cum grano salis

みのりん(茅原実里)とWUG(Wake Up, Girls!)とラストクエスチョンをこよなく愛するビールオタクのノートです。

同じ夢を見て「た」:WUG新章への失望と困惑(下)

 前回の記事に引き続き、WUG新章の感想について記しておこうと思います。

【目次】

(上=前記事)

1. WUG新章の評価基準――僕が放送以前に考えていたこと

2. WUG新章の評価


(下=本記事)

3.WUG新章が生んだ《2つの断絶》

4.あらゆる面での困惑について

5.総括と余滴――あえて、書かなかったこと


***


3.WUG新章が生んだ《2つの断絶》

 前回の記事で僕は、

新章Wake Up, Girls!は、我々が知るところのWake Up, Girls!とは違ったものになってしまった

と結論づけました。前作WUG(『7人のアイドル』~『Beyond the Bottom』)とWUG新章は、同じ「Wake Up, Girls!」という名を冠していながらも断絶しているように僕には思えます。ここでは、とりわけ重大な意味を帯びているように思われる《2つの断絶》について述べたいと思います。



 第一の断絶は、《WUG世界の断絶》です。

 WUG新章からは、僕が前作WUGの特徴であり魅力だと思っていた4つの価値が欠落していたように思われる――というのが前回の記事の要点でした。そうした価値判断を措いても、前作の描写を閑却していると思わせる点がWUG新章には散見されました。例えば、

  • 前作の聖地、特に、喫茶ビジュウや熊谷屋など青葉神社通近辺の扱いは著しく縮小されました(そういえば、挿入された実写回で、『林田藍里の実家にちなんで』と言いながら、熊谷屋ではなく甘仙堂のゆべしを大写しにした、なんてこともありました)。
  • 岩崎志保がドラマ収録現場に十分に顔を出せなかったくだりで、アンダーの高科里佳が一切言及されないという不自然な場面も思い出されます。
  • 前作でI-1 Clubに取られたはずの「極上スマイル」を練習している(しかもいまだに踊りは揃っていないらしい!)シーンには大層困惑しました。

 枚挙に暇がないので逐一挙げることは避けますが、最も強烈な違和感を覚えたのは、

前作で相応に成長したはずのWUGメンバーが、あたかもその成長を忘れ、1年目の新人であるかのような振る舞いをしている

点です。1話冒頭の片山実波の幼稚な描写がまさにこの点を象徴しています。いわゆる「キャラ崩壊」を起こしている場面がしばしば見られました。

 こうした作品世界の断絶は、より基底的な、製作思想の断絶の所産だと思います。具体的に言えば、『7人のアイドル』以来ずっと仕掛けられてきた基本ギミックとしての「ハイパーリンク」の変質です。同概念が簡明に定義された文章の所在を僕は知らないのですが、その代わり、TV版放送終了後に発売された書籍『WUGpedia』巻頭に示された表現が、わかりやすく、概ね過不足ない特徴づけになっていると思うので、下に引用します。

現実はアニメの中へ アニメは現実の中へ。

ライブで「Wake Up, Girls!」と声を上げるとき、目の前の声優を応援しながら、まるでアニメの中に入ったような心地になる。

アニメ『Wake Up, Girls!』を見るとき、キャラクターたちが歌う姿に声優たちが歌う姿が重なって見える。

アニメを見たことがきっかけで声優を応援する。声優を応援していく中で、アニメがもっと好きになる。

7人のキャラクター/声優を蝶番として二次元と三次元はひとつになる。

これは、アニメか現実か?

(『Wake Up, Girls! Complete Book WUGpedia』学研パブリッシング、2014年、2–3頁)

 こうした特徴づけの要点は、2次元と3次元の相互作用(interaction)です。例えば、吉岡茉祐と青山吉能の不仲をTV版8話の島田真夢と七瀬佳乃の対立に投影したかと思えば、TV版12話の「アイドルの祭典」における無関心な観衆への訴求を、2014年8月のアニメロサマーライブ(アニサマ)で再現してみせる。こうした、2次元アニメと3次元声優の展開が互いに規定し合い、WUGというコンテンツ全体を構成していく動的な構造が「ハイパーリンク」だったはずでした。

 ところが、WUG新章に、この2次元と3次元の相互作用があるとは僕は思いません。

 WUG新章においても、3次元から2次元への影響は随所に見られました。例えば、島田真夢は料理が下手であるとか、ライブツアーの会場が実在の施設名をもじっているとか、イオンをもじった「ニャオン」なる企業の宣伝をしているといった例です。

 しかし、WUG新章に、2次元から3次元への影響はあったでしょうか。声優WUGが、WUG新章における出来事や構造を再現したり、模倣したり、意識したりしたことがあったでしょうか。「7人のキャラクター/声優を蝶番として二次元と三次元はひとつに」なり、「これは、アニメか現実か?」という宙ぶらりんの感覚を見る人に与えたことがあったでしょうか。

 かくて、「ハイパーリンク」概念は、新章において、〈2次元と3次元の相互作用〉から、〈2次元による3次元の一方的模倣〉へと変質しました。しかし我々はすでに、これをとあるジャーゴンで表現してきたのではなかったでしょうか――「中の人ネタ」と。

 ひょっとしたら僕は、この変質に、9月の先行上映の時点で気が付くべきだったのかもしれません。板垣監督が、新章の見どころはモーションキャプチャ技術を用いた3D映像であると再三強調していた時点で、です。実際、作品の成否や印象を大きく左右する最終話の大半が3D映像だったことは、「ハイパーリンク」の〈2次元による3次元の一方的模倣〉への「変質」を、より主観的な言い方をすれば、〈2次元の3次元への依存〉への「堕落」を、示唆しているようにさえ思われました。



 WUG新章が生んだ第二の断絶は、《ワグナーの断絶》です。

 WUGのファンであるワグナーは、(僕がもともと茅原実里のファンであるように)様々な界隈から様々な動機で集まり、TV版への苛烈な風当たりの中で、連帯して作品を盛り上げようとしていたように思います。「ハイパーリンク」という新奇な存立基盤を持つ強烈な、そして素敵なこのWake Up, Girls!という作品をいかに盛り立てていくべきか。そういった問題意識は、多かれ少なかれ共有されていたのではないかと思います。その中で、僕も初めて法被を着、初めてオフ会に行き、それどころか初めてオフ会を主宰し(『かやたん会』)、お渡し会などで初めて演者と直に話し、初めて「生誕企画」に携わり……と、様々な「初めて」の中で、ワグナーの連帯の中に加えていただきました。

 もちろん、ワグナーが最初から一枚岩だったと言うつもりはさらさらありません。TV版への批判の受け止め方やら、ライブの「マナー」やら、いわゆる接近の仕方やら何やら、ことあるごとに対立や揉め事は起こってきました。しかし、それは「ワグナー」内の見解不一致であって、「ワグナー」というくくり自体にはさほど異論はなかったように思います。

 ところが、WUG新章は、それを肯定するか否定するかという対立軸を作り出し、《ワグナーの断絶》をも引き起こしてしまったように見えます。「新章肯定派」と「否定派」が断絶し、ときに互いの発言を嘲笑し、ときに口汚く罵りあい、ときにありもしないデマが流れ、ときに人格批判まで伴いながら、諸々の「派」が各々自己強化する不毛な過程が起動されてしまったように思います。その断絶は、2016年末に新章製作決定の発表がなされたときから生じていましたが、放送が開始されてから一層顕在化したように思われます。

 WUG新章の評価が分かれるだけなら、問題はありません。作品なり何なりの評価が人によって分かれることは人間社会の常態であり、全く珍しいことではありません。問題だと僕が思うのは、それが、互いに話が通じず対話ができないほどの断絶――政治学でいう「社会的亀裂(social cleavage)」――に発展し、「ワグナー」という大括りのカテゴリが解体されようとしているように見える点です。

 最近僕がこの断絶を感じた例を挙げます。それは、前回の記事への反響です。

 前回の記事を2週間ほど前に公開し、Twitterでお知らせして以降、それなりの数のアクセスがありました。直接お褒めの言葉をいただくことも度々ありました。それは書き手として大変ありがたいことですし、うれしく思います。

 しかしながら、前回の記事を含む弊ブログの関連記事は、WUG新章にかなり辛辣な評価を下しているにも関わらず、批判的なコメントはほとんど目にしていません。それは、僕の文章が批判を許さないほど優れていたからではおそらくありません。そうではなく、WUG新章をめぐる《ワグナーの断絶》の果てに、当該記事が、WUG新章を肯定する方々に届かなかったか、届いたとしても、見解の隔たりがゆえに理解されなかったからではないかと推測しています。お褒めの声が多かったのは、そもそも、前回の記事の内容に同意してくれるような人たちにしか届いていなかったからではないかとさえ思ってしまいます。

 こうした断絶は、先に述べた《WUG世界の断絶》の帰結なのかもしれません。かつては、アニメと声優が「ハイパーリンク」によって結合され混然一体となっていました。それゆえ、「Wake Up, Girls!」という概念は「アニメと声優を合わせたコンテンツ全体」を、「ワグナー」はそのコンテンツ全体の支持者を、それぞれ意味していました。ところが、「ハイパーリンク」概念が変質し、それにより作品世界も断絶したために、「Wake Up, Girls!」という概念の意味が分化、拡散、差異化したのに合わせて、その支持者を意味する「ワグナー」概念も解体されつつある……といったところではないかと、僕は思っています。

 なお、これは蛇足ですが、「TUNAGO」が作中で歌われなかったことは、いみじくも《ワグナーの断絶》を示唆しているように思えてなりません。WUG新章は、ワグナーを、つなげなかった。


4.あらゆる面での困惑について

 この記事を終わる前に、こうした状況を僕がどう思っているかを簡単に述べます。

 僕は、あらゆる面で困惑しています。

 《WUG世界の断絶》について言えば、僕という人間の中に、《前作WUGの世界》と《新章WUGの世界》が調和せずに併存している感があります。この2者の矛盾をどう消化したらいいのか、いまだ判然としないままです。《ワグナーの断絶》について言えば、かつて「ワグナー」という大括りの傘の下で感じていた連帯が、高々1年やそこらで消失してしまったという印象に困惑しています。雑駁ながら今の気持ちをまとめれば、「Wake Up, Girls!って、いったい何なのだろう?」という困惑だと言えるでしょう。

 こうした困惑は、モチベーションの著しい低下につながっています。

 個人的な話で恐縮ですが、僕のモチベーションは、「これを誰かに勧めたい!」という気持ちから発することが多いです。WUGの場合も、「こんなに素晴らしい作品を、ここで途切れさせてはならない!」という思いがありました。ところが、上で述べたような困惑があるために、今のWUGを人に強く勧める心持ちにはなかなかなれていません。これに伴って、モチベーションも下がり切っています。実際、2017年に行ったWUG関連イベントはたったの3度(3月レイクタウン無銭、8月ツアー大宮昼公演ならびにOne In A Billionリリイベ)で、毎冬恒例のWUG Festaには遂に行きませんでした。かつてはお渡し会のためだけに遠征したり、チケットを持たずファン企画のためだけに遠征したり、毎週何通もWebラジオに投稿したりすることを厭わなかった僕が、今、かくもWUGに対して冷淡であること自体にもまた、困惑しています。

 それならいっそのこと「他界」してしまえ、と言われるかもしれません。しかし、僕にとってWake Up, Girls!は、やすやすと離れられないほどに深い思い入れがあり、素敵な思い出と結びつき、貴重な人間関係をも伴う、大事な作品なのです。いったいどうしたらよいのか……。

 僕は、あらゆる面で、困惑しています。


5.総括と余滴――あえて、書かなかったこと

 WUG新章は、製作思想が断絶し、それゆえ作品世界が断絶しているにも関わらず「Wake Up, Girls!」という同一の名を冠し続けるという、奇妙でねじれた、ある意味では不気味でさえある作品になってしまったように思われました。その中で、ワグナーさえも断絶しているように見えますし、その事態は僕にとって、この上なく哀しいことです。されど僕には、WUGという作品や声優たちと、それに付随する種々の思いをやすやすと捨ててしまうことはできず、困惑しています。

 今の段階で僕に言えることはここまでです。結局、しばらく遠巻きに静観するしかないのかなと思っています。

 さて、ここまで、WUG新章について思うことを長々と書いてきました。その中で、僕があえて触れずにきた話題が2つあります。1つは作画です。WUG新章の作画は実にお粗末でしたが、放送当時の作画の粗さは前作の難点でもありました。もう1つは、山本前監督と板垣現監督の人格です。「ハイパーリンク」をはじめとした製作上の思想や発想は作品の評価に際して触れないわけにはいきませんが、それは、監督の人格に対する中傷とは違います。

 これら2点に僕があえて触れなかったのは、Twitterなどで見かけるしばしば攻撃的な応酬の中で、それらがあたかも本質的に重要な論点であるかのように語られているからです。例えば、前作との比較のなかで新章への違和感を表明した人を、罵倒の意図を込めて「ヤマカン信者」と呼ぶとか、「新章肯定派」みたいな不正確なレッテルを貼って「紙芝居」を揶揄するとか、そういう不毛なやり取りには、僕はいささかうんざりしています。作画にも監督の人柄にも言及せずに新章WUGの感想を述べることは可能なのだと示すこともまた、あくまで傍論ながら、2本の記事の隠れた意図ではありました。

 2本の記事は、あくまで僕の感想でしかありません。これまでの、そしてこれからのWUGをめぐって、レッテル貼りや誹謗中傷ではない建設的な対話(dialogue)や討議(deliberation)が進むこと。それは、WUG新章が生んだ《2つの断絶》を前にして失望し、困惑した僕にとっての、一縷の希望です。


同じ夢を見て「た」:WUG新章への失望と困惑(上)

 「Wake Up, Girls! 新章」(WUG新章)の放送が終わりました。Wake Up, Girls!というアニメ作品および同名の声優ユニットに僕はかなりの思い入れがあり、2014年1月の1期放送開始当時から応援し続けてきました(その経緯をはじめとした既出記事はカテゴリ:WUG を参照)。それゆえ、劇場版「Wake Up, Girls!7人のアイドル」、TV版12話、続劇場版「青春の影」および「Beyond the Bottom」に続く新シリーズを、僕はおおむね楽しみにしていました。

 しかし同作品は、様々な反応を惹起しました。作品に対する評価が分かれるのみならず、自らと考え方が異なるファンの、発言内容ではなく人格を批判するような人たちさえ現れました。そうした中で、僕自身もいろいろと思うところがあります。

 そこで、放送が終了した今、これまでのWUG新章について考えてきたことを振り返り、今考えていることを述べたいと思います。長いので、上下に分けます。


【目次】

(上=本記事)

1. WUG新章の評価基準――僕が放送以前に考えていたこと

2. WUG新章の評価


 (下=次記事)

3. WUG新章が生んだ《2つの断絶》

4. あらゆる面での困惑について

5. 総括と余滴――あえて、書かなかったこと


***


1. WUG新章の評価基準――僕が放送以前に考えていたこと

 2016年末、WUG新章の製作が決定された際、僕は、WUG新章の製作が基本的には喜ばしい事態であると述べました(WUG1.0のConclusion――WUG新章について思うこと)。WUGというコンテンツ全体の行き詰まりを打破するために、新たなアニメ作品を制作することが有効である可能性を示唆し、個人的にも「心の底から楽しみ」であると述べました。

 しかしながら、僕はいくつかの懸念を表明し、留保を付しました。懸念とは、端的に言えば、

 「新章Wake Up, Girls!は、我々が知るところのWake Up, Girls!とは違ったものになってしまうのではないか」

 という懸念でした。僕はこの懸念を十分理解すると述べたうえで、以下の留保を付しました。少し長いですが、引用します。



僕は、菊間夏夜自身の思い、並びに、菊間夏夜というキャラクターに仮託された旧製作陣の思いだけは承継されてほしいと切に願っています。

 「頑張りたくても頑張れない人のために、私は頑張る。」

菊間夏夜が涙ながらに語ったこの言葉が、今の僕の生を方向づけ、奮励し、それゆえに僕が菊間夏夜を敬愛している事実を、新制作陣には閑却してほしくありません。山本監督が抜けたからといって、山本監督が2011年3月のあの震災を受けてWake Up, Girls!を構想し、9話のみならず各話の通奏低音として震災を描いた経緯と意図は尊重していただきたいと思っています。

また、僕は、これまでのWUGは、《仙台・宮城でしか成立しえない物語》だったと思っています。それゆえ、新章に対し、《仙台・宮城ではないどこかを舞台にしてもひとしく成立するWUG》になることは望んでいません。

 


 また、WUG新章1話の放送開始に合わせて、僕は、1期と2期の《連続性の推定》について述べました(WUG新章放送開始に際して考えたこと)。下に簡潔に要約しますが、なんら難しい話ではありません。1期が面白かった作品の2期に期待できる条件は、1期と2期が連続しているという推定が成り立つことだ、という当たり前の話です。

 この一般的条件を措定したうえで、僕は、WUG1期と新章の《連続性の推定》を支えるのは、次の2つの価値であると考えました(なお、これは僕の主観的な判断であって、他の価値を見出されるのは完全に読み手の自由です)。

 第一に、震災復興の企図としての価値です。東日本大震災からの東北の復興をアニメから支えるという意図からWUGというコンテンツが始まった以上、震災という要素を閑却したWUGはもはやWUGではないだろうと思います。

 第二の価値は、脱理想化された過程としてのアイドル描写としての価値です。つまり、最初は「キラキラ輝く」理想の存在では決してなかった女性たちが、生々しく泥臭い道のりを経てアイドルになる描写は、アイドルアニメとしてのWUGの鮮烈な特色の一つだと思っています。

 まとめると、僕がWUG新章放送前に考えていたことの要点は次の4つです。すなわち、

(1)  「新章Wake Up, Girls!は、我々が知るところのWake Up, Girls!とは違ったものになってしまうのではないか」という懸念

を抱きながらも、以下の3つの価値、つまり、 

(2)  《仙台・宮城でしか成立しえない物語》としての価値

(3)  震災復興の企図としての価値

(4)  脱理想化された過程としてのアイドル描写としての価値

が引き継がれてさえいれば、僕はWUG新章を、基本的には歓迎しようと思っていました。

 それでは、以上のように考えていた僕が、実際にWUG新章をどう見たのかを、以下に述べます。なお、当然ながらWUG新章のネタバレを大いに含みますので、お気をつけください。


2. WUG新章の評価

 Twitterなどを見ていると、WUG新章の評価が大きく割れていることに気づきます。論点はいくつもあるのでしょうが、ここでは、上に述べたような観点から、僕がWUG新章をどう評価したかについて述べます。順番は、前節の記述を下からさかのぼる順番、すなわち、以下のような順番で述べます。 

(1)  脱理想化された過程としてのアイドル描写としての評価

(2)  震災復興の企図としての評価

(3)  《仙台・宮城でしか成立しえない物語》としての評価

(4)  「新章Wake Up, Girls!は、我々が知るところのWake Up, Girls!とは違ったものになってしまうのではないか」という懸念に関する評価


 

(1)脱理想化された過程としてのアイドル描写としての評価

 WUG新章は、1話から随所に失敗談を盛り込んでいます。たとえば、 

・テレビ番組収録の際に藍里がシュシュを忘れ、I-1Clubの萌歌に叱責される(1話)

・菊間夏夜の体重が増えるが、なかなか言い出せない(2話)

・ドラマの仕事が入った真夢が多忙になり、余裕を失う(4話)

・ツアーのチケットがなかなか売れない(9話~)

・新曲の作詞を早坂に命じられるが難航する(10話~) 

といった失敗談や苦労談が語られます。こうした例を挙げると、確かに、「脱理想化された過程としてのアイドル描写」は試みられているようにも見えます。 

 しかし、こうしたエピソードの挿入は、果たして成功したといえるでしょうか。まず、「脱理想化された」描写が達されているかどうかを考えてみます。言いかえれば、「脱理想化された」描写を成功させるためには、失敗談や苦労談を入れさえすればよいのでしょうか。 

 論理的には、失敗談や苦労談そのものは、〈その人物は失敗や苦労をしない完全無欠の人物ではない〉ということしか含意しません。しかし、僕が「脱理想化された」描写を求める理由は、WUGメンバーが完全無欠の人物ではないと確認したかったからではありません。 

 WUGは、次に述べる通り、東日本大震災というリアルなカタストロフィを受けて制作され、作品世界の中にもそれは反映されています。そうした文脈を踏まえると、リアルな苦境にありながら、それでもなお、各自がアイドルとして再生や再起を試みる決意の美しさこそが、新章以前のWUGの最大の魅力だったと僕は思います。したがって、その苦境の描写がリアリティを欠いていたならば、いかに失敗談や苦労談を盛り込んでいたとしても、魅力ある脚本にはならないだろうと思います。 

 そうすると、「脱理想化された過程としてのアイドル描写」基準が満たされていると考えるためには、リアリティの有無という隠れた基準が満たされねばならないことになります。この《修正評価基準》に照らすと、WUG新章の失敗談や苦労談の描写はどう評価できるでしょうか。 

 お粗末というほかありません。 

 例えば、新発売のアルバムの発売日3日前まで歌詞が決まらないなんてことはあり得ません。「Vドル」とやらの運営母体が資金力にものを言わせて興業を直前で妨害してくるくだりは、開いた口が塞がりませんでした。苦労談に限らず、こうした脚本の拙さが表れている例は、枚挙にいとまがありません。

 こうしてリアリティが欠如した苦労談をいくら積み重ねたところで、登場人物の魅力も、成長も、葛藤も、意思も、説得力ある形で伝わることはありません。その点で、新章WUGの作品世界は実に平板でした。 


(※ひとつ確認しておきたいのですが、僕は、アニメが現実世界においても生じうる現象のみを描写すべきであると考えているわけではありません。現実世界には、かめはめ波を打てる金髪男性も、手足を自由に伸縮させることができる海賊も、深夜に憎い相手の名前を入力すると藁人形を持って現れる美少女も存在しません。問題にしているのは、作品世界におけるリアリティがあるか否かと、そうした描写が何らかの表現上の効果を有しているか否かです。この2点において、WUG新章の失敗は明らかであるように思います。) 


 WUG新章におけるWUGメンバーは、多くの失敗談を通して、確かに脱理想化されてはいます。しかしその描写は、リアリティを、それゆえに説得力を欠いているがゆえに、登場人物やストーリーや作品全体の魅力にはなっていません。それどころか、作為的で、不自然で、チープで、安易な物語であるとの印象を僕は受けました。 


(2)震災復興の企図としての評価 

 前作のWUGが、震災復興の企図としての色合いを帯びていたことは論を俟たないと思います。気仙沼出身の菊間夏夜を中心に据え、傷跡の残る気仙沼の情景を描いた第9話は言うまでもなく、片山実波や岡本未夕の設定にせよ、あるいは聖地巡礼を促す現実世界での展開にせよ、「あの日」の悲劇は、上にも引用した通り、各話の「通奏低音」となっていました。 

 転じて、新章WUGにおいて、東日本大震災とその影響が、明示的にせよ暗示的にせよ、描かれることは、ただ1点を除いて、ありませんでした。もちろんそれは、震災から6年が経過しているという事実のせいかもしれません。しかし、そうであっても、作品世界における彼女たちにとって、あの出来事はやすやすと忘却できる類の出来事ではなかったはずです(特に菊間夏夜と片山実波にとって)。 

 さて、「ただ1点を除いて」と言ったその「1点」とは、12月26日に放送された第12話?における、「仙台空港跡地」という発言です。ライブをする場所が見つからずに、「仙台空港跡地」なる場所を会場に設定しようとしました。このセリフは、まさに脚本家の不見識と、WUG新章という作品自体の震災復興の軽視を象徴しているように僕には映ります。 

 僕はあの日東京で強い揺れを感じた後、一体何事かとテレビを付けました。テレビやTwitterで流れてくる情報は錯綜していました。しかし、津波の甚大さを思い知らされたのは、仙台空港に津波が到達する映像を見てのことでした。僕の祖父母宅と海との距離は、仙台空港と海との距離よりも小さかったので、空港に波が達したということは、祖父母宅にも波が達したことを含意していました。 

 こうした個人的記憶もさることながら、事実として仙台空港が米軍の支援作戦の基地となり、たった1か月で部分開業を遂げ、そして――最も重要な点ですが――現在もまさに変わらぬあの場所で営業している事実は、震災復興にとって象徴的な意味を帯びるはずです。こうした文脈を踏まえたなら、「何かがかつて存在していた場所であり、現在その『何か』は存在していない場所」を意味する「跡地」という言葉は、意味論上、選択されえないはずです。 

 それにもかかわらず選択された「跡地」という表現は、現存する仙台空港と、それに連なるあらゆる人の思いを踏みにじるのみならず、震災復興の企図の一環として始まり、成果を積み重ねてきたWUGというコンテンツそのものの自己否定とさえ言えるのではないかと僕は思っています。 

 この台詞は、インターネットで種々の反応を惹起しました。中でも、次の2つの反応に触れておく必要がありそうです。 

 第一に、モデルとなった場所を現地の人間は実際に「跡地」と呼んでいるという根拠不明の掲示板書き込みです。これについては、端的にその書き込みの裏を取れませんでした。インターネット上でも見当たりませんでしたし、帰省した際に仙台近辺に在住する親類縁者や友人にも聞きましたが、誰一人としてそういう表現を聞いたことがあるという人はいませんでした。また、仮にそういう呼び方が局地的なジャーゴンとして通用しているのだとしても、それはまさに局地的なジャーゴンでしかなく、全国放送のアニメ作品の台詞としては著しく不適当です。 

 第二に、あの「跡地」という表現は、仙台空港の敷地内にかつて所在した航空会社の施設の跡地を実際にモデルとしているのだから妥当であり、したがって、ネガティヴな反応は不当であるという反応です。しかし、モデルとなった空間が実際に存在しているという事実は(僕はその事実について争うつもりはありません)、その空間を「仙台空港跡地」と呼称することを正当化しません。別の問題です。 

 なお、このセリフが誰のセリフだったか僕はもう失念しましたが、誰のセリフであっても議論に何らの変更もありません。 

 こうした点を踏まえて、僕は新章WUGを震災復興の企図としてはほとんど評価できないと考えています。 


(3)《仙台・宮城でしか成立しえない物語》としての評価 

 (1)と(2)で相当な紙幅を使ったので、(3)と(4)は簡潔にまとめたいと思います。 

 かつてのWUG、特に「青春の影」~「Beyond the Bottom」では、仙台と東京が明確に対比されました。この対比は、振り返れば、七瀬佳乃の設定にも明らかでした(彼女は青森出身ですが)。東京と「日本」を比定し、東京に接近することを望ましいと考える一種の価値観とどう向き合うか、という問いが、WUGの隠れた主題の一つだったように思われます。 

 だからこそ、「Beyond the Bottom」ではWUGの全国行脚の様子が描かれましたし、「アイドルの祭典」で争ったI-1 Clubとネクストストームは、東京を中心とする同心円的世界観のそれぞれ中心と周縁を表象していたと言えるわけです(そして勝利したのは、その東京中心的同心円構造の外部にいるWUGだった)。 

 ところが、こうした対比は、WUG新章ではぼやけてしまいます。岡本未夕の呼びかけで全国のアイドルが同日・同時間にライブをしました。なぜそれが「Vドル」への対抗になるのかも、なぜWUGの集客につながるのかも僕には皆目理解できませんでしたが、それ以上に、最終話のそのくだりは、東京か地方かという対立軸が消失した、弱者の糾合に過ぎなかったのではないかという印象を僕に与えました。 

 もちろん、弱者の糾合は、それはそれで意味のあるモチーフになりえただろうと思います。しかしながら、すでに述べた通り、「敵」である「Vドル」の説得力も、「糾合」の描写の意味や意義も僕にはさっぱりわかりませんでした。 

 加えて、上述した震災復興の企図という要素も認められないのだとすれば、WUG新章は、その舞台が仙台である必要性ないし必然性の提示に失敗しているのではないかと僕は思いました。簡単に言えば、別に秋田でも、盛岡でも、金沢でも、那覇でも成り立つ物語だったのではないかと考えずにはいられません。 


(4) 「新章Wake Up, Girls!は、我々が知るところのWake Up, Girls!とは違ったものになってしまうのではないか」という懸念に関する評価 

 以上3点の議論から、僕はこう評価せざるを得ないと考えています。

 

新章Wake Up, Girls!は、我々が知るところのWake Up, Girls!とは違ったものになってしまった。

 

 これはとても悲しい結論です。 悲しいのは、まさにそれが、Wake Up, Girls!という名を冠しているからです。 

 作中のドラマの名前を借りるならば、Wake Up, Girls!という名前の下に「同じ夢を見て『た』」と、過去形で語らなければならないような断絶を目にしているように、僕には思えてなりません。

Least Likely Caseとしてのラストクエスチョン

 政治学や社会学、法学をはじめとした社会科学の専門用語に、Least Likely Case Study(もっとも起こらなさそうな事例の研究)という言葉があります。これは、ある理論を証明するために取られる戦略の一つです。定訳はありませんが、簡単に言えば、

ある理論を支持する事例が、その理論にとってもっとも都合が悪い条件でも起こるのであれば、その理論はかなり有効である

という考え方です。僕はある時から、ラストクエスチョンというアイドルグループは、僕にとって、一種のleast likely caseだと思うようになりました。



 「桃井美鈴(みっすー)」という人物についての説明は省きます(弊ブログ内カテゴリ:ラストクエスチョン参照)。僕が2015年から応援してきた、いわゆる「推し」のアイドルであるということだけご承知いただければ結構です。

 あれは2017年1月のことでした。1月が誕生日であるみっすーのために、僕はいわゆる「生誕委員」(誕生日を迎えるアイドルを祝いたいファンの取りまとめをする人の総称)を務めていました。しかし、当時の一部関係者と著しい行き違いが生じてしまい、挙句、みっすー自身を悲しませる結果になってしまいました。そのトラブルは、当時の僕にとっては大変に腹立たしいものでした(その事案そのものについて今は何とも思っていません。本記事に、当時ならびに現在のラスクエに対する批判の意図は一切ない旨を強調しておきます)。事情の詳述はやめておきますが、いずれにせよ僕は、怒りや悲しみや失望や自責や困惑が混成した感情に振り回されながら、ラストクエスチョンから一度他界(=応援をやめること)しました。



 ところが、アイドルオタクをやめたわけではなかった僕は、完全にラスクエと縁を切ることができずにいました。上のような事情で、ラスクエのメンバー、特にみっすーを嫌いになったわけではありませんでしたから、ありがたいことに斟酌して下さったのだと思いますが、パーティの皆さんとのお付き合いは続きました。また、ラスクエ以外のアイドルの現場に行くと、共演者としてラスクエが(あるいは、ときに一オタクとしてみっすーが)いることもしばしばありました。

 そんな中途半端な中で僕は、6月のワンマンライブに行くことを決めます。そこで様子を見て、現場に戻るなら戻る、完全に他界するなら他界するで、はっきりさせようと思いました。さて、どんなパフォーマンスをするのか見てやろう、どうせグダグダなんじゃないのか、くらいの冷淡な気持ちで、(仕事のせいで)遅刻しながら、下北沢のライブハウスの扉を開けました。そして――。



 こうして僕は今現在、相変わらずラストクエスチョンのオタクを続けています。大層偉そうな言い方をするならば、

僕は、2017年6月のライブはきわめてシビアかつシニカルに見ており、したがって現場復帰はleast likelyであったにもかかわらず、ラスクエの魅力の前に、現場復帰することを決めた

ということです。このことは、まさにleast likely caseとしての価値を持ちます。つまり、彼女たちが、最も厳しい目線を向けてくる人間にさえ魅力を感じさせるライブをしたということを意味します。


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 ……と、実は、ここまで2017年7月に書いていたのですが、最後までたどり着かずに塩漬けになっていたのでした。それは、次の2つの理由によります。

 第一の理由は、この1年で、ラスクエの布陣が大きく変わったからです。一言で言うと、1年の間に、2人増えて、3人減り、1人入りました。最初期からいた浅川琴音が2017年9月に脱退した一方、1月にお披露目された、治安を悪化させるアイドル・月見むぎが着実な成長を見せているところ、同年秋、御坂しのぐという大型ぽんこつ即戦力が加入しました。また、歌える楽曲にも変更がありました。そうした事情ですから、2017年6月のライブについて今更語っても仕方がありません。

 第二の理由は、僕自身が、そもそも、相当にこじらせた半他界オタクだった僕を現場復帰に導くほどのラスクエの魅力をうまく言語化できなかったからです。「ただ何となく楽しかったから戻ってきました」では、感覚的には正しくとも、ブログ記事としての用はなしません。再び、あの日と同じかそれ以上に印象的な情景を見られたならば、ラスクエの魅力を、今度こそどうにかして語れるのではないか――。



 その日がついにやってきました。2018年1月9日火曜日、ラストクエスチョンは正念場を迎えていました。「コラソンウェイ」という有名ライブイベントのトリを任されたのです。どれくらい有名かというと、BiSや仮面女子やRhymeberryといった著名なアイドルが毎回呼ばれるくらいです。転じて、ラスクエの現体制が固まったのが2017年11月ですので、最初の、ともすれば不相応な大舞台です。

 このライブは、ただ「大きい舞台に出させてもらった」ということ以上の意味を帯びます。試験としての意味です。すなわち、

ラストクエスチョンよ、このイベントの、この順番で、どこまでできるんだ?

 そう問われているようなイベントでした。


 ライブ全体について語りつくす紙幅も能力もありません。僕の小賢しい文章を読むより、上の動画をご覧になった方がよほどよいです。こんな駄文なんてもう読まずに上の動画だけでもご覧になっていただければ結構なくらいです。でも、よろしければ、2つだけ語らせてください。



 1つ目は、1曲目の「ぼうけんをしょ!」についてです。「ピコピコ音」のイントロや、「ママに秘密でカセットにふーふー」といった歌詞、「呪文MIX」が目を引きます。しかし、この日僕にとって最も印象的だったのは、いわゆる落ちサビの部分でした。

 にぎやかに写真を撮ってから、一転、曲調は鎮まります。3人そろって、

「RPGみたいじゃなくて、そのものの人生」

と歌ってから、経験豊富な新メンバーの《盗賊》御坂しのぐが、

「だけど現実に戻ると、やっぱラスボスなんていないのかも」

と丁寧に続けます。まさにこのフレーズにおいて、「ぼうけんをしょ!」の虚構と、それを聞く我々の現実が交錯します。現実というものは、ほぼ定義からして生々しく、彩りを欠いているがゆえに、このフレーズは哀しくさえあります。

 ここが印象的なのは、曲調や歌詞のせいだけではありません。実際に、ラストクエスチョンというアイドルが、あるいはメンバー3人それぞれが歩んできた道のりは、複雑で不条理で現実的なそれだからです。ラスボスを倒せば万事解決するゲームの世界とは似ても似つかない、困難辛苦に満ちた過程です。そのすべてを、加入からまもない御坂しのぐが、ラストクエスチョン最初期から歌い継がれている「ぼうけんをしょ!」の、まさにこの一節を歌うことによって、精いっぱい引き受けようとしているように見えます。まさに、彼女のアイドルとしての強い意志が込められている一節だと思います。

 さて、この若干ウェットな空気は、ほどなくして打ち破られます。

「でもパズルのピースつなげたらなれる気がする、何にって?」

と、荒削りで破天荒だけど心優しい《魔導士》月見むぎが、強い意志を持って愁いを跳ね返すことによってです。ラストクエスチョンというアイドルは、常に、何かになりたい人たちの集まりでした。あるいは、何かになりたい、何かを成したいという思いを、RPGというコンセプトに仮託しているのかもしれません。その、力強い変化への意思を歌い上げる人物として、月見むぎほどの適任者はいません。そして……。

「あなたと世界を救っちゃう勇者のパーティ!!!」

 満を持して現れるのが、ラストクエスチョンを率いる《勇者》桃井美鈴です。人が増えたと思いきや減り、その都度、積み上げかけてきたものが崩されてきました。その辛さたるや、まさに河原に賽を積むような思いだったでしょう。しかし、みっすーは決して諦めず、ステージを笑顔で守り通してきました。この凄まじい事実を背負ってなお、彼女は満面の笑みで振り返って、2人と合わせて高く跳ぶのです。もはや、ただの歌と振り付けではありません。月並みな表現ですが、まさにここに、ラスクエの物語性が立ち現れていると思いました。

 なお、舞台の重要性からくる緊張感に裏付けられて、この落ちサビをかくて完璧に歌い上げる3人の姿を見て、僕は感涙したのでした。



 2つ目は、なりふり構わない必死さについてです。

 この日は、他の演者のファンも多数いらしていました。地下アイドルの現場だと、物販時間の関係で、自分の「推し」以外のステージを「見ざるを得ない」場面がしばしばあります。そういう時、アイドルが「はいそこの携帯いじってる人〜」みたいな客いじりをする場面は珍しくありません。しかし、デビュー曲のサビで、

「声出せええええ携帯いじってんじゃねえぞおおおおお!!!!」

と鬼気迫る叫び声をあげるアイドルは、寡聞にして見たことがありません。動画では17分ころ、「?~クエスチョン~」の最後のサビでの、むぎの叫びです。声が裏返るほどの叫びには、むぎの本気の怒りと思い入れがこもっているように見えます。

 メンバーの立ち居振る舞いが滲ませるこの必死さは、当然にフロアにも伝わってきます。動画に映っている人たち(僕を含む)が、髪を振り乱し、姿勢を崩して叫び、腕を振り上げています。アイドルにせよ、フロアにせよ、こうした必死さは絵としては整ってはいないかもしれません。例えばメンバーの歌の音程であるとか、ダンスの同調具合であるとか、フロアの人たちの見た目であるとか、そういった点では相当に粗削りであるようにも見えます。それでもなお、あるいはだからこそ、この日のラスクエのパフォーマンスは、見る者を惹きつけ、引き込む力を帯びていました。

 フロアの隅っこにいる他のお客さんにとっては、「ロール・プレイング・アイドル」なんて、もしかしたら、有象無象のコンセプト系アイドルの一つに過ぎないかもしれません。でも、我々にとっては、まずこのステージしかない!この非対称性こそが、彼女たちと我々を必死にさせます。――それだけ、ラストクエスチョンというアイドルに3人が懸ける思いも、そして我々ファンが彼女たちに託する思いも真剣だということなのでしょう。

 そうだとすれば、ステージ上にあるのは、単なる歌と踊りと照明と音響のセットではありません。「何者かになりたい!」「特別になりたい!」という、《ラストクエスチョンの意思表明そのもの》に他ならないのではないでしょうか。それは、まごうことなき魅力の一部だと思います。



 冒頭で、Least Likely Caseという概念は、概ね、

ある理論を支持する事例が、その理論にとってもっとも都合が悪い条件でも起こるのであれば、その理論はかなり有効である

という意味であると述べました。

 コラソンウェイのトリに決まったと聞いた時、ラスクエのパフォーマンスを信頼している僕ですら、大丈夫だろうかと不安を覚えました。ラストクエスチョンというアイドルをよく知らない人たちには猶更だったと思います。その意味で、コラソンウェイのトリの成功は、まさに「もっとも起こらなさそうな事例=Least Likely Case」だったかもしれません。

 それでもなお、ラスクエのステージは成功を収めました。この成功は、彼女たちの実力や熱意の証明になっていますし、これからも、様々な難局においてもなお、それらを証明し続けてくれると期待しています。