長年生きてると色んな人に色んな影響を受けたりしますが、
今までの自分の人生の中で影響を与えた人を3人だけ挙げろと言われたら、
皆さんは誰を挙げますか?
勿論好きなアーティストや尊敬する偉人などの、
著名な人から影響を受けたということも多々あると思いますが、
例えばそういう人は除いて、肉親以外の身近な周りの人からの場合。
オレの場合は真っ先に3人の顔が思い浮かびます。
1人はCAVE時代の店長だった藤原さん。
1人は三宿Web初代店長だったマービン。
1人は1番長く付き合った彼女の3人です。
藤原さんは元々は原宿にあったCLUB Bで働いていて、
CAVEの後も新宿のWIREの店長をされたりした人で、
Webにも確か1度か2度ほど遊びに来てくれました。
非常に厳格な人で、当時のCAVEスタッフはみんなビビってましたが(笑)、
その反面めちゃめちゃ兄貴肌というか、リーダーシップに長けた人でした。
オレが入ったCAVEはちょうど人手不足で、入って間もなくすぐにバーに立たされたので、
当時ほとんど酒の知識が無かったオレは、それこそ必死に独学で勉強したんですが、
藤原さんには早くから褒められたりしました。
「おまえ、若い割りに酒作んの上手いな。」とか。
いやあ、やっぱ自信になりましたね~。
時給も10円単位ででしたけど、結構早くに上げて貰ったりとか。
オレの後に同い年の後輩がどんどん入ってきたんですが、
そいつらはもう毎日の様に怒られてるんですよ。いやもう怒鳴られまくりというか。
オレはほとんど怒られることがなかったんですよね。
まあ自分で言うのもなんですが、めちゃめちゃ仕事出来ましたからね(笑)。
っていうかまあ、人一倍真面目にやってたので。
ある日スタッフの意見アンケートかなんかを書く時に、
当時CAVEの新しいスタッフTシャツが出来た頃で、
スタッフはみんな当分コレを着て働け!って言われてたんですが、
そのTシャツがどうにもこうにもカッコ良く無くて。
で、そのアンケート用紙に確か、
「毎日の営業で何を着て行くか?という楽しみが無くなってしまうので、
出来ればスタッフTシャツは着たくありません。」
みたいなことを書いたんですけど、今考えると生意気ですよね~(笑)。
で、次の日でしたかねえ、キャッシャーに呼び出されて。
そしたら藤原さんに「わかったよ。おまえは着なくていいよ。」
って言われて(笑)。いやー嬉しかったですね~。
スタッフTシャツを着なくていいということよりも、
自分のファッションに対する拘りが伝わったんだと思って、それが1番嬉しかったです。
いや、当時のオレは若干20歳という若さながら、
自分で言うのもなんですが、今考えるとプロ意識の固まりで、
例えば当時持ってる服で6通りの格好があったとして、週6で働いてたんですけど、
スケジュールを見ながら、月曜日はハウスっぽいイベントだからコレ、
木曜日はUKなイベントだからコレとか、
常に考えて、しかも忘れないようにその日にどんな格好したか、
わざわざカレンダーに書いてたんですよ(笑)。
それでなるべく同じ曜日に同じ格好をしない様にとか気を付けてました。
当時のクラブって同じ曜日は帯でやってることが多くて、
常連さんも、その曜日にしか来ないってことも非常に多かったんですよ。
なので、毎日違う格好をしても、同じ曜日に同じ格好をしていたら、
その曜日に来るお客さんにはその格好しか印象残らないじゃないですか?
それじゃあクラブスタッフとしてダメだ!
あの人は今日はどんな格好してるだろう??って興味持たすぐらいじゃないと、
クラブスタッフとして失格だ!ぐらい思ってました(笑)。
いや、マジでそれぐらい格好には拘ってたんですよ。
20歳でですよ!?我ながら凄くないすか??
今なんかめっちゃ適当なのに…(笑)。
そんな訳で、そういう部分が伝わって嬉しかったんですよね。
話がえらい逸れましたが、藤原さんは基本的には厳しい人でしたが、
いきなり日曜日の夜に「今日は暇だから早めに店閉めて今からみんなで山中湖行くぞ!」
とか言ってレンタカー借りて連れてってくれたりとか、
スタッフ全員及び箱DJ連れて泊まりでキャンプ連れてってくれたりとか、
そういう遊び心もある兄貴分的な存在でした。
飯もほとんど奢ってくれてましたし。
土曜日激混みだった時とか、営業終了後にスタッフ全員に鰻重セット奢ってくれたりとかも。
当時は全然美味いモンとか食えなかったので、
「やったー!ラッキー♪」ぐらいにしか思いませんでしたが、
逆の立場になって、人に奢るってどれだけ大変なことかってことを思い知ってから、
余計に昔のことを思い出して。
いやあ~マジで大変だったろうなあ…とか、ほんとに有り難かったなあ…とか思います。
プロはお金を貰ってなんぼっていう意識を根付かせてくれたのも藤原さんでした。
当時のCAVEの主力だったオレ含めた5人組が居たんですが、
ほとんどのメンバーが辞めた直後の某日、キャッシャーに呼ばれて、
「おまえ、今月から時給1,000円にしてやるから。その代わり、誰にも言うなよ。」
ってそれだけ言われて。
当時のCAVEって750円スタートで、すぐ800円にはなりましたけど、
その時のオレの時給が830円ぐらいで、
オレより1番古い先輩のスタッフで840円ぐらいでしたかね~。
いや、当時ではクラブスタッフの時給が1,000円なんて、
もう有り得ないというか、かなり破格だったんですよ。
いやあ、口で色々言われるよりも、粋に感じたというか、グッと来ましたよ。
そこまで期待されてるんだったら、
時給1,200円ぐらいの働きをしよう!って思いましたもん。
当時は若かったですし、経験も浅かったのでそこまで実感は無かったですけど、
その後色々と職場を転々として、やっぱプロは金だなあってことを実感しました。
いくら言葉で「よくやってる!」とか「ほんとに頑張ってる!」とか言われても、
それに見合った報酬がないんじゃ全く評価されてないのと一緒ですもん。
口ではいくらでも色々言えますしね。
あと藤原さんに1番心を鷲づかみにされたのは、
何と言ってもコレでした。
どうしても後ろに女の子乗っけて2人乗りしたいが為に(笑)、
初めてローンで新車の125ccのVESPA買ったんですよ。
確か38万ぐらい出して1年半のローン組んで。
車の普通免許は持ってたので、50ccのVESPAなら乗れたんですが、
前述した様に女の子と2人乗りしたいのでわざわざ中型の免許まで取りに行って(笑)。
で、無事中免も取って念願のVESPAを乗り回してたんですが、
ある日の営業後、VESPAでの帰り道、深夜4時半頃だったでしょうか?
雨降っててゴーグルがちょっと曇ってたのもあったんですが、
ボケーッと考え事してたらうっかり赤信号に気付かずに交差点突入してて、
思いっ切り横から車に轢かれたんですよ、環8で!
30メートルぐらい飛ばされましたかね~。
中央分離帯にぶつかって止まったぐらいの勢いでした。
で、倒れながら朦朧とした意識の中、
買ったばかりのVESPAが無茶苦茶になって遠めに倒れてるのが目に入って。
思わずオレの頭の中には「あぁ、オレの人生終わったな、、、。」と思いました。
当時は勿論携帯とか皆無な頃だったんですが、
たまたま逆車線でパトカーが信号待ちしてたという奇跡もあって、
すぐに救急車呼んでくれて。
怪我も左目尻を切って大流血したものの、左脚甲を骨折したぐらいで、
大事には至りませんでしたが、一年半のローン組んで買ったばかりのバイクはパー、
全治も2ヶ月と診断されて、心は折れまくってました。
すぐに親にバレて、母親と兄貴が田舎から飛んできて。
ちょうど初めてど金髪(っていうかほぼ白に近い金髪)にした直後で、
しかも夜のバイトもずっと反対されてたし、
買ったばかりのバイクでこんな事故も起こしてしまい、
ソッコー美容師の兄貴によって髪は博多人形の様に真っ黒に染められ、
母親からは強制送還を言い渡されてました。
勿論田舎になんて戻りたくは無かったんですが、ただでさえ肉体的ダメージは勿論のこと、
バイクのローンもあるのに2ヶ月も働けないなんて、もう完全に無理だ…
って精神的にもめちゃくちゃ落ちまくってたのもあって、
「こうなった以上はもうしょうがないか・・・」と内心諦めてた部分もありました。
そんな折り、藤原さんから電話があって。確かこんな会話だったと思います。
藤原さん「おう、その後具合はどうだ?」
オレ「具合の方はだいぶいいんですけど…。
母親にバレてソッコー上京してきて『もう田舎に帰りなさい!』って言われちゃいまして…。
強制送還されそうなんです…。」
藤原さん「おまえはそれでいいのか?」
オレ「勿論嫌ですけど、こうなった以上はしょうがないかと。。。」
藤原さん「帰っても何もすることないだろ?」
オレ「まあ、機を見て大阪にでも出ようとは思ってますけど…。」
藤原さん「大阪か。大阪は大都市だけど所詮地方都市だぞ。やっぱり東京とは違うぞ。」
オレ「そうですよね…。でも一旦帰っちゃうとなかなか東京には出してくれないと思うんですよね…。」
藤原さん「だったらオレがお母さんに直接会って言ってやろうか?」
オレ「え?何てですか??」
藤原さん「ナガサワくんはほんとに一生懸命働いてくれていて、今のうちの欠かせない大事な戦力なので、私が責任持って面倒見ますから、なんとかこのまま東京に残させて貰えないでしょうか?って、オレが言ってやるよ。」
いやー、もうそれ言われた瞬間に、心鷲づかみにされましたよ。
そこまで言って貰って、有り難いやら嬉しいやらもありましたけど、
オレは何を女々しく凹んでいるんだと思い知らされたというか…。
男なら己の道は己で切り開かんかい!とばかり、
直後どうにか母親を説得して、執行猶予付きではありましたが、
とりあえず強制送還は免れましたし、
1ヶ月後には根性で松葉杖つきながらバイトも復帰して(笑)、
どうにかこうにか乗り越えたんですが、
藤原さんのあの一言が無かったら、もしかしたらおめおめと帰ってたかも知れないですね~。
それぐらい心身ともに憔悴しきってましたし。
いや、恐らく実家帰ってただろうなあ。
オレにとっては一生に残る名台詞の1つでしたよ。
藤原さんには、そういう男気というか、人を引っ張っていく為の術というか、
そういうものを非常に強く影響受けたかも知れないですね。
いや、今まで色んな職場で色んな上司いましたけど、
結構いい人が多かったですし、どちらかというと上司には恵まれた方だとは思いますけど、
元々どの職場でも真面目に一生懸命やってはいましたけど、
「この人の為に頑張ろう!」みたいに思えた人って、ほとんどいなかったですからね。
いや、そういうパワーってとてつもないですから、逆の立場になってみると。
ほんとにオレの指導者としての礎というか、根幹になってると思います。
ぶっちゃけ藤原さんには、
厳密に何かを教えて貰ったとかっていうのはほとんど無いんですけどね。
背中を見て学んだ的な。
若かったですし、当時はそういうのはわからなかったですけど、
時間が経ってからめちゃくちゃ影響受けてたのを実感したというか。
星野仙一的な部分に似てるのかも。アメとムチの使い方というか。
うちの死んだお爺もそういう人だったし。
あ、肉親でいうとうちの死んだお爺にもなにげに影響受けたんですけど、
藤原さんと似たタイプの人でしたね~。
いや、オレにとってうちのお爺も、なにげに偉大な人だったんですよ。
あ、長くなるのでご興味ある方はこちらを(笑)。
ちなみに藤原さんには悪いこともいっぱい教えて貰いましたけどね~(苦笑)。
気性も激しかったし、結構問題も多かった人だったので、
これを読んでる人の中にはもしかしたら、
「え??あの藤原さん??」って人も多いかも知れませんが(笑)。
まあでも、オレにとっては非常に影響を受けたいいボスでしたね~。
当時は若かったのでそこまでわかりませんでしたけど、
時間が経ってからひしひしと、
オレにとっては凄くいい上司だったなあ~って痛感したというか。
いや、藤原さんから学んだことは非常に大きかったですし、
間違い無くオレの恩師の1人ですよ、藤原さんは。

さて2人目は三宿Web初代店長のマービンです。
この人はその昔『ムスタングA.K.A』というバンドをやっていて、
ツインヴォーカルの1人で、バンドの顔的な役割もしてた人です。
『ムスタングA.K.A』はその昔SONYからメジャーデビューもしていて、
CMソングに使われた曲は上京前にテレビで聴いたことがあって、
知り合ってから「え!あの曲ですか!」的に驚いたりもしました。
ちなみに凄い映像を見付けたのでどうぞ。
知る人ぞ知る伝説の深夜番組『夢で逢えたら』にムスタングA.K.Aがゲストで出た映像です。
恐らく毎週欠かさずオンタイムで見てたとは思うんですけど、
コレは全然憶えてないですけどね(笑)。
ちなみに1番目立ってるモヒカンの人がマービンで、左で歌ってるセニョールさんは、
後にWebでオレと意気投合して伝説の草お笑いユニット『ハンソデポリス』
を長年やることになるんですけど(笑)。
話しを戻しますが、マービンとオレは別々のルートでWebに招集されたんですが、
初顔合わせの時に、上の映像を見て頂けたら一目瞭然ですが(笑)、
モヒカンで土着的な格好のマービンを見て、
「この人が店長か…悪い人じゃ無さそうだけど、見た目も内面もオレと真逆そうだなあ…
絶対ぶつかりそうだなあ…一緒にやっていけんのかな…?」
と内心不安になったりもしましたが、
後で聞くとマービンもオレを見て全く同じ印象だったらしいです(笑)。
初顔合わせはWebのビルの3階の酒屋だったんですが、
1人1人自己紹介していってて、
マービンの番になったら急に頭ガーンとパイプ椅子にぶつけてぶっ倒れて!
見たら白目剥いて泡吹いてるんですよ!そらあ隣にいたオレもビビリましたよ。
そんで急いで救急車呼んだんですが、救急隊員が来た瞬間に目が覚めて、
「あ!大丈夫です。オレ4年に1回こういうのあるんすよ。
ワールドカップ並みの周期で(笑)。」
って周りのオレらは笑うに笑えない様なこと言って(笑)、
とりあえずほんとにその後は大丈夫で、救急隊員の人たちは帰ってったんですが、
初対面はそれはそれは衝撃的なデビューでした(笑)。
この人ってほんとに音楽が好きなんですよ。
いやそういう人って勿論沢山見て来てますけど、
ほんとのMUSIC LOVERってこういう人のことを言うんだろうなって思います。
よく「NO MUSIC,NO LIFE」とかを座右の銘にしてる人とかいますけど、
大抵の場合、その"MUSIC"って、かなり限定されたモノでしょ?って思う事がほとんどで。
この音楽は好きだけどこの音楽は絶対無理!嫌い!乗れない!とかある訳じゃないですか?
マービンの凄いところは、勿論多少はそういうのはあっても、
基本的には音が鳴ってれば、リズムがあれば全然オッケーっていうか。
常に口でズンチャズンチャと口ずさみながら、リズム取って踊ってる様な人なんですよ(笑)。
いや、勿論好き嫌いは絶対あるんですが、それでも基本、全然分け隔て無く乗れるんですよ。
そんな人今まで見たことなくて。
だってやっぱ、誰だって好き嫌いは絶対あるじゃないですか?
っていうか音楽好きな人はむしろ、拘りの大きさからアリとナシが顕著だったりもしますし。
しかも常にハイテンションだし。素面でも全然ですけど、酒入ると更に。
その場に居る人を強制的にハッピーにさせる力が尋常じゃないというか。
だからWebオープン当初にDJやってる時はほんとに助けられましたね~。
ちょっとづつグルーヴ上げてってもなっかなかダンスフロアに呼び込めない時とか、
マービンがちょっと踊りながら盛り上げると、すぐみんな火が点いて踊り出したりとか。
いやもうマービンがいるだけで一気にフロアの雰囲気が変わるんですよ。
音楽に対してもそうでしたけど、人に対してもそうだったかも知れないですね。
基本苦手な人ってほとんどいないって言ってたし。
誰に対しても、初対面であろうと、全然臆することが無いというか。
圧倒的なウェルカム感というか。
しかもそんな感じの割りに、凄い穏和だし冷静だし客観的な部分もあって。
勿論当時の三宿Webに於いては、
フロントマン的な役割やムードメイカー的な部分は非常にでかかったんですが、
個人的にはそれ以外にも、数少ない色々な相談が出来る人だったんですよ。
そこが実は若かりし頃のオレからしたら非常に助かった部分で。
だいたいのことはオレ1人で考えてたんですが、
若輩者でしたしやっぱ迷うことも多々あって。
そういう時は営業終わった後とかに、酒飲みながらマービンに相談したりしてました。
そうすると目から鱗が落ちる様な冷静なことを結構言ってくれることがあって。
いや、若い頃からなるべく物事を客観的に見ようとしてたこともあって、
例えば相談ごととかを誰かにしても、大抵は予想通りのことしか返って来ないことが多くて。
もしくは「あ~その考えはもうとっくに行き着いてからの今のこの悩みなんだけど…」
みたいなレベルの返しとか。
結構相談乗って貰って凄い良かったなあ~って思えた人ってほとんどいなくて。
なので、当時では数少ない何でも相談出来る人だったんですよ、マービンは。
居なくなって痛感しましたが、そういう人がいるのといないのとでは、精神的に全然違って。
マービンが居た3年半はそういうところでも助かった部分は凄く大きかったですね~。
ちなみにマービンの昔のエピソード聞いてビックリしたんですが、
高校の頃に全国模試で1番取ったらしいんですよ。全国で1番ですよ!?(笑)。
勿論のこと「君は間違い無く東大受かるから」って言われて、
「そうか~オレ東大受かるのか~!」って思って油断して、
それから一切勉強しなかったらしいんですよ。
そしたら東大すべって結果早稲田に行ったらしいんですけど(笑)。
っていうか、全国で1番って凄くないですか??
この人やっぱなんか持ってるなあ~とは思いましたね。
しかもその後はメジャーデビューしてるし。
このブログを昔からチェックしてくれてる人なら既にご存知だと思いますが、
オレって逗子海岸が大好きで、聖地だと思ってるんですよ。
いや、これもマービンの影響なんですよね。
当時のマービンの彼女の実家がたまたま逗子海岸の近くで。
1周年のアニバーサリー終わった後に色々事件もあり、
疲れ果てたオレらは店に夕方まで店泊したんですが、
起きてからなんと三宿からタクシーで逗子行って(笑)。
水着も無いのに海開き前の海でひと泳ぎした後、
当時はまだ海岸沿いにあったロイヤルホストでミーティングして。
1周年のアニバーサリーでスタッフサイドが、
当時のプロデューサーと一悶着あったのもあって、
マービンは開口一番「オレもう辞めるわ。とりあえず店長とかもうやってらんない。」って。
ミーティングの結果は「じゃあもうみんなでWeb辞めよう!」って結論になって。
まあ1周年後の事件の詳細はこちらで(笑)。
その時のインパクトが余りにも強くて、
それ以来毎年1度は夏以外の季節に行ってるんですよね~。
でもほんと、毎回逗子に行くと初心に還れるというか。
それもマービンと出逢ってなかったらまず無かったことだし。
いや、オレにとってはなにげに大きいことなんですよ、コレって。
若かりし頃のオレはそれは堅物の仕事の鬼状態だったので、
同じスタッフで仕事もしないでワイワイやってる奴とか絶対許せなくて(笑)。
だから最初はマービンのことも忙しい時とかはよく怒ってましたけど、段々怒らなくなって。
ある日激混みの中で酒作ってて、ふとフロアの方見たらまた上半身裸になって、
仕事もしないでワッショイワッショイしてるから、半ば呆れながら、
「いいよなあ~オレは休憩も無しでひっきりなしで酒作り続けてんのに、
仕事もしないで酒飲んで遊んでて…」と思ったんですが、同時に心の中で、
「だったらマービンの変わり出来る?出来ないだろ?あんなに盛り上げられないだろ?
だったらおまえは美味い酒作れ!それが店の中の役目ってもんだろ!」
ってもう1人の自分に言われて納得したというか(笑)。
いや、ほんとに盛り上げるとか場の空気を作るっていう意味で、
唯一無二ぐらいのプロでしたから、マービンは。
クラブでのキャリアが当時のWebでは誰よりもありましたし、
元々のタイプも違ったのもあって、オレの方が3つも歳下なのに、
仕事のことではしょっちゅう怒ったりしてたんですが、
マービン自身も実はオレのことはとても認めてくれてたみたいで。
後に彼は吉祥寺のスターパインツカフェのクラブ部門の店長をやることになって、
たまにSPCのスタッフとか連れて来たりしたんですが、
みんな一様に、
「ナガサワさんのことはマービンからもうしょっちゅう聞かされてますよ!」
って言われて。
「あいつはほんとに叩き上げでここまで一生懸命やってきた奴だ。」とか、
「もうほんとにプロ中のプロだから。」とか、
めちゃめちゃ褒めちぎってくれてるらしいんですよ。
しかも色々話し聞くと、オレがWeb時代に散々マービンにお説教したこととかを、
SPCのスタッフにそのままお説教してたりとか(笑)、
なんかそういうのも凄い嬉しかったですね~。
いや、あの人とオレって、言わばもう全く趣味趣向も真逆のタイプなんですが、
逆にそれがお互いに、
自分には持ってない突出した部分へのリスペクトに繋がったんじゃないかと思います。
いや、ほんとにかなりおかしな店だったと思いますよ、当時のWebって。
だってオレが小綺麗な格好して、
眉間にシワを寄せて一生懸命妥協無く酒作ってる横で、
チョンマゲで上半身裸の奴が酔っ払ってワッショイワッショイしてる絵って、
何だこの店は!?ってよく言われましたもん(笑)。
やっぱどっちかに偏った店はありましたけど、
あのコントラストはかなり異質だったと思います。
マービンのWeb在籍期間って、店長自体はオープンしてからちょうど1年、
在籍自体は全面改装するまでのたったの3年半なんですが、間違い無く言えることは、
マービンが居なかったら三宿Webの20周年は無かったということです。
いや、これ全然大袈裟ではなくお世辞抜きに。
あの人居なかったら恐らく最初の半年で潰れてたかも知れないし。
そしたら勿論その後も無かった訳で。
あとあの人と出会ったことによって、
オレの価値観や考え方がめちゃくちゃ変わりましたから。
それも非常にでかかったというか。
それまでCAVE→ROOMと、ガチンコのクラブで3年働いてきて、
頭の中は勿論そういう色で洗脳されてた訳ですよ。
ある意味アンダーグラウンドこそクラブだ!的な。
勿論クラブの本質はそこにあるとは思うんですけど、
マービンを見ていると、
「面白かったらメジャーだろうがアンダーグラウンドだろうがどうだっていいじゃん(笑)」
的なのをひしひしと感じて。
それはクラブ的な部分以外にも、全てに於いて、
カッコ付けないカッコ良さ的な部分を非常に学びましたね~。
当時のオレはアホみたいにカッコ付けてましたし。
サービス業の本質とは?エンターテイメントの本質とは?
という部分にも繋がる部分かも知れませんけど。
本当に未だにマービンのことはめちゃくちゃリスペクトしてますし、
最大の功労者と言ってはばかりません。
いや、あの人になんかあったらオレは真っ先に飛んで行く!
ってぐらいの恩義を感じてますよ。マジで。
三宿Webの20周年を語る上で、何を於いてもまずマービン!ってぐらい、
オレにとっては本当に貴重且つ重要な存在であると同時に、
あの人との出逢いは、その後のオレの人生に於いて非常に大きなモノだったと言えます。

さ、気が付くといつも以上にえらいことになってますけど大丈夫でしょうか?(笑)。
まあ最後はそんなに長くはならないとは思いますけど。
そんな訳で最後の影響を受けた人は、ちょうど20年前に付き合ってた彼女です。
前にブログで書いた『ちょうど20年前の』シリーズの彼女とは違う子です。
『ちょうど20年前の』シリーズの彼女と別れて、
実に3ヶ月後に出逢い、半年後に付き合ったんですけど。
今思えば信じられない運命ですよ。
別れた当時は、もしかしたらもうこんな大恋愛は出来ないんじゃないか…?
ぐらい思ってましたし。
それがなんと半年後にそれ以上、いや人生最大の大恋愛をすることになるんですから。
実はぶっちゃけ、未だにこのブログもマメにチェックしてくれてるみたいなので、
ちょっとこっ恥ずかしくて余り深くは書けないんですよ(苦笑)。
なので今回は軽く触りだけぐらいですけど。
まあでもこのブログが続く限りは、死ぬまでにいつかは深く語らなければいけないであろう、
オレの人生の中で、1番影響を与えた人ですけどね。
とりあえずオレの20代と30代は、彼女からの影響はそれはそれは計り知れないです。
奴を語らずしてオレの人生も語れず、ぐらいな勢いです。
元々三宿Webに入る切っ掛けも彼女経由だったんですよ。
ROOMを辞めることは決めていたものの、次何やるかは全然決めてなくて。
そんな頃にちょうど、
彼女が当時バイトしていた恵比寿のPEDROっていうバーの常連だった、
前々回のブログでも登場したWebの初期バー部門のプロデューサーの稲葉さんが、
とある日に酔っぱらいながら、
「今度三宿でクラブやるんだけど、いいバーテンが居ないんだよね…。」
ってぼやいているのを聞いてすかさず「あ、いいバーテンなら知ってますよ!」
って言って紹介して貰うことになったっていう。
それがなかったら間違い無くオレはWebに入ってない訳で。
そんなほんのちょっとしたタイミングから生まれた結果が、
後に20年もやることになった訳ですから、ほんとに凄いことだなあと改めて。
だからある意味彼女と出逢ってなかったら、付き合ってなかったら、
もしかしたら三宿Webの20周年もなかったかも知れないですねえ。
いや、多分恐らく無かったと思います(笑)。
1997年に初めてニューヨークに海外旅行に行ったんですが、それも彼女の影響でした。
それまで全くと言っていいほど海外というモノに興味を持たなかったんですが、
当時彼女はニューヨークに住んでたんですよ。
その頃ふとした瞬間に海外というモノにちょっとだけ興味を持ち始めた頃で、
ちょうど彼女も住んでるしということで、彼女に逢いに、
当時は大嫌いだったアメリカ・ニューヨークに行ったんです。
1週間の滞在でしたが、ずーっと一緒に居てくれてニューヨークの街を案内してくれて。
勿論のこと、初めての海外ともあって、全てに度肝抜かれたのを未だに憶えてます。
同時に人に優しいニューヨークの街が一気に好きになって。
元々はヨーロッパ指向だったんですが、
やっぱニューヨークの方が好きかも!ぐらい思いましたね~。
でも「いや、行ったこともないのに、
ヨーロッパよりニューヨークの方が好きだとかいうのはナンセンスだ!」と思い、
翌年と翌々年にロンドンとパリに行くことにも繋がったというか。
それもニューヨークに行ってなかったらまず行ってなかったでしょうね~。
てことは腕と脚のでかいタトゥーも入れてなかったってことにもなります(笑)。
そう考えると、それだけでもやっぱオレの人生をかなり変えた出来事でしたね~。
いや、それ以上にオレの人生にとってとてつもなく大きかったですよ、
初の海外及びニューヨークへの旅行は。
ファッション的な部分も凄く影響を受けました。
彼女は付き合った当時から職業柄もあって物凄くお洒落で、
よくダメ出しとかされてました(笑)。
それでよくむかっともしましたけど、なんせ全てに於いて早いんですよ。
感性というか感覚が。なので、ダメ出しされても何も言い返せないというか。
むしろ彼女にダメ出しされない様に服買う様になったり(苦笑)。
当時はかなりの方向転換がありましたね~。
最初はそういう風に彼女がいいと言うモノを買ったり、
彼女がダメ出ししない様なモノを買ったりしてましたが、
ある時にやっぱ「コレはお洒落かも知れないけど、オレがしたいお洒落じゃない!」
ってことに気付いて。でもやっぱダメ出しはされたくなかったので、
そこからめちゃくちゃ自分の個性とは??
みたいなのを本気で考えるようになって。
それまではまだ全然ファッション的な部分でも青くて、
全く自分に自信がなかった頃だったので、
いち早く自分なりに自分の個性を模索したというか。
結構時間は掛かりましたけどね〜。
でも後に確立される自分のファッション像の構築に、
非常に大きく影響を及ぼしたと言えます。
いや、まあファッションもそうですけど、考え方や生き方や価値観とか、
もう全てに於いて影響受けまくりましたけどね(苦笑)。
それぐらい、今まで出逢ってきた人間の中でも、
もうほんとに突出した唯一無二の個性及び感性の持ち主でした。
ソウルメイトって言葉がありますけど、
今まで生きてきた中で、男女問わず、唯一そういうモノを感じたのが彼女です。
いやぶっちゃけそういうチープな言葉で括りたくないぐらいの感覚というか。
ほぼ家族に極めて近い感覚はありましたかねえ。
いや、付き合ってる時は勿論ですけど、別れた後とかもずっとだったんですよ。
お互いになんかあったらすぐ連絡取り合ってたし、
なんかあったらすぐお互いのところに飛んで行ってたし。
それはもうどっちかに彼氏彼女がいる時でもですよ。
なんでしょうね?唯一無二の大親友的な感覚というか。
いや、それともちょっと違うというか。なんとも形容しがたい様な感覚でした。
ああいう感覚を経験出来たというのは、オレにとって非常に大きかったですね。
人間的な深みの部分に非常に繋がったと思います。
いや、むしろ非常にラッキーだったとも言えるかも知れません。
あんな感覚、経験しないで一生を終える人っていっぱいいると思いますもん。
最後に、彼女とのことはそれはそれは色んなエピソードがあるんですが、
その中でも突出して衝撃的だったのが、確か12,3年前のことです。
ある夜たわいのないメールのやり取りをしてたんですよ。
で、話しの流れでオレが
「おまえはオレがもし死んだらきっとめっちゃ哀しんでくれるんやろなあ~。」
みたいなことを冗談半分で送ったら、
「ちょっとやめてよ!想像しただけで頭がおかしくなる。たけしが死んだら私も死ぬ!」
って返ってきて。もうビックリして。
だって付き合っててラブラブな頃とかならわかりますけど、
当時彼女には彼氏がいた頃だったんですよね(確か)。
「え?なんなん??それどういう感覚??」って返したら、
「私にもわからんわ。もうなんか自分自身(自分の分身)って感じやわ。」って。
最初はビックリしましたけど、段々放心状態になってきて。
いやもうなんて言ったらいいのやらって言うか。
そこまで赤の他人が思ってくれることって、なかなか無いと思うんですよね。
しかも彼女でもなければ嫁でもないのに。
若い頃オレって大バカだったので、
「オレは何かをしにこの世に生まれてきた!」とか勝手に思ってて、
「もしなんかあっても、まだ何もしてないからまだ絶対死なないハズだ!」
ぐらい思ってて(苦笑)。
「もし乗ってた飛行機墜落しても、オレは絶対助かるハズだ!」とか(笑)。
ほんとにアホでしたから…。
でも彼女にそのメールを貰ってからもう急にめっちゃ怖くなって。
なにがって、
「オレが生まれてきた意味ってもしかしたらコレだったのかも!」って思っちゃって。
「ヤバい!オレまだなんもしてないと思ってたけど、もう既に任務終わってる!
どうしよ!もういつ死んでもおかしない!!」ってマジで焦りましたね〜。
本気で、なにかあったらマジですぐ死ぬと思いましたもん(笑)。
いやでも、それぐらい凄いことだと思ったんですよね。
あのメールは、未だにっていうか、絶対一生忘れないでしょうね。
オレにとってはそれぐらいの大きなモノでしたね〜。
ちなみに「え?じゃあなんでそんな彼女と結婚しなかったの??」
っていう愚問はくれぐれもご容赦ください(笑)。
まあ、色々あったんですよ。
もう彼女とは5,6年は逢ってないですし、今は結婚して子供もいるので、
最近は滅多に連絡も取り合わなくなりましたが、
彼女にはほんとに幸せに暮らして欲しいなあと心から思います。
この先オレが結婚したとしても、この先もう2度と逢うことがないとしても、
大事に思う気持ちは死ぬまで変わらないでしょうね〜。
それってもうほんとに血の繋がった家族に近い様な感覚というか。
まあそれぐらいのかけがえのないモノを与えられましたからね、奴には。
※写真掲載してたらソッコー消してって連絡来たので敢えなく削除しました(笑)
さてそんな訳でいつも以上に長くなってしまいましたが、
その人のそれまでの生き方や考え方や価値観を変えてしまうほど影響を与えるって、
ほんとに凄いことだと思うんですよね~。
それってなかなか出来ることではないと思いますし。
メジャーなアーティストの様に、
何千人、何万人に影響を与えるということも勿論凄いことだと思いますが、
それがたった1人だったとしても、それって充分凄いことだと思うんですよね。
いや単純に誰かの『人生の中で影響を与えた3人』に入ってたら、
男として、いや人として、そんなに嬉しいことはないですよ。
あぁ、しょうもない人生だったけど、生きてきて良かったなあ、生まれてきて良かったなあ、
って心底思えると思うんですよね。
個人的にはなんか、人の為になるとか、人の役に立つというのは、
自分が得ることよりも大きな喜びを感じてしまうとこがあって。
いやむしろ、それこそがもしかしたら自分が得られる真の喜びなんじゃないか??
とか思ったりもするぐらい。
オレもこの先死ぬまでに、1人でも多く、いや、
たった1人でも誰かにそんな風に思って貰える様に、そんな存在になれる様に、
これからもただただ精進していくのみです。
今までの自分の人生の中で影響を与えた人を3人だけ挙げろと言われたら、
皆さんは誰を挙げますか?
勿論好きなアーティストや尊敬する偉人などの、
著名な人から影響を受けたということも多々あると思いますが、
例えばそういう人は除いて、肉親以外の身近な周りの人からの場合。
オレの場合は真っ先に3人の顔が思い浮かびます。
1人はCAVE時代の店長だった藤原さん。
1人は三宿Web初代店長だったマービン。
1人は1番長く付き合った彼女の3人です。
藤原さんは元々は原宿にあったCLUB Bで働いていて、
CAVEの後も新宿のWIREの店長をされたりした人で、
Webにも確か1度か2度ほど遊びに来てくれました。
非常に厳格な人で、当時のCAVEスタッフはみんなビビってましたが(笑)、
その反面めちゃめちゃ兄貴肌というか、リーダーシップに長けた人でした。
オレが入ったCAVEはちょうど人手不足で、入って間もなくすぐにバーに立たされたので、
当時ほとんど酒の知識が無かったオレは、それこそ必死に独学で勉強したんですが、
藤原さんには早くから褒められたりしました。
「おまえ、若い割りに酒作んの上手いな。」とか。
いやあ、やっぱ自信になりましたね~。
時給も10円単位ででしたけど、結構早くに上げて貰ったりとか。
オレの後に同い年の後輩がどんどん入ってきたんですが、
そいつらはもう毎日の様に怒られてるんですよ。いやもう怒鳴られまくりというか。
オレはほとんど怒られることがなかったんですよね。
まあ自分で言うのもなんですが、めちゃめちゃ仕事出来ましたからね(笑)。
っていうかまあ、人一倍真面目にやってたので。
ある日スタッフの意見アンケートかなんかを書く時に、
当時CAVEの新しいスタッフTシャツが出来た頃で、
スタッフはみんな当分コレを着て働け!って言われてたんですが、
そのTシャツがどうにもこうにもカッコ良く無くて。
で、そのアンケート用紙に確か、
「毎日の営業で何を着て行くか?という楽しみが無くなってしまうので、
出来ればスタッフTシャツは着たくありません。」
みたいなことを書いたんですけど、今考えると生意気ですよね~(笑)。
で、次の日でしたかねえ、キャッシャーに呼び出されて。
そしたら藤原さんに「わかったよ。おまえは着なくていいよ。」
って言われて(笑)。いやー嬉しかったですね~。
スタッフTシャツを着なくていいということよりも、
自分のファッションに対する拘りが伝わったんだと思って、それが1番嬉しかったです。
いや、当時のオレは若干20歳という若さながら、
自分で言うのもなんですが、今考えるとプロ意識の固まりで、
例えば当時持ってる服で6通りの格好があったとして、週6で働いてたんですけど、
スケジュールを見ながら、月曜日はハウスっぽいイベントだからコレ、
木曜日はUKなイベントだからコレとか、
常に考えて、しかも忘れないようにその日にどんな格好したか、
わざわざカレンダーに書いてたんですよ(笑)。
それでなるべく同じ曜日に同じ格好をしない様にとか気を付けてました。
当時のクラブって同じ曜日は帯でやってることが多くて、
常連さんも、その曜日にしか来ないってことも非常に多かったんですよ。
なので、毎日違う格好をしても、同じ曜日に同じ格好をしていたら、
その曜日に来るお客さんにはその格好しか印象残らないじゃないですか?
それじゃあクラブスタッフとしてダメだ!
あの人は今日はどんな格好してるだろう??って興味持たすぐらいじゃないと、
クラブスタッフとして失格だ!ぐらい思ってました(笑)。
いや、マジでそれぐらい格好には拘ってたんですよ。
20歳でですよ!?我ながら凄くないすか??
今なんかめっちゃ適当なのに…(笑)。
そんな訳で、そういう部分が伝わって嬉しかったんですよね。
話がえらい逸れましたが、藤原さんは基本的には厳しい人でしたが、
いきなり日曜日の夜に「今日は暇だから早めに店閉めて今からみんなで山中湖行くぞ!」
とか言ってレンタカー借りて連れてってくれたりとか、
スタッフ全員及び箱DJ連れて泊まりでキャンプ連れてってくれたりとか、
そういう遊び心もある兄貴分的な存在でした。
飯もほとんど奢ってくれてましたし。
土曜日激混みだった時とか、営業終了後にスタッフ全員に鰻重セット奢ってくれたりとかも。
当時は全然美味いモンとか食えなかったので、
「やったー!ラッキー♪」ぐらいにしか思いませんでしたが、
逆の立場になって、人に奢るってどれだけ大変なことかってことを思い知ってから、
余計に昔のことを思い出して。
いやあ~マジで大変だったろうなあ…とか、ほんとに有り難かったなあ…とか思います。
プロはお金を貰ってなんぼっていう意識を根付かせてくれたのも藤原さんでした。
当時のCAVEの主力だったオレ含めた5人組が居たんですが、
ほとんどのメンバーが辞めた直後の某日、キャッシャーに呼ばれて、
「おまえ、今月から時給1,000円にしてやるから。その代わり、誰にも言うなよ。」
ってそれだけ言われて。
当時のCAVEって750円スタートで、すぐ800円にはなりましたけど、
その時のオレの時給が830円ぐらいで、
オレより1番古い先輩のスタッフで840円ぐらいでしたかね~。
いや、当時ではクラブスタッフの時給が1,000円なんて、
もう有り得ないというか、かなり破格だったんですよ。
いやあ、口で色々言われるよりも、粋に感じたというか、グッと来ましたよ。
そこまで期待されてるんだったら、
時給1,200円ぐらいの働きをしよう!って思いましたもん。
当時は若かったですし、経験も浅かったのでそこまで実感は無かったですけど、
その後色々と職場を転々として、やっぱプロは金だなあってことを実感しました。
いくら言葉で「よくやってる!」とか「ほんとに頑張ってる!」とか言われても、
それに見合った報酬がないんじゃ全く評価されてないのと一緒ですもん。
口ではいくらでも色々言えますしね。
あと藤原さんに1番心を鷲づかみにされたのは、
何と言ってもコレでした。
どうしても後ろに女の子乗っけて2人乗りしたいが為に(笑)、
初めてローンで新車の125ccのVESPA買ったんですよ。
確か38万ぐらい出して1年半のローン組んで。
車の普通免許は持ってたので、50ccのVESPAなら乗れたんですが、
前述した様に女の子と2人乗りしたいのでわざわざ中型の免許まで取りに行って(笑)。
で、無事中免も取って念願のVESPAを乗り回してたんですが、
ある日の営業後、VESPAでの帰り道、深夜4時半頃だったでしょうか?
雨降っててゴーグルがちょっと曇ってたのもあったんですが、
ボケーッと考え事してたらうっかり赤信号に気付かずに交差点突入してて、
思いっ切り横から車に轢かれたんですよ、環8で!
30メートルぐらい飛ばされましたかね~。
中央分離帯にぶつかって止まったぐらいの勢いでした。
で、倒れながら朦朧とした意識の中、
買ったばかりのVESPAが無茶苦茶になって遠めに倒れてるのが目に入って。
思わずオレの頭の中には「あぁ、オレの人生終わったな、、、。」と思いました。
当時は勿論携帯とか皆無な頃だったんですが、
たまたま逆車線でパトカーが信号待ちしてたという奇跡もあって、
すぐに救急車呼んでくれて。
怪我も左目尻を切って大流血したものの、左脚甲を骨折したぐらいで、
大事には至りませんでしたが、一年半のローン組んで買ったばかりのバイクはパー、
全治も2ヶ月と診断されて、心は折れまくってました。
すぐに親にバレて、母親と兄貴が田舎から飛んできて。
ちょうど初めてど金髪(っていうかほぼ白に近い金髪)にした直後で、
しかも夜のバイトもずっと反対されてたし、
買ったばかりのバイクでこんな事故も起こしてしまい、
ソッコー美容師の兄貴によって髪は博多人形の様に真っ黒に染められ、
母親からは強制送還を言い渡されてました。
勿論田舎になんて戻りたくは無かったんですが、ただでさえ肉体的ダメージは勿論のこと、
バイクのローンもあるのに2ヶ月も働けないなんて、もう完全に無理だ…
って精神的にもめちゃくちゃ落ちまくってたのもあって、
「こうなった以上はもうしょうがないか・・・」と内心諦めてた部分もありました。
そんな折り、藤原さんから電話があって。確かこんな会話だったと思います。
藤原さん「おう、その後具合はどうだ?」
オレ「具合の方はだいぶいいんですけど…。
母親にバレてソッコー上京してきて『もう田舎に帰りなさい!』って言われちゃいまして…。
強制送還されそうなんです…。」
藤原さん「おまえはそれでいいのか?」
オレ「勿論嫌ですけど、こうなった以上はしょうがないかと。。。」
藤原さん「帰っても何もすることないだろ?」
オレ「まあ、機を見て大阪にでも出ようとは思ってますけど…。」
藤原さん「大阪か。大阪は大都市だけど所詮地方都市だぞ。やっぱり東京とは違うぞ。」
オレ「そうですよね…。でも一旦帰っちゃうとなかなか東京には出してくれないと思うんですよね…。」
藤原さん「だったらオレがお母さんに直接会って言ってやろうか?」
オレ「え?何てですか??」
藤原さん「ナガサワくんはほんとに一生懸命働いてくれていて、今のうちの欠かせない大事な戦力なので、私が責任持って面倒見ますから、なんとかこのまま東京に残させて貰えないでしょうか?って、オレが言ってやるよ。」
いやー、もうそれ言われた瞬間に、心鷲づかみにされましたよ。
そこまで言って貰って、有り難いやら嬉しいやらもありましたけど、
オレは何を女々しく凹んでいるんだと思い知らされたというか…。
男なら己の道は己で切り開かんかい!とばかり、
直後どうにか母親を説得して、執行猶予付きではありましたが、
とりあえず強制送還は免れましたし、
1ヶ月後には根性で松葉杖つきながらバイトも復帰して(笑)、
どうにかこうにか乗り越えたんですが、
藤原さんのあの一言が無かったら、もしかしたらおめおめと帰ってたかも知れないですね~。
それぐらい心身ともに憔悴しきってましたし。
いや、恐らく実家帰ってただろうなあ。
オレにとっては一生に残る名台詞の1つでしたよ。
藤原さんには、そういう男気というか、人を引っ張っていく為の術というか、
そういうものを非常に強く影響受けたかも知れないですね。
いや、今まで色んな職場で色んな上司いましたけど、
結構いい人が多かったですし、どちらかというと上司には恵まれた方だとは思いますけど、
元々どの職場でも真面目に一生懸命やってはいましたけど、
「この人の為に頑張ろう!」みたいに思えた人って、ほとんどいなかったですからね。
いや、そういうパワーってとてつもないですから、逆の立場になってみると。
ほんとにオレの指導者としての礎というか、根幹になってると思います。
ぶっちゃけ藤原さんには、
厳密に何かを教えて貰ったとかっていうのはほとんど無いんですけどね。
背中を見て学んだ的な。
若かったですし、当時はそういうのはわからなかったですけど、
時間が経ってからめちゃくちゃ影響受けてたのを実感したというか。
星野仙一的な部分に似てるのかも。アメとムチの使い方というか。
うちの死んだお爺もそういう人だったし。
あ、肉親でいうとうちの死んだお爺にもなにげに影響受けたんですけど、
藤原さんと似たタイプの人でしたね~。
いや、オレにとってうちのお爺も、なにげに偉大な人だったんですよ。
あ、長くなるのでご興味ある方はこちらを(笑)。
ちなみに藤原さんには悪いこともいっぱい教えて貰いましたけどね~(苦笑)。
気性も激しかったし、結構問題も多かった人だったので、
これを読んでる人の中にはもしかしたら、
「え??あの藤原さん??」って人も多いかも知れませんが(笑)。
まあでも、オレにとっては非常に影響を受けたいいボスでしたね~。
当時は若かったのでそこまでわかりませんでしたけど、
時間が経ってからひしひしと、
オレにとっては凄くいい上司だったなあ~って痛感したというか。
いや、藤原さんから学んだことは非常に大きかったですし、
間違い無くオレの恩師の1人ですよ、藤原さんは。

さて2人目は三宿Web初代店長のマービンです。
この人はその昔『ムスタングA.K.A』というバンドをやっていて、
ツインヴォーカルの1人で、バンドの顔的な役割もしてた人です。
『ムスタングA.K.A』はその昔SONYからメジャーデビューもしていて、
CMソングに使われた曲は上京前にテレビで聴いたことがあって、
知り合ってから「え!あの曲ですか!」的に驚いたりもしました。
ちなみに凄い映像を見付けたのでどうぞ。
知る人ぞ知る伝説の深夜番組『夢で逢えたら』にムスタングA.K.Aがゲストで出た映像です。
恐らく毎週欠かさずオンタイムで見てたとは思うんですけど、
コレは全然憶えてないですけどね(笑)。
ちなみに1番目立ってるモヒカンの人がマービンで、左で歌ってるセニョールさんは、
後にWebでオレと意気投合して伝説の草お笑いユニット『ハンソデポリス』
を長年やることになるんですけど(笑)。
話しを戻しますが、マービンとオレは別々のルートでWebに招集されたんですが、
初顔合わせの時に、上の映像を見て頂けたら一目瞭然ですが(笑)、
モヒカンで土着的な格好のマービンを見て、
「この人が店長か…悪い人じゃ無さそうだけど、見た目も内面もオレと真逆そうだなあ…
絶対ぶつかりそうだなあ…一緒にやっていけんのかな…?」
と内心不安になったりもしましたが、
後で聞くとマービンもオレを見て全く同じ印象だったらしいです(笑)。
初顔合わせはWebのビルの3階の酒屋だったんですが、
1人1人自己紹介していってて、
マービンの番になったら急に頭ガーンとパイプ椅子にぶつけてぶっ倒れて!
見たら白目剥いて泡吹いてるんですよ!そらあ隣にいたオレもビビリましたよ。
そんで急いで救急車呼んだんですが、救急隊員が来た瞬間に目が覚めて、
「あ!大丈夫です。オレ4年に1回こういうのあるんすよ。
ワールドカップ並みの周期で(笑)。」
って周りのオレらは笑うに笑えない様なこと言って(笑)、
とりあえずほんとにその後は大丈夫で、救急隊員の人たちは帰ってったんですが、
初対面はそれはそれは衝撃的なデビューでした(笑)。
この人ってほんとに音楽が好きなんですよ。
いやそういう人って勿論沢山見て来てますけど、
ほんとのMUSIC LOVERってこういう人のことを言うんだろうなって思います。
よく「NO MUSIC,NO LIFE」とかを座右の銘にしてる人とかいますけど、
大抵の場合、その"MUSIC"って、かなり限定されたモノでしょ?って思う事がほとんどで。
この音楽は好きだけどこの音楽は絶対無理!嫌い!乗れない!とかある訳じゃないですか?
マービンの凄いところは、勿論多少はそういうのはあっても、
基本的には音が鳴ってれば、リズムがあれば全然オッケーっていうか。
常に口でズンチャズンチャと口ずさみながら、リズム取って踊ってる様な人なんですよ(笑)。
いや、勿論好き嫌いは絶対あるんですが、それでも基本、全然分け隔て無く乗れるんですよ。
そんな人今まで見たことなくて。
だってやっぱ、誰だって好き嫌いは絶対あるじゃないですか?
っていうか音楽好きな人はむしろ、拘りの大きさからアリとナシが顕著だったりもしますし。
しかも常にハイテンションだし。素面でも全然ですけど、酒入ると更に。
その場に居る人を強制的にハッピーにさせる力が尋常じゃないというか。
だからWebオープン当初にDJやってる時はほんとに助けられましたね~。
ちょっとづつグルーヴ上げてってもなっかなかダンスフロアに呼び込めない時とか、
マービンがちょっと踊りながら盛り上げると、すぐみんな火が点いて踊り出したりとか。
いやもうマービンがいるだけで一気にフロアの雰囲気が変わるんですよ。
音楽に対してもそうでしたけど、人に対してもそうだったかも知れないですね。
基本苦手な人ってほとんどいないって言ってたし。
誰に対しても、初対面であろうと、全然臆することが無いというか。
圧倒的なウェルカム感というか。
しかもそんな感じの割りに、凄い穏和だし冷静だし客観的な部分もあって。
勿論当時の三宿Webに於いては、
フロントマン的な役割やムードメイカー的な部分は非常にでかかったんですが、
個人的にはそれ以外にも、数少ない色々な相談が出来る人だったんですよ。
そこが実は若かりし頃のオレからしたら非常に助かった部分で。
だいたいのことはオレ1人で考えてたんですが、
若輩者でしたしやっぱ迷うことも多々あって。
そういう時は営業終わった後とかに、酒飲みながらマービンに相談したりしてました。
そうすると目から鱗が落ちる様な冷静なことを結構言ってくれることがあって。
いや、若い頃からなるべく物事を客観的に見ようとしてたこともあって、
例えば相談ごととかを誰かにしても、大抵は予想通りのことしか返って来ないことが多くて。
もしくは「あ~その考えはもうとっくに行き着いてからの今のこの悩みなんだけど…」
みたいなレベルの返しとか。
結構相談乗って貰って凄い良かったなあ~って思えた人ってほとんどいなくて。
なので、当時では数少ない何でも相談出来る人だったんですよ、マービンは。
居なくなって痛感しましたが、そういう人がいるのといないのとでは、精神的に全然違って。
マービンが居た3年半はそういうところでも助かった部分は凄く大きかったですね~。
ちなみにマービンの昔のエピソード聞いてビックリしたんですが、
高校の頃に全国模試で1番取ったらしいんですよ。全国で1番ですよ!?(笑)。
勿論のこと「君は間違い無く東大受かるから」って言われて、
「そうか~オレ東大受かるのか~!」って思って油断して、
それから一切勉強しなかったらしいんですよ。
そしたら東大すべって結果早稲田に行ったらしいんですけど(笑)。
っていうか、全国で1番って凄くないですか??
この人やっぱなんか持ってるなあ~とは思いましたね。
しかもその後はメジャーデビューしてるし。
このブログを昔からチェックしてくれてる人なら既にご存知だと思いますが、
オレって逗子海岸が大好きで、聖地だと思ってるんですよ。
いや、これもマービンの影響なんですよね。
当時のマービンの彼女の実家がたまたま逗子海岸の近くで。
1周年のアニバーサリー終わった後に色々事件もあり、
疲れ果てたオレらは店に夕方まで店泊したんですが、
起きてからなんと三宿からタクシーで逗子行って(笑)。
水着も無いのに海開き前の海でひと泳ぎした後、
当時はまだ海岸沿いにあったロイヤルホストでミーティングして。
1周年のアニバーサリーでスタッフサイドが、
当時のプロデューサーと一悶着あったのもあって、
マービンは開口一番「オレもう辞めるわ。とりあえず店長とかもうやってらんない。」って。
ミーティングの結果は「じゃあもうみんなでWeb辞めよう!」って結論になって。
まあ1周年後の事件の詳細はこちらで(笑)。
その時のインパクトが余りにも強くて、
それ以来毎年1度は夏以外の季節に行ってるんですよね~。
でもほんと、毎回逗子に行くと初心に還れるというか。
それもマービンと出逢ってなかったらまず無かったことだし。
いや、オレにとってはなにげに大きいことなんですよ、コレって。
若かりし頃のオレはそれは堅物の仕事の鬼状態だったので、
同じスタッフで仕事もしないでワイワイやってる奴とか絶対許せなくて(笑)。
だから最初はマービンのことも忙しい時とかはよく怒ってましたけど、段々怒らなくなって。
ある日激混みの中で酒作ってて、ふとフロアの方見たらまた上半身裸になって、
仕事もしないでワッショイワッショイしてるから、半ば呆れながら、
「いいよなあ~オレは休憩も無しでひっきりなしで酒作り続けてんのに、
仕事もしないで酒飲んで遊んでて…」と思ったんですが、同時に心の中で、
「だったらマービンの変わり出来る?出来ないだろ?あんなに盛り上げられないだろ?
だったらおまえは美味い酒作れ!それが店の中の役目ってもんだろ!」
ってもう1人の自分に言われて納得したというか(笑)。
いや、ほんとに盛り上げるとか場の空気を作るっていう意味で、
唯一無二ぐらいのプロでしたから、マービンは。
クラブでのキャリアが当時のWebでは誰よりもありましたし、
元々のタイプも違ったのもあって、オレの方が3つも歳下なのに、
仕事のことではしょっちゅう怒ったりしてたんですが、
マービン自身も実はオレのことはとても認めてくれてたみたいで。
後に彼は吉祥寺のスターパインツカフェのクラブ部門の店長をやることになって、
たまにSPCのスタッフとか連れて来たりしたんですが、
みんな一様に、
「ナガサワさんのことはマービンからもうしょっちゅう聞かされてますよ!」
って言われて。
「あいつはほんとに叩き上げでここまで一生懸命やってきた奴だ。」とか、
「もうほんとにプロ中のプロだから。」とか、
めちゃめちゃ褒めちぎってくれてるらしいんですよ。
しかも色々話し聞くと、オレがWeb時代に散々マービンにお説教したこととかを、
SPCのスタッフにそのままお説教してたりとか(笑)、
なんかそういうのも凄い嬉しかったですね~。
いや、あの人とオレって、言わばもう全く趣味趣向も真逆のタイプなんですが、
逆にそれがお互いに、
自分には持ってない突出した部分へのリスペクトに繋がったんじゃないかと思います。
いや、ほんとにかなりおかしな店だったと思いますよ、当時のWebって。
だってオレが小綺麗な格好して、
眉間にシワを寄せて一生懸命妥協無く酒作ってる横で、
チョンマゲで上半身裸の奴が酔っ払ってワッショイワッショイしてる絵って、
何だこの店は!?ってよく言われましたもん(笑)。
やっぱどっちかに偏った店はありましたけど、
あのコントラストはかなり異質だったと思います。
マービンのWeb在籍期間って、店長自体はオープンしてからちょうど1年、
在籍自体は全面改装するまでのたったの3年半なんですが、間違い無く言えることは、
マービンが居なかったら三宿Webの20周年は無かったということです。
いや、これ全然大袈裟ではなくお世辞抜きに。
あの人居なかったら恐らく最初の半年で潰れてたかも知れないし。
そしたら勿論その後も無かった訳で。
あとあの人と出会ったことによって、
オレの価値観や考え方がめちゃくちゃ変わりましたから。
それも非常にでかかったというか。
それまでCAVE→ROOMと、ガチンコのクラブで3年働いてきて、
頭の中は勿論そういう色で洗脳されてた訳ですよ。
ある意味アンダーグラウンドこそクラブだ!的な。
勿論クラブの本質はそこにあるとは思うんですけど、
マービンを見ていると、
「面白かったらメジャーだろうがアンダーグラウンドだろうがどうだっていいじゃん(笑)」
的なのをひしひしと感じて。
それはクラブ的な部分以外にも、全てに於いて、
カッコ付けないカッコ良さ的な部分を非常に学びましたね~。
当時のオレはアホみたいにカッコ付けてましたし。
サービス業の本質とは?エンターテイメントの本質とは?
という部分にも繋がる部分かも知れませんけど。
本当に未だにマービンのことはめちゃくちゃリスペクトしてますし、
最大の功労者と言ってはばかりません。
いや、あの人になんかあったらオレは真っ先に飛んで行く!
ってぐらいの恩義を感じてますよ。マジで。
三宿Webの20周年を語る上で、何を於いてもまずマービン!ってぐらい、
オレにとっては本当に貴重且つ重要な存在であると同時に、
あの人との出逢いは、その後のオレの人生に於いて非常に大きなモノだったと言えます。

さ、気が付くといつも以上にえらいことになってますけど大丈夫でしょうか?(笑)。
まあ最後はそんなに長くはならないとは思いますけど。
そんな訳で最後の影響を受けた人は、ちょうど20年前に付き合ってた彼女です。
前にブログで書いた『ちょうど20年前の』シリーズの彼女とは違う子です。
『ちょうど20年前の』シリーズの彼女と別れて、
実に3ヶ月後に出逢い、半年後に付き合ったんですけど。
今思えば信じられない運命ですよ。
別れた当時は、もしかしたらもうこんな大恋愛は出来ないんじゃないか…?
ぐらい思ってましたし。
それがなんと半年後にそれ以上、いや人生最大の大恋愛をすることになるんですから。
実はぶっちゃけ、未だにこのブログもマメにチェックしてくれてるみたいなので、
ちょっとこっ恥ずかしくて余り深くは書けないんですよ(苦笑)。
なので今回は軽く触りだけぐらいですけど。
まあでもこのブログが続く限りは、死ぬまでにいつかは深く語らなければいけないであろう、
オレの人生の中で、1番影響を与えた人ですけどね。
とりあえずオレの20代と30代は、彼女からの影響はそれはそれは計り知れないです。
奴を語らずしてオレの人生も語れず、ぐらいな勢いです。
元々三宿Webに入る切っ掛けも彼女経由だったんですよ。
ROOMを辞めることは決めていたものの、次何やるかは全然決めてなくて。
そんな頃にちょうど、
彼女が当時バイトしていた恵比寿のPEDROっていうバーの常連だった、
前々回のブログでも登場したWebの初期バー部門のプロデューサーの稲葉さんが、
とある日に酔っぱらいながら、
「今度三宿でクラブやるんだけど、いいバーテンが居ないんだよね…。」
ってぼやいているのを聞いてすかさず「あ、いいバーテンなら知ってますよ!」
って言って紹介して貰うことになったっていう。
それがなかったら間違い無くオレはWebに入ってない訳で。
そんなほんのちょっとしたタイミングから生まれた結果が、
後に20年もやることになった訳ですから、ほんとに凄いことだなあと改めて。
だからある意味彼女と出逢ってなかったら、付き合ってなかったら、
もしかしたら三宿Webの20周年もなかったかも知れないですねえ。
いや、多分恐らく無かったと思います(笑)。
1997年に初めてニューヨークに海外旅行に行ったんですが、それも彼女の影響でした。
それまで全くと言っていいほど海外というモノに興味を持たなかったんですが、
当時彼女はニューヨークに住んでたんですよ。
その頃ふとした瞬間に海外というモノにちょっとだけ興味を持ち始めた頃で、
ちょうど彼女も住んでるしということで、彼女に逢いに、
当時は大嫌いだったアメリカ・ニューヨークに行ったんです。
1週間の滞在でしたが、ずーっと一緒に居てくれてニューヨークの街を案内してくれて。
勿論のこと、初めての海外ともあって、全てに度肝抜かれたのを未だに憶えてます。
同時に人に優しいニューヨークの街が一気に好きになって。
元々はヨーロッパ指向だったんですが、
やっぱニューヨークの方が好きかも!ぐらい思いましたね~。
でも「いや、行ったこともないのに、
ヨーロッパよりニューヨークの方が好きだとかいうのはナンセンスだ!」と思い、
翌年と翌々年にロンドンとパリに行くことにも繋がったというか。
それもニューヨークに行ってなかったらまず行ってなかったでしょうね~。
てことは腕と脚のでかいタトゥーも入れてなかったってことにもなります(笑)。
そう考えると、それだけでもやっぱオレの人生をかなり変えた出来事でしたね~。
いや、それ以上にオレの人生にとってとてつもなく大きかったですよ、
初の海外及びニューヨークへの旅行は。
ファッション的な部分も凄く影響を受けました。
彼女は付き合った当時から職業柄もあって物凄くお洒落で、
よくダメ出しとかされてました(笑)。
それでよくむかっともしましたけど、なんせ全てに於いて早いんですよ。
感性というか感覚が。なので、ダメ出しされても何も言い返せないというか。
むしろ彼女にダメ出しされない様に服買う様になったり(苦笑)。
当時はかなりの方向転換がありましたね~。
最初はそういう風に彼女がいいと言うモノを買ったり、
彼女がダメ出ししない様なモノを買ったりしてましたが、
ある時にやっぱ「コレはお洒落かも知れないけど、オレがしたいお洒落じゃない!」
ってことに気付いて。でもやっぱダメ出しはされたくなかったので、
そこからめちゃくちゃ自分の個性とは??
みたいなのを本気で考えるようになって。
それまではまだ全然ファッション的な部分でも青くて、
全く自分に自信がなかった頃だったので、
いち早く自分なりに自分の個性を模索したというか。
結構時間は掛かりましたけどね〜。
でも後に確立される自分のファッション像の構築に、
非常に大きく影響を及ぼしたと言えます。
いや、まあファッションもそうですけど、考え方や生き方や価値観とか、
もう全てに於いて影響受けまくりましたけどね(苦笑)。
それぐらい、今まで出逢ってきた人間の中でも、
もうほんとに突出した唯一無二の個性及び感性の持ち主でした。
ソウルメイトって言葉がありますけど、
今まで生きてきた中で、男女問わず、唯一そういうモノを感じたのが彼女です。
いやぶっちゃけそういうチープな言葉で括りたくないぐらいの感覚というか。
ほぼ家族に極めて近い感覚はありましたかねえ。
いや、付き合ってる時は勿論ですけど、別れた後とかもずっとだったんですよ。
お互いになんかあったらすぐ連絡取り合ってたし、
なんかあったらすぐお互いのところに飛んで行ってたし。
それはもうどっちかに彼氏彼女がいる時でもですよ。
なんでしょうね?唯一無二の大親友的な感覚というか。
いや、それともちょっと違うというか。なんとも形容しがたい様な感覚でした。
ああいう感覚を経験出来たというのは、オレにとって非常に大きかったですね。
人間的な深みの部分に非常に繋がったと思います。
いや、むしろ非常にラッキーだったとも言えるかも知れません。
あんな感覚、経験しないで一生を終える人っていっぱいいると思いますもん。
最後に、彼女とのことはそれはそれは色んなエピソードがあるんですが、
その中でも突出して衝撃的だったのが、確か12,3年前のことです。
ある夜たわいのないメールのやり取りをしてたんですよ。
で、話しの流れでオレが
「おまえはオレがもし死んだらきっとめっちゃ哀しんでくれるんやろなあ~。」
みたいなことを冗談半分で送ったら、
「ちょっとやめてよ!想像しただけで頭がおかしくなる。たけしが死んだら私も死ぬ!」
って返ってきて。もうビックリして。
だって付き合っててラブラブな頃とかならわかりますけど、
当時彼女には彼氏がいた頃だったんですよね(確か)。
「え?なんなん??それどういう感覚??」って返したら、
「私にもわからんわ。もうなんか自分自身(自分の分身)って感じやわ。」って。
最初はビックリしましたけど、段々放心状態になってきて。
いやもうなんて言ったらいいのやらって言うか。
そこまで赤の他人が思ってくれることって、なかなか無いと思うんですよね。
しかも彼女でもなければ嫁でもないのに。
若い頃オレって大バカだったので、
「オレは何かをしにこの世に生まれてきた!」とか勝手に思ってて、
「もしなんかあっても、まだ何もしてないからまだ絶対死なないハズだ!」
ぐらい思ってて(苦笑)。
「もし乗ってた飛行機墜落しても、オレは絶対助かるハズだ!」とか(笑)。
ほんとにアホでしたから…。
でも彼女にそのメールを貰ってからもう急にめっちゃ怖くなって。
なにがって、
「オレが生まれてきた意味ってもしかしたらコレだったのかも!」って思っちゃって。
「ヤバい!オレまだなんもしてないと思ってたけど、もう既に任務終わってる!
どうしよ!もういつ死んでもおかしない!!」ってマジで焦りましたね〜。
本気で、なにかあったらマジですぐ死ぬと思いましたもん(笑)。
いやでも、それぐらい凄いことだと思ったんですよね。
あのメールは、未だにっていうか、絶対一生忘れないでしょうね。
オレにとってはそれぐらいの大きなモノでしたね〜。
ちなみに「え?じゃあなんでそんな彼女と結婚しなかったの??」
っていう愚問はくれぐれもご容赦ください(笑)。
まあ、色々あったんですよ。
もう彼女とは5,6年は逢ってないですし、今は結婚して子供もいるので、
最近は滅多に連絡も取り合わなくなりましたが、
彼女にはほんとに幸せに暮らして欲しいなあと心から思います。
この先オレが結婚したとしても、この先もう2度と逢うことがないとしても、
大事に思う気持ちは死ぬまで変わらないでしょうね〜。
それってもうほんとに血の繋がった家族に近い様な感覚というか。
まあそれぐらいのかけがえのないモノを与えられましたからね、奴には。
※写真掲載してたらソッコー消してって連絡来たので敢えなく削除しました(笑)
さてそんな訳でいつも以上に長くなってしまいましたが、
その人のそれまでの生き方や考え方や価値観を変えてしまうほど影響を与えるって、
ほんとに凄いことだと思うんですよね~。
それってなかなか出来ることではないと思いますし。
メジャーなアーティストの様に、
何千人、何万人に影響を与えるということも勿論凄いことだと思いますが、
それがたった1人だったとしても、それって充分凄いことだと思うんですよね。
いや単純に誰かの『人生の中で影響を与えた3人』に入ってたら、
男として、いや人として、そんなに嬉しいことはないですよ。
あぁ、しょうもない人生だったけど、生きてきて良かったなあ、生まれてきて良かったなあ、
って心底思えると思うんですよね。
個人的にはなんか、人の為になるとか、人の役に立つというのは、
自分が得ることよりも大きな喜びを感じてしまうとこがあって。
いやむしろ、それこそがもしかしたら自分が得られる真の喜びなんじゃないか??
とか思ったりもするぐらい。
オレもこの先死ぬまでに、1人でも多く、いや、
たった1人でも誰かにそんな風に思って貰える様に、そんな存在になれる様に、
これからもただただ精進していくのみです。
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