~親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど 死にたくも無し~
こんな六つの「無」を嘆いて、自ら六無斎(ろくむさい)と号した
人物が林子平(1738-1793年)です。
今でいうトップクラスの「有識者」に当たるのでしょうか、
「寛政の三奇人」の一人にも挙げられている優秀な人物です。
では、その子平がなぜ「六無斎」の立場になってしまったものか?
江戸幕府老中・松平定信(1759-1829年)に睨まれたからに
ほかなりません。
子平は著書「海国兵談」の中でこんな指摘をしました。
~江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり~
つまり、日本から中国・オランダ(世界中)まで海はひと続きに
なっておるからして、外国に対する国防策を講じるべきだ。
これが老中・松平定信(1759-1829年)の癇に障った。
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例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)、歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
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史) 海に囲まれた日本であり、しかも諸外国との付き合いを拒んで
いた状況にあるなら、至極当然の指摘でしょうに。
それなのに、老中殿はなんで頭に来ちゃったの?
歴) その根底には「朱子学」があるだろうな。
要するに、こういうことだ。
~部屋住みの田舎侍の身でありながら、天下の御政道に
口を挟むとは、身分をわきまえぬ不届き千万な行いッ~
史) あれ、子平が指摘した「海の危険性」そのものは問題に
ならなかったの?
歴) 子平はそれ以前のところで糾弾されたわけだ。
なにせ、松平定信はガチガチの「朱子学原理主義者」だからね。
~我々のような身分を有するものだけに御政道を論じる
資格があるのであって、他の者には断じてないッ~
史) しかし、まあなんとも窮屈な世の中ねぇ。
「言論の自由」が保証されていることの有難味を感じるわ。
林子平
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さよう、著作が発禁とされ「言論の不自由」を味わった子平は、
やむなく自ら版木を彫るなどして自費出版(1791年)を強行した。
しかし、その版木までもが没収されたのだ。
さらには蟄居命令を受け、政府対個人の戦いはここに決着を見た。
このことに大きなダメージを受けたのだろう、子平はこの二年後
(1793年)に亡くなった。
いわば、政府転覆を目指す極悪政治犯もどきの扱いの中で、
その生涯を終えたことになる。
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史) 随分とお気の毒なお話ねぇ。
でも、この老中・松平定信って、自らが主導した幕政改革が
「寛政の改革」って呼ばれ、江戸幕府の三大改革にも加えられて
いるからには結構に「名君」だったのでしょう。
歴) 「名君」の定義にもよるが、ワシ様はそのようには捉えていない。
とにかく「朱子学原理主義者」だから、とことんに商業・商人を
蔑視する政策を取り続けた事実は動かせない。
早い話が、「商業重視政策」を持ち出した政敵・田沼意次
(1719-1788年)にワイロ政治家との汚名をきせたばかりか、
失脚にまで追い込んだのもこの松平定信なのだ。
史) 社会からこうした有益な提言があったにも拘わらず、結局
江戸幕府は海外に対して関心を払うことを怠ったわけね。
何かしら鈍感過ぎる印象だけど、これが「朱子学原理主義者」の
真髄ということなら、やはり名君とは言えない感じよねぇ。
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~江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり~
その後の歴史を眺めてみれば、この林子平の提言の意義が
分かろうというものだ。
実際にこの水路を使って、外国から黒船がやって来た時の幕府は
~太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯(四隻)で夜も眠れず~
その時の幕府の茫然自失ぶりを揶揄した狂歌がこれだからなぁ。
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日本史探検隊 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三/研修隊員・記録係
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