日本史探検隊

日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 |日本史探検隊| 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三

尊王攘夷

探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員

探検597 幕府を騙した浪人がいた

さて「旗本八万騎」という言葉は、一般的にはこのように説明されている。
~徳川将軍家の旗本の数を称したもの。 旗本は、実際には五千を少し
 上回る程度でであったが、御家人と陪臣を含めれば、約八万騎であった~

 (三省堂・大辞林)
この程度の説明なら、まあ大概の人には理解できるとしたものだろうが、
しかし、ここに使われている言葉自体が分からない人も少なくはないはずだ。

そこで、一つ一つを眺めてみると、これくらいになる。
 旗本/将軍家直属の家臣(直参)のうち石高が一万石未満で将軍出席の
    場に参列できる「御目見」以上の家格。
    将軍家からすれば、最も信頼できる「近衛兵」。

御家人/同じく直参ではあるものの、家格は一ランク下の将軍「御目見」は
    できない「近衛兵」。
 陪臣/将軍家から見て、「家来(直参)の家来」に当たる立場。

辞典の説明では、この「八万騎」を根拠のある数字として扱っているが、
実はこれとは異なる見解もある。
~この「八万騎」は実数を示しているのではなく、江戸の「八百八町」、
 大坂の「八百八橋」、はたまた「八百万神」などと同様に、単に
 「メッチャ多い!」ことを「八」で表現しているもの~

との解釈だ。

--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------
史) どちらが正しい数字なのかよく知らないけれど、でも純粋な「旗本」に
   限れば、たかだか「五千人」。

   それをなんと「八万騎」・・・そんな大ホラを吹いて、将軍家に
   なんぞのメリットがあるの? 


歴) 実はある。

   幕府に対していささかの不満を抱く外様大名などを牽制する意味では、
   それなりに意味のある数字になるからだ。


史) なぁるほど、おそらくは外様大名だって「旗本」については、ある
   程度の情報把握はしていたでしょうが、それでもやっぱり公称
   「八万騎」ともなれば、幾分は腰が引ける思いも働きそうだものね。

   ~突っかかるのはいいけれど、返り討ちになってはなぁ~
   というところよねぇ。


歴) デモの参加者の人数を警察側が一万人と踏んだのに対し、デモ主催者側が
   その数を十万人と発表して気勢を上げるようなものだったかもしれん。


史) 人間のやることは、今も昔もあまり変わりがないのかもしれないね。


   kiyokawa_hachirou_51 清河八郎

 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!
----------------------------

それはさておき、幕末のころになると、この「八万騎」?の大半は経済的に
困窮を極めるようになり、その中には「旗本株を売る」者も登場するように
なった。 
もっとも、現代の「上場株売買」の取引とはそのやり方が違っていて、
具体的には「旗本」が金満商家の次男坊などを養子に迎え、家督を譲るという
方法が多かった。


しかし、そこまで貧乏になってしまうと、本来の「将軍家近衛兵」の役割すら、
まっとうできるはずもない。 
そんな中で、第14代家茂(1846-1866年)の「将軍上洛」(1863年)という
事態だ。

----------------------------
史) 将軍家にとっては、第3代家光以来実に229年ぶりの上洛だったそうね。 
   またその上に、尊王攘夷の熱に浮かされた世相だから、まさしく
   「危険がいっぱい」といっていい状況よね。


歴) その通り。 幕府としたら、
   ~ヒョッコリ、将軍が危害に遭おうものなら、幕府のメンツは丸潰れ。 

    さりとて「旗本八万騎」に任せたのでは、これはいかにも頼りない~
   そんな心情を見透かしたように、一浪人・清河八郎(1830-1863年)が、
   幕府に近づきこんな言上をした。
   ~幸いなことに腕の立つ浪士もゴッソリといるのですから、こうした
    連中を組織して将軍護衛に当てたらいかがでしょう~


史) 「痒いところに手が届く」あるいは「渡りに舟」って、こういうこと
   かもしれないね。

----------------------------

幕府の気持ちがクラッと傾いたところで、すかさず、
~資金援助をお願いできるなら、私が差配いたしましょう~
「水心あれば魚心」「持ちつ持たれつ」、どういう表現が適切なのかは
ともかくも、この点清河はよほど弁の立つ人物だったようで、結果として
幕府はその提案に乗った。


ところが、この後の経緯は二転三転。
首尾よく幕府から資金を出させることに成功した清河は、二百名以上の
浪士を集めて京に入った。 
さて、その際に清河から発せられた言葉が、
~各々方ッ! お誘いした本心は幕府のサポートではなく、討幕側に助力する
 ことなのだッ! よろしく頼むゾ!~


当然、この清河の「後出し提案」?には反発を示す者もあって、この
グループを脱会?したのが、近藤勇(1834-1868年)たちで、この後
「新選組」結成へと動いていくことになる。

~幕府は一浪人・清河八郎にまんまと騙された上に資金までかすめ取られた~
この頃の江戸幕府がいかにボロボロだったかがよく分かるエピソードとして
いいのだろう。


 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

探検417 六無斎は朱子学被害者

~親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど 死にたくも無し~
こんな六つの「無」を嘆いて、自ら六無斎(ろくむさい)と号した
人物が林子平(1738-1793年)です。 
今でいうトップクラスの「有識者」に当たるのでしょうか、
「寛政の三奇人」の一人にも挙げられている優秀な人物です。
では、その子平がなぜ「六無斎」の立場になってしまったものか?
江戸幕府老中・松平定信(1759-1829年)に睨まれたからに
ほかなりません。

子平は著書「海国兵談」の中でこんな指摘をしました。
~江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり~
つまり、日本から中国・オランダ(世界中)まで海はひと続きに
なっておるからして、外国に対する国防策を講じるべきだ。 
これが老中・松平定信(1759-1829年)の癇に障った。

--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------
史) 海に囲まれた日本であり、しかも諸外国との付き合いを拒んで
    いた状況にあるなら、至極当然の指摘でしょうに。
    それなのに、老中殿はなんで頭に来ちゃったの?

歴) その根底には「朱子学」があるだろうな。
    要するに、こういうことだ。
    ~部屋住みの田舎侍の身でありながら、天下の御政道に
      口を挟むとは、身分をわきまえぬ不届き千万な行いッ~


史) あれ、子平が指摘した「海の危険性」そのものは問題に
    ならなかったの?

歴) 子平はそれ以前のところで糾弾されたわけだ。
    なにせ、松平定信はガチガチの「朱子学原理主義者」だからね。
    ~我々のような身分を有するものだけに御政道を論じる
     資格があるのであって、他の者には断じてないッ~


史) しかし、まあなんとも窮屈な世の中ねぇ。
    「言論の自由」が保証されていることの有難味を感じるわ。

      hayashi_shihei_51 林子平

 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!
----------------------------
さよう、著作が発禁とされ「言論の不自由」を味わった子平は、
やむなく自ら版木を彫るなどして自費出版(1791年)を強行した。
しかし、その版木までもが没収されたのだ。
さらには蟄居命令を受け、政府対個人の戦いはここに決着を見た。
このことに大きなダメージを受けたのだろう、子平はこの二年後
(1793年)に亡くなった。
いわば、政府転覆を目指す極悪政治犯もどきの扱いの中で、
その生涯を終えたことになる。
----------------------------
史) 随分とお気の毒なお話ねぇ。
   でも、この老中・松平定信って、自らが主導した幕政改革が
    「寛政の改革」って呼ばれ、江戸幕府の三大改革にも加えられて
    いるからには結構に「名君」だったのでしょう。

歴) 「名君」の定義にもよるが、ワシ様はそのようには捉えていない。
    とにかく「朱子学原理主義者」だから、とことんに商業・商人を
    蔑視する政策を取り続けた事実は動かせない。
    早い話が、「商業重視政策」を持ち出した政敵・田沼意次
    (1719-1788年)にワイロ政治家との汚名をきせたばかりか、
    失脚にまで追い込んだのもこの松平定信なのだ。   

史) 社会からこうした有益な提言があったにも拘わらず、結局
    江戸幕府は海外に対して関心を払うことを怠ったわけね。
    何かしら鈍感過ぎる印象だけど、これが「朱子学原理主義者」
    真髄ということなら、やはり名君とは言えない感じよねぇ。
----------------------------
~江戸の日本橋より唐、オランダまで境なしの水路なり~
その後の歴史を眺めてみれば、この林子平の提言の意義が
分かろうというものだ。
実際にこの水路を使って、外国から黒船がやって来た時の幕府は
~太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯(四隻)で夜も眠れず~
その時の幕府の茫然自失ぶりを揶揄した狂歌がこれだからなぁ。


 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

探検384 創作された歴史人物

たとえば、その昔娯楽映画などによく登場した「真田十勇士」の
トップスターである“猿飛佐助”などは、その超人ぶりから、
てっきりお話を面白くするために創作された「架空の歴史人物」
だと思い込んでいました。
ところが、これにはモデルになる人物が実在した、という解釈も
あって、必ずしもそうとも言い切れないようです。
ただ、仮に実在したとしても、それは映画ドラマで描かれるような
超人・忍術使いの類ではなく、むしろ現代でいう諜報員に近い
存在だったということなのでしょう。

--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------
史) なあるほど。 じゃあ、私にとって、創作と実在の中間的存在は、
   「石川五右衛門」ということになるのかもしれない。
   だって、てっきり架空の人物だと思っていたら、Wikipediaでは、
   ~生年不肖-1594年没~とされていたんだのね。

歴) なんでも、当時の宣教師の報告の中に、「盗賊の親分が油で
   煮るれた」との記事があるらしいし、また別に、もこんなことを
   記録した宣教師もいたらしい。
   ~1954年夏、 “石川五右衛門”とその家族が油で煮られた~

史) だったら、間違いなく、実在人物ってことになりそうね。
    しかも、お芝居の設定と同じく、やっぱり盗賊の親分だった
    わけね。

歴) 先に登場した猿飛佐助と同じようなパターンに「月形半平太」
   がある。
   ずばりと該当する人物はいないのだが、実はよく似た名前の
   福岡藩士・月形洗蔵(1828-1865年/37歳没)と
   土佐藩士・武市半平太(1829-1865年/35歳没)は実在した。、

史) そうか、二人の名前の半分づつを頂いて新しい人物を創造
    したってことかもね。

   tsukigata_hanpeita_01
    映画の月形半平太  

 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!
----------------------------
名前を半分づつ頂いたということなら、江戸川乱歩の小説に登場する
名探偵「明智小五郎」もそうかもしれん。
命名元には諸説あるらしいが、実在した戦国武将の明智光秀
(生年不詳-1582年)の名と、これも実在した幕末長州の志士桂小五郎
(木戸孝允/1833-1877年)の名前を合わせたとする説もあるようだ。
もっとも、明智小五郎自身の行動自体は、光秀にも桂にも無縁の
まったくの創作なのだが。
----------------------------
史) そういう目線で探すなら、創作と実在の中間に位置する人物って、
   まだまだいそうね。
   たとえば、聖徳太子(574-622年)なんかも、そんな雰囲気を
   漂わせた人物の一人じゃないの。

歴) 「創作」って言葉に抵抗なく当てはまるかどうかは別として、
    太子実在説に疑問を呈する向きも少なくないのは確かだなぁ。

史) 厳密に言えば小説「竜馬がゆく」に登場する坂本龍馬も
    架空、つまり、原作者・司馬遼太郎が創作した人物ってことに
    なるわよねぇ。
    だって、実在した人物ってことなら、その名前からしてヘンだ
    ものね。
----------------------------
確かに!
小説では「竜馬」となっているが、歴史上実在した人物としての名は
「坂本龍馬」(1836-1867年)が正しい。
つまり、そうしたアレンジを通して、原作者・司馬遼太郎は、読者に
こう伝えているのかもしれん。
~本作品はノンフィクションではなく、あくまでもフィクションです~

つまり、この小説の中の「竜馬」の思想・行動を、そのまま「龍馬」の
史実だと受け止めることには危険があるってことにもなりそうだ。


 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

探検355 黄門様の大いなるあせり

TVドラマでお馴染みの「水戸黄門」こと、水戸藩主・徳川光圀
(1628-1701年)は、御三家の立場にあって、「朱子学」
研究に非常に熱心に取り組みました。
この「朱子学」を幕府の公式学問として採用したのが、他ならぬ
藩祖であり祖父である徳川家康(1543-1616年)だったことも
あったのでしょう。
しかし、ちょうどこの頃のこと、その朱子学の本場である
明国(1368-1644年)は崩壊の憂き目を迎えていました。
「本場の消滅」・・・このただならぬ事態に焦燥感を募らせた
黄門様は、そこで日本に亡命を希望していた明国の朱子学者・
朱舜水(1600-1682年)を自藩へ招聘し、その指導の下、
朱子学のさらなる研鑽に乗り出したのです。

--------------------------------
例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------

史) 「本場が消滅」ということは、明国学者・朱舜水を招いた
   黄門様はこんな気概すら抱いていたかもしれないね。
   ~いまや、我国こそが「本場・朱子学」の真の担い手である~


歴)
 「明国崩壊」を目の当たりにした朱舜水自身にも、そんな
   思いがあったかもしれん。
   ~祖国・明国が無くなった今となっては、「朱子学」の場は
    もはや声をかけてくれるところだけにしかない~



史) 「朱子学」に対する双方の思いがうまく重なったってことよね。

歴)
 思いが重なったことが幸運なことだったかどうかは別として、
   黄門様の「水戸藩」は、これ以後幕末に至るまで、諸藩とは
   ひと味もふた味も違う言動を取ることになる。

史)
 それって、いうなれば「朱子学原理主義者」もどきの言動ってこと?

   syu_syunsui_01
     朱子学者・朱舜水 

          

お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも! 



----------------------------

黄門様自身もそうだったが、この後の水戸藩も朱子学にのめり
込んでいった。
たとえば、武士の間ではさほどの評価を受けていなかった
楠木正成(1294-1336年)を、朱子学観点から「大忠臣」と評価し
直したのが、この舜水・光圀の師弟コンビだったし、そのずっと後の
幕末のことになるが、「勅許なき開国」はけしからんとして、大老・
井伊直弼暗殺を実行した者たちの多くは「水戸浪士」だった。
つまり、この場合の「水戸浪士」とは、井伊直弼暗殺(桜田門外の変/
1860年)実行のために、水戸藩を脱藩した過激派グループと言って
いい。
----------------------------


史)
 あぁそれだと、「朱子学」に対する黄門様の熱意が、幕末維新の
   頃まで継承され続けて、その雰囲気の中で、暗殺実行すら
   厭わない、ある種の原理主義者・教条主義者を生み出したって
   ことになりそうね。 

歴) 長い目で眺めたら、決して無関係ではないゾ。
   というより、黄門様こそが、水戸藩に「朱子学絶対」の藩風を
   布いた張本人ということになりそうだ。

   
史) TVドラマでは「カッカッカッ」の笑い声が目立つばかりだけど、
   そういうことなら、天下の副将軍?水戸光圀公は、日本史の
   中でも結構重要な人物といえそうね。
----------------------------
「思想」の面から捉えても、それは間違いなさそうだ。
さて、そこまで気が付けば後は蛇足の話題になるのだが、
この舜水・光圀の師弟コンビが現代日本に及ぼした影響は、実は
もう一つある。
結構知られていることなので、いまさらの感もあるが、
~最初にラーメンを食べた日本人は黄門様(光圀)である~
と言われているのがそれだ。
そうだとしたら、そのレシピを披露したのは多分朱舜水先生だろうよ。




 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

探検351 国葬を賜った幕府好き人間


幕末期に薩摩藩の国父として、それなりの政治活動を果たした
島津久光(1817-1887年)は、根っからの攘夷論、つまり
外国なんぞは追い払ってしまえばいいのであって、開国は
絶対反対という立場を貫いていました。
この点は、幕末屈指の名君とされる進取の精神に富んだ
異母兄・島津斉彬(1809-1858年)とは好対照の政治姿勢を
保っていたわけです。
ということは、本来なら開国路線の上で急激な文明開化を是と
した立場の明治新政府とは、足並みが揃わないはずです。
ところが、この久光が亡くなった折には、明治新政府はなんと
「国葬」に遇しているのです。
それどころか、現在の天皇家には、この島津久光の血が
脈々と受け継がれているのですから、久光はちょっとした
ファントム(怪人)ということかもしれません。

--------------------------------

例によって、以下の会話は、日本史探検隊の
史)=姫隊長/史乃(しの)歴)=古参隊員/歴三(れきぞう)です。
--------------------------------

史) 平成時代の現天皇は、久光さんから見れば4段階下った
   世代に位置しているから、要するに「曽曽祖父」に当たるって
   ことね。


歴) その通りだが、久光は明治になってからも丁髷頭を是とし、
   少し前まで薩摩藩主だった自分の息子・島津忠義(1840-1897年)
   に向かっても、頑として断髪を認めなかったほどだ。
   それほど、伝統的な価値観に染まっていたのだから、だったら、
   必死になって文明開化に取り組んでいる明治新政府が、
   そんな方向違いの久光を評価した理由とは、いったいなんだ?



史) そう言われれば、なんとなく違和感を覚えるわね。 
    だって、ちょっと前までは「幕府あっての日本国」として、
    その体制を堅持するべく言動を示していたのだからねぇ。

歴)
 実は、久光はその幕府のボス(将軍)・徳川慶喜(1837-1913年)
   とは意見が合わなかった。
   と言うよりは、その原因は慶喜の独り相撲で、久光を疑っていた
   と言った方が的を射ているのかもしれん。

史)
 ええぇ、全力で幕府をサポートしていた久光の、いったい何を
    疑ったワケ? 何かしら話が見えてこないわ。
 
  shimadu_hisamitsu_01 薩摩藩国父・島津久光
          

お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも! 



----------------------------

間違っても姫には当てはまらないと思われるが、頭の良い人は、
往々にして他人より先回りして物事を考えるものだ。
並みの頭だったら到底思いつかないことでも、頭の良い人なら
思いつくこともある。
こうしたことは、一般庶民の生活の中でもままあるお話だから、
政治の世界だけは別とはいいがたい。
つまり、この時の幕府将軍・徳川慶喜は、久光の幕府に対する
甲斐甲斐しい態度を見て、こんな疑心暗鬼を抱いたわけだ。
~ひょっとして久光の野郎、将軍の座を狙っているのではないか~
----------------------------


史)
 ああ、なるほど、そういうことね。 
   でも、久光は外様大名の島津家の人間であって、将軍家との
   血縁的なつながりのない人物だから、逆に言えば、将軍職の
   有資格者ではないわけだから、これは単に慶喜の杞憂って
   ことに?

歴) その時代から150年を経た現代人が冷静な判断を下すなら
   そうも言えようが、その時代をリアルタイムで味わっていた
   人たちにすれば、むしろ生き馬の目を抜くような、なんでもありの
   時代に感じられたのかもしれん。

   
史) つまり、頭に血が上っていた慶喜は、久光の腹の内を本気で
   疑っていたということね。
----------------------------
結果、本来なら「幕府立て直し路線」で協力し合えたはずの久光と
慶喜は、平たく言うなら「喧嘩別れ」を演じたわけだ。
倒幕勢力、つまりこの直後に明治新政府を作ることになる側から
したら、二人のこの「喧嘩別れ」ほど嬉しいものはなかった。
邪魔者(久光)もなく、倒幕へ突き進むことができるからだ。
だから、多少皮肉な見方になるのかもしれないが、後に久光が
国葬を賜ることになった最大の理由とは、幕府の長・慶喜との
「喧嘩別れ」したことだったかもだ。
しかしまあ、現天皇家の御先祖様の悪口に聞こえるようなことは
あんまり大きな声で言うのも、確かに気が引けることではあるゾ。




 お立ち寄り記念に→ his_nihon88_31 ←応援クリックも!

日本史探検隊
 姫隊長・史乃古参隊員・歴三研修隊員・記録係
-------------------------------

プロフィール

史乃&歴三

にほんブログ村
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
楽天市場
  • ライブドアブログ