先週の水曜日の午後にふと見たTwitterで、日本武道傳骨法創始師範・堀辺正史先生が昨年12月26日に亡くなられていたというツイートを見て。もうビックリしましたよ。しかも3ヶ月も前なんて。74歳だったそう。余りにも唐突過ぎて最初はちょっと実感も沸きませんでしたけど、やっぱじわじわくるものがあって。これは書かない訳にはいかないだろう!ってことでの緊急起稿です。っていうか実は翌日には想い立ってダダダと書いてたんですが、余りにも纏まりが悪かったり、アップするのも若干ためらった部分もあったりして。いや、もしも堀辺先生が存在しなくて骨法の道場が無ければ、恐らくオレは今東京に居ないと想うんですよね。このブログでたびたび出てくる「昔通ってた格闘技の道場」とは紛れもない東中野にある骨法道場だったんですよ。
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※恐らくオレが通っていた頃にほど近い頃の先生。まさにオレにとってはこういうイメージのまま残ってます。当時の先生はほんとにオーラというか、尋常じゃない緊張感放ってましたね。









小学校時代、兄貴の影響で当時金曜夜8時にやっていた"ワールドプロレスリング(新日本プロレス中継)"を観たら凱旋帰国して華麗な技を繰り出すまだジュニアヘビー級の頃の藤波辰巳(現・辰爾)や、烈風の如く現れたスーパースター・タイガーマスクに魅了されて毎週楽しみに観る様になって。その後はもう抜群のカリスマ性を誇っていたアントニオ猪木を始め、長州vs藤波の名勝負数え歌、UWFの一時帰還での対抗戦など、どっぷりとプロレス(特に新日本プロレス)に傾倒することになるんですが、中学生の頃になると本屋で週刊プロレスや週刊ゴングを立ち読みする様にもなっていて。でも時の名物編集長・ターザン山本率いる週刊プロレスが圧倒的に面白くて、いつの日か週プロしか読まなくなりました。高校3年の一学期で部活が終えた後からはもう毎週買う様になって毎回隅々まで読んでました。

その週プロでちょくちょく連載をしていたのが堀辺先生でした。堀辺先生はたまに『たけしのスーパージョッキー』とかにも出てたりしていて存在は知ってましたけど、まだ整体や古武術の先生っていう印象でした。それが、アントニオ猪木が先生のところに通う様になってからプロレス界でも一躍有名になった的な。直後に山田さん(獣神サンダーライガー)や船木さんも通う様になって"浴びせ蹴り"や"掌打(よく掌底と言われるんですが厳密に言うと掌打と掌底は似て非なるモノなんですけど)"がプロレス界でもポピュラーな技にもなっていったり(ちなみにドラゴンスリーパーも元々は骨法の技)。週プロに連載されていた先生の記事は、非常に論理的且つ独特の見解の文章で毎回非常に興味深くて、読んでいるうちにあっという間に引き込まれていきました。本嫌いなオレには珍しく、先生の著書を取り寄せて買って読んだりもして。
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※本棚の奥探しまくってみたらなんと当時の先生の連載の切り抜きまだ持ってました!左の方はなんと28年前のモノ。毎週楽しみに見てたなあ〜。








男って誰しもきっと心のどこかに"強くなりたい願望"ってあると想うんですが、まさに高校生のオレも非常に強く想う部分があって。最初は空手の本とか立ち読みしてビール瓶でスネとか殴って無駄に鍛えたりしてましたかね~(苦笑)。あとは拳(こぶし)鍛えたりとか腕立てや腹筋したりとか。でもなんせ当時は華奢だし体力も無いしで、剛に対して剛でいっても間違い無く勝てないな…というのは実感してて。なんかそれを補える格闘技でも習いたいなあ~とはずっと想ってたんですよ。そんな中での先生の著書を読んで一気に「骨法習ってみたい!」っていう欲が強くなって。でも道場は東京の東中野にしかなくて。
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※当時のプロレスファンで先生が出されていた著書を買って読んだ人って結構多いんじゃないですかね〜。週プロの連載も然りですけど、実際非常に論理的で興味深いことばかりが書かれていたし、これによって骨法の最強幻想が膨らんだ人も多かったハズ。








当時母親の知り合いが東京の羽田の近くの糀谷ってとこで油の濾過器の工場やってたんですよ。高校卒業したらそこで働かないか?って言われて。学生の頃から技術家庭の時間は大の苦手だったのもあって工場で働くなんて最初は絶対嫌だったんですけど、なんせ華の都・大東京に行ける訳で。やっぱ当時の田舎者のオレからしたら夢の街でしたからね~東京は。色んな意味で今よりももっとずーっと遠い存在でしたよ、東京って街は。だからそこに行けば、もしかしたら何かチャンスがあるんじゃないか??という期待感もあって。そしてそう、あの骨法道場にも通えるじゃないか!とも想いました。

そして高校卒業後の1989年3月、満を持して上京してその工場に就職する訳ですが、自宅があった蒲田から東中野までは電車で1時間ぐらいは掛かる訳ですよ。しかも結構残業も多くて、どう頑張ってみても道場の稽古が始まる19時にはまず間に合わないんですよ。そんなこんなでせっかく上京したのに全然入門出来なくて。

工場ではだいたい40前後のおじさんたち(今時の40とは比べ物にならないぐらいおじさん)ばかりでしたし、オレと一緒に4月から入った一番若い人でも28の既婚者の人で。若干18歳のオレはもう全く上の人たちばかりで、皆いい人たちだったから良かったですけど、プライベートでも仲良くは到底出来る感じではなく。全く単身上京してきたので、周りに友達や知り合いも皆無。当時は東京ー兵庫間で一番安い格安長距離電話会社を選択してもかなりの高額な電話代だったのもあって、滅多なことでは地元の友達にも電話も出来ず。平日は元より唯一の休みも誰とも逢わず、誰とも話さず、なんてことがずーっと続きました。

給料も手取り確か11万ぐらいだったんじゃないかと。そんな給料なのにロフト付きの洒落たとこ借りちゃって6万7千円の家賃で引くと4万3千円ぐらいしか残らなくて。でも部屋のインテリアや洋服代とかに毎月無理して2万ぐらいは使ってて。光熱費と電話代とか引くと残った1ヶ月の食費がなんと1万5千円。米買って、昼間は工場で弁当出たので、朝夕2食で1日当たり4百円。朝はほとんど食わなかったかなあ。勿論毎日自炊。今のように100均みたいなのも無く物価も高かったし、それまで自炊なんてほとんどしたことなかったしで安くあがる簡単な料理ばかりでしたかね~。晩飯に目玉焼きとご飯と即席のわかめの味噌汁とか。月末は大抵金が無くてご飯にふりかけだけとか。近くに吉野家あったんですけど通る度に「たまにはこんなご馳走食いたいなあ…」って思ってたぐらい。それぐらい貧相な食生活でした。

そんな生活が2ヶ月経って結構精神的に参ってて。元々やりたい仕事でもないし道場にも通えないし給料は安いし、とにかく話し相手が1人も居ないっていう状況がなかなかの苦痛で。もう田舎帰ろうかな…とかも思う様になって。いやほんと、3ヶ月ぐらい誰とも喋れないとかって尋常じゃない孤独感から結構精神的に病んでくるんですよ。恐らく今のようなネットも携帯もある生活が当たり前の生活をしてたら到底想像も出来ないと想います。でもせっかく上京してきたんだし、どうせ帰るんだったら東中野の骨法道場に通ってからにしようとは思っていて。それもあって上京したようなもんだし。そこでまた絶望感を感じたら潔くもう田舎へ帰ろうと決意したんです。ほんと、当時のオレにとっては最後の砦的な感じでしたね。

6月末でそこの工場を辞めてとりあえず近所に出来たばかりのサンクスでバイトを始めて。深夜勤にしたのは時給が良かったのもありましたけど、道場に通うのにも都合がいいからでした。同時に勇気を出して道場に電話して。忘れもしない1989年7月4日。ガッチガチに緊張したなか無事入門を果たし、とりあえず入ったからには同期(同日入門生)の誰にも負けない覚悟で通い詰めよう!と心に誓ったんですが、翌日道場行ったら前日いた入門生が誰も来てなくて。え?みんな毎日通う気ないの??だったら楽勝でしょ!とは思いましたかね~。当時の道場生は週6回の稽古日中だいたい平均週3ペースぐらいで、それよりも少ない人も全然いて。オレは毎日週6で通い詰めましたよ、蒲田から東中野まで。それが結局1年半続くことになるんですけど。最初のうちはもう道場に通うことが東京に居ることの、いや生きることのモチベーションになってたかも知れません。

当時同世代の人も沢山通ってましたが、稽古が終わった直後にすぐ深夜のコンビニバイトがあったので稽古後の道場の掃除も免除して貰ってすぐ帰ったのもあり、他の道場生との交流もほとんどなくて。コンビニのバイトがない土曜日ぐらいですかね~終わったあと近くのコンビニで他の道場生の人たちとくっちゃべったりしたのは。その中で1ヶ月先輩の人でなんと学年1個上でオレと同郷で、共通の知り合いまでいた山本さんて人がいて。その人とはウマがあって凄く仲良くなりましたね~。頭もキレてたし格好も良かったしシャレもわかるしなんせ同郷だしと、プライベートでも遊ぶ様にもなって。家は町田と蒲田だったんで結構離れてましたけど、よく長電話で喋った記憶があります。いやあ、あの頃はほんとにあの人の存在は大きかったですね~。特にその人は骨法の前にボクシングもやっていて、しかも結構冷静に物事を見れる人で、骨法とボクシングの打撃に関しての対比論的なのや、今教わってるのはこうだけど実際の喧嘩になったらこうなるとかも色々聞いたり。東京で初めて出来た、唯一何でも話せる存在でしたね〜山本さんは。

当時はマジで、いつかはプロの格闘家になって試合に出て勝って、当時近い将来大会をやる予定だった後楽園ホールのリングのコーナーポストに試合に勝って、駆け上ってガッツポーズをするのが夢でした。週6ロペ・週6道場で稽古・週5コンビニで1時までバイト(稽古後は東中野駅まで猛ダッシュで電車乗って蒲田駅着いたらまた猛ダッシュで帰宅してソッコーシャワー浴びてまたコンビニまで猛ダッシュという過密スケジュール)と、日々寝る暇もなく金も無く身近に友達とよべる人もいず、食べるモノもろくに食べずにひたすら頑張ってましたけど、道場から自宅のあった蒲田までの山手線の中はもういつもフラッフラで。毎日吊り輪にしがみつき意識朦朧としながらも常に頭の中には、前述したコーナーポストに駆け上がってのガッツポーズの画を想い浮かべてモチベーションを保ってました。

初めて人前で漫才(及びお笑い)やったのは先生の誕生会でした。1990年10月14日の日曜日。東中野の日本閣でやったんですが、当時の道場生の主力20名ぐらいだけ招待されて。光栄なことにその中にオレも招待して頂いて。で、道場生で何でもいいから出し物やるってことになって、後輩で歳上の京都出身の人と漫才しようってことになって。ネタは確か、当時まだまだ無名だったダウンタウンのネタのカバーとかに色付けしたネタだったと想います。ただでさえ日々忙しいのに、寝る間も惜しんで稽古しましたね~。なんせ人前でお笑いなんかするのは全くの初めてだったし。不安をよそに蓋を開けてみるとめっちゃ大ウケして。正直ネタ的にシュール過ぎて先生にはウケないだろうな…とは想ってたんですが、もうビックリするぐらい「ガッハッハッハッハ」と豪快に大笑いしてウケてたことを未だに憶えてます。で、調子に乗ってその年の道場での忘年会でもまた漫才やったら大コケしましたけど…(笑)。
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※なんと奇跡的に残っていた日本閣での初漫才の写真。記憶的にはほとんど残ってないんですけど。とにかく猛烈な不安をよそに、先生も含め、爆笑に次ぐ爆笑で大ウケだったことだけは記憶に残ってます(笑)。この日以降の道場内でのオレの印象も随分変わりましたからね〜。なんせそれまでは、お笑いのおの字もイメージ出来ない様な、根暗で寡黙で真面目な、華奢で気の弱そうな青年だったでしょうから。終わった後に内弟子の人から「おまえ格闘技の才能よりお笑いの才能の方があるんじゃないか??(笑)」って言われたぐらい。









数年に1回は道場に通っていた頃の夢を見ます。しかも辞める直前とかは集中力も欠けるようになっていて、稽古中にぼーっとして話し聞いてなくて1人だけ違うことしててしょっちゅう怒られたりしててちょっとしたトラウマ的になってるのかも知れないですね(苦笑)。骨法の道場って1度退会するともう2度と再入門出来ないことになってるんですが、夢の中ではなぜかいきなり再入門していて、久々過ぎて全く稽古についていけなくて「ヤバいどうしよう!怒られる!」って終始ビビってるっていう感じの夢ばかりで冷や汗かいて起きて「夢で良かった~」ってホッとするパターンがほとんどなんですけど(笑)。


想えば先週たまたま久し振りに東中野に行くことがあって、ホームから道場の風景を観たり、日本閣まだあるんだなあ~懐かしいなあ~とかノスタルジーに浸ったばかりなんですよね。その日はたまたまとあるバーで飲んだんですが、そこが道場から至近だったことや、想えば東中野で飲んだのなんて恐らく初めてだったんですよね。その時は勿論先生が亡くなられていたなんて夢にも想いませんでしたが、いやあ、何の因果かとは勝手に想ったり。
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※当時の帰宅時にホームで電車が来るのを待ってる時に毎度目にした風景。毎回東中野に来るたびに瞬時に猛烈なノスタルジーに浸ってしまいます。








まあ格闘技に詳しい人ならご存知でしょうけど、骨法については色々とああだこうだと悪口言う人も多々いて。今回先生の訃報を聞いた後も久々にちょいちょいネットで色んな心無い書き込みとかも見ましたし。まあね~色々言いたいことはわからなくもないんですけど。実際はそうなのかも知れないし。事実骨法自体大口叩いてた割りに全然結果出してないし。若干宗教的な部分も無いと言ったら嘘になるし。なんせ理論詰めの言葉の力というか、卓越した話術に秀でてた人でしたからね~先生は。当時のオレもそうでしたけど、その気にさせられた部分は確かにでかかったですね。とは言え実際やってた者として言わせて貰うと、今改めて考えてもやっぱり素晴らしい理論や凄い発想もいっぱいあったし、色んな人も言ってますが、先生が80年代後期から90年代初期頃までにプロレス・格闘技界に与えた影響に関しては誰も否定できないぐらい絶大な事実だったとは想いますけどね。

オレが入った頃はまだ、UFCの第1回大会後に来る物凄い勢いの総合格闘技ブーム前夜の頃で、当時の骨法は基本的には一般の道場生には手足の打撃しか教えてなかったです。一応立ち関節とかもあって内弟子の人には教えていた様ですけど。まだ持ってますけどUWFの影響からかレガースやニーパッドとかも着けてましたね。それが、もうとっくにオレが辞めた後ですけど、グレイシー一族の台頭とともに寝技を重視する様になり柔道着の様な白い胴着に変わり、後から知ったんですが武者相撲とかっていうテーマの時代もあったんですかね?その後ヴァンダレイシウバを筆頭としたシュートボクセの台頭があると今度は"ジャパボク"というテーマで打撃重視に戻ったり、その後はナイフ術とか?という迷走を続けることになるんですけど。
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※去年のとある夜中に、ふと想い立って押入の奥から引っ張り出して骨法時代のレガースとニーパッドを着けてみた時の写真。青春。








96年のUVFで、満を持して送り出した骨法最強戦士・大原さん(オレが辞めた後に入ったので面識は無い)がペドロ・オタービオに惨敗してから一気に急降下したんじゃないでしょうかね~。同時にナンバー2の小柳津さんもカーロス・ダニーロに惨敗しちゃったし。それまではベールに包まれて神秘的に想われてた部分も多々あって各所で持ち上げられてましたけど、それ以降骨法株が急降下的な。オレもこの頃ぐらいまでは雑誌とかで骨法の動向は常にチェックしてたかも。最大の支援者でもあったターザン山本さんの失脚も骨法失墜に拍車をかけたかも知れないですね。その後は小柳津さんが捕まったり、かつての弟子だった矢野卓見氏との確執から言いたい放題言われたりと散々でしたからね…。ちなみに小柳津さんやナンバー3の北條さんとは当時一緒にやってました。確か北條さんとは入門も2ヶ月ぐらいしか変わらなかったんじゃなかったかな?内弟子に入る前から知ってますから。今回色々検索してたら北條さんの最近の動画が出てきて全然変わってなくて懐かしかったですね~。某インタビューも読んで、元道場生としてなんかちょっと嬉しかったし。今は地元の栃木の小山の方で活動してるみたいですけどね。北條さんは昔からほんといつも元気で実直でユーモアもあったいい人だったなあ。

オレが想うに、元々は『喧嘩に使える格闘技』としてやっていたモノが、後の総合格闘技ブームの波に乗り、まんまとその潮流に飲まれて沈んでしまった的な。当時から「いつかは格闘技界を制覇する」っていうことはよくおっしゃっていましたし、週プロや格闘技通信などメディアに多々持ち上げられる様になり、自身(及び骨法)が注目されたことによって更にその野心が強くなり過ぎてしまったのかも知れませんね…。先生の立場になって考えたら気持ちはわからなくはないですけど。総合格闘技を意識する様になってからですもんね、なんかおかしくなり始めたのは。骨法って路上の喧嘩には有効な技術は沢山あるとは想いますが、ことバーリトゥードってことになると技術的に若干難があったのかもと想ってみたり。
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※これ恐らく90年の新年会かなんかに撮った写真。6、7月入門生の写真だったかな?まだ若干18歳のすっとぼけた顔したオレや、後に選手になった霄(おおぞら)くん、1番右の奥で横向いてるのは恐らく北條さん。







今回骨法で検索してよく出てきた漫画家で元骨法家の中川カ〜ルさんて、恐らくオレと若干時期被ってるなあ。中川さんの方がオレより全然入門したのは早いけど。写真見てすぐ「あ!なんかこの人見憶えある!絶対一緒に稽古してた!」って想いましたもん。その中川さんのインタビューでもそうですけど、船木さんのインタビューでも「初期の頃に廣戸聡一さんと最上晴朗さんという指導員の方がいて、あのふたりが本当に強かったんですよ。自分もあのふたりがいたから骨法に通うことを決めたんですよね。見学したときにあのふたりがバシバシやりあってるのを見てこれは凄い!と。」っていうのを見たけどそのお2人の存在は知らなかったなあ。時期的にはオレが入るちょっと前の頃だろうなあ。でも色々調べてみると、師範代のこのお2人こそが喧嘩芸の体現者だったらしく、彼らの離脱で骨法は終わったとのこと…。その2人が居た頃と居なくなった後ではレベルが全然違ったって。見てみたかったなあ。ちなみに船木さんとは、船木さんが辞める直前に何度か一緒の日に道場で稽古したことがあります。オレの後ろで素振りしてたりとかもあったり。凱旋帰国して第2次UWFに参加して破竹の勢いで勝ち続けて高田延彦と横浜アリーナでやる前日とかも道場に来てて稽古後の総括の時に「明日は骨法の看板背負うつもりで絶対勝ちます!」って言っててめちゃくちゃ興奮したのを憶えてます。ちなみにその日を境にに道場で船木さんを見ることはなくなりましたけど。
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※1989年10月10日発売の増刊号『FRIDAY SPECIAL 秋号』。プロレスラーの北尾光司、橋本真也、船木優治(現・誠勝)の3人の特集ページでの船木さんのページ。稽古中に撮影があったので見学してたんですが、たまたまカメラのレンズ方向に立ってたので「コレ絶対オレ写ってんちゃうん!!!」と発売日に心躍らせて本屋行ってドキドキしながら見てみたら、余りにもレンズの方向過ぎてまんまと顔半分しか写ってなくて心底ガックシきた記憶(笑)。ちなみにオレの左隣に立ってるのが前述の同郷の先輩・山本さん。







先生が亡くなった後に色んな人のコメント(いいのも悪いのも)を見ましたけど、柔術家であり総合格闘家の中井祐樹さんの追悼コメントは良かったなあ。『骨法の堀辺正史先生の訃報を今日昼に知りました。1995年のジャンジャック・マシャードとの本邦初の柔術マッチ前、東中野の道場で稽古をさせて頂きましたが、当時道着有りでの何でもあり、つまり「柔術」の練習ができる場は日本で骨法だけでした。先生には自分の若さゆえの熱い思いをいつも穏やかに受けとめて頂きました。理路整然とした形で格闘技を世に広めた、類を見ない方だったと思います。その後もパラエストラの10周年パーティにも出席して下さったり、公私ともに良くして頂きました。感謝しています。ご冥福をお祈りします。』
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※こんなのもまだ持ってました。94年12月発売の格闘技通信増刊号の骨法特集。まだまだ世間で骨法が注目されていた時代。









骨法を学んだことによって精神的にもめちゃめちゃ強くなったと想います。それまではほんとに小心者でどうしようもないしょーもない男でしたけど、若干ですがほんのちょっとだけ自分に自信が付いたというか。武士道の精神を叩き込まれたのも堀辺先生の教えの影響だったのは間違い無いし。先生がよく言ってたのは「オレは喧嘩に使える技を教えてるけど、喧嘩を奨励してる訳じゃない。その時の喧嘩で勝っても、万が一相手が打ち所が悪くて死んでしまったり失明したりなんて重症を負ったら一生を棒に振ることになる。その逆も然り。むしろ逃げれる状況なら逃げた方がいい。がしかし、男にはどうしてもやらなきゃいけない時がある。負けるとわかってても買わなきゃいけない喧嘩がある。その時の為にオレは教えてるんだ。」とおっしゃっていて。例えば彼女(もしくは大事な人)と一緒に居るときに輩に彼女が絡まれたら逃げる訳にいかないじゃないですか?負けそうなぐらい強そうな相手でも命懸けで彼女(もしくは大事な人)を守るのが男の務めだっていうのが先生の教えで。似て非なる例えで言うと忠臣蔵の世界ですよ。とは言えやはり守れなければ意味がない訳で。あとは1人でもヤクザや暴漢に囲まれてどうしても逃げれない状況、もしくはこのままいくと命が危ないっていう絶体絶命時の抵抗策というか。そういう万が一の時に使う為に教えてると。でもそんな窮地って生きてても早々あるもんじゃないんですけど。でもそんな滅多にない様な状況の為に日々鍛錬するというのが男のロマンであったり。武士道とは正にそういうもんだと想うんですよね。昔の侍は時代劇の様にすぐキレて斬ったりなんてしなかったそうだし、余程のことがない限り刀は抜かなかったそうなんですよね。でもいざという時の為に日々刀を研いで剣術を磨いて的な。なんかそういう精神的な部分で非常に影響受けたかも知れないですね~。

以前ブログで『オレの人生に影響を与えた3人』という記事を書きましたけど、アレは身近な人の中での3人でしたけど、影響受けた著名な人という枠では間違い無く先生は入りますね。当時は余りにも上の存在過ぎて、日頃の挨拶以外ちゃんと会話したとかっていう記憶が全然無いし。いやもうね、色んな人たちがああだこうだと悪口言ったり、先生の経歴がどうのとか、骨法がインチキだとかなんとか、正直オレにとってはどうでもいいんですよ。一年半という短くも濃密な骨法人生でしたが、誰が何と言おうとも、オレの中では今でも先生から教わった技術や精神は脈々と息づいてるし、色んな事を踏まえた上でも、やっぱりオレは堀辺先生の弟子で良かったと本気で想ってますから。冒頭にも書きましたけど、実際骨法道場がなかったら上京して3ヶ月でおめおめと実家帰ってたと想うし。オレにとってはほんとに感謝しかないし、間違い無く骨法は10代最後のオレの青春そのものでしたよ。先生、本当にお疲れさまでした。安らかに。押忍!ありがとうございました!
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※骨法会員番号は849番。当時使ってたマウスピースも探したんですが捨てちゃったのか無くなってた…。実はこのレガースとニーパッドって、ロペの更衣室で盗難にあって、同日入門してすぐ辞めちゃった子に無理無理お願いして貸して貰ってそのままずっと返してないという…。でもあの時はマジで助かったんだよなあ…。ほんとにごめんなさい!!