(1)大日本帝国憲法(明治憲法)発布(1889年)の14年ほど前の1875年(明治8年)に、当時にしてはかなり民主的な内容の「憲法提言」を東京の「朝野新聞」(同年3月4日付)に投稿した竹下彌平さんについて、昨年秋、このブログで情報提供を呼びかけた。

(2)昨年夏、私の中学校のときの同窓会が開催されたとき、同級生に情報提供をお願いしたら、後日、ある同窓生が、『鹿児島近代社会運動史』南方新社・2005年の中で竹下彌平さんの「憲法提言」を紹介しておられる川嵜兼孝さんに相談したとの連絡があった。

私がこの件で調べ始めているのは、私に同書を紹介してくださった、母校(中学校)の大先輩がその前に川嵜さんに伝えていただいている。

(3)先日、大学に竹下彌平さんことで、ある方から電話があった。
その方は、前掲著の執筆者のお一人の久米雅章さん(現在、樟南高校教諭)であった。
私が情報提供を呼びかけていることを、知り合いの方から聞いた、ということで連絡していただいたのである。

(4)久米さんは、竹下彌平さんについて独自に調べてられ、研究成果を送ってくださった。

町田市立自由民権資料館紀要「自由民権」22号(2009年3月号)113−115頁において、久米さんは、「竹下彌平」がペンネームであり、本名は「竹下次郎右衛門」で、薩摩藩海軍伝習所の学習所の会計係をしていた文物ではないか等、書いておられる。

(5)資料も同封されていた。

「竹下次郎右衛門」の子孫である大窪三郎さんがご自身の家系を調べ、「竹下彌平」は、「竹下次郎右衛門・兼貞」(1820〜1876年)か、その子息長男の「次郎右衛門」(1853〜1908年)、または次男の「蔵右衛門」(1856〜1920年)の誰かではないか、「一番可能性の高い」のは「竹下次郎右衛門・兼貞」ではないかと推測されている。
それが正しければ、55歳のときに書いたことになる。

竹下家は、当時、嘉例川駅裏山裾に居住しておられたようだ(前屋敷と称したといわれる)。
後に、加治木町新道そばの銭湯に移築されたが、1945年8月の空襲で被災焼失したという。

(6)久米さんは、この大窪さんの推測を参考に、前掲「自由民権」に執筆されているのである。

(7)ペンネームとは驚いた。思いつかなかった。

上記推測は結構的中している可能性が高い。

(8)これ以上の情報が今後出てくるだろうか?
なかなか難しいだろうが、決定的な情報を期待したい!