種のたねさんから十五話が届きました。



 第十五話 剣客二人
 
 痩身の老爺が襖の向こうから姿を現した。
 口元に立派な白髭を蓄え、厳めしい顔つきの持ち主だ。その瞳は氷の鋭さと山の静けさを併せ持っていた。浅葱色の袴に身を包み、腰には二本の刀をつり下げている。
 その立ち姿を前にした英瞬は、雷に打たれたように身を震わせる。
 何気なく立っているが、その姿に隙はない。一目見ただけで、全身が総毛立った。
 これほどの戦慄を覚えたのは、一体いつ以来のことだろうか。
 英瞬はこの老爺こそが自分が探し求めていた男だと、理屈ではなく本能で理解した。

「儂は魂魄妖忌。ま、そこにいるボケなすの師匠だ」

 妖忌は呆然とする妖夢を指差して、自己紹介をする。

「せ、拙者は神後英瞬と申す」

 英瞬は声を微かに震わせて返答する。
 どうにか落ち着こうとするのだが、緊張と興奮が身の内で暴れ回って、抑えようがなかった。それほどまでに今の英瞬は喜び勇んでいたのだ。

「ああ、聞いている。うちの馬鹿弟子が世話になったらしいな。お陰でこちらはもう隠居の身だというのに、いきなり古巣に戻される羽目になったよ」
「……それで拙者に、如何なる御用で御座ろう?」
「ふむ、儂としては馬鹿弟子がいくら負けようと、一向に構わんのだがな。しかし、白玉楼の看板に傷がつくのは、ちと困る」
「なるほど。で、妖忌殿はその傷を如何にして、取り除くおつもりでござろうか?」
「分かりきったことを聞くな、若造。剣で失ったものは、剣で取り戻す他なかろう」

 妖忌はそう言って、にやりと笑った。

「それは、つまり……拙者と仕合いたいということか」
「ま、そういうことだ。こんな爺で悪いが、少し遊んで貰えるか?」
「願ってもない話でござる」

 英瞬は目を爛々と輝かせて答えた。
 もし老爺の申し出がなければ、こちらから申し出る所だった。
 渡りに舟とは、まさにこのことだ。
 これで己の悲願がようやく叶う。
 そう考えるだけで、英瞬の全身からは気炎が立ち上る。その迫力たるや、異様の一言に尽きた。
 幽々子はいつもと変わらぬ様子で微笑んでいたが、隣にいた妖夢は突如変貌した侍の姿に唖然とした表情を浮かべた。

「いい返事だ。ならば、時間と場所はどうしようか?」
「拙者はいつでも結構」
「なら、面倒事はさっさと済ませちまおう。ついて来な」
「承知」

 妖忌は廊下の奥へと進み、英瞬はその後へ嬉々として続いた。

 ――――――――――

 風光明媚で知られる白玉楼の庭は、いつになく緊迫した空気に包まれていた。
 これからこの場で行われるのは、文字通りの真剣勝負である。幻想郷においても姿を消した戦いが、今ここに甦るのだ。
 物見高い幻想郷の面々が、これを見逃すはずがなかった。
 今この庭には、幻想郷中の実力者が終結していた。人間・魔法使い・鬼・天狗・吸血鬼、果ては神までもがいる。彼女達はそれぞれに言葉にできぬ思いをその胸に抱きながら、始まりの合図を待っていた。
 その中には慧音の姿も混じっている。ほとんどの者達が待ちわびた表情をする中で、彼女は一人複雑な顔をしていた。
 その隣では萃香が酒をのんびりと飲んでいた。

「見事な仏頂面だね。景気付けに一杯どう?」
「結構です」

 慧音は差し出された瓢箪を見ようともしなかった。

「そう? なら、いいけど」
「……随分と御機嫌ですね」

 瓢箪をぐいと煽る萃香を、慧音は睨め付ける。
 これから起きることを知りながら、酒を飲む鬼の神経が、彼女には理解しがたかった。

「別に。アンタが思ってる程、酔ってもいないし、楽しんでもいないよ」
「そうでしょうか?」

 慧音は萃香にあからさまな懐疑の目を向けた。

「鬼は嘘をつかない。これはどちらかと言えば、やけ酒さ」
「やけ酒ですか?」
「ああ、あれだけのご馳走を他に譲ったんだ。飲まなきゃ、やってられないよ」

 そう言って萃香は、また酒を煽る。
 確かにいつも陽気な鬼にしては、態度が微妙に変だった。
 だが、彼女の心中を察するには、あまりに言葉が少なすぎた。

「ご馳走とはどういう意味でしょう?」
「さて、どういう意味だろうね?」

 萃香は質問を繰り返す慧音をからかうように笑う。

「もういいです」

 話にならないと、慧音はそっぽを向いてしまう。

(すまないね)

 萃香は心の中だけで侘びる。
 これは戦いに生きる鬼にしか分からぬ感覚である。
 人里で生きる慧音にはいくら説明したところで、理解できるものではない。
 だから、萃香は無駄な努力はせずに酒を呑む。
 酒を呑んで、気を紛らわす。
 昂ぶる鬼の血を抑える方法は、それしかないのだ。
 
 ――――――――――
 
 誰かが妖忌だと呟いた。
 その一言で喧噪に包まれていた庭が静まりかえる。
 一人の老爺がゆったりとした足取りで姿を現した。
 三百年近く西行寺家の庭師として働き、幻想郷最強の剣士と呼ばれながら、十数年前に突如行方を眩ました男の登場に、周囲は色めき立った。
 妖忌は好奇の視線を一身に受けながら、庭の中央へと歩き続ける。
 その後に英瞬が続く。

「英瞬……殿?」

 慧音は呆然と呟く。
 いつも朗らかだった侍は、別人のように厳しい顔つきをしていた。周囲の様子も全く目に入ってない様子で、妖忌の背中だけを見つめている。
 全身から放たれる殺気は、邪魔立て無用と無言の警告を発していた。
 お陰で彼を知る他の者達も、声を掛けることすらままならなかった。
 それでも、慧音だけはそんな彼に近寄ろうとしたが、萃香の右手がそれを素早く制した。

「は、放して下さい」

 弱々しい声で抵抗しようとする慧音に、萃香は首を静かに横に振った。
 どちらの行為が正しかったのか。
 結論から言えば、折れたのは慧音の方だった。
 聡明な彼女は、この状況がすでに自分一人で止められるものではないと悟っていた。
 そうしている内に、二人の剣客は庭の中央で対峙する。
 涼しげな顔で首を鳴らす妖忌に、鬼気迫る表情を浮かべて微動だにしない英瞬。
 静寂で満たされた庭に、鹿威しの音が甲高く鳴り響く。
 そして、対峙する二人の間に死神が立った。

「あたいは、この度の仕合の立会人を務めさせて頂くことになりました、小野塚小町と申します。しがない船頭ではありますが、全力を尽くさせて頂く所存です。どうぞよろしくお願いします」

 普段は陽気な死神も、今回ばかりは真剣な表情を浮かべていた。
 サボり魔である彼女には珍しい顔である。
 しかし、今は誰もそのことを茶化そうとはしなかった。

「決着はどちらかが動けなくなるか、降参するまでとさせて頂きます。最悪どちらかのお命が亡くなった場合は、私が責任を持って、あの世までお連れさせて頂きます」
「ま、そん時は頼む」
「承知」

 死神ならではの文句にも、二人は顔色一つ変えなかった。
 むしろ、その発言に動揺したのは、周囲の者達である。
 真剣で戦う以上、死ぬことも十分にあり得る。それは当たり前の事実だが、誰もが実感を持って理解している訳ではなかった。

「では、お二人とも用意は宜しいでしょうか?」
「ふむ。始める前に一つだけ聞いておこうか。お前が死んだ時は、どうして欲しい?」

 この妖忌の発言は挑発ではなく、純粋な問い掛けだった。
 幻想郷で命を落とせば、その死が現世に知られることはない。己の死を伝えたい相手がいれば、その役目は背負うと言っているのだ。
 それに対して、英瞬の回答は素っ気ないものだった。

「如何様にも」
「そうか。なら、遠慮はいらんな。さて、そろそろ始めようか」

 妖忌はそう言って、腰の刀を一本抜いた。
 英瞬も刀を構えて告げる。

「神後流、神後英瞬」
「魂魄二刀流、魂魄妖忌」
「いざ」
「尋常に」

『勝負』
 
 二人の声が唱和する。
 こうして命懸けの真剣勝負が始まった。

 ――――――――――

 妖忌は右手に刀を握ったままだらりと両手を下げ、自然体に構える。
 対する英瞬は剣先を妖忌の喉元に向け、深く腰溜めに構える。
 受けに特化した妖忌。攻めに特化した英瞬。
 対照的な構えである。
 互いに申し合わせた訳ではないが、先手は英瞬に譲られる形となった。
 真剣による戦いにおいては、初手で決着することも珍しくない。故に本来なら如何にして先手を取るかが、重要であるはずだった。
 しかし、妖忌はそこを敢えて受けに回ることを選んだ。
 それは奇しくも、妖夢に対して英瞬が取った行動でもあった。
 意趣返しか、それともただの余裕なのか。
 そんなことはどうでもいい。
 英瞬は心の片隅に浮かび上がった余計な思考を消し去る。
 余計な雑念は剣を鈍らせるだけである。
 今自分がやるべきことは、最高の一手を見舞うことだけだ。
 英瞬は意識を研ぎ澄まし、妖忌の隙を窺う。
 そして、すぐに己の愚を悟った。
 この男に斬り込む隙などないと、一目で理解できた。
 それほどまでに見事な自然体だった。
 斬りかかれば返り討ちに遭う自分の姿が、自然と脳裏に浮かび上がる。
 この男はただ立っているだけだ。それだけのことが、何故これほどまでに恐ろしいのか。
 妖忌は自分の知らぬ境地に立っている。
 英瞬はそこまで認めておきながら、自ら仕掛けることを即断する。
 いくら待った所で時間は己に味方しない。
 刀を構えている自分の方が、疲労するだけである。この状況を打開するには、自分が動く他ないのだ。
 意を決した英瞬は、神速の踏み込みにて、一気に妖忌の懐に飛び込む。その勢いを利用して、逆袈裟に斬り上げる。
 昇竜。
 己の俊足を最大限に生かした技である。
 いかな老爺が優れた剣士であっても、この一撃は避けようがない。あるとすれば、受けることだけだ。
 ならば、その受けを力で崩す。
 それが英瞬の狙いであった。
 しかし、その目論見はあっさりと崩れた。
 妖忌は英瞬の必殺技を、風に揺れる柳の枝ように上半身をしならせて躱した。

「っ!?」

 英瞬の顔に動揺が走る。
 まさかこうも簡単に避けられるなど、思いも寄らぬことである。
 だが、今更どうしようもない。
 英瞬はそのまま老爺の横を駆け抜ける。
 妖忌はそんな英瞬を静かに見送った。

「…………」

 再び間合いを取り直した英瞬は、鬼のような顔で妖忌を睨み付けた。
 あれほど見事に受け流しておきながら、反撃がないとはどういうことか。もし手加減をしたというのであれば、この真剣勝負に於いて、到底許せる行為ではなかった。
 一方妖忌は英瞬の烈火のような怒気を前にしても、欠片も揺らぐ様子がなかった。嘲るでもなく、咎めるでもなく、雲一つない空のように晴れ晴れとしている。
 その顔を見た英瞬は冷水を掛けられたかのように、大きく身を震わせた。
 何故なら真に咎められるべきは自分だと気付いたからだ。
 英瞬は勝とうとするあまりに、気負いすぎていた。
 そのせいで身体に無用の力が入り、己の技を曇らせていたのだ。
 だから、妖忌はこちらの攻め気を読み取り、いとも容易く避けることができたのである。
 本来なら先程の一合で決着してもおかしくはなかったが、老爺は浮き足だった年若い剣士の隙を突くことを良しとしなかった。
 その思いを理解せずに、野犬のように噛みついた自分の何と愚かなことか。
 英瞬は自らの醜態を深く恥じる。
 それから一度構えを解くと、肩の力を完全に抜いた。
 完全に隙だらけの格好である。もし妖忌が斬りかかっていたら、敗北は必至だ。
 周りの観客達も英瞬の行動にどよめきを漏らす。
 それでも、英瞬は己を取り戻すことに専念する。
 妖忌は乱れた心で勝てる相手ではない。
 ここは何としてでも、気持ちを仕切り直す必要があった。
 英瞬は空を見上げ、大きく深呼吸する。
 頭を空っぽにして、余計な雑念を一切捨てる。
 やがて落ち着きを取り戻した侍は、妖忌に改めて向き直った。

「少しは頭が冷えたかい」
「気遣い痛み入る」

 ここまであからさまに塩を送られては、英瞬も素直に頭を下げるしかなかった。
 だが、不思議なことに敗北を認める気には、まったくなれなかった。
 当然だ。自分はここに戦いに来たのだ。
 傷一つ負わぬ身で、負けを認めるなどあり得ぬ話である。
 胸の内は恥と後悔で満たされているが、それに浸るのは後回しだ。
 今は全身全霊を以て、目の前の難敵を打ち倒すことだけに専念する。

「では、続きを」
「おう」

 二人は短く頷くと、再び刀を構えた。

 ――――――――――

 再び場の空気が張り詰める。この時ばかりはお祭り好きの妖怪達も、二人の一挙手一投足を見逃すまいと、固唾を呑んで見守っていた。
 無言の緊張が走る。
 そして、庭に剣戟の鋭い音が鳴り響く。
 いつの間にか斬り込んだ英瞬の一撃を、妖忌の刀が受け止めていた。

「!?」
 
 これには妖夢を始めとする多くの観衆が目を見張った。
 誰もが二人の挙動に細心の注意を払っていたにも関わらず、肝心の英瞬が斬りかかるその瞬間を見逃したのだ。

「あら、貴女のお株を奪われてしまったのかしら?」
「いえ、あの方のものは技術。私のものとは似て非なるものです」

「やるねぇ」
「……凄い」

「幽々子様、今のは一体……」
「おしゃべりは後よ。今は目の前の戦いに集中なさい」

 ざわめく周囲を余所に、剣客二人はさらに斬り合いを続ける。

 ――――――――――

 英瞬は一心不乱に剣を振り続ける。
 それに対して妖忌は、ひたすら防御に徹していた。
 どれほど気力が充実していようとも、体力は有限である。それは相手が人間ならば、尚更の話だ。
 最初は英瞬が精根尽き果て、動けなくなったところ、一本取るつもりであった。
 だが、妖忌はその考えを改めつつあった。
 英瞬の剣は一振りする毎に鋭さを増し、まるで真綿が水を吸う勢いで成長していた。
 今はまだ捌けるが、この先も同じかどうかは分からない。
 いや、そんなことは些末事だ。
 それより問題なのは、妖忌自身がこの男を斬ってみたいという誘惑に駆られていることである。
 妖夢同様、妖忌もまた剣のみでの戦いからは、遠ざかっていた。
 最後に全力を出したのは、いつのことだったか。
 もうそんな事さえ、思い出す事ができない。
 妖忌も最早思い出すこともあるまいと諦めていた。
 だというのに――――この若造と来たら、なんと楽しそうに剣を振るのだろうか。
 それは紛れもなく妬心であった。
 妖忌は英瞬の鋭気に溢れた剣を羨んだのだ。

「は――――」

 一度自覚してしまうと、もう駄目だった。
 心の内に生まれた小さな火は、あっという間に業火となって、妖忌の心の内で激しく燃え上がった。
 そこまでして見たいのか。
 剣の極地を、己の限界を。
 愚問である。
 その答えは同じ道を歩む自分が、誰よりも知っている。
 なるば、応えねばなるまい。
 ついに決意を固めた妖忌が、反撃に転じる。
 無造作に上段から、英瞬の肩目掛けて振り下ろす。

「くぅ!」

 予想通り、英瞬は妖忌の一撃をぎりぎりの所で受けた。だが、足はその場に縫い止められる。
 そこに妖忌は横薙ぎの一撃を加える。
 英瞬は咄嗟に身体を捻って躱してみせるが、体勢は大きく崩れた。妖忌はがら空きとなった英瞬の脇腹に、容赦なく蹴りを叩き込む。

「がっ!」

 英瞬はたまらず苦悶の表情を浮かべるが、即座に体勢を立て直す。

「まだまだぁ!」
「おおっ!」

 妖忌が吼えると、英瞬も裂帛の気合いを持って迎え撃つ。
 互いに浮かべるは、修羅の笑み。
 目指すは剣の極み。
 二人の剣士は、自らの命を賭して互いの剣を磨き合う。
 
 ――――――――――
 
 最初は互角と思われた両者だが、確たる実力の差はその姿を徐々に現し始めた。
 英瞬は少しずつだが手傷を増やし、妖忌は身体どころか袴にさえ刃を触れさせなかった。
 その差は素人の目から見ても、歴然としていた。

「な、なあ、もう止めた方がいいんじゃないか?」
「……そうね」

 恐る恐る尋ねる魔理沙に、霊夢は重々しく頷いた。

「駄目よ。まだ決着は付いてないわ」

 紫は二人の意見を一蹴する。彼女の表情はいつになく厳しく、反論は許さないと言外に告げていた。

「でも、このままだとエーシュンの奴、死んじまうだろ」
「かもしれない。それでも、あの侍が諦めてない以上、私達に二人の戦いを止める権利はないのよ」 
「それは……そうなんだけどよ」
「…………」

 魔理沙も霊夢もいつになく歯切れの悪い様子だ。普段の勝ち気な態度は、完全に形を潜めていた。
 二人共この戦いを止めるべきだと、頭では考えているのだ。
 しかし、どうしたらこの戦いを止められるのかが分からない。
 安易に首を突っ込んでいい状況ではないと理解しているだけに、二人は動くことができなかった。

「二人ともよく見ておきなさい。これが本当の真剣勝負よ」

 弾幕ごっこは幻想郷に多くの恩恵をもたらした。人間と妖怪の軋轢を減らし、互いに命が失われる可能性を低くした。
 だが、その一方で弾幕ごっこが戦いに対する真剣味を薄れさせたのも、また事実だった。
 恐らく今の霊夢と魔理沙には、彼らが命懸けで戦っている理由が理解できないだろう。
 紫もそれを責める気はない。
 ただこの世には妖怪にしか持ち得ぬ力があるように、人間には人間にしか手に入らない力もある。そのことだけは知っておいて欲しかったのだ。
 紫の言葉に二人の少女は、ただ押し黙ることしかできなかった。
 
 ――――――――――

 決着の時は、刻一刻と迫っていた。
 英瞬は全身に傷を負い、袴を血で赤く染め、今や満身創痍の態となっていた。
 もう止めた方がいいという、魔理沙の見立てにも間違いはない。
 ただ一点だけ、彼女達も知らぬ事実があった。
 今まで負った傷の半分は斬られたものだが、残り半分は英瞬の意志で敢えて斬らせたものだった。
 妖忌と自分の間にある溝を埋めるために、英瞬は自らの肉を差し出したのだ。そうすることで英瞬は、妖忌の太刀筋を自らの肉体に覚え込ませていた。
 一歩間違えれば死が待っている、狂気の沙汰と呼ぶべき所行である。
 それでも、英瞬は躊躇わなかった。むしろそれで妖忌の太刀筋が見切れるなら、安い代償だとさえ考えていた。
 それだけの犠牲を払って、英瞬はようやく妖忌の剣を受けられるようになり始めていた。
 残る問題はあと一つだ。
 如何にしてこの男を斬るか、である。
 守ってばかりで、勝てる道理はない。
 一撃。
 たった一撃でいいから、反撃の機会が欲しい。
 英瞬は考えた。考えに、考え抜いた。
 そして、ついにはこの男を出し抜く手段など存在しないという結論に至った。
 技術、知識、経験、全ての面で自分が劣っている。
 こればかりは覆しようがなかった。
 だが、英瞬は剣を振るう手を止めようとは微塵も考えなかった。
 最早勝ち目の有無などどうでも良かった。
 己の全てを擲っても敵わぬ男がいる。
 その事実を知ることができただけでも、英瞬とっては得難い僥倖であった。
 後は少しでも長くこの戦いを続けることだけが、侍の望みとなる。
 そのためには今のままでは駄目だ。
 もっと速く、もっと的確に剣を振らねばならない。
 極限まで引き絞られた意識は、目から色を消し、耳から音を消した。それと同時に英瞬の目が、妖忌の動きを捉え始める。
 英瞬は勝利の執念すら捨てて、忘我の境地で刀を振るう。
 やがて、不協和音のように響いていた剣戟の音が、徐々に美しい旋律を奏で始める。一切の無駄を省いた二人の動きは、まるで舞踏のように洗練されていた。
 観客達は二人の戦いに目を奪われ、息をすることすら忘れていた。

 斬れる・・・

 不意に英瞬の本能が叫んだ。
 妖忌は上段から刀を振り下ろそうとしていた。これを躱して、その首を叩き落とす。
 刹那にも満たない間にそう判断した英瞬は、自らの直感に従い、妖忌の剣を避けようとした。
 しかし、その思いに反して、身体は一向に動かなかった。
 何故。
 そう思った時、遠くで誰かの悲鳴が聞こえたような気がした。
 そこで英瞬は自分の腹が、やけに熱いことに気が付いた。
 ふと自分の腹部を見ると、いつの間にか妖忌の脇差しが深々と刺さっていた。
 英瞬の目が大きく見開く。
 魂魄二刀流。
 妖忌は最初からそう告げていたはずだ。
 無論英瞬も妖忌の腰にある脇差しに、注意を払っていなかった訳ではない。用心していたにもかかわらず、妖忌が脇差しを抜いた事に気づけなかったのだ。
 それほどまでに妖忌の剣は鋭かった。
 要はそれだけの話である。

「死剣『畢竟無斬ひっきょうむざん』」

 妖忌は短く呟き、脇差しを英瞬の腹から引き抜いた。
 傷口からは、夥しい血が溢れ出る。全身から力が抜け、少しでも意識を緩めれば気を失いそうだった。
 できることなら、ここまま倒れてしまいたかったが、自分にはまだ最後にやれねばならないことがあった。
 英瞬は残った力を振り絞って顔を上げ、妖忌の顔を見る。そして、告げる。

「……お見事」

 その一言に万感を込めた。
 死力を尽くしての敗北である。
 悔いはなかった。
 後は妖忌にもっと賛辞を送れれば言うことはなかったのだが、どうやらそれは無理な願いのようだ。
 限界が訪れる。
 英瞬の身体がぐらりと傾き、そのまま地面に倒れ込んだ。

「勝者! 魂魄妖忌殿!」

 小町が高らかに戦いの決着を告げた。
 同時に怒号のような喝采が、白玉楼を震わせた。



 続く



 なかがき
 
 長かった。実に長かったです。
 ようやく二人の戦いをお送りすることができました。
 拙く未熟なのは承知の上。これが今の私の精一杯です。
 少しでも楽しめて頂けたなら、幸いです。
 足りないと思われた方は、具体的な指摘を頂けると助かります。
 次回はいよいよ最終回。
 英瞬の旅の終わりです。
 できることなら、最後まで見届けて頂けるとありがたいです。

 コウマさん>
 いつもコメントありがとうございます。
 半年越しのレスでごめんなさい。
 旧作組の侍に関しては、残念ながら知識が全くないので、登場予定はありません。
 また出てきたとしても、女性なので妖忌ほど本気にはなれなかったでしょう。
 あるとすれば、女と気付かずに戦って、ラッキースケベみたいな展開ですが……それはそれで楽しかったかもしれませんね。
 まあ、それも泡沫の夢ってことで、ご容赦下さい。