2009年01月13日

「あたかも母の胎内で羊水に浸かった至福に満ちる安堵感を享受する」志田篤彦(プロデューサー)



元来なまけものである私が映画館の暗闇に自分の居場所を見つけたのはいつの頃だったのだろうか。あの暗闇の中で光と影にわくわくしながらの快楽的現実逃避。

高校三年間で観た千本の映画が私の大きな財産かもしれない。
大学を辞めモラトリアムのまま働いていた。そんなある日、ラジオから『映画作りはかっこ悪いぞ』『割に合わないぞ』〜『横浜放送映画専門学院!』と今村昌平監督(小沢昭一さん?)の悪魔の囁きが聞こえてきた。
この見事なまでのコピーに、なまけものであまのじゃくの私はノセラレタ。

当時の実習での記憶が鮮烈に甦えってくる。担当は浦山桐郎監督だった。森戸海岸の砂浜に演劇科の男女二人を座らせ、背中越しに夕日狙いでの芝居場。少女は盲目。見えない沈み行ゆく太陽にむかって「あ、沈む」 そのひとことが難しい。背中が思うような芝居をしない。
学校に入りたての素人の演出家、スタッフたち、素人の役者。なかなかうまくいかない。本当に太陽が沈みかけてゆく。業を煮やした浦山監督が怒鳴りまくる。そして、堪らず自らスタートをかける。
「あ、沈む」 
初めて目の当たりにするプロフェッショナルの凄まじさに圧倒された。まるで魔法にかけられたように、二人の背中が感情を表した。沈みゆく太陽さえも魔法にかけられたように落ちてゆく。

横浜放送映画専門学院の2年間は私にとって、様々な人たちとの出会いをもたらし、可能性を与えてくれた、ある意味で将来を決定する貴重な2年間だったのかもしれない。

卒業間際から助監督としてピンク映画の現場にでた。脚本も何本か書いた。映画、テレビの制作部もやった。30歳でプロデューサーになった。会社を作った。映画祭で賞ももらった。会社を潰した。映画を捨てようと思った。食うことができるのはこの世界しかないと50歳になってはじめて気がついた。それまでは、こんな世界いつでも辞めてやると思っていた。

(横浜放送映画専門学院 映像科6期生)


│カテゴリ:OB 
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