はじめに

(1)今月(2012年5月)15日は、沖繩復帰40周年を迎えました。

(2)当日は、政府と沖縄県が共催する記念式典が開催されました。
NHK 5月15日 11時33分
沖縄復帰40年 記念式典開催へ

沖縄が日本に復帰してから15日で40年を迎えました。
沖縄県では、15日午後、野田総理大臣らが出席して政府と沖縄県が共催する記念式典が開かれ、仲井真知事が、長引く基地問題の解決に向けた国民的な議論を改めて訴えることにしています。

沖縄が日本に復帰してから40年を記念する式典は、政府と沖縄県の共催で15日午後4時から宜野湾市で開かれ、野田総理大臣や仲井真知事、それにアメリカのルース駐日大使などおよそ1200人が出席する予定です。
会場の沖縄コンベンションセンターでは15日午前、式典を前に、国や沖縄県の職員が、来賓の座席の位置や式典の進行の確認など、最終的な準備を行いました。
沖縄には、復帰以降、およそ10兆円に上る国の振興予算が投じられて社会資本の整備が進む一方、1人当たりの県民所得が全国平均のおよそ73%にとどまるなど、経済の格差は埋まっていません。一方、沖縄には、復帰から40年の今も、在日アメリカ軍の専用施設の70%以上が集中し、このうち、平成8年に返還が合意された普天間基地は、沖縄県の名護市辺野古への移設を目指す政府と、県外への移設を求める沖縄県などとの間の溝が埋まらず返還の見通しは立っていません。
こうした状況を踏まえ、仲井真知事は、15日の式典で、長引く基地問題の解決に向けた国民的な議論を改めて訴えることにしています。
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(3)周知のように、これまでの政府・与党は沖縄に米軍基地を押し付けられてきました。
その結果として、沖縄は、上記報道にあるような問題を背負わされており、未だに解決してはいません。

「沖繩復帰40周年」を契機に、国民は、沖縄が背負わされている問題を真剣に考え、解決する必要があります。

(4)そこで、まず、その沖縄における2つの新聞(沖縄タイムスと琉球新報)の各社説がどのようなことを述べているのかを確認したいと思います。

取り上げる社説は、沖繩復帰40周年に直接言及したものだけではなく、間接的に言及しているもの(あるいは沖縄が背負わされている問題について言及しているもの)についても取り上げます。

もっとも、沖縄タイムスは先月24日以降のもの、琉球新報は先月28日以降のものとする。

このブログの投稿分量の制限があるので1回で全てを紹介しきれないから、何回かに分けて紹介する。

(5)ここでは、「その1」として先月下旬の社説を紹介する。


1.沖縄タイムス

沖縄タイムス 2012年4月24日 09時14分
[米軍再編見直し]「普天間返還」が原点だ

 あの熱気はどこへ行ってしまったのだろう。
 潮が引いていくように国民の関心が薄れ、新たな解決策を模索すべき政治家にも無力感や徒労感が広がっている。
 沖縄の負担軽減を是が非でも実現しなければならないという国民の声も、残念ながらその水位が急速に下がってしまった印象だ。
 日米両政府による米軍再編の見直し協議は、普天間問題の新たな解決策を打ち出す絶好の機会である。今が大きなチャンスなのに、野田内閣からは、辺野古移設の見直しを求める強い意志が少しも伝わってこない。
 1996年の返還合意以来、16年も漂流を続けている米軍普天間飛行場の移設問題は、どこに向かおうとしているのだろうか。
 普天間問題は今、二度目の大きな転換点を迎えている。今回の米軍再編見直しによって、日米合意は「二度死んだ」といえる。
 1回目は、96年12月の日米特別行動委員会(SACO)合意が、同時多発テロ後の米軍再編の中で反古(ほご)にされた時だ。
 2005年6月、リチャード・ローレス国防副次官は日本側との協議の席で、こう語ったという。「ヘノコ・イズ・デッド」(辺野古案は死んだ)。
 翌06年5月、「SACO合意」に基づく海上基地案は正式に葬り去られ、「米軍再編合意」に基づく辺野古案が新たに打ち出された。この二つは、似て非なるものだ。
 そして今回。「米軍再編合意」に基づく辺野古案も立ち行かなくなり、大幅な見直しを迫られることになった。
 米軍再編合意は「2014年までの(代替施設の)完成」を目標に掲げた。
 辺野古案が暗礁に乗り上げたため、普天間の返還時期は後退し、昨年6月の日米合意では「できる限り早い時期に」というあいまいな表現に変わった。
 SACO合意に盛り込まれた「5〜7年以内」の返還からすれば、後退に後退を重ねてきたことがわかる。
 そして、今回の米軍再編見直し協議の中で、米国側は、18〜19年度に普天間飛行場滑走路の大幅な改修工事を実施する計画であることを明らかにした。
 公式には辺野古案を堅持しつつ、今後も普天間を使い続けるという虫のいい話だ。
 嘉手納基地より南の施設を、普天間の辺野古移設と関係なく先行的に返還するのはいい。だが、肝心の普天間返還が遠のくことになれば、本末転倒である。
 世界で最も危険だと言われる普天間飛行場の一日も早い返還こそ問題の原点である。
 沖縄を訪れたクリントン米大統領も橋本龍太郎首相も沖縄の基地負担軽減に熱心だった。橋本首相は大田昌秀知事と17回も会っている。一国の総理と一県知事がこれほど頻繁に面会するのは極めて異例のことだ。
 だが、時とともに初発の志が失われ、実質の伴わない「フタンケイゲン」という言葉が日米双方で空しく飛び交っている。今こそ原点に立ち返るべきだ。

沖縄タイムス 2012年4月26日 09時25分
[オスプレイ7月配備]日本は米国の「属国」か

 復帰から40年がたとうとしているのに、米政府に、何の異も唱えない。世界中どこを見回してもこれほど卑屈な政府はないのではないか。
 米政府が垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを7月にも米軍普天間飛行場に配備する方向で検討していることが明らかになった。予定から約3カ月も前倒しするものだ。
 キャンプ富士(静岡県御殿場市)や岩国基地(山口県岩国市)などで先行運用した上で普天間に配備する予定だった。米政府が在沖米海兵隊の一部を岩国基地に分散する提案をしたとき、山口県や岩国市の強い反対に遭い、結局、政府はいち早く地元の意向を聞き入れた経緯がある。強い拒否反応から政府はオスプレイを本土で先行運用することは無理と判断したようだ。
 岡田克也副総理は今年3月、オスプレイ配備を懸念する当時の普天間第二小学校長に「今のヘリとの置き換えで、プラスアルファではない」と語った。外務省幹部も「一般的な装備の変更であり、配備がいい、悪いという議論にはなり得ない」と言っている。
 新機種が配備されるときに決まって持ち出される論理である。だが、今回はこれまでとは全く事情が異なる。
 オスプレイは開発段階から多くの墜落事故を引き起こし、30人以上の兵士らが犠牲になっている。4月に入ってアフリカ北部モロッコで合同演習中に墜落し、搭乗していた海兵隊員2人が死亡したばかり。事故原因もまだ特定できていない段階だ。
 宜野湾市が6月17日に市民ぐるみの反対大会を開く準備を進めているさなかである。本土の意向は聞き、沖縄には押し付ける。あからさまな差別としか言いようがない。
 それだけではない。
 普天間周辺には1大学、12小中学校、3高校がある。
 文部科学省の学校環境衛生管理マニュアルでは、教室内は「窓を閉めた場合は50デシベル以下、窓を開けているときは55デシベル以下が望ましい」としている。これまで政府も自治体も教室内の継続的な騒音調査をしたことがない。
 前倒しすべきは、学校で早急に騒音の実態調査を行い、文科省の基準に合致するような実効性のある対策を講じることである。
 米政府は2012年度から日本側の経費負担で普天間の補修を実施する。
 滑走路は米側が18〜19年度に行うとしており、普天間を長期使用する計画であることも明らかになった。
 「世界一危険な飛行場」の返還を先延ばしし、長期間使用するため、補修をする。
 墜落事故の絶えない垂直離着陸輸送機を、地元の反対の声を無視して、前倒し配備する。そんなことが許されていいのか、政府と全国会議員に問いたい。
 沖縄を、日本の安全保障のために米国に差し出すのはもういいかげんにしてもらいたい。
 野田内閣は辺野古移設が事実上のマニフェスト(政権公約)違反であることを認識しなければならない。官僚に丸投げするのではなく、政治の意思を示すべきだ。

沖縄タイムス2012年4月28日 09時55分
[講和条約発効60年]基地政策の惰性改めよ

 サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)は1952年4月28日、発効した。敗戦国日本が主権を回復し、国際社会に復帰した日である。
 全国の多くの学校で朝礼が開かれ、学校長が講和発効の意義を説いた。講和発効にちなんで祝典歌「日本のあさあけ」を歌い、万歳を三唱した学校もあったという。
 「日本のあさあけ」は、吉田茂内閣の依頼で歌人の斎藤茂吉が作詞し、「海ゆかば」を作曲した信時潔が曲をつけたものだ。
 当時の吉田茂内閣は、平和条約を「寛大な講和」だと評価し、祝賀ムードを演出したが、講和条約には負の側面も多かった。「北緯29度線以南の南西諸島」の施政権が米国に委ねられたのである。
 53年、奄美諸島の日本復帰が実現し、与論と沖縄の間の「北緯27度線」が新たな国境になった。
 塩屋小学校の2年生が66年に作文を書いている。
 「うみに、せんがひかれて、日本のうみ、おきなわのうみと、わかれているというが、ほんとうかな。ほんとうにせんがみえるかな。うみのうえで、あくしゅして、早く日本にかえるようにするそうです」
 あれから60年。鹿児島県与論町と国頭村の人々が28日、27度線周辺の海上に集い、かつての海上集会を再現する。
 沖縄の復帰は40年前に実現したが、サンフランシスコ体制の下で築かれた沖縄の基地群と自由使用という運用形態は、依然として清算されていない。
 4月28日に海上集会を再現することは、現在の問題を考える上でも、大きな意義がある。
 復帰前、米国は司法、立法、行政のあらゆる権限をもっていた。
 琉球上訴裁判所で係争中の事件の裁判権を米国民政府裁判所に移送したり、選挙で選ばれた瀬長亀次郎那覇市長を反米だとの理由で布令を改正して追放したり。米国に都合の悪い状況が発生すると、米国民政府は権限行使をちゅうちょしなかった。
 事件事故の米兵加害者が軍法会議で無罪になったケースも多い。
 68年の主席公選が実現するまで、沖縄の人たちは、選挙で自分たちの主席(今の県知事)を選ぶことさえできなかった。
 詩人の山之口貘が嘆いたように、米国統治下の沖縄は「日本みたいで/そうでもないみたいな/あめりかみたいで/そうでもないみたいな/つかみどころのない島」だった(詩「正月と島」より)。
 講和条約に調印する前の1940年代後半までは、沖縄の将来について、「独立」や「国連の信託統治」を主張する人々も多かった。
 沖縄戦直後の多様な政治的主張が「復帰」に収れんしていくのは、講和条約調印が現実の政治日程にのぼったころからだ。条約発効直後の52年11月、立法院は早くも「琉球の即時母国復帰請願」を決議している。
 講和後、沖縄の民意が急速に変化したのはなぜだろうか。(1)日常的に「自治」「人権」が脅かされ、(2)沖縄の国際的地位もウチナーンチュの法的位置づけも不安定で、日本人なのか琉球住民なのか、つかみどころがなく、(3)基地建設のための土地接収が相次ぐなど、住民の財産権まで脅かされ、(4)米兵の事件事故も多発するようになった―からである。
 72年5月15日の日本復帰は、沖縄にとって、米国統治に終止符を打つ大きな「世替わり」だった。だが、苦難の歴史に終止符が打たれたわけではない。
 2010年5月、鳩山由紀夫首相が来県し、米軍普天間飛行場に隣接する普天間第二小学校体育館で住民との対話集会が開かれた。同校教諭の訴えは、今、早急に解決すべき問題が何なのかを明確に示している。
 「騒音による昨年度の授業の中断は実に50時間。それだけの時間を七百人余の子どもたちは奪われているのです」
 50年代、60年代に騒音に悩まされる日々を送った子どもたちの、その子や孫の世代が、今なお米軍の騒音に脅かされ続けているのである。
 この現実をこれ以上放置することは許されない。

沖縄タイムス2012年4月29日 09時52分
[日米共同文書]負担軽減の本気度疑う

 在日米軍再編見直しをめぐる日米共同文書発表を受け、県内は疑念と無力感に包まれている。
 普天間問題は、辺野古移設を「これまでに特定された唯一の有効な解決策」と表記。嘉手納統合を提唱する米上院軍事委員会のレビン委員長らへの配慮から「これまでに特定された」との下りが土壇場で追記された。とはいえ、辺野古以外の具体策の検討は進んでいない。軸足が定まらないまま、その場しのぎの「外交的な作文」が仕上がったにすぎない。
 共同文書は「政治的に実現可能」な基準を満たす方法で普天間移設に取り組むとしている。これは沖縄の政治や世論状況を指す。にもかかわらず、県外移設を求める沖縄の意向が全く反映されていない合意は明らかな矛盾である。
 誰のための「見直し」なのか。アジア太平洋地域の米海兵隊のローテーション配備を急ぐ「米側の都合」に起因しているのは明白だ。今月末の日米首脳会談で、同盟の深化を演出したい両政府の思惑を優先したのが実情だろう。
 共同文書には、普天間飛行場の補修に日米で取り組むことも盛り込まれた。住民の生命・財産を危険にさらし続ける基地を維持するために血税を注ぐ。この不条理と向き合うのは県民には耐え難い。
 普天間問題に関わる日米合意は1996年の返還発表以降、何度も塗り替えられてきた。過去の教訓から学ぶべきは、実行不能な策に固執する愚かさだろう。日米は普天間の危険性への切実感に乏しい、と断じざるを得ない。
 玄葉光一郎外相は日米の見直し協議に先立つ2月、「地元の要望に応え、負担軽減を先行する」と強調した。共同文書の内容から「負担軽減の先行」を実感する県民がどれだけいるだろうか。
 返還対象の大半は「県内に機能移転後」または「海兵隊移転後」の条件が付く。「速やかに返還」とされた施設は全体のごく一部である。跡利用に神経をとがらせる県内自治体は「細切れで返還されても据え置きになるだけで空理空論だ」との冷めた見方が主だ。官僚の「机上の合意」がいかに実利と乖離(かいり)しているかはりょう然としている。
 だいいち、ほとんどが過去に返還合意されたものの焼き直しで新味を欠く。県内移設条件付きのため進展してこなかった状況が改善されるわけでもない。返還時期も明記されず、負担軽減の本気度を疑う内容だ。これを「成果」と誇るのは筋違いも甚だしい。
 嘉手納基地より南の米軍施設の「先行返還」で得点を稼ぎ、普天間飛行場の辺野古移設に向け、県の軟化を促す。これが官僚の描く筋書きだった。米交渉の読みの甘さ、県民世論とのピントのずれは救い難い。逆の見方をすれば、政府は辺野古移設を進めるまともな手だてを持ち合わせていないことの証しでもある。
 共同文書は「2国間の動的防衛協力の促進」に向け、日米の共同訓練場をグアム以外に米自治領の北マリアナ諸島に整備する方針も掲げた。米軍と一体化する自衛隊の沖縄進出の動向に注視が必要だ。



2.琉球新報

琉球新報2012年4月28日
対日講和発効60年/人権蹂躙を繰り返すな 許されぬ米軍長期駐留

 60年前と一体、何が変わったのか。日米両政府が27日に発表した在日米軍再編見直しの共同文書にこんな印象を抱く県民が多いのではないだろうか。
 米軍普天間飛行場の移設先について名護市辺野古が「これまでに特定された唯一の有効な解決策である」と結論づけた。知事をはじめ県内世論の大多数が県内移設に反対しているにもかかわらず、県土の利用方法を日米が県民の頭越しに勝手に決めたのだ。
連綿と続く「屈辱」
 60年前のきょう4月28日は対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)が発効された日。敗戦国の日本が完全に主権を回復し、連合国の占領状態から独立を果たした。一方でこの日を境に沖縄、奄美を含む南西諸島が日本から切り離され、米軍統治という異民族支配が始まる。その後に連綿と繰り返された住民弾圧、人権蹂躙(じゅうりん)の源流となるこの日を、沖縄では「屈辱の日」として語り継いできた。
 沖縄を日本から切り離した米軍はまず、住民が暮らしていた土地を強制的に接収し、基地拡大を始めた。1953年4月、真和志村の安謝、天久、銘苅に土地収用令を発令し、その後も伊江島、読谷、小禄、宜野湾の各村に武装兵を動員し「銃剣とブルドーザー」で住民を追い出し、家屋を次々となぎ倒した。
 こうして日本の国土面積の0・6%しかない沖縄県は現在、在日米軍の74%を抱えて差別的な過重負担を強いられている。
 「沖縄における米軍のプレゼンス(駐留)の長期的な持続可能性を強化する」。共同文書は記す。
 戦後67年も基地被害に苦しんできた沖縄に、長期にわたって基地を置き続けるという日米の狙いがはっきりした。条約発効から60年後の「屈辱の日」前日に、新たな「屈辱」が重ねられる。沖縄をいつまで日米安保の踏み台にするのか。
 昨年11月に「普天間」移設作業で環境影響評価書の提出時期を記者から問われた当時の沖縄防衛局長は「犯す前に、これから犯すと言いますか」と言い放った。県民を陵辱の対象にしか見ず、沖縄の民意を踏みにじってでも新基地建設を押し進めようという政府側の姿は「銃剣とブルドーザー」と何が違うのだろう。
 共同文書には「普天間」移設先で名護市辺野古以外の選択肢の余地に含みを残す文言が入った。辺野古について「唯一の有効な解決策である」とする記述の前に加わった「これまでに特定された」という部分だ。現時点では辺野古は「有効な解決策」だが、将来までは保証しないという含意がある。

理不尽な県民無視
 この記述は、嘉手納統合案を主張し、共同文書の発表日程を「詰めが不十分」だと批判して延期させた米上院のレビン軍事委員長らに配慮して盛り込まれたようだ。国防予算を左右する大物議員の声には耳を傾ける日米両政府が、当事者である県民の意向を無視するのはあまりにも理不尽だ。
 将来、辺野古を断念したとしても、レビン氏らの意向が反映されれば嘉手納統合案という県内移設を押し付けられかねない。今年7月に普天間飛行場に配備予定というMV22オスプレイも今年初めの時点では、県内配備の前に本州の米軍基地で先行駐機する案が浮上していた。しかし今月になって受け入れ態勢などに問題があるとの理由で断念し、沖縄が国内初の配備地となりそうだ。言語道断だ。
 57年前、土地を奪われた伊江島の住民が本島に渡り、多くの人々に実情を訴えるために行脚した「乞食行進」でこう訴えた。
 「乞食するのは恥であるが、武力で土地を取り上げ、乞食させるのは、なお恥です」。戦後も沖縄だけに過重負担を強いている現在の日米両政府の姿にも通じる一文である。
 民主国家を標榜する日米の下でこれ以上、人命、人権が脅かされる構造的暴力を許してはならない。

琉球新報2012年4月29日
社説 防衛局長訓戒処分 第三者機関で調査し直せ

 民主主義の根幹とも言える選挙に対する不当介入と受け取られかねない行為に、こんな軽い処分でいいのか。米軍普天間飛行場を抱える宜野湾市の市長選を前に、真部朗沖縄防衛局長が市内に居住する職員らを対象に「講話」した行為を、訓戒処分にしたことだ。
 訓戒は、国家公務員法など法律に基づく懲戒処分ではなく、省内の内規による処分だ。
訓令簿に6カ月間記載されるが、期間内に問題がなければ履歴に残らないという。
 宜野湾市長選は、普天間移設・返還問題が争点の一つになった。真部局長の行為は公務員の中立性を疑わしめるものだったが、これが訓戒で済むのなら自浄作用など機能しまい。
 防衛省の検証チームがまとめた報告書で、調査の欠陥が露呈した。防衛省は、市内に親族がいる職員に関し、親族の続柄と人数を記したリストを作成したことについて、「行政機関が保有する個人情報の保護に関する法律」に反することを認めている。しかし、報告書の中に書かれているのではなく、会見の場で記者から追及されて初めて違反するとの認識を示した。
 報告書はまた、講話で特定候補者への投票を促す発言はなく、自衛隊法や公職選挙法などにも「違反する事実は確認できなかった」としている。講話の目的は、「なるべく多くの方に選挙に行ってもらいたかった」からだという。
 しかし、投票を呼び掛けるのは選挙管理委員会の仕事だ。普天間飛行場の辺野古移設を推し進める沖縄防衛局の長が、市内に居住する職員や、市内に親族のいる職員を集めて講話すれば、その意図は推して知るべしだ。
 組織内で行う調査にはおのずと限界があるだろうが、調査では、一部職員のみを集めて局長講話をした時点で疑問を感じたとする職員が現に5人いた。問われているのは講話の内容だけでなく、真部局長の行為そのものだ。防衛省にはその認識が欠けている。
 そもそも身内に調べられて身内に不利な証言をする者などそう多くはいまい。局長講話に疑問を持ったのは、果たして本当に先の5人だけか。
 身内による調査、甘い処分では、県民の納得は得られない。これで幕引きしたら、県民の不信感をさらに深めるだけだと自覚すべきだ。今からでも遅くない。第三者機関を設置して調査し直すべきだ。


(つづく)