しばらくの間「豊臣家」は存在していました。
秀吉の死(1598年)から豊臣家滅亡(1615年)に至る、
二十年弱の間で、これは徳川家康(1543-1616年)が
江戸幕府を創立した年(1603年)から数えても十年以上に
なります。
この江戸幕府のその後の安定ぶりを眺めてみると、この間の
出来事が、もう少しテキパキと運んでいてもよかった印象にも
なりますが、必ずしも一つ方向に一気に突き進むようには
運んでいません。
諸将の心の片隅にはこんな気分が残っていたことも、
そうした「ぐずぐず」の要因になったのでは?
~幕府を開き、征夷大将軍に収まったとは言え、人間五十年の
この時代、家康殿ももう結構な御歳(還暦60歳を超えていた)
な故、ここ数年の内には寿命も尽きるに違いない~
こんな見通しに立っていたとしても不思議ではありません。
そこで有力諸将も、そしてまた対立を続ける豊臣家・淀殿も
~家康殿が死んだ後こそが本当の第2ラウンドだ。
そして、その日は間違いなく近い・・・いやぁ腕がなるゾ~
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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)、歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) なによ、幕府を開いたことで「一件落着」ではなかったの?
でも、「家康死後の第2ラウンド」なんて気分が本当に
諸将や淀殿の胸中にあったのかしら。
歴) たとえば、今の時代に~80歳の老人が起業した~と聞けば、
まあ大抵は~会社の存続も御本人の寿命があるうちだけ~
と考えたくなるものだ。 それと同じと受け止めれば話も早い。
史) そうか。 それに家康の後継者・秀忠の政治的センスも
イマイチだから・・・そう睨めば、たった今はともかく、数年後に
家康が死んだ後には「チャンス到来ッ!」って風に考えても
不思議ではないわね。
歴) 家康に抵抗する側の誰もが「時間待ち」作戦だから、
客観的には「ぐずぐず」していたように見えるわけだ。
史) そうね、「人間五十年」の時代に家康が「75歳」まで生きよう
なんて、当時の人たちには想像もできなかったかも知れない
わね。
だって、現代なら平均寿命80歳のところを120歳まで生きた
計算になるわけだから、それこそ
「想定外で非常識で傍迷惑な長寿」だったことになりそうね。
徳川家康
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「長寿」ってか? 確かに徳川家側からしたら「長寿」」だったに違い
ないだろうが、その他の人々からすれば、決して「寿」ではなかった
はずだ。
だって、家康が生きていては、満を持して待っている「第2ラウンド」が、
なかなかやってこないし、それによって各々の人生プランのタイム・
スケジュールにも狂いが生じてしまったのだからね。
特に、悲惨だったのは豊臣家の淀殿のケースかもしれん。
~家康殿も老い先短いハズだ・・・だったら、天下に豊臣家の元気
ぶりを披露しておく意味でも、あと少しのその日まで、ここは
突っ張り切っておく必要がある~
これが、最後の最後まで徳川家に抵抗した理由だろう。
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史) なぁるほど。 徳川家に対する淀殿の強硬姿勢も、ただ単に
淀殿の勝気な性格の性だけでもなく、そこには「それなりの計算」
が働いていたってことかぁ。
淀殿も、なかなかのタマだったというわけね。
歴) それを思うと、結果的に「家康の長寿」は日本史に大きな影響を
与えたってことにもなろう。
例えば、家康がもう十年早く死んでいたらどうなっていたことか?
史) なぁるほど。 後継秀忠の政治センスや胆力は、確かに
父・家康とは比べ物にならないしねぇ。
それに、その秀忠はメッチャ恐妻家で正室・江サンの尻に
敷かれっ放しで、しかも、その江サンは敵対する淀殿の実妹
なのだから、家康が決断した「豊臣家殲滅」とまでは踏み切れ
なかったこもしれないね。
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とすると、いま徳川に頭を押さえられてはいるが、いわゆる
「一旗揚げたい組」にとって望ましい「世情不安定」な時代は続いた
ということになる。
つまり、「泰平(平和)社会」構築のためには、必要不可欠だった
家康の長寿は、この手の人達にとっては「迷惑な長生き」だった
ことになる。 その意味では、逆に、
~平和の構築に貢献した家康の長命~との言い方もできそうだ。
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日本史探検隊 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三/研修隊員・記録係
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