なるそうです。
~学問上の真理を曲げて、世間や権力者の気に入るような
言動をすること~
こう説明されると、ついつい頭に浮かんでしまうのが、23歳の
若さで江戸幕府創始者・徳川家康(1543-166年)のブレーンの
一人になった朱子学派儒学者・林羅山(1583-1657年)の名です。
では、羅山はどのように~学問上の真理を曲げ~、またどのように
~世間や権力者の気に入るような言動~を取ったものか?
--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)、歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------
史) ははん、あれでしょ。 「方広寺の鐘銘」!
そこに刻まれた「国家安康」と「君臣豊楽」の文言を、
とってもイジワルに解釈することで、徳川家が豊臣家に対して
イチャモンを付けたって・・・それでしょッ!
歴) 姫が知っているくらいだから、日本史上五指に入る超有名な
イチャモンといえそうだ。
では、この林羅山なる「御用学者」?が、この文言をどのように
解釈したのか知っているかいな。
史) 私が知っているから言うわけじゃないけど、まあそれは
「国民の常識」と言っていいかもね。
とにかく笑っちゃうほどの「ヘソ曲がり」的解釈で、家康とも
あろう御仁がそれを信じちゃうとはねぇ。
歴) それは誤解だ。家康ともあろうものが羅山の解釈を鵜呑みに
したとは思えない。 家康からすれば、例えば、
「淀殿はブスでキモいからケシカラン」とか、あるいは、
「今日の天気が悪いのは豊臣家の怠慢のせいだ」とか、
豊臣家に対するイチャモンはなんでもよかったのだ。
そんな状況にあって、たまたま目に付けたのが、
「方広寺の鐘銘」だったというだけのことだ。
史) でもよ、「国家安康」が~家康の名を分割し身を切断する
ことを意味し、徳川氏を呪詛したもの~であり、
「君臣豊楽」とは~豊臣家の繁栄を祈願している~なんて、
並みのオトナだって口にするのが恥ずかしいくらいのものよ。
そんな解釈をエリート学者と言われる者がヨ、権力者の前で
披露するのだから、これでは掛け値なしの「御用学者」、
完全無欠の「曲学阿世」と非難されても仕方がないわサ。
方広寺・鐘銘/国家安康と君臣豊楽
お立ち寄り記念に→ ←応援クリックも!
----------------------------
しかし、お話の行方を追わなければならんゾ。
こうしたイチャモンを初めとして、家康はありとあらん手練手管を
駆使してライバル「豊臣家」を滅亡(1615年)させるた。
こうしたことで、いわゆる「戦国の世」に幕を引き、結果として250年余の
「平和(泰平)をもたらしたわけだ。
「平和が大切」というなら、この家康こそまさしく「平和創造者」なの
だから、もっともっと高い評価になっていいはずだし、同じく羅山も
そうした作業の一端を担ったのだから「準平和創造者」くらいの評価を
得ても不思議ではない。
ところがダ、家康は「タヌキ親父」と呼ばれ、羅山には「御用学者」とか
「曲学阿世」のイメージが付きまとっている。
いったい、なんでやねん。
----------------------------
史) だって、平和をもたらしたという点は間違いないでしょうが、
それは決して正々堂々としたやり方ではなかったでしょうに。
だったら「平和創造者」なんて持ち上げるのも如何なものか?
歴) それなら逆に訊こう。 純真で朴訥な人間が創り上げた
「平和な時代」が、もしあるようだったら教えてくれ。
史) うーん、現代の「平和日本」はどうよ。
これって、それこそ純真で朴訥な日本人が創り上げた「平和」
じゃないのサ。
----------------------------
常識人ならバカは休み休み言いなさい。 姫のようにのべつ
バカを言い続けるヤツは、周りを見渡してもそうそうはいないゾ。
現代日本の「平和」はそれこそ「大戦争に敗れた」ことが発端に
なっている。
その後、連合国占領軍の、それこそ家康の二乗くらいのイチャモン
やら手練手管・強権・脅しをもってやっとこ実現できたものだ。
純真で朴訥な日本人が作った、という姫の御高説はユニークでは
あるが全くの的外れで、「ヘソが茶を沸かす」あるいは「顔を洗って
出直してこい!」と言いたくなるくらいのトンデモ説でもあるゾ。
そうか、すっぴんになるのが怖くて「顔を洗う」ことはできないか!
さもありなん。
お立ち寄り記念に→ ←応援クリックも!
日本史探検隊 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三/研修隊員・記録係
-------------------------------