寿甘さんから三十九話が届きました。
 彼が抱いたのは、疑問であった。
 閉塞的な社会の中では、そこがどれだけ異常であっても、比較対象が無い以上、その異常に気付けない。
そしてまた。仮に、何かの拍子に、自分の異常性を認識してしまえば――その社会の『普通な異常さ』に戻れなければ――そこにあるのは、排斥である。
 当たり前の事、当たり前でない事。その境界線は、自分の意思一つ。それきりだ。他は無い。
彼は、気付いてしまった。だから疑問を抱いた。その疑問を、捨てずに温め続けた。こっそりと、ひっそりと。
 そして、その疑問の殻を、解答という雛が行動という嘴で突く。

 そして気付く。殻さえ砕けるのならば、別に内側からだけでなくても良いのだと。







 彼は、閉塞的な街並みに飽いていた。
 本来なら飽くはずも、そう気付くはずもないはずだった。しかし、彼は一人、この町の外を知っていた。
初めて眺めた時の事を思い出す。そこはまさしく、全く異なる世界だった。気付かず自分が欠いていたものが、きっとそこにある。
 あるいは思い違いかもしれないその感情だったが、その熱は見るたびに燃えあがり、火が絶えてしまう事は決して無かった。
意思の火の起こす熱は体を動かす原動力となり、いつかかの地へと、と駆りたてた。







 今日も彼は、こちらとあちら、その境界線上に立ち、望遠鏡で遠い街並みを見つめる。
それは無闇矢鱈に煌びやかなだけで、少々下品でさえあったが、その卑俗さがかえって彼には心地よかった。ギラギラとした熱があった。
 語る友も無く、高鳴る心を一人で噛みつぶさなければならないのだけが少々不愉快だったが、これが彼の楽しみだった。







 そして、とうとう彼は決心したのである。この地を離れ、向こうへ行こうと。
一度決めてしまえば、今までどうして自分が大人しくしていたのか不思議なほどだった。
そして、その心には、安らいだ凪と、興奮の熱風とが同居している。静かに、しかし熱く、ひっくり返りそうな心を抱えていた。
 大丈夫。手段ならきちりと考えてあると。
 その境界を、越えた。







「お待ちなさい」
「……おや、お偉方が、それもお二人お揃いでとは。私も随分偉くなったものです」
 照れたような笑いを張り付けて応対する。
「……よもや、本気でそう思っていないでしょうね?」
「……流石にその程度はわきまえているつもりで過ごしていたのですが」
「正直、貴方ならば本気で思っているかもしれない、と思いまして」
「……流石にそれは少々心外ですね」
 むっ、と軽く頬を膨らませる仕草をしてみせる。我ながら人が良いだろうとは思うが、阿呆と思われたくはない。
「……それで、なんの御用事でしょうか?こんな外れに。――綿月様方」
 言葉を受けて、二人の女性――綿月豊姫と綿月依姫は眉の端を上げた。依姫が口を開く。
「そんなのは、お前がわきまえて生きていないからに決まっている」
 豊姫が続ける。
「地上に逃げるのは罪。分かっているでしょう?」
 予想していた解答だ。そもそもが彼女らは立ち場のある存在だ。本心がどうあれそう言うしかないのだから、考える必要も無い。
「……わきまえてはいなかったかもしれませんが。どうにも、『生きている』とは言えなくて。だから先程も『過ごしていた』と。
 私はここの生活よりも、地上に憧れたのです。馬鹿なのかもしれませんが、どうしようもなく。
 脱走する兎達のような理由でないだけ私は恵まれているのかもしれませんがね。必要に駆られての脱走でないだけ、余計に酷く決め込んでいます」
 私が笑ってみせると、姉妹は呆れたように嘆息し、こちらを見据えた。
「兎程度なら最悪見逃すが、お前はお前で立場というものが」
「……えぇ、そう仰ると思いまして。宝物番として少々職権の乱用を」
 よく持ちだしては眺めていた望遠鏡を懐から取り出す。宝物庫に仕舞われる品であり、只の遠眼鏡ではない。
「……豊姫様。貴女のお力のように、こちらとそちらを繋いで覘ける遠眼鏡です。勝手に宝物を持ち去ったのですから、これは処罰の対象ですよね?」
 しょっちゅうのように拝借し、そして向こうの世界を覗き、焦がれるようになった。思い入れのある品だ。
 くるくると望遠鏡を弄び、姉妹の言葉を待つ。
「どこまでもふざけると言うのなら、実力で」
「……殺せもしない貴女が何を言うのです」
 この地は潔癖だ。一点の穢れも存在しないし、してはいけない。なればこそ、自分を叩き潰して染みを作るなどできはしない。
「……最悪だな」
「……随分と長く過ごしていた気がしますが、初めて言われました」
 くるくる、くるくると望遠鏡だけが動く時間が続く。
「……何が望みだ、と問う意味も無いか」
「……えぇ、私はこっちから向こうへ行きたいだけですので」
「タダで行かせるわけには行かないのは分かるでしょう?」
「……タダで行かせてくれるとは思っていませんでしたし、言ったでしょう。望みはこっちから向こうへ行くだけだ、と」
 くるり、と望遠鏡を逆さ向きで止める。
「……さぁ、さっさとしましょうか」







 宝物庫番を窃盗の罪で逮捕。同時に解雇。今回の事態を重く受け止め、羽衣の機能により記憶を剥奪。
 また、肉体の再構成を施し地上へ追放とする。
 記録簿には、そう残された。







「……月が綺麗ですね」
「あら、熱烈な告白ね」
「……からかわないでください。額面どおりの意味ですよ」
 探偵事務所・秘封倶楽部の窓から見える月を仰ぎ、針金は紫と語らう。空気も澄んでおり、月も明るい。
「……月の兎でも見えそうですね」
「あぁ、見えないわよ。普通は裏側にいるから、どう足掻いても」
「……そうなのですか」
「そんなに見たいなら今度連れていってあげましょうか?」
「……遠慮しておきましょう。それにしても、望遠鏡でも持ってきたくなりますね」
「あら、探偵には遠眼鏡よりも虫眼鏡の方がお似合いではなくて?」
「……そう、ですかね」
 手ずから淹れた珈琲を飲みながら、ぼうっと月を眺める。
「月よりも目の前の女性に見惚れてくれないかしら?」
「……これは失礼」
 お互いに、冗談のやりとりを続ける。
「それで、貴方は明日は何処へ行くの?」
「……さて。依頼も無いですし、何処へ行きましょうかね。探し物でも探しに行こうか、とは思っていますが」
 探し物。失くした記憶。かつての自分。確かに欲している。取り戻したいというのは事実だ。
 しかし、どうしてもか、と言われれば、きっと自分は。
「……まぁ、何処へなりと」
「そう。それではごきげんよう」
 紫はスキマを切り開いて去って行った。……これで、風呂場とかに居た事がかつてあったので油断は出来ないが。
 こういった少々困った事も含めて、今生きている事が面白くてしょうがない、そう思うのだ。
 今日も明日も何処へなりと。倒れ伏すその日が来るまでは。



 望み失い彷徨って、その道のりを手に入れた。
 これはそんな黒衣の男の、昨日と今日の物語。
 そして。







「……もし、そこのお方。今までに私を見た事はございませんかね?」
 全身真っ黒い格好をした男が、変な事を訪ねてきた。しかし、こんな男の事など知るはずもない。
一度見たらまず忘れないだろうし、それよりもこんな変な奴に関わりたくない。
 知らない、と答えるとがっかりとした様子で回れ右をしていった。その先で、なにやら日傘を差した知り合いらしい美人と話している。
変人のくせに恋人がいるのか、とやっかみを覚える。
 そして、瞬き一つをした瞬間に。男と女は何処かへと消えていた。馬鹿な、と思い辺りを見回すが、影も形もない。
なんとなく、この都会に来る前の。田舎を思わせる懐かしい匂いだけが残っていた。





幻想秘封倶楽部・依頼の三十九「黒衣の旅する男」 了





―後書―


寿甘です。
多くを語るのも野暮ですし、語る資格もございません。
これにてひとまずの区切りとさせていただきます。
しばらく御暇をいただくことと、重ねた嘘に謝罪を。
罪を数えるとするならば、予告という自らを欺き、紅かった名を欺き、そして我が子を泣かせた事なれば。
このお話の人物設定その他を使いたい方がいらっしゃいますれば、どうぞご自由に。
また違う形で、お目にかかれるよう。

お問い合わせはsuama_gensouiri○yahoo.co.jpの丸を@に変えてどうぞ。
では。きっといずれ、またの機会に。