さて前回、ちょうど20年前の1992年に初めて経験した、
ひとつの大恋愛という"事件"によって、
後の人生に大きな影響を与えることになったということを書きましたが、
この年、更にオレの人生を非常に大きく変えることとなる"事件"が、
その直後に起こったんです。

11月の上旬頃に彼女と別れて、色んな事を考えました。
とりあえず金が無かったので、
バイトは増やさないといけないのは勿論でしたが、
今後の人生についてとか。
で、色々考えた挙げ句、一大決心したんです。
1度関西に戻って、一旦は諦めたお笑いの道を目指そうと。
実はその2年前の春に本気でお笑い目指す予定だったんですよ。
高校の頃の同級生で同じバスケ部だった奴と2人で。

小さい頃から人を笑わせることに対して、
無意識に快感を覚えていた節もありましたし、
小学・中学・高校と、授業中は席の近辺の友達(特に女子笑)を、
色んな手を使って笑わせてばかりいました。
関西でちょっとオモロい奴は大抵周りから、
「あんた吉本入ったらええのに!」って言われたりするんですが、
オレも例外ではなくよく言われました。
常にクラスの中では1番オモロい奴という存在でした(多分)。
ぶっちゃけ中3の頃とかは、将来的にその道もちょっと考えたりもしましたけど、
高校に入るとそんなモチベーションも一切無くなってました。

上京した年がたまたまダウンタウンの東京進出と同じ年で、
当時関西では人気絶頂のダウンタウンのあのシュールな笑いが、
東京でどれだけ評価されるのか?というのを非常に興味深く見守ってました。
ガキの使いも最初は確か火曜の深夜帯での放送でしたが、
いち早くチェックして、ビデオ録画までして初回から毎回観てました。
で、そこそこ人気も出てきたかなあ~って時に、
罰ゲームの下りがあって、確か松っちゃんが亀甲縛りされた映像が、
某日の午後6時に新宿アルタの電光掲示板に出るっていうのがあって、
当時毎日東中野の某道場に通ってたので、
行きの途中だし時間的にもタイミングバッチリだったので、
興味本位でそれを観に行ったんですよ。

確か10分前ぐらいに新宿駅の地上に上がったら、
もうそれはそれはほんとに凄い人で。
アルタに近付けないぐらいの人人人でした。
え??深夜の番組の罰ゲームでこんな大勢の人が??
ってほんとにビックリしたのを憶えてます。
その時とてもカルチャーショックだったというか。
お笑いって今こんなパワーあるのか・・・って再確認させられたというか。
その時にまたお笑い芸人になりたいっていう欲求が、
再びちょっと芽生えたような気がしました。

その年の秋に、通っていた道場の先生の誕生日会が、
東中野の日本閣であって、当時道場での主流派だったオレは、
多数の門下生の中から選ばれて招待されたんですが、
皆なんか一芸を披露しなければいけないというのがあって。
迷った挙げ句、京都出身の歳上だけど後輩の人と漫才をやることにしたんですよ。
毎日バイト尽くめだったのでなかなか練習する時間もありませんでしたが、
結果、めっちゃくちゃ受けて。
とりあえずその時は有り得ないぐらい受けましたねえ。
人前でちゃんとお笑いをやったのは初めてだったんですが、
もうなんか、ちょっとした快感になってしまって。
ちなみに調子に乗って道場の新年会でまた漫才したら、
見事にすべりましたけど(笑)。

さてそんな折り、高校の同級生で同じバスケ部だった友達から、
1週間ほど夏休み取って東京見物に行くから泊めてくれという連絡が来て。
実はオレがそれまでの人生で初めてお笑いでカルチャーショックを受けた奴で。
オレとは笑いのタイプが違うんですが、初めて会ったタイプというか。
でも凄いウマも合ったので、同じ部活だったのもあって、
しょっちゅうアホなことばっかり言い合ってたんですが、
卒業して会わなくなってから約2年近く経ってるのに、
久々に会ったにも関わらず、全然高校時代と変わらずツーカーというか、
もう会話する度にちょっとした漫才みたいになってて。
だからその1週間ずっと2人でアホみたいな会話ばっかりしてオモロかったんですが、
ふとした瞬間に、なんかこいつとだったらもしかしたらお笑い目指せるかも…って思って。
目指すのは簡単ですが、どうせ目指すなら上を目指したいじゃないですか?
そいつとだったら絶対に上に行けるような気がしたんですよね。

で、しれっとそいつに、
「最近ちょっとだけ、マジでお笑いやんのもええかなあ…とか考える時あんねんなあ。」
って言ってみたらそいつも、
「実はオレもやねん!最近実家に今田(耕司)から妹さん居ますか?って電話あったりして。
なんかなあ~って考えるようになって。」
どうやらどっかで妹が今田にナンパされたらしく、
お誘いの電話がたまにあるらしいんですが、
それにどう触発されたのかは忘れましたが、
お笑い芸人というものを身近に感じて、
意識するようになり始めた時期だったみたいで。
思い切ってそいつに言ってみました。
「なあ、マジで2人でお笑い目指せへん??
オレらやったら絶対いけそうな気ぃすんねんけど。」
そいつも勢いで「もうやってまおか!」みたいになってその日は2人で盛り上がっちゃって。
で、そいつがちょうどその時、神戸のホテルオークラのコックの見習いやってたんですが、
それを辞めて来春に上京してオレの家に居候するってことになって。
でもその時思ったのは、今はイケイケで2人でやろう!みたいになってるけど、
オレは元々人一倍慎重派なのもあって、
あいつは春まで気が変わらないだろうけど、
オレはこのモチベーションを春まで維持出来るだろうか?
っていうのが正直非常に不安でした。
もしそうなっちゃったら申し訳ないなあ…とか思ったり。

ちなみに当時メジャーデビューしたてのバンドの人が、
カフェドロペでバイトしていて、ある日たまたま厨房で一緒になって、
アホみたいなトークを炸裂させまくってたら、
「ナガサワくんおもしろいねえ!お笑いとか目指したらいいのに!」
って言ってくれて。
オレも「いや、実は相方候補もいていずれはやりたいんですよねえ〜。」
って言うとその人が、「マジで!?今うちの事務所、吉本とベッタリだから、
今度さんまさん紹介してあげるよ!」って言ってくれて!
なので相方が上京してきたらほんとに紹介して貰おうと思ってました。
そんなこともあり、お膳立て的にはバッチリな状況の中ではありました。

年が変わり、1月中旬頃だったでしょうか?
予想外にオレのモチベーションは下がってなくて、
いや、むしろ上がってるぐらいの勢いだったので、
意思確認の為に電話してみたんですよ。
そしたらなんと、
「ごめん、やっぱやめとこ。オレらよりオモロい奴なんかいっぱいおるし、
ちょっと今の仕事も辞められへんわ…。」
って言われて。
いやあ~ほんとにその時はショックでしたねえ。
まさかってのもあったし、やる気満々だっただけに余計に。
さすがに1人でお笑いやるモチベーションもなく、
その時にお笑い芸人になるという夢は一旦諦めたんですよ。

でもそいつに変わる強烈な個性の相方が見付かれば、
いつかはお笑いやりたいなあとは思っていて。
その直後にクラブカルチャーに興味を持つようになって、
CAVEで働き始めるんですが、
ずっと相方候補になりそうな人材を捜してましたねえ。
最終的には全く見付かりませんでしたけど(笑)。
そんなこともあり、やっぱお笑いで上目指すんだったら、
奴しかいないかなあ…とはずっと思ってたんです。

で、考えたのが、オレが神戸のそいつの部屋に居候して、
毎日一緒に居れば、奴のお笑いに対するモチベーションも、
また上がってくるんじゃないか??という計画でした。
ある意味奴を口説く為に1度関西へ戻ろうと。
ソッコー奴に電話して、そんな内々の計画は伏せといて、
ちょっとの間居候させてくれへんか?と打診したら、
快くOKしてくれて。
でも奴さえ口説き落とせれば、
いずれは東京に戻って、東京で勝負したいってのがあったので、
荷物をどうしようかと思って。
またすぐ戻って来るんだったら出来れば荷物はこっちに置いときたいなあと思い、
CAVE時代の同僚の仲の良かった女の人の実家が町田付近で、
そこにちょっとの間だけ置かせて貰うことまで決めて。
もう善は急げということで、
管理してる不動産屋に連絡して、年内一杯で部屋を解約することにしました。

そんなこんなでトントン拍子に、
年内で関西に一旦お笑い目指して帰る事にしたんですが、
とりあえず年内は働けるだけ働いて稼がないとと思って。
昼は前回にも登場した恵比寿のイタ飯屋のボーノでランチのバイト、
夕方からはその前に働いてた池尻のチェントコーゼで、
パーティー要員のバイトを入れて貰って、
週末の夜はCAVEで働こう!と思ったんです。
オレがCAVEを辞めてからというもの、しょっちゅう主任の人から、
「ナガサワ人手足りないから手伝ってよ〜」って誘いは受けてたんですが、
彼女のこともあったので、ずっと断ってたんですよ。
なので、年末の週末はフルで働こう!と思って、
主任の人の家に電話したんですよ。確か時間は昼の2時頃だったと思います。
でも何度鳴らしても出なくて。前回も書きましたけど、携帯なんか夢の頃で、
まだまだ家電に留守番機能も付いてないのなんてザラだった時代で、
その時も「あ~留守か。じゃあまた夕方にでも掛けてみよう。」
って思ってたんです。

で、確か夕方の4時頃だったでしょうか?
部屋のソファーに横たわってたらいきなり電話が鳴って。
出てみたら、当時仲の良かったカフェドロペ時代同僚だった2つ歳下の女の子からでした。
「ナガサワくんさあ、今って夜暇してるよね??なんか友達から廻って来た話しなんだけど、
U.F.O.が今度渋谷にジャズクラブをやるらしいんだけど、
バーテンが全然見付からないらしいんだよね。ナガサワくんやらないかと思って。」
という内容でした。
U.F.O.のお三方とは勿論CAVEで勝手知ったる間柄でしたし、
オモロそうだなあとは率直に思いましたが、
「でもオレ年内で一旦関西戻るから、年内一杯の週末だけでいいんだったらやるけど。」
って言ったんですが、「ちょっと聞いてみるわ~。」って切ってすぐまた掛かって来て。
「なんかよっぽど人手が足りないみたいだから、是非お願いしますだって!」
ってことで急遽CAVEではなく、年内の週末はそこで働く事になったんです。
それが何を隠そう渋谷のTHE ROOMだったんです。

後日オープニングスタッフの顔合わせがあって、
確かROOMの右上の喫茶店だったと思います。
行って色々と話しを聞いてみると、
コンセプトのジャズクラブっていうのは間違ってなかったんですが、
U.F.O.ではなくKYOTO JAZZ MASSIVEでした。
沖野さんとは面識はありませんでしたが、
当時クラブのフライヤーは隈無くチェックしてたので、
KYOTO JAZZ MASSIVEという名前は知ってはいました。
事前の話し通り、年内の週末のみバーテンとして働くという条件だったんですが、
どうしてもバーテンがいないので、
出来れば12月7日月曜日のプレオープンもなんとか出て貰えないか?
と打診を受けたんです。
平日なので次の日もランチのバイトがあったので非常に迷ったんですが、
営業時間が9時から2時までの予定だったので、
バイクで来て帰ればなんとか大丈夫かなあ…ということで、
その日も出ることにしたんですよ。
相当困ってそうでしたし。

そしてプレオープン当日、1時間前の8時に店に行くと、
まだガガガガガガって工事してるんですよ。
え!!ほんとにあと1時間後にオープン出来んの??とは内心思いましたが、
とりあえず店長の堀江さんに挨拶して、バーカウンターに案内して貰ったんですが、
もうビックリというか驚愕というか。
いわゆる大きめのカラーボックスみたいなのが2つ並んでて、そこで作ってくれと…。
酒をディスプレイする棚には数本の酒だけが並んでて、セレクトも非常に微妙で…。
あとはプラカップとコンビニで売ってる氷と、
割りモノのトニックやジンジャーなども数本しか無くて…。
オレンジジュースとかもパックのやつが1本ぐらいしか無かったような…。
シンクなんて勿論のことなくて、
水回りは壁を隔てた後ろのスペースに小さい洗い場があるだけでした…。
いやーもうビックリしました。
でもとりあえず任された以上はここでなんとかやらなければならず、
もう一気に頭をフル回転させて考えましたよ。
とりあえず酒棚に並んでる酒をどうにかしないと、
プレオープンなのに格好が付かないと思い、
たまたまROOMのオープン当初って桜ヶ丘のドトール横にあった、
富士屋っていう酒屋(今は立ち飲みワインバーになってますが)から仕入れていたので、
了承を得てからほとんどの酒をダッシュで返品させて貰って、
必要最低限の酒をチョイスし直して納品してディスプレイし直して。
で、氷や諸々のモノも絶対足りなくなると思って買い足したりしましたかねえ。
備品関係も勿論のこと足りないモノばかりでしたけど、
とりあえずなんとか頭使って最低限酒を作れるようなシステムにはしたと思います。

1時間後に予定通りオープンしたんですが、徐々に人が押し寄せて来て。
気が付けば業界関係者200人ぐらいは来たんじゃないですかね??
もうマシンのように1人で酒作りまくってましたよ。
しかもオレ以外はみんな未経験だったので、
確かホールのスタッフの動きとかも指示しながらだったと思います。
2時までという約束でしたが、終了時刻の2時になってもまだまだ人がいて、
全然帰れる状況ではなく、結局朝の4時ぐらいに帰ったと記憶してます。
多分営業は3時半ぐらいまでやって、
片付け終わって4時ぐらいになったんじゃなかったでしたかねえ。
CAVEで1年半やってたのもありましたし、
たまに手伝ってたチェントコーゼのパーティーは、
結構業界系のパーティーも多々あったのもあって、
その日来た人達は顔見知りの人がとても多くて。
「え?ここってCAVEの系列なの??」
みたいなことを聞かれることも多かったですね(笑)。

そしてプレオープンから5日後のちょうど20年前の昨日、
92年12月12日土曜日のグランドオープンの営業前に、
沖野さんから「ナガサワくん、この前色んな人からめっちゃ評判良かったで。
働き振りも素晴らしかったし。良かったらバー任せたいんやけど、
やってくれへんかな?」的なニュアンスのことを言われたんだと思います。
勿論とても嬉しかったですし、有り難い言葉ではありましたが、
前述した通り、年内で一旦関西へ帰るつもりでいたので、正直悩みました。
あと、クラブのバーに対して自分なりの理想的考えがあって、
もしやるとしても、そのイメージの具現化というか、
そういうバーじゃないとやりたくないなあってのもありました。
プレオープンの時の様な、プラカップで適当な酒を出すのはちょっとなあ・・・
というのは正直強くありましたねえ。

その当時自分が考えていた理想的なクラブのバーとは?
CAVEではレモンとライムは搾っていたものの、
他のジュースは濃縮果汁還元100%のモノを使ってたんですよ。
ちなみに当時のクラブやディスコでは100%のジュースを使ってるだけでも、
かなりクオリティー高い方ではありましたけど。
でも炭酸の割りモノとかはガン式のヤツでシャーって感じでしたし、
ハウスで使ってるモノも、お世辞にもいい酒は使ってませんでした。
逆にその後働いたバーのチェントコーゼでは、
全てジュースは手絞り、ハウスの酒もいい物を使い、
氷は一貫氷を砕いて出すという、
いわゆるちゃんとしたバー仕様のクオリティでした。
バーテンダーとしてはやはり作り甲斐があるというか、
ちゃんとしたモノを提供出来るという喜びもありました。
ただ、CAVEのバーでは、
出す酒のクオリティは如何せんストレスが溜まる物ではありましたが、
やはりクラブってお客さんに動きがあるので、
働いてても楽しいんですよね。
アノお客さんがアノ子ナンパしたとか(笑)、
アノお客さん個性強いなあ〜とか(笑)、
お客さんの色んな動きが目に入ってきますし、
第一お客さんの数が圧倒的に違いますし。
なので一晩で色んな人と会える楽しみがある訳です。
音楽も大音量でDJが生で新鮮な音楽をミックスしてるのを聴ける訳だし。
それに引き替えバーでは、そういった楽しみがほとんどない訳ですよ。
そう考えると、クラブでバー並みの酒を出せれば言う事ないのになあ…
って考えるようになっていって。
そんな店あったら最高なのに!とは思ってました。

ちなみに当時クラブ界では、
ダントツに青山MIXの酒が1番美味い!ってのが定説だったんですよ。
ジュースも生搾りだったし、ちゃんとグラスで出してたし、氷も一貫氷砕いて使ってるし。
ハウスの酒もいわゆるよくある安物のスピリッツとかは一切使ってなくて。
どうせやるんだったら、
あそこの酒はクラブで1番うまい!青山MIXよりうまい!
って言われる様なバーに出来ればしたいんですよね。
と沖野さんに熱く語りました。
勿論、それは現実的にやれるという自負もありました。
ただ、酒の原価率は多少高額になることも言いました。
でもオレの中には、当時のクラブで横行していた、
DJや業界関係者に対する当たり前の様ないわゆる"タダ酒"さえ止めれば、
かなり原価率は下がるんじゃないか?ということも同時に頭にあったので、
オレの中ではある程度の目算もあったんですけど。
そしたら沖野さんは「ええことに金使うんやったら全然ええよ。
ええもん出すんやったら多少金掛かってもええから。」と言ってくれて。
当時はオープンして間もない頃で資金繰りも大変だったでしょうし、
よくもOKしてくれたなあとは思いました。
でもこの時の英断こそが、
その後のROOMのバーのクオリティに繋がっていると信じて疑いません。
店ってほんとに最初が肝心ですから。
あとあと変えていこうなんていうのは、1度決まって進んでしまうと、
なっかなか変わりづらいもんですから。

バーをやるかどうかの返答は、とりあえず即答は避け、
少し時間を貰うことにしました。
まずやるにしても、第一に不動産屋に電話して、
解約通告した部屋の契約延長は可能かどうかを聞かないといけなかったので。
月曜になって早速電話してみると、まだ次の人が決まってないらしく、
契約延長は可能だとのこと。もうこの時点で心は決まりました。
色々考え、悩みましたが、やはりまだ当時若干21歳という若輩者のオレに、
1つの店のバーを任せてくれるなんてチャンスはそうそうにないですし、
自分がイメージする理想のバーを具現化出来るチャンスでもありましたから。
あとお笑いはまたいつでも出来るしとりあえずは延期にしようと思って。
その夜に、正式にバーチーフ就任をお請けすることにしました。

とまあいつもの如く長くなりましたが、こんなことがあったんですよ、20年前に。
ほんと、もし1回目にCAVEの主任に電話した時に、主任が家に居て電話に出ていれば・・・
そして、ROOMの話しがその直後に来ていなければ・・・
オレは間違いなくCAVEで働いてたと思いますし、
そしたら勿論年内で一旦神戸へ帰って、
もしかしたらほんとにお笑い芸人になっていたかも知れません。
ヘタしたら今頃テレビとか出てたかも知れないですし(笑)。
いや、お笑いは結局挫折して全然関係無い仕事してるかも知れないし。
東京には戻って来てないかも知れないし、大阪にいるかも知れないし。
もうほんとに全く違った人生送ったと思います。
たった数時間に起こった、ちょっとしたボタンの掛け違いだけでですよ。
ROOMに入ってなかったら、その直後に知り合うことになる、
人生最大の大恋愛をする相手とも知り合ってなかったですし、
その子のツテで後にWebで働くことにもなったし。
そう考えると、人生ってほんとにちょっとしたことで、
180度方向が変わってしまうもんだなあ〜とつくづく思います。
いやマジで、コレって凄いことだと思いますもん。

そしてそのROOMが、
ちょうど昨日で20周年を迎えたということは、個人的には非常に感慨深く思います。
まあ個人的にはプレオープンがとても印象深いので、
グランドオープンの12日よりも7日の方が誕生日って感はありますけど。
まさかオープン当初は誰しも20年も続くとは思ってませんでしたし、
オレ自身この業界に20年後も居るとは夢にも思ってませんでしたから。
あととても驚いたのが、オレがオープン当初に考えたオリジナルカクテル"京都(KYOTO)"が、
20年経った今も未だに大人気カクテルだということ。
ROOMのブログとかでもしょっちゅう登場するぐらいの人気っぷりみたいです。
ちなみに"京都(KYOTO)"は、
三宿Webの大ヒットオリジナルカクテル"MISHUKU"の前身となるカクテルです。
レシピも若干ですが違います。
ちなみに"KYOTO"は、初めて名前も付けて考えた本格的なオリジナルカクテルでした。
20年経った今も尚愛され続けているということは、
本当にビックリではありますが、とても光栄で嬉しいことでもあります。
話しが逸れましたが、このご時世で1つの店が20年続くというのは、
並大抵の努力が無ければ無理なことですよ。
ほんとに素晴らしく、凄いことだと思います。
これはひとえに沖野さんを始め、店長の佐藤くん以下スタッフの皆さんの、
日々の尽力の賜物以外にないですよ、間違いなく。
ほんとに心からリスペクトですわ。
あと、亡くなってしまった粟田社長と、
1番最初のオーナーの1人だった中野さんには、
心から合掌したいと思います。。。

今となっては、あのまま年内一杯で神戸に帰ってお笑い芸人を目指してたら、
いったいどうなってたんだろうか??という思いにも多少駆られてしまいますが、
全ては結果論ですからね。
ROOMに入ったことで、そのままWebへと繋がり、
この歳までこの業界にいることも、良かったのか悪かったのか…
しょっちゅう考えます。
まあ考えてもしょうがないんですけど(笑)。
でもどういう人生を歩んでても、きっと色々と大変だったろうし、
勿論ストレスも多々あったろうし、
結果どのみち七転び八起きな人生には変わりなかっただろうし。
そう考えると、今のこの道を歩んできて、
金銭的には将来的に多々不安もありますけど(笑)、
色んな掛け替えのない素晴らしい経験もいっぱい出来たし、
とりあえずまあ不幸という不幸にはなってはないし、
まあまだ幸せな方なのかもなあとも思いますけど。

しかし前回とも合わせるととんでもないアホほどのボリュームでしたね〜(汗)。
全部読んで頂いた方、誠にご清読ありがとうございました。
でもほんとにそれぐらい、1992年という年は、
オレの人生にとって極めて重大なターニングポイントだったんですよね。
改めてあれから20年が経ったのかと思うと、年末のリセット感とも相まって、
ロマンティックで、センチメンタルで、ノスタルジックな気分に駆られ、
胸を締め付けられる様な想いにさせられます。

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