Welcome To My ”俺の感性”

音楽のレビューというか感想をてけとーに書き殴るブログです。

Alternative

【次回予告】トクマルシューゴ→ヤクマルシューゴ→オカマルシューゴ

tricot 『3』

Artist tricot
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Album 『3』
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Tracklist

02. WABI-SABI
03. よそいき
04. DeDeDe
05. スキマ
06. pork side
07. ポークジンジャー
08. エコー
09. 18,19
10. 南無
11. MUNASAWAGI

「中嶋イッキュウのソロデビューとは一体なんだったのか」

ナレ「その謎を明らかにすべく、我々藤岡探検隊はアマゾン奥地へ向かった!」

ぼく藤岡隊長
new_f1923a5521c1b1e5a8ad3dfca108ca75「おぉ...ここが未開の部族が棲む秘境の地か...ん?あれはなんだ!」


ナレ「突如、我々の目の前に暗闇から何者かが現れた!」


 未開の部族
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「コレ アゲル」

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ぼく藤岡隊長
new_img_0「なんだこれは・・・無地のケースに『3』の数字が描かれているだけのCDと「2012.11」という日付のような数字が記された青いCDだ」

 未開の部族
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「コレ キイテ」

ぼく藤岡隊長
new_tanken3-26「よし、まずは青い方のCDから聞いてみよう」


青いCD「私じゃダメなの?もう好きじゃないの?


ぼく藤岡隊長
new_f1923a5521c1b1e5a8ad3dfca108ca75「林抱いて///」

 未開の部族
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「『サン』 モ キイテ」

ぼく藤岡隊長
new_img_0「こ、これは!もしやトリコットの新しいアルバムじゃないか!?おい!手抜きすんなイッキュウゥゥゥウウ!!メンヘラなれーーーーーーーーー!!」

イッキュウ中嶋
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「かかってこいやああああああああああ!!」

ぼく藤岡隊長
new_tanken3-26「Just Bring It!!Just Bring It!!」

イッキュウ中嶋
new_tricot_a-thumb-1200xauto-53972「Just Bring It!!Just Bring It!!」


初めてこの無印のケースに「3」という数字が書いてあるだけの、歌詞カードも入ってない「シンプルイズザベストスタイル」のCDを目にした時、僕は中学生の頃に友達から借りた様々なアーティストの音源が詰まった無印の青いCDを思い出した。これはトリコットのメンバーや僕と同世代の「今ギリギリ20代」の人なら共感してもらえるような話で、今から約15年前、当時の中学もしくは高校時代って「音楽をCDに焼ける奴」=「神」みたいな存在で、そもそも「CDに焼く」という言葉も今では死語になってる気もするし、その「CDに焼く」という行為が違法行為(グレーゾーン?)だなんてのは、昨今の「ストリーミング時代」を前にしたらクソどーでもいいただの思い出話でしかなかった。僕が中学生の頃に友達から借りた上記の青いCD(現物)には、(2002年)当時流行っていたJanne Da ArcL'Arc~en~CielなどのV系ロックをはじめ、モンパチから種TM西川兄貴、ブリグリやBOAなどのJ-POPの音源が詰め込まれていて、特にその中に収録されていたJanne Da Arcのバラード”DOLLS”を初めて聴いた時は、体に稲妻のような衝撃が走ったのを今でも憶えている。それ以来、僕はJanne Da Arcの虜となり、CDは勿論のこと大阪城ホールやSSAのライブDVDを買い占めた。何を隠そう、このトリコットの3rdアルバム『3』は、中学生の頃に無印の青いCDを介してJanne Da Arcと運命的な出会いを果たし、そして僕のその後の音楽的な嗜好を決定づけたように、この『3』を聴いた今の中高校生のその後の人生に多大な影響を与えるであろう、邦楽界の歴史に名を残す名盤なのである。

ここ最近のトリコットといえば、昨年に『KABUKKAKE EP』を発表するやいなや、フロントマンのイッキュウ中嶋がソロ活動を始めたり、それこそ昨今の「洗脳ブーム」に乗っかってじゃないけど、とにかく最近のイッキュウ中嶋って「中嶋ホームオブハートイッキュウ」に改名すんじゃねーかってくらい、なんか悪い男にそそのかされて急に坊主頭にして「出家します」とか言い出しそうな、そんな戸川純リスペクトな典型的な「勘違い女」みたいな危うい雰囲気あって、終いにはゲス野郎のプロデュースで芸人の小籔野性爆弾くうちゃんとバンド結成して俄然「勘違い女」っぷりに拍車をかけ、今やライブツアーの箱も縮小して解散間際の集金ツアーみたいな典型的な落ち目バンドみたいな事やってて、トリコットがそんなハンパなことやってる間に、フォロワーの「右斜め45度女」こと率いるポルカドットスティングレイにも人気でも動員でもブチ抜かれる醜態を晒していて、傍から見てると「おいおいトリコット大丈夫かよ」みたいな、「ソロ活動は自由だけどバンドには迷惑かけんなや」とちょっと心配になるくらい、まぁ、それくらいここ最近のトリコットを取り巻く状況は、こんなオモンナイバンド見たことないってくらい、まさしく「オワコンバンド」の名に相応しい状況まで追い込まれていた。もうこの際、イッキュウ中嶋こと顔面朝勃ち女くうちゃんと一緒に『ドキュメンタル』に参加して100万円奪われとけやと。つうか、なんやねん顔面朝勃ち女て、自分の真上に発射して自分の顔にBUKKAKEんのかよ。キモすぎだろ。

2015年作の2ndアルバム『A N D』では、某BOBO氏をはじめ複数のドラマーの協力を得て制作され、昨年の『KABUKKAKE EP』では、ドラム・オーディションを開催して選出された5人のドラマーを起用した楽曲が話題となったが、実は自分もそのドラムオーディションに応募して、その結果一次選考で落選したことを今でも根に持っていて、何故なら僕がこの度のドラム・オーディションで選んだ曲がX JAPAN”ART OF LIFE”という、いわゆる(Radio Edit)ではない方の29分ジャストの方の完全版で、そしてYOSHIKIの「かかってこいやー!」からの「ヘドバンは良くない」からのアテフリプレイからドラムセット破壊まで、ライブ作品の『Art of life live』を忠実に完全再現したビデオを撮って応募したわけ。なのに一次選考で落選とか本当にショックだったし、もうトリコット聴くのやめようかと思ったほどで、少なくとも「あの時点」ではまだ僕がトリコットの三代目ドラマーとしての人生を歩んでいた「if(もしも)」の世界線が存在していたわけ。まぁ、全部ウソだけど。最終的にサポート・ドラマーに選ばれ、今回の『3』に収録された新曲を叩いているのは、ドラムオーディションを勝ち抜いた5人の内の一人である吉田雄介氏で、なんか結局安牌な結果になったというか、またしても一番面白みのない結果になって、こんな結果ならガチで僕が”ART OF LIFE”の完全版アテフリした方が面白かったわ。もっと言えば、BAND-MAIDがメジャーデビューする前にドラマーのを引き抜いてれば今頃トリコットは天下取ってたに違いない。なぜかと言うと、僕が今年の初めにBAND-MAIDのMVでのドラムプレイを見た時、以前までトリコットのサポート・ドラマーとして活躍していた”みよさん”こと山口美代子さんの叩き方とソックリな事に、ボーカルの彩ちゃんに一目惚れするよりもまず一番先にそこに驚いて、もしや親子関係あるいは師弟関係でもあるのかと一瞬勘ぐったくらい。それは行き過ぎた冗談にしても、でもが一度でいいからトリコットでドラム叩く姿を見たいって人は間違いなく僕以外にも存在するハズ。とにかく、そういった面でも、今のトリコットを取り巻く状況は「オモンナイ」の一言でしかなかった。



それはそうと、この『3』の幕開けを飾る”TOKYO VAMPIRE HOTEL”がOPテーマに起用された、園子温監督のamazonオリジナルドラマ『東京ヴァンパイアホテル』を観たのだけど、毎回OPの入り方がサイコーにカッコ良くてかなり扱いは良かった。ちなみに主題歌はMIYAVI。で、一話の初っ端からしょこたんの激しい銃乱射からの血ドバー!に始まって、謎の筒井康隆ネタから、映画『ムカデ人間』でお馴染みの俳優北村昭博や某グラドル、そして園作品でも毎度お馴染みとなった監督の嫁NTR要素とか小ネタも多いし、そして見せ場となる主演の満島ひかり(弟)と夏帆のアクションシーンは勿論のこと、おっぱいの大きいヒロイン役の女優誰かな?と思って見たら、映画『アンチポルノ』の主演でヌードも披露した(例の当選したポスターでもお馴染みの)冨手麻妙とかいう女優らしく、作中で一番体を張った演技を見せているが、その役者陣の中でも特にMVP級の活躍を見せているのが安達祐実で、さすがレジェンド子役女優だなと。それと、物語終盤に出てくるアカリ役の森七菜は今後要注目の新人女優だと思う。とにかく、レビュー自体はボロクソだけれど、これまでの園子温作品が好きならそのブッ飛んだエログロな世界観だけでも十分視聴継続できるし、確かに3話以降ホテル内の話になると急にテンポが悪くなるのは監督のいつものクセというか、そもそもテンポよくできる監督だったら4時間の映画なんて撮らねぇし、そこはご愛嬌としか。話としては終盤の展開の方が面白いかな。ちなみに、本作は既に映画版として編集されたモノが海外で上映されており、ちなみに名古屋県は豊橋市で撮影されたシーンも収録されている。

そんな『東京ヴァンパイアホテル』の世界観が堪能できる歌詞もポイントなトリコット”TOKYO VAMPIRE HOTEL”は、幕開けの疾走感触れるドラムとソリッドなリフから1stアルバム『T H E』”POOL”を彷彿させる、それこそ”タラッタラッタ”の歌詞にある「初期衝動を忘れたくないのに 古くなる事は止められないらしい」という、初期トリコットの問いかけに対する「答え」のような粗暴で荒々しい獣性むき出しの衝動性を垣間見せ、そして初期の9mm Parabellum Bullet的な、すなわちカオティック/ポスト・ハードコア然とした破天荒かつ激情的なサウンドを繰り広げていく。このトリコット節全開の音作りとサウンドから分かるのは、「This is tricot」すなわち「tricot is Back」を予感させると同時に、その中でボーカルのイッキュウ中嶋は2ndアルバム『A N D』で培った「ポップ」なセンスを巧みに昇華し、それこそ「おいおいペギーズじゃねぇんだから無理すんなBBA」とツッコミたくなるくらい、イマドキのガールズバンドで歌ってそうなくらい(顔面朝勃ち女らしからぬ)過去最高にポップな声色を織り交ぜながら、更に進化した多彩なボーカルワークを披露している。

それから間髪入れず始まる#2”WABI-SABI”は、1stアルバム『T H E』への回帰が見受けられた”TOKYO VAMPIRE HOTEL”と対になるような、今度は2ndアルバム『A N D』的なボーカルとコーラス主体に、しかしトリコットらしさに溢れた変則的なリズムで緩急を織り交ぜながら展開する曲で、この頭の2曲をワンセットみたいな形で聴かせる。その”トリコットらしさ”に溢れた幕開けから一転して、今作の象徴するような#3”よそいき”から導き出される言葉はただ一つ、それが「自由」だ。この曲はオルタナ然としたカッティング主体に展開し、イッキュウ中嶋の「イェイイェイ フッフー アーハー イエーイ」という軽快なボーカルワーク、そして2番目からはまさかの吉田美和がゲスト参加と思いきやリード・ギターキダ モティフォの歌とヒロミ・ヒロヒロの歌を織り交ぜた「トリプルボーカル」をブッ込んでくるほどの「自由さ」を発揮する。確かに、こう見ると確かに今作は「自由」っちゃ「自由」だが、しかしこれを「自由」という一言で片付けてしまったら、これまでのトリコットがやってきたことを全否定するような気もして、今作を「自由」という一言で片付けるにはあまりにも安易すぎないかと、僕が思うに、これは「自由」であること、それ以上に「自然」であると。

確かに、トリコットは初期衝動全開の『T H E』の変拍子だらけの音楽性が高く評価された。その反面、続く『A N D』では変拍子はただのギミックに過ぎないとばかり、そしてフロントマンであるイッキュウ中嶋の「#椎名林檎の後継者なの私だ」アピールを拗らせた、つまりイッキュウ中嶋が「ワンマンバンド化」を目論んだ、「アタシめっちゃ歌えるやん!」と勘違いを拗らせた「ただのJ-Pop」と各方面から批判された。つまり、僕が『A N D』のレビューで「こういうバンドこそメジャー行ったら面白い」と書いたことは、あながち間違いじゃあなくて、それくらいサブカルクソ女系のJ-Pop臭がハンパないアルバムだったのも事実で、それは一作目が高く評価されたバンドにありがちな「二作目のジンクス」みたいな側面もあって、その「脱変拍子バンド」を図った前作が批判されて日和った結果、この『3』では『T H E』『A N D』の中間みたいな、ロックバンドにありがちなクソ典型的な音楽遍歴を辿っている。「変拍子はただのギミックに過ぎない」のは、ある意味前作と何一つ変わっちゃあいなくて、その変拍子に囚われない「いい意味」でこの『3』でも踏襲している。つまり、変拍子祭りの『T H E』と脱変拍子の『A N D』で培ってきた基本的なことを忠実に守り、それを素直に表現しているという意味ではまさに「自由」と言える。

この『3』では、オルタナだマスロックだなんだ、他バンドからの影響だなんだ以前に、それ以上にトリコットなりに「普遍的なロック」を貫き通している。それこそ『T H E』『A N D』の間に生じた「意図的」な「変化」ではなく、この『3』では特定のジャンルや特定の何かを「意図的」にやろうとした気配はまるでなくて、もはや身体に染みついた「変拍子」という名の「意図的」でない「リズム」が「自然」に溶け込んでいくように、端的に言ってスタジオセッションで起こる「インプロヴィゼーション」の延長線上にある、生々しいオーガニックなトリコットなりのロックンロールを、すなわち『トリコロール 顔面朝勃ち女の章』を極めて自然体で鳴らしている。メンバー自身が、真正面からトリコットの音楽と向き合っている。これはもう、いわゆるメシュガーが「メシュガー」というジャンルなら、このトリコットは「トリコット」というジャンルだ。

この『3』を野球の球種で例えるなら、『T H E』でド真ん中のストレート、『A N D』で緩い変化球を投げてきたトリコットが、今度は「ストレート」でもあり「変化級」でもある「ツーシーム」を投げてきている。そう、「ストレート」だと思って打ちに(解釈しに)いったら手前で微妙に「変化」して、バットの根元に当たってバットがへし折れるあの「ツーシーム」だ。どうりで打てないわけだ。「ストレート」だと解釈して打ちにいってはどん詰まり、はたまた「変化球」だと予測して打ちにいっても綺麗に空振りしちゃうわけだ。何故なら、ストレートでも変化球でもそのどちらでもないのが「ツーシーム」=『3』だからだ。だから今のトリコットに野球で勝てるバンドっていないと思う。

前作の”E”を聴いた時は「デッ デッデッデーーーーーンwwwwwwwww」みたいなノリで、メタリカのマスパペでも始まるのかと思ったけど違って、今回は”DeDeDe”というタイトルで今度こそはガチでメタリカのマスパペカバーきたか!と思って聴いてみたけど違った。普通にオシャンティなジャズだった。中盤のハイライトを飾る「イー、アール、サン、スー」な#7”ポークジンジャー”では、『T H E』”おちゃんせんすぅす”を彷彿させるオリエンタルなチャイニーズ感を醸し出し、そのタイトルどおりきのこ帝国を彷彿させる白昼夢を彷徨うかのような幻想的なギターのリフレインが響き渡る#8”エコー”、キレッキレの転調や変拍子を巧みに織り交ぜながらオルタナとプログレの狭間を行き来しつつ、Misery Signals顔負けの叙情派ニュースクールハードコア然としたギターをフィーチャーした#9”18,19”ナムナムナムナムてホンマに出家しよるやんこいつってツッコンだ#10”南無”は、ふと仕事中に無限ループしてクソ迷惑だったのを思い出した。そして『KABUKKAKE EP』に収録された、最初期トリコットのリフ回しから”99.974℃”ばりの転調をキメる#12”節約家”まで、「アンチポップ」あるいは「アンチメジャー」の精神に溢れた、そして#3や#9をはじめ『KABUKKAKE EP』でも垣間見せたソングライティング面での成長、その確かな作曲能力に裏打ちされたトリコロールをぶっ放している。


ここまで書いたこと全部間違ってるし全部ゴミなんで忘れてもらっていいです。この『3』を発売日に買ってから今まで、頭に浮かんだイメージが定まらない上に全然まとまらなくて、頭が破裂しそうなくらいグチャグチャになりながらも、いざ書いてみてもやっぱりリズム感のないゴミ文章にしかならなかったからゴミ。確かに、この『3』でやってることはもの凄く「シンプル」で、しかし「シンプル」故の難しさみたいな所もあって、それは「普通」でいることの難しさでもあって、その音楽的な内面やガワの面では引っかかりがなくて俄然「シンプル」なのに、どこか別のところで妙な引っかかりを感じている自分も確かに存在して、事実このアルバムを初めて聴いた時は「気づいたら終わってた」みたいな感想しか出てこなくて、こう書くとあまり良いイメージを持たれないかもしれないが、逆にそれくらい初めて聴くのに異様に耳に馴染む感覚っつーのかな、実はその感覚こそこのアルバムの一番大事な部分のような気もして、しかしそれでも「核心的」な部分がまるで見えてこなくて、何だかすごく曖昧で、しかしこの言いようのない得体の知れない、恐ろしいナニカが潜んでいるような不気味な雰囲気に飲み込まれそうで。ここまで僕を悩ませたのは、全ては顔面朝勃ち女のメンヘラクソ女みたいな長文ブログ『シンプルがベストだと思う理由』を読んでしまったからで、特にこのブログの「CDが売れない時代」のくだりに引っかかって、何故なら僕は過去にフィジカルとデジタルの境界線に関するCDが売れない時代の話のくだりで、「椎名林檎よりもトリコットのCDを買って応援してやってほしい」と書いた憶えがあって、だからこのブログの内容を見てスゲー考えてんなこいつって思ったし、その流れで急にX JAPANネタぶっ込んできてクソ笑ったし、最終的に「自主レーベルでやりたいことを(自由に)やれてる」と「考え方をシンプルにしたかった」という話を聞いて、またしても僕は過去に「トリコットみたいなバンドこそメジャー行ったほうが面白くなりそう」みたいな事を書いてて、要するにこれらのイッキュウ中嶋の言葉は、自分が「トリコットの事を何も知らないジョン・スノウ」だったと、いや「知ろうともしなかったクソニワカ」だったと気付かされたし、このブログの内容に強く共感してしまった僕は、ヘラりながらも一つの答えにたどり着いた。それが、この『3』トリコットなりの「(実質)メジャーデビュー作」であるということ。

『3』=

この『3』は三枚目の『3』でもあり、三人組の『3』でもある。そして『3』という数字は、キリスト教にとって「三位一体」を意味する奥義であり、キリスト教にとって「神の世界」を表す聖なる数字でもある。この意味に気づいた時、この『3』に潜む「得体の知れないナニカ」を目の当たりにし、そしてトンデモナイ領域にたどり着いてしまったのではと、我々藤岡探検隊はただただ「恐怖」した。これまでのアルバムとは一線をがした、この『3』からにじみ出るような得体の知れないものこそ、全知全能の『神』そのものだったんだ。僕は、この『3』という「神の世界」の中でキリストと対面していたんだ。我々はその「恐怖」を前に体が硬直し、今更もう引き返せなかった。我々は全知全能の『神』と対峙した瞬間、もはや「ツーシーム」だとか「神降ろし」だとかそんなものはどうでもよくなっていた。僕は勇気を振り絞って最後の”メロンソーダ”を聴いた。すると涙が溢れ出して止まらなかったんだ。



この『3』は、今月いっぱいでバンドを卒業する佐藤千明と、今後は『3』ピースで活動していくことを宣言した、盟友赤い公園に対するトリコットなりのエールにしか聴こえなかった。初めてこの『3』を聴いた時から、特にアルバムの最後を飾るJ-POPナンバーの”メロンソーダ”がナニカを示唆しているようにしか聴こえなかった。その数カ月後、まるで『3』という数字が赤い公園の未来を暗示するように佐藤千明の脱退が公表されてから、改めてこの”メロンソーダ”を聴いたらもう涙が止まらなかった。確かに、この”メロンソーダ”イッキュウ中嶋の(顔面朝勃ち女らしからぬ)一際ポップでセンチメンタルな歌声をフィーチャーした、「ただのJ-POP」に聴こえるかもしれない。しかし僕には、決して「ただのJ-POP」には聴こえなかったんだ。今までずっと悩んできた全ての答えがこの”メロンソーダ”に詰まってるんじゃあないかって。皮肉にも、早々にメジャーデビューして「最悪の結末」を迎えた赤い公園とは逆に、「トリコットもメジャーいけ」という周囲の何者の声にも一切惑わされず、自身の音楽理念を信じ、それを一貫して貫き通してきたトリコットというバンドの生き様が込められた、そして「インディーズ」に足をつけながら「もしトリコットがメジャデビューしたら」という高度な「if(もしも)」を、この『3』で実現させている。これは赤い公園”サイダー”に対する”メロンソーダ”であり、赤い公園『猛烈リトミック』に対する『サン』である。最後にトリコットが示したのは、「インディーズ」にいながらも「メジャー」を超えることができるという力強い意志だ。それこそ赤い公園の津野米咲が掲げる”じぇいぽっぱー”としての「意志」を受け継ぐようなJ-POPでアルバムの最後を締めるあたり、これが「トリコットなりのJ-POP」であり、これが「トリコットなりのメジャデビューアルバム」だと、まさにマスロック界からJ-POP界へ殴り込みをかけるような歴史的名盤である。この『3』に込められた今のトリコットの生き様を見せられて、津野米咲は一体何を、そして佐藤千明は一体何を思う?

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ここまでの話は全部ゴミだからどうでもよくて、結局のところ僕がトリコットに伝えたいことはただ一つで、それはイギリスで開催されるArcTanGent FestivalTesseracTと共演した暁に、今度は是非ともTesseracTと一緒に日本でツーマンやってほしいということ。そもそも、このそうそうたるメンツの中に日本のバンドがいること自体相当凄いことで、つまり何食わぬ顔でこのメンツに名を連ねているBorisスゴい。事実、あのTesseracTを日本に呼べる、あるいは対バンできるバンドってトリコットしか他に存在しないと思うし。勿論、このTesseracT(テッセラクティー)TricoT(トリコッティー)の引かれ合いは、2ndアルバム『A N D』の中でTricoTが垣間見せたPost-Progressiveのセンス、その証明に他ならなくて、この『3』TricoTがますます世界的なバンドへと飛び立っていく未来を暗示するかのような一枚といえる。

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tricot
インディーズレーベル (2017-05-17)
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Marika Hackman 『I'm Not Your Man』

Artist Marika Hackman
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Album 『I'm Not Your Man』
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Tracklist

02. Good Intentions
03. Gina's World
05. Round We Go
06. Violet
07. Cigarette
08. Time's Been Reckless
09. Apple Tree
10. So Long
11. Eastbound Train
12. Blahblahblah
13. I'd Rather Be With Them
14. AM
15. Majesty

new_スクリーンショット (34)「こんばんは、稲川VR淳二です」

new_スクリーンショット (34)「今宵は、私が体験した音楽にまつわる身の毛もよだつ恐怖話について語りたいと思います」

new_スクリーンショット (34)「実は私ねぇ、子供の頃からフォークソングが大好きでしてね、ちなみに最近のイチオシはイギリスはハンプシャー出身のマリカ・ハックマンというシンガーソングライターで、彼女が2015年に発表した1stアルバム『We Slept at Last』が私の怪談朗読用BGMに打ってつけの、それこそ「コン コン コン コン 釘を刺す」といった感じの地獄少女的なインディフォークで、そのアルバムは今でも愛聴盤なんですよねぇ」

new_スクリーンショット (34)「そんでもって、そのマリカ・ハックマンが約二年ぶりに新作を発表したっていうんでね、さっそく音源を再生してみたら、いきなりインディロックみたいな音が聴こえてきて、(妙に変だなぁ?)って。だっておかしいじゃない、マリカと言ったらアコギを片手に語り弾きするスタイルなのに、まるでアンプに通電された電子的なギターが聴こえてくるんだもん」

new_スクリーンショット (34)「いやいや、そんなはずないと思って、改めて目を閉じて音に集中して聴いてみたんですよ。するとねぇ、遂にはマリカの肩の辺りに4人の女の背後霊みたいなのがスッと浮かんできて、(うわぁ~~~嫌だなぁ~怖いなぁ~って)、全身に鳥肌がグワ~~~~!!って立った瞬間...私ねぇ、気づいちゃったんですよ」

「あぁ、これThe Big Moonだって」
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リアルにこんな感じで、一曲目の”Boyfriend”からオルタナ/インディロック然としたギターが聴こえてきて、「聴く音源間違えたか?」と思ったら、直後にどう見てもマリカの「あの声」にしか聴こえない倦怠感むき出しの歌声が聴こえてきて、これにはマリカだけにマジカってなった(えっ)。それもそのはず、今作の『I'm Not Your Man』は、マリカがティーンエージャーの頃に夢中になっていた伝説のバンドNirvanaに対する懐かしい「思ひ出」と強い「憧れ」を実現させるために、いま最も注目されているロンドンのガールズバンドことThe Big Moonをバックバンドに迎えて制作された、過去最高にマリカのパーソナルな部分が反映されたアルバムとなっている。 

イギリスはハンプシャー出身、グレーター・ロンドンを拠点に活動する1992年生まれのマリカ・ハックマンは、カバーアルバムや複数のEPをリリースした後、22歳の時にalt-Jを手掛けたチャーリー・アンドリューをプロデューサーに起用した1stフルアルバムのWe Slept at LastDirty Hitから発表すると、その卓越したソングライティングと例えるなら「女版スティーヴン・ウィルソン」の如しマルチプレイヤーとしての才能が一部のSSW界隈で話題を呼んだ。それから約18ヶ月の間に、マリカは新しいマネージャー探しと大手ユニバーサル傘下のAMF Recordsに移籍して、身の回りの全てを一新して24歳になったマリカ・ハックマンは、再びチャーリー・アンドリューをプロデューサーに迎え、私はあなたのモノじゃない的な意味深なタイトルを掲げた2作目の『I'm Not Your Man』で僕たちに一体ナニを訴えかけるのだろう。 

そもそも、マリカ本人がティーン時代の非モテ喪女に扮する「ポップ」なアートワークからして、「足フェチ」ならジャケ買い必須だった前作のフェティッシュかつダークなアートワークをはじめ、その内容も「UKの森田童子かよ」あるいは「山崎ハコの呪い かよ」ってツッコミ不可避な、アコギ一本で語り弾くような陰鬱かつアンチ・ポップ的な本来の作風とはかけ離れたものとなっている。今作の大きな特徴であるThe Big Moonとの邂逅、すなわち"バンド・サウンド "とマリカの邂逅、実はその伏線というのは既に前作の"Open Wide "という、アコギではなくエレクトリックなギターをフィーチャーしたWarpaint顔負けの楽曲にあって、端的な話、今作はそのバンド・サウンド的な方向性を推し進めたスタイルで、前作の時に「女版スティーヴン・ウィルソン」やら「Storm Corrosion」やら「Trespassers William」やらの名前を出して、それこそThe Cure『Faith』を神と拝める2:54Esben and the WitchをはじめとしたUKロックとの親和性の高さに言及したとおり、もはや完全に俺得な音楽性になっていた。そしてもう一つ、今作を語る上で欠かせないポイントがあって、それは今作がアメリカではSub Pop Recordsからリリースされている所で、ご存じSub PopといえばNirvanaの歴史的名盤『Nevermind』をはじめ、今はなきクリス・コーネルSoundgardenらと共に90年代のグランジ・ムーヴメントを作り出した一番の立役者である。

実はというと、マリカはハタチの頃に『Free Covers EP』なる、その名の通りカバーアルバムをリリースしていて、それこそ、そのカバーアルバムが本作における二大キーワードとなる「Nirvana」「Warpaint」、それらと今のマリカを繋ぎ合わせる 「原点」と呼べるものであり、その中でもニルヴァーナからの強いインフルエンスは、2曲目のリフ回しからボーカル・メロディをはじめ、それこそニルヴァーナ屈指の名曲"Come As You Are"のカバー曲かと思うほど、特にバックのサウンド面から顕著に現れており、思えば1曲目の"Boyfriend"のサビのバッキングは名曲"Smells Like Teen Spirit"を彷彿させるし、3曲目の"Gina's World"に至ってはWarpaintのEP『Exquisite Corpse』リスペクトなリズム&グルーブ感溢れるドリーム・ポップで、今作のコンセプトとなる「原点回帰」はアルバムの序盤から惜しげもなく発揮されている。

陰鬱なシンガー・ソングライターから一転して、バンド体制という自らがやってきたことへの根底を揺るがしかねない大きな変化が起こって、一体どうなるもんかと思いきや、そこはもともとオルタナ/インディ・フォークとしての側面を持ち合わせているだけあって、バックのThe Big Moonが奏でるオルタナティブなバンドサウンドと自然に共振する部分は思いのほか沢山あって、事実マリカの憂鬱な歌声はこの手のダウナー系のグランジ/オルタナ系のサウンドと驚くほど違和感なくマッチする。もはや、馴染みすぎて逆にこれまでフォークソング歌ってた人間には思えなくて、にこやかな顔で互いに笑顔を振りまきながら、仲良くセッションしている様子が浮かんでくるような息の合ったファミニンなグルーヴ感は、既に本当に実在する五人組のロックバンドのようなライブ感を放っている。つまり、マリカの音楽的な根っこの部分は何一つ変わっちゃあいないし、紛れもなくマリカにしかなし得ない「呪いの音楽」である。そして人々は、このアルバムをレディオヘッドとウォーペイントの間にある音楽と呼んだ。

その「不変的」な部分、それは前作でも垣間見せたスティーヴン・ウィルソンとも共振する、いわゆるPost-Progressiveなセンスおよび叙情的な雰囲気は、3曲目の”Gina's World”を皮切りに、今作を象徴するかのようなインディ・ポップ然とした4曲目の”My Lover Cindy”を間に挟んで、山崎ハコ系の5曲目の”Round We Go”や森田童子系の”Violet”、再び”らしさ”に溢れた”Cigarette”というインディフォークナンバーを間に挟んで、そして今作のハイライトを飾る、ウォーペイント最大のクソ曲こと”Disco//Very”リスペクトかと思いきや中盤でPost-化する8曲目の”Time's Been Reckless”や初期ウォーペイント然とした10曲目の”So Long”などの、決して一筋縄ではいかない曲構成はまさにこれぞマリカ節といった感じだし、むしろ今回バンドサウンド中心になったことで、よりそのPost-感というのが立体的に表面化し、結果的に音の強弱、いわゆる静と動のコントラストというマリカの武器に更なる磨きがかかっている。同時に、ザ・ビッグ・ムーンを交えたユルくて賑やかなコーラスワーク、こだわり抜かれたミニマルなフレーズ、前作でも垣間見せたマルチミュージシャンとして更に洗練された多彩なアレンジ、そしてPost-系ならではの楽曲構成力とダウンテンポからアップテンポまで何でもござれな底知れぬソングライティング、それらマリカの無理難題にも近いハイスペックな要求に対して、このザ・ビッグ・ムーンは「バックバンド」だからと言って一切の手抜きをすることなく、持ちうる力の100%いや120%の力で答えている。つまり、今作はマリカとザ・ビッグ・ムーン、双方の強い信頼関係により成り立っている作品とも言える。

確かに、前作で獲得した暗鬱フォークフアンからは「脱フォーク化」したと非難轟々かもしれないが、しかしマリカは今作に対して「これもまた私の脳の一部」であると語っており、僕はこの言葉を聞いて「これぞオルタナティブアーティストならではの考え方だ」と彼女を賞賛するしかなかった。それはマリカが過去最高に感情を表に爆発させる実質ラストの”I'd Rather Be With Them”という曲一つ取ってみても、それこそ「私はあなたのモノじゃない」というタイトルの意味が全てを物語っていて、実際にこれ聴いちゃったらもう前作のが良かったなんて軽々しく言えないです。むしろ逆に、チャーリー・アンドリューという名高いプロデューサーと今話題のガールズバンドがバックに付いてて傑作以外のモノを作るほうが難しいというか、正直こんなに贅沢なアルバムってなかなかお目にかかれないと思う。こう言っちゃあなんだけど、今年リリースされたザ・ビッグ・ムーンの1stアルバムより良いし、正直今のウォーペイントよりよっぽどウォーペイントらしいことしてます。

とにかく、その二組の偉大なる「裏方」の協力によって、マリカの「ミュージシャンとしての才能」は元より、「フロントウーマン」としての才能が花開いたのも事実で、つまりこのアルバムには「マリカ・ハックマン」の名をここ日本の(ホステス界隈を中心とした)音楽リスナーに知らしめるには十分過ぎる、マリカの「オルタナティブ」な魅力と質の高い楽曲とユニークなアイデアに満ち溢れた作品だ。しっかし、自分自身なんでこんなにマリカ・ハックマンの歌声に魅了されるんだろうと疑問に思って、もしやと思ってマリカの誕生日を調べてみたらやっぱり「2月生まれ」でマリカってなった(えっ)

アイム・ノット・ユア・マン
マリカ・ハックマン
Hostess Entertainment (2017-06-21)
売り上げランキング: 29,433

戸川純 with Vampillia 『わたしが鳴こうホトトギス』

Artist 戸川純 with Vampillia
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Album 『わたしが鳴こうホトトギス』
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Tracklist

01. 赤い戦車
02. 好き好き大好き
03. バーバラ・セクサロイド
04. 肉屋のように
05. 蛹化の女
06. 12階の一番奥
07. 諦念プシガンガ
08. Men’s Junan
09. わたしが鳴こうホトトギス
10. 怒濤の恋愛

織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

約一年ぶりに漫画『HUNTER X HUNTER』の連載再開がアナウンスされた原作者の冨樫義博が、この休載期間という名のサボり中に一体ナニをしていたのか?それこそ、戸川純の歌手活動35周年を記念したブルータルオーケストラことVampilliaとのコラボ作品に伴うアーティスト・イラストで、これには「もっと仕事選べよ富樫、つうか仕事しろ富樫、あっ、仕事してんのか富樫」ってツッコんだ。 

豊臣秀吉「鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス

何かとお騒がせな戸川純に影響を受けた(女性/男性問わず)アーティストは数知れず、中でも「戸川純の後継者」とか「戸川純のパクリ」だとか散々なレッテルを貼られた椎名林檎はその筆頭で、その椎名林檎の提供曲をドラマ『カルテット』の中で披露し、そしてMONDO GROSSOの約14年ぶりとなる新曲ではバブミの深い歌声を聴かせていた女優の満島ひかりちゃんが、戸川純の12年ぶりの新曲および新作となる『わたしが鳴こうホトトギス』に対するコメントを発表したとのことで、いわゆる十年来の「満島ひかり大好き芸人」としては聴かないという選択枠がもはやないわけです。しかし今思うと、9年前の2008年に公開された園子温監督の映画『愛のむきだし』での満島ひかりちゃんの息を呑むほどの破天荒な演技には、他でもない戸川純の影響があったのかもしれない。そう考えると、今回のコメントの件はなかなか感慨深いものがある。

徳川家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス

当然、自分は戸川純が世間を騒がせていたらしい時代/世代の人間じゃないので、それこそ例の重大事件をニュースで見て「頭のおかしな女」と子供ながらに思った記憶しかなくて、だから2014年にVampilliaとの初コラボが実現した『the divine move』"lilac"で初めて「歌手」としての戸川純の歌をマジマジと聴いたくらいで、つまり今作に収録された過去の名曲すら実質新曲として認識してしまう立ち位置の人間が、ただ単に「満島ひかり大好き芸人」という理由だけで今作を聴いてみた結果・・・果たして?



幕開けを飾る1曲目の”赤い戦車”から、ツインドラムを擁した破天荒かつアヴァンギャルディなVampilliaらしいヘヴィなサウンドスケープを繰り広げ、その重厚な音世界のセンターで威風堂々とした立ち振舞で戸川純が、それこそ昔も今も変わらぬ「シン・オルタナティブ」としてのシンボル=象徴としてその絶対的な存在感を発揮する。2曲目の”好き好き大好き”は、どっかで聴いたことあるなと思ったら、新生アイドル研究会BiS非常階段がコラボしたユニットことBiS階段がカバーしたことでもお馴染みの原曲で、初期のDir en greyみたいなサイバーパンク感あふれる3曲目の”バーバラ・セクサロイド”、イントロからグランジ風のヘヴィなギターリフをフィーチャーした4曲目の”肉屋のように”、パッヘルベルの名曲”カノン”に詞を与えた5曲目の”蛹化の女”は、原曲でもお馴染みのストリングスの優美な旋律と打ち込み系の激しくモダンなアレンジが、コラボならではのギャップと摩訶不思議な音楽体験を提供している。ATMSフィールドを展開する緩やかな始まりから、転調を交えてドラマティックに展開していく6曲目の”12階の一番奥”、ツインドラムが放つグルーヴが気持ちいい7曲目の”諦念プシガンガ”、激情系ポスト・ブラックメタル感がマシマシになる8曲目の”Men's Junan”、そして12年ぶりの新曲となる表題曲の”わたしが鳴こうホトトギス”は、初コラボ曲の"lilac"の再来となる真部脩一が手がけた俳句的な歌詞を刹那的に歌い上げる戸川純のボーカル、ピアノとヴァイオリンの優美な音色が織りなす緩やかな始まりから、歌姫の『魂』に共鳴するかのように激情するギターと怒濤のドラムが唸るような轟音を形成し、物語はリリカルでドラマティック、そして感動的なクライマックスを迎える。その姿は、まるで決して出会ってはいけない、「はみ出し者」with「はみ出し者」が運命の再会を果たしたかのような、その「はみ出し者」同士お互いに共振し、そして互いに高め合うようにして未知なる相乗効果を生み落としている。

このアルバムには、戦国時代の3人の英雄が叶えた「天下統一」という『夢』、その気高い『意志』を現代に受け継ぐ「歌姫」として生き続ける戸川純の『覚悟』が込められている。Vampilliaとかいう謎の音楽集団が繰り広げる混沌蠢くサウンドに飲み込まれない、むしろ逆に美味しそうに喰っちゃってる戸川純の歌声、その存在感たるやまさしく唯一無二かつ孤高、それ以外のナニモノでもない。もちろん、過去の原曲を知っていたほうが良いのだろうけど、しかし原曲を知らなくてもVampilliaworld’s end girlfriendによる多彩で奇抜なアレンジで楽しませる、つまり”カッコー”ならぬ『過去』の音を『イマ』の音としてブラッシュアップしている。そもそも、Vampilliaとの初邂逅となった"lilac"の時点で、その異常な相性の良さを垣間見せていたが、その相性の良さは今作および新曲を聴けば確信へと変わるし、目出度く出演が決まった今年のフジロックでは、この音源以上の「はみ出し者」with「はみ出し者」によるブルータルな喜劇舞踏を見せてくれるに違いない。でもちょっと待って欲しい、今年のフジロックにMONDO GROSSO戸川純 with Vampilliaの出演が決まったとなると...もしや満島ひk...いや、ねーか...。

とにかく、12年ぶりの新曲は"lilac"の延長線上にある名曲なんで、これだけのために今作を聴く価値は十分にあります。ちなみに、ネクロ魔ことNECRONOMIDOLと同じように、今作をBandcampで買うとflacが24bitのハイレゾ仕様になってるので、普通に国内のハイレゾ配信サイトで同じ仕様の音源を買うよりもチョトだけオトクです。

わたしが鳴こうホトトギス
戸川純 with Vampillia
Virgin Babylon Records (2016-12-14)
売り上げランキング: 5,924

Ulver 『The Assassination of Julius Caesar』

Artist Ulver
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Album 『The Assassination of Julius Caesar』
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Tracklist

02. Rolling Stone
03. So Falls The World
04. Southern Gothic
05. Angelus Novus
06. Transverberation
07. 1969
08. Coming Home



1997年8月31日は、その年のパリの中で最も熱い夜のうちの1つであった。ちょうど夜半過ぎ、黒いメルセデスベンツは執拗なパパラッチの大群を牽引し暗い通りを急いで行く。車は猛スピードでアルマ橋トンネルに突入、直線の進行方向から大きくそれて13番目の支柱に衝突、金属のうなる声とともに、ウェールズ公妃ダイアナはその短い生涯を終える 。世界はその最も大きい象徴のうちの1つを失った。物語は、ギリシャ神話に登場する狩猟・貞潔の女神アルテミス(ローマ名ダイアナ)のエピソードに共鳴する。ある日のこと、猟師アクタイオンは泉で水浴びをしていたアルテミスの裸を偶然に目撃してしまい、純潔を汚された処女神アルテミスは激怒し、彼を鹿の姿に変え、そして彼自身の50頭の猟犬によってバラバラに引き裂かれる。この写真は、Ulverの13枚目のアルバム、『ユリウス・カエサルの暗殺』を描き映す。

『ディアナとアクタイオン』
Tizian_Diana_Aktaion

初期の頃はブラック・メタルとしてその名を馳せるが、今では一匹狼的の前衛集団として孤高の存在感を誇示し続ける、「ノルウェイの森の熊さん」ことガルム率いるUlverが、同郷のTromsø Chamber Orchestraとコラボした2013年作のMesse I.X–VI.Xや2014年にSunn O)))とコラボしたTerrestrialsなどのコラボ作品を経て、ミキシング・エンジニアにKilling JokeMartin Gloverを迎えて約3年ぶりに放つ通算13作目となる『The Assassination of Julius Caesar』は、それこそ80年代に一世を風靡したイギリスのDepeche ModeKilling Jokeに代表されるニューウェーブ/ポスト・パンクに対する懐古主義的な作風となっている。

Nero lights up the night 18th to 19th of July, AD 64

ブルータス、お前もか来た、見た、勝った。など数々の名言でもお馴染みの、古代ローマの象徴であり民衆のアイコンである英雄「ガイウス・ユリウス・カエサル」「暗殺」というキラータイトルの幕開けを飾る一曲目の”Nemoralia”は、別名”Festival of Torches”とも呼ばれ、8月13日から15日にかけて古代ローマ人が定めた、8月の満月にローマ神話の女神ダイアナに敬意を示す祭日である。上記の歌詞は、西暦64年7月19日、皇帝ネロ時代のローマ帝国の首都ローマで起こった大火災『ローマ大火』を指しており、「ネロは新しく都を造るために放火した」という噂や悪評をもみ消そうと、ネロ帝はローマ市内のキリスト教徒を大火の犯人として反ローマと放火の罪で処刑したとされる。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、ネロは暴君、反キリストの代名詞となった。ここでは、その女神ダイアナにまつわる祝い事とキリスト教徒弾圧、そしてThe Princess of Walesことウェールズのプリンセス「ダイアナの悲劇」を共振させ、歌詞中にあるHer sexual driveは1997年8月31日に起こったロマンスの都パリで恋人との官能的なドライブをほのめかし、彼女のBodies of the modern age(現代の洗練された肉体)」Flowers crown her head(彼女の頭にある花冠)」Ancient goddess of the moon(月の古の女神アルテミス)」であると語りかける。もう既にお気づきの方もいると思うが、今作のタイトルの『ユリウス・カエサルの暗殺』、そしてエマニエル夫人のように艶めかしい肉体、その女性特有の曲線美を映し出すアートワークは、他ならぬ「ダイアナ妃の暗殺」を暗示している。

『ローマ大火』
Robert,_Hubert_-_Incendie_à_Rome_-

約10分の長尺で2曲目の”Rolling Stone”は、民族的なパーカッションとゲストに迎えた同郷Jaga JazzistStian Westerhusによるノイジーに歪んだギターのエフェクト効果とUSのPhantogramを彷彿させる重低音マシマシのエレクトロが織りなす、ダンサブルかつグルーヴィな打ち込み系のリズム・サウンドで幕を開け、その重心の低いダーティなビート感を持続させながら、Rikke NormannSisi Sumbunduという二人の女神とガルムによる古き良きムード歌謡風のデュエットを披露する。そして、後半に差しかかるとピコピコ系のエレクトロニカにバグが生じ始め、ドラムの粗暴なブラストとサックス界の生ける伝説ことニック・ターナーによるサックスが狂喜乱舞し、例えるならJaga JazzistKayo Dotを一緒にブラックホールにブチ込んだような混沌蠢く、とにかくアヴァンギャラスに暴走して化けの皮が剥がれ落ちて、遂には出自そのものが顕になって笑う。

3曲目の”So Falls the World”は、繰り返し鳴り響くロマンチックなピアノとエレガントなシンセが情緒的かつ優美な音世界を描き映す曲で、しかし終盤に差しかかると場面が一転する。それはまるで、Chvrchesローレン・メイベリーとガルムが互いに手を取り合って、それこそ映画『美女と野獣(熊)』の如く今にも踊り出しそうな、官能的かつダンサブルなビートを刻むダンス・ミュージックが、まるで「闇へと踊れ」とばかり聴く者の心を暗躍させる。まさか同郷のSusanne SundførRöyksoppとツルんでエレクトロニ化したのはこの伏線だった・・・? この曲に関連してちょっと面白いと思ったのは、ギリシャ神話ではアルテミスは古くは山野の女神で、野獣(特に熊)と関わりの深い神とされているところで、いやそれもう完全にガルムのことじゃんwって笑うんだけど、だからこの曲はそのギリシャ神話および女神アルテミスとUlverの関係性を密に表していると言っても過言じゃあない。

Depeche ModeKilling Jokeをはじめとした往年のニューウェーブ/ポスト・パンクを彷彿させる、過去最高にポップテイストに溢れたガルムのボーカル、ダイナミックなリズム&ビートを刻むドラム・サウンド、そしてギタリストDaniel O'Sullivanによるオルタナ然としたギターが、クラップやストリングスおよび打ち込みを交えながらキャッチーに展開する4曲目の”Southern Gothic”は、”80s愛”に溢れた今作のカギを握るキラートラックであり、中期の傑作『Shadows of the Sun』を彷彿させるガルムのダンディボイスとトリップ・ホップ風のトラック、そしてミニマルでリリカルなメロディが静かに気分を高揚させていく5曲目の”Angelus Novus”、往年のシンセ・ウェーブ然としたゆるふわ系のイントロから、再びDaniel O'Sullivanによってかき鳴らされるオルタナ然としたギターをフィーチャーした6曲目の”Transverberation”、ここまでの中盤はキャッチーなポップさとオルタナ的なアプローチを強調した流れを見せる。

再び女神を演ずるSisi Sumbunduとガルムがムード歌謡的なデュエットソングを披露する7曲目の”1969”、そしてDag Stibergによるサックスと時空の歪みで生じるヘヴィなエレクトロニカをフィーチャーしたSpoken wordを繰り広げる8曲目の”Coming Home”を最後に、Ulverという名の狼は強大なワームホールを形成し、人類の新たなHOMEとなるシン・次元へと導き出す。

同郷のTromsø Chamber Orchestraと共演した前作の『Messe I.X–VI.X』というクラシカルな傑作を出した彼らが、一転して今度は「踊らせ系」のシンセ・ウェーブへと様変わりし、とにかく「ポップ」で、正直ここ最近のアルバムの中では最も分かりやすいキャッチーな作風となっている。しかし、その裏に潜む作品の「テーマ」は極めて複雑怪奇となっている。確かに、この手のエレクトロニカ/インダストリアル系というと、初期メンバーから一新して生まれた中期の傑作『Perdition City』辺りを彷彿させるかもしれないが、しかしそれとは近いようでいてまるで別モノで、どっちかっつーとムード全振り感は同じく中期の傑作『Shadows of the Sun』に通じるモノがあるし、極端な話その『Shadows of the Sun』を豪快にポップ・サウンドに振り切った感覚もなきにしもあらずで、そして『あの時代』と『音』と『文化』を身をもって知っているKilling JokeMartin Gloverをエンジニアとして迎えている所からも分かるように、その音自体はコッテコテなくらい80年代のUKサウンドをリバイバルしている。そのポスト・パンク/ニューウェーブ的という意味では、ギタリストDaniel O'SullivanのユニットMothliteの2nアルバムDark Ageの方がイメージ的に近いかもしれない。

あたらめて、このアルバムは今からちょうど二十年前の『8月』に起きた「ダイアナの悲劇」をギリシャ神話の女神アルテミスと重ね合わせ、そして二人の『魂』を時空を超えて共鳴させた芸術的な作品だ。もっとも面白いのは、狼は女性神に支配される属性とされ、月が女神として信仰されているところで、今作で例えると狼は他ならぬUlverであり、月の女神はアルテミスに他ならない。つまり、”Nemoralia”が開かれる『8月』の満月の夜にUlver「月の犬」である狼マーナガルムへとその姿を変え、『現代(modern)』を司るダイアナ妃という『大衆(popular)』のシンボルを通して、すなわち「月の女神」であるアルテミス(ダイアナ)と誓約を交わし、そして古代ローマの偉人『ユリウス・カエサルの暗殺』を経由して『ダイアナの暗殺』を暴き出している。狼は『音楽』という名のワームホールの中で、『絵画』の中で描かれる『神話』『過去』『歴史』『現在』『大衆文化』を一つに結合するという、月の女神に従える化身としての使命を果たしているのだ。これらの衝撃的な事実に気づくと、この作品がただの懐古主義の一言で片付けられるアルバムではなく、いかにトンデモナイことしでかしてる『歴史』的名盤なのかが分かるハズだ。これぞ「オルタナティブの極地」だし、ガルムは間違いなく熊界最強の熊だと思う。

The Assassination Of Julius Caesar
Ulver
House Of Mythology (2017-04-07)
売り上げランキング: 53,552

Alcest 『Kodama』

Artist Alcest
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Album 『Kodama』
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Traclist

01. Kodama
02. Eclosion
03. Je Suis D'ailleurs
04. Untouched
05. Oiseaux De Proie
06. Onyx

先日、長編アニメーション作品への現役復帰宣言をした宮﨑駿の何が凄いって、国内外のアニメーター/クリエイターへの影響は元より、その「アニメ」という枠組み、垣根を超えて今や多岐の分野にわたって根強く影響を与え続けている所で、最近ではブリット・マーリング主演のNetflixオリジナルドラマ『The OA』の役作りにも『もののけ姫』の影響があったり、そして何そ隠そう、某NPBの加藤◯三氏のご厚意により、「Alcest」の正式名称が「アルセ」あらため「アルセスト」あらため「アルセ」あらため「ンアルセストゥ」に統一された、そのンアルセストゥの首謀者でありフランスの貴公子ンネージュゥも、宮﨑駿の最高傑作である『もののけ姫』をはじめ、80年代や90年代の日本のTVアニメシリーズやビデオゲームなどの日本のサブカルチャーからインスピレーションを受けたと語るほど日本贔屓な人で知られている。それらを含めて宮﨑駿作品の「影響力」というのは、歴代ジブリ作品の売上をブチ抜いた君の名は。新海誠監督にはない言わば「オリジナリティ」であり、そこがパヤオと誠の大きな差であり違いでもあった。

この「アルセ」あらため「アルセスト」あらため「アルセ」あらため「ンアルセストゥ」といえば、今から約10年前にリリースされた1stフルアルバム『Souvenirs d'un autre monde』で衝撃的なデビューを飾り、2010年にはその歴史的名盤と対になる2ndアルバムÉcailles de Luneを発表し、いわゆる【Post-Black/Blackgaze】の先駆者および元祖としてその名を世界中に轟かせる。しかし、その二年後に3rdアルバムの『Les voyages de l'âme』をドロップしたンネージュゥは、ポストブラック・メタルの『可能性』とその『未来』に対して一抹の不安と迷いを感じ始める。転機となったのは、他ならぬ新世代のポストブラック・メタルシーンを担うDEAFHEAVENの台頭で、彼らはピッチフォークをはじめインディ系の音楽メディアから祭り上げられる事となる2ndアルバムのサンベイザーを世に放ち、ンアルセストゥンネージュゥが見失いかけていたポストブラック・メタルの全く新しい形、すなわちポストブラック・メタルの『未来』をシーンに提示し、ンネージュゥが独りでに長年思いを馳せていたピッチフォーク・メディアへの強い『憧憬』『夢』、その想いをンアルセストゥの正統後継者であるデフヘヴンが受け継ぐ展開、それこそまさに世代交代の瞬間じゃあないが、ポストブラック・メタルの元祖および教祖のンネージュゥが叶えられなかった『夢』『ユメ』を次世代のデフヘヴンへと委ねていく、この一連の流れは、いま思い出すだけでも胸が熱くなるような出来事として記憶に残っている。

あの歴史を動かしたサンベイザーに触発されたのか、ンネージュゥの心の奥底(インサイド)に隠された秘密の扉が徐々に外側(アウトサイド)へと開かれていき、もはやポストブラック・メタルの先駆者および元祖としての立場から解放されたンネージュゥは、長年の自らの『夢』を叶えんと、2014年に4thアルバムとなるシェルターを発表する。まず一つめの『夢』は、アイスランドのレジェンドことシガーロスへの強い憧憬で、ビョークやシガロ作品でお馴染みのエンジニアBirgir Jón Birgisson「ヨンシー親衛隊」ことストリングスカルテットのAmiinaを迎えて、アイスランドのSundlaugin Studioで録音、そしてマスタリングには世界的な売れっ子エンジニアテッド・ジェンセンが所属するSterling Soundにて行われ、まるでフランスの片田舎出身の陰キャの陽キャの都会人に対するコンプレックスが暴発したかのような、これ以上ない万全の録音体制で挑まれている。そして2つめの『夢』は、他ならぬシューゲイザー界のレジェンドSlowdiveへの憧憬で、デフヘヴン『サンベイザー』に「ポストブラック界のレジェンド」として迎え入れられたンネージュゥは、今度は自身の作品に「シューゲイザー界のレジェンド」としてSlowdiveニール・ハルステッドを迎えてみせた。だけあって、その音世界もアイスランドの大自然と純白の雪景色を太陽のように眩い光が照らし出すかの如し、それこそ2013年にツアーを共にしたUKのANATHEMAが組織する黄金界隈」の仲間入りを果たすべく、その言うなれば黄金期のジャンプ漫画」ばりに前向きな「勇気」と「希望」に溢れた神々しい世界観を繰り広げ、まさに「日本人向け」と釘打てるほどの音楽だった。 

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このドラゴンボール顔負けの「元気玉」のような「太陽」すなわち「サン」が次作への伏線だったのかなんて知る由もないが、前作のシェルターから約二年ぶりとなる5thアルバム『Kodama』は、日本人イラストレーターの山本タカト氏の作品にインスパイヤされた、日本のエログロ大好きなフランスの二人組グラフィックデザイナーFørtifemが手がけた、『もののけ姫』のヒロインサンをモデルにしたアートワーク、そして「Spirit of the Tree」を意味する「コダマ(木霊)」を冠したそのタイトルが示すとおり、二度(三度目)の来日公演と圓能寺でのスペシャルなアコースティックライブを経験し、科学的技術が発達した日本社会ならびにクレイジーなオタク文化を目にして「日本人は時代の先を行ってるよ」と海外の反応シリーズばりに衝撃を受け、しかし文明が発達した現代社会の中にも日本人の「伝統」や「自然」、そして日本人の「美徳(おもてなしの心)」と「精神性」が共存している、それこそ『もののけ姫』の主題の一つである「神秘主義と合理主義の対立」すなわち「テクノロジーが発達した現代社会」と「そこに住む原始的かつ土着的な人々」と対比(コントラスト)に感銘を受けたと語る、そんなンネージュゥの創作イマジネーションが爆発した、過去最高にスピリチュアルな「ギミック」とコンセプティブな「ワード」が込められた、言い換えればこれはもう「キングオブ・ビッグ・イン・ジャパン」アルバムだ。

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『Kodama』の音楽的な方向性とサウンドプロダクションならびにアイデンティを象徴するキートラックとなる表題曲の”Kodama”は、まず何が驚いたって、兄弟分のLes Discretsを彷彿とさせる慟哭不可避なイントロに次いで、ボーカルの裏でなるバッキングのガリガリしたダーティなギターリフを耳にした時に、UKの女性デュオ2:54”Revolving”が脳裏に過ぎり、そこから更に遡ってThe Cureをはじめとした80年代のポストパンク/ニューウェーブ、そして90年代のオルタナ/グランジからの影響を伺わせるサウンド・アプローチを聞いて僕は→「なるどほ・・・そう来たか!」と、「アイスランドから離れて今度はUKに来ちゃったか!」と呟いた。その90年代のオルタナ然とした渇いたギターと過去最高に強靭なリズムを刻むドラム、そして北風小僧の寒太郎ばりに素朴な『和』を表現した、それこそ『もののけ姫』の豊かな森林に住む精霊コダマの合唱が大森林に反響するかのような神秘的なメロディや、まるで「シシ神様」の如しKathrine Shepardの聖なるコーラスをフィーチャーしながら、それらの80年代~90年代の音楽をルーツとする幅広い音楽的素養と「ええいああ 君からもらい泣き」と俄然民謡的なメロディを奏でるンネージュゥの歌とお馴染みのシューゲイズ要素をダイナミックかつプログレスに交錯させていく、それこそ『もののけ姫』のサントラとして聴けちゃう崇高かつ壮大な世界観と極上のサウンドスケープを展開していく。これまでのどのアルバムとも違う全く新しいンアルセストゥ、それこそシン・ンアルセストゥの幕開けを宣言するかのような一曲であり、この曲のアウトロまで徹底して「オルタナ」の意識を貫き通しているのは、今作のサウンド面のキーワードが「オルタナティブ」であることを暗に示唆しているからだ。

いわゆる「静と動」のコントラストを活かした、要するに往年のンアルセストゥ-スタイルへと回帰した”Kodama”に次ぐ2曲目の”Eclosion”は、「UKの相対性理論」ことEsben and the Witchを彷彿とさせる幻想的なメロディをフィーチャーしながら、徐々にギアチェンしていきブラストで粗暴に疾走するエモーショナルな展開を見せてからの、そしてもう何年も聴くことがなかったンネージュゥ「世界一エモーショナルな金切り声」が聞こえてきて、僕は泣きながら・・・

「ン゛ア゛ル゛セ゛ス゛ト゛ゥ゛ウ゛ウ゛ッ゛ッ゛!!」 

ン゛
イ゛ズッ゛ッ゛ッ゛」 

「ヴァ゛ア゛ア゛ア゛ッ゛ッ゛ッ゛ク゛ク゛ッ
!!」 

・・・と、ンネージュゥに負けじと絶叫した。

そんなンネージュゥ自身も「トラディショナル・ソング」と語る3曲目の”Je Suis D'ailleurs”は、1stアルバム『Souvenirs d'un autre monde』や2ndアルバム『Écailles de Lune』を連想させる刹那的に歪んだリフとンネージュゥのスクリームでシンプルに展開し、特に終盤の目玉となる間奏のラブリーなメロディは、ンネージュゥの「メロディスト」としての才能が垣間見れる。「短めの曲尺的にもポップな雰囲気的にも前作のイメージがまだ残っている曲」とンネージュゥは語る4曲目の”Untouched”、実質的に最後の曲となる5曲目の”Oiseaux de Proie”は、再び90年代のオルタナを彷彿とさせるリフと1stアルバム的なシューゲ・サウンド、より神秘主義的で民族的なアプローチを効かせた曲で、そしてここでもドラムのブラストとンネージュゥのスクリームで「痛み」を撒き散らしながら、俄然ブラック・メタル然とした粗暴な展開を見せる。色んな意味で表題曲の”Kodama”と対になる曲と言える。その流れのまま、物語のエンディングを迎える6曲目の”Onyx”へと繋がる。

作品を重ねる毎に初期のブラック・メタル的な要素が徐々に削がれていき、遂には前作の『シェルター』では正式に「ポストブラックやめる宣言」がアナウンスされた。と思いきや、この『Kodama』で初期のポストブラックメタルへの原点回帰、つまり「ンアルセストゥ is Back」を高らかに宣言する。確かに、いわゆる「二次元」的なアニメっぽい世界観から、いわゆる「静と動」のコントラストを効かせたメリハリのある往年のスタイル、Blackgaze然としたノイジーでダークなギターリフとンネージュゥの金切り声、長尺主体の全6曲(実質5曲)トータル約40分弱など、そういったギミック面の部分では、イメージ的に一番近いのは2ndアルバムの『Écailles de Lune』と言えるかもしれない。確かに、その表面的なガワだけを見れば往年のAlcestに回帰したような印象を受けるが、しかし中身の部分その細部では著しい「変化」が巻き起こっていた。

彼らは、より「スペシャル」で「エクスペリメンタル」なアルバムを生み出すために、これまでのAlcestにはない実験的なアプローチをもって今作に挑んでいる。まずギタボのンネージュゥは、これまでの作品ではギター主導で作曲していたが、今回はこれまでとは全く違うやり方で、ボーカルのリズミカルな面を押し出した歌主導で曲作りすることを決めた。それに対して、ドラマーのWinterhalterは、一種の民族的なあるいはポストパンク的なドラムパターンを多く取り入れたと語る。その言葉どおり、これまでの作品と比べて最も大きな「変化」を感じるのは、他ならぬWinterhalterのドラムパートと言っても過言じゃあなくて、とにかくドラムの音がオーガニックな響き方で、シューゲイザーやら何やらの音楽ジャンルの固定概念に囚われない、一人のドラマーとしてそのポテンシャルを遺憾なく発揮し、一つの「ロックバンド」としてのグルーヴ感が『Kodama』のサウンド、その生命の樹を司る根幹部として絶対的な存在感を示している。特に、#2”Eclosion”や#3”Je Suis D'ailleurs”は、完全に彼の跳躍感溢れるグルーヴィなドラミングありきの曲と言っていいくらい。正直、こんなにロックなドラムドラムした彼は今まで見たことがなかったから単に新鮮だし、Alcestって「ンネージュゥのバンド」だけじゃなくて「Winterhalterのバンド」でもあるんだなって、今更そんな当たり前のことを気付かされた。

ギターについては、より多くのリフを演奏する「Alcestらしさ」と「静と動」のコントラストを意識的に取り入れ、そして更なるギターの可能性を模索した。今作でンネージュゥが使用したギターは、『Kodama』のインフルエンサーとして名が挙げられたマイブラをはじめ、Dinosaur Jr.Sonic Youthなどの90年代のオルタナ系バンドのギタリストが愛用しているフェンダー・ジャズマスターのシングル・コイルで、そのクリーンなギターサウンドとノイジーな極上の歪み得る代わりに時々トリッキーな過剰反応を見せる、そんな可愛らしいジャズマスの特性を最大限に活かすことで、ギタープレイの幅を無限に広げることに成功し、今作では「シューゲイザー・ギタリスト」としてのンネージュゥは元より、「オルタナティブ・ギタリスト」としてのンネージュゥの才能が開花している。その80年代のポストパンク/ニューウェーブ愛や90年代のオルタナ愛に溢れた、ンネージュゥのギタリストとしてのパフォーマンス力は、この『Kodama』のサウンドを著しく高める大きな要因として存在している。彼は、今作におけるギターのプロダクション/音作りまで徹底した「オルタナ」の再現を果たすと同時に、持ち前の「メロディスト」としての側面や作品の世界観およびコンセプトの面まで、そしてプレイヤーとしてのパフォーマンス面にも細部にまで「こだわり」が行き渡った職人気質に脱帽する。

ンネージュゥ
のボーカルについては、往年の金切り声から森のせせらぎのような環境ボイス、そして山霧のように曇りがかったATMS系ボイスまで、前作のように自分を制御することなく、一人の「ボーカリスト」としての可能性を見極めている。ンネージュゥは、ボーカリストとしてもギタリストとしても自らのリミッターを解除して、自らが持つポテンシャルを超える勢いで覚醒している。正直、リズム&グルーヴ重視のAlcestがここまでカッコよくハマるなんて素直に驚いたし、それくらい今作は二人のプレイヤーに視点をフォーカスした、過去最高にAlcestの生々しいオーガニックな「バンド・サウンド」が著しく表面化したアルバムと言える。

この『Kodama』は、映画『もののけ姫』のヒロインサンという『人間』として生まれながらも、犬神である『モロの君』に娘として育てられ、そして自然豊かな森林が我が家である、そんなある種の「自然界と人間界の間の子」的なサンのルーツを探る音旅でもあるかのような、それすなわちAlcestというバンド自らの音楽的ルーツを巡る音旅でもあったのだ。サンのように自然や大地、野生動物と共存し、ありのままの姿で、つまり文明の利器=テクノロジーが発達した現代社会にはない原始的かつ土着的な、より人間的な尊厳と郷土愛、自然愛、オルタナ愛、伝統愛、日本愛、様々な『愛』すなわち『LOVE』に溢れた作品で、その『もののけ姫』の最大のテーマである「人間と自然」の関わりと「神秘主義と合理主義の対立」 、そして今現在なお絶えることのない、ウイルスのように増殖し続ける「人と人の争い」、から起こる「人間の憎悪の増幅作用」による「憎しみの連鎖」と「報復の連鎖」、つまり今作の「静と動」の対比(コントラスト)は、Alcestらしさへの回帰を意味するだけのものではなく、『もののけ姫』のテーマである自然界の安らぎと人間界の醜い争いの対比など、その他様々な対立構造を表現しているようにしか思えなかった。このアルバムには、そんなヒトと動物と自然が争うことのない優しい世界への強い憧憬が込められている。

昨年公開された新海誠監督の『君の名は。』「今だからこそ売れた作品」だが、だからといって必ずしも「今観なきゃいけない映画」というわけではなかった。しかし、今から約20年前に公開された宮﨑駿『もののけ姫』「今だからこそ観なきゃいけない映画」だって、そう気付かされたような作品だった。最近は、外国人から日本の良さを聞くみたいな、その手のTV番組が増えているとよく耳にするが、この『Kodama』は、まさしく『YOUは何しに日本へ?』の取材クルーから真っ先にインタビューされるレベルの、それこそ「外国から見た日本」を知ることが出来る、それこそ教育勅語に記すべき、国歌よりも子供の頃から聴かせるべき、超絶怒涛の日本愛に溢れた極上のビッグ・イン・ジャパン作品だ。 

話を戻すと、その国独自の文化やサブカルチャーというのは一方的にゴリ押したり、ましてや自分からドヤ顔で「クールジャパン!」などと言っていいものでは決してなくて、それこそンネージュゥのように子供の頃から日本のTVアニメを見て、生活の一部として根付いている環境や大人になって実際に来日して感じた実体験から、その国の人や文化に実際に触れてみて、その邂逅と結果が今回の『Kodama』に純粋な形となって音として具現化することが真の「影響力」と言えるのではないか。僕自身このアルバムを通して、昨今国が推し進めている「クールジャパン」のゴリ押しに対する懐疑心が確信へと変わり、そしてその日本人自身の日本文化に対する勘違いに気付かされた一人だ。
 
KODAMA
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