
sw_hh-181

Album 『To the Bone』
265b2c1ce90e970f3551d4f088e83c79

Tracklist

01. To The Bone
03. Pariah
04. The Same Asylum As Before
05. Refuge
07. Blank Tapes
08. People Who Eat Darkness
10. Detonation
11. Song Of Unborn

「1967年11月、ロンドン近郊のヘメル・ヘムステッドで一人の子供が生まれた。その子供は8歳クリスマスに父親からピンク・フロイドの『狂気』をプレゼントされると、それを聴いて”ナニカ”に目覚めて「プログレ側の人間」としてすくすくと成長し、その子供は大人になると90年代以降のプログレッシブ・ロックを語る上で欠かせない、21世紀プログレ界を代表する最重要人物となった。そんな彼は、8歳のクリスマスに父親からピンク・フロイドの『狂気』を贈られると同時に、一方で母親からドナ・サマーの『愛の誘惑』をプレゼントされたのである。彼は父親から「プログレ側の人間」として育てられる傍ら、一方で母親からは「ポップス側の人間」として英才教育を受けて育ったのである。それから約50年後、それらの幼少期に得た「学び」が彼の骨(Bone)となり肉となり、そして(肉)声となり「音」となったアルバム『To the Bone』で、記念すべきメジャーデビューを飾る。この歳にして晴れて「メジャーアーティスト」の仲間入りを果たした彼は、アルバムのプロモーションのために出演した朝の情報番組で初対面したキャスターにこう聞かれた、「Your Name.(君の名は)」と。すると彼はこう答えた。」

『わたしは、スティーヴン・ウィルソン』

今回のSWはいつもとどこか違う。まずレーベルが違う。これまではKscopeという実質ほぼ身内のレーベルから作品を発表し続けていたが、今回は3大メジャーレーベルの一つで知られるユニバーサル・ミュージックに買収され、SW自身が「アイドル」として崇拝するビートルズデヴィッド・ボウイピンク・フロイドケイト・ブッシュディープ・パープルデュラン・デュラン、そしてX JAPANも所属していた(ここでXSWが繋がったのは面白い)イギリスの老舗レーベルEMI傘下のCaroline Internationalへと移籍(ここでPhantogramと繋がるか普通?)、そして国内盤はあのHostess Entertainmentからってんだから驚いた。しかし、この度の「ホステス入り」の伏線は既にあって、それはUK出身の「女版SW」ことマリカ・ハックマンSWSpotifyのプレイリストでパワープッシュしている、サマソニ2017の「ホステス・クラブ・オールナイター」にも出演したCigarettes After Sexの新作が共にホステスからリリースされていて、つまり、これまではレアなレコードを目当てにディスクユニオンに来日(来店)するもライブだけは頑なにしてこなかったSWが、今回めでたく「ホステス入り」を果たした事で、もしかしてだけど(もしかしてだけど~♪)いつかのサマソニで来日公演が実現する可能性が出てきたと想像しただけで何かもう凄い。

次にアルバムジャケットが違う。本家のPorcupine Treeをはじめ、SWが数多く手がけるサイドプロジェクトでも自画像をジャケにすることはなかった彼が初めて、メガネは体の一部とばかり生まれたままの裸の姿で目を閉じた状態の自身を晒した、それこそ『To the Bone』という今作のタイトルを暗示するようなアートワークからして違う。それらの「変化」は一体ナニを意味するのか?

今作についてSWは、「僕は主に「70年代」のプログレにルーツを持つ人間だと思われがちだが、「80年代」に成人を迎えて当時ムーブメントを起こしていたポストパンクやニューウェイブを聴いて育った人間でもあり、この『To the Bone』は、その「80年代」の音楽からインスピレーションを受けた作品だ」というような主旨を語っていて、いわゆる「70年代」の革新的かつ実験的な潮流から脱却を図ろうとする「80年代」の音楽の魅力を知り尽くしているSWが、それこそ自身のパーソナルな面を全てさらけ出すように、それこそ「丸裸」のジャケが物語るように、全てが新しく生まれ変わった姿で、まるで自身のメジャーデビューという新たなる門出を祝うかのようなアルバムとなっている。

ポール・マッカトニーイエスなどの大物アーティストをプロデュースしてきた重鎮トレヴァー・ホーンが、日本のアニメ『THE REFLECTION』の音楽を全面プロデュースしていると聞き、更にはサマソニ2017で日本のアイドルとコラボしているのを知ってしまったSWは、子供の頃からずっと憧れ続けていた「70年代」の音楽に失望し、それをキッカケに今度は「80年代」の音楽に傾倒し始めたのである(えっ)。先述したように、「80年代」の音楽とSWは切っても切れない関係にあって、彼の「80年代音楽愛」を象徴する一つに、前作Hand. Cannot. Erase.の歌詞にも登場するDead Can Dance、Felt、This Mortal Coilを筆頭に、Cocteau Twinsなどのいわゆる4AD界隈のポストパンクやプログレッシブ・ポップへの憧憬を恥ずかしげもなく、むしろ見せびらかすように自身の作品の中に取り入れるほどの「80年代」愛好者だ。ところで「80年代のUKミュージック」といえば、最近ではAlcestキュアーコクトー・ツインズからの影響を公言する「ビッグ・イン・ジャパン」ことKodamaを発表すると、今度はUlverデペッシュ・モードキリング・ジョークなどの「80年代」を象徴するポストパンク/ニューウェイブ愛に満ち溢れた「ビッグ・イン・ウェールズ」ことThe Assassination of Julius Caesarが記憶に新しい。いわゆる「コッチ側」に属するバンドが立て続けに、それらの一種の「80年代リバイバル」と呼ぶべき現象、その伏線とも取れる作品からしても、改めて「80年代」の音楽が30年経った今なお現代の音楽に根強い影響を及ぼしている事実に、その色褪せることない影響力は「70年代」の音楽を凌駕している。とにかく、イギリスの音楽シーンが「70年代」というアンダーグラウンドシーンから、より大衆的なメインストリームシーンへと移行する瞬間、つまり「70年代」「80年代」「境界線上」で創られる音楽の面白さは、後にも先にも「あの時代」でしか味わえない絶妙な魅力に溢れている。

同じくSWは、「70年代」から「80年代」にかけて本格的に広まった音楽ジャンルの一つである「New Age」にも強く影響を受けている人物で、主にデヴィッド・ボウイと共演した坂本龍一『戦場のメリークリスマス』をはじめ、映画『インターステラー』『ダンケルク』でも知られるハンス・ジマーマイク・オールドフィールドの二人は、その最もたる例だ。そして僕たちは、SWが70年代に音楽的なルーツを持つ「プログレ側の人間」であること以前に、子供の頃からABBAドナ・サマーを聴かされて「ポップス側の人間」として育てられながらも、彼の本質はそのどちらでもなく、その本性が「ニューエイジ側の人間」にあることを思い知らされる。それを真正面から証明するかのような曲が、今作の表題曲となる”To the Bone”である。

「ポスト・トゥルース」

SWは一貫して自身の作品の中で、21世紀におけるテクノロジーの進化、それに伴う世界情勢の変化、テロの脅威、インターネット時代とともに押し寄せるSNS社会の波、インスタバエの流行、それらの様々な「時代の変化」が音楽業界に及ぼしたのは、Spotifyをはじめとしたサブスクリプションの台頭、そして「ストリーミング時代」の幕開けであり、その時代の荒波の中でSWは「音楽はただ消費されるだけのもの」となってしまった現代の音楽シーン、音楽リスナーを取り巻く環境の変化に憂慮し、それをイギリス人らしく音楽を通して時にユニークに、時に辛辣に皮肉ってきた。昨年、2016年を象徴する出来事として、英国のEU離脱や米国大統領選でのトランプ勝利などが挙げられる。それらの「世界の歪み」を象徴する出来事を発端として、特に問題視されたのは、SNSを使った事実(真実)とは異なる「フェイクニュース」の拡散である(日本ではまとめサイト問題など)。そして、その年の「報道の自由度ランキング」で、日本は180カ国・地域のうち72位、G7の中で最下位という日本人が憂慮すべき不名誉な立場に晒された。本来は「真実」を報道すべき既存のマスメディアに対する不信感が世界的に広がる中、この日本では露骨なメディア規制(圧力)を仕掛けている安倍マリオと、それを擁護するネトウヨと呼ばれる存在がSNSや匿名掲示板をはじめ猛威を奮っている。【Post-Truth】→「真実はもっとフレキシブルなものでいい」という近年の間違った風潮が具現化した存在がネトウヨである。現代は、それこそ「嘘を嘘だと見抜ける人でないと難しい」という某氏の言葉がそっくりそのまま当てはまる「ポスト・トゥルース時代」に突入しているのだ。

某子供名探偵の口癖のように「真実はいつもひとつ」でなければならなくて、「真実」は決して複数存在してはならない。「真実」「100」のものであり、決して「99」であってはならないのだ。面白いのは、今作最大の『メッセージ』としてある「真実はフレキシブルであってはならない」という問いかけに対して、「SWの音楽は常にフレキシブルなものである」ことを皮肉にも証明していることだ。

ここで少し話は変わるが、この「真実(事実)」に関して、先日放送されたテレビ東京のドラマ『デッドストック ~未知への挑戦~』の最終回で興味深い話があった。最終話のザックリとした話の道筋としては、テレビ東京の未確認素材センターに勤務する新人ディレクター演じる元ももクロあかりんUA息子村上虹郎が、本人役として登場する森達也監督の紹介で70年代にスプーン曲げで一世を風靡した”清田くん”の現在を取材をすることになるが、それは結局山登りをしてまでスプーン曲げの映像が撮れなくて二人は落胆する。すると、ここで森監督がドキュメンタリー映画監督ならではの角度から話を始める。まず曲がることもリアルだけど、曲がらないこともリアルだろというくだりから、たかがコップですら、どっから見るかで形が全然違う。現実はもっともっと多面的かつ多重的かつ多層的、どっから見るかで全然変わる、それが真実だという。それでもたった一つの真実本当の真実を追求しようとする二人の新人ディレクターに対して、森監督はテレビ(メディア)が求めているのは本当のリアル(真実)ではない、リアル(本物)らしく見えること。リアルは(真実)、テレビのフレームの中では逆にリアルじゃなくなっちゃうという、まるでメディアの真実と真理を突くかのような核心的な言葉を放つ。それに対して、今度はあかりんスプーン曲げをワンカットで見せることがCGと変わらないと言われてしまう場合、どうスプーン曲げを見せることが視聴者を納得させられる真実でありリアルなんですか、そこに正解はないですかと疑問を投げかける。すかさず森監督はないよ、正解なんかないと無情にも吐き捨てる。つまり「真実に正解はない」と。森監督は更に言う、自分の真実、自分の視点を伝えること、その真実はもしかしたら真実らしく見えないかもしれない。ジレンマだよね、いいんだよジレンマで、矛盾でいいんだよと。最終的に森監督は、「真実」「矛盾」していいと、つまり「真実はフレキシブルなものでいい」と結論づける。この話で本当に面白いというか衝撃的だったのはラストシーンで、そこに映し出される衝撃的な光景はまさに「真実はフレキシブルであってはならない」という、それこそこの『To the Bone』のコンセプトその本質を描いた、SWもビックリの何とも皮肉の効いたラストでこの話は幕を閉じる。ある種の哲学的な話にも聞こえるこの最終話は、まさに「フェイクニュース(嘘)」「リアル(真実)」が複雑に入り乱れる現代の「ポスト・トゥルース時代」への「メディア側」からの回答であり、その「嘘」と「真実」をテレビドラマという虚構の中で、ドキュメンタリー(モキュメンタリー)形式であたかも「事実」であるかのように描き出すという、このご時世にテレ東はトンデモナイ最終回をブッ込んで来たわけだ。他の局じゃちょっと考えられないコンセプトで、やっぱテレ東ってスゲーわって。

一旦自分の世界の辻褄を合わせると、僕らは他のみんなの世界をぶち壊しに行きたくなる、彼らの真実が自分の真実と噛み合わなくなるから・・・

上記の”To the Bone”の冒頭で語られるオープニング・ダイアローグは、まさしく先ほどの『デッドストック』最終話に直結するような、あるいはミサイルが上空を飛び交うクソみたいな世界に対する最後通告のような、今作最大のテーマでもあるこの世の「真実」は一体どこにあるのか?まさにアルバムの核心的な部分をあぶり出すようなこの曲は、「Post-Truth(ポスト真実)」をテーマにした曲で、歌詞はSWがリスペクトするXTCアンディ・パートリッジによるものだ。再生すると、まずそのプロダクションの良さにハッとさせられる。その「New Age」ならではのプロダクションとともに、語り部のJasmine Walkesなる女性のモノローグが終わると、まるで坂本龍一喜多郎、そしてエンヤなどのニューエイジャーという名のシャーマン達による集団儀式がアマゾン奥地で催され、森の精霊のごとしスピリチュアルなヒーリングボイスからサックス顔負けのハーモニカやマラカスなどのパーカッション、それら「80年代」を代表するニューエイジャーへのリスペクトを込めた神秘的なトラックとともに「シン時代」の幕開けを宣言し、新たなる夜明けとともに、瞳を閉じたままのSWが遂に目覚めると、全く新しい「シン・SW」という新たなる生命の誕生を盛大に祝福する。

今回は「音」も違う。UKロック界のレジェンドオエイシスの作品でも知られるポール・ステイシーとの共同プロデュースによってもたらされた、「90年代」以降の普遍的な「UKロック」を踏襲したギター・サウンドとポールの双子の兄弟であり現キング・クリムゾンのドラマーとしても知られるジェレミー・ステイシーのタイトなドラミングが織りなす、未開の部族の宴の如し多民族的なグルーヴ感を発するノリの良いギター・ロックを展開し、そしてより「ポップ」に歌い上げるSWと前作からお馴染みとなったイスラエルの女性シンガーニネット・タイエブによるドナ・サマー顔負けのソウルフルなバッキングボーカルを聴けば分かるように、そのオールドスタイルのギター・サウンドからボーカル、ほのかにブルージーでファンキーなフレーズを聴かせるGソロやアレンジまで全てが「ポップ」なチューニングが施されており、ジョイス・キャロル・ヴィンセントの悲劇的なコンセプトを背負った前作の『Hand. Cannot. Erase.』から一転して、今度は一聴しただけで分かるように、大衆的かつ普遍的な「ポップス」のアップテンポなノリを内包した「ポップ・ロック」を聴かせる。しかし、「ただのポップス」で終わらないのがSWの凄い所で、オープニングの語り部から自らが「70年代」の「ニューエイジ側の人間」である事を証明しつつ、オエイシスにも通じる「90年代」の「UKロック」や「80年代」のポピュラー・ミュージックに対する理解と敬意を示しつつ、その終始ノリが良い曲調から一転して緩やかに展開するアウトロは、「80年代」の「プログレッシブ・ポップ」への彼なりの憧憬でもある。なんかもう「おかず全部のせ」みたいな、それこそディープなヒップホップからイマドキのエレクトロニカにも精通するSWの幅広い音楽的嗜好を垣間見るような、ありとあらゆる「時代の音」が「ポップス」に集約された今作を象徴するかのような、その「アルバム」のコンセプトを一曲の「ポップス」として凝縮しパッケージングしたような、まさしく「キング・オブ・ポップ」あるいは「ポスト・ポップ」と呼ぶべき一曲だ。

正直、まるで一本の映画のようなスケール感を持った7分近い「ポップス」は今まで聞いたことがなかった。普段のSWなら、というよりSW「プログレ側の人間」として見た時、彼に7分の曲を書かせようもんなら必ず「プログレ」になるというか、当然聴き手もそれを疑うことなくSWが書く「7分の曲」=「プログレ」としてこれまでは解釈してきたが、この曲は違う。「7分の曲」であるのにも関わらず、どこをどう聴いても「ポップス」にしか聴こえないのだ。普通の人からすれば「ポップス」といえば3分から4分の一口サイズで消費するものだが、この曲はいわゆる普通の「ポップス」とは一線をがしている。このシン・SWは、これまでの「ポップス」の概念を根底から覆すように、つまり全く新しい考えを持った一人の挑戦者として、この「7分のポップス」をもって現代のポピュラー・ミュージックの世界に挑まんとしているのだ。

2016年に発表した『4 ½』は、その「4」「½」というタイトルが示すとおり、前作の『Hand. Cannot. Erase.』と次作すなわち『To the Bone』を結ぶ補助的な役割を担う作品だったが、そのアルバムの中でSWは僕たちにとあるヒントを与えた。それこそ、中期以降の本家Porcupine Treeへの明確な回帰だった。しかし、2009年に発表した問題作のThe Incidentを最後に、PTを活動休止にして今現在までソロアーティストとして活動してきたSWが、なぜ今になって「PT回帰」に至るまでに、そしてなぜ回帰せねばならなかったのか?その答えこそが、この『To the Bone』を紐解く大きな鍵となることを、あの日の僕たちはまだ知らない。



これまでにSWは、複数のサイドプロジェクトの中で様々な音楽的嗜好を多方面に披露してきた。最古参のNo-Manではエレクトロニカの側面を、Opethミカエル・オーカーフェルトと組んだStorm Corrosionではサイケデリック/フォークの側面を、Bass Communionではノイズ/アンビエントへのアプローチを垣間見せた。それらのプロジェクトの中でも特に「ポップス」の側面を強く持つのが、他ならぬ当ブログ「Welcome To My ”俺の感性”」の元ネタであり、イスラエル人のアヴィヴ・ゲフィンとのプロジェクトである「黒のフィールド」ことBlackfieldである。2曲目の”Nowhere Now”は、開幕のピアノや気持ちのいいくらい爽快なドラミングをはじめ、アコースティックなクリーン・ギターや初期のBlackfieldを彷彿させるSWのポップでウェットなボーカル・メロディをフィーチャーした、複雑なタネも仕掛もない、全域に渡ってクリーン・トーンで展開し、全パートに渡って「ポップス」が貫かれた、一点の曇りもない前向きな「希望」に満ち溢れたキャッチーなポップ・ロックで、まさに今作の根幹に脈々と流れる「ポップス」を象徴するかのような一曲と言える。で、このMVについて、まず「こんなにアクティブなSWは今まで見たことがない」ってくらい、天を仰いで歌うSWとかガラにもなさ過ぎて「SWってこんなキャラじゃなくね・・え・・・えっ」ってなるくらいツッコミどころ満載のSWはさておき、一歩間違えたら素人が作った映像に見られそうなこのMVは、チリのアタカマ砂漠の「アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(ALMA)」をロケ地に、SWがたった一人で天を仰いだり歩いたり語り弾いたりする非常にシュールな絵になっている。ご存知、SW「宇宙大好き芸人」としても知られ、Blackfieldの4thアルバム『Blackfield IV』でも名作SF映画『コンタクト』の舞台となった事でも知られるVLAらしき天文台をアートワークにしていて、そういった意味でも、この曲は「意図的」にBlackfieldを意識して書かれた曲なのが分かる。



「世界一美しいハスキーボイス」ことニネット・タイエブとのデュエット曲となる3曲目の”Pariah”は、前作の”Perfect Life”をアップデイトさせたようなマッシブ・アタック的なインダストリアル/トリップ・ホップへのアプローチと、No-Manを現代版にアップデイトしたようなアンビエント・ポップ風のアレンジを効かせながら、SWニネットがまるで恋人のように見つめ合いながら交互に会話を交わすように、モノクロームの世界でゆったりと落ち着いた曲調で展開するかと思いきや、終盤に差し掛かるとビッグバンの如し爆発力のある展開を見せ、そこでのシューゲイザー風のノイジーな轟音ギターは互いの感情を的確に表現している。このMVを見れば分かるように、言うなれば童貞メガネ喪男扮するSWのハッキリしないウジウジした態度に「ウンザリ」した彼女扮するニネット「私と音楽、どっちが大事なの?!」みたいにブチ切れて、そして遂に喪男のウジウジが限界に達して「ふえ~~~ん...でもLovely」ってなってるSWの顔アップにクソ笑う。もうこれだけで名作認定。

new_スクリーンショット (21)

「なぜSWは再びPTにチューニングを合わせざるをえなかったのか?」

それを断片的に証明するかのような、4曲目の”The Same Asylum as Before”は、Porcupine Treeが最も「ポップス」に近かった頃すなわち『Lightbulb Sun』の頃の中期PTを彷彿させる、イギリスの気候のようにソフト&ウェットで湿り気のある、そして夕焼けのようにホットでアコースティックな、まさにプログレッシブ・ロックならではの叙情性と情緒に溢れた音像を踏襲し、それらを「プログレッシブ・ポップ」に刷新したような曲で、これは一種のプログレ畑の人間がやる極上のプログレッシブ・ポップというか、これまでプログレ界隈でしのぎを削ってきた生粋のプログレヲタクが、このアルバムで「プログレッシブ・ポップ」に挑むなんてのは至って容易なことだった。

今作のハイライトを飾る5曲目の”Refuge”は、再びNo-Manを彷彿させるアンビエント・ポップ的なアレンジとピアノで静かにセンチメンタルな幕開けを飾り、次に無数の銀河が輝き放つように宇宙空間を形成していくスペーシーなキーボード、次に宇宙規模の広大なスケール感とワイドレンジなダイナミズムを加えるドラム、それらが一つ一つが音の恒星となってスーパーノヴァを起こしながら内なる衝動を爆発させていき、そして子供の頃に見た『夢』が無限にどこまでも広がっていくような、そしてクライマックスを飾る光を超える速さで眩いばかりの閃光を解き放つ、ハーモニカとギターが「未来」を繋いでいくような超絶epicッ!!で超絶エモーショナルなソロパートは、「現代人」である人類から「未来人」への『メッセージ』か、はたまた天国のデヴィッド・ボウイプリンスなどの「80年代」を輝かしい時代へと導いた偉大なる先人たちへの鎮魂歌か。この曲の音使いや作曲のベースには前作の”Regret #9”があって(タイトル的にも)、ここまで一貫してやってきた「ポップス」から一転して、一つの映画を観ているかのような、叙情的なシーンを一つ一つ丁寧に紡いでいくような曲構成は、まさにSWが主戦場としてきた「70年代」の「プログレ」からの応用である。



2008年に公開された名作映画『スラムドッグ$ミリオネア』以降、最近では『きっと、うまくいく』『PK』など、近年インド映画が世界中から注目を浴びるようになって久しい。そのインド映画でもお馴染みのボリウッドのダンサーを迎えた6曲目の”Permanating”のMVは、なんかもうインド映画=謎の踊り踊らせときゃええやろ的な、もはやインド人に失礼なくらいステレオタイプのインド人を描写した映像となっている。そのウキウキな謎の踊りと同調するように、一緒に楽しく歌って踊って仲良く飛び跳ねるようなピアノを弾き殴りながら裏声で歌い上げるSWの姿は、もはやエルトン・ジョンあるいはスティーヴィー・ワンダーに代表される「大衆のアイコン」さながらの存在感を放っており、それこそエルトン・ジョンが伴奏を手がけたミュージカル『リトル・ダンサー』的なダンサブル要素を持つ曲である。この曲についてSWは、ELO”Mr. Blue Sky”ABBA”マンマ・ミーア”へのアプローチがあると語るように、老若男女誰もが知る名曲中の名曲を元ネタにするあたり、いかにしてSW「メジャーアーティスト」の仲間入りを果たしたのかを痛感させる。ここで改めて「メジャーアーティスト」という言葉が出てきたが、SWが本当に「メジャーアーティスト」の仲間入りした事を証明する一つの証というかギミックが今回のMVに隠されていて、それはMVの右下に表示された「VEVO」のロゴである。邦楽のMVでもたまに見る「VEVO」の意味は既にご存知な方も多いかと思うが、恥ずかしながら自分はこれまでずっと「VEVOて何のロゴやねん」と「VEVO製の特殊なカメラでも使ってんの?」ってくらいにしか思ってなくて、しかし今回SWのお陰でその意味をようやく理解できた。簡単に説明すると、今回からSWが所属することになったCaroline Internationalは、大手のユニバーサル・ミュージックの傘下にあるレーベルで、そのユニバーサル(EMI)とソニー・ミュージックのMVは全て「VEVO」仕様のMVとなるらしい。つまり、言い換えれば「VEVO」というの3大メジャーレーベルに属する「メジャーアーティスト」の証でもあって、そういったガワの面でもちょっとした「変化」が起きている。

再びニネットとデュエットした7曲目の”Blank Tapes”は、ピアノとギターのシンプルなリフレインを中心に聴かせるフォーキーなバラードで、8曲目の”People Who Eat Darkness”では、イントロのリフを皮切りに、エッジの効いたギターの音作りやボーカルのアレンジまで全てがディープ・パープルの名曲”ハイウェイスター”のオマージュと言っていい、「70年代」のヴィンテージ感溢れるクラシックなハードロックを展開し、「ポップス」のノリに支配された今作の中で最もロックンロールな疾走感溢れる曲調の中、しかし転調パートではしっかりとプログレスなSW節を覗かせるのが何ともニクい。

「コーンウォール一派」

ここまで執拗にやれ「70年代」だ、やれ「80年代」だとシツコクも言ってきたけれど、SWは決して「70年代」や「80年代」だけに収まるようなアーティストではない。彼は、まず誰よりも「現代人」なのである。SWは、誰もが知っているようなポップ・ソングからヒップホップ/ラップ、そしてアングラなエレクトロニカにも精通する幅広い音楽的嗜好回路を持ち合わせている。そんな彼が特に近年、というかSWは昔からエイフェックス・ツインスクエアプッシャーに代表される、俗に言う「コーンウォール一派」に心酔していて、直近の曲にもインダストリアルやエレクトロニカなどの打ち込み音を駆使した楽曲が増えている事からも、それは明白な事実である。確かに、エイフェックス・ツインは漫画家の荒木飛呂彦相対性理論やくしまるえつこにも影響を与えるほど、電子音楽界の最高峰とも呼べる偉大な前衛的アーティストの一人だ。何を隠そう、僕は事あるごとに、というか過去に『The Raven That Refused to Sing』の記事で荒木飛呂彦スティーヴン・ウィルソンを共振させ、そして相対性理論天声ジングルではやくしまるえつこ荒木飛呂彦、そしてエイフェックス・ツインの存在を共振させてきた、つまり【荒木飛呂彦≒スティーヴン・ウィルソン≒やくしまるえつこ】であると説いてきたが、ここで初めてその決定的な証拠がSW側から提示されたのは嬉しい誤算だった。今作でも俄然その「繋がり」を証明するかの如く、スイス出身の女性SSWことSophie Hungerとデュエットした9曲目の”Song of I”では、母親の胎内で眠る胎児の鼓動のようなインダストリアルなサウンドで「イマドキ」のバッキバキに尖った音楽をアップロードしたかと思えば、続く10曲目の”Detonation”では、Djentにも精通する変則的な拍を刻む無機的な打ち込みメインの幕開けから、ミニマルなリフレインを中心にPT『Fear of a Blank Planet』を彷彿させるサイケデリックな世界観を繰り広げる中盤、そして後半から場の空気がガラッと変わって一気にジャズ/フュージョンっぽくなる曲で、その変態的な電子音から緊迫感溢れるダイナミックな曲構成をはじめ、そしてこの曲の根幹にあるスクエアプッシャー愛マイルス・デイビス愛に溢れたジャズ/フュージョンの要素は、もはや「SWなりの”Tetra-Sync”」としか他に形容しようがなかった。



このMVを観てまず頭に浮かんだのは、BBC制作のドラマ『シャーロック』「忌まわしき花嫁」で、そのホラーテイスト溢れるビジュアルの映像とシアトリカルかつ喜劇的に演出するストリングスが絶妙にマッチした曲だ。既にお気付きのとおり、”Nowhere Now”のMVでは過去最高に「こいつ動くぞ」感を、続く”Pariah”のMVでは童貞喪男を演じたかと思えば、”Permanating”のMVではボリウッドダンサーを迎えて映画『サウンド・オブ・ミュージック』顔負けのSW先生を演じたりと、ここまでシングル化された全てのMVでSW自らが主演を務めていて、このように映画やドラマなどの現代の流行から積極的に「大衆文化」すなわち「ポップカルチャー」への迎合を図りながらも、改めて新しく生まれ変わった自分を、それこそ「わたしは、スティーヴン・ウィルソン」と名刺代わりの自己紹介とばかり、自身のありのままの姿を全てをさらけ出している。

ついさっきまでボリウッドの「不思議な踊り」やディープ・パープル顔負けのクラシック・ロックやってみせた後に、そこから数十年の時を超えて「現代人」ならではの打ち込み系に切り替わる一種のギャップというか、そのソングライティング面でのジグザグな振り幅こそ今作を象徴する一つの流れと言ってよくて、それと同時に、いい意味で「アルバム」っぽくない構成でもあった。しかし、最後を締めくくる11曲目の”Song of Unborn”では、これが「アルバム」だということを再認識させる。あたかもあざとく「これはアルバム最後の曲ですよ」とご丁寧にお知らせしてくれるような、なんだろう「アルバムのクライマックスを飾るためだけに存在する曲」みたいな、とにかく荘厳な男女混声クワイヤを駆使した神聖な曲で、中でも最後に繰り返される「Don't be afraid to die」「Don't be afraid to be alibve」「Don't be afraid」という「希望」に溢れた歌詞で幕引きする所も、僕たちは今まで「シングル」の集合体ではなく「アルバム」を聴いていたんだと、僕たちはまんまとSWの術中にハマっていた事を知る。

まず「アルバム」の初めに今作の「コンセプト」を司る表題曲の『To the Bone』で全く新しい「シン・SW」をお披露目しておいて、その中身はポップ・ソングからヴィンテージ・ロックからモダンなエレクトロまで、その時代その時代の音を細部まで徹底してこだわり抜かれたアレンジと音作りで現代の音としてアップデイトし、そして『To the 【Bone】』と対になる『Song of 【Unborn】』という再びアルバムの「コンセプト」を象徴する曲を最後に、「アルバム」のフォーマットとして一つにパッケージングするという、これはまさに「音の旅」である。SWは、今作について子宮の中から現代文明の瓦礫を覗いて『どうしてこんなところに生まれたいと思うんだ?』と自問している、まだ生まれていない子供の視点から何かを書いてみたかったんだと語っている。それは最後の”Song of Unborn”というタイトルが物語っていて、まだ生まれる前の胎内に眠る曲が「こんなクソみたいな時代に生まれたくない」という叫び声でもあるかのよう。実は、このシチュエーションを今の日本の状況に置き換えてもシックリくる。ミサイルが上空を飛び交う国に生まれたいと「胎内の子供」が思うわけがない。今回のに象徴されるアートワークは、母親の血が通った赤い子宮の中でスヤァ...と眠るケツの青い胎児を比喩し、まだ生まれる前の「希望」に満ち溢れた「未来の子供」「いやいやいやいや、こんクソみたいな時代に生まれたくないんやけど」と、「心の叫び」ならぬ「胎児の叫び」を比喩していたのだ。つまりSWが最後に残したのは「ただの希望」、それ以上でもそれ以下でもなかった。

「逆再生」

この「始まり」と「終わり」が対になるようなアルバムのストーリー構成は、何を隠そう相対性理論天声ジングルと全く同じ発想で、過去に僕は『天声ジングル』について「逆再生」して聴くのが本当に正しい曲順なんじゃあないかと書いた。つまり、オープニングの”天地創造”をラストの”フラッシュバック”から人類の歴史を思い返すように記憶を巻き戻していく構図だ。で試しに今作を「逆再生」して聴いてみると、驚くほど違和感がないというか、通常でも「逆再生」してもハイライトが”Refuge”になるあたりは、まんま『天声ジングル』”弁天様はスピリチュア”と同じ役割を担っているし、双方の曲に共通するのは、他ならぬ「宇宙」であることも。そういった面でも、冗談じゃなしにこれは意図的に「逆再生」を想定して制作されたものなんじゃあないかって。ヘタしたら「逆再生」の方がアルバム構成的に盛り上がるというか、実質オープニングとなる裏(表)題曲の『【Song of 【Unborn】』では母親の胎内で「こんな不確かな時代に生まれたくねぇんだけどマヂ迷惑なんだよクソBBA」と愚痴りながらドカドカと腹を蹴り飛ばす胎児に「希望はあるから」と暗に焚き付けて、そんな悪魔みたいな子供が生まれてくる266日の間に、あらゆる時代の【Songという名の「希望」を胎教として与え続け、その「希望」が母体の胎内を巡って胎児の血となり骨となった結果、「あっ、この”音楽”という確かな”シン・ジツ”に溢れた世界になら生まれてみてもいいかな」と心変わりさせてから、実質ラストとなる表題曲の『To the 【born】』で満を持してどじゃ~ん!とこの世に生まれてきた天使のように可愛い子供の第一声は、「オギャー」という泣き声ではなく「ここがシン・ジツだ」に違いない。

この「逆再生」に関する話で本当に面白いのはここからだ。実はつい最近、ヒップホップ界のレジェンドケンドリック・ラマーの新作『DAMN.』「逆再生(リヴァース)」を想定して作られた事をケンドリック自身が認めたのである。『DAMN.』の発売当初、実際にApple MusicSpotifyなどのサブスクで曲順を逆にしたプレイリストも多く作られるほど、『DAMN.』は逆から聴けるという指摘は決して少なくなかったと言う。ここでまたしても繋がるのが相対性理論天声ジングルである。2015年にリリースされたこのアルバムは、それこそ「やくしまるえつこなりの日本語ラップ」であり、まさにケンドリック・ラマーが新作で試みた「逆再生」演出を、えつこは一足先に相対性理論のアルバムで再現していたのである。このケンドリックの件は、『天声ジングル』は「逆再生」できると言及した僕の解釈を真っ向から肯定するかのような出来事だった。確かに、この『To the Bone』「逆再生」できると力説する人間は恐らく世界でも僕しかいないかもしれない。しかし、まさかやくしまるえつこを経由してスティーヴン・ウィルソンケンドリック・ラマーが繋がるなんて思ってもみなかった。勿論、その二人を繋げるには相対性理論『天声ジングル』を世界で最も理解できる奴だけだった。それが「日本一のジョジョヲタ」である僕だった。つまり、ケンドリック・ラマースティーヴン・ウィルソンを繋げる事ができたのは世界でも僕ただ一人だけだったんだ。なんだろう、こんな面白い話って他にある?って感じ。ともあれ、この「逆再生(リヴァース)」という一つの大きなギミックが、このアルバムの最も革新的な部分であると僕は理解した。

この『To the Bone』には、ドナ・サマーABBAをはじめとした世界的なディーヴァをはじめ、そのアレンジには80年代のプログレッシブ・ポップやアート・ポップ、エレクトロ・ポップやアンビエント・ポップなど、どの曲にも常に「ポップさ」が点在する。それこそ、晴れて「メジャーアーティスト」となったSWによる、デヴィッド・ボウイプリンスなどの歴代ポップスターの「なりきりポップス」みたいな、これまでは70年代のプログレッシブ・ロックのレジェンド達の数々の名作をリミックスで蘇らせてきたエンジニアとしてのSWが、今度は「メジャーアーティスト」として歴代のポップスターをモダンなアレンジを施して現代に蘇らせた、歴代最高峰のポップスを歴代最高峰のアレンジと歴代最高峰のプロダクションでパッケージングした、全てが歴代最高峰の「ポップアルバム」だ。全11曲で60分ジャスト、つまりこの『To the Bone』というタイトルには、時計の針が一周して「何度でも新しく生まれる」というある種の意味合いが込められているのかもしれない。そうやって深く考えれば考えるほど、このアルバムはちょっと本当にどうしようもなく「トンデモナイ」という結論に行き着く。

バックバンドも違う。前作までは「プログレッシブ・ロック」を演奏するのに必要なそれ相応のスキルを持ったプロフェッショナルなメンバーが集結した、いわゆる「SWバンド」がバックバンドとしてSWをサポートしていたが、今回はオエイシス界隈でも知られる「メジャーならでは」のミュージシャン/プロデューサーを筆頭に、様々な国のシンガーやミュージシャンの協力により成り立っている、SW史上過去最高にインターナショナルでジェンダーフリーな作品と言える。まさしくその意味というのは、更に混沌さを増す世界情勢や現代社会の闇の部分を浮き彫りにすると同時に、バラバラになった世界を一つにするような、SWなりの黄金のリベラリズム」が込められた一枚となっている。ボーカルとギターは勿論のこと、半数以上の曲でSWがベースパートを弾いていることからも、俄然「ソロアルバム」っぽいというか、むしろ本当の意味での「ソロアーティスト」としてのデビュー作、つまりシンガー・ソングライター(SSW)としてのメジャーデビュー作と解釈すべきかもしれない。もはや「ソロ」という概念を超越したSW自身を投影したかのような作品である。

「懐かしい、でも新しい」

まるで糸井重里が考えたキャッチコピーのような今作、これまでと「違う」とか「変わった」とか言うけれど、無論全てが新しいというわけではない。随所で見られるギターのフレーズやメロディ、リフレインやソロワーク、そして曲構成に至るギミック面にしても、それはこれまで僕たちがSWがサイドプロジェクトを含めた数々の作品で耳にしてきた馴染みのある音そのものだ。それこそ、アルバム後半のモダンな打ち込み主体の楽曲に関しても、実質SWKscopeが世に広めたと言っていいPost-Progressive自体が、そもそも「ポップス」とモダンな「エレクトロニカ」などの様々な要素をクロスオーバーさせたジャンル、つまり「Post-系」の根幹を司る重要なパーツでもある。全てが真新しくて全てが違うと言ってみても、しかしやってる事の根幹にある大事な部分は何一つ変わっちゃあいない。SWにとっては、メジャーでもアンダーグラウンドでも結局やることはこれまでと同じ、ただの「Post-」をやってるだけであり、結局はいつものSWと何ら変わりないのだ。全てが真新しいにも関わらず、その全てがSWそのものでしかないのがホントに怖い。

前作の重厚なコンセプト・アルバムから一転して、このクソみたいな世界に咲き誇るクソ前向きな「希望」に満ち溢れた「ポップス」へと転換する恐ろしいまでの振り幅は、遡ること8歳の頃に両親からピンク・フロイドドナ・サマーのアルバムをプレゼントされた時から現在に至るまでの約50年間、これまであらゆる「時代」の様々な「音」を咀嚼し、その影響を高度な次元で昇華して自らの音楽に反映してきた彼だが、そのSWの最大の魅力とも呼べる、その時代その時代の「過去の音」を「現代の音」として刷新させるエンジニア(技術者)としての職人芸と咀嚼力の高さ、そして音楽的な振り幅の広さは、今作で集大成とも呼べるほどの才能を爆発させた結果でもある。それを証明するかのように、一曲一曲が映画のワンシーンのように情緒と郷愁に溢れた多面的な表情を描写し、それこそSWの子供の頃の「思い出(ノスタルジア)」が詰まったフォトアルバムを一枚一枚めくっていくような、そのSWが子供の頃から触れてきた「思い出の音楽」と、一方で今なお新しい音楽と対話し続ける「イマのSW」が時代を越えて共鳴し合うかのような、これはもうスティーヴン・ウィルソンの自伝映画『わたしは、スティーヴン・ウィルソン(I, Steven Wilson)』としか形容できない、もはや「ポップス」とかそんな次元の話じゃねぇ、これはスティーヴン・ウィルソンの人生そのものが記録された「人生のサウンド・トラック」だ。

これはある意味、「アンダーグラウンド・アーティスト」として活躍してきたスティーヴン・ウィルソンにとっての、人生を賭けた大きな「メジャー・アーティスト」への挑戦だった。まるで「創造者たるや常に挑戦者たれ」と言わんばかり、彼は日頃のインタビューでも「同じことはしない」と語り、常に新しいことに挑戦し続けるクリエイターとしての貪欲な姿勢、それこそ「オルタナティブ人間」としての才能を改めて証明するかのように、これまではアンダーグラウンド・シーンでお山の大将気取ってた彼が、「挑戦者」として生まれて初めてメインストリームの世界に挑んだ歴史的なアルバムなのだ。なんだろう、アンダーグラウンドのことを知り尽くしているからこそ、いざメジャーに行っても何不自由なくやれてしまう、それってつまりアンダーグラウンドの人間がメインストリームの世界を最もよく知っている典型例で、その「アンダーグラウンド」と「メインストリーム」の話から頭の中で閃いたのは、今のスティーヴン・ウィルソンが置かれた状況って、実は2016年に『君の名は。』を発表した新海誠と全く同じ状況なんじゃね?ってこと。

「200億の童貞」

つまり、前作の『言の葉の庭』までは「アンダーグラウンド」すなわちマニア向けのアニメ監督として名を馳せていたインテリクソメガネの新海誠が、新作の君の名は。で本家本元の東宝の全面バックアップを受けると、前作の『Hand. Cannot. Erase.』までは70年代に一世を風靡した「アンダーグラウンド・ロック」の正統後継者として名を馳せていたインテリクソメガネのスティーヴン・ウィルソンが、新作の『To the Bone』でメジャーレーベルのユニバーサル傘下のCaroline Internationalと契約する。新海誠『君の名は。』で数々のヒット作を飛ばした有能プロデューサーを迎えると、今度はSW『To the Bone』でオエイシス界隈の有能プロデューサーを迎える。新海誠『君の名は。』でジブリを手掛けた作画監督やアニメーター、つまり「ジャパニーズ・アニメーション」の歴史を築き上げてきたジブリの宮﨑駿や『エヴァンゲリオン』の庵野秀明、『時をかける少女』の細田守監督や今はなき今敏監督に代表される「メインストリーム」すなわち「大衆アニメ」の分野で活躍するアニメ監督からの影響と、新海誠「アンダーグラウンド」で培ってきた「過去の遺産」すなわち「新海誠レガシー」をセルフオマージュして「メインストリーム」にブチ上げた「全日本アニメーション」を発表すれば、今度はSW『To the Bone』で多国籍のミュージシャンを迎え、ドナ・サマーABBAなどのメジャーなポップ・アイコンからの影響とSW「アンダーグラウンド」で培ってきた「過去の遺産」すなわち「SWレガシー」をセルフオマージュして「イマドキ」にブラッシュアップした「キング・オブ・ポップ」を発表する。新海誠『君の名は。』で自らの存在を「否定の世界」「アンダーグラウンド」から「肯定の世界」「メインストリーム」にブチ上げると、今度はSW『To the Bone』というジャスト60分のアルバムで、自らの「過去」「アンダーグラウンド」「否定の世界」から時計の針を一周(60分)させて「ポップス」という「メインストリーム」=「肯定の世界」へと一巡させる。新海誠『君の名は。』「童貞」を捧げて「ゲスの極みシン・海誠」へと生まれ変わり興行成績200億超の歴史的な映画を生み出すと、今度はSW『To the Bone』「童貞」を捧げて「シン・SW」へと生まれ変わり、自身最高位となるUKチャート週間3位を獲得する。正直、お互いにここまで理想的な童貞の捧げ方は未だかつて前例がない。つまり、この『君の名は。』における新海誠と、この『To the Bone』におけるスティーヴン・ウィルソンの共通点を見抜いた僕は、彼らと同じ「200億の童貞」と同等の価値を持つ黄金の童貞」なのかもしれない(ポスト・トゥルース)。

「ストリーミング時代」

SWは常に憂慮し続けてきた。音楽はSpotify、映画やドラマもNetflixをはじめとしたサブスクリプションの時代に移行しつつある現代のクリエイティブ業界に対して。SWは、「”アルバム”は長編映画や長編小説と同じ、ある種のリスナーや読者をその世界に連れていく機会であると捉えていて、前作の『Hand. Cannot. Erase.』ジョイス・キャロル・ヴィンセントの悲劇をコンセプトにした、それこそSWが言うような「アルバム」だからこそ表現できる作品の代表例だった。今はSpotifyなどのストリーミングで好きな曲をプレイリストにして聴く時代、つまり「アルバム」が「シングル」扱いされるようになってしまった時代に、SWは数十年前にデビューして以来ずっと「アルバム」というフォーマットに「こだわり」を持って音楽制作に挑んできた。そんな風に、身を挺して「アルバム」のフォーマットであることの重要性を問いただしてきた彼が何故、これまで否定的だったストリーミングの世界に自ら飛び込み、現代の「ストリーミング時代」を生きる「ストリーミング人間」に対する挑戦状を叩きつけたのか?



SWは、新しい作品をを出すたびにインターネット時代ならではのブログやSNSなどのツールを通じて、何時だって僕たちに新作を紐解くヒントを用意してくれる。今回は、今年に入ってからSteven Wilson' Headphone Dustなる自身のSpotifyのプレイリストを公開し、新作の『To the Bone』を紐解くヒントを与え続けてくれていたのだ。定期的に更新される、端的に言ってSW「人生のプレイリスト」には、デヴィッド・ボウイプリンスは勿論のこと、主に「80年代」の音楽からアンダーグラウンドのエレクトロニカまで、それら様々なジャンルと幅広い世代のアーティストが選曲されている。なんだろう、今回のアルバムって結局、世界的に「ストリーミング」が主流となった時代だからこそというか、その「ストリーミング時代」に対するSWなりの回答のような気もして、なんだろう、ライブじゃなくてレアなレコードを探しにわざわざ来日するくらい、アナログ(レコード)時代を生き抜いた人から、現代の「ストリーミング時代」を生きる人への『メッセージ』なんじゃないかって。つまり、「ストリーミング時代」の今はワンタッチで世界中の様々な音楽に触れることができるが、SWSpotifyなどのサブスクがこの世に存在しない時代から、それこそ両親の英才教育もあって子供の頃から世界中の音楽に人一倍触れてきた人間、言うなれば「人間Spotify」がこの「ストリーミング時代」にその是非を問いかけるような、これはもう一種の「ストリーミング・アルバム」と言えるのかもしれない。

まず今作の半数以上がシングルカットされている所からもそれは明白で、これまでのように「アルバム」のコンセプトで聴かせる意識は過去最高に薄く、それこそSpotifyのプレイリストのようにシャッフルして聴けちゃう感じというか、さっきの話じゃないけど「シングル」=「アルバム」のような一曲一曲の重みの違いというか、「アルバム」という「映画」のワンシーン(一曲)をかい摘んで聴けちゃう気軽さもあって、そういう面でも過去最高に「大衆向け」の仕様になっているのも事実で、意図的にサブスクの時代を考慮した作風でもあるのだ。でも、そのワンシーン(一曲)を一つに合わせて聴くと結局は「アルバム」というSWの自伝映画になってるオチ。勿論、先ほどの「逆再生」の話も「アルバム」というフォーマットだからこそ成り立つギミックで、それこそSpotifyのプレイリストのように曲順を自由にイジっても「逆再生」させてもいい、過去最高に「フレキシブル」なアルバムと言える。これは「アルバム」で聴く時代が終わりを告げ、「シングル」でどれだけリスナーの気を引くかの時代に、プログレッシブ・ロックという「アルバム」のフォーマットの中でしか生きられない辺境ジャンルの中で、「俺すごい」と自己満足してきたSWが出したSWなりの「アンサー・ソング」である。確かに、「エンジニア」としても活躍する彼は、いわゆる「プロダクション」の面でもその「こだわり」は人一倍強いはずで、それこそ音質などの面で「ストリーミングはゴミだ」と思ってないわけがない。そんな保守的なイメージを持つ彼が何故?って話で、これまでは「プログレ」という聴く側も前時代的な考えを持つ、それこそ音質に対する「こだわり」はポップスを聴いている人よりも強く、その音楽を嗜む上でのフォーマットもアナログレコードを中心に、最低でもCD音源で聴くのがプログレオタクなのである。しかし、イギリスではレコードの売上が好調とされる中、そこをあえて逆行するように今回メジャーデビューしたからには、これまで通りプログレオタク相手にヌルい商売やってる余裕はなくて、これから「メジャーアーティスト」として活動するにあたって、近年急成長を見せるサブスクリプション(定額制)の新潮流からは嫌でも逃れられないわけで、何よりもまず「そこ」を一番に考えなきゃいけないシン・時代に、しかもこの年になってあえて「そこ」へ挑戦する貪欲な姿勢は、まさに本当の意味で前衛的ミュージシャンと呼ぶべき事案だし、そういった意味でも今作でSW「プログレ」という枠組みから完全に脱却し、長いキャリアの中で初めていわゆる「洋楽」と呼ばれる枠組みへの仲間入りを果たしたのである。

じゃあ結局、そうする意味ってあったの?と。それは朝の情報番組などのテレビ出演を見れば分かるように、そういった積極的なマーケティング/プロモーション活動をはじめとしたマネージメントの面でも、「メジャーアーティスト」として過去類を見ないほど力を入れている。その営業努力が実った結果、今作はイギリスの週間アルバムチャートで自己最高となる3位を獲得している。しかし、それ以上に今作の「成功」を裏付ける結果がある。それはSpotifyUK「バイラル50チャート」にランクインしたことだ。「バイラル50チャート」とは、簡潔に説明するといわゆるネット上の「口コミ」に起因するチャートの事で、それってつまり、現代のSNS社会だから可能にした全く新しいバズ戦略(バズ・マーケティング)と呼ばれるものだ。もはや当初の「目的」であり「狙い」だったであろう「Spotifyにおける成功」は、この『To the Bone』の存在価値とその存在意義を俄然高める、他の何よりも重要な意味合いを持っている。

話は変わるが、メジャーに進出しない若いインディーズのアーティストが口々に言うのは、(メジャー)レーベルの意向(売上など)が優先されるようになって、自分たちが本当にやりたい音楽をやらせてもらえない、みたいな事だ。事実、レーベルから求められる売上のノルマや人気と「自分たちの音楽」の両立の難しさに悲鳴を上げているメジャーアーティストはゴマンといる。SWがこのアルバムで指し示したのは、まさにインディーズあるいは自主レーベルで培ってきた「自分たちの音楽」とメジャーレーベルから求められる「結果」を両立させた、つまりインディーズからメジャーに行っても「自分たちの音楽」を継続することは「可能」であるという重要なヒントを、実際にメジャーデビューして現実と理想の間でもがき苦しんでいる若手ミュージシャンに、「いま最も成功しているアーティスト」の一人として「勇気」と「希望」を与えるような作品でもあるんじゃないかって。



この『To the Bone』を初めて聴いた時に真っ先に何を思い出したかって、それこそ昨年公開されたジョン・カーニー監督の映画『シング・ストリート 未来へのうた』で、この映画にも先日来日したEMI所属のデュラン・デュランをはじめ、モーター・ヘッドキュアーなどのまさに「80年代」を象徴する音楽に溢れた、それこそスティーヴン・ウィルソン(67年生まれ)を筆頭に、『メタルギア』シリーズの小島秀夫監督(63年生まれ)や漫画家の荒木飛呂彦(60年生まれ)に代表される「60年代生まれ」の世代の人間は涙なしには語れない、今回の『To the Bone』と共鳴するように「80年代愛」に溢れた音楽映画の名作である。この同じ「60年代生まれ」の世界を代表する3人のクリエイターには、実のところ共通する部分があまりにも多い。SW「音楽」小島監督「ゲーム」飛呂彦「漫画」、それぞれの分野で活躍する彼らの作品を見れば明白で、それこそ「映画」だったり、あるいは「小説」だったり、あるいは「音楽」から強くインスパイアされているのがよく分かる。例えば「音楽」では、デヴィッド・ボウイプリンス「アイドル」として崇拝する対象とし、特に荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するスタンド名からも分かるように、それこそSWと同じくピンク・フロイドキング・クリムゾンなどの「70年代」のプログレをはじめ、ディオサバスなどのヘヴィ・メタルからホワイトスネイクディープ・パープル(ハイウェイ・スター)などのブリティッシュハード・ロック、ドイツ出身のCAN、そしてスパイス・ガールズなどのアイドル・ポップスにいたるまで、いわゆるMTVの全盛に強い影響を受けた一人だ。一方で小島監督『To the Bone』『シング・ストリート』と同じく「80年代」のUKミュージックとともに青春を過ごした人で、その証拠として『メタルギアソリッド5』のPVにもマイク・オールドフィールドの楽曲を使用するほどディープな音楽オタクとしても知られる。次に「映画」では、スティーヴン・ウィルソンクリストファー・ノーラン監督の最新映画『ダンケルク』の音楽を手がけた鬼才ハンス・ジマーの楽曲をSpotifyのプレイリストにいち早く選曲しているし、同じく小島監督も既にノーランと『ダンケルク』公開記念対談を実現させ、かつ『ダンケルク』のサントラをウォークマンで聴いているほどのノーラン好き&映画好きでも知られる。一方で荒木飛呂彦は、ノーランの『メメント』のオマージュとも呼べる「時間軸」を利用した演出を『ジョジョ』に取り入れたり、何と言っても映画『インターステラー』では「引力、即ち愛!!」の世界を地で行くような、それこそ『ジョジョ6部』以外のナニモノでもなくて、初めてこの映画を観た時はそれはもう衝撃的だった。その両者の作品に共通するのは名作SF映画『コンタクト』であり、それは自ずと「宇宙大好き芸人」SWとも共振する。とにかく、『時間軸』を利用したサスペンスフルな作風をはじめ、その創作理念や生活習慣までも飛呂彦はノーランに影響されているんじゃあないかと思う時がある。彼らに共通する創作理念は、いわゆる「娯楽性」と「作家性」の両立であり、そして彼らは元は「アンダーグラウンド」の住人でもあったこと。そして何を隠そう、先ほど書いた新海誠監督『君の名は。』は、一種の『新海誠なりのインターステラー』と解釈できるある意味「引力、即ち愛!!」だったし、つまり「漫画家界のクリストファー・ノーラン」荒木飛呂彦ならば、「アニメ界のクリストファー・ノーラン」新海誠であると。それを証明するように、つい先日『君の名は。』が映画『SW』シリーズでも知られるJ・J・エイブラムス(66年生まれ)プロデュースでハリウッド実写化が発表されたのは、僕の一説が正しかったことを暗に示唆していた。そして、その発表に対して小島秀夫荒木飛呂彦が嫉妬する構図w

SWが世界の出来事に憂慮するのと全く同じように、「80年代」に生まれた僕は、子供の頃から日本の政治家に代表される「日本のおっさん」に対して強い憂慮を感じてきた。なぜ「日本のおっさん」の感性は「世界一ダサい」のかと。しかしそんな中でも、唯一荒木飛呂彦小島秀夫、この二人だけは違ったんだ。この二人を「西の小島秀夫」「東の荒木飛呂彦」として解釈しリスペクトしていけば、きっと自分はいずれ「本物のオタク」になれるんじゃないかって。そして現在、僕は果たして「本物のオタク」になれたのだろうか?僕は、この記事でそれを証明したかった。だからこのレビューは、僕が子供の頃から影響を受けてきた荒木飛呂彦小島秀夫、そしてスティーヴン・ウィルソンと同年代のクリエイターをリンクさせなきゃいけない、今ここで「繋げなきゃいけない」レビューだと思った。ここを最後まで書ききらなきゃ「説得力」がないと。思い返せば僕とSWとの出会いは、このブログを初めて間もない頃に運命的に出会ったPorcupine TreeFear of a Blank Planetだった。あれから約10年、僕は「ソロアーティスト」となったスティーヴン・ウィルソン『To the Bone』を通して、荒木飛呂彦小島秀夫を共振させることに成功したのだ。僕は、この3人の作品に共通する宇宙規模の世界観や思想を経由して現代社会の瓦礫を覗いてみた時に、改めてこれからのシン・時代に必要なのは黄金のリベラリズム」であるという一つの答えに辿り着いた。まるで10年越しの伏線を全て回収するかのような、もはやこれが書きたいがためにこの10年ブログやってきた感もあって、それこそ「10年」という一周(一巡)した区切りで遂に全ての伏線が繋がったというか、僕は潜在意識の中で10年前から既にこのレビューを書く運命にあったのかもしれない。今の気分は、10年前に書き始めたレビューという名の連続推理小説をようやく書き終えたような、まるで新しいパンツを履いたばかりの正月元旦の朝のスゲー爽やかな気分だ。これはある意味、僕たち「80年代生まれ」が主催する「60年代生まれ」が集まる同窓会「60年会」だった。僕は10年かけて、この「60年会」の偉人たちが自身の作品(コンテンツ)を通して何を伝えようとしているのか、その『メッセージ』の片鱗をようやく理解できたような気がする。しっかし、この度の同窓会「60年会」の主宰を、Welcome To My ”俺の感性”の管理人である僕とやくしまるえつこに託してくれたSWには、「ありがとう」...それしか言う言葉が見つからない。何故なら、これで心置き無くこのブログを終わらせることができるのだから。

トゥ・ザ・ボーン
トゥ・ザ・ボーン
posted with amazlet at 17.09.30
スティーヴン・ウィルソン
Hostess Entertainment (2017-08-18)
売り上げランキング: 17,610

クリストファー・ノーラン監督の映画『ダンケルク』を観た

「ダンケルクを観た」

「ノーラン凄い」

「ハンス・ジマー凄い」

「ダンケルクを生きのびた俺凄い」


・・・ってなるくらい、まず空から「お前たちは包囲された」というナチスのビラが降り注ぐ市街地を、数人の兵士が放浪するほぼ「無音」の静寂シーンから、突如としてけたたましい銃撃音が鳴り響き、そのあまりにもリアルな音響と爆音にビビってその場で死んだふりしてたら、いつの間にか映画終わってた・・・。

というのは冗談で、まずはじめに、これから書くことは同時刻にアップしたスティーヴン・ウィルソンTo the Boneの補完記事として捉えていただきたいのだけど、そもそも何故「日本一のジョジョヲタ」である僕が、ジョジョの実写映画を観に行かず(つうか、いつの間にか上映終了してた)クリストファー・ノーラン監督の最新映画『ダンケルク』を観に行ったのか・・・?

そもそもの話、昨年にジョジョ4部の実写化が発表された時に、僕は真っ先に何を思ったかって、それこそ「いやいやいやいや、ジョジョってもう(実質)実写化されてるじゃん」ということ。確かに、「お前は一体ナニを言っているんだ」と思うかもしれない。でも初めてクリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』を観た時に、僕は「これはジョジョ映画だ!」と確信したのだ。それはもう物語のモノローグ的な序盤のオカルト/ホラー全開のシーンが映し出された瞬間に、身を乗り出して「これはジョジョ映画だ!」と心の中で叫んだほど。というのも、この『インターステラー』は宇宙と地上を舞台にした父と娘の親子愛の映画で、その「父と娘」の話を『ジョジョの奇妙な冒険』に置き換えると、まんまジョジョ6部の空条承太郎(父)空条徐倫(娘)の話と全く同じだと気づく。勿論、ジョジョ6部は最終的に「ケープ・カナベラル」という『インターステラー』の元ネタにもなった映画『コンタクト』にも登場する場所で、ジョジョ6部でもラスボスのプッチ神父と最終決戦を繰り広げた舞台でも知られる。ジョジョ6部には、他の部とは比べ物にならないくらい、SF映画やSF小説を筆頭に、いわゆる数理物理学的な科学的要素と人類や宗教哲学にも精通するギミックが沢山盛り込まれた作風でもあり、(読めば分かるが)その難解至極な終盤のストーリーは、ジョジョ愛好家の中にも「ジョジョ6部だけは苦手」という人を数多く生み出すほど、言うなれば「荒木飛呂彦なりのデビルマン」を描き出したかのような凄みのある作品だった。

映画『インターステラー』は、それこそジョジョ6部最終話の【アオリ】でお馴染みの「引力、即ち愛!!」を地で行くような究極のエンタテインメント映画でもあって、重力を操るスタンド使いやメビウスの輪から、2進法や宇宙服での戦闘、そしてプッチ神父のスタンドの最終形態である『メイド・イン・ヘブン』は、『時間』の概念を超越することで世界を一巡させ、つまり人は自らの『未来』とその『運命』を知ることで『覚悟』が生まれ、その『覚悟』とは即ち人類の『幸福』であるとプッチ神父は説いた。しかし、そのプッチ神父の「自分が悪だと気づいていない最もドス黒い悪」は、最終的に主人公の徐倫たちが残した最後の『希望』によって破られることになる。しかし、このジョジョ6部を読み終えた時、誰しもが一度は思ったであろう事がある。それは「プッチ神父が唱えた思想は果たして本当に邪悪であり、本当に間違いであったのか」ということ。

その疑問に対する一つの答えという名の『メッセージ』が、日本では今年の5月に公開されたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督のばかうけ映画『メッセージ』の中で解き明かされたのである。僕はこのばかうけ映画を初めて観た時、ノーランの『インターステラー』を初めて観た時と全く同じ体験、すなわち「これはジョジョ映画だ!」と、そして「ジョジョ実写化」の伏線が全て繋がったと思った。この『メッセージ』にもSF映画の金字塔である『コンタクト』からの影響を伺わせるオマージュ(北海道)やギミック(素数,カルト教団の焼身自殺)が多々あるのだが、先ほどの『インターステラー』は重力および相対性理論などの物理学および科学的要素をはじめ、オカルト/ホラー的な映画の「ガワ」を司るギミックの面でジョジョ6部に直結すると書いたが、この『メッセージ』は物理学や科学を応用したSFモノではなく、一種の「運命決定論」あるいは「宿命論」などの思想的な内面を描き出した、つまりジョジョ部のプッチ神父が唱えた「人は運命を知ることで幸福になれる」つまり「覚悟こそ幸福」という、ジョジョ6部では「間違ったもの」として主人公たちに「否定」された思想を、このヴィルヌーヴはこの『メッセージ』の中で一転して「肯定」するような描き方がされている。

この映画とノーランの『インターステラー』に共通するのは、【They=彼ら】の存在、すなわち「未来人」であり、しかしその「未来人」の描き方というか正体がノーランとヴィルヌーヴではまるで違う。ノーランは【They=彼ら】の正体を『未来の人類』であると抽象的に描いたが、このヴィルヌーヴは【They=彼ら】の正体をタコ足(七本)の宇宙人みたいなビジュアルで描き出している。

【彼ら=ヘプタポッド】の文字言語解読のために言語学者の第一人者であるルイーズは奔走する。ばかうけ宇宙船に乗ったイカ足のヘプタポッドは、3000年後に人類から助けられるために贈り物という名の「武器」を人類に提供しに来たという。その「武器」とは「言語」だった。それは円状の形をした未知なる文字。それは表意文字で、そのロゴグラムには「時制」の概念がないと、その非線形の文字には時系列はないと判明する。ヘプタポットは『時』を超越した存在であり、ヘプタポットの言語を理解することでルイーズ自身もその『時』を超越した存在へと近づき、徐々に彼らと同じ感覚で『時』を理解できるようになる。

ヘプタポットはルイーズという1人の人間(ヒューマン)を選別し、そしてルイーズは自らの運命を受け入れた。一方でプッチ神父はそれを全ての人類に強要したのだ。ルイーズは自らの運命を肯定し、それすなわち「娘の死」を肯定することであり、そのルイーズの『覚悟』とプッチの『覚悟』には天と地ほどの差がある。同じ「運命論」であるにも関わらず、なぜルイーズの『覚悟』は人類に受け入れられ、一方でプッチの『覚悟』は人類から「否定」されたのか。その答えは、映画の最後でルイーズが未来の夫に対して言った言葉が全てで、それは「この先の人生が見えたら、選択を変える?」という「運命決定論」を象徴するセリフだった。「決定」された「娘の死」まで全てを受け入れたルイーズの覚悟と非情な運命は、私利私欲のために人類にそれを強要したプッチとは真逆の『勇気』と『覚悟』があった。自らを「人間を超越した存在」であり『神』すなわち「未来人」であると勘違いしたプッチには、人間の気高さや清らかな美しさ、人間の心の強さや人を愛する心、そして人間が持つ『正義』の心は、『悪意』そのものであるプッチには永遠に理解できないだろう。つまり、プッチは「正義」の心を持つ人間に敗北する『運命』を背負っていたのだ。

将来自分の娘が病で亡くなってしまう事を知りながら、つまり全てを知りながらも自らの決定された未来とその決定された運命を全うするルイーズの存在は、一種の未来人であり、そういった意味では『インターステラー』と全く同じ【They=彼ら】の正体は未来の自分であると解釈できる。つまり、ジョジョ6部のディオの骨から生まれた緑色の赤ちゃんこそ、『メッセージ』で言う所の地球外生命体ヘプタポット的な立ち位置(宇宙人)として解釈可能だし、その緑の赤ちゃんというヘプタポット=『未来人』に取り込まれたプッチ神父『メイド・イン・ヘブン』を発動し、1人の『未来人』すなわち『神』として「人は運命を知ることで幸福になれる」という幸福論を人類に説き伏せようとしたのである。改めて、この『メッセージ』では運命論を「肯定」する描き方をしているのに対して、ジョジョ6部ではその運命論を「否定」して描いている。やっぱ6部を完全に理解することは難しいと改めて思うのは、ジョジョ6部ではヘプタポットの役割を担っていたのはラスボスのプッチ神父という「倒すべき敵」であり、決して「肯定」してはならない存在であり、もしもその思想が「正しいもの」であっても、ジャンプ漫画ではラスボスの思想あるいは信条は全て「否定」=「拒否」されなければならないのである。しかし、作者の荒木飛呂彦は「敵」に未来人の思想を植え付けるという、今考えてもトンデモナイくらい意地悪なことやってのけてて、そらジョジョ6部を理解できるやつなんて(少なくとも完結した当時は)誰一人としていねーっつうか、もし居るとしてもそれはクリストファー・ノーランドゥニ・ヴィルヌーヴ荒木飛呂彦『メッセージ』の基となった短編小説「あなたの人生の物語」の原作者であるテッド・チャンくらいだろう。ここでテッド・チャンの名前が出たが、ジョジョ6部が完結したのが2003年なので、1998年発表の「あなたの人生の物語」と同じく1997年公開の映画『コンタクト』は、間違いなくジョジョ6部を紐解く上で欠かせない2大コンテンツと呼べるものである。

もう一つ、その『インターステラー』『メッセージ』よりも前に、「日本一のジョジョヲタ」である僕が難攻不落と呼ばれたジョジョ6部を理解する上で参考にした映画がある。その映画こそ、ブリット・マーリング主演の『アナザーアース』だ。僕がティーンエイジの頃にジョジョ6部を読んだ時、プッチ神父が唱える思想や宇宙が一巡する終盤をどう解釈していいのかわからなくて、4回くらい繰り返し読んで初めて一つの解釈にたどり着いた。それは「これは宇宙が再びビッグバンを起こして、地球が2つに分裂したという解釈でいいのかなぁ?」という至極曖昧な答えだった。しかし、結果的にそれはある意味正しい解釈であったというか、その子供の頃に感じたジョジョ6部の解釈を真っ向から肯定するような映画が『アナザーアース』だったんだ。この映画は地球と全く姿形をした「もう一つの地球」が接近してくるという設定の物語で、SF映画好きなら知らない人はいないSF映画界の隠れた名作だ。つまり、その映画にもある多次元世界あるいはパラレルワールド的な世界観は、後の7部の話へと直接的に大きく関わってくる。ちなみに、ブリット・マーリングが主演を務めているNetflixのオリジナルドラマ『The OA』も、いわゆる臨死体験をテーマにしたこれまたSF的なドラマで、なんだろう、ジョジョ5部のブチャラティがディアボロに腹パンされた以降の感覚って、このドラマの臨死体験に近い感覚なんだろうなって思ったし、これも一種の「実写ジョジョドラマ」なのでオヌヌメです。

ここ最近、これはもう実質ジョジョ映画だろっていう映画が本当に多い。2014年に公開されたジェイク・ギレンホール主演の『ナイトクローラー』もその内の一つだ。まずギレンホールが演じる主人公のサイコパスな性格はジョジョ4部の吉良吉影に通じる部分があったし、そして何と言ってもその主人公が作中で突如「恐怖とは~」とか言い始めて、ジョジョの世界でも重要なテーマとなっている「恐怖」について語り始めた瞬間に、僕は「はいジョジョ映画」と言ってこの映画を実写ジョジョ映画認定した。そんな中、日本一のジョジョヲタである僕が考えた最強のジョジョ実写化ってなんだろうと、ふと思い立った時に、まず作品の基礎的な部分でインスパイアされるのは、昨年公開されたニコラス・ウィンディング・レフン監督の映画『ネオンデーモン』だ。まずはそのモデル業界を舞台にしたファッション性で、『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦もファッション雑誌をはじめ、グッチやブルガリなどのハイブランドとのコラボ作品を発表しているし、この映画に出てくる奇抜なファッションとモデルがクロスオーバーしたビジュアルで思いしたのは、以前ジョジョ界隈でも話題を呼んだヘアメイクアップアーティストの原田忠氏がジョジョをオマージュした作品だった。他にも、デヴィッド・リンチ映画にも精通するファッション・シュールな演出やグロテスク/ホラー/サスペンスフルな演出もジョジョ特有の世界観に通じるものがある(勿論、荒木飛呂彦もリンチ作品に影響を受けている)。そして極めつけは、作中で「目玉を吐き出す」シーンが出てくるのだけど、ご存知、「目玉」といえばジョジョ5部の「この味は!...ウソをついてる『味』だぜ...」でお馴染みのシーンだ。そういう面でも、要するに「僕が考える最強のジョジョ実写化」は、ニコラス・レフン監督を迎えて、原田忠氏が監修した『ネオンデーモン』的なビジュアル(美術)をリンチ的なファッション・シュール的な演出で、そしてNetflix資本でジョジョ5部を実写ドラマ化することです。これが実現すれば間違いなく実写化は成功します。だからネトフリ頼む!

面白いのは、ジョジョ6部が完結して10年以上経ってから、クリストファー・ノーラン『インターステラー』ドゥニ・ヴィルヌーヴ『メッセージ』によって、実質『ジョジョ実写映画化』されたことで、逆に言えば、今になって映画化されたSFネタを荒木飛呂彦は14年前に漫画の世界でやっていたという事実に驚愕する。いわゆる「日本一のジョジョヲタ」を自称している僕が「6部推しには負ける」と言うのはここで、ジョジョ6部のSF的な世界観や哲学的な思想は、今や新・2大映画巨匠と呼ばれるまでになったノーランヴィルヌーヴによって初めて「メインストリーム」にアップデイトされたというか、だからこれまでパンピーが「6部好き」と言っても説得力が皆無で、必然的に6部好きはニワカの烙印を押されるようなものだった。しかし、ティーンネイジャーの頃に読んだ時は難しくて理解できなかったジョジョ6部が、完結から14年経ってようやく『理解』できたような、そしてようやく心から「完結した」と呼べる気がした。「何も知らないジョン・スノウ」がジョジョのアニメ化や実写映画化に湧き上がる中、「日本一のジョジョヲタ」である僕はたった一人でジョジョ6部の「完結」に歓喜し、激情し、そして涙していたんだ。

こうやって全てを『理解』して思うのは、やっぱりジョジョ6部って荒木飛呂彦の最高傑作なのかなって。気になるのは、飛呂彦自身が『インターステラー』『メッセージ』を観た時に一体何を思ったのか。恐らく喜んだに違いない、世界最高峰の2大映画監督によって実現したジョジョ6部の実質ジョジョ実写映画化をね。そして、ノーランとヴィルヌーヴが現代の映画界で2大巨匠と騒がれるようになったのとほぼ同じタイミングで、荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』があらゆるメディアミックスをはじめ、「メジャー作品」として認知されるようになったのも、全て荒木飛呂彦という「未来人」の計算通りなのかもしれない。なんだろう、ガチの「天才」って飛呂彦のことを言うんだと思う。つまり、ノーランヴィルヌーヴと同じ感性を持つと証明された荒木飛呂彦、それは間違いなく日本におけるトップクリエイターの1人であることの証明であり、もはや人間国宝に認定すべき人材であると。

おいら、2回目に観て泣ける映画こそ本当にいい映画だと思ってて、この映画『メッセージ』はまさにそれだった。と言うより、少なくともこの『メッセージ』は2回目で初めて理解できる映画だ。1回観た後に2回目を見れば、物語の最初と最後が繋がって一周していることが分かる。2回目からは全然違ったものに見えてくる。オープニングから全てが違った表情で見えてくるし、それと同時にプッチ神父にはないルイーズの『覚悟』に僕は激情したのだ。あたかも「過去」であるかのような映像(フラッシュバック)が実は「未来」だったという演出も、この映画を象徴するとても「意味」のあるギミックとしてあって、まずヘプタポットという『時』を超越した存在を映画の基礎的な部分に落とし込んでいる。また『時』の流れが存在しないヘプタポットの存在を円形文字(言語)として暗示し、そしてルイーズが娘に名付ける名前も「ハンナ(Hannah)」という前から読んでも「逆」から読んでも同じ名前で、そこでもこの映画の『時間』表現を示唆している。

ここで思い出されるものこそ、スティーヴン・ウィルソンTo the Boneである。まるでヘプタポットの円形文字を示唆するように、時計の針一周分の60分ジャストのこのアルバムは、まるで『メッセージ』のように『時』は多面的とばかり、まるで時の流れに縛られて生きる人間と同じく「アルバム」のように1曲目から曲順に時間が流れていくのではなく、それこそ時制の概念がないヘプタポットと同じように、Spotifyのプレイリストのように『時(曲)』を断片的にかい摘んで聴けちゃう、実に「フレキシブル」な作品である。そして、このアルバムに隠された最大のギミックである「逆再生」は、まさに『メッセージ』「ハンナ(HannaH)」と全く同じ事を意味している。僕は以前、相対性理論天声ジングルに対しても「逆再生」できるアルバムであると書いた。その天声ジングルのオープニングを飾る”天地創造SOS”の歌詞を見れば、全てが伏線で繋がっていることが分かる。それこそ『メッセージ』はSOSである。そして、この天声ジングルの最後の曲に「FLASHBACK(フラッシュバック)」が待ち受けているのは、果たして偶然だろうか?この偶然を『メッセージ』のフラッシュバック演出と全く同じと想定すると、自然と面白いものが見えてくる。つまり、『天声ジングル』「逆再生」すると、映画『メッセージ』と全く同じ物語になるのではないかと。この真実(トゥルース)に気づいた時、やっぱりえつこには勝てないと僕は悟った。同時に、これ以上(理解)を進めると「俺の感性」『神の領域』に足を踏み入れてしまうのではと、僕は恐怖する反面、こんなに面白い世界に生まれてなんて幸運なんだとも思った。スティーヴン・ウィルソン≒荒木飛呂彦≒やくしまるえつこは、自らの作品の中でノーランヴィルヌーヴの世界と共鳴させていたのだ。僕はTo the Boneの中で、約10年前にSWと出会った瞬間から、このレビューを書く運命にあると言った。つまり、これは僕が音楽という名の新しい言語を『理解』していく中で、ルイーズと同じように『未来』を予測(フラッシュバック)してたからなのかもしれない。

僕が初めてヴィルヌーヴ監督の存在を知ったのは、2010年に公開された映画『灼熱の魂』だった。この映画は円盤を買うほど衝撃を受けた初のヴィルヌーヴ体験で、しかしまさかその時はヴィルヌーヴが現代映画界を代表する巨匠になるなんて、ましてやこの『メッセージ』でジョジョ6部実質実写化するなんて思っても見なかったし、SF的な観点から言えば、その時から「日本一のジョジョヲタ」である僕はジョジョ6部の実写化その未来を予測していたのかもしれない。勿論、過去にANATHEMAの記事で『ジョジョの奇妙な冒険』ヴィルヌーヴ『灼熱の魂』を共振させたのも後の伏線だったのだ。正直、自分の中でこの『メッセージ』『灼熱の魂』を超える一本になったし、もはや生涯のBEST映画の一本と呼べる作品だった。

ちょっと待って、『ダンケルク』の話どこいった?っていう指摘は全くもってその通りで、それはノーラン自身が「観客を戦争体験に連れて行く」と豪語するように、それこそ昨今流行りの兆しを見せているVRを過去のものにするかの如く、そして『インターステラー』でもこだわり抜かれたノーランの「本物志向」は、戦争映画としての徹底したリアリズムに一役も二役も買っている。正直、ジョジョ6部の実質実写映画化だった『インターステラー』の後に、どうやらノーランの新作が「戦争モノ」だったり「実話」だったり「上映時間106分」だったりするらしいと聞いた時は、「おいおいクリント・イーストウッド化するのはまだ早いぞノーラン」と思ったのだけど、実際にこの『ダンケルク』を観たらその考えは2秒で改まった。物語は、第2次世界大戦に起きた「ダンケルクの戦い」を基にしており、ドイツ軍の電撃戦によってフランスとイギリスの連合軍がダンケルクの浜辺に追い詰められ、そこから脱出を図ろうとする兵士を描いた、言うなれば「撤退戦」である。いわゆる「戦争映画」というと、過去に数々の名作に溢れているが、それらと比較するとノーランが描く「戦争」はまるで違ったもに映った。

荒木飛呂彦の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』が一種の「シチュエーションバトル漫画」とするなら、この『ダンケルク』は一種の「シチュエーション映画」である。前作の『インターステラー』をはじめ、『インセプション』『メメント』などの過去作を観ても分かるように、ノーランは複雑な「時間軸」を映画にハメ込んで観客の頭の中を翻弄する少し意地悪な監督でもある。この『ダンケルク』でも自身の専売特許とも呼べる『時間軸』を応用しているのだが、しかし今回のノーランはメチャクチャ優しい監督に見えた。何が優しいって、開始10分もしない内にこの映画は【陸(防波堤)での1週間】【海での1日】【空での1時間】という3つのシチュエーション(トリプティック)から描かれる映画だよと、わざわざテロップで観客に通達してくれちゃうほどの優しさ。「うわ、ノーランめっちゃ優しい」って。しかし、今回ばかりはその「優しさ」はありがた迷惑でしかなかった。何故なら、ノーランが言う「観客をダンケルクに連れて行く」には、今の自分が置かれた立場(名も無き一兵士)や状況(防波堤で駆逐艦待ち)や戦況(追い込まれてヤバい)を序盤で手っ取り早く「理解」してもらわなければならない。そこはこの映画を理解する上で必要最低限の必須事項である。その「優しさ」は一瞬にして「恐怖」へと変わるのだ。「うわ、ノーランマジこえぇ」って。上映10分で半ば強制的に全てを「理解」させられてしまった観客は、果たして「ダンケルク」から無事に脱出することができるのか?!

もはやイントロからクライマックスだよね。この映画は他の戦争映画と違ってドンパチは一切なし、というか映画の設定的に一方的に撃たれる側、爆撃される側なので、何度も言ってるけど僕は開始直後の銃撃音を聴いた瞬間にその場で死んだふりしたから。それくらい、まず「音響」がトンデモナイ映画だ。自分はIMAXとかではなく普通の映画館で観たんだけど、それでも本物の戦場に放り出されたような錯覚を起こすほど、そのリアリティの極地に引きずり込むような「音響」にド肝を抜かれた。そのいつ撃たれるか分からない「恐怖」、ようやく辿り着いた軍艦がいつ空から爆撃されるか分からない「不安」、ようやく辿り着いた軍艦がいつ魚雷で撃沈されるか分からない「恐怖」、この『ダンケルク』は9割以上それらの様々な「恐怖」がスクリーン一面に充満する戦争映画、と言うより、これはもう一種のサスペンス映画と言ったほうが正しいかもしれない。しかしノーラン映画には、その観客を更に「恐怖」のドン底へと誘う世界最高峰の仕事人が帯同する。その人物こそ、今やノーランの嫁(プロデューサー)以上にノーランを知る人物であり、そしてクリストファー・ノーランドゥニ・ヴィルヌーヴという2大巨匠を繋ぐ存在となった映画音楽界の重鎮ハンス・ジマーである。

今やハンス・ジマーRadioheadとコラボするほど、映画音楽界だけでなく、あらゆる音楽シーンに強い影響を与えている最重要人物の1人だ。この度、ヴィルヌーヴ監督の映画『ブレードランナー 2049』の劇伴を担当するというニュースを聞いた時は、ここで遂に繋がってしまうのかと歓喜したのは言うまでもない。この『ダンケルク』でのハンス・ジマーは、ノーランから観客へ与えられた「恐怖」と同調するように、観客の高まる心拍数を直に煽るような音階を執拗に繰り返し繰り返すことで、緊迫感溢れる本物の戦場で必死に逃げ惑う、極度の緊張感に苛まれた兵士の精神状態へと様変わりさせる。ノーランが持ち前の「本物志向」を徹底させた「視覚」の面で観客を戦場に引き込む役割ならば、相方であるハンス・ジマーは兵士という名の観客を「音」の面から本物の兵士の精神状態へと引き込む役割を果たしている。この二人のコンビネーションは過去作の相乗効果をもたらしている。

また、ノーラン監督自身が『マッドマックス怒りのデスロード』『ゼロ・グラビティ』にインスパイアされたと語るように、劇中のセリフも極端に少なくて、それが逆に戦場のリアリティの向上に拍車をかけている(観客を宇宙に放り込むのが『ゼロ・グラビティ』なら、観客を戦場に放り込むのが『ダンケルク』みたいな)。それに関連して、映画の主人公とされる人物の名前がほとんど最後まで明かされなくて、観客を含めた1人のモブ兵士として扱った映画でもある。つまり、それは名のある英雄=ヒーローではなく、戦場の末端に属する階級の低い歩兵の一員として、そしてこの『ダンケルク』という撤退戦を戦い抜いた全兵士が皆平等に英雄であるという、ノーランなりのリスペクトでもあるのだ。しかし、トム・ハーディ演じる【空】中戦は最後の最後までカッコイイし、まさに映画の美味しいとこどりみたいなカッコ良さで、まさに「英雄」そのものだった。

当然、3つの視点から語られるということは、それぞれの時間軸が重なる瞬間が見せ場となってくるわけで、実際にその瞬間を迎えた時のカタルシスったらなくて、そういう面でもこの映画はドM向けの映画なのかもしれない。実話なんでネタバレもクソもないと思うんだけど、とにかく、やっぱりノーランは期待を裏切らないなと戒められた映画だった。つまり、ノーラン凄い。ハンス・ジマー凄い。俺凄い。

new_DMonAOTU8AAS49D

tricot 『A N D』

Artist tricot
tricot

Album 『A N D』
A N D

Tracklist
1. Noradrenaline
2. 走れ
3. E
4. 色の無い水槽
5. 神戸ナンバー
6. 消える
7. ぱい~ん (A N D ver.)
8. 食卓
9. 庭
10. CBG
11. QFF
12. Break

ガールズ・ロック界のメタリカ ・・・自分の中で、京都発の変拍子大好きスリーピース・ガールズ・ロックバンドことtricotは、先日のライブツアーのチケットを発券したにも関わらず、音源を事前に予習できなかったり平日だったりというしょーもない理由で結局行くのやめたレベルの関心しかなくて、そもそもパンクというジャンルが好きじゃあないので、これからも一生聴くことはないんだろうと思った矢先、最近ようやく1stアルバムのT H Eと約二年ぶりとなる2ndアルバム『A N D』を聴く時間ができて、しかもこれが思いのほか良くて、「あ~やっぱり無理してでもライブ行っときゃよかった・・・」って後悔させるほどの内容なのだ。まず何が驚いたって→今作のリード・トラック担う”E”の冒頭部分が、あまりにもメタリカ”Master of Puppets”の「デッ デッデッデーンwwwwwwwwwwwww」という、あの世界的に有名な冒頭を彷彿とさせたもんだから、僕は思わず・・・

こんな風に↓↓
ベビメタ大好きおじさん

あるいはこんな風に↓↓
ベビメタ大好きおじさん2

・・・まるで"ベビメタ大好きおじさん"ことラーズ・ウルリッヒばりに高らかにガッツポーズしていた。つまり何を隠そう、メタリカがヘヴィメタルにパンクを持ち込んだ偉大なバンドならば、このtricotは日本のガールズ・ポップに80年代初期スラッシュ・メタルのハードコア・パンク精神を持ち込んだ偉大なバンドなのかもしれない、ということ。
 


デッ デッデッデーン ・・・この『A N D』は、1stアルバムT H Eのように初期衝動的な勢いで最初から最後まで青臭く駆け抜ける作風ではなくて、想像した以上にアレンジ面に力を入れたアルバムとなっていて、これぞヘタウマな中嶋イッキュウの刹那的な爆裂ボーカルをはじめ、キダ モティフォの俄然マスロック/ポストハードコア然としたリフ回し、ヒロミ・ヒロヒロによるガチ恋不可避なベースプレイ、そしてプログレ度マシマシな楽曲展開まで、ありとあらゆる面でバンドの進化と個人の成長が著しい作品となっている。で、オープニングを飾る#1”Noradrenaline”こそ1stアルバムの流れを素直に踏襲した、持ち前のコーラスを駆使した比較的ストレートな疾走感溢れるセカイ系の青春パンクではあるが、次の”走れ”以降はtricot"進化"をまざまざと見せつけられる事になる。この”走れ”は、1stアルバムの中でも一際異彩を放っていたトリコ屈指の名曲”art sick”を彷彿とさせるリヴァーヴィな雰囲気とオルタナティブ/アート・ロック的なアレンジが光る曲で、イントロからヒロミ・ヒロヒロのガチ恋不可避な妖しいベースが冴え渡り、特に2:13秒の不意をつくベースの絶妙な入り以降に繰り返されるミニマルな曲展開は、トリコの魅惑的な作曲センスと"Post-Progressive"に対する意識の高さを伺わせるし、同時に1stアルバムとの明確な違いと着実な進化を確信づけるような一曲と言える。で、例の「デ...デッデッデーンwwwwwwwwww」を合図に、トリコ流のマスパペやってのける”E”では、トリコの純粋な変拍子愛を適度な緊張感とタイトな疾走感を伴って爆発させる。俄然ポストハードコア然としたリフ回しでノリよく展開する”色の無い水槽”相対性理論”品川ナンバー”ならぬ”神戸ナンバー”では、一転してイッキュウの「アタシ超サブカルkawaii」アピールがウザいくらいに光るシティ・ポップ的な一面を垣間見せ、そして再びさり気ないアレンジや予測不能な展開力を発揮する”消える”で前半の流れを締めくくる。

スティーヴン・ウィルソン
スティーヴン・ウィルソン・・・「WOW!! I Like Ikkyu Nakajima. Welcome to Kscope!!」

中嶋イッキュウ
中嶋イッキュウ・・・「Kyaaaaaaa----(照)」 

   ぼく
ゲスニックマガジンの西条・・・「OK. I Like Hiromi Hirohiro」

ヒロミ・ヒロヒロ
ヒロミ・ヒロヒロ・・・「No Thank You」

キダ モティフォ
キダ モティフォ・・・「LOL」

   ぼく
ゲスニックマガジンの西条・・・「LOL」 

おっぱい~ん ・・・ここまではtricotの持ち味を活かした楽曲が続いたが、しかしこの『A N D』がより面白く、トリコの"進化"が顕著に表れるのは後半からで、まずジャズィでエレガントなピアノを大胆に取り入れ全面にフューチャーした”ぱい~ん”は、一瞬スティーヴン・ウィルソン”Luminol”が始まったのかと錯覚するレベルのスリリングなドラミングへと繋がる幕開けから、再びトリコのArt-Rock/Post-Progressiveに対する見識の広さを垣間見せ、そして1stアルバムの”おちゃんせんすぅす”の流れを汲んだ、ジェント/フュージョン然としたオシャンティーなアプローチを効かせた”食卓”までの流れは今作のハイライトで、そのセンスフルなアレンジ力およびユニークな作曲能力の高さを実証している。で、一転して「サンバ!」という掛け声を合図に、中嶋イッキュウがシュールなリリックを激しくまくしたてながら、リズミカルなサウンドにノッてロキノン系キッズがバカになって踊り狂うような”庭”は、それこそ自称"非・踊らせ系"がメジャーな大衆性を帯びたイマドキの踊らせ系に擦り寄った一曲で、一種のヌー・ロック的な曲調は面白いけど、このロキノン系みたいなノリだけは賛否両論ありそう。なんかもう「もうどうにでもなれ」感すごい、エモい。で、一際バッキングのコーラスがカッコイイ”CBG”、雰囲気のあるスロー・バラードかと思ったら後半からピアノを使って軽快にテンポアップする”QFF”、そしてシングルの”Break”まで、後半の曲は新機軸とも取れる流行りのノリやオシャンティーな雰囲気重視の曲が中心で、持ち前の粗暴な勢いは少し抑えられて比較的ゆったりと"音楽的"に"曲"を聴かせにくる。


プログレ界のBABYMETAL ・・・光の戦士こと南條愛乃やBSニュースの堤真由美キャスター、そして中嶋イッキュウみたいなこの手のダメ男にDVされてそうな絵面が似合う、俗にいう"DV映え"する顔に弱い男って僕だけじゃないと思うのだけど(中嶋イッキュウが可愛いという風潮)、その中嶋イッキュウが自身で赤い公園ファン担当と謳っているだけあって、初期の赤い公園をはじめ椎名林檎や初期の凛として時雨ライクな少しシニカルな雰囲気もあるのだけど、それこそ1stアルバムの『T H E』赤い公園の通称をリスペクトしたような、時にシュールに、時にカオティックに、時にエモーショナルに、時にションベン臭い青春パンクみたいな、ちょっとサブカル入った特に珍しくもない音楽性で、なんというか初期の赤い公園を洋楽視点で捉えるとこうなる、みたいな雰囲気すらあった。しかし、メンバーの技量的にも音的にもまだまだ未熟な所が多々あって、執拗に騒がれるようなバンドではなかった。で今作、衝動的な勢いに身を任せて、やりたいことが明確化していた1stアルバムとは違って、何を血迷ったのか結構突拍子もない事やってる、悪く言えば流れもクソもない阪神タイガースの打線ばりにチグハグでまとまりのないアルバムなのだけど、でもそれはドラムが辞めて解散一歩手前の危機的状況を打開するための、バンドの可能性を模索し色々と試行錯誤した結果と思うので、これはこれで納得できるし、むしろ逆に"もがいてる"感あってスゲーエモいです。だから完成度という点では『T H E』の方が上だし、本能的というより理性的、しかし野性的なのは相変わらずだが、持ち前の粗暴な勢いは抑制されてリズム重視の作曲意識が強く、同時にトリコの一つの魅力だった"エモさ"も減ったが、今作での中嶋イッキュウは"ボーカリスト"としての自覚が芽生え始めているし、その表現力は幾倍にも増している。個々の技量的な意味でも楽曲のアレンジ的な意味でもその成長は顕著だ。しかしまだアレンジの単調さは否めないし、あらゆる面で成長段階といった感じだが、”走れ””消える”のような聴き手の意表を突く予測不能な曲展開だったり、おっ”ぱい~ん””QFF”で聴けるようなアート志向の強いピアノの導入だったり、とにかく”Post-Progressive”然とした作曲センスに終始驚かされっぱなしで、正直ここまで次作への期待がかかるバンドは他にないってくらい、クソ面白いアルバムだと思う。もしこの流れでメジャー行ったら絶対に面白くなるというか、むしろトリコみたいなバンドが、逆にこういうバンドこそメジャーに行って化けるパターンを期待したい。同時に海外からも注目を集めるトリコだが、そろそろKerrang!あたりに取り上げられて、ダウンロード・フェス参戦からのKscopeデビューして欲しいと思っちゃったんだからしょうがない。そしてガールズ・バンド初のDjentやって欲しい。というか、これはマジにメタリカのマスパペカバーして欲しい。まぁ、それは冗談として→海外メディア的にはメルトバナナの後釜にしたい所だろうし、今後の海外展開の行末も俄然楽しみでしょうがない。目指すは"プログレ界のBABYMETAL"だ!

   ぼく
ゲスニックマガジンの西条・・・「おいイッキュウ!トリコは”art sick”みたいな曲も書けるのが強みだって事を忘れるんじゃあない!」 

中嶋イッキュウ
中嶋イッキュウ・・・「庭には二羽のニワトリが踊り続けた!庭には二羽のニワトリがずっとそこで踊り続けた!」 

   ぼく
ぼく・・・「庭には二羽ニワトリがいる!庭には二羽ニワトリがいる!」 

超えちゃいけないライン ・・・驚いた。こんな"音楽的"に面白いバンドやったのかと、聴かず嫌いしていた以前までのイメージとのギャップに驚いた。これは昨年に赤い公園の名盤猛烈リトミックを聴いた時と同じ体験、というかデジャヴだった。その猛烈リトミックのレビューの中で→「僕はtricotなんか聴かない(キリッ)」とか発言してからほんの数ヶ月でトリコの虜になってて笑う。それでは、この『A N D』赤い公園『猛烈リトミック』に取って代わるような名盤かと聞かれたら、その答えはノーだ。このアルバムを聴く限り、中嶋イッキュウ赤い公園の1stアルバム公園デビューが相当好きなんだろうという事が伝わってくる。でも次作の猛烈リトミックで露骨に大衆性を帯びたメインストリーム向けのサウンドに舵を切った事で、初期赤い公園からの影響をモロに受けている中嶋イッキュウは一体ナニを思うのだろう。しかし、この『A N D』から漂う"わてメジャー行きたいどす感"は、どちらかと言えば最近メジャーに行ったきのこ帝国フェイクワールドワンダーランドのソレに近くて、そのフェイクワールドワンダーランドと同じでこの『A N D』は別に”売れなきゃいけないアルバム”ではないけど、恐らく次のアルバムでは"売りにくる"と予測できる。名盤『猛烈リトミック』に習って次作で化けるかどうか、その可能性とバンドのポテンシャルは今作で十二分に証明している。そこでようやくDV中嶋津野米咲とタイマン張れるレベルになるんじゃあないか?だからこそ、このトリコには"エモさ"を忘れたロキノン厨もといニワトリのようなバカにはなって欲しくはないんだ。今後、もし”庭”みたいなロキノン厨に媚びを売るような方向に行ったら、こいつら本当に終わりだと思う。前作の”art sick”を取るか今作の”庭”を取るか、はたまた”超えちゃいけないライン”に入るか、、、色々な意味で今後のトリコに目が離せない。

めちゃ後悔だよなぁ

tricot×sukekiyo ・・・おいら、バンドで一番重要なパートってドラムだと思ってる人で、それこそtricotのドラムが辞めたって風のウワサで聞いた時は、リアルに「こいつら終わったな」って思ったのだけど、どうやらこの『A N D』を聴く限りでは余計な心配だった模様。今作、脱退したドラムに代わって五人のドラマーがゲスト参加していて、そのドラマー陣がまた良い仕事してます。相対性理論との仕事でも知られる千住宗臣氏やex-東京事変で現ニートの刄田綴色氏をはじめとした豪華なメンツの中でも、凛として時雨TKがリミックスしたsukekiyo”zephyr”でドラムを叩いてるBoBo氏が#3#7で叩いてるとのことで、まさかこんな所でsukekiyoと繋がるとは思ってなかったし、とにかく人脈および人選が無駄に面白かった。どうせだからsukekiyotricotで対バンして欲しいと思っちゃったんだからしょうがない。それこそ【変態男VS.変態女】みたいなノリで、頼むぜン゛ギョウ。ともあれ、変拍子とかいうどうでもいいようなギミックに頼らず、この『A N D』で純粋に楽曲で勝負しにきた、しかしそこにはまだ未熟な部分や課題も沢山あるが、ドラマー脱退という鬱屈した状況を打開しようとあらゆる方向性と多方への可能性を模索しながら、ガムシャラにもがき苦しみながらも攻めに攻めてきたトリコに僕は盛大な拍手を送りたい。少なくとも今年のガールズ・ロックでは、ねごとVISIONと並んでマストアイテムです。ちなみに、僕はDV中嶋よりもベースのヒロミ・ヒロヒロ派です(ヒロヒロ派ならシングルカップリング曲の”ダイバー”は必聴です)。
 
A N D 【初回限定盤】2CD仕様
tricot
SPACE SHOWER MUSIC (2015-03-18)
売り上げランキング: 2,607

Steven Wilson 『Hand. Cannot. Erase.』

Artist Steven Wilson
Steven Wilson

Album 『Hand. Cannot. Erase.』
Hand. Cannot. Erase.

Tracklist

01. First Regret
02. 3 Years Older
03. Hand Cannot Erase
04. Perfect Life
05. Routine
06. Home Invasion
07. Regret #9
08. Transience
09. Ancestral
10. Happy Returns
11. Ascendant Here On...

『パーフェクト・ライフ』
 
私が13歳の時、6ヶ月間だけ姉がいた

彼女は2月のある朝にやって来た
顔は青く、精神も病んでいた
過去に何があったのか、私には想像もつかない

彼女は私より三歳年上だった
だけど、私たちはすぐに意気投合した

二人で彼女の作ったミックステープを聴いた
デッド・カン・ダンス、フェルト、ジス・モータル・コイル...

彼女はお気入りの本を紹介してくれた
洋服もくれた、そして初めてのタバコも

時にブラックバースの湿原まで繰り出して
夕暮れ時のグランドユニオンで船を眺めた

彼女は言った「水には記憶がないのよ」

数ヶ月の間、私たちの暮らしは
あらゆる面で完璧だった

いつも二人きり、決して離れることはなかった

その年の暮れ、両親が離婚し
姉は家族と共に
ドリスヒルの新しい家へと移った

一ヶ月ほど死にたい気分に陥った、毎日彼女を恋しがった

だけど時が経つに連れ、
彼女は私の記憶の彼方へと追いやられていった

やがて私は彼女の顔も声も、名前さえも思い出せなくなった

スティーヴン・ウィルソン ・・・この人もなかなか"したたか"な人で、いったいナニが"したたか"って、彼が主宰するPorcupine Treeが2009年に賛否両論を呼んだ問題作『The Incident』をリリースした直後に、まるで図ったようにPT活動停止からのソロ活動開始という計画的な流れを目にすると、もはやソロがやりたいがために意図的に"あの駄作"を作ったんじゃねーかって、この時スデにSWの意識はソロ一色に染まっていたのかと邪推したくなるほどで、そのようにして如何に彼が"したたか"な人間であるのかが分かるハズだ。で、そんなスティーヴン・ウィルソンの約二年ぶり通算4作目となる『Hand. Cannot. Erase.』は、奇しくもAcid Black Cherryの4thアルバムL -エル-のコンセプトとリンクするような、DV男から逃れるも最悪の状況が重なって悲劇的な死を遂げた、ジョイス・キャロル・ヴィンセントという一人の女性の壮絶な人生にインスパイアされたコンセプト・アルバムとなっている。そして自身で「これまでの僕のキャリアすべてがこのアルバムに詰まっている」と語るように、本家のPorcupine Treeは元より、No-Manをはじめとした数多くのサイド・プロジェクトや70sプログレジェンド作品のミックス稼業、そしてOPETHANATHEMAなどのプロデュース&ミックスから、しまいにはカバー・アルバムまでを含むSWの音楽人生すなわち生き様が余すことなく凝縮された、現代プログレッシブ・ミュージック界の頂点に君臨し続けるSWの集大成と位置づけられる一枚だ。

『DV男はプログレ好き』 ・・・その言葉どおり、SWがプロデュースを手がけたOPETHの名盤『Blackwater Park』から”The Leper Affinity”のアウトロを彷彿とさせるピアノ・メロディと子供が戯れ合う和やかな情景を描写するSEが織りなすインストの#1”First Regret”から、このケータイ小説DV男はプログレ好き』は静かに幕を開ける。そしてスケール感のある神聖な幕開けから、PT『In Absentia』を想起させる爽快感溢れるアコギを合図に始まる#2”3 Years Older”は、いわゆる"SWバンド"として二作目にして早くも貫禄を伺わせる、俄然タイトで堅実的な"バンド・サウンド"を打ち出していく。その"バンド・サウンド"からなるダイナミックな"動き"と、SWのボーカルおよびコーラス/ハーモニーとアコギとピアノ/メロトロンからなる"静寂"的なパートがスリリングに交錯し、ドラマーの千手観音超人ことマルコ・ミネマンを筆頭にまるで『MGS3』のコブラ部隊顔負けの変態おじさんで編成された各メンバーの"プロフェッショナル"な見せ場(ソロパート)を与えながら、そのプロフェッショナルな音と音が激しく鬩ぎ合う終盤の鬼気迫るインストパートは、前作から続く”SWバンド”としての集大成であると同時に、SW本人は幻影旅団を指揮する団長さながらの統率力を発揮している。要するに→ソロ二作目や三作目の音をイイトコ取りして素直に再構築(アップデイト)したようなSWサウンドから持ち前の曲構成まで全てがプログレ然とした曲で、言うなれば"SWバンド"としてPT『Lightbulb Sun』あたりの夕立のように淡い音像を再現していく。その”3 Years Older”と表題曲の”Hand Cannot Erase”が導き出すキーワードこそ”ポップ”という言葉で、もはや1stアルバムInsurgentesと同じバンドとは思えない(明確には同じではないが)、SWソロ史上最も”ポップ”な曲を表題曲に冠した意味、あの日見た”ポップ”な意味を僕達はまだ知らない。

suke

【V-kei × Post-kei】 ・・・この構図から細かな配色(橙色の使い所とか本当に凄い)まで...偶然にしてはあまりにも奇妙な偶然の一致で、しかし僕は既に日本のビジュアル系とUK発祥の"Post-系""親和性"を見出し始めていて、その漠然とした考察は”Perfect Life”とかいう今作のリードトラックを耳にした瞬間、確信的なナニカへと変わった。僕は以前から、SWと深い関わりのあるANATHEMAとV系界の頂点であるX JAPANな存在だと思っていて、例えばANATHEMAの曲に”THE LOST SONG”という曲が、奇しくもX JAPANにも”THE LAST SONG”という曲があって、ほぼこじつけに近いけど独りでに面白いと思っちゃったんだからしょうがない。で、結局ナニが言いたいかって、この”Perfect Life”の物思いに耽る女性の語り口調が完全にX JAPAN”THE LAST SONG”YOSHIKIの語りに瓜二つで驚いた、と同時に日本のV-keiとUKのPost-keiの親和性、および関係性に対する信ぴょう性がほんの少しだけ増した気がした。その意味深な語りは、今作の"コンセプト"を聴き手に意識づける重要な鍵を握っているが、その曲調としては→エレクトロな打ち込みやオルタナティブ流れのモダンな音使いとポストロック的な極上のミニマリズムもって、リリカルかつノスタルジックなSWワールドを繰り広げていく。語り部がメインであるのにも関わらず、シッカリと一つの楽曲として成立させるSWの作曲センスにはぐうの音も出ない。ところで、ANATHEMAの9thアルバムDistant Satellitesにも打ち込みを擁した実験的な楽曲が見受けられたが、まさにそのANATHEMAに対するSWからの回答であるかのような曲で、もはや"ポスト-ミュージック"とは一体なんたるか?を、常に"ポスト-"界の第一線に立ち続けるSW自身で再確認するかのような、いわゆる"俺の界隈"代表取締役社長兼CEOがソレを直々に実演して見せている。ANATHEMAの一歩先を行くのは、やはりこのスティーヴン・ウィルソンだった。つうか、今話題の同性婚をテーマにしたようなこのMVに出てる女の子、SWに似すぎ問題。隠し子かもしれない問題。

 

コンセプト・アルバム ・・・しかし"偶然の一致"は、それだけじゃあない。日本のビジュアル系ロックバンド、Janne Da Arc林保徳ことyasuのソロ・プロジェクト、Acid Black Cherryの4thアルバム『L-エル-』もエルという一人の女性の波瀾万丈な人生を綴ったコンセプト・アルバムで、その『幸福』『不幸』が激しく交錯するコンセプトや2月25日の同日リリース、そして同じソロとして"4thアルバム"という部分も"偶然"にしては面白い一致だ。こんなこじつけがましい事に一喜一憂してるのは世界でもただ一人だろう。で、本作『Hand. Cannot. Erase.』のコンセプトを象徴するような曲が五曲目の”Routine”という曲で、遂にSWも近年ANATHEMAの圧倒的なクリエイティビティに触発されたのか、この曲ではイスラエルの女性シンガーNinet Tayebをゲストに迎え、今作の主役であるジョイスの張り裂けそうな想いを代弁するかのような、美しくもありどこか悲しげな表情を見せる女性ボーカルと、SWの"とある嗜好"が露わになるレオ・ブレア君というCardinal Vaughan Memorial School所属のボーイ・ソプラノによる天使さながらの神聖なショタボイスに引き寄せられ、ある種の狂気にも似た陰影が忍び寄る・・・。驚いたのは、あのSWバンドの珍獣たちが調教された子猫のように一人の演者として曲に注視していて、この曲の見せ場であるケタタマシク鳴り響く鍵盤を従えたSWバンド・サウンドと共に、人々の目から逃れるようにして暗い部屋で赤黒い涙を流しながら独り絶望するジョイスの悲しみ、その激情的な想いが込められたNinet Tayebのエモーショナルな歌声、そして怒りと狂気が爆発する魂の叫びを耳にした僕は只々脱力するしか、僕には「ごめんよジョイス・・・ごめんよ・・・」と泣きながら懺悔するしかできなかった。その天をも貫くスクリームからアウトロへの繋ぎは本当に見事で、ジョイスの置かれた危機的な状況からイメージされる様々な想いや感情が、そして悪夢がそよ風と共に過ぎ去っていき、天使の囁きの如しクアイヤと共に清々しい夜明けを迎えるようだ。まるで日常と非日常が静寂と狂気の狭間で揺れ動く、ジョイスという一人の女性の悲劇と人間世界の光と闇を深裂に、しかし美しくも残酷に描き出していく。この曲は、ジョイスという一人の女性の人生に起こった怒りと悲しみ、希望と幸福が百花繚乱に入り乱れた今作のコンセプトを集約している。この曲のSWは、総合演出家としてほぼ裏方に徹している。

もう一つのルーツ ・・・このスティーヴン・ウィルソンといえば、YESPink FloydKing Crimsonなどのプログレジェンドをルーツとするアーティストとして知られるが、今作の”Home Invasion””Regret #9”という組曲では、往年のプログレだけではなく70sや80sのクラシック・ロックからのルーツを披露している。まずは前編の”Home Invasion”では、「悪夢はまだ終わらない」とばかりStorm Corrosionばりに陰鬱でミステリアスなイントロから、DIR EN GREY”Unraveling”あるいはLeprousを連想させるいわゆる”Post-Djent”なモダン・ヘヴィネスを垣間見せ、その流れでSWがミックスを手がけたOpethPale Communionから”Goblin”に通じるレトロフューチャーなハモンド・オルガンやSWのファンキーなボーカル・アレンジまで全てがヴィンテージな匂いを醸し出していく。中期PTっぽいアンニュイなフレーズは、森は生きているの岡田君が好きそうな感じではある。繋がって始まる後編の”Regret #9”は、初期PTを彷彿とさせるスペーシーなシンセのソロパートをメインに、後半からはGuthrie Govanによる往年のクラシック・ロック系ギターヒーロー顔負けのドラマティックなギター・ソロを披露してみせる。まさにSWのクラシック・ロックオタクっぷりが炸裂したような曲で、その感動的なGソロを名残惜しむようなアウトロのバンジョーの音色がまた一際ノスタルジックに演出する。で、昨年にカバーアルバム『Cover Version』をリリースした意味を知る事ができる、アコギ一本で繰り広げるシンプルなフォークソングの”Transience”で中盤の流れを締めくくる。

キッズ・ノーリターン ・・・スティーヴン・ウィルソン、彼が長年のキャリアの中でここまで感情を露わにしたことが過去にあっただろうか?今作のコンセプトを担う先ほどの”Routine”では、SWはあくまでも裏方として徹していたが、その曲のアンサーソング的な立ち位置で今作のハイライトを飾る”Ancestral”では、裏方ではなく一人の演者として、一人の主演として自らの役目を果たしている。なんだろう、自分にしか興味のないオタクが初めて他人の人生を客観的に捉え始めたような、それぐらいオタクの本気と書いてマジを見せつけるこの曲は、再び女性ボーカルのNinet Tayebを迎え、まさにSWソロ後期PTのヘヴィ路線の集大成であるかのような約13分の大作ナンバーで、中でもクライマックスを飾る終盤のメタリックなヘヴィネス、デレッデレ♪みたいなメロデス感のあるアグレッシヴなリフの応酬はもの凄くスリリングかつエキサイティングで、メタリックはメタリックでもヘタにOpethみたいなプログレッシブ・ヘヴィ真似ちゃった結果の駄作だったThe Incidentではなく、それ以前の傑作『Fear of a Blank Planet』や名盤『Deadwing』の流れにある一種のヘヴィロック的なヘヴィネスって所がポイント。正直、今のSWが"この音"を作れるなんて微塵も思ってなかったから、やっぱSWってスゲーわってなったし、あらゆる場面で”あの頃”のSW(PT)を再現したある種のパラレルワールド的なアルバムと言えるのかもしれない。でも何故か『The Incident』らしき音が一切ないのはお察しのとおりで。そして→「指うめえ!」・・・あの日舐めた指の味が帰ってくる・・・。ここまではジョイスという女性の壮絶な人生を痛々しいまでに描き出してきたが、一曲目の”First Regret”のピアノを引用したフレーズで始まる”ハッピーターン”ならぬ”キッズ・ノーリターン”ならぬ”Happy Returns”は、SWのトゥル~ル~ル~ララ~♪とかいうゆるふわ系のコーラスや壮麗なストリングス、そしてSWがプロデュースしたANATHEMAWe're Here Because We're HereあるいはAlcestを連想させるポストロッキンなミニマリズムと黄金に輝くエピカルなフレーズが織りなす、それこそSWから黄金界隈に対する回答であるかのような一曲だ。こうしてジョイスの魂は呪い(ANATHEMA)から解放され、彼女は子供の頃の無垢な姿に新しく生まれ変わり、そしてJulianna Barwickばりの天の使いが舞い降りてくるアウトロ(#11)のクワイヤとともに、何ひとつの苦しみもない清らかな天国へと、まだ彼女に確かな未来があった時代の思い出を抱きしめながら天国へと旅立っていく。『パーフェクト・ライフ』という名の明るい『未来』を夢見たジョイスの魂は救われたのだろうか・・・?きっとそうだと信じたい。

集大成 ・・・SWの言うとおり、この言葉以外ほかに必要ないです。SWの人生がありのまま素直に詰まった傑作だ。エレクトロを擁したモダンな音とクラシックな音が、まるでSWの過去と現在を紡ぎ出すようにクロスオーバーしている。なんというか、クラシック・ロックオタクとしてのSW”Post-Progressive”の伝道者としてのSWを両立させなきゃいけない、現代プログレ界の先駆者としての使命を全うしている。やっぱり今作のクレジットからしても、SWが手がけたOpethPale Communionからの影響が顕著に現れていて、そもそも『Pale Communion』自体が過去のOpethを再構築した作風で、つまり再構築という意味ではこの『Hand. Cannot. Erase.』はSWの全キャリアを咀嚼し再構築した、デビュー間もないバンドには出来ない人生を賭けた壮大なスケールの作品と言えるだろう。でもSWがホントにスゲーのはそこじゃあなくて、過去のキャリアをソロバンドという枠組みの中で器用に再現しつつ、かつシッカリとコンセプティブな作品として両立させるその能力値の高さで、もうなんかSWの才能枯れなさすぎて笑っちまうというか、もうこれSWの遺作でイイんじゃねーかってレベル。もはや今のSWは人生のハイライトを迎えようとしているのかもしれない。しかもネガティブなコンセプトを題材にしているのにも関わらず、表題曲に過去最高に"ポップ"な曲をあてがったり、音自体は中期PTをイメージさせるくらいに”ポップ”だ。しかし過去最高に”ヘヴィ”でもある。”ポップ”だとか”ヘヴィ”だとか、”デジタル”だとか”アナログ”だとか、”明るい”とか”暗い”とかどっちがどっちというわけでもなくて、そういった型にはまらない姿勢という意味では、彼は本当の意味で"オルタナティブ"な存在であり続けるのかもしれない。兎に角、これまでにSW”与えたもの””与えられたもの”が時空を超えて一つに巡りあった感あって、その”与えられたもの”の中でもANATHEMAの存在は大きくて、最近のANATHEMAに触発されたのか、この『Hand. Cannot. Erase.』でもストリングスや女性ボーカルを大胆に取り入れており、そして「あれ?もっと感情的になってDVしてもいいんだ!」みたいな、それくらい感情的なエモーションに溢れている。なんだろう、ANATHEMAの曲は感情の限界突破した先にある莫大な多幸感をもって『メイド・イン・ヘブン』へとブチアゲるなら、このSWはあくまでも静寂の中で幸福と狂気を平等に、かつ現実的(リベラル)な描き方をしている。ストリングスや女性ボーカルの起用法にも明確な違いがあって、ANATHEMAはバンドの主役を担うくらいの存在感を持たせる一方でSWはあくまでも演出的かつ演劇的な、いかにも"オタク"らしい奥手な使い方を特徴としている。この現代プログレ界を牽引する二大アーティストは、進む方向は一見同じように見えて実は対をなす存在なのかもしれない。要するに、ヒキコモリのギークが一歩前に踏み出した結果の、あの1stアルバムに匹敵する名盤です。

SW≒飛呂彦 ・・・おいら、SWが本当の意味で"ソロ"やってたのって1stアルバムのInsurgentesだけだと思ってて、広義の意味で言うなら2ndアルバムのGrace For Drowningまでで、それ以降というか3rdアルバムThe Raven That Refused To Sing (And Other Stories)からは"SWバンド"という認識で、その3rdアルバムは超人的かつ変態的な技術力をフル稼働させた"プログレの押し売り"みたいなアルバムだったが、今回はSWバンド体制のまま1stの頃のオルタナ感や2ndのソフト&ウェットな湿り気のある音像に回帰している。前作で呼び寄せた珍獣をいともたやすく飼い慣らせるのは奇才たる所以か。おいら、前作の時も書いたんだが、SWと『ジョジョの奇妙な冒険』の荒木飛呂彦はの存在だと思っていて、僕がナゼ荒木飛呂彦とyasuをリスペクトしているのか、この『Hand. Cannot. Erase.』はその二人を繋ぐ架け橋がSWだという証明、そんな気がしてしょうがなかった。いつだってSWは、僕たちにクリエイティブ!!に大切なことを教えてくれる。それは荒木飛呂彦だって同じだ。したがって飛呂彦の漫画術が赤裸々に語られた新書『荒木飛呂彦の漫画術』を読みませう(いともたやすく行われるえげつない宣伝)。ちなみに、Acid Black Cherry『L -エル-』とこの『Hand. Cannot. Erase.』を合わせて聴くとガチでヘラる恐れがあるのでパンピーにはオススメしませんw
 
ハンド・キャンノット・イレース
スティーヴン・ウィルソン STEVEN WILSON
ビクターエンタテインメント (2015-02-25)
売り上げランキング: 7,371
荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)
荒木 飛呂彦
集英社
売り上げランキング: 23
記事検索
月別アーカイブ