いうアダ名?を頂戴していました。
幕末の混乱期という難しい時期にあって、最高権力者としての
決断・態度を、要するに「コロリと変える」ことが少なくなかった点を
指してのことでしょう。
頭脳明晰なため、すばやく先行きを見通せてしまったことが、
傍の目にはそのように映った、とする意見もあれば、
逆に本人自身がそうした「優柔不断」な性格を元々に持っていた、
とする見方もあるようです。
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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)、歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) 「二心殿」って、平たく言うなら「二つの心を持つ者」ってことに
なるのでしょう・・・つまり、「イエスかノーか」のどちらへも決断を
付けられず、結局「日和見主義」に陥ってしまう姿のことかしら?
歴) もちろん、その意味で「二心殿」と捉えられた面もあったのは
事実だが、慶喜さんの場合は生まれた時から「二心殿」だった
とも言える。
史) ええっ、それっていわゆる「多重人格」だったって言っているの?
それはさすがに、言い過ぎじゃないかしら。
歴) そうではなくて、体に流れる「血」もまた「二心殿」だったと
言いたいわけだ。
父は、もちろん「徳川の名門」(水戸家)の出自だが、母となれば、
これが「皇室」有栖川宮家の王女なのだ。
いわば慶喜自身は、「徳川将軍」にはなったものの、血筋的には
同時に「準皇族」?でもあることになる。
史) う~ん、そりゃまた、徳川家VS天皇家の対立が始まった時期に、
よりにもよって随分と微妙な立場の人が「徳川将軍」に収まって
しまったものね。
大阪を脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年画)
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「朱子学」絶対の水戸藩で育った慶喜にしてみれば、親に対する
「孝」は人間として絶対におろそかにすることができない徳目です。
父母を大事にしないなどは、朱子学からすれば「人間のクズ」の
おこないということになるからです。
しかし、慶喜が将軍になった頃の現実の局面は、父ちゃんに味方
すれば母ちゃんの実家を裏切ることになり、逆のことをしたところで、
両親の実家両方が並び立つことはない、ということですから
これはたまりません。
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史) ははん、それで「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)では、部下に
~千兵が最後の一兵になろうとも、決して退いてはならぬ~との
命令を出しておきながら、自分だけはスタコラ退却したのね。
歴) ~「母ちゃんの在所」(皇室)を敵にまわして戦うなど、他人は
ともかく、「孝」を大事にするボクのできることではない~
心のどこかに、そんな思いがあったのかもしれん。
史) こうして眺めてみると、この「二心殿」ってアダ名?には、
結構深いものがあるような気がしてきたわ。
それに、より複雑な絡みになってきている分、今後の歴史に
「三心殿」や「四心殿」が登場する可能性もありそうってこと
なのよね・・・きっとなら。