Welcome To My ”俺の感性”

音楽のレビューというか感想をてけとーに書き殴るブログです。

邦楽

岡田拓郎 『ノスタルジア』

Artist 岡田拓郎
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Album 『ノスタルジア』
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Tracklist
01. アルコポン
02. ナンバー
03. アモルフェ(Feat. 三船雅也)
04. ノスタルジア
06. イクタス
07. 手のひらの景色
08. ブレイド
09. グリーン・リヴァー・ブルーズ
10. 遠い街角(Feat. 優河)

「森は生きているとは何だったのか?

スティーヴン・ウィルソンTo the Boneのレビューを書いている約一ヶ月間、そのSWの音楽を聴きながら頭の中で常に気にかけていた事があって、それというのも、2015年に解散した森は生きているの中心人物である岡田拓郎くんがOkada Takuro名義で「ソロデビュー・アルバム」を、同じくユニバーサルから「メジャーデビュー」を果たしたSW『To the Bone』と同じくあのHostess Entertainmentからリリースされると知ったからで、僕にとってこの一連の出来事はもはや「運命の引かれ合い」としか思えなかった。

先日、AbemaTVの『72時間ホンネテレビ』を観てて何よりも嬉しかったのは、元スマップの「森(くん)は生きている」ことで、しかしその一方でバンドの方の森は生きているが2015年に突如として解散したことが、個人的にここ最近の中で最もショッキングな出来事としてあって、何故なら森は生きているの存在は、現在はイギリスを拠点に活動する神戸出身のThe fin.とともに、このクソみたいな邦ロックが蔓延る今の邦楽シーンおよび日本語ロックシーンに現れた「救世主」、まさに「希望」そのものだったからだ。


改めて、森は生きているの遺作となった2ndアルバム『グッド・ナイト』は、それこそピンク・フロイドをはじめとした60年代から70年代のプログレッシブ・ロックおよびサイケデリック・ロックに代表されるアンダーグランド・ロック、トラディショナルなジャパニーズ・フォーク、アヴァンギャルド、アンビエントや環境音楽、そして現代的なポストロックが時を超えてクロスオーバーしたような、これぞまさにイギリスを発信源とするPost-Progressiveに対する極東からの回答であるかのようだった。その中でも約17分の大作”煙夜の夢”は、(まずこの曲をMVにしちゃう変態っぷりも然ることながら)それこそSWの創作理念の一つである聴き手を「音の旅」に連れて行くような、ちょっと童貞クサい純文学を実写映画化したような壮大なスケールで綴られた組曲で、それはまるでSW率いるPorcupine Treeの初期の名曲”The Sky Moves Sideways Phase”への回答のようでもあり、もはや森は生きている「日本のPorcupine Tree」あるいは「日本のTemples」に値する存在その証明でもあり、そのバンド内で中心的な役割を担っていた岡田くんSWは「ほぼ同一人物」と呼んじゃっても差し支えないくらい自分の中で親近感を持つ存在で、その僕がリスペクトする二人の音楽家が遂にこの2017年に邂逅してしまったのは、今世紀最大の衝撃だったし、同時に泣きそうなくらい嬉しかった。

「SWは『To the Bone』で何を示したのか?

スティーヴン・ウィルソンは、この「メジャーデビュー・アルバム」で自身のことを「プログレ側の人間」であると同時に「ポップス側の人間」であるということ、そして何よりも誰よりも「ニューエイジ側の人間」であるという自己紹介、あるいは明確な意思表示を音の中に詰め込んでいた。それはまるで現代の「キング・オブ・ニューエイジ」として「シン・時代」の幕開けを宣言するかのような歴史的な一枚だった。音楽的な面で特に『To the Bone』最大のコンセプトとして掲げていたのが、他ならぬ「ポップ・ミュージックの再定義」である。この度、SWがメジャー・デビューする上で避けて通れなかったのは、現代の音楽シーンの変化は元より、音楽リスナー側の環境の変化への対応で、つまり従来の「アルバム」として聴く時代は終わりを告げ、現代の音楽リスナーはSpotifyApple Musicなどのサブスクを使って「プレイリスト」という形で「自分だけのアルバム」を作って聴く「シン・時代」、それに対する適応である。これまでアンダーグランドの世界で「プログレ側の人間」として、当たり前のように「アルバム」で聴くことを前提に作品をクリエイトしてきた彼が、今度は一般大衆が「プレイリスト」で聴くことを前提にした、いわゆる「一口サイズのポップス」に挑戦しているのだ。結局このアルバムの何が凄いって、いわゆる「初老」と呼ばれ始める保守的になりがちな年齢(アラフィフ)にありながらも、あえて先進的で未来志向(リベラル)な考え方を選択する、あえて「困難」へと挑戦し続ける姿勢はまさに「ミュージシャン」、それ以前に「人」として人間の鑑だと呼べるし、それは同時に彼がこの地球上で最も「Progressive(進歩的)」な存在であることを証明している。このアルバムは、まさにそんな彼の「存在証明」でもあった。

そのSW『To the Bone』で示し出した「ポップスの再定義」・・・何を隠そう、岡田拓郎くんはこの『ノスタルジア』の中でSWと全く同じことをやってのけているのだ。この『ノスタルジア』は、森は生きているのどの作品とも違う。端的に言ってしまえば、SW『To the Bone』で80年代の洋楽ポップスを現代の音にアップデイトしたならば、岡田くんはこの『ノスタルジア』で当時のポップス(大衆音楽)だった70年代の歌謡曲をはじめ、吉田拓郎さだまさしなどの伝統的なジャパニーズ・フォークを現代の音に結合することで、この2017年の現代においる「ポップスの再定義」を実現させている。もちろん、SWがイメージする「ポップス」が「ただのポップス」でなかったように、岡田くんがクリエイトする「ポップス」も「ただのポップス」ではない。決してただの懐古主義的なノリではなくて、あくまでも「イマ」の音楽として邂逅させることを目的としている。お互いに共通するのは、まずSW『To the Bone』というタイトルは、あらゆる意味で自身を構築する「骨」となった「過去」への憧憬、あるいは「郷愁」であり、それすなわち岡田くんの『ノスタルジア』へとイコールで繋がる。

アルバムの幕開けを飾る一曲目の”アルコポン”から、それこそ2017年を象徴するバンドの一つと言っても過言じゃあない、ブルックリンのCigarettes After Sexにも精通するスロウコア然としたミニマルでローなテンポ/リズム、プログレ/サイケ界隈では定番のミョ~ン♫としたエフェクトを効かせたペダルスティールをはじめ、「80年代」のシューゲイザーをルーツとした電子ギターのリフレインやアコースティック・ギター、ピアノやパーカッション、マンドリンやオートハープ、それらの森は生きているでもお馴染みの楽器が奏でる色彩豊かな音色が調和した、その優美なサウンドにソッと寄り添うようにたゆたう岡田くんの優しい歌声と文学青年の悶々とした日々を綴った歌詞世界が、まるで休日の部屋に差し込む日差しを浴びながら昼寝しているような心地よい倦怠感ムンムンの蜃気楼を描き出していく様は、まさに表題である『ノスタルジア』「郷愁」の世界そのものであり、もはや「日本のThe War On Drugs」としか例えようがない、まるで80年代のAORを聴いているような懐かしさに苛まれそうになる。何を隠そう、SW『To the Bone』で「80年代愛」を叫んだように、そのSWと同じように岡田くんはペット・ショップ・ボーイズに代表される「80年代」のAORを愛する人間の1人で、この曲の中にはそんな彼の「80年代愛」が凝縮されている。なんだろう、確かに自然豊かな森のささやきのように多彩な音使いは森は生きているを素直に踏襲しているけど、そのいわゆる「ピッチフォークリスナー」ライクな雰囲気というか、森は生きているで培ってきた従来の音使いにモダンなアプローチを加えることで一転してグンと洗練された美音へと、そのベースにある音像/音響としては「ピッチフォーク大好き芸人」みたいなイマドキのインディへと意図的な「変化」を起こしている。その「変化」を裏付ける証拠に、今作のマスタリング・エンジニアにはボブ・ディランをはじめ、それこそCigarettes After SexThe War On Drugsの作品を手がけた(テッド・ジェンセン擁する)STERLING SOUNDグレッグ・カルビを迎えている事が何かもう全ての答え合わせです。

今作は岡田くん初のソロ・アルバムというわけで、森は生きているでは主にコーラスやコンポーザーなど言わば裏方の面でその才能を遺憾なく発揮していたけど、このソロアルバムでは「シンガーソングライター」としてボーカルは勿論のこと、森は生きているでは今作にもサポートで参加しているドラマーの増村くんが歌詞を書いていたが、今作では作曲は元より作詞まで自身で手がけ、ミックスからプロデュース、他ミュージシャンとのコラボレーション、そして様々な楽器を操るマルチプレイヤーとして、1人のミュージシャンとしてそのポテンシャルを爆発させている。ところで、SW『To the Bone』の中で強烈に印象づけたのは、ヘタなギタリストよりもギターに精通してないと出せないようなギターの音作りに対する徹底した「こだわり」だった。同じように岡田くんも今作の中でギターリストとして音楽オタクならではの「こだわり」を、ギターに対する「プレイヤー」としての「こだわり」を、様々なエフェクターやギター奏法を駆使しながら理想的な音作りを貪欲に追求している。それと同時に、SW『To the Bone』で垣間見せたのは、「80年代」という「過去」の音楽に対する咀嚼力の高さで、つまり創作における基本的な創作技術を忠実に守ることによって、SWがこのアルバムで掲げた「ポップスの再定義」を実現させる上で最大の近道へと繋がった。そのSSW界の先輩であるSWの背中を追うように、バンド時代では実現不可能だった、ある種の『夢』をこの岡田くん(SW)は果たそうとしていて、その『夢』を実現する過程の中で最重要課題となる「過去の音楽」への向き合い方、しかしその「過去」という『ノスタルジア』をどう理解(解釈)し、そしてどう料理するか、その最善かつ最適な方法を彼らは既に熟知している。

話は変わるけど、2013年に相対性理論『TOWN AGE』がリリースされた当初の主な評価として挙げられた、何故に「やくしまるえつこのソロっぽい」という風にフアンの間で賛否両論を巻き起こしたのかって、それこそトクマルシューゴ大友良英をはじめとした国内の実験音楽やニューエイジ界隈に影響されたやくしまるえつこヤクマルシューゴに変身したからだ。何を隠そう、岡田くんが”ナンバー”という曲の中でやってることって、(こう言ったら岡田くんに怒られるかもしれないが)端的に言ってしまえば「岡田拓郎なりのシティ・ポップ」、すなわち『NEW (TOWN) AGE』なのだ。つまり、さっきまで「80年代」のAORのノスタルジーに浸っていた彼は、今度は「90年代」に一世を風靡した「渋谷系」への憧憬あるいは「郷愁」に浸ることで、昨今オザケンの復帰により俄然現実味を帯びてきた「90年代リバイバル」に対する岡田くんなりの「答え」を示し出している。

話を戻すと、その”ナンバー”が付く曲タイトルは数多くあるけれど、”名古屋ナンバー”には気をつけろっていう話は置いといて、例えばトリコットの場合だと”神戸ナンバー”だったり、実は相対性理論の曲にも”品川ナンバー”とかいう名曲がある。勿論、その曲を意図して名づけられた訳ではないと思うが、そういった面でも、この曲には相対性理論(やくしまるえつこ)と岡田くんの強い「繋がり」を(少々強引だが)見出した。しっかし、このタイミングであの問題作『TOWN AGE』再評価の流れ、それを作り出した本人が森は生きているの岡田くんという神展開・・・こんなん泣くでしょ。

改めて、この『ノスタルジア』を聴いて思うのは、やっぱりトクマルシューゴというかヤクマルシューゴ的ないわゆる理系ミュージシャンの系譜に合流した感はあって、そのナントカシューゴ界隈をはじめジム・オルーク大友良英など、あらゆる界隈から岡田拓郎という1人の音楽家の「ルーツ」すなわち「骨」を紐解いていくようなアルバムだ。なんだろう、今後岡田くんはトクマルシューゴヤクマルシューゴの間の子であるオカマルシューゴと名乗るべきだし、もはやトクマルシューゴの後継者争いはヤクマルオカマルの一騎打ちだ。

現代...というか今年は特にだったけど、今って「映画」と「音楽」と「小説(文学)」それぞれの分野が隣り合わせで密接に関係している、つまり「繋がっている」ことを切に実感させられる時代でもあって、もはや言わずもがな、当たり前のようにこの岡田くんも得体の知れない「ナニか」と「繋がっている」。例えるなら、SW『To the Bone』を聴いて、その「80年代」のイメージを最も的確に表した映画がジョン・カーニー監督『シング・ストリート 未来へのうた 』だとすると、岡田くんの『ノスタルジア』は井の頭公園の開園100周年を記念して製作された、橋本愛主演の映画『PARKS パークス』だ。

この映画『PARKS パークス』は、『孤独のグルメ』の原作者ふらっと久住のバンドザ・スクリーントーンズによるDIY精神溢れる音楽をバックに、今にも井之頭五郎が登場してきそうなほど、緑に囲まれた井の頭公園を華やかに彩るような色とりどりの楽器が鳴り響く音楽映画だ。驚くなかれ、この映画の音楽を監修したのが他ならぬトクマルシューゴで、しかもそのエンディング曲を担当しているのが相対性理論ってんだから、更にそのサントラの中に大友良英と岡田くんも参加してるってんだからもう何か凄い。

改めて、劇中に井之頭五郎がヒョコっと登場してきそうなくらい、『孤独のグルメ』の音楽にも精通するパーカッションやアコギや笛などの楽器を駆使した、それこそトクマルシューゴ節全開のDIYな音楽に彩られたこの映画『PARKS パークス』は、リアル世界の井の頭公園でも園内放送されたやくしまるえつこによる園内アナウンスから幕を開ける。話の内容としては、序盤は「50年前に作られた曲に込められた恋人たちの記憶」を巡って奔走する普通の青春音楽ドラマっぽい感じだったけど、後半から急に「過去」「現在」「未来」が複雑に絡んでくるSFサスペンス・ドラマ的な序盤のイメージに反して予想だにしない展開に変わって、その瞬間に「あ、この映画普通じゃないな」って察した。というか、そもそも相対性理論の曲がテーマ曲になっている時点で察するべきだった。劇中クライマックスで「何が起こった!?」って考えている内に、エンディングの”弁天様はスピリチュア”が流れてきた時点で全てを察したよね。

とりあえず、能年玲奈系の顔立ちをした若手女優の永野芽郁橋本愛大友良英の組み合わせってだけで某『あまちゃん』を思い出して「うっ、頭が・・・」ってなるんだけど、まぁ、それはともかくとして、主演の橋本愛がギターを抱えて演奏するシーンとかきのこ帝国佐藤千亜妃にソックリだし、この映画にはトクマルや「謎のデブ」こと澤部渡(スカート)を筆頭に、今作のサントラにも参加しているミュージシャンがカメオ出演しているのだけど、中でも音楽監修のトクマル本人が出てきたシーンのトクマルの演技がヤバすぎてクソ笑ったんだけど。

オカマルシューゴ

そしてエンドクレジットで岡田くんと相対性理論が一緒の画に収まっているの見たら、「うわうわうわうわうわ・・・遂に繋がっちゃったよ・・・こんなん泣くって」ってなった。正直、ここまでクレジットを凝視した映画は初めてかもしれない。で、気になる岡田くんが手がけた曲は”Music For Film”というタイトルで、曲自体はまさに劇中クライマックスで「現実か虚構か」の狭間でSFっぽくなる絶妙なタイミングで登場するのだけど、肝心の曲調はそれこそハンス・ジマー坂本龍一『async』みたいなアンビエントで、なんだろう、ここでも再度「繋がってんなぁ・・・ハア」とため息ついた。

しかし、この映画『PARKS パークス』に関してもっとも面白い話は他にある。それというのは、映画の話の中で主演の橋本愛染谷悠太がバンドを組むってことになるんだけど、そこでバンドメンバーを集めて奔走する場面のシーンを筆頭に、それこそジョン・カーニー監督『はじまりのうた』をオマージュしたような演出が随所にあって、なんだろう、ここで初めてSWと岡田くん、そしてやくしまるえつこが「音楽」という枠組みを超えて、その「音楽」と密接に関係する「映画」を通して一本の線で繋がった瞬間だった。なんかもう面白すぎて泣いたよね。なんだろう、人って面白すぎると泣けるんだなって。

ポップスにおける普遍性=アヴァンギャルド

これらの「映画」「音楽」「文学」の垣根を超えた「繋がり」からも分かるように、いわゆる「シューゴ界隈」からの実験的な音楽に対して敬意を払いつつも、何だかんだ叫んだって彼は森は生きているを一番の「ルーツ」としていて、それこそROTH BART BARON三船雅也をゲストに迎えた”アモルフェ”は、いわゆる「New Age」を一つのルーツとする岡田くんのミュージシャンとしての本質をピンズドで突くような「ニューエイジ・フォーク」だ。個人的に、この曲を聴いた時にまず真っ先に頭に浮かんだのがデヴィン・タウンゼンド『Ghost』で、このアルバムはデヴィンの変態的な才能が岡本太郎ばりに爆発した、サブカル系ニューエイジ・フォークの傑作である。そのアルバムの表題曲”Ghost”のカントリー・フォーク然とした曲と岡田くんの”アモルフェ”には、「アヴァンギャルド」と「ポップス」という2つの精神が混在している。面白いのは、かつて音楽雑誌『ストレンジ・デイズ』森は生きている『グッド・ナイト』を取り上げた時のインタビューで(その号の表紙はSW『Hand. Cannot. Erase.』)、岡田くんはポップスにおける普遍性=アヴァンギャルドであると語っている。この彼の発言というのは、それこそ音楽界の異才あるいは奇才あるいは変態と称されるデヴィンSWの創作理念と共通する一つの「答え」で、その「答え」を突き詰めていくと最終的に辿り着くのが、それこそ今なおポップス界の頂点に君臨するビートルズである事は、もはや人類の共通認識でなければならない。



改めて、SW『To the Bone』で最大の野望として掲げていた「ポップスの再定義」、その「野望」あるいは「夢」を実現させるには従来の考えを捨てて、全く新しいやり方で一般大衆の耳に届くような、いわゆる「一口サイズのポップス」の制作に早急に取りかからなきゃならなかった。それは『To the Bone』に収録されたシングル曲を見れば分かるように、これまで「プログレ側の人間」として10分を超える長尺曲を得意としてきた彼が、いわゆる「ポピュラー音楽」として必須条件とも呼べる曲の長さが3分から4分の曲を中心にアルバムを構成している。その「一口サイズのポップス」、それは岡田くんもこの『ノスタルジア』の中で全く同じ考え方を示していて、もちろん森は生きている”煙夜の夢”のような超大作は皆無で、基本的に2分から3分の一口サイズの曲を意図的に書いてきているのが見て取れる。これは森は生きていると最も違う所の一つで、ひとえに「ポップスとは何か」を考えた時に、まず真っ先に曲が一口サイズになる現象は、SWと岡田くんに共通するものである。

表題曲の#4”ノスタルジア”やMVにもなっている#5”硝子瓶のアイロニー”は、まさに今作における「一口サイズのポップス」を象徴するような曲で、序盤のフォーク・ロック的な流れから一転して、ポップス然としたアップテンポなビートアンサンブルをはじめ、クラップやスライド・ギター、そして「80年代」のニューウェーブ/ポストパンクの影響下にあるモダンなアプローチを効かせたシンセを大々的にフィーチャーしている。これもバンド時代にはなかった試みの一つで、大衆の心を鷲掴みにするポップスならではの「キャッチー」な要素を与えている。しかし、一見「王道」のポップスのように見えて「ただのポップスじゃない」、その「実験性」と「大衆性」の狭間で蜃気楼のように揺れ動く幽玄な音世界は、まさに「70年代」の革新的かつ実験的な音楽から脱却を図ろうとする「80年代」の音楽が持つ最大の魅力でもある。その流れからの#6”イクタス”は、例えるならRoyal Blood的なブルージーな解釈がなされた岡田くんなりの哀愁バラードで、これがまたサイコーに良い。

様々な分野で、とある作品やとあるモノを評価する際に、よく「メジャーマイナー」「マイナーメジャー」という表現を用いた例え方をされる場合がある。例えば、漫画の世界だと『ジョジョの奇妙な冒険』荒木飛呂彦なんかは典型的な「メジャーマイナー」の作家である。その表現法を「音楽」の分野に応用して、この『ノスタルジア』がどれに分類されるのかちょっと考えてみた。はじめに、『To the Bone』におけるSW「メジャーマイナー」だと仮定すると、岡田くんの『ノスタルジア』トリコット『3』「マイナーメジャー」に分類される。まずSW『To the Bone』で、3大メジャーレーベルのユニバーサルから「メジャー」デビュー、Spotifyを活用した「イマドキ」のプロモーションやバズマーケティング、オエイシスの作品でも知られる「メジャー」なプロデューサーを迎え、ぞしてその音楽性は「80年代」のポピュラー音楽をリスペクトした「ポップスの再定義」を図っていることから、少なくともガワの面では「メジャーメジャー」と言っていいくらい「メジャー」だが、しかしその反面、音楽性は幼少の頃から「プログレ側の人間」かつ「ニューエイジ側の人間」であるSWがクリエイトするポップスはポップスでも「ただのポップス」ではない「マイナー」な音楽だから、SW『To the Bone』「メジャーマイナー」という結論に至る。あっ、予め言っておくと、「音楽」の分野に「メジャーマイナー」「マイナーメジャー」などの表現を使う場合、とあるモノや作品の知名度や人気を表わす本来の使い方ではなくて、今回の場合はあくまでも「音楽性」とその「精神性」を表しているので、その辺の誤用はあしからず。

それでは、岡田くんの『ノスタルジア』トリコット『3』が何故「マイナーメジャー」に分類されるのか?まずトリコット『3』の場合は、ひと足先に「メジャー」に行って「最悪の結果」に終わった盟友赤い公園に対するアンチテーゼとして解釈すると、この『3』でトリコットが示したのは、それこそ「インディーズ」=「マイナー」からでも「メジャー」を超えられる、「メジャー超え」できるという歴史的な証明である。まずアルバム一枚1500円ポッキリという点も「インディーズ」ならではのプロモーション戦略と言えるし、その音楽性もいわゆる「マスロック」とかいう「マイナー」な音楽ジャンルと、いわゆるJ-POPという「メジャー」なポピュラー音楽をクロスオーバーさせた、まさに「マイナーメジャー」と呼ぶに相応しい作品だった。

改めて、SW『To the Bone』「メジャーマイナー」ならば、岡田くんの『ノスタルジア』「マイナーメジャー」である。まずは森は生きているの存在をこの言葉を応用して表すならば、それは「マイナーマイナー」だ。その童貞文学青年みたいな、60年代や70年代の音楽が大好きなサイコーにオタク臭い音楽性から、その知名度的にも『ストレンジ・デイズ』みたいなオタク全開の音楽雑誌を愛読しているような童貞オタクしか知らない、これ以上ないってほど「マイナーマイナー」な存在である。それでは、その「マイナーマイナー」森は生きている「マイナーメジャー」の岡田くんは一体何がどう違うのか?まずは岡田くんがこの『ノスタルジア』でやってること、それは紛れもなく「ポップスの再定義」である。SW『To the Bone』で「80年代」の音楽をイマドキのポップスに再定義すると、この岡田くんは「マイナーマイナー」森は生きているを音楽的ルーツにしながらも、ピッチフォークリスナーライクな「マイナーメジャー」然としたインディ・ムードや「メジャー」に洗練されたプロダクション、そして70年代のジャパニーズ・フォークをルーツとする「大衆的(ポピュラー)」なメロディを駆使して、「日本の伝統的な大衆音楽」をイマドキのポップスにアップデイトしている所は、もう完全に「マイナーメジャー」としか言いようがない。でも結局のところ、「メジャーマイナー」とか「マイナーメジャー」とか、正直そんなんどうでもよくて、最終的にお互いに一緒の「ホステス所属」ってことに落ち着くし、なんかもうそれが全てですね。

この『ノスタルジア』「マイナーメジャー」的な作品である、その真実を紐解くような曲が#7”手のひらの景色”だ。僕は以前、椎名林檎『日出処』のレビュー記事の際に、とある曲で森は生きているの名前を出した憶えがある。そのお返しとばかりに、この曲は初期の椎名林檎やメジャー以降のきのこ帝国がやっててもおかしくないオルタナ系のJ-POPで、さっきまでは「マイナーメジャー」だった彼が一転して「メジャーマイナー」に変化する瞬間の怖さというか、あわよくば椎名林檎みたいなドが付くほど超メジャーなポップスに急接近するとか・・・岡田くん本当に天才すぎる。ある意味、これは「アンダーグランド」から「メインストリーム」のJ-POPに対するカウンターパンチだ。皮肉にも彼はSWと同じように、「アンダーグランド」の人間こそ「メインストリーム」の事情を最もよく知る人間であるという事実を、岡田くんはこのアルバムで証明している。なんかもう赤い公園津野米咲に聴かせてやりたい気分だ。

確かに、今作は「一口サイズのポップス」が詰まったアルバムだが、その中で最も長尺(6分台)となる#8”ブレイド”は今作のハイライトで、それこそ森は生きているのプログレッシブな側面を岡田くんなりに料理した名曲だ。まずイントロのフルートやサックス、そしてインプロ感むき出しのジャズビートを刻むドラムとピアノの音使い、叙情的な音作りまでSWがソロでやってきた事、すなわち「Post-Progressive」の音世界そのもので、特に暗転パートのシュールなアコギの響かせ方、音の空間の作り方がStorm CorrosionあるいはSWの2ndアルバム『Grace for Drowning』に匹敵するセンスを感じさせるし、更にはクライマックスを飾るメタル界のLGBT代表ことポール・マスヴィダル顔負けのフュージョンの流れを汲んだソロワークとか、なんかもう天才かよってなったし、この曲聞いてる間はずっと「holy...」連呼してたくらい。この曲は、まさに岡田くんの音楽的ルーツの一つでもあるジャズ/フュージョンに対する愛が凝縮されたような曲で、何を隠そう、SW『To the Bone』にもジャズ/フュージョンを扱った”Detonation”という”ブレイド”と同じくアルバム最長の曲があって、そういった「繋がり」を改めて感じさせたと同時に、なんかもう岡田くんマジ天才ってなった。26歳で既にSWと肩を並べる、いやもう超えてるんじゃないかってくらい、もはや嫉妬通り越して結婚したいわ。ごめん俺、もう岡田くんと結婚するわ。大袈裟じゃなしに、この曲をSWに聴かせたら2秒で来日するレベル。

そこからギャップレスで#9”グリーン・リヴァー・ブルーズ”に繋いで、流水のように瑞々しいピアノと初期Porcupine Treeみたいなアンビエンスを効かせた音響系のピアノインストぶっ込んでくる余裕・・・なにそれ天才かよ。そんなん「え、もしかして坂本龍一の後継者ですか?」ってなるし。

SW『To the Bone』って、ある意味では彼が幼少期に母親からドナ・サマー『誘惑』をプレゼントされた事を伏線とした、言うなれば「女性的」なアルバムだったわけです。勿論、僕はずっと前から「Post-Progressive」とかいうジャンルは「女性的」なジャンルであると説いてきた。まさにそれを証明するかのような作品だった。この『ノスタルジア』にも、やっぱり「女性的」な、どこかフェミニンな雰囲気があって、そのアンニュイな作風は『To the Bone』と瓜二つと言える。例えば日本のアイドル界隈を見れば分かるように、「女性」というのは大衆のアイコンとして存在し続けるものである。この『ノスタルジア』における「象徴」として存在しうるのが、他ならぬシンガーソングライターの優河をボーカルに迎えた#10”遠い街角”である。

元々、森は生きているのデビュー当時から「ポップス」に対する素養の高さ、その若かりし野心と類まれなるセンスを断片的に垣間見せていたけれど、この岡田くんのソロでは表面的に、かつ真正面から「ポップス」を描き出している。その結果が、「ポップス=アヴァンギャルド」であるという答えだった。なんだろう、自然に寄り添うようなアンプラグド的なDIY精神を貫いていた森は生きているに対して、一転して現代的というか未来志向のモダンなアレンジを取り入れた岡田くんソロといった感じで、例えるなら森は生きているがこってり味の豚骨ラーメンで、岡田くんのソロがアッサリしょうゆ味みたいな感覚もあって、なんだろう、毎年ノーベル文学賞が発表される時期になると集合する重度のハルキストが、村上春樹を差し置いてノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロに寝返ったような感覚もあって、なんだろう、村上春樹作品に出てくる主人公がSEXして童貞卒業したような感覚。まぁ、それは冗談として、そのヴィンテージな音世界とモダンなサウンドとの融合、それこそ「懐かしい、でも新しい」みたいな糸井重里のキャッチコピーにありそうな音楽は、まんま『To the Bone』の世界に繋がっている。

確かに、どんだけ岡田くん好きなの俺みたいなところもあって、でもこんなん聴かされたら流石のやくしまるえつこも岡田くんを認めざるを得ないでしょ。何故なら、岡田くんを否定することはスティーヴン・ウィルソンを否定する事となり、それすなわち「日本のSW」であるえつこ自身を否定することになってしまうからだ。それはともかくとして、岡田くんはこの『ノスタルジア』で、やくしまるえつこに肩を並べる「日本のSW」である事を証明してみせたのだ。リアルな話、もしSWがライブをするために来日した場合、この今の日本でSWのサポートできるミュージシャンって岡田くんしかいないでしょ(えつこは元より)。というか、SWに見せても恥ずかしくない唯一の「日本の音楽」が岡田くんの音楽です。それくらい、「繋がり」という点からこの『ノスタルジア』は、ありとあらゆる角度からSW『To the Bone』を補完するものであり、そしてこの「2017年」を締めくくるに相応しいサイコーのアルバムだ。

ノスタルジア
ノスタルジア
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オカダ・タクロウ
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tricot 『3』

Artist tricot
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Album 『3』
20861149174583

Tracklist

02. WABI-SABI
03. よそいき
04. DeDeDe
05. スキマ
06. pork side
07. ポークジンジャー
08. エコー
09. 18,19
10. 南無
11. MUNASAWAGI

「中嶋イッキュウのソロデビューとは一体なんだったのか」

ナレ「その謎を明らかにすべく、我々藤岡探検隊はアマゾン奥地へ向かった!」

ぼく藤岡隊長
new_f1923a5521c1b1e5a8ad3dfca108ca75「おぉ...ここが未開の部族が棲む秘境の地か...ん?あれはなんだ!」


ナレ「突如、我々の目の前に暗闇から何者かが現れた!」


 未開の部族
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「コレ アゲル」

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ぼく藤岡隊長
new_img_0「なんだこれは・・・無地のケースに『3』の数字が描かれているだけのCDと「2012.11」という日付のような数字が記された青いCDだ」

 未開の部族
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「コレ キイテ」

ぼく藤岡隊長
new_tanken3-26「よし、まずは青い方のCDから聞いてみよう」


青いCD「私じゃダメなの?もう好きじゃないの?


ぼく藤岡隊長
new_f1923a5521c1b1e5a8ad3dfca108ca75「林抱いて///」

 未開の部族
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「『サン』 モ キイテ」

ぼく藤岡隊長
new_img_0「こ、これは!もしやトリコットの新しいアルバムじゃないか!?おい!手抜きすんなイッキュウゥゥゥウウ!!メンヘラなれーーーーーーーーー!!」

イッキュウ中嶋
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「かかってこいやああああああああああ!!」

ぼく藤岡隊長
new_tanken3-26「Just Bring It!!Just Bring It!!」

イッキュウ中嶋
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「Just Bring It!!Just Bring It!!」


初めてこの無印のケースに「3」という数字が書いてあるだけの、歌詞カードも入ってない「シンプルイズザベストスタイル」のCDを目にした時、僕は中学生の頃に友達から借りた様々なアーティストの音源が詰まった無印の青いCDを思い出した。これはトリコットのメンバーや僕と同世代の「今ギリギリ20代」の人なら共感してもらえるような話で、今から約15年前、当時の中学もしくは高校時代って「音楽をCDに焼ける奴」=「神」みたいな存在で、そもそも「CDに焼く」という言葉も今では死語になってる気もするし、その「CDに焼く」という行為が違法行為(グレーゾーン?)だなんてのは、昨今の「ストリーミング時代」を前にしたらクソどーでもいいただの思い出話でしかなかった。僕が中学生の頃に友達から借りた上記の青いCD(現物)には、(2002年)当時流行っていたJanne Da ArcL'Arc~en~CielなどのV系ロックをはじめ、モンパチから種TM西川兄貴、ブリグリやBOAなどのJ-POPの音源が詰め込まれていて、特にその中に収録されていたJanne Da Arcのバラード”DOLLS”を初めて聴いた時は、体に稲妻のような衝撃が走ったのを今でも憶えている。それ以来、僕はJanne Da Arcの虜となり、CDは勿論のこと大阪城ホールやSSAのライブDVDを買い占めた。何を隠そう、このトリコットの3rdアルバム『3』は、中学生の頃に無印の青いCDを介してJanne Da Arcと運命的な出会いを果たし、そして僕のその後の音楽的な嗜好を決定づけたように、この『3』を聴いた今の中高校生のその後の人生に多大な影響を与えるであろう、邦楽界の歴史に名を残す名盤なのである。

ここ最近のトリコットといえば、昨年に『KABUKKAKE EP』を発表するやいなや、フロントマンのイッキュウ中嶋がソロ活動を始めたり、それこそ昨今の「洗脳ブーム」に乗っかってじゃないけど、とにかく最近のイッキュウ中嶋って「中嶋ホームオブハートイッキュウ」に改名すんじゃねーかってくらい、なんか悪い男にそそのかされて急に坊主頭にして「出家します」とか言い出しそうな、そんな戸川純リスペクトな典型的な「勘違い女」みたいな危うい雰囲気あって、終いにはゲス野郎のプロデュースで芸人の小籔野性爆弾くうちゃんとバンド結成して俄然「勘違い女」っぷりに拍車をかけ、今やライブツアーの箱も縮小して解散間際の集金ツアーみたいな典型的な落ち目バンドみたいな事やってて、トリコットがそんなハンパなことやってる間に、フォロワーの「右斜め45度女」こと率いるポルカドットスティングレイにも人気でも動員でもブチ抜かれる醜態を晒していて、傍から見てると「おいおいトリコット大丈夫かよ」みたいな、「ソロ活動は自由だけどバンドには迷惑かけんなや」とちょっと心配になるくらい、まぁ、それくらいここ最近のトリコットを取り巻く状況は、こんなオモンナイバンド見たことないってくらい、まさしく「オワコンバンド」の名に相応しい状況まで追い込まれていた。もうこの際、イッキュウ中嶋こと顔面朝勃ち女くうちゃんと一緒に『ドキュメンタル』に参加して100万円奪われとけやと。つうか、なんやねん顔面朝勃ち女て、自分の真上に発射して自分の顔にBUKKAKEんのかよ。キモすぎだろ。

2015年作の2ndアルバム『A N D』では、某BOBO氏をはじめ複数のドラマーの協力を得て制作され、昨年の『KABUKKAKE EP』では、ドラム・オーディションを開催して選出された5人のドラマーを起用した楽曲が話題となったが、実は自分もそのドラムオーディションに応募して、その結果一次選考で落選したことを今でも根に持っていて、何故なら僕がこの度のドラム・オーディションで選んだ曲がX JAPAN”ART OF LIFE”という、いわゆる(Radio Edit)ではない方の29分ジャストの方の完全版で、そしてYOSHIKIの「かかってこいやー!」からの「ヘドバンは良くない」からのアテフリプレイからドラムセット破壊まで、ライブ作品の『Art of life live』を忠実に完全再現したビデオを撮って応募したわけ。なのに一次選考で落選とか本当にショックだったし、もうトリコット聴くのやめようかと思ったほどで、少なくとも「あの時点」ではまだ僕がトリコットの三代目ドラマーとしての人生を歩んでいた「if(もしも)」の世界線が存在していたわけ。まぁ、全部ウソだけど。最終的にサポート・ドラマーに選ばれ、今回の『3』に収録された新曲を叩いているのは、ドラムオーディションを勝ち抜いた5人の内の一人である吉田雄介氏で、なんか結局安牌な結果になったというか、またしても一番面白みのない結果になって、こんな結果ならガチで僕が”ART OF LIFE”の完全版アテフリした方が面白かったわ。もっと言えば、BAND-MAIDがメジャーデビューする前にドラマーのを引き抜いてれば今頃トリコットは天下取ってたに違いない。なぜかと言うと、僕が今年の初めにBAND-MAIDのMVでのドラムプレイを見た時、以前までトリコットのサポート・ドラマーとして活躍していた”みよさん”こと山口美代子さんの叩き方とソックリな事に、ボーカルの彩ちゃんに一目惚れするよりもまず一番先にそこに驚いて、もしや親子関係あるいは師弟関係でもあるのかと一瞬勘ぐったくらい。それは行き過ぎた冗談にしても、でもが一度でいいからトリコットでドラム叩く姿を見たいって人は間違いなく僕以外にも存在するハズ。とにかく、そういった面でも、今のトリコットを取り巻く状況は「オモンナイ」の一言でしかなかった。



それはそうと、この『3』の幕開けを飾る”TOKYO VAMPIRE HOTEL”がOPテーマに起用された、園子温監督のamazonオリジナルドラマ『東京ヴァンパイアホテル』を観たのだけど、毎回OPの入り方がサイコーにカッコ良くてかなり扱いは良かった。ちなみに主題歌はMIYAVI。で、一話の初っ端からしょこたんの激しい銃乱射からの血ドバー!に始まって、謎の筒井康隆ネタから、映画『ムカデ人間』でお馴染みの俳優北村昭博や某グラドル、そして園作品でも毎度お馴染みとなった監督の嫁NTR要素とか小ネタも多いし、そして見せ場となる主演の満島ひかり(弟)と夏帆のアクションシーンは勿論のこと、おっぱいの大きいヒロイン役の女優誰かな?と思って見たら、映画『アンチポルノ』の主演でヌードも披露した(例の当選したポスターでもお馴染みの)冨手麻妙とかいう女優らしく、作中で一番体を張った演技を見せているが、その役者陣の中でも特にMVP級の活躍を見せているのが安達祐実で、さすがレジェンド子役女優だなと。それと、物語終盤に出てくるアカリ役の森七菜は今後要注目の新人女優だと思う。とにかく、レビュー自体はボロクソだけれど、これまでの園子温作品が好きならそのブッ飛んだエログロな世界観だけでも十分視聴継続できるし、確かに3話以降ホテル内の話になると急にテンポが悪くなるのは監督のいつものクセというか、そもそもテンポよくできる監督だったら4時間の映画なんて撮らねぇし、そこはご愛嬌としか。話としては終盤の展開の方が面白いかな。ちなみに、本作は既に映画版として編集されたモノが海外で上映されており、ちなみに名古屋県は豊橋市で撮影されたシーンも収録されている。

そんな『東京ヴァンパイアホテル』の世界観が堪能できる歌詞もポイントなトリコット”TOKYO VAMPIRE HOTEL”は、幕開けの疾走感触れるドラムとソリッドなリフから1stアルバム『T H E』”POOL”を彷彿させる、それこそ”タラッタラッタ”の歌詞にある「初期衝動を忘れたくないのに 古くなる事は止められないらしい」という、初期トリコットの問いかけに対する「答え」のような粗暴で荒々しい獣性むき出しの衝動性を垣間見せ、そして初期の9mm Parabellum Bullet的な、すなわちカオティック/ポスト・ハードコア然とした破天荒かつ激情的なサウンドを繰り広げていく。このトリコット節全開の音作りとサウンドから分かるのは、「This is tricot」すなわち「tricot is Back」を予感させると同時に、その中でボーカルのイッキュウ中嶋は2ndアルバム『A N D』で培った「ポップ」なセンスを巧みに昇華し、それこそ「おいおいペギーズじゃねぇんだから無理すんなBBA」とツッコミたくなるくらい、イマドキのガールズバンドで歌ってそうなくらい(顔面朝勃ち女らしからぬ)過去最高にポップな声色を織り交ぜながら、更に進化した多彩なボーカルワークを披露している。

それから間髪入れず始まる#2”WABI-SABI”は、1stアルバム『T H E』への回帰が見受けられた”TOKYO VAMPIRE HOTEL”と対になるような、今度は2ndアルバム『A N D』的なボーカルとコーラス主体に、しかしトリコットらしさに溢れた変則的なリズムで緩急を織り交ぜながら展開する曲で、この頭の2曲をワンセットみたいな形で聴かせる。その”トリコットらしさ”に溢れた幕開けから一転して、今作の象徴するような#3”よそいき”から導き出される言葉はただ一つ、それが「自由」だ。この曲はオルタナ然としたカッティング主体に展開し、イッキュウ中嶋の「イェイイェイ フッフー アーハー イエーイ」という軽快なボーカルワーク、そして2番目からはまさかの吉田美和がゲスト参加と思いきやリード・ギターキダ モティフォの歌とヒロミ・ヒロヒロの歌を織り交ぜた「トリプルボーカル」をブッ込んでくるほどの「自由さ」を発揮する。確かに、こう見ると確かに今作は「自由」っちゃ「自由」だが、しかしこれを「自由」という一言で片付けてしまったら、これまでのトリコットがやってきたことを全否定するような気もして、今作を「自由」という一言で片付けるにはあまりにも安易すぎないかと、僕が思うに、これは「自由」であること、それ以上に「自然」であると。

確かに、トリコットは初期衝動全開の『T H E』の変拍子だらけの音楽性が高く評価された。その反面、続く『A N D』では変拍子はただのギミックに過ぎないとばかり、そしてフロントマンであるイッキュウ中嶋の「#椎名林檎の後継者なの私だ」アピールを拗らせた、つまりイッキュウ中嶋が「ワンマンバンド化」を目論んだ、「アタシめっちゃ歌えるやん!」と勘違いを拗らせた「ただのJ-Pop」と各方面から批判された。つまり、僕が『A N D』のレビューで「こういうバンドこそメジャー行ったら面白い」と書いたことは、あながち間違いじゃあなくて、それくらいサブカルクソ女系のJ-Pop臭がハンパないアルバムだったのも事実で、それは一作目が高く評価されたバンドにありがちな「二作目のジンクス」みたいな側面もあって、その「脱変拍子バンド」を図った前作が批判されて日和った結果、この『3』では『T H E』『A N D』の中間みたいな、ロックバンドにありがちなクソ典型的な音楽遍歴を辿っている。「変拍子はただのギミックに過ぎない」のは、ある意味前作と何一つ変わっちゃあいなくて、その変拍子に囚われない「いい意味」でこの『3』でも踏襲している。つまり、変拍子祭りの『T H E』と脱変拍子の『A N D』で培ってきた基本的なことを忠実に守り、それを素直に表現しているという意味ではまさに「自由」と言える。

この『3』では、オルタナだマスロックだなんだ、他バンドからの影響だなんだ以前に、それ以上にトリコットなりに「普遍的なロック」を貫き通している。それこそ『T H E』『A N D』の間に生じた「意図的」な「変化」ではなく、この『3』では特定のジャンルや特定の何かを「意図的」にやろうとした気配はまるでなくて、もはや身体に染みついた「変拍子」という名の「意図的」でない「リズム」が「自然」に溶け込んでいくように、端的に言ってスタジオセッションで起こる「インプロヴィゼーション」の延長線上にある、生々しいオーガニックなトリコットなりのロックンロールを、すなわち『トリコロール 顔面朝勃ち女の章』を極めて自然体で鳴らしている。メンバー自身が、真正面からトリコットの音楽と向き合っている。これはもう、いわゆるメシュガーが「メシュガー」というジャンルなら、このトリコットは「トリコット」というジャンルだ。

この『3』を野球の球種で例えるなら、『T H E』でド真ん中のストレート、『A N D』で緩い変化球を投げてきたトリコットが、今度は「ストレート」でもあり「変化級」でもある「ツーシーム」を投げてきている。そう、「ストレート」だと思って打ちに(解釈しに)いったら手前で微妙に「変化」して、バットの根元に当たってバットがへし折れるあの「ツーシーム」だ。どうりで打てないわけだ。「ストレート」だと解釈して打ちにいってはどん詰まり、はたまた「変化球」だと予測して打ちにいっても綺麗に空振りしちゃうわけだ。何故なら、ストレートでも変化球でもそのどちらでもないのが「ツーシーム」=『3』だからだ。だから今のトリコットに野球で勝てるバンドっていないと思う。

前作の”E”を聴いた時は「デッ デッデッデーーーーーンwwwwwwwww」みたいなノリで、メタリカのマスパペでも始まるのかと思ったけど違って、今回は”DeDeDe”というタイトルで今度こそはガチでメタリカのマスパペカバーきたか!と思って聴いてみたけど違った。普通にオシャンティなジャズだった。中盤のハイライトを飾る「イー、アール、サン、スー」な#7”ポークジンジャー”では、『T H E』”おちゃんせんすぅす”を彷彿させるオリエンタルなチャイニーズ感を醸し出し、そのタイトルどおりきのこ帝国を彷彿させる白昼夢を彷徨うかのような幻想的なギターのリフレインが響き渡る#8”エコー”、キレッキレの転調や変拍子を巧みに織り交ぜながらオルタナとプログレの狭間を行き来しつつ、Misery Signals顔負けの叙情派ニュースクールハードコア然としたギターをフィーチャーした#9”18,19”ナムナムナムナムてホンマに出家しよるやんこいつってツッコンだ#10”南無”は、ふと仕事中に無限ループしてクソ迷惑だったのを思い出した。そして『KABUKKAKE EP』に収録された、最初期トリコットのリフ回しから”99.974℃”ばりの転調をキメる#12”節約家”まで、「アンチポップ」あるいは「アンチメジャー」の精神に溢れた、そして#3や#9をはじめ『KABUKKAKE EP』でも垣間見せたソングライティング面での成長、その確かな作曲能力に裏打ちされたトリコロールをぶっ放している。


ここまで書いたこと全部間違ってるし全部ゴミなんで忘れてもらっていいです。この『3』を発売日に買ってから今まで、頭に浮かんだイメージが定まらない上に全然まとまらなくて、頭が破裂しそうなくらいグチャグチャになりながらも、いざ書いてみてもやっぱりリズム感のないゴミ文章にしかならなかったからゴミ。確かに、この『3』でやってることはもの凄く「シンプル」で、しかし「シンプル」故の難しさみたいな所もあって、それは「普通」でいることの難しさでもあって、その音楽的な内面やガワの面では引っかかりがなくて俄然「シンプル」なのに、どこか別のところで妙な引っかかりを感じている自分も確かに存在して、事実このアルバムを初めて聴いた時は「気づいたら終わってた」みたいな感想しか出てこなくて、こう書くとあまり良いイメージを持たれないかもしれないが、逆にそれくらい初めて聴くのに異様に耳に馴染む感覚っつーのかな、実はその感覚こそこのアルバムの一番大事な部分のような気もして、しかしそれでも「核心的」な部分がまるで見えてこなくて、何だかすごく曖昧で、しかしこの言いようのない得体の知れない、恐ろしいナニカが潜んでいるような不気味な雰囲気に飲み込まれそうで。ここまで僕を悩ませたのは、全ては顔面朝勃ち女のメンヘラクソ女みたいな長文ブログ『シンプルがベストだと思う理由』を読んでしまったからで、特にこのブログの「CDが売れない時代」のくだりに引っかかって、何故なら僕は過去にフィジカルとデジタルの境界線に関するCDが売れない時代の話のくだりで、「椎名林檎よりもトリコットのCDを買って応援してやってほしい」と書いた憶えがあって、だからこのブログの内容を見てスゲー考えてんなこいつって思ったし、その流れで急にX JAPANネタぶっ込んできてクソ笑ったし、最終的に「自主レーベルでやりたいことを(自由に)やれてる」と「考え方をシンプルにしたかった」という話を聞いて、またしても僕は過去に「トリコットみたいなバンドこそメジャー行ったほうが面白くなりそう」みたいな事を書いてて、要するにこれらのイッキュウ中嶋の言葉は、自分が「トリコットの事を何も知らないジョン・スノウ」だったと、いや「知ろうともしなかったクソニワカ」だったと気付かされたし、このブログの内容に強く共感してしまった僕は、ヘラりながらも一つの答えにたどり着いた。それが、この『3』トリコットなりの「(実質)メジャーデビュー作」であるということ。

『3』=

この『3』は三枚目の『3』でもあり、三人組の『3』でもある。そして『3』という数字は、キリスト教にとって「三位一体」を意味する奥義であり、キリスト教にとって「神の世界」を表す聖なる数字でもある。この意味に気づいた時、この『3』に潜む「得体の知れないナニカ」を目の当たりにし、そしてトンデモナイ領域にたどり着いてしまったのではと、我々藤岡探検隊はただただ「恐怖」した。これまでのアルバムとは一線をがした、この『3』からにじみ出るような得体の知れないものこそ、全知全能の『神』そのものだったんだ。僕は、この『3』という「神の世界」の中でキリストと対面していたんだ。我々はその「恐怖」を前に体が硬直し、今更もう引き返せなかった。我々は全知全能の『神』と対峙した瞬間、もはや「ツーシーム」だとか「神降ろし」だとかそんなものはどうでもよくなっていた。僕は勇気を振り絞って最後の”メロンソーダ”を聴いた。すると涙が溢れ出して止まらなかったんだ。



この『3』は、今月いっぱいでバンドを卒業する佐藤千明と、今後は『3』ピースで活動していくことを宣言した、盟友赤い公園に対するトリコットなりのエールにしか聴こえなかった。初めてこの『3』を聴いた時から、特にアルバムの最後を飾るJ-POPナンバーの”メロンソーダ”がナニカを示唆しているようにしか聴こえなかった。その数カ月後、まるで『3』という数字が赤い公園の未来を暗示するように佐藤千明の脱退が公表されてから、改めてこの”メロンソーダ”を聴いたらもう涙が止まらなかった。確かに、この”メロンソーダ”イッキュウ中嶋の(顔面朝勃ち女らしからぬ)一際ポップでセンチメンタルな歌声をフィーチャーした、「ただのJ-POP」に聴こえるかもしれない。しかし僕には、決して「ただのJ-POP」には聴こえなかったんだ。今までずっと悩んできた全ての答えがこの”メロンソーダ”に詰まってるんじゃあないかって。皮肉にも、早々にメジャーデビューして「最悪の結末」を迎えた赤い公園とは逆に、「トリコットもメジャーいけ」という周囲の何者の声にも一切惑わされず、自身の音楽理念を信じ、それを一貫して貫き通してきたトリコットというバンドの生き様が込められた、そして「インディーズ」に足をつけながら「もしトリコットがメジャデビューしたら」という高度な「if(もしも)」を、この『3』で実現させている。これは赤い公園”サイダー”に対する”メロンソーダ”であり、赤い公園『猛烈リトミック』に対する『サン』である。最後にトリコットが示したのは、「インディーズ」にいながらも「メジャー」を超えることができるという力強い意志だ。それこそ赤い公園の津野米咲が掲げる”じぇいぽっぱー”としての「意志」を受け継ぐようなJ-POPでアルバムの最後を締めるあたり、これが「トリコットなりのJ-POP」であり、これが「トリコットなりのメジャデビューアルバム」だと、まさにマスロック界からJ-POP界へ殴り込みをかけるような歴史的名盤である。この『3』に込められた今のトリコットの生き様を見せられて、津野米咲は一体何を、そして佐藤千明は一体何を思う?

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ここまでの話は全部ゴミだからどうでもよくて、結局のところ僕がトリコットに伝えたいことはただ一つで、それはイギリスで開催されるArcTanGent FestivalTesseracTと共演した暁に、今度は是非ともTesseracTと一緒に日本でツーマンやってほしいということ。そもそも、このそうそうたるメンツの中に日本のバンドがいること自体相当凄いことで、つまり何食わぬ顔でこのメンツに名を連ねているBorisスゴい。事実、あのTesseracTを日本に呼べる、あるいは対バンできるバンドってトリコットしか他に存在しないと思うし。勿論、このTesseracT(テッセラクティー)TricoT(トリコッティー)の引かれ合いは、2ndアルバム『A N D』の中でTricoTが垣間見せたPost-Progressiveのセンス、その証明に他ならなくて、この『3』TricoTがますます世界的なバンドへと飛び立っていく未来を暗示するかのような一枚といえる。

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tricot
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ポルカドットスティングレイ 『大正義』

02. ミドリ
03. シンクロニシカ
04. ベニクラゲ
05. 本日未明
06. 夜明けのオレンジ (大正義 ver.)

ポルカってよく見りゃブス、もとい「上坂すみれさん方式」で右斜45°からなら椎名林檎レベルの典型的な福岡女顔になるんだけど、そんな椎名林檎リスペクトな福岡女顔からオラついた巻き舌歌唱と、カッティングを駆使したトリッキーでリズミックな、ゲス以降のいわゆる「踊れるギターロック」を聴かせるテレキャスター・ストライプのMVが公開されると瞬く間に話題を呼んだ、マルチな分野で活躍するギタボの率いる超絶ハイカラギターロックバンド、ポルカドットスティングレイの1stミニアルバム『大正義』がもはや「売れる」予感しかしない件。



が尊敬してやまないトリコットのベーシストヒロミ・ヒロヒロがゲスト参加している今作は、アルバムのリードトラックとなる一曲目のエレクトリック・パブリックから、前作でポルカテレキャス】という自覚が芽生えたポルカ節全開の縦ノリを誘発するカッティングを主体に、しかしクラップを交えることでよりライブ感を意識したトリッキーなリフやギュンギュンなギターソロ、そして「脱椎名林檎」を図ろうかというような、ポルカのライバルとなるthe peggies的な大衆性(メインストリーム)とメジャー感を内包したの言葉遊びに富んだポップなボーカルやトリコット中嶋イッキュウリスペクトな脱力系のあゝコーラスワークまで、全ての音がエネルギッシュかつキレッキレで、この短い尺の中で緩急を効かせながら目まぐるしく展開していく。あの元メガデスのマーティ・フリードマンも激推しする”テレキャス”と比較して大きく違うのは、半ば強制的に椎名林檎の存在を意識させる一種の「クセ」を徹底的に排除し、よりメジャーシーンを的確に捉えた「ポップバンド」としての存在感をマシマシにアピールしている所だ。

ポルカって実はフロントマンのよりも、ギタリストエジマハルシ君が繰り出すメタル耳にも馴染む超絶怒涛のギタープレイが生命線だと思うのだけど、それを証明するかのような2曲目の”ミドリ”は、あらためてトリコットイッキュウ中嶋リスペクトなのぶっきら棒な一種の喜劇役者の如しボーカルワークを披露しつつも、エジマ君によるイントロの雨の日のように内相的なシティポップ感溢れるリフとサビのスリリングなバッキング、そして「お前はJanne Da Arcのyouちゃんかよ」とツッコミ不可避な流麗なソロワークまで、とにかくポストハードコア界のレジェンドThe Fall of Troyをはじめ、CHONSithu Aye、そしてPliniをはじめとした今流行の海外インスト勢にも精通するギターの音像や音のトーンというのが絶妙で、これだけで彼のギタリストとしての類まれなる才能を垣間見ることができるし、それこそマーティ・フリードマンがこのポルカに注目する主な理由って、他ならぬ彼のギターセンスにある。

一曲目と双璧をなすアルバムのリード曲となる3曲目の”シンクロニシカ”は、ポストハードコア然とした轟音をカチ鳴らすイントロから、ポルカらしいトリッキーなカッティングでスピーディに展開し、センチメンタルでありながらも衝動的なのボーカルとリヴァーヴを効かせたバッキングのギターが絡み合うサビ、そしてフュージョン/プログレ界隈のレジェンドギタリストばりにシブみの深いソロワークやヒロミ・ヒロヒロのキレッキレなベースラインを最大限に活かしたダイナミックでプログレスな展開力まで、その刹那的な世界観や音作りまで全てが凛として時雨リスペクトなキラーチューンで、正直ポルカの王道とは全く異なるタイプの曲調も書けるなんて思ってなかったから、これには意表を突かれたというか、初めて聴いた時は2秒で「はい推せる」ってなった。とにかく、この曲は一種の「ポストV系メタル」と言っても過言じゃあないし、それくらいエジマ君のギターが完全にメタルだし、特にアウトロのギターソロとか「どんだけソロ弾くんじゃコイツ最高かよ」ってなったし、ますますエジマくんの「ギターヒーロー」およびギタリストとしての「こだわり」や「ルーツ」が誰に、そしてドコにあるのか俄然興味が湧いた。正直、現時点で凛として時雨のサポートできる実力はあります。こんなん絶対にピエール歓喜するわ。どうせならヒロミ・ヒロヒロ345みたいに歌わせたらネタ的に面白かったかもしれないw

一曲目で「脱椎名林檎」と言ったな?ありゃ嘘だ。そもそも、このポルカをはじめ、トリコット赤い公園きのこ帝国を筆頭に、いわゆるガールズ系バンドで椎名林檎の影響を受けていないバンドを探すほうが逆に難しいくらい、その椎名林檎と同郷のポルカが影響を受けていないわけがなくて、むしろ逆に椎名林檎愛が暴走する4曲目の”ベニクラゲ”は、あざといくらいに林檎リスペクトなジャジーでアダルティなアレンジで聴かせるバラードで、雨のSEをバックにのアカペラで始まるメンヘラ感全開の導入部から、全体的に黒盤の頃の初期赤い公園を彷彿させるリフレインでゆったりとほの暗いムードで展開し、それこそ「#椎名林檎の後継者なの佐藤千亜妃やイッキュウ中嶋じゃなくて私だ」とツイッターにハッシュタグ付けてツイートしてそうな、まるで全盛期の鬼束ちひろばりに凄んだ歌唱法で不幸な女を演じきるからは、それこそ福岡出身の伝説のメンヘラSSWことYUIの存在、そのトラウマをデジャブさせ、つまり椎名林檎→YUIに次ぐ福岡女の系譜、福岡女特有の「メンへリズム」という名の伝統芸能を受け継ぐ現代のアイコンこそポルカだ。少なくとも、現状ではフロントマンとしての魅力や才能はイッキュウ中嶋を余裕で超えちゃってます。

ポルカのことを「ポップバンド」だと強調する。その言葉に未曾有の説得力を植え付ける5曲目の”本日未明”は、ファンキーなギターやイマドキな感じの零のボーカルまで、それこそ「これがメジャーだ!」みたいな爽やかなドポップチューンで、さっきの曲との振り幅がもの凄いし、ポルカだけにポルカリスエットのCMタイアップ取ってこれそうなレベル。しかし、ここまで色んなことやってきて、最後にこのポップソングを持ってこれるのはバンドの強みか、はたまた弱みか。6曲目には2015年の限定シングル”夜明けのオレンジ”の大正義版を収録し、6曲6色のポルカワールドを繰り広げている。

基本的な音は一昔前に流行ったマスロックをベースにしているんだけど、いわゆるマスロックというジャンルからイメージされるような変拍子を駆使した変態的な要素は皆無で、あくまでのバンドの最前提には「ポップス」があって、極端に例えるならトリコットから変拍子とメンヘラ臭い毒素をぶっこ抜いて、その代わりに「ポップス」の要素をブチ込んだようなバンドで、特にこのミニアルバムではYUKI矢井田瞳などメジャーな「J-POP」をしっかりと勉強してきたのが凄く伝わってくる内容で、前作のEPとは比べ物にならないアレンジ力の高さと個々のスキルアップとともに、とにかくサウンド面のメジャー感がグッと増している。初のミニアルバムだからと言って初期衝動的な特別なナニカがあるというわけではなくて、そこには綿密に計算された成熟感すら漂っている。これが「メジャー感」とやらなのか?

椎名林檎以降のJ-POP、凛として時雨以降のポストハードコア/マスロック、ゲス以降の「踊れるギターロック」を経由して、そして今のメジャーで活躍するポップ・ミュージックの中にパッケージングした、露骨に「売れ線」を狙ったぐうの音も出ない「ザ・売れ線」なのを頭で理解していながらも、「正義と踊れ」と命令されたら踊らざるをえない、その謎の説得力ったらない。伊達に2017年の「ネクストブレイク」とメディアから激推しされてない、その確かな才能に裏打ちされた高濃度の楽曲陣は、まさに「大正義」としか他に例えようがない。これは売れるわ。これは右斜45°からライブが観たい。

危惧することは、このままポルカが更にメジャー化しいていくにつれて、本当に「ただのポップバンド」になってしまわないかという事で、何度も言うけどポルカの魅力って、見せかけの「ただのポップバンド」かと思いきや、無駄にというか想像以上にギターがガチってたり、バッキングのリフがやけにカッコ良かったり、そして何よりもギターソロがメタル臭かったりする所で、確かに今後ポルカがどの方向性に進んでいくのか現状未知数ではあるが、そのバンドの生命線であるエジマくんのギターを蔑ろにしない限りは、最低限レベルでポルカの作品を聴き続けることはできそう。まぁ、その辺の「超えちゃいけないライン」は零もよく理解していると思うので心配ご無用か。

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ねごと 『ETERNALBEAT』

Artist ねごと
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Album 『ETERNALBEAT』
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Tracklist
01. ETERNALBEAT
02. アシンメトリ
03. シグナル
04. mellow
05. 君の夢
06. DESTINY
07. cross motion
08. holy night
09. Ribbon
10. PLANET
11. 凛夜

DESTINY』のぼく
new_13「ねごとがNEXTステージへと向かうには【Satellites】のビートが必要だ(しかし、いくら優等生のねごとでも流石にできるわけがない!)」

    ねごと
蒼山幸子「できるわけがない!できるわけがない!できるわけがない!できるわけがない!」

   ぼく
new_20131031220005「ほら!『4回』も『できるわけがない』って言ったぁ!ねごとはオワコン!」

   ねごと
澤村小夜子「ANATHEMAの未来ことBoom Boom Satellitesと邂逅してシン・ねごとになったぞ」

  ぼく
new_UJ「なにそれすごい」

なんだろう、「運命の引かれ合い」って、漫画の世界の話だけじゃなくて現実の世界でも起こりうるんだなって、そう実感させられた出来事だった。僕は、2015年作のVISIONの時にねごとの事に対して、何の根拠もないままに「いま最も評価されるべきバンド」と断言したけれど、その言葉は何一つ間違っちゃいなかったんだって。
 
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というのも、その『VISION』から約3ヶ月後に発表されたシングルのDESTINYの時に、僕はねごとメンバーに対してANATHEMAの”Distant Satellites”みたいな曲が書けるかという『レッスン4 できるわけがない試練』を与えた。そのシングルのDESTINYで、ロックバンドとして一段と成熟した今のねごと「オルタナティブバンド」としてNEXTステージに行く為には、それこそ”Distant Satellites”みたいな実験的なロックを極めるしか他に道はないと。だから僕は前作『VISION』の時から記事中に【ANATHEMA】【Satellites】というキーワードという名の伏線を忍ばせていて、それ以降も事あるごとに執拗にねごとANATHEMAの存在をリンクさせてきた。



もっと面白いのはここからで、僕はねごと『VISION』を聴いた翌月に、(tricotに釣られて)名古屋クワトロでBoom Boom Satellitesのライブを観て、アルバムSHINE LIKE A BILLION SUNSを聴いて、そして【Boom Boom Satellites=ANATHEMAの未来】である事を確信した。ご存じのとおり、ANATHEMAは通算10作目となるアルバムDistant Satellitesの中で実験的な、それこそ「オルタナティブバンド」たる所以を証明するかのような、プログラミングやエレクトロな打ち込み系の音を駆使したダンサブルなサウンドを展開し、中でも表題曲となる”Distant Satellites”の鼓動を激しく打ち付けるようなエレクトロなビートとダイナミクスを内包したロックなビートが融合した姿は、まさにBoom Boom Satellitesの音世界そのものだった。
【2015年8月31日】ANATHEMA 奇跡の来日公演
【2016年5月31日】Boom Boom Satellites活動終了
【2017年3月19日】ねごとの『ETERNALBEAT』を書き上げる
【2017年3月20日】ねごとの『ETERNALBEAT』ツアーを観る(宇宙の終わり)
 
正直、あの時は「ねごとのNEXTステージはANATHEMAのDistant Satellites」だとか、「Boom Boom Satellites=ANATHEMAの未来」だとか、一体ナニを思って書いたのか自分でもよく分かっていなくて、そもそも自分は基本的にレビューを書く時に最も重視するのが「ひらめき」で、そしてスキあらば伏線を散りばめていく文章スタイルなのだけど、2014年にDistant Satellitesがこの世に爆誕して以降、その翌年の2015年にねごとANATHEMABoom Boom Satellitesのライブを観たこと、そして2016年にBoom Boom Satellitesが活動終了を発表するまで、それら一連の流れと伏線をまとめた上記の時系列を見れば、今回の『運命』すなわち『DESTINY』”引かれ合い”はその「ひらめき」が上手くハマった結果の出来事だったというのが分かるハズだ。というより、ここ三年はこのアルバムを書くためのちょっと長い準備期間だったのかもしれない。僕は常に、いつだってどんな時もどんな時もねごとの事を気にかけていた、というのは流石に嘘だけれど、ここ三年の僕は『地球』に存在しながらも『Satellites』という『衛生音楽』を介して『宇宙』を彷徨っていた、そんな気がしてならなかった。同時に僕は、2015年度BESTの記事の中で2015年は『繋がり』を強く意識させた年だと言及したけれど、その『繋がり』を感じた最もたる部分の一つが、他ならぬねごとを中心とした人物と音楽だったのは、今さら言うまでもない。

もう何を言いたいのかお分かりの方もいると思うが、このねごとは僕が与えた試練、その「答え」として、Boom Boom Satellitesが残した『魂』のビートを「受け継ぐ」ような形で、昨年の『アシンメトリ e.p.』、そして本作の『ETERNALBEAT』へと『繋がって』いる。その100点満点の回答に対して僕ができる唯一のことと言えば、赤ペン先生ばりに上から目線で100点満点の返信をするしかなくて、つうか、こんな回答出されたら100点付けて終わりじゃんこれ。俺もう何も言えねぇじゃん。「エモい」とか「泣ける」とか、そんなチープな言葉じゃ何も伝えられない。自分の語彙力のなさに泣けるくらい。というか、こんなとんでもねぇアルバム聴かせられたら、僕が何を書こうと『説得力』のカケラもないし、正直ナニも書けないからもうナニも書きたくないです。



ねごと
Boom Boom Satellites(ANATHEMAの未来)との邂逅という名の引かれ合いが実現した”アシンメトリ”は、シン・ねごとという名のシン・ブンブンサテライツ譲りのイントロから打ち込み主体のダンサブルな、鼓動を打ち付けるような音のビートが波紋のビートとなって体全体に刻み込み、中盤以降のアトモスフェリックな空間表現や崇高さ漂うコーラスワーク、そしてギターの残響音が宇宙を構成する無数無限の微粒子となり、それこそ【左右非対称】や【不均衡】という意味合いを持つ『アシンメトリ』という無数の四次元立方体(テッセラクト)が無限に不均衡に重なり合って、この『ETERNALBEAT』という名の三次元と五次元を繋ぐ『ワームホール』への入り口をこじ開けていく、その姿はまるで自らの手で『運命』『未来』を切り拓いていくねごとの生き様を、この宇宙この銀河の果てまで映し出すかのよう。

ねごとがデビュー当時から一貫してきた「オルタナティブ・ミュージック」への探究心は一つの極地へと到達し、この宇宙からもの凄く遠くて(Distant)、ありえないほど近い銀河の果てにある”ANATHEMA””Boom Boom”という2つの”Satellites=人工衛星”が取得した惑星データと量子データを応用して、相対性理論やくしまるえつこがソロで解き明かした宇宙最大の謎である「特異点」と同じ答えをワームホールに示し出し、そして遂にねごとは次元の壁を超えてThey=彼らと再会する。これにはえつこX次元へようこそとばかり、人工衛星マギオンからほくそ笑んでいるに違いない。冗談じゃなしに、今のシン・ねごとの比較対象ってその辺のガールズバンドじゃなくて、わりとマジでやくしまるえつこ率いる相対性理論だと思う。
 

ねごととダンスミュージックの融合、その相性はアルバムの幕開けを飾る表題曲の”ETERNALBEAT”から遺憾なく発揮されていて、前作のようなロック歌唱ではなくウェットでシットリした幸子(Vo,Key)のオトナ系ボーカルをリードに、この『ETERNALBEAT』という名の小宇宙の幕開けを飾るに相応しい、ミラーボールのようにカラフルなサウンドと永遠に鳴り止まない「始まり」のビートを刻んでいく。”アシンメトリ”と同じく、BBSの中野雅之氏がプロデュースを手掛けた#3”シグナル”は、クラブ系のイントロからバッキバキなエレクトロニカを効果的に鳴らしつつも、要所で幸子のボーカル&キーボードと瑞紀のギターでメリハリを効かせながら展開し、クライマックスではギターのリフとクラップで縦ノリ的な盛り上がりを見せる。

シングル『DESTINY』 の時に「グリッチホップっぽい」と一体どういう意図で書いたのか、自分でもよく分からないのだけど、この4曲目の”mellow”のグリッチホップ的なトラックを耳にしたら至極納得したというか、それこそ同シングルに収録された瑞紀が手がけた”シンクロマニカ”のリミックスという名の伏線を回収するかのような一曲だった。哀愁を帯びたメロディを歌いこなす幸子のボーカルと、そのリミックス風のクール&ドライなトラックが、絶妙な切なさとエモさを呼び起こすバラードナンバーだ。また幸子が奏でるマリンバのノスタルジックな音色が絶妙なアクセントとしてその存在感を示している。

まるで森田童子みたいなノスタルジーの世界へと誘うような、幸子の歌と小夜子と瑞紀のコーラスでゆるふわっと始まる#5”君の夢”は、ある種のドラムンベース的な疾走感溢れるビートを刻むトラックとファンタジックなプログラミングが、まるで白昼夢を見せられているかのような、摩訶不思議なシン・ねごとワールドを構築していく。



なんだろう、何度も言うけどこの”DESTINY”ってねごとの音楽人生、その未来を大きく変えた、言うなれば【特異点】だったと思うのだけど、なんだろう、「全てはここから始まった」じゃあないが、なんだろう、それこそ【過去のねごと】【現在進行系のねごと】【未来のねごと】を紡ぎ出すキートラックというか、なんだろう、ねごと『運命』すなわち『DESTINY』を繋ぐいわゆる四次元立方体(テッセラクト)的な役割を担っているのがこの曲で、このシン・ねごとによる『ETERNALBEAT』の実験的なアルバム前半の曲と、ex-ねごとらしいバンド・サウンド全開でお送りするアルバム後半の曲、それぞれ別次元に存在する粒子を同次元へと繋ぐワームホール、すなわち橋渡し的な役割を担っている。

この”DESTINY”という【特異点】を起点に、打ち込みを駆使したアルバム前半の実験的な流れから一転して、持ち前のエネルギッシュなバンド・サウンドを全面に押し出してくる。ROVOの益子樹氏プロデュースの#7”cross motion”やシングルにも収録された同氏プロデュースの#8”holy night”では、イントロからスペースワールド感&ピコピコ感マシマシの曲で、特に#7はガールズ・バンド界のレジェンドZONE愛を伺わせる幸子のボーカル・ワークが個人的にお気に入り。

アルバム終盤は、前作『VISION』のバンド・サウンドを継承した”Ribbon”、ゆるふわゲーこと『リトルビッグプラネット』風のゆるふわな世界観の中で軽快なロック・ビートを刻んでいく#10”PLANET”、そしてYUI”TOKYO”を彷彿とさせる切ない歌詞をエモく歌い上げる幸子の歌とバラエティ豊かな幅広いアレンジを効かせたアコースティックなトラックがサイコーなラストの#11”凛夜”まで、アルバム後半はex-ねごとらしいバンド・サウンド主体でありながらも、アルバム前半の実験的なサウンド・アプローチを受け継ぐ所はシッカリと受け継いでいる。とにかく、聴き終えた後の「余韻スゲぇ...なんだこのアルバム...宇宙かよ」ってなる。なんだろう、「傑作」とかそんな生半可なもんじゃあないです。単純に「僕の好き」が詰まってる。なんだこれ。

このアルバム、もはや『進化』というよりも『突然変異』と表現したほうが正しいのかもしれない。確かに、前作の『VISION』でド真ん中のストレートな、それこそ自分たちの中でナニかが吹っ切れたようなバンド・サウンドを展開していたねごとが、なぜ一転して打ち込み主体のダンサブルな縦ノリ系のバンドに変貌を遂げたのか?しかし、果たして本当に突然変異なのだろうか?元々、ねごとメンバーの4人が織りなすバンド・サウンドには、グルーヴィでアンサンブルな縦ノリにも横ノリにも強い、ロックバンドとしての柔軟性の高さとそのスキルが備わっていて、だからこの手の打ち込み系との相性もグンバツなのは聴く前から分かりきっていたし、そして何よりも以前からギターの沙田瑞紀がリミックス音源を通して「実験的」なサウンド×ねごとを散々試みてきた事もあって、むしろこの『突然変異』はイメージ通りでしかなかった。あの”アシンメトリ”にしても、そのまんまBoom Boom Satellitesのビートを借りてきたというわけじゃあなくて、あくまでもねごとがデビュー当時から一貫して探求してきた『宇宙』に対する強い”憧憬”と元々の素養から全ては内側から生まれ出た音であり、そのBBSから受け継いだ『魂』のビートと「ガールズバンドねごと」としてのファンタジックなポップネスが、ワームホールを抜けた先にある宇宙の果てでクロスオーバーした必然の結果に過ぎない。つまり、【彼ら=They】が作り出した五次元空間の中で見た【未来のねごと】は、その【彼ら=Theyの正体が実は【ex-ねごと】だったという宇宙の『真実』に到達していたんだ。

あらためて、今作はねごとの音楽的価値観が宇宙を一巡して一回り大きくなってスケール感を増した、シン・ねごとによるオトナ・サウンドを展開していく。彼女たちの音楽的な見識の広さとロック・バンドとしての柔軟性を垣間見せるような、それこそ「オルタナティブバンドとしてのねごと」が持つプライドとポテンシャルがビッグバンを起こした奇跡的な作品だ。楽曲のアレンジ力が格段にアップしたこと、特にトラック面の強化は目を見張るものがある。今作におけるボーカル&キーボード担当の幸子の歌は、無理に声を張り上げるような歌い方ではなく、非常に落ち着いていて相当耳障りが良くてオトナっぽいです。彼女の「ボーカリスト」としての成長および変化は、このアルバムの中で地味に大きな微粒子として存在しているし、ほんの微粒子レベルに些細なことかもしれないが、その微粒子レベルの変化が及ぼす大きな『バタフライ・エフェクト』は地味に評価されるべき所だと思う。単純に歌ってるメロディが心地いい。つうか、そろそろ幸子はANATHEMAヴィンセントChvrchesローレン・メイベリーみたいにドラム叩き始めそうな予感。
 
『繋がり』という点で言うと、シン・ねごとBoom Boom SatellitesROVOもソニー系列のバンドで、面白いことにANATHEMAも「彼らが最もオルタナティブやってた」と評される中期の頃に所属していたMusic for Nationsの親会社がソニー・ミュージックと合併してソニーBMGとなり(詳しくは『Fine Days: 1999 - 2004』参照)、そして2004年にMFNは正式に閉鎖され、ご存じそれ以降のANATHEMAは露頭に迷ってしまうのだが、しかし今思うと、その合併騒動がなければ【今のANATHEMA】は存在しなかったかもしれないし、そう考えると【バタフライ効果】【オルタナティブ】には”引かれ合う”「ナニか」があるのかもしれない。そういった些細な『繋がり』からも、ソニーがやってる事業で一番評価されるべきなのって、ソニー損保のCM事業でもゲーム事業でもなくて音楽事業だよなって再確認した次第。今のねごとは、ソニーの「モノづくり」に対する【オルタナティブ】な姿勢とその信念を受け継ぎ、それを守り続ける音楽界最後の砦、言うなれば「邦楽界のマシュー・マコノヒー」すなわち「シン・オルタナティブ・ヒーロー」だ。彼女たち4人の他に「代わりは、代わりはいないんだ」。

昨今は「ガールズバンド戦国時代」だなんだと囁かれているが、正直そんなことより「ガールズバンド戦国時代」という名の「殺し合いの螺旋」から降りた今のねごとの生き様に刮目せよと、「いま最も評価されるべきバンド」以前に、「いま最も面白いバンド」であり「いま最もカッコイイバンド」でもあり、そして「いま最もオルタナティブなバンド」がこいつらだって、今のねごとを正当に評価してから戦国時代だなんだと騒げよと、ハッキリ言って今のex-ねごとの前では「ガールズバンド戦国時代」なんて子供のお遊戯会でしかない。わかったか、ガルバンの当て振り鳩女ども。

実際にねごとは、「いま最も評価されるべきバンド」その根拠をこのアルバムで、宇宙最大の難問である「特異点」の方程式を解き明かすことで、それを証明してみせた。なんだろう、僕自身がこの『ETERNALBEAT』における『バタフライ・エフェクト』その一部の粒子として存在していた、な~んて勘違いも甚だしいのは重々承知の助だし、なんかもう「ありがとう...」それしか言う言葉がみつからないというか、こんなビッグバンレベルのアルバム出しちゃっていいのかよって。もう本当にナニも言えねぇ。当然、僕はこの【シン・ねごと路線】を全面的に支持するというか、ねごとはこれまで数々の伏線を辿ってきて『今』という『未来』を描いているので、やっぱ何も言えねぇし、やっぱ瑞紀サイコーだ。
 
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DECAYS 『Baby who wanders』

Artist DECAYS
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Album 『Baby who wanders』
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Tracklist

01. Aesthetics of the transgression
02. Zero Paradise
03. 愛と哀を遺さず... <Baby who wanders Ver.>
04. Drifting litter
05. Where are you going?
06. Vagabond
07. Imprisonment Leaving
08. シークレットモード
09. HELLO!NEW I
10. Eve
11. Rana
12. D/D
13. 綺麗な指

今どきロックバンドのフロントマンがソロプロジェクトを始めるなんて事は珍しくもないし、むしろソロ活動しない方がおかしいレベルで、同じようにフロントマン以外のバンドメンバーもソロプロジェクトなるものを始めるのも何も珍しいことではないし、むしろフロントマンのソロ活動以上に活き活きとしてるのが多いくらいだ。それは、僕がティーンエイジャーの頃に夢中だったJanne Da Arcも決して例外ではなかった。ジャンヌダルクは今から約10年前に活動休止状態に入ると同時に、メンバーはそれぞれソロ活動を開始し、ご存じフロントマンのyasuAcid Black Cherryとかいうソロプロジェクトを継続して早くも十周年を迎える。その後、ベーシストのka-yuDAMIJAWとかいう自身のバンドを立ち上げ、ドラムのshujiおじさんもサポメンみたいな形でバンドに参加していた。でもちょっと待ってほしい、この話のポイントはバンドのソロ活動に対する賛否の話ではなくて、例えばロックバンドのフロントマンが自身でボーカルを務めるソロバンドを組むのは誰も疑問に思わないが(例ABC)、ではフロントマン以外の、例えばベーシストやギタリストがソロプロジェクトでバンドを組んだ場合(例DAMIJAW)、肝心のボーカルは一体誰がやるんだ・・・?という単純な疑問が生まれる。僕は、そんなシンプルな疑問を抱えながら、いざダミジョウ初音源のサンプルを試聴した時→え、これ歌ってるの粥やん。いやいやいや、粥めっちゃ歌ってるやん。いやいやいや、なに歌ってんねん粥ってなったし、その時の驚きというか不思議な感覚は、今でも昨日のことのように思い出せる。
 
その例え話と全く同じ話がこのDECAYSだ。DIR EN GREYのフロントマンであるは、sukekiyoとかいうソロプロジェクトを始めて久しいが、このDECAYSはギタリストのDieMOON CHILD樫山氏を中心としたユニットで、現メンバーにはシンガーソングライターの中村中と「美人過ぎるバイオリニスト」のAyasaを迎えた6人編成となっている。しかし、およそ10年前に「粥のトラウマ」を経験している僕は、一抹の不安を抱えながら、2016年に発表された彼らのメジャー1stアルバム『Baby who wanders』を聴いてみた。

    Die
DIEナントカカントカトランスミッション! 

 ぼく下僕
new_136947878325513121615_jojorion20_2「ナントカカントカトランスミッション?!」 

    Die
DIEナントカカントカトランスミッション!」 

 ぼく下僕
new_18「粥ダミジョウ...寄与ツイッタ芸人...湯ギター侍...修二オッサン...うっ、頭が」 

僕は耳を疑った。「いやいやいや、ダイ君めっちゃ歌ってるやん。いやいやいや、ダイ君めっちゃナントカカントカトランスミッションしてるやん」と。 それこそ、「粥のトラウマ」が10年の時を経て現代にトランスミッションしたかと思った。まぁ、厳密にはAesthetics of the transgressionなんだけど、アルバムの幕開けを飾るこの曲は、近未来溢れるモダンな電子音とベースがウネウネと鳴り響く妖しげなイントロから始まり、「90年代」という今よりはまだ日本がイケイケだった頃の音楽シーンを賑わせたTKこと小室哲哉TM NETWORKリバイバルみたいなDie君によるナントカカントカトランスミッション!X JAPAN”WEEK END”を彷彿とさせるサビメロ、要所でAyasaの妖艶に演出するヴァイオリンをフューチャーしつつ、Die君のパリピボイスと中さんによるツインボーカルならではの掛け合いを披露し、つまり90年代のパリピ音楽を作り上げたTKとV系とかいうジャンルをメインストリームにブチ上げたX JAPAN(YOSHIKI)とかいう日本の音楽界にムーブメントを起こした二大アーティストが、約20年の時を経て『音楽』という名の『五次元空間(ワームホール)』の中で邂逅した・・・って、それどこのV2だよ。



その幕開けから、それこそMOON CHILDとかいう90年代を代表する”ESCAPE”だけの「一発屋」をはじめ、バブル崩壊後とは言えまだ日本がイケイケだった頃の謎のパリピ感というか無駄に自己評価の高いキモナルシスティックな社会的ムード、その良くも悪くもノスタルジックな世界観および音像をこの21世紀に蘇らせるのが、このDECAYSというバンドだ。と思えば、2曲目の”Zero Paradise”では一転してメロコア然とした疾走感溢れるサウンドに爽やかなDieのボーカル・メロディを乗せたシンプルでキャッチーなギターロックが聞こえてきて、それこそティーンエージャー向けのポップな青春エモパンクみたいな曲で、僕は「ダイ君これダミジョウよりわかんねぇな...」とか思いつつも、とにかくその感情表現豊かなクサい歌詞を筆頭に、全ての面においてDie君がDIR EN GREYでやってる事と180度違う、もはや可愛いメイドさん達が「北斗の拳イチゴ味」みたいなノリで鬼ごっついメタルやること以上の「ギャップ萌え」は面白いっちゃ面白いかもしれないが、その「面白さ」より勝るのが「戸惑い」であることは、このアルバムを再生すれば2秒で分かることだ。

Dieがメインボーカルを務めた”Zero Paradise”と対になる曲で、今度は中さんがメインボーカルとなる3曲目の”愛と哀を遺さず...”、このDie中さんがそれぞれメインを飾る、言うなればダブル・リードソングでアルバムのツカミを強烈に演出する。また一転して、まるで魔界に迷い込んだような重苦しい世界観が繰り広げられる#4”Drifting litter”は、それこそ魔界で開催される晩餐会の大トリを務める『闇の宝塚』歌劇団、その男役トップに君臨する中さんと女役トップのDie君が織りなす凄艶じみた舞踏会である。これ初め聴いた時は、男のゲストボーカルかな?と思ったら普通に中さんでビビったというか、中村中さんって時々男性ボーカルに聴こえるくらい中性的というか独特の歌声の持ち主で、だから偶に中さんの声とDieの声が男女逆転して性別不能になるというか、それこそジェンダーの壁を超えたツインボーカルは、このDECAYSを語る上で欠かせないとても大きな魅力の一つと言える。

このDECAYSの妖艶な世界観を作り上げるのに最も効果的な存在としてあるのが、他ならぬ「美人すぎるヴァイオリニスト」こと岡部磨知もといAyasaだ。つうか、「美人すぎるヴァイオリニスト」って何人おんねん!とツッコミたくなる気持ちを抑えながらも、Ayasaの他を顧みず自由気ままに弾き倒すヴァイオリンの存在は、DECAYSの耽美的かつ官能的な異世界設定の根幹を司る重要な演者であることは確かだ。そのAyasaSubRosaばりに妖しく響き渡るヴァイオリンを大々的にフューチャーした#5”Where are you going?”中さんメインの曲でちょっとだけDirっぽいネットリ感のある#6”Vagabond”、今度はジェンダーの垣根を超えた二人のツインボーカルが冴え渡る曲で、モダンなV系っぽい雰囲気を纏った#7”Imprisonment Leaving”、再び90年代風のナルシスティックさとディスコ感溢れるビートを「鼓動」のようにズンチャズンチャと刻みながら高速道路を駆け抜ける#8”シークレットモード”Boom Boom Satellitesリスペクトなデジロックの#9”HELLO!NEW I”、Dirにも通じるDie君らしい神秘的かつメロディアスなギターから壮大に展開していく#10”Eve”は今作のハイライトで、キーボードのポップなメロディを乗せたアップテンポで疾走感溢れる#11”Rana”AyasaのヴァイオリンとDie君らしいギターとエロい歌声が織りなす#13”綺麗な指”を最後に、この悪魔城の奇妙な晩餐会は盛大のうちに幕を閉じる。これはアニメ『悪魔城ドラキュラ』の主題歌あるんじゃねー的な。

正直、Die君がナントカカントカトランスミッション!とか言い始めた時点で、10年前の「粥のトラウマ」が蘇って聴くのやめようかと思ったけど、次々に曲を聴いていくうちにその「戸惑い」は晴れ、 「これ普通にダサカッコイイじゃん」ってなります。確かに、DIR EN GREYというバンドからイメージされる音楽からは程遠い、【TKパリピサウンド×90年代V系】からBIGMAMAを彷彿とさせる歌モノ系のメロコア曲まで、それこそ中心でやってるsukekiyoよりもDie君以外のメンバーの存在感が強すぎるお陰で、音楽的な方向性がどうこうよりも割りと好きなことを好き勝手にやってる印象。TK的な音楽という意味でも、このDECAYSって冷静に見ると相当エイベックスの息がかかったメンツが揃ってるんだけど、でもこれだけ濃ゆいメンツを集めて、そのそれぞれに尖った個性をよくここまで一つにまとめたな感は、このアルバムで最も感心させる所だ。

失礼ながら、自分の中で中村中のイメージって随分前にMステ出てたくらいの印象しかなくて、それこそロックを歌うイメージなんてなかった。でも今回のアルバムを聞いたら、中さんとロックって思いの外ハマってるというか、もの凄い適当なことを言うと中さんて凄い「パンクだな」と感じる所があって面白かったし、シンガーソングライターの彼女にとってもバンドのグループの一員として歌うのは全くの「新境地」だと思う。そのメンバーそれぞれの「新境地」という科学的要素の集合体が化学反応を起こし、DECAYSとして産声を上げ、そして『Baby who wanders』の中で花開いている。
 
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