日本史探検隊

日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 |日本史探検隊| 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三

征夷大将軍

探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員

探検550 アレンジとリサイクルのSDGs征夷大将軍

日本史の中の幕府政治における「将軍大将軍」についてのイメージを問えば、現代でいう
「総理大臣」もどきに地位というくらいの答えが返ってくるのが、まあ一般的だろう。

要するに、国家の政権の最高の地位にあり、また最大の権力を握った者、というイメージだ。
たとえば、江戸幕府の政治形態を思い起こしてみると、確かに、この印象は強くなる。

しかしダ、律令の本家中国では元来はそうした性格を有したものではなく、またその制度を
輸入した日本も、それに倣ったものtpしていた。

じゃあ、どんなんだったのじゃあ?・・・
実はこんな風に説明されているのじゃあ。 
~「征夷大将軍」とは、飛鳥時代(592-710年)、 奈良時代(710-794年)以来、
 東北地方の蝦夷(異民族)征伐事業を指揮する
臨時の官職~

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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) ゲッ、臨時の役職だってかぁ。
   ということは、蝦夷征伐で大きな実績を見せた「征夷大将軍・坂上田村麻呂」
   (758-811年)という存在も、実のところ、この「臨時官職」に過ぎなかったと
   いうわけね。


歴) それが証拠に、田村麻呂以前も以後もこれに準じた役職には、「持節征東将軍」
   とか「征東大将軍」とか、種々の名称があったゾ。


史) ではではヨ、その「臨時」の職分が、後世においての「総理大臣」もどきの地位に
   まで出世したのには、どんな経緯があったのかしらん、それが知りたくなるよね。


歴) そのカラクリは、本邦初の武家政権である「鎌倉幕府」にあったように思われるゾ。

   この頃、武士の棟梁の立場にあった源頼朝(1147-1199年)は、朝廷公家のお歴々に
   対して武士の権利を認めさせようとしていた。


史) でもねぇ、この時代に大きな台頭を見せてきた武装農民(後の武士)に対し、
   朝廷公家はこんな意識を持っていたのでしょう?

   ~血なまぐさい戦を好む卑しい者~



   sakanoue_tamuramaro_01  minamoto_yoritomo_06
        坂上田村麻呂 / 伝・源頼朝像


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極端に言うなら、武士に対する朝廷公家は、あたかも「奴隷」に対する意識に近いものを
もって接していた。
だから、武士の権利要求に対しては、決して色よい回答を与えない。

そこは武士たちも百も承知。 しかし、
~なんとかこの硬い殻をブチ破らなくては「俺たちに明日はない」!~
そこで、武士たちが目を付けたのが先の「臨時官職」である「征夷大将軍」だった。

つまり、非常に形式的な理由付けなのだが、異民族征伐?のためとして地元東国に
「幕府」を置く許可を得ようとしたわけだ。
実際、当時の東北地方には、朝廷の管理下に収まりきっていない、当時の認識からするなら
「異民族」?勢力があったからな。

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史) なるほど。 武士側から、
   ~「異民族」?に対する備えは十分ですか?~と、突っ込まれれば、朝廷公家とて
   「ダメなモノはダメ」一辺倒で突っぱね続けることもできないわね。


歴) そこで、蝦夷討伐のための「幕府」(前線司令部)を置き、「征夷大将軍」
   そこの最高司令官としたわけだ。
   こうすることで、「征夷大将軍」には、臨機応変の「判断」が許されることになる。


史) なあるほど。
   何事かが発生した場合、当該前線からはるか離れた「京」へ、いちいちお伺いを
   立てていたのでは「間に合わない」からねぇ。

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こうした拡大解釈?と拡大行動?を続ければ、そこには京の干渉を受けないで済む
「東国限定・ミニ政府」が誕生することになるわけだ。 
なんとなく、ペテンくさい印象もないではないが、これは虐げられ続けてきた者達、つまり
武士側の「生活の知恵」だったかもしれん。

さて、ここまで漕ぎつければ、この「ミニ政府」の勢力を拡大発展させることは、さほど
困難でもない。

かくして、この「征夷大将軍」や「幕府」というものを、本来とは違う形にアレンジし、
リサイクル活用?する方法は、よほどこの日本民族の感性にフィットしたようで、
途中いくらかの「幕府空白期間」はあったものの、源頼朝による鎌倉幕府(1185-1333年)
以後、足利尊氏に始まる室町幕府(1336-1573年)、さらには徳川家康が創立した
江戸幕府(1603-1868年)と、およそ700年の長きに渡り愛用?され続けたというわけだ。



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 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
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探検531 徳川歴代将軍の健康診断

徳川幕府(1603-1867年)の歴代将軍の中には精神面や身体面で
それなりの「健康問題」?を抱えていた方もあったようだ。
まあ、「国のトップ」という地位にはシモジモには分からぬ
ご苦労があったということかもしれん。

そこでダ、今回はその歴代15人の徳川将軍の健康状態を、
姫隊員と共に追ってみたいと思った次第で、そこで
まずは、順にその15人の将軍に並んでいただこう。

第01代 家康(1543-1616年)享年75/健康オタク
第02代 秀忠(1579-1632年)享年54/大御所にも
第03代 家光(1604-1651年)享年48/生まれながらの将軍
第04代 家綱(1641-1680年)享年40/生来の病弱体質
第05代 綱吉(1646-1709年)享年64/権力欲旺盛?

第06代 家宣(1662-1712年)享年51/将軍職は僅か三年
第07代 家継(1709-1716年)享年 8/最年少将軍&夭逝
第08代 吉宗(1684-1751年)享年68/我欲から御三卿を
第09代 家重(1712-1761年)享年51/脳性麻痺?
第10代 家治(1737-1786年)享年50/趣味の将棋に没頭

第11代 家斉(1773-1841年)享年69/精力絶倫の子づくり将軍
第12代 家慶(1793-1853年)享年61/親譲り?の精力絶倫
第13代 家定(1824-1858年)享年35/病弱・脳性麻痺?
第14代 家茂(1846-1866年)享年21/甘党で虫歯や脚気
第15代 慶喜(1837-1913年)享年77/歴代最長寿




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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) あれ、やっぱり昔の人って結構短命だったようね。
   だって、享年70を超えたのは最初の家康と最後の慶喜だけ
   だものねぇ。

歴) そりゃあ、満75歳以上の人を「後期高齢者」と呼ぶ現代と、
   「人間五十年」という言葉もあったくらいの当時とは、
   単純に比べられないゾ。
   それよりは、むしろ「享年70超」が二人もいたことに驚く
   べきかもしれん。


史) なるほどねえ。
   でも逆に、第07代・家継サンのようにメッチャ若く亡くなった
   将軍もいたってことね。


歴) そもそも当時の医療水準は、現代ほど高くなかったのだから、
   生まれた子供が大人の年齢まで育つことも、現代ほど高い
   確率ではなかった。

史) そうか、当時としてはおそらく世間最高の医療水準を確保
   できたであろう将軍家でも「夭逝」という悲しい事態を
   避けられなかった、というわけかぁ。

  tokugawa_syougun_rekidai_01 歴代徳川将軍


上段左から、12家慶/13家定/03家光/01家康/02秀忠/06家宣/
      09家重/11家斉

下段左から、14家茂/15慶喜/05綱吉/04家綱/08吉宗/07家継/
      10家治


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その「夭逝」とは逆に、大層な人数の子づくりを成し遂げた
第11代・家斉や第12代・家慶みたいな将軍もいた。
家斉の「子供数50人超」なんて現代ではちょいと考えられない
レベルだ。
その意味では、徳川将軍には結構健康な者が少なくなかったと
言えるかもしれん。

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史) でもよ、総員たった15名のうち、そのうちの2人が推定通りの
   脳性麻痺?を患っていたとしたら、ちょいとその確率が高すぎる
   ような気がしないでもないけどなぁ。


歴) それは、先に言ったように当時の医療水準の問題もあっただろうし、
   もう一つには、「将軍資格」が必ずしも現代で考えるような
   能力資質優先ではなかったことも一因かもしれん。


史) なるほど、第13代・家定の後継者に 家茂と 慶喜が候補となった
   時に、現代だったら危機管理のためにも、間違いなく「能力優先」

   で次期将軍を選んだのでしょうが、この時はむしろ「血筋」が優先
   されて、家茂当選、慶喜落選という結末になっているものねぇ。

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考えてみれば、そうした徳川将軍たちが治世した「江戸時代」というのは、
前の戦国時代と後の明治維新という二つの大騒乱に挟まれた、また
鎖国政策によって外国の影響を排した、それこそ「天下泰平」の
二百五十余年だったことになる。

しかしダ、その間の「将軍史」を探ってみるなら、それはそれで
とてつもなく広く深い物語があったに違いないとも思えてくる。

そうした意味では、ほんの入口に過ぎないが、今回姫隊員と共に
15人の将軍を一覧にしてみたことには、それなりの意義があったかも
しれんゾ。

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 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
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探検500 歴史に見る日本真ん中考

~日本の真ん中ってどこだろう~
ふと、こんな疑問が頭に浮かんだので、ついでのことにチョイと調べて
みようと思い立ったのです。
ところが、「日本の真ん中」を決めるにも、実に多種多彩なモノサシが
あることを知りました。

たとえば、こんな具合です。
○国土の重心・・・石川県珠洲市禄剛崎先の日本海の海上地点を
         国土地理院が認定したもの。
 (便宜上一番近い陸上地点に「日本列島真ん中の碑」を建設)
○人口の重心・・・住んでいる全ての人が同じ体重を持つと仮定して
         求めた重心地点。
        (この場合は岐阜県関市あたりになるとか)

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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) でも、その「日本の真ん中」って、国土にしろ人口にしろ
   たった今現在のデータで計算したものよねえ。


歴) そりゃあ、歴史的に眺めるなら国土も人口も変化していると事実が
   ある以上そういうことになるだろうよ。


史) つまり卑弥呼時代と、たとえば源頼朝時代の「日本の真ん中」は
   まるっきし違うはずよねぇ。
   だって、国土にしろ人口にしろ双方のデータには大きな違いがある
   のだから。

歴) おぉ、その御感想を耳にしてひょっこり思い出したことがあるゾ。

   「日本中央」の文字が彫られた石碑が、青森県にあるそうだ。


史) なによそれ、完全にヨタ話でしょうに。
   だって、どう考えたって青森県では「日本の真ん中」ってことには
   なりそうもないからねぇ。

   nihon_cyuuou_ishi_01 日本中央の碑

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ところが、ギッチョン! こんな経緯があったそうなのだ。

平安末期に書かれた記事に、
~田村の将軍征夷のときに、ここが“日本中央の地”であることを石に
 刻みつけた“つぼのいしぶみ”(壺の碑?)が陸奥の国の奧にある~


そして、長らく探し求めていたその伝説?の“つぼのいしぶみ”ではないかと
される、表面にやじりで彫った「日本中央」の文字が見える高さ1.5mほどの
自然石の「石碑」が青森県上北郡で発見(1949年)されたのだ。
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史) そこにある「田村の将軍」とは、
   征夷大将軍「坂上田村麻呂」(758-811年)のことで、
  「征夷」とはその時の「蝦夷征伐」(801年)を指しているってことね。


歴) 素直に考えれば、そうなりそうだ。
   事実、青森県も同様な考え方をしたのか、現在は上北郡東北町の
   「日本中央の碑保存館」に保存展示されている。
   上がその実物の写真だ。


史) それにしても、現在でさえ「東北地方」(東北方域)と呼ばれ、

   問題の記事ですら「陸奥(陸の奥)の国」としている地域の
   そのまた“奥”が、なぜ“日本「中央」の地”と認識されたのか、
   そのことがまたメッチャ不思議じゃん。

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当時の人たちが何らかの理由をもってこの地を「日本中央」とする認識して
いたかもしれんという解釈もあるそうだ。
それによれば、
~元々蝦夷地が「日本」(ひのもと?)という名称を使っており、その中央に
 位置したので「日本中央」なのではないか?~


そうそうエエコロカゲンな解釈でもなく、
~津軽の武士・安藤氏も「日之本将軍」を自称し、しかもそれが
 天皇にも認められていた~ さらには、
~豊臣秀吉(1537-1598年)の手紙でも奥州を「日本」と表現した
 例がある~
こうしたことがその傍証として挙げられているそうだゾ。



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探検429 戦下手初代と戦上手二代?

武士による政治機関?「幕府」は、その「長」となる役職名?を
「征夷大将軍」と名乗りました。 
ところがこの役職名、決して新しいものではなく、実は幕府が
登場するずっと以前から、すなわち平安時代の初期の頃から
使われ続けてきたものなのです。
そして、この役職名での「有名人」ということなら、まずは
あの坂上田村麻呂(758-811年)が挙げられますが、
実はこの田村麻呂、初代征夷大将軍ではないのです。

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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) えっ、そうなの? その知名度からしてもてっきり初代の
    征夷大将軍だと思い込んでいたワ。

歴) そういう思い込みは何も姫だけではなく、むしろ多くの人が
    持っている当たり前の間違いといっていいのかもしれん。

史) だったら、初代って誰になるの?

歴) 一応は大伴弟麻呂(おおとものおとまろ/731?-809年)と
    されていて、その時に副将軍を務めていたのが坂上田村麻呂
    とされている。

史) でも、ヘンじゃない。
    なんで、初代よりその後継・二代目の方が有名なの?

  sakanoue_tamuramaro_01坂上田村麻呂


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なるほど、疑問はもっともだ。
ずっと後のことになるが、武士政権における征夷大将軍について
いうなら、どの政権でも二代目より初代の方が圧倒的に有名だものな。

こうして並べてみると、そのことに納得がいくと思うゾ。
鎌倉幕府/初代・源  頼朝→二代・頼家
室町幕府/初代・足利尊氏→二代・義詮
江戸幕府/初代・徳川家康→二代・秀忠
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史) なるほど、確かにそれは言えそうねぇ。
    でもそうなると、武士ではなく純粋な征夷大将軍は、どうして
    初代ではなく、二代目の方が圧倒的に有名なのだろか。

歴) それにはなんの不思議もありゃあせんぞ。
    征伐対象の蝦夷に初代は負けちゃったが、二代目は勝ったと
    いう事実がある。   

史) 戦下手の初代に対し、二代目は戦上手だったとするなら、
    初代・大伴弟麻呂の名前が売れなかったことにも合点が
    いくわ。
    誰だって強い人の方をカッコイイと感じるものねぇ。
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しかし、こんなことも想像できないわけではないゾ。
弟麻呂・田村麻呂の正副コンビが共に手を携えて、蝦夷?に
対する「アヒルの水かき」を根気よく続けていたところ、それが
「敵側の降伏」という目に見える成果となって現れたのが
ようやく802年のこと・・・つまり、弟麻呂が70歳超(定年退職後?)の
ことだった。


そんな事情もあって、同じように努力を重ねてきたにも拘わらず、
栄誉の全部を40歳代半ば働き盛り?の田村麻呂に独占され
ちゃったのでは?


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探検413 鎌倉源氏将軍の視界

武家政権、つまり幕府機構のことですが、そのトップである
征夷大将軍の地位に就けるのは源氏の血統のある者だけ
でした。
そもそも、武家政権の最初である鎌倉幕府を創立したのが
源氏の血筋にある源頼朝(1147-1199年)でしたから、その後の
幕府もこの伝統を継承していったと言えなくもありません。
そのために、武家政権つまり幕府政治が続いていた時代は
「源氏の天下」だったと思い込みやすいのも事実です。
しかし、ちょっと待て。
冷静に眺め直してみるなら、そこには疑問も浮かびます。
なぜなら表向きはともかく、最初の鎌倉幕府自体が、とても
じゃないが「源氏の天下」とは言えない状況を呈していたからです。

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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) 鎌倉幕府では初代から三代にわたる将軍は源頼朝の血統が
    続いたけど、その後の実権は番頭さんもどきの北条氏が
    掌握しているものね。

歴) しかも、その源氏将軍の三人が三人ともがいささか不可解な
    死に方をしている。
    こうした事実を素直に眺めれば、番頭格・北条氏が決行した
    源将軍家に対する破壊工作だったという受け止めにもなるゾ。

史) 二代・頼家も三代実朝も暗殺されちゃったし、初代・頼朝
    亡くなり方も、確かにメッチャ不自然な印象だものね。
    だって、武士の棟梁たる人物が戦闘中のことならともかく、
    イベントの帰り道という根っからの平時において
    ~馬から落ちて落馬して、それが原因で死んだ~
    なんて説明は、いくらなんでも違和感を覚えるよねぇ。

歴) つまり、逆から眺めればそうしたことの実態が分かりやすい
    かもだ。

史) そういうことなら、この頃のホント実力者は頼朝の妻である
    北条政子(1157--1255年)の実家の北条氏であって、夫・
    頼朝やその間に生まれた子供たち、つまりそうした源氏の
    血統は単なる箔付け・お飾りだったことも考えられるわね。

 minamoto_sanetomo_ansatsu_01
  源実朝暗殺事件(鶴岡八幡宮)

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確かに!
源氏の血統が途絶えてしまった後も、北条氏が執権(将軍補佐人?)
の立場に立つことで、幕府自体(武家政権)は問題なく続いていった。
つまり、こうとも言えるかもダ。
~源頼朝が征夷大将軍に就いたのは、ひとえにその血統に、
   他の者が持てない箔があったからだ~

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史) 裏を返せば、北条氏ら武士団の頼朝の指導力・政治力に
    対する評価は「大絶賛!」ということでもなかったわけね。

歴) そりゃそうだろ、将軍に就いたころはともかくとして、その目線は
    次第に武士側でなく朝廷に向けられていったのだからね。 
    そうした気配を察した武士団が、頼朝に向って
    ~初心忘するべからず!~と注意したくなるのは当然だ。

史) そうした頼朝が持っていた、朝廷に憧れるというDNAを二代・
   頼家も三代・実朝も引き継いでいたのかもね。
   武家政権の棟梁たる者が朝廷に色目を使うようになっては、
   武士団だって源氏抜きの北条氏体制で臨むしかないわけか。
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史上初めての「武家政権」の創立者と冠されることで、源頼朝の
政治手腕はメッチャ大きな評価になっているが、それは必ずしも
正しい受け止めではないのかもダ。
なぜなら、征夷大将軍就任を認めさせるべく後白河法皇
(1127-1192年)と余人を交えないサシの会談に臨んだものの、
なんらの成果も得られなかったのだからね。
つまり、頼朝の政治手腕のレベルは後白河法皇のそれよりずっと
低いものであった。
頼朝ファンには申し訳ないが、こういうことになるのかもしれないゾ。


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