「本能寺の変」(1582年)で織田信長が倒れた後、家臣だった
羽柴秀吉(1537-1598年)は、織田家の「乗っ取り」を目論みました。
信長の後嗣である長男・信忠はこの「変」に巻き込まれる形で
亡くなったとはいうものの、次男・信雄も三男・信孝も健在でしたから、
それを実現するには知恵を働かせる必要がありました。
さりとて、強引過ぎても周囲からは非難が出ますし、逆にゆっくり
しすぎたのでは、そのチャンス自体を失うことになりかねません。

そうした状況にあって、それなりの紆余曲折を経たものの、
結局秀吉は「織田家乗っ取り」に成功しました。
次男・信雄は懐柔策で取り込み、その信雄の命という形をもって、
三男・信孝を自害に追い込んだのです。
その信孝は切腹に当たって、こんな辞世を残したと言われています。
~昔より主をうつみの野間なれば報いを待てや羽柴筑前~
秀吉に対する激しい怒りが感じられる辞世です。

 

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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) 聞いたことあるわ。 その際に信孝は腹をかき切るや自分の腸を
   つかみ出して、床の間の掛け軸に投げつけたといわれる・・・
   その自害でしょ。
   本当のことだとしたら、切腹の作法といい、辞世の句といい、
   信孝は秀吉に対してよほど腹を立てたのでしょうね。


歴)
 信孝の感情がモロに噴き出しておるなぁ。
   しかし、この時世にある「うつみ」が掛詞になっていることは
   ご存知だったか?


史) 言葉の流れからすれば、「うつみ」とは「討つ身」ってことで
   良いんではないかえ?・・・それともなにか?

歴)
 冒頭にある「昔より主を(うつみの)」の言葉が、実は歴史を
   語っているのだ。 その歴史があるから「うつみ」という言葉も
   生きているわけだ。

史)
 でも、この際だったら、信孝サンも言葉を生かすことより、
   自分の命の方を生き延ばすことを考えるべきだったような気も
   するけどね。
 
 oda_nobutaka_51
 織田信孝
          

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お話はこうだ。
「平治の乱」(1160年)で敗走に追い込まれた源義朝(頼朝・義経の父)は
家臣を頼って身を潜めたが、ところが、最後にその家臣が裏切った。
入浴仕度で丸腰になっていたところを、メッタ斬りにしたのだ。
つまり、この源義朝も後の織田信孝と同様に「家臣の立場にある者」に
討ち取られてしまったわけだ。
しかも、その場所たるや、全く同じ・・・愛知県の知多半島にある
野間の内海(うつみ)だった。
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史)
 ああ、なるほど、そういうことね。 
   その歴史とは、これも家臣の裏切りに遭った源義朝と掛けた言葉、
   ~昔より主をうつみ(討つ身/内海)の野間なれば・・・って
   ことなのか。

歴) さよう、ご明察!
   
史) でもさ、切腹を前にして、よくもこんな辞世を残せたものね。
   普通だったらチビっちゃうくらいのものなのに、昔の人って、
   よっぽど腹が座っていたとみえるわね。
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その疑問は当然だ。
だから、この時世も後世の誰ゾが作ったものとする考え方もあるようだ。
しかし仮にそうであったとしてもダ。
この時の政治状況を実に巧く伝えている点では、じつに分かりやすい
辞世になっていることも間違いない。
その意味では、本人作かどうかは別として優れた辞世との評価は
できそうだ。

ちなみに、知多半島の「大御堂寺・野間大坊」の境内には、
知名度の高い源義朝の墓は勿論、織田信孝の墓もあるとのことだゾ。





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日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
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