cum grano salis

みのりん(茅原実里)とWUG(Wake Up, Girls!)とラストクエスチョンをこよなく愛するビールオタクのノートです。

先月、Wake Up, Girls!新章1話の先行上映会に行ってきたときの感想を英語で書いていました(こちら)。英語にした理由は、知らずに見てしまってのネタバレの防止と、斜め読みされての炎上(というか、なんというか)の防止です。ついに地上波での放送が始まったので、同じ内容を日本語で書いたものを上げておきます。


***


六本木で開かれた試写会の終わりで、板垣伸監督は言った。「難しいことは考えずに楽しんでください」と。

この発言は、作品の生み出す経済的利益にその運命が左右される昨今のアニメ監督としては正しいのかもしれない。しかしそれは、たとえある意味では忠実な姿勢だったとしても、僕に深い影響を与え、それゆえに僕が深く愛するものをはじめに作った人の姿勢からは、もっともかけ離れている。




Wake Up, Girls! 新章には、それなりの数のファンがつくだろう。身体の一部が誇張されたキャラクターの造形は、言ってみれば「最近のアニメっぽい」。第1話のタイトルおよび筋書きは、新たなアニメ作品の始まり方の典型的な形を踏襲している。すなわち、何らかの形で生じた危機が心温まる形で解決されるも、次回以後のさらなるトラブルの兆候が示されるという形である。

しかし、新章1話に肯定的な要素がないとは言わないにせよ、鑑賞後の僕の印象は両義的、あるいは悲観的でさえある。この1話を、確固たるアニメ観に基づいて称賛したい人達だってたくさんいるだろうとは思うけれど、率直にいえば、僕は落胆した。

僕の落胆は、1話のまさに初っ端から訪れた。「私たち、Wake Up, Girls!でーす!」というタイトルが画面右側に現れた瞬間に、である。このタイトルは控えめに言って陳腐だ。既存のWUG曲の歌詞から借りるなら「クリシェ(cliché)」である。

このタイトルからは、新章に、シリーズ全体に底流する一種の哲学のようなものがないことが読み取れる。こうした哲学の不在は、新章と、サブタイトルを黒澤明監督作品から取っていた前作を見比べれば明らかだ。前作が黒澤作品をもじった理由はおそらく、黒澤映画も前作WUGも、各キャラクターの生が交錯する群像劇としての構造を持つからではないかと思っている。すなわち、こうした対位法的な構造が、副題の付け方から示唆されていたように思う。転じて新たな副題「私たち、Wake Up, Girls!でーす!」は、この点において、まったくの空虚である。

さて、冒頭の「Run Girls, Run!」の3人組の登場は、新鮮な展開を予見させた。しかしそれも束の間、楽観論は、片山実波の描写によって打ち砕かれた。新章1話は、WUGメンバーがテレビの収録に臨むシーンから始まる。我々は、少なくとも僕は、彼女たちがプロとして振る舞うだろうと見込む。これは正統な期待である。なぜなら、新章は前作の2年後という設定になっており、作中のWUGメンバーは芸歴4年目なはずだからである。ところが驚くべきことに、18歳になった実波は、まるで5歳児のように、松田マネージャーに食べ物をねだっているのである!

こうした現実味のなさは、新章1話全体を覆っていた。例えば、WUGは有名なテレビ番組に出演するも、林田藍里が大事なシュシュをつけ忘れる。そのためにWUGメンバーは収録に遅れ、ライバルグループであるI-1 Clubの鈴木萌歌に厳しく叱責されることとなる。

……もしかしたら、あなたはこうおっしゃるかもしれない。このエピソード自体は非現実的かもしれないが、これは所詮アニメだ、「そんなにマジになるなよ」と。

ところが、この非現実的な物語筋は、WUGとI-1との対立関係に込められた意味そのものをも、安っぽいものにしてしまう。前作では、WUGとI-1は、根本的に異なる組織化原則をもつグループとしてはっきり対比されていた。I-1 Clubが白木社長による厳しい戒律とヒエラルキーによって規律されていた一方、WUGのメンバーは、彼女たち自身が何者であるのかの理解を確立するために格闘した。 このアイデンティティ探求の過程こそが、WUGとI-1との対比を通じて描かれていたのではなかったか。これは、僕の目には、前作の最も重要な要素の一つだったように見える。

翻って、新章における2グループの関係は単純だ。きちんと仕事をしたI-1 Clubが、失敗したWUGを責めている。それだけ。




こうしたミクロな批判の上で、僕は新章1話から《幼稚さ》と《非現実性》を見出した。作中では2年が経っているにもかかわらず、登場人物は相応の成熟を見せていない。それどころか、新たなキャラクターの造形も相まって、前作よりもはるかに幼く見える。これは造形のせいだけではなく、脚本、あるいは新シリーズ全体の構造のせいでさえあるように見える。

前作では、全ての登場人物は成長しようと(ないし『タチアガ』ろうと)し、それをなした。例えば菊間夏夜は、大切な人を3.11の津波で失ったものの、そのトラウマ的な経験を、Wake Up, Girls!の活動を通して乗り越えようとする。この過程はあらゆるファンを(言わずもがな僕をも)、再生の物語として感動せしめてきた。我々がWUGに惹かれたのはまさに、かくて描かれた再生が、我々自身の経験と共鳴したからではなかったか。

さらに、現実味の点でも、新章は前作と鋭い対照をなす。先に述べた通り、新章の描写はリアルだとは言いがたい。これがことさらに奇妙なのは、シリーズ全体の置かれた諸条件が疑いなくリアルだからである。作中で示された通り、アイドル業界は下り坂にある。これは現実のアイドル業界の理解としても正しいと思われる。ところがこうしたシビアな背景は、登場人物たちの幼く非現実的な振る舞いとは、決定的に噛み合わない。




他にも言いたいことは山ほどある。このチープな3Dモデルは何だ!お前らは何でTV局でそんなに無礼なんだ!……そして、敢えて触れずにきたけれど、前監督の山本寛氏を下ろしたのは一体何故なんだ!

こうした疑問点は別稿に譲る(かもしれない)として、次のことだけは最後に改めて述べておきたい。

僕がWUG新章1話から看取した《幼稚さ》と《非現実性》は、決して僕がWUGに期待するものではない。僕はWUGが見たいのであって、WUGのような何かを見たいわけではない。しかし、実際に僕が見たと思しきものは、そのうちの後者だった。




ついにこの日がやってきてしまった。

Wake Up, Girls!新章の放送開始があと1時間半後に迫っている。好きなアニメの2期がいよいよ始まる期待感――だけで心情を語りつくせる状態ではとてもない。

我々、否、僕は、WUG新章とどう向き合えばよいのだろうか。

放送直前のニコ生が流れるスマートフォンを傍らに置き、ビールを飲みながら、放送が始まる前でないと書けないことを書こうと思う。


1.《連続性の推定》


好きなアニメ作品の2期が始まるとなれば、普通であれば、1期の頃の楽しみがさらに続くのだと予見し、どんな展開が待っているのかに心弾ませ、はやる気持ちを押さえながらテレビの前で待機するところだ。

僕はそれほどたくさんアニメを見ているわけではないけれど、それでも「涼宮ハルヒの憂鬱」「冴えない彼女の育てかた」「地獄少女」「響け!ユーフォニアム」などの好きな作品が2期に漕ぎつく幸運に服した(そして未だに『大正野球娘。』および『ハナヤマタ』2期を渇望している)。

その幸せな期待感は2期の出来次第で高められたり、あるいは不幸にも裏切られたりするけれど、いずれにしても2期が始まる時点で抱く感情は基本的には期待感であることが多いだろう。しかしこの期待感は、一連の前提に下支えされている。それは、

1期と2期が連続しているという推定=《連続性の推定》

である。当たり前のことだけれど、1期が面白いという事実と、1期と2期が連続しているという推定が両立してはじめて、2期が面白そうだという期待感が生じる。従って、《連続性の推定》が崩れたならば、2期の期待感も損なわれる。

ゆえに、2期の期待感について語ろうとするならば、1期と2期の間の《連続性の推定》について語らなければならない。


2.《外形的断絶》


アニメ作品が表に出てくるその背後にある業界事情について語ることは、必ずしも賢明ではない。端的に、我々視聴者は正確な事実を知りようがないからである。しかし、次の3点は公にされている事実である。

・監督が山本寛さんから板垣伸さんに交代した。

・制作スタジオがOrdet.からミルパンセに変更された。

・avexから上記の変更に至る経緯の説明はなされていない。

この3点に関連して、以下の点も高い蓋然性を有していると思われる:

・avexと山本寛前監督の間に何らかの対立があった。

・この対立により、山本監督は、彼にとって不本意な形で交代させられた。

こうした事実群および推定群を、便宜的に《外形的断絶》と呼んでみよう。製作体制のような客観的に特定可能な諸条件の変更という意味である。

《外形的断絶》の存在のみをもって、《連続性の推定》が破られたと考える人も一定数いるようだ。特定の発言を引くわけではないが、「ヤマカン(山本寛監督)のWUGこそがWUGであり、監督が(とりわけ不透明な過程を経て)変更された以上、WUG新章はWUGではない」という旨の主張はTwitterなどで散見される。

こうした主張はよく首肯できる。とりわけ、WUGというプロジェクトそのものが山本監督の発案であり、震災復興への寄与という意図をもって作られた以上、その監督が変更された事実はWUGというコンテンツの本質的転換であり、《連続性の推定》が破られたと判断するに十分である。

また、キャラクターのデザインが大幅に変更されたことも事実である。もともと近岡直さんがデザインされたキャラクターは、いわゆる「萌え絵」とは一線を画す落ち着いたデザインであり、WUGの、どこか数多のアニメ作品とは異なる雰囲気を作り出していた。一方、新章のキャラクターからは幼さが感じられる。この変化も《外形的断絶》と言ってよい。

こうした、様々な側面を持つ《外形的断絶》を悲観的に評価し、WUG新章はもはやWUGではないとする考えは十分に理解できるし、共感もする。

それほどに2次・3次ともにWUGが山本監督に負っていたものは大きかったし、WUGは山本監督だからこそ作り出せた作品だろうと僕は思っている。不透明な監督交代に至るプロセスには僕も納得していないし、avexはじめ製作委員会は今でも説明責任を果たすべきだと思う。個人的にも、山本監督の無念や憤りは概ね正当だろうと思う。また、7人の声優たちがある種の板挟みになる事態は正当化しがたい。

(※なお、山本監督は声優たちが旧WUGを批判していると考えていらっしゃるようだけれど、その解釈の蓋然性の評価はさほど容易ではないだろうと思っています)

なにはともあれ、《外形的断絶》によって《連続性の推定》が棄却出来るという立場は十分にありうる。しかし、僕はその立場を取らない。なぜなら、僕個人がWUGに期待するものについて、まだ語っていないからである。


3.《価値論的断絶》


《外形的断絶》は客観的に特定できる変化である一方、我々がWUGという作品に期待するものは十人十色であり、客観的に特定することはできない。新章WUGとの向き合い方を考えるためには、この、主観的に付加された価値の次元における断絶、すなわち《価値論的断絶》について考える必要があるだろう。

僕にとって《価値論的断絶》があるのか。また、2期がいかなる作品だったら《価値論的断絶》があると言えることになるのか。この2点を考えるためには、僕がなぜWUGが好きになり、いかなる点が好きなのかを振り返る必要がある。

ここでは、僕がWUGに見出している2つの価値について述べたい。これはあくまで僕個人が主観的経験に基づいて意味づけている価値なので、十人いれば十通りの、百人いれば百通りの価値論的判断がありうることは言うまでもない。


3-1. 震災復興の企図としての価値

Twitterでは何度か語っているけれど、僕とWUGの出会いは全くの偶然だった。

2014年12月末。仙台に帰省していた僕は、待ち合わせをしていた友人にすっぽかされた。そこで、暇つぶしに駅前のデパートで開かれていた「聖地巡礼展」を見に行った。仙台でやるんだから「かんなぎ」の紹介くらいあるだろう、という理由だった。そこで、青葉神社通を主な舞台とするアイドルアニメが始まるらしいと知った。

アイドルにも、アイドル物のアニメにも全く興味がなかったけれど、かつて青葉神社通のごく近所(北七番丁)に住んでいたので興味が湧き、とりあえず見始めたというのが経緯である。

TV版の序盤は正直言って今一つピンとこなかった。しかし、片山実波の3話のエピソードを見て、この作品が東日本大震災から目を背ける作品ではないことを感じた。それは、祖父を津波で亡くしている僕にとっては小さくない事実だった。


*****ここまで書いた時点で放送が始まりました*****

1話の感想はすでにRemarks on WUG New Chapter Episode 1で書きました。とりあえず英語ですが、手が空いた時にでも日本語にします。

*****放送が終わりました******


そして見た9話。リアルに描かれた気仙沼の風景の中で、菊間夏夜が涙ながらに独白し、「頑張りたくても頑張れない人のために、私は頑張る」と述べたその言葉を、僕は自らと重ねずに受け取ることができなかった。

ちょうど2011年に大学学部を卒業し、若干の迷いはありながらも大学院に進学しようというところで震災が起こった。そんな中で僕は、甚大な被害を受けた故郷を放り出し、東京で自分がやりたい研究をやっていていいのかどうか逡巡していた。2013年に大学院博士後期課程に進学し、どうにかこうにか1年を終えようとしていた当時の自分も、その意識は引き続き抱えていた。加えて、当時の僕は色々な形で傷つき、行き詰まっていた。

そうした中で出会った菊間夏夜は、自らの弱さやつらい過去を、Wake Up, Girls!を通して乗り越えようとしていた。その強さは、ただの強がりではなく、また過去や弱さの閑却でもない、葛藤や自己省察に裏付けられたしなやかな強さだった。

9話で菊間夏夜が涙を流していたあの瞬間、僕もまた涙を流していた。

こうした経緯が、僕のワグナーとしての原体験として存在する。だからこそ、気仙沼でかや・みなみが学生主体のイベント(Guts Fes)に参加した際は万難を排して参加したし、聖地巡礼を重視する姿勢は賞賛して自らも巡礼したし、仙台と東京いずれの友人にも積極的に勧誘した。それは、僕にとってある種の故郷に対するささやかな貢献の意図の発露であり、かつ、ある種の自己治療の過程だったのかもしれない。

こうした震災とその相克をめぐる経験から、僕は、WUGというコンテンツに対して、東日本大震災と向き合う震災復興の要素の包摂を要求する。それこそが僕がWUGに見出してきた一つの価値であり、それが失われたならば《連続性の推定》も棄却されることになる。


3-2.脱理想化された過程としてのアイドル描写としての価値

上で述べた震災復興の企図としての価値とは別に、僕はWUGに、脱理想化された過程としてのアイドル描写としての価値を見出している。この表現は決してわかりやすくはない。具体的には、次のような話だ。

上のような理由で僕はWUGを好きになり、ライブイベントにも積極的に行くようになった。その中で僕は、現実世界に実際に存在するアイドルも面白いと思うようになった。特に、2015年3月にWUGが出演した「謎解きはライブの中で」というイベントのオープニング・アクトをつとめたアイドル「ラストクエスチョン」に僕は惹かれた。

その経緯や魅力については別の記事群をご覧いただくとして(タグ:ラストクエスチョン・謎解き参照)、そのアイドル(ラスクエ)を応援していく中で、WUGのアイドル描写がいかにリアリティを帯びていたかを改めて実感したのだった。

ラスクエを応援する過程で、アイドルとは(しばしば言われるように)キラキラ輝く美麗な存在では必ずしもなく、むしろ泥臭く、地道で、困難辛苦に満ちており、それだからこそ我々の感情を揺さぶる瞬間を作り上げることができるのだと実感した。

すなわち、アイドルは初めから光り輝く理想の存在として立ち現れてくるのではなく、ただの(多くの場合)女性が、まったく「理想的ではない」ところから種々の「過程」を経てアイドルになるのだと認識した。この「脱理想化された過程としてのアイドル」を鮮烈に描写したところにこそ、WUGの魅力があると僕は考える。

この過程はある種の物語性を帯びる。ところが、物語には読み手が必要であり、ポストモダンのテキスト論が認識する通り、テキストは読み手による解釈を通じた双方向的な過程を通して意味が構築されていくため、読み手は同時にある意味で「共同執筆者」になる。アイドルという物語の「読み手」かつ「共同執筆者」は、他ならぬファンであり、WUGの「大田組」がまさにそれである。従って、アイドルの「物語性」を強調しようとすれば、「大田」に象徴されるオタクを描くことは必然的な帰結となる。

かくて、僕はWUGに対して、理想的なわかりやすいアイドル描写ではなく、脱理想化された過程としてのアイドル描写を要求する。これが、唯一とは言わないにせよアイドルアニメとしてのWUGの大きな価値であると僕は思っているし、その価値が失われたならば、《連続性の推定》も破られるだろうと考える。


4.結論

話を整理しよう。2期WUGをどう捉えるかを考えるためには、1期と2期の連続性(あるいは断絶)をどう評価するかを考えねばならない。WUG1期と2期の《外形的断絶》を指摘する見解は多く、僕もその種の断絶はあるだろうと思う。しかし、《外形的断絶》を以て1期と2期の間の連続性を否定することを僕は避けたい。それとは別の、主観的な次元としての《価値論的断絶》の有無を考えたいと思った。

そこで、僕がWUGに見出し期待する価値として、震災復興の企図としての価値と、脱理想化された過程としてのアイドル描写としての価値を挙げた。僕がそれらの価値をWUGに見出してきた以上、2期がそれらの価値を喪失した(と僕が見做した)ならば、2期には否定的な評価を下すことになるだろう。

ただし、まだ1話が終了した段階なので、何をか決定的なことを述べるわけにはいかないとも思う(というか本来は1話が放送される前に書き上げるつもりだった)。2話以降のWUG新章がどうなるのか、最終的な判断を留保し、見守りたいと思う。

《注意》
2017年10月放送開始のWake Up, Girls! 新章1話のネタバレおよび批判的コメントを盛大に含むので、英語にしました。ご注意ください。

*caution*

The sentences that follow include the story of the 1st episode of Wake Up, Girls! New Chapter, which will be broadcast from October 2017, and the critical comments on it. Please turn back if you do not want to read such things.




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At the end of the preview event, Shin Itagaki, the new director of Wake Up, Girls! New Chapter said, "Just enjoy it, not considering difficult things." That might be a correct attitude as an anime director whose fortune is determined by economic profit made from his work. Even if it might be a faithful attitude in a sense, however, it is farthest one from that of the originator, who has created what has deeply influenced me, thus what I deeply love.

 

Wake Up, Girls! New Chapter is likely to attract a certain number of fans. Its character designs are, so to say, modernized, with some parts of the bodies exaggerated. The story and the title of the episode faithfully reflects the traditional way of beginning new anime series. A crisis occurs also in this beginning episode, but it is resolved in a heartwarming way, which, however, leaves some signs of future troubles to be described in the later episodes.

 

In spite of all positive elements of the episode 1, my impression after watching it was rather ambiguous or even pessimistic. Admitting that there must be many fans who praise the episode with their firm beliefs about what an anime work should be, I was fairly disappointed with this work. My disappointment began from the very beginning, when its title appeared on the right side of the screen: "We are Wake Up, Girls!". It was hackneyed, or, borrowing from the excellent lyric of the existing song of WUG, "cliché". This title seems to represent the lack of (a kind of) philosophy underpinning the whole series. This absence is easily contrasted by the previous series of WUG, whose subtitles were extracted from Akira Kurosawa’s works. The reason for this seems to be that both the previous series and Kurosawa’s works are characterized by the intersection of each characters’ lives, as is clear in Kurosawa’s famous work, Rashomon. In the previous series, such contrapunctual structure was suggested by the naming of the subtitles. Meanwhile, the new subtitle ­- "We are Wake Up, Girls!" – is entirely void in this sense.

 

Although the appearance of the trio of "Run Girls, Run!" at the beginning implied a prospect for the brand-new development, this optimism was soon rebutted by the description of Minami Katayama. The episode starts with the scene in which the members of WUG are photographed in a TV studio. We – at least I – expect that they work as professionals. This is a legitimate expectation because this new episode is two years later than the previous series. Thus the WUG members on the screen must be in the fourth year of their career as idols. Unbelievably, however, Minami begs her manager Matsuda to give her some foods like a five-year-old infant, although she is eighteen!

 

Similar lack of reality underlies the 1st episode as a whole. Later, WUG appears on a famous TV program, but another member – Airi Hayashida – forgets to wear a scrunchie, which is important for WUG members; because of that, WUG members are late for the photographing and severely accused thereof by Moka Suzuki, a member of a WUG’s rival group called I-1 Club. The episode itself is surely unrealistic - but this might be somehow justified, for this is only anime. You might say to me, "Hey, don’t be so serious."

 

However, this unrealistic storyline even changes the meanings contained in the conflict between WUG and I-1 Club into a cheaper one. In the previous series, WUG and I-1 Club are sharply contrasted, with their fundamental organizing principles greatly different from each other. While I-1 Club is governed by a set of strict rules and hierarchy, both of which are externally imposed by the manager Shiraki, WUG members struggle to establish an understanding of who they themselves are. This process of exploring identity is expressed by contrasting WUG with I-1 Club. This is, to my eyes, one of the most important elements in the previous series. In the meantime, the relation between these two idol groups in the new episode is much simpler: I-1 Club who completed the job well accuses WUG of failing to do so.

 

Drawing on the above-mentioned micro-level criticisms, I saw the episode 1 as characterized by infancy and unreality. Although two years must have passed in the story, the characters are not that mature; rather, with the new character design, they look much younger than the previous series. This seems to me not just because of the design, but because of the script, or even the overall structure of the new series. In the previous series, all the characters attempted to, and did, grow up (or, so to speak, "wake up"). For example, Kaya Kikuma, whose intimate friend was engulfed by 3/11 Tsunami attack, tried to overcome her traumatic experience through the activities of WUG. This course has moved all the fans (needless to say, including me), as a story of reincarnation. It is because this description of resurgence resonates our own experience that we have come to be attracted by WUG.

 

Moreover, this new episode 1 is in sharp contrast with the previous one in terms of reality. As I stated above, the descriptions in the episode are far from real. This is all the stranger because the whole setting of the series is undoubtedly real. As is evidently introduced in the episode, the world of idols is on the ebb. This seems to be a correct understanding of the current idol scene in reality, but at the same time, this serious background is fatally inconsistent with the infant and unreal descriptions of the characters’ behaviors.

 

I have much more to say – What a cheap modelling of the dancing 3D dolls! Why are you so rude in a TV studio!? And, as I have intentionally avoided mentioning, why was the previous director Yutaka Yamamoto kicked off!? But they are the things I might (or might not) speak about elsewhere. I would like to conclude these remarks by saying that infancy and unreality, which I felt from the episode 1, are not what I expect from WUG series. I have wanted to watch WUG, not something that looks like WUG; but actually what I think I saw was the latter.

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