主君・豊臣秀吉(1537-1598年)の没後の加藤清正(1562-
1611年)や福島正則(1561-1624年)は、「「秀吉子飼いの
家臣」であるのもかかわらず、その豊臣家から一歩控えた場所に
立つようになりました。
~主君・秀吉様が亡くなったのだから、豊臣家からオサラバだ~
決して、こんな気持ちを持ったわけではなく、同じ豊臣家の
同僚である石田三成(1560-1600年)とは、どうしても反りが
合わないために、やむなく選択した道でした。
で、二人はどうしたのか?
亡き主君・秀吉が遺した豊臣政権、そのいわば筆頭重役の
立場にある徳川家康(1543-1616年)に身をよせる形に
なったのです。
ですから、今風に言うなら、二人は徳川マンションの一室を
借りる「間借り人」になって「本籍:豊臣/現住所:徳川」の
境遇に立ったようなものでした。
いわば新参者ですから、古くから住むマンション住民に対しては
いささか肩身の狭い思いもあります。
すると、新参者には、どうしてもこんな思いが芽生えるものです。
~マンションの皆さんが、快く受け入れてくれるような「言動」を
  示さなくっちゃ~

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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) ここまでの前フリから想像するに、その「言動」の「言」の一つが、
   「関ヶ原の戦い」(1600年)直前の徳川方のいわゆる「小山評定」
   の場における、正則の「発言」だったと言いたいわけね。


歴)
 お察しの通り! 「間借り人」の立場にある正則としては、
   これくらいの発言をしないことには肩身が狭いと感じたのかも
   知れんが、豊臣か徳川かどちらに就くかで逡巡する諸将を
   出し抜く形で、こんな意見表明をしている。
   ~ボクは、断然家康殿にお味方しますッ!~


史) でも、それでは「主君・豊臣家」に弓を引くという宣言に
   なっちゃって、ちょっとばかり拙い発言じゃないの?

歴)
 ところがそうではないのだ。
   討つべき相手は、豊臣家の「君側の奸」石田三成って
   ことだから、だったら、そうしたガン?を切除することは、
   豊臣家の繁栄に貢献することになって、だからこそ、正則も
   こんな威勢のいい発言をしちゃうわけだ。

史)
 フーム、でもそれだったら、いかに威勢の良い発言があった
   ところで、万事に抜かりない家康のことだから、
   ~正則は真の「親徳川」に非ずして、正体は「親豊臣」であり、
     たまたま「反石田」派であるに過ぎない~

   このくらいの見切りはしていたでしょうね。
 
fukushima_masanori_01福島正則 
          

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おそらく家康は、そんな発言をしたにせよ、正則に心底から、
心を許すことはなかったと思う。
何しろ、この時点では、まだ厳として「豊臣家」が存在しており、
そこには秀吉の正当な後継者として豊臣秀頼(1593-1615年)が
いたワケだからね。
そこで、もう一人の加藤清正も、間借り人の「言動」の今度は、
「動」の方で対応した。
秀吉子飼いの清正が、こんな思いを抱くのも無理もない。
~「関ヶ原の戦い」で豊臣家のガン?だった三成を征伐できたの
  だから、今や豊臣家と徳川家が共存共栄することに何らの
  障害もないはずだ~

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史)
 でも、清正が仲介の労を取る形で、その秀頼と家康の対面を
   実現させた直後にポックリ死んじゃったのだから、清正は
   何かしら「使い捨て」にされたようにも見えてしまうわ。

歴) ひょっとしたら、そういうことだったかも知れん。
   ともかく、この清正の加藤家にせよ、正則の福島家にせよ、
   当人の代は猶予されたものの、その後の代には、幕府から
   いろんなイチャモンをつけられて、両家ともが「御家取り潰し」の
   処分を受けたのは事実だ。

   
史) でもさ、そんな頃って、もう家康も生きていなかったでしょうに。
   ということは、神君(家康)は、後継者にこんな遺言?をして
   いたってことかしらん。
   ~えぇか、この間借り人たちの家はいずれは潰しておくのだゾ~
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執念深いと言えば確かにその通りですが、実は「関ヶ原の戦い」の
敗者である長州藩・薩摩藩に対しては同じ処置を取ることが
できませんでした。
家康には、もちろんその意思があったものの、それこそ諸般の事情が
重なって叶えられなかったのです。
そして、家康が創立した江戸幕府を最終的に倒したのは、誰あろう
それらの勢力でした。
ということは、清正の加藤家や正則の福島家を残しておいたのなら、
あるいは「明治維新」の一方の担い手になっていたかもしれない
わけで、その意味では、家康の「
危険に対する嗅覚」には、大変に
鋭いものがあったことになりそうです。



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日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
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