2005年04月

2005年04月25日

テレビ東京

俺はテレビ東京が好き。
番組自体が好きなんではなくなんとなく。

前の湾岸戦争の時、どの局も通常放送を取りやめてまで
その報道をしていたのに、テレビ東京だけはアニメ「ムーミン」を
やっていたり、かと思うと選挙の時なんかはいち早くキーマンと思われる
人間をゲストに招く報道の強さも持ち、丸一日そこかしこに
経済のにおいがするところなんか最高だ。

考えてみるとテレ東って地方局になるんだよね?
最近の地方局はいい。
俺の住んでる神奈川もいいし遠い北海道なんかも
よさそうだ。
やっぱり物事はアイデアなんだ、って思う。
あとそれに見合うだけのポリシーね。

普通の民放は、特に経済ニュースの時思うが、よく考えもせずに
一喜一憂の報道をする。
それが市場にどれだけ影響するかを考えたら、スピード重視の
クソ球ばっかり投げる駄目ピッチャーのようだ。(野球にたとえたのは
オヤジっぽいネタをさらにオヤジっぽくするため)
戦争のような世界の報道も海外メディアからのものを
そのまま垂れ流す。(テロも)
全部をそのまま鵜呑みにしてたら大変だ。
イス○エル、もしくはアメ○カ寄りの人間だらけだ。
この時点でオタクっぽさ丸出しなのでつづきはまた今度。

でも俺が唯一行った事がある外国はアメリカ。
ヒロと。

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2005年04月21日

超能力。

俺には小さい頃、ハッキリそうとは言えないが
超能力?って思うものがあった。
あったところでどうにもならないし超能力って言うのには
無理があるかもしれないが思い出したので今日は書いてみる。

学校の帰り道や遊びに行った帰り道に突然その能力は発動する。

「今日のご飯はカレーかも知れない」

なぜか急にそう思う。
家に帰って確認するとほぼ100%当たる。
何も感じずにカレーの時もあるが、そう感じてカレーじゃない時は
今思い出すと1回も無かったように思う。

「夕飯が分かる」のではなくて「カレー」のみ。

なので超能力だとは思わなかったし、今も話のネタに
「そうだったかも」的なところもあるが、もしかしたら
これを見て「そういうのだったら自分もある」って思う人が
いるかもしれない。

多分それは超能力。

俺はハッキリ言って超能力とか霊とかそういうのは信じていない。
いや、ちゃんと言うと「信じたいけど見たことがない」それだけ。
だからもし、目の前でマジックでできるレベルを超えた事を見せられたら
何の文句も無く信じる。信じる信じない以前に見たらある。

そう思うとやっぱり「カレー能力」は超能力だったんではないか?
と思う。自分では気付かないうちに「超能力はもっと凄い」と
決め付けているかもしれない。

このブログでもよく書くフレーズだが、「何も思わない」が
俺の長所。(人より長いってだけ。いいところではなく)
大抵の事について何も思わない。

だから今日から「俺には昔、超能力があった」ってことにする。
その方が面白いから。

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2005年04月17日

B系

最近と言っても半年ぐらい前だと思うが
うちの近所にダンススクールが出来た。
夕方、犬(チョップといいます)の散歩に行く途中
小さいビルの3階ぐらいにあるそのダンススクールで
己がダンスに磨きをかけている若者たちが見える。

ほとんど毎日見ているので、だんだんやってみたい気持ちが
芽生えてきた。
と言っても時間も体力も知識もないのでやらないとは思うが
少なくとも興味は湧いてきている。
ちなみにダンスミュージックと言われるような音楽はあまり聴かない。
と言うか音楽自体あんまり聴かない。(そんなんでいいのか?って思う
かも知れないけど、だ〜いじょ〜ぶ。自分で作っちゃうから。)

話がそれたが、そんな風に何かに打ち込んでいる若者の姿は
とても美しい。全然興味の無かった俺が興味を持つほどに。
彼らは時代の流れに踊らされているわけではない。
ホントに踊っているだけ。あ〜やばい方向なので修正。(本心じゃないのに
自分の考えすら茶化したくなるのは悪い癖ですね)

ただもしもホントに明日そのダンススクールに申し込んで
俺がダンスを始めたとする。ここからは妄想。

まず、どんな服装が望ましいのか事務の人に聞いた。
「踊りやすい格好なら何でも良いですよ」みたいなことを
言われて、恥はかきたくないので「みなさんはどんな格好で
やってらっしゃるんですか?」とたずねた。
そんないきさつで俺はまずダボっとしたスエットやT−シャツを買った。
(今の時点でそれが分かってるならそのやり取りはいらないが)

通い始めはなかなか馴染めなくて大変だったが、友達も出来て
「こうするといいよ」とか「これ貸してあげるから見なよ」(ビデオ)
とか言ってくれる人もいて結構楽しい。
たまにみんなについていけなくて悩んだりもするが、ダンスの楽しさに
気づいたらそれも楽しめる。

そんなこんなで1年もするとすっかり「あ〜」とか「ひいぇ〜」とか
言ったり、踊ったりするバンドにニコラスは変わっていた。


ってことになったら困るから犬と一緒に眺めるだけにしておこう。



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2005年04月16日

ぼぼぼーぼぼーぼぼ3

2日連続、髪が伸びてきた。
そんな時・・・・。

「禿げたくないな」と思う。
別に兆しはないので本気で切実に思うわけではないが
やっぱり禿げたくない。

男なら誰でもハゲな人を見ると「ぷぷっ」ってのと同時に
「俺は大丈夫だと良いな」って思いもちょっとはあると思う。
俺の妹はブルース=ウィルスを見ると「ハゲのおじさん」
と言う。彼女には「ブルース=ウィルス」って名前は
覚えにくいらしい。
そんな風にハゲはとてつもない特徴になってしまう。

でも「ハゲの人」って言われる方が
「かつらの人」って言われるよりいいか。

消去法で、禿げたら禿げっぱなしにしよ。

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2005年04月15日

ぼぼぼーぼぼーぼぼ2

髪が伸びてきた。そんな時思うこと2。

散髪に行くとどうしても気になることがある。
多分みんなも一度ぐらいは思うと思う。
切った髪の毛についてだ。

床屋や美容院には毎日毎日とてつもない量の
髪の毛が残されていく。
切ってもらっている時自分の周りに落ちている
髪の毛を見れば分かるとおりだ。
それが土日なんかは何十人、もしかしたら100人を超える
かも知れない人数の髪がたまっていくことだろう。
すごいね。

それがまあ通常ならゴミ袋に入れて捨てられるんだろうけど
もしかしたら、もうホントにもしかしたら、
変わった床屋の人が「この大量の髪の毛を1年ためて
トラックで広いところにもって行って広げてみたい」
とか「ベッドとか作ったらどうなんだろ?」
とか思ったりしないとも限らない。

早い話が「なんか変わったことをしたい」願望に
駆られた床屋がなんか変わったことをしてる、もしくは
したことがあるかもしれない、って事。

世の中変わった人はいるからね。

そう思うとなんか恐いし、それと同時に
それが思いもよらない楽しそうなことだったら
参加してみたい。
だって俺の髪の毛だって入ってんだから
その権利はあるだろう?って思う。

切った後の髪の毛でできる楽しそうなこと。

俺には思いつかない。



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2005年04月06日

新しい試み

さっきニコラスの変態ベーシスト、広沢氏のブログを見た。
それについてのコメント。というか議題を持ち込み。

「つい」と「うっかり」について・・・これについては
そっちを見てね。(広沢氏のブログ)

俺も確かに「つい」には意図があり「うっかり」はただの過失
だと言うのは賛成だ。
だがしか〜し。その議論は「つい」さんと「うっかり」さん
そのものの善悪が語られているのであり「つい」核ボタンを押した
B・ッシュと「うっかり」各ボタン・・じゃなく核ボタンを押した
B・ッシュを語っているのではないのではないか?

日常によく出現する「つい」さんと「うっかり」さん。
俺自身の中で起こるこの二つ(二人)はどちらが憎むべき存在かと言うと
「つい」さんではなく「うっかり」さんだ。

仮に俺が核ボタンを押せる立場にいたならば、「つい」核ボタンを
押すときは、ある程度納得した上で「あんのモス○ム野郎め、ぽちっとな」
とか「あんのゲシュ○ポ野郎め、ぽちっとな」って事であって
(あくまでそういう立場の人の感覚の稚拙な想像ね、モデルはB・ッシュ
だけど。後半はロックフェ○ーとかいるから無理か)
「うっかり」押すときは、ライスあたりと雑談中に「つい」盛り上がりすぎて
「うっかり」手が当たってしまい、「やっべ、核撃っちゃった。ん〜
あっあそこか。まあいいか」みたいなみたいな。

もう読んでる人は何がなんだか分からなくなってると思うけど
要するに(一時、哀川翔の言う「要するに」がうざかったのは俺だけ?
いや、哀川翔は好きだけど)
「つい」は本人が悪いんであって「つい」さんが悪いんではなく
「うっかり」は、もちろん本人も悪いが誰にでも起こりうる
生きている限り不可避な過失であり
どっちかって言うと「うっかり」さんの方が迷惑な奴だってこと。


 本人に言えよ!って思わないでね。



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2005年04月04日

湘南平

俺はよく地元の山に行く。

と言っても登山するわけじゃなくて車だったり、原動機付自転車などで。

でもこの2週間ほどは我慢している。

朝遠くから見える山はなんだか凄い。

何が凄いって「いきなり地面が盛り上がってる感」が凄い。

その「いきなり地面が盛り上がってる感」(面倒なのでここからは

「いじってる感」にする)を見ると登りたい気持ちがふつふつと

湧いてきて(それがたいてい朝)頂上に行ってしまう。

それを何故我慢しているかと言うと・・・SAKURA・・・そう桜の為だ。

ちなみに今のローマ字は昔の炭酸飲料のCMで「ナニ!サスケ?」
と外人風に言うやつの真似をしたんだけど、説明しないとなんだか分からない
と言うより説明したってなんだか分からない。

今桜は山全体の2割もない程度しか咲いていない。

もうすぐ、多分今週の日曜日あたりには俄然やる気を出した桜たちが

杉良太郎の背中から腕にかけてよりも咲き乱れることだろう。(松方弘樹でも

いいが)

だからその前に行ってしまうとやる気のない桜たちの不甲斐ない姿

を見てしまうことになって俺もがっかり、桜もがっかりのWがっかり

と言うなんとも語呂の悪い結果になってしまう。(語呂の悪さは

俺のコピーライターとしての才能のなさの所為だが)

そういう訳で「我慢」は楽しむためのスパイスであり、

ジャンプする前の屈伸なのだ。(と鉄拳チンミも言っている)


結局、「いじってる感」は使わずじまいだ。




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2005年04月02日

春ですな。

春になると思う。

学生やってたり普通に働いてたりすると
春っぽいことがもっとあるんだろうな、と。

だから悲しいとか寂しいとかは思っていないし
とゆうか特に何も思っていないがただそう思う。

でもそれじゃあブログにならないので無理やり何か思ってみよう。

人生は(急だが)季節の巡回に実は支配されている。
真冬にT−シャツで歩けないし、真夏にキムチ鍋を
食べたいとは思わない(俺は)。
それに逆らいたいわけではない、いや逆らえないし
逆らっている人はあまりいないので不満は感じない。

でもゆるやかに、だか確実に支配されている。

黒板五郎は何故北に向かったのか・・・。*註「北の国から」
現代人は自由だ。
年貢のために死ぬ人はいないし、武士に切り捨てられて「ごめん」
て事もない。
ここで言う自由は「死」との距離がかつてないほど遠い。って意味だ。
五郎さんは「死」に近づくことで革命を起こしに行ったのではないか?

では季節を体内でコントロールできたらどうだろう?(ナノマシンとかで)
「今日は5月の風に吹かれながら買い物にでも行こう」とか
「今日は8月のジトジトの中クーラーガンガンガンで家でごろごろしよう」
とかが出来る。したいかどうかはお好みで。
ここで問題は「季節の非共有制における連帯意識の欠如」だ。

金八は言う。「人は一人では生きていけない」と。
だがあえて言うと「人は一人では生きていけないかもしれないが
集団でばっかりだとうざい」事も事実ではないだろうか。
金八が言ったらいやだけど。

人生は季節に限らず色々なものに支配されている。

俺が次に支配されるであろうモノは矢田亜希子の新ドラマと
「タイガー&ドラゴン」になるだろう。

う〜ん、オチてない。




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