日本史探検隊

日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 |日本史探検隊| 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三

2015年10月

探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員

探検185 将軍と皇族の二心殿

江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜(1837-1913年)は「二心殿」と
いうアダ名?を頂戴していました。
幕末の混乱期という難しい時期にあって、最高権力者としての
決断・態度を、要するに「コロリと変える」ことが少なくなかった点を
指してのことでしょう。

頭脳明晰なため、すばやく先行きを見通せてしまったことが、
傍の目にはそのように映った、とする意見もあれば、
逆に本人自身がそうした「優柔不断」な性格を元々に持っていた、
とする見方もあるようです。


--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------

史) 「二心殿」って、平たく言うなら「二つの心を持つ者」ってことに
   なるのでしょう・・・つまり、「イエスかノーか」のどちらへも決断を
   付けられず、結局「日和見主義」に陥ってしまう姿のことかしら?


歴)
 もちろん、その意味で「二心殿」と捉えられた面もあったのは
   事実だが、慶喜さんの場合は生まれた時から「二心殿」だった
   とも言える。


史) ええっ、それっていわゆる「多重人格」だったって言っているの?
   それはさすがに、言い過ぎじゃないかしら。

歴)
 そうではなくて、体に流れる「血」もまた「二心殿」だったと
   言いたいわけだ。
   父は、もちろん「徳川の名門」(水戸家)の出自だが、母となれば、
   これが「皇室」有栖川宮家の王女なのだ。
   いわば慶喜自身は、「徳川将軍」にはなったものの、血筋的には
   同時に「準皇族」?でもあることになる。


史)
 う~ん、そりゃまた、徳川家VS天皇家の対立が始まった時期に、
   よりにもよって随分と微妙な立場の人が「徳川将軍」に収まって
   しまったものね。


          tobahushimino_tatakai_01             
        大阪を脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年画)
               

      お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

----------------------------
「朱子学」絶対の水戸藩で育った慶喜にしてみれば、親に対する
「孝」は人間として絶対におろそかにすることができない徳目です。
父母を大事にしないなどは、朱子学からすれば「人間のクズ」の
おこないということになるからです。
しかし、慶喜が将軍になった頃の現実の局面は、父ちゃんに味方
すれば母ちゃんの実家を裏切ることになり、逆のことをしたところで、
両親の実家両方が並び立つことはない、ということですから
これはたまりません。
----------------------------
史) ははん、それで「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)では、部下に
   ~千兵が最後の一兵になろうとも、決して退いてはならぬ~との
   命令を出しておきながら、自分だけはスタコラ退却したのね。
   
歴)
 ~「母ちゃんの在所」(皇室)を敵にまわして戦うなど、他人は
     ともかく、「孝」を大事にするボクのできることではない~

   心のどこかに、そんな思いがあったのかもしれん。

史) こうして眺めてみると、この「二心殿」ってアダ名?には、
   結構深いものがあるような気がしてきたわ。
   それに、より複雑な絡みになってきている分、今後の歴史に
   「三心殿」や「四心殿」が登場する可能性もありそうってこと
   なのよね・・・きっとなら。





          お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

 本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------





探検184 進歩発展は邪悪な思想

江戸時代とは、「改革」や「進歩発展」をあらゆる分野で否定する
ライフスタイルだったようにも思えます。
たぶんそこには、儒教・朱子学というものが大きな影響を与えて
いたのでしょうが、その「価値観」は、正直なところ現代日本人には
理解しがたい一面があって、そのために、ともすれば「不思議な江戸人」
に見えてしまうこともあるわけです。

たとえば、「からくり人形」なども、その一つかもしれません。
座敷内を自ら移動して、「茶運び」をする精巧な人形もありましたが、
この高度な技術を生産活動に転用しようとする発想はモトからなく、
最後まで、「座敷内の余興」に留めていました。
現代日本人なら、真っ先にその活用先を探すところでしょう。

--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------

史) つまり「新しいモノ」を作っても、それを社会の「進歩発展」に結び
   付けようする考えは持たなかったということなの?
   なんとまあ、もったいないお話しね。


歴)
 早い話が、これは「進歩発展」より大切なモノがあるという
   「江戸人」自身の意思表示だろうよ。


史) なにさ、そのそれ以上に大切なモノって?
   

歴)
 まあ、儒教における「親孝行」という概念が基本になっているの
   だろうが、乱暴に言い切ってしまうなら、~ご先祖様がやってきた
   生活様式を変えないことが、親孝行の第一歩である~
   言葉を変えるなら、すべては~昔のままが良い~とする信条だな。

史)
 なんで、そうなるの? ちょっとばかりナンセンスな印象だわ。


            karakuri_ningyou_tea_51
                     「茶運び人形」

               

      お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

----------------------------
ご先祖様と違う生活様式を「進歩発展」とすることは、言葉を変えれば、
すなわち~ご先祖様は遅れていた~と言っていることになる。
つまり、ご先祖様を否定し、ご先祖様の「顔をつぶす」ことになる
わけだ。
こんなことは、「親孝行」をモットーにしている江戸人には、とても
できないことだから、結局すべては~昔のままが良い~が信条に
なるということだ。

だから、その昔のやり方の欠点を見つけ、それを改良しようとした
人間は、まず「悪人」という評価になる。
「農業重視」政策の行き詰まりに気が付いて、「商業重視」政策に
切り替えようとした田沼意次(1719-1788年)などは、その良い例だ。
21世紀の現代でも「ワイロ政治家」とのイメージが払拭されない
くらいのものだ。
----------------------------
史) なによ、儒教・朱子学に対する信仰が田沼意次を「悪人」に
   したって言うの?・・・原因はワイロ、ワイロでしょう、やっぱり。

歴)
 そうは言えない。 そうした悪口を並べ立てたのは、
   儒教・朱子学の熱烈信奉者である松平定信(1759-1829年)
   だからな。

史) 松平さんって、「寛政の改革」に取り組んだ名君でしょうに?
----------------------------
「改革」ってか?
中身をよく見てみると、「改革」どころか、すべてを田沼政治以前に
戻しただけの印象だ。
つまり、世の中も政治も、すべてが~昔のままが良い~そう言って
いることになる。

こうした「儒教ドップリ」の姿勢を見直さざるを得なくなったのは、
幕末期に、「アヘン戦争」(1840-1842年)によって、儒教の本場で
ある中国がボコボコにやられたことを知ったからでしょう。

見知らぬ外国・イギリスの横暴、儒教の先生国・中国の惨状を
知るにつけ、さすがにもう~昔のままが良い~と、ノンキなことは
言っておられなくなったということです。




               お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

 日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

探検183 人生五十年の実直実践

「人生五十年」という言葉がある通り、この坂を乗り越えられなくて
亡くなった偉人・英雄も大勢います。
例えば、古いところでは「聖徳太子」574-622年)で、昔風の
数え方をするなら「享年四十九歳」ということになるのでしょうか。
「人生五十年」に今一歩届かなかったわけです。

もう少し後の時代なら、「織田信長」(1534-1582年)も、
同様の数え方をすれば、太子と同様に「享年四十九歳」という
ことになりそうです。

そう言えばこの信長、桶狭間の折に、日頃から好んでいた幸若舞
「敦盛」を一舞してから、出陣したのでしたっけ。
その「敦盛」の謡が、実は、
~人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり・・・~


--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------

史) ふーむ、偉い人・惜しまれる人は、五十歳前で死んじゃうのかしら?

歴)
 それは遠回しに、満五十を超えて生きているワシ様が、偉くない人・
   惜しまれない人だと言っているわけだな、ああ、そうなんだな。


史) そこまでは言わないけれど、幕末の薩摩・島津斉彬(1809-1858年)も、
   奇しくも「享年五十歳」なのね。
   そして、やっぱり偉い人・惜しまれる人ということになるわ。

歴)
 まあ確かに、斉彬の視野の広さ、見識の高さは、
   幕末日本が、ぜひとも必要としたものだったかも知れんなぁ。
   
史)
 そして、「享年五十一歳」の薩摩藩の人物を、もう一人見つけたのね。
   それが誰あろう、西郷隆盛(1828-1877年)こと西郷ドンなの。


  jinsei_50nen_51
             
            

      お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!
----------------------------
しかもこのお四方は揃いも揃って、いわゆる「自然死」でないことが
疑われる人物なのです。
信長は「暗殺」(本能寺の変)で、西郷ドンは「戦死」西南戦争)で、
いずれも謀反・内乱によって倒れています。
つまり、それがなければ、もう少し長生きができたはずの人物でした。
----------------------------
史) そう言えば、聖徳太子についても「暗殺説」が聞こえてくるわねぇ。
   まあ、すくなくとも「自然死」ではなかった可能性をまったく否定
   することはできない感じね。

歴)
 さよう、太子の妃が亡くなったよの翌日に、今度は太子ご本人が
   亡くなっている事実は、やはり「自然死」とは考えにくい。
   やはり一種の「暗殺」だったのではないかえ?

史) ははぁん、するてぇと、話の流れからして、歴サンは島津斉彬
   死もまた「暗殺」だったって、言いたいワケ? 
   でも、それって「通説」とまでは言えないんじゃない?
----------------------------
島津斉彬は、幕府に対する抗議行動を起こす矢先に突如「発病」し、
そのわずか8日後には死去しています。

実際に出兵の準備を進めていたのですから、この「急変」ぶりは
あまりに不自然と感じられるところです。

つまり、少なくとも、この経緯が「暗殺」であった可能性をまったく
否定してしまうことはできない、とは言えそうな気がするのです。




               お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!
   
 日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
--------------------------------

探検182 厄介な正義感

最近の「イスラム国(IS)」の手による一連のテロ・破壊活動は、
一般の日本人の目には、凶悪殺人であり、理不尽な暴挙と
映ってしまいます。

こうした行動は、結局のところ自らが信仰する「宗教」から
発生した「信念」「正義感」に拠るところが大きいと思われます。
要するに、「IS」にすれば、「悪を相手に正義を実行している」との
意識で行動しているということになるのでしょう。

かつての日本も、つまり織田信長(1534-1582年)が登場する
以前の時代には、宗教勢力が「正義感」?をもって武力行動を
していたのですから、どんな「宗教」に限らず、そこから派生する
「正義感」には、厄介なものがあるのは事実です。

--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------

史) それにしても、人類の遺産ともいえる「遺跡」などを平気で破壊
   してしまうことさえも「信仰的正義感」で片付けるのは、ちょっと
   納得できないわ。


歴)
 その「信仰的正義感」は、実は江戸時代にも盛んに発揮された。
   ひとつだけ例をあげるなら、後にいわゆる「寛政の改革」と
   呼ばれることになる老中・松平定信(1759-1829年)主導のよる
   一連の政策も、その「信仰的正義感」に基づいたものだったと
   言えるのダ。


史) それは例によって、歴サンのハッタリでしょうに。
   だって、「改革」というからには、かなり「進歩的」な政策を指して
   いるハズだわ。

歴)
 そういうスカタンな感想を漏らすなら、この「寛政の改革」と、
   すぐ直前の、田沼意次(1719-1788年)がリードした、いわゆる
   「田沼政治」を見比べてみるといい。
   どっちが真の改革だったかは、それこそ一目瞭然だ。

史)
 それは認めるにしても、「寛政の改革」と「信仰的正義感」が
   どう結びつくの?・・・話がイマイチ見えないわ。



    matsudaira_sadanobu_07  tanuma_okitsugu_01
      松平定信(1759-1829年)        田沼意次(1719-1788年)

               

      お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

----------------------------
松平定信は、簡単にいうなら「商業重視」など、自らは信奉する
「朱子学」から離れた感のあった「田沼政治」を全否定したという
ことです。
それだけに留まらず、田沼失脚後には、その居城すら完全破壊
したのですから、田沼に対しては「極悪人」意識をもっていた
のでしょう。 
逆に言えば、自らが「正義の人」ということになります。
----------------------------
史) へ~え、でも「朱子学」って、「学」が付くからには哲学みたいな
   ものでしょうに。 「宗教・信仰」とはちょっと違うんじゃないの?

歴)
 まあ、字面からそう想像しやすい傾向は確かにあるなぁ。
   しかし、学問「朱子学」というよりは、むしろ宗教「朱子教」という
   方が正しいような気がする。
   つまり、松平定信は宗教「朱子教」による「信仰的正義感」を
   もって行動していたと見るべきだろうな。

史) そうなると、松平サンは田沼サンのお城を破壊したり、散々の
   悪口を並べたけれど、こういうことも個人的な理由でなくて、
   「信仰的正義感」に基づいたことだったというの?
   つまり、松平サンご本人は、なんらの「後ろめたさ」も感じること
   なく、嬉々としてその「正義」を果たしていたってか!
----------------------------
その通り!
江戸幕府政治の屋台骨になったのは、徳川家康(1543-1616年)が
持ち込んだ「朱子学」でした。

それはそれでうまく機能した部分もありましたが、この松平サンが
「寛政異学の禁」をもって、原則、朱子学以外の学問を排除しようと
したところまで行き着いてしまったのも事実です。
こうした政策も、その思想?が骨の髄まで浸透した結果の
「信仰的正義感」がそうさせたものということができそうです。

それを思えば、昨今の「IS」や、かつての松平サンに限らず、
「信仰的正義感」の実践は、時として周りの人間に多大な「迷惑」を
及ぼすこともまた、歴史的事実というべきなのかもしれません。





               お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

 日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

探検181 水と油を混ぜる術

江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の庶子として生まれたのが、
保科正之(1611-1673年)でした。
つまり、第3代将軍・家光の異母弟に当たるわけです。

そうした血のつながりと、また正之自身が、誠実さと政治手腕を
兼ね備えた人物だったこともあって、家光は自分亡き後の
我が子(第4代将軍・家綱)の後見を依頼しています。
ですから、正之がそれに応え得る能力を備えた人物であった
ことは確かで、それで今でも立派な政治家として評価されている
ということでしょう。

しかし、この正之には政治家であると同時に「宗教人」という
一面もありました。
その宗教理論はすこぶる「日本的」で、つまるところ日本古来の
「神道」と中国製の新しい?「儒教」(朱子学)をドッキングさせた
”水と油を混ぜた”(ようにも見える?)ものでした。


--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------

史) この方が「親藩・会津藩」の初代・藩主ということね。
   なんでも、ガチガチの「幕府シンパ」だったとかで、そうした「家風」を
   幕末の藩主・松平容保も引き継いでいたってことよね。

歴)
 そりゃあ、兄・家光から将軍家の将来を託されたカタチに
   なったのだから、「御家全体」が伝統的に「将軍家・命」という
   使命感に燃えたところでなんの不思議もないッ。


史) それはそれとして、その保科サンが「宗教家」ってなんのことなの?
   ひょっとして、新興宗教「ホシナ教」でも立ち上げたのかしら。


歴)
 確かにそうも言えなくはない。 言葉を変えるなら、明治政府に
   先立って「廃仏毀釈」さえ実行していたってことさ。 
   そして自らも「神様」の納まっている。

史)
 保科サンって江戸初期の方でしょう・・・なのに「廃仏毀釈」って
   話が飛躍しすぎていない?



hoshina_masayuki_01tokugawa_iemitsu_01
      
       保科正之(弟)             徳川家光(兄)
             

               

      お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

----------------------------
まあ、歴史ってそういうものなのかもしれません。
年表だけを眺めていると、どんなことでも、それが「突然に起こった」
ように見えてしまうのですが、出来事にはやはり「潜伏期間」?が
あるものです。
保科正之の時代には、藩内だけに留まっていた思想「廃仏毀釈」が、
明治時代の初めには「全国区」に感染拡大?したような感じと
言えばいいのでしょうか。
----------------------------
史) 保科サンが「神様」納まったというお話は?

歴)
 正之が信奉する「儒教」は、元々が宗教を認めていない。
   だから「儒教」を避けて、「儒学」という言葉を使いたがるわけだ。
   そして、「仏教」はといえば、すなわち宗教に他ならないのだから、
   当然否定することになる。

史) ゲッ!だったら、「儒教」も「神道」も宗教ではなくって、
   「仏教」だけが宗教であるという見解なの?
   もともとが宗教オンチの私にはイマイチよく分からないわぁ・・・
----------------------------
宗教オンチに限らず、国の内外を問わず、どんな宗教にせよ、
確かに日本人には分かりにくいものを備えていることも事実でしょう。

しかし、保科正之が、領内の寺社を整理し明治の「廃仏毀釈」を
先取りしたり、自らは神式で葬られ、「土津(はにつ)霊神」として祀られる
などの目に見える行動をもって自らの信仰理論を示したことは
決して「分かりにくい」ものとは言えないでしょう。

当時の「常識」からいささか外れたこうした姿勢には、当時の幕府も
かなり大き目のニガ虫を噛んだようですが、さりとて「宗教弾圧」?と
受け止められてもヤブ蛇ですから、結局のところ黙認する形を
取ったようです。




               お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

 日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

プロフィール

史乃&歴三

にほんブログ村
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
楽天市場
  • ライブドアブログ