2011年11月

バディ・オブライアン BUDDY O'BRIEN

全階級を通じて、バディ・オブライアンより短期間で、より多くの騒乱を発生させたレスラーは、プロレス年鑑をめくっても見つけられない。65年以上経過した現在、短い人生の一部に、親類縁者でさえ不明な謎が残されたままとなっているが、なんでもあり型プロレスの父祖であることは確かである。以下の記事を引用する。

1936年11月 アリゾナ州フェニックス
バディ・オブライアンはトランクスから紙束を取り出し、着火して、燃え盛る煤煙を対戦相手アル・ハファートの両目に擦り付けた試合後、留置所で一晩過ごした。レフェリーもKOした。公共の建造物内で着火したことにより逮捕された。

1937年9月 カリフォルニア州サンタモニカ
バディ・オブライアンがロープでラバーン・バクスターの手首を拘束して、非常識にも壊れたリングサイドのベンチの破片で滅多打ちにして1時間以上経過してから、警官隊は会場を取り巻く、2,600人以上の平常心を失ったファンに対する警備を続けていた。

1938年1月 カリフォルニア州エル・リオ
冷凍の世界記録26分40秒を破るとした企画において、バディ・オブライアンは2,200キロの氷の下に埋葬されたが、わずか1分少々しか持たなかった。脱出した際、137キロの氷塊がマット上を滑走して女性客に衝突する寸前となり、冗談があわや惨劇になるところであった。

1909年にニューヨーク州北部で生まれたアーランド・C・ミラーことオブライアンにとって、この類の暴力沙汰は日常茶飯事で、実のところ、リング外の人格もその延長線上にあった。弟のスチュアート・ミラーが笑いながら語った。「ショーマンでしたね。現在のプロレスで行われている多くのことの元祖でした。正直、今のレスラーよりもずっと悪どいことをしていましたね。何だってやりました。いつだってトラブル上等でした。でも心の広い人でしたよ」
大家族に囲まれて育ち、14人兄妹であった。少年時代、運動に熱中し、ニューヨーク州サザンティア郡ウェルズバーグ近郊の自宅近くの、起伏のある鉄道線路上を走っていた。ミラーによれば、「兄が16歳か17歳の時だったと思いますが、兄のトレーニング風景を覚えていますよ。冬場に短パン、手袋姿で、鉄道線路上を走っていました。それが兄のトレーニングでした」
消火栓のように、背は低くともガッチリした体格をしており、ニューヨーク州エルミラ近郊でボクサーとして少々の実績を積んでから、大恐慌時代にカリフォルニアに移ってレスラーに転向した。
容貌がアイルランド系に似ていたことからアイルランド風の名字に改め、そして、悪役レスラーとして大事なことなのだが、容易に鼻血を流せることから、“ブラディ”バディ・オブライアンと名乗った。
1936年までに、集客力のある暴れん坊はリング・マガジン誌の年間ランキングにおいて、国内のウェルター級の有力選手に挙げられており、王者であるジャック・レイノルズ、ジョニー・ストーテ、“ワイルド”レッド・ベリーらに近い位置にいた。メインイベントを飾るようになると、非常識極まりない行動は伝説の域に達した。人気者ニック・ルッツェと対戦した試合では、チョーク攻撃を繰り返し、タバコ袋から取り出した粉末をルッツェの両目に押し込み、スツールを投げつけ、試合終了後にはタオルで首を絞めた。ある記事によれば、この光景に「6人か8人の」のファンがオブライアンを制裁すべくリングに乱入したという。フェニックスでの機先を制した目潰し攻撃は、「リプレーのビリーブ・イット・オア・ノット」の記事にされ、同月にカリフォルニア州ベンチュラでは、警察当局に退場を命じられた腹いせに、カイモン・キュードーの両目を花束で攻撃して暴動を誘発したとして、審判団から罰金100ドルを課された。シアトルでは、リング上に石鹸を持ち込んで、レフェリーの背後でスタン・メイスラックの両目にこすりつけ、レフェリーが振り向くと石鹸を口に隠した。ベンチュラ郡スター紙のラリー・マルバニーは、「業界最高峰のレスラーではなかろうが、最も嫌われている」と結んだ。
1936年9月の試合では、セコンドのふりをして、サンダー・ザボーを目潰しするために、かのドン・レオ・ジョナサンの父であるブラザー・ジョナサンに紙やすりを差し込んだ。その後に発生した騒乱を鎮圧するために、地元の警官隊は催涙弾を発射した。試合後の暴走を抑止すべく、警官隊が投入されるのは日常茶飯事であった。カリフォルニア州体育委員会も監視の目を光らせており、1937年から1940年にかけて、少なくとも4回の出場停止処分を受けた。ワシントン州とオレゴン州では、ジェネラル・ハロルド・オブライアンを名乗っていた。1937年10月にシアトルで、リング上でドロシー・キング・オブ・ハリウッドと挙式した同じ晩に、メインイベントの最中に狂暴化して、粉末でパット・フラレーの両目を潰して、レフェリーも滅多打ちにした。シアトル地区で長年スポーツ記者とラジオ番組の司会を務めるプロレス史家J・マイケル・ケニョンは、「太平洋沿岸を北から南まで、大規模暴動を誘発しなかったなんていう、第二次世界大戦前の時代の試合記事を、一つも読んだ記憶がないよ」と語った。
弟によれば、父親を除いて、悪党は家族と緊密な関係を築いており、遠征からお土産持参で帰ってきたという。しかしそこでも、事件とは無縁でいられなかった。ニューヨーク州ケマング郡に帰ってきたとき、家族の居住地近くで闘鶏が行われていることを知った。弟によれば、「雄鶏は非常に高価でした。なので、雄鶏を盗んできました。所有者は新聞に広告を出して、懸賞金付きの大きな広告でしたから、兄は返しに戻って、あっちこっちから雄鶏を捕まえてきましたよ、なんて出鱈目を言っていました」
一連の馬鹿騒ぎに近隣住民は迷惑しており、警察を呼んで対処を依頼した。しかし警察がミラー家を訪問すると、オブライアンは忽然と姿を消していた。弟によれば、「大きなソファがありましてね、その当時に革張りですよ、背もたれを倒すとソファベッドみたいになりました。マットレスを取り外して、アーランドが中に潜り込みました。州警察が来てソファに座るんですが、兄はその中にいるわけです。胆の据わり方が違うでしょ」
西海岸に戻っても、相変わらずの反則三昧であった。治安妨害容疑で出廷した際の服装は、明るい青シャツにバギーパンツ、派手な柄のサスペンダー、つばを逆向けにした野球帽であった。ハリウッドでは、200作品を超える映画とテレビ番組に出演し、オブライアンの弟ソニーを名乗ることもあった、端役俳優フランク・マーロウを盗んだ女性用コートでスマキにした騒ぎに参加した。
終焉は突然に、呆気なく訪れた。1941年10月、強盗の嫌疑をかけられて一人の警官と対峙した。ロサンゼルス・タイムズ紙の記事では「典型的なレスラーのやり方で」警官を攻撃したという。病院送りにされて、数日後に亡くなった。32歳の若さだった。
死後に、亡き夫の自由奔放で無謀な生き様が、自らの首を絞めることになったと、妻はスチュアート・ミラーにこぼした。店内を物色して、プレゼント用にファーコートをひったくって、女友達の気を惹こうとしていたのは明らかだった。呼びとめた警官に乱打されたとのことで、そのまま意識を回復しなかったと、ミラーは語った。
「いつも問題を起こしていましたから、いつも渦中に巻き込まれ、イザコザが絶えませんでした。周囲に絶えず試練を課していたんだと思います。恐れるものは何もありませんでした。抜群のショーマンでした。なんでもやりました。あんな人は二人と見たことがありません」

ロード・ランスダウン LORD LANSDOWNE

“ネイチャーボーイ”リック・フレアー以前に、“ネイチャーボーイ”バディ・ロジャースがいた。バディ・ロジャース以前に、ゴージャス・ジョージがいた。そしてゴージャス・ジョージ以前には、英国貴族“ロード(卿)”となり、ハリウッドの精鋭と交際し、2件の殺人事件に巻き込まれ、プロレスを変革した、オハイオ出身の発想力豊かな男がいた。ウィルバー・フィンランはロード・パトリック・ランスダウン・フィニガンとなり、最初のキザな色男であり、入場曲、リング上でのスプレー噴射、インターバル中のティーブレイクといった新機軸を導入した天才であった。ランスダウン全盛期の異常な盛り上がりを、オハイオのスポーツ記者ビル・スナイプは、1930年代の偉大なる淑女のアイドルになぞらえた。「我々は最盛期のジム・ロンドスを見てきた。ロンドスは当時としては抜群のショーマンであり、現在においてもである。しかしフィニガンのふるまいを5分も見れば、その晩はロンドスを忘却の彼方に追いやってしまう」
1905年にオハイオ州スプリングフィールドで生まれ、少年時代は後に売れっ子となった要素である、軟弱で傲慢なロンドン子らしい側面は微塵もなかった。スプリングフィールドの教区立学校に在学中、地元のYMCAで体操、水泳、レスリングに没頭した。10代の頃、家計を支えるために新聞を売り歩いており、娘のリタ・ヘルゼルによれば、フィニガンが幼い頃、父親はカリフォルニアに夜逃げしたという。
印刷工として働いていた1920年代末、地元の前座試合でデビューし、すぐに当時のウェルター級の第一人者であったジャック・レイノルズの子分となった。以後数年内に、プロレス界の人脈と豊かな発想力が相乗効果をもたらし、スターダムに飛躍した。1932年まで、オハイオ州コロンバスのプロモーター、アル・ハフトの元で、アイルランド系の英雄パット“デューク”フィニガンを演じた。顔が売れてくるにつれて、貴族階級を“デユーク(公爵)”から“ロード”フィニガンに昇格させたデトロイトでは、王者レイノルズに挑戦した選手権試合で、プロモーター、アラン・ワイスミューラーの不人気興行圏において、連続満員なし記録を184回で終わらせた。当日の記録では、フィニガンが興行収入4,500ドルをもたらしたとされており、当時としては驚異的な金額であった。
レイノルズに帯同した1933年晩夏のオクラホマ巡業では、完全な英国人に変身し、長マントに片眼鏡のロード・パトリック・ランスダウン・フィニガンとなった。翌春、レイノルズとともに裁判沙汰に遭遇した。レイノルズの妻と別の男性が2件の銃器を用いた過失致死事件に関与したことで、アショナル・レスリング・アソシエーションは1934年4月、レイノルズがシンシナティでフィニガンと対戦することを禁じた。レイノルズは無罪放免となったが、数か月以内に、二人は西に飛んだ。
遠征は大成功であった。新たにロード・ランスダウン・オブ・イングランドを名乗り、ラバーマン樋上に挑戦した1934年10月のハワイ遠征では、観客を熱狂させた。巻き毛を整え、眼窩に片眼鏡をはめ込み、実在しない名家バーリントン家の後継者であると吹聴した。自称王政主義者は、音楽付きで入場する史上初の尊大なレスラーとなり、様々な新聞雑誌記事によれば、入場する際にプロレス会場で楽団に、自らの号令一下「ゴッド・セイブ・ザ・キング」を演奏させていた。
先進的な才覚と、俊敏な身のこなしにより、全身汗まみれの80キロは、小柄な選手の中でも突出した存在となった。14年間無敗であったとされるレイノルズを、1935年1月サンフランシスコで下してウェルター級王座を奪取して、現役時代最高の大金星を挙げた。梃子の原理を応用した技、アームバー、フライングメイヤーの連発からスウィンギング・ネックブリーカーに移行する必殺技ランスダウン・スペシャルで有名となり、ロサンゼルス・タイムズ紙は「ヘビー級部門のジム・ロンドスに匹敵する、軽量級部門の人気選手になりうる兆候がある。試合後は、サインを所望する女性ファンに取り囲まれて、控室に戻るのに30分を要する」と述べた。
役柄を徹底的に演じた。ややこしいリングネームに関して、ロサンゼルス・タイムズ紙のブレーベン・ダイアーに、素性は英国サマーセット出身の本名P・ランスダウン・フィニングトンであるが、これは無知な中西部の記者には重荷に過ぎると説明した。「名字のせいなんだろうが、記者によっては実に厄介な問題を抱え込むことになる。ロード・フィニガンとさえ書いてもらえれば、いちいち訂正してやらんでも済むからな」
しかしながら、この頃既に、プロレス界の枠を超えて知られた存在になろうとしていた。1935年12月、友人の俳優チャールズ・ヨークとともに、売出し中の若手ハリウッド女優テルマ・トッドと同伴してカクテルパーティに出席することになり、二人で英国貴族のフリをすることにしていた。ハリウッドに数ある推理小説ばりのミステリー事件として、パーティ当日の夜に、トッドが一酸化炭素中毒死した姿で発見された。“ホット・トッディ”と最後に会話した一人と目されたことから、大陪審の調査前に証言を指示された。大陪審長はランスダウンの陳述を拒否し、単なる売名行為と切り捨て、死因は事故死として結審した。しかし、O・J・シンプソン事件に見られたように、未解決事件は世間の注目をとどめることになる。
ギミックをさらに洗練させて、よりヒール的に演じるに従い、現在までレスラーが模倣しているアピールと小芝居を導入した。衣装は流麗な紫のビロードのガウンと、その下にこれ見よがしに着ていた黒のチュニックであり、総額2,000ドルであったとされる。ツウィードルズ、ツウィットルズ、ジーブズと様々な呼称があった、一人か二人の従者を従えていた。従者が不注意にも衣装をリング外に落としてしまうと、激怒したランスダウンが即刻中断を命じ、ガウンの正しい折りたたみ方を示したが、これは最初期の時間稼ぎ作戦である。リングに入ると、マットの状態を調べて、必ず臭いだの不潔だのと難癖をつけて、従者に噴霧器を用いてのマットの状態修復を命じていたが、この噴霧器はレフェリーや対戦相手への攻撃用にも用いられていた。
これらのギミックは、ハリウッドの業界紙バラエティ紙の注目を浴びるほどの好評を博し、コロンバスの寄席演芸を復興させる救世主となるべき逸材とまで絶賛された。米国銀行業会報でさえ、1938年にケンタッキー州ルイビルで行われた試合を取り上げた。「試合開始のゴングが鳴った。卿は数歩進んでから、右手を掲げ、自分は準備不足であると告げた。それから、妙な動きの運動を始めて、これはコサック式準備運動であるとうそぶいた。こうなると観客は熱狂的になり、あとは言わずもがなである。会場は満員御礼で、続く8週間も札止めである」 しかし、間違えてならないのは、ランスダウンは単に紅茶をすすっていたのではなく、1930年代を代表するスポーツ・エンターテイナーであった。マット上での技術は全土の記事で盛んに取り上げられていた。ユタ州ソルトレイクシティのデザート・ニューズ紙のハワード・ピアソンは、「ランスダウンは史上最も洗練され、最も機敏なレスラーである」と評した。
オハイオに遠征してきたジョージ・レイモンド・ワグナーがランスダウンと何度か対戦して、神経質な潔癖症の悪党に注目した1937年末から、プロレス史上に残した最大の影響が始まった。後年、世界王者ルー・テーズはワグナーから、ゴージャス・ジョージへの変身、全土を熱狂させた従者、噴霧器、潔癖症でイライラさせるなどはランスダウンから拝借したと聞かされたと語った。実際、ランスダウンとワグナーは友人であり、卿は現役晩年にジョージと同じく、「威風堂々」を入場曲に使用していた。ゴージャスなる者は、ランスダウンをコロンバスに訪ねてもいた。ヘルゼルによれば、「何度か起こしになって、お父さんに会っていました。その頃は、髪に刺さっているボビーピンに憧れていました。まだ幼い頃でしたから、詳しいことは分かりませんでしたが、とにかく圧倒されていました」
後にグレート・メフィストとして有名になったフランキー・ケインは、コロンバスの会場でプログラムを売っていた少年時代に、ランスダウンを初めて見た。60年を経てからも、新世代個性派レスラーの先駆者としてランスダウンの思い出が蘇るほど、衝撃を受けた。「少年時代に見て、すっかり虜になってしまいました。リングに登場するだけで、信じがたいものがありました。こんな入場があるのかと。ギミックを用いるレスラーを初めて見ました」
1941年頃から活発な遠征を控えて、広範な事業展開に専念するようになった。オハイオ州スプリングフィールドとデイトン、フロリダ州サラソタに高級感あふれるラウンジとサパークラブを所有し、ジーブズの一員であった礼節の執事ジャック・ロジャースがバーテンダーを務めた。娘によれば、一時期の保有資産は50万ドルほどであったという。フロリダでは、会場が盛り上がらないときは、ジョニー・カーソンが扮したカルナック・ザ・マグニフィセントみたいなマハラジャの格好をしたシャロマーの白ラジャを演じて気晴らししていた。
carnacthemagnificent
成功と喝采を追い求める途上にありながら、過酷な悲劇と苦痛に見舞われることになった。当時24歳の妻ジーンが1941年1月、若くして結核で亡くなった。1950年7月、コロンバスに登場して、大暴れを繰り返したアンジェロ・ポッフォから反則勝ちを収めた。しかし、試合直後から活発な身体活動の維持が困難になり、歩行さえできなくなった。マヨ医院に行って、1951年頃にルー・ゲーリッグ病として知られるようになった、筋萎縮性側索硬化症と診断された。娘によれば、「ずいぶん落ち込んだと思いますよ。私は幼くて、何が進行中で、今までしていたことが突然できなくなってしまうってことが、どういうことか理解できませんでした」 病状が収まることはなく、動くことも話すこともままならないまま、1959年11月にコロンバスの自宅アパートで、54歳で亡くなった。その存在が現在ではほとんど忘れ去られてしまっていることは、かつての輝きを考えると少々の驚きを禁じ得ない。とはいえ、コロンバス・イブニング・ディスパッチ紙が死亡記事に寄せたとおり、フィンランの革新的個性は「現在の魅力あふれるレスラーの嚆矢であった」

ダッチ・マンテル DUTCH MANTELL

現在のプロレスファンが知るダッチ・マンテルは、テネシーのトップスターとして活躍し、トータル・ノンストップ・アクションをはじめとした複数の団体で、裏方の制作面で手腕をふるった。
しかし、現在の“ダーティ・ダッチ”(ウェイン・コーワン)が有名になる50年前、こちらは名字の末尾にLが重なる初代ダッチ・マンテルは、史上類まれなる集客力を誇ったヒールの第一人者であった。
マンテルの伝記を書いたH・アレン・アンダーソンによれば、1881年にルクセンブルグで生まれたアルフレッド・デ・ル・ラ・ガルドゥールは、父の米国旅行記を熱心に聴きいて、少年時代に旅心を募らせたという。1891年に父親が亡くなると、一時期ドイツの叔父と一緒に暮らし、14歳の時に、英国商船で密航して大西洋を渡った。オーストラリアに上陸して、ボクシングとレスリングをやり、名前の由来となった、友人で師匠でもあった俳優ロバート・B・マンテルと出会った。
1990年に米国上陸を果たし、東海岸でプロレスをしてから、海軍に入隊して、米国市民となった。軽量級選手で、体重70キロ以上とサバを読むこともあったが、当時としては荒っぽいとされた戦法であるパンチ、蹴り、目突きにより突出した存在となり、観客を刺激する芝居をしていた。チャールストン・ガゼット紙に「プロレス界のロン・チェイニー(無声映画時代の怪奇俳優)」と評された。
1913年から1915年にかけて、マック・セネットの無声コメディ映画「キーストン・コップス」に出演して、銀幕に登場した最初期のレスラーとなったが、程なくしてプロレス巡業に戻った。“ラフハウス(大混乱)”マンテルとして有名であった頃、65キロ級で無謀にも自分に挑戦する条件で1,000ドルを用意して、観客を煽った。アンダーソンは「テキサス・ハンドブック」の中で、「マティ・マツダやジャック・レイノルズといったウェルター級の大物を下したが、粗野で、観客を煽ったりするので、正式に選手権者として認定されることはなかった」と解説した。1972年、ドリー・ファンク・シニアはジミー・ドッドソン記者に「葉巻をふかしていて、ゴングが鳴るや否や、相手の目に葉巻を押し付けて、リングに嵐を巻き起こす、そんなレスラーだった」と語った。
1920年代初め、テキサス州内を巡業中に、野球選手兼レスラーのカル・ファーリーと知り合った。リング上では敵対していたが、二人は意気投合して、マンテルはアマリロに定住するようになった。ハイヒールブーツにソンブレロ姿、大きな警察犬を連れて近所を散歩していると、ハーメルンの笛吹き男のごとく、ちびっこがついてきた。そんな少年の一人で、スポーツ記者となったジョン・ブルーマーは、マンテルがいつも犬の8歩後ろを注意深く保って散歩していたことを知っており、後年「脅迫的な態度も、マンテルの魅力を増すだけだった」と記した。マンテルはファーリーのタイヤ事業を支援し、ファーリーの人気ラジオ番組にたびたび出演し、二人でアマリロのプロレス興行を共同運営した。とりわけ、二人が情熱を注いだのは、支援を必要とする子どもの保護育成であった。マンテルと地元有力者の協力を得て、ファーリーは地域の子どもたちに生産的な活動の場を提供するために、マベリック少年少女クラブ及びキッズ株式会社を設立した。最終的に、ファーリーの将来展望は1939年、問題を抱えた若者を危険な街頭と劣悪な環境から隔離する、有名なカル・ファーリー・ボーイズ牧場設立へとつながった。現在でも、同牧場は子ども向けの地域社会に根差した活動として国際的に高い評価を得ている。
マンテル個人でも、少なくともリング外では、人々に惜しみなく支援の手を差し伸べていた。マンテルは生涯に50万ドルほど稼いだのではないかと見積もったことがあったが、ニュースペーパー・エンタープライズ・アソシエーション(NEP)通信によれば、財産を放棄したため、最終的に友人たちが融資を引き継いだほど、気前よく融資していたという。ファーリーの牧場が設立認可を受けて1年後の1940年、ガンに襲われた。1941年1月31日没。所有物は小さなアパートと1台のクルマだけだった。すべては、本人の遺志により、マベリック・クラブとカル・ファーリー・ボーイズ牧場に捧げられた。AP通信はプロレスラーであったことと、心からの思想信条の両面を追悼した。「各地の恵まれない子どもたちの仲間であり、対戦相手をいたぶる姿を見せられたファンの人気者であった」

K・O・コバーリー K.O.KOVERLY

kokoverly
右アッパー、左フック、そして豪打一閃!1930年代初めから1950年代末にいたる一流レスラーのすべてが、"K・O"とあだ名される所以を知っていた。セントルイス出身の104キロの男は、軟弱な前腕部の打ち合いを良しとせず、両拳に宿る才能を頼りに、現役生活25年間の大半において、北米各地のメインイベントを飾った。
1902年11月3日、ユーゴスラビアで生まれたゴッジョ・コバチェビッチは、少年時代に両親とともにカナダに移住し、その後米国に移住した。一家は大規模な東欧系共同体が存在するセントルイスに定着した。コバーリーは打撃を主体とする2種類のスポーツ、ボクシングとレスリングの二刀流に挑戦した。1932年6月、サクラメントで行われた前座試合でジョー・サルボを2回KOで下し、2週間後に、ジョー・キャスパーに4回判定負けを喫した。同時期、より相応しい愛称“K・O”を冠する以前、“ハンサム”ジョージ・コバーリーとしてプロレスもしていた。オークランド・トリビュート紙のアラン・ワード記者に強い東欧訛りで、「プロレスはプロボクシングより断然きつい」と語ったが、超一流選手として必要なパンチに耐える能力に欠けるとの指摘も当時あった。
両拳にテープを何重にも巻いており、これは医師の指示であり、何度も指関節を骨折したため、しっかり握るためにテーピングが必要だとしていた。もちろん、テープは対戦相手の両目を引っ掻くために使用しており、ノックアウトを呼び込む必殺の強打に備えて、テープを水に浸していた。カリフォルニアでは、1940年代中頃にサンフランシスコ版太平洋沿岸ヘビー級王座を3度獲得し、主な抗争相手はディーン・デットンであった。試合に敗れる場合は大抵、1937年2月にニューヨークにおいて、スティーブ“クラッシャー”ケーシーとレフェリーのジョージ・ボスナーを殴打KOしてしまい、警官に警護される羽目になったときのように、反則負けである場合が多かった。勝利した場合でも、なかなかリングから離れようとせず、紙コップ、飲料、硬貨が雨あられと降り注ぐ中、悠然と歩き回り、観客を小馬鹿にして、誰の警告にも耳を貸さなかった。ニューヨーク・タイムズ紙のルイス・エフラットによれば、これにより“ワンマン・ギャング”として有名になった。
登場すればどこでもファンの暴動を誘発し、トロントで“ダーティ”ドン・エバンスと乱闘後、観客に囲まれて葉巻で焼印を押され、5分ほどの暴動騒ぎとなった。ワシントン特別区では、悪役のラバーン・バクスターを、試合前の注意事項説明の際にレフェリーの肩越しに左一閃して失神させただけで、ヒーローに仕立て上げた。プロモーターのジョー・ターナーはコバーリーを公然と罵倒して、「コバーリーが再度リングサイドの観客と口論しようものなら、地元で開催される試合においては、口をつぐませるだけでなく、永久失格とする」と述べた。
強打者の最も有名な試合は1938年8月、ロサンゼルスで行われた五輪アイルランド代表選手ドクター・パトリック・オカラガンとの一戦であった。赤ら顔のオカラガンは1928年と1932年夏季五輪ハンマー投げで金メダルを獲得し、アスリートとしての実績と民族的訴求力により、世界選手権者を自認していた。コバーリーと対戦するまで、米国各地の巡業で連戦連勝を重ねていた。ロサンゼルス・タイムズ紙に長年スポーツコラムを執筆しているブレーベン・ダイアーは、舞台の初日でも観劇するかのような装いの“上流階級”の人々を招待して、これから上演される内容を自信を持って説明したと振り返る。
どういうわけか、内容がコバーリーに伝わっていなかった。本人の意志かプロモーターの指図かは定かでないが、コバーリーは“アイルランドの野性のバラ”を完膚なきまでに叩きのめした。戦慄したダイアーの友人は、プログラムごしに惨劇を覗き見ることさえままならなかった。ダイアーは、「まず、悲劇のパットの鼻に一発ブチ込んだ。赤ワインみたいな鮮血がほとばしる。それから、パットの両耳を攻撃する。3、4発強烈に叩きつけると、ドクターの耳がズタズタに切り裂かれた。ついにレフェリーが制止した。最も印象に残っていることは、パットが全く倒れなかったことである。K・O・コバーリーも然りであった」と記した。この事件はオカラガンの戯れプロレスを終わらせた反面、AP通信のエディ・ブライアツが「新しい大型かつ邪悪な飢えたプロレス・コンバイン」と命名したことで、コバーリーのイメージを強化した。的を外したパンチで誤ってテッド・コックスの顎を砕いてしまったことがあり、元世界王者のルー・テーズとビル・ロンソンは、迎撃した中でも屈指の乱暴者であったと回想した。
長年にわたり、セントルイスで人気のレストラン、ミューラル・ルームを経営しており、他所から遠征に来たスポーツチームが常連客となっていた。その店でも、パンチを繰り出していた。あるとき、ミューラル・ルームに入店した男が、怯えた常連客、ロンソンとその妻らの前で銃を振り乱し、ある女性と戯れの関係にあるとの理由で、コバーリーを銃撃すると脅した。ロンソンの息子ディックによれば、「ジョージは例によって取り乱す様子もなく、『ここで騒ぎを起こさないでくれよ。外に出ようか』と言いました。二人で店外に出ると、ジョージはパンチ一発で男を葬り、さっさと失せろと告げました。正真正銘のタフガイでした」
テーズはコバーリーと知り合ってから意気投合し、拳骨を無制限に駆使する面白い男と呼んでいた。テーズは「フッカー」の共著者キット・バウマンに、「ボストンで見たとき、リングを降りると観客が後をついてきたので、パンチを浴びせながら進んで、控え室までずっと、右やら左やらで一般人をなぎ倒していた」と語った。またあるときは、コバーリーに店から叩き出された男が戻ってきて、K・Oの背中に銃を突きつけた。テーズがバウマンに事の次第を述べた。「男は『てめえ、この野党、表に出やがれ!』と。二人がドアを抜けると、ジョージは男をどうにかして罠に捕えて、銃を奪い、男に強烈な一発を浴びせてから、警察に通報した。ジョージってのは、窮地に追い詰めて怒らせてはいけない男だった」
ニック・ボックウィンクルは、カリフォルニアでプロレス入りして間もない頃、父親のウォーレンと対戦したコバーリーを見た。「少々癖があって、少々不可解な人物でしたが、破壊主義的というわけではありませんでした。でも試合で対戦することになったら、身の安全を第一に考えた方がいいでしょうね」
1950年代中頃まで現役を続けてから、何年間かラスベガスのホテルで警備員を務めてから、カリフォルニア州サンタモニカに隠棲して、地元の公園でチェスに興じていた。1989年没。

エイブ“キングコング”キャッシー ABE "KINGKONG" KASHEY

abekashey
対戦相手を倒せないならば、レフェリーを倒せばいい。1938年3月にマニトバ州ウィニペグで、新進気鋭のルー・テーズと対戦したエイブ・キャッシーの胸中に、こんな考えが浮かんだ。テーズに4回も場外に転落させられたキャッシーは、レフェリーのアレックス・スチュワートを記者席に投げ捨てて、レッグロックで喉元を締め上げて応戦した。キャッシーにとってはいつも通りに、反則負けが宣告され、足早に退却する途上で食べ物の集中砲火を浴びた。
これがエイブ“キングコング”キャッシーのお決まりの仕事であった。1930年代から1950年代にかけて、不明瞭で邪悪な響きのある発音、毛深くて威嚇的な風貌、ファンを楽しませ、激怒させた裏切りの才覚によって、シリアの暗殺者はプロレス界屈指の悪役であった。1903年11月28日、シリアに生まれ、製鉄所勤務とアマチュア重量挙げ選手を経て、1930年ころにプロレス入りした。アマチュア時代に大都会ニューヨーク地区で名が売れており、プロレス入りした当初はワシントン特別区で“ターク・アバド・カッサー”を名乗っていた。
トニー・ステッカーが興行運営していたミネアポリス地区で自身最大の成功を収め、プロレス史家ジェームス・C・メルビーによれば、「同団体最初の本物の大スター」であった。キャッシーの試合ぶりに関して、ブレイナード・デイリー・ディスパッチ紙がまとめている。「レスリングのルールブックの内容を熟読して真面目に実行に移さないことで評判が悪く、リング上の戦いに関する規則に敢然と反抗している」 それでも、必殺技としてのアトミックドロップを有名にしたキャッシーは、自身は扇動家ではないと否定した。新聞のインタビューに、「何の挑発もなしに、レスリングのルールを破ったことなど、生涯一度たりともない。とどのつまり、身を守るためなら違法じゃない、正当防衛ってことだ」と答えた。
最初期の大物ボクサーとレスラーの対決において、見事に身を守った。1934年10月、ジャック・デンプシーが特別レフェリーを務めた、ミネアポリスに8,000人の絶叫する大観衆を集めた一戦で、ミネソタのヘビー級ボクサー、チャーリー・レツラフを相手に、3ラウンドKO負けの危機を脱して、4ラウンドでピンフォール勝ちを収めた。2日後、ウィスコンシン州ラクロスにおいて、キャッシーが対戦相手を片付けてから、矛先を元世界王者のレフェリーに向けたことで、デンプシーとキャッシーの殴り合いに発展した。(レツラフは1940年にノースダコタ州ファーゴにおいてキャッシーにKO勝ちして、雪辱を果たした。) 1940年代には映画にも出演し、ターザン映画のトンゴロ・ザ・テリブルはハマリ役であった。
レフェリーとの諍いは、キングコングとレフェリーのアル・ステッカーに、お互いの悪口を言っていると伝えてけしかけた、人気者サンダー・ザボーが仕組んだ悪戯に発展した。カリフォルニア州サクラメントの会場で、ザボーはキャッシーがステッカーを叩き潰すつもりだと密告し、先制攻撃を仕掛けろと進言した。キャッシーが報復すると、驚いたプロモーターのジョー・マルセウィッツは、自身の目玉商品が倒れこんだステッカーの助太刀に入った姿を目撃した。キャッシーはいつもの不明瞭な口調で、「俺は紳士だから、倒れてる間は攻撃しねえ」と大声を張り上げた。マルセウィッツはUPI通信に、「サンダーは、笑いが止まらなかった」と語った。
ビル・ウィックスは、キャッシーから教えを受けた1950年代初めのことを振り返った。ウィックスはマニトバ州ブランドンでデビューしたばかりだった。「アル・ミルズに悪い冗談を言われたんです。『よお、ウィック、今夜はジジイにやられちまうな。ジジイキングコングにやられちまうな。毛布みたいにくるんでくれるよ」って。アマレスの好選手であったウィックスは、基本的な技を2回試したが、ロープに逃げられた。「レフェリーが解きに来て、解く直前、私は両手両膝をついていて、エイブは私の鼻にエルボーを叩きこみました。バンッ!叩きこまれました。『おい、ガキ、これはプロレスだ。アマレスじゃねえ』と言われました。すぐに意味が理解できました。隙を見せたら、オジサンは一発かましてくるんです」
北米全土でディック・レインズと伝説的な抗争劇を演じ、1950年にはミスター・モトと組んでカリフォルニア州タッグ王者となった。1949年には後の王者バーン・ガニアのデビュー戦の相手を務めた。1953年1月2日にセントポールでガニアと再戦し、レスラーのビク・ホルブロックが特別レフェリーを務めた。ガニアは既にトップに君臨しており、試合前の乱闘で、キャッシーがホルブロックの目の下から流血させたことで、観衆がリングに殺到した。
大悪党も、息子のアルがプロレス入りした現役生活晩年には少々柔和になった。1952年に初めて親子タッグを組み、その後主戦場とした中西部では、皮肉にもレフェリーを務めていた父親が、アル・ミルズとタイニー・ミルズに蹂躙されていたところを、アルが観客席から飛び出して救出した。1950年代半ばに頻繁に親子タッグを組んでから、エイブは1958年頃に引退した。親子はカリフォルニアで健康ダンス教室も運営した。引退してからも、“キングコング”は恐ろしい風貌をしていた。「祖父は子どもからすると、怖いオジサンでした」と語った孫のバレント・ジェイコビアは、祖父と祖母のマージは二人揃って、元気な大声を張り上げていたと振り返った。「母さんに、奥の部屋で待っていなさいと言われました。で、祖父がどうしたと思いますか?僕を探しにくるんです。『どこだ、バレント』って。祖父はいつも1ドル銀貨をくれました。何枚銀貨をもらったか分からないくらいです。16歳の時、僕は初めてクルマを買ったんですが、購入資金の一部はおじいちゃんの1ドル銀貨貯金でした」
1965年9月24日、心不全によりロサンゼルスで亡くなった。息子は数年間プロレスを続け、アリゾナに入植して、不動産事業を成功させた。中西部を拠点とするアメリカン・レスリング・アソシエーション所属時代に、夏季になると家族を同伴して、ウィスコンシンで親戚と過ごした。アルは2005年に亡くなった。
プロフィール

nijikkenya

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ