全階級を通じて、バディ・オブライアンより短期間で、より多くの騒乱を発生させたレスラーは、プロレス年鑑をめくっても見つけられない。65年以上経過した現在、短い人生の一部に、親類縁者でさえ不明な謎が残されたままとなっているが、なんでもあり型プロレスの父祖であることは確かである。以下の記事を引用する。
1936年11月 アリゾナ州フェニックス
バディ・オブライアンはトランクスから紙束を取り出し、着火して、燃え盛る煤煙を対戦相手アル・ハファートの両目に擦り付けた試合後、留置所で一晩過ごした。レフェリーもKOした。公共の建造物内で着火したことにより逮捕された。
1937年9月 カリフォルニア州サンタモニカ
バディ・オブライアンがロープでラバーン・バクスターの手首を拘束して、非常識にも壊れたリングサイドのベンチの破片で滅多打ちにして1時間以上経過してから、警官隊は会場を取り巻く、2,600人以上の平常心を失ったファンに対する警備を続けていた。
1938年1月 カリフォルニア州エル・リオ
冷凍の世界記録26分40秒を破るとした企画において、バディ・オブライアンは2,200キロの氷の下に埋葬されたが、わずか1分少々しか持たなかった。脱出した際、137キロの氷塊がマット上を滑走して女性客に衝突する寸前となり、冗談があわや惨劇になるところであった。
1909年にニューヨーク州北部で生まれたアーランド・C・ミラーことオブライアンにとって、この類の暴力沙汰は日常茶飯事で、実のところ、リング外の人格もその延長線上にあった。弟のスチュアート・ミラーが笑いながら語った。「ショーマンでしたね。現在のプロレスで行われている多くのことの元祖でした。正直、今のレスラーよりもずっと悪どいことをしていましたね。何だってやりました。いつだってトラブル上等でした。でも心の広い人でしたよ」
大家族に囲まれて育ち、14人兄妹であった。少年時代、運動に熱中し、ニューヨーク州サザンティア郡ウェルズバーグ近郊の自宅近くの、起伏のある鉄道線路上を走っていた。ミラーによれば、「兄が16歳か17歳の時だったと思いますが、兄のトレーニング風景を覚えていますよ。冬場に短パン、手袋姿で、鉄道線路上を走っていました。それが兄のトレーニングでした」
消火栓のように、背は低くともガッチリした体格をしており、ニューヨーク州エルミラ近郊でボクサーとして少々の実績を積んでから、大恐慌時代にカリフォルニアに移ってレスラーに転向した。
容貌がアイルランド系に似ていたことからアイルランド風の名字に改め、そして、悪役レスラーとして大事なことなのだが、容易に鼻血を流せることから、“ブラディ”バディ・オブライアンと名乗った。
1936年までに、集客力のある暴れん坊はリング・マガジン誌の年間ランキングにおいて、国内のウェルター級の有力選手に挙げられており、王者であるジャック・レイノルズ、ジョニー・ストーテ、“ワイルド”レッド・ベリーらに近い位置にいた。メインイベントを飾るようになると、非常識極まりない行動は伝説の域に達した。人気者ニック・ルッツェと対戦した試合では、チョーク攻撃を繰り返し、タバコ袋から取り出した粉末をルッツェの両目に押し込み、スツールを投げつけ、試合終了後にはタオルで首を絞めた。ある記事によれば、この光景に「6人か8人の」のファンがオブライアンを制裁すべくリングに乱入したという。フェニックスでの機先を制した目潰し攻撃は、「リプレーのビリーブ・イット・オア・ノット」の記事にされ、同月にカリフォルニア州ベンチュラでは、警察当局に退場を命じられた腹いせに、カイモン・キュードーの両目を花束で攻撃して暴動を誘発したとして、審判団から罰金100ドルを課された。シアトルでは、リング上に石鹸を持ち込んで、レフェリーの背後でスタン・メイスラックの両目にこすりつけ、レフェリーが振り向くと石鹸を口に隠した。ベンチュラ郡スター紙のラリー・マルバニーは、「業界最高峰のレスラーではなかろうが、最も嫌われている」と結んだ。
1936年9月の試合では、セコンドのふりをして、サンダー・ザボーを目潰しするために、かのドン・レオ・ジョナサンの父であるブラザー・ジョナサンに紙やすりを差し込んだ。その後に発生した騒乱を鎮圧するために、地元の警官隊は催涙弾を発射した。試合後の暴走を抑止すべく、警官隊が投入されるのは日常茶飯事であった。カリフォルニア州体育委員会も監視の目を光らせており、1937年から1940年にかけて、少なくとも4回の出場停止処分を受けた。ワシントン州とオレゴン州では、ジェネラル・ハロルド・オブライアンを名乗っていた。1937年10月にシアトルで、リング上でドロシー・キング・オブ・ハリウッドと挙式した同じ晩に、メインイベントの最中に狂暴化して、粉末でパット・フラレーの両目を潰して、レフェリーも滅多打ちにした。シアトル地区で長年スポーツ記者とラジオ番組の司会を務めるプロレス史家J・マイケル・ケニョンは、「太平洋沿岸を北から南まで、大規模暴動を誘発しなかったなんていう、第二次世界大戦前の時代の試合記事を、一つも読んだ記憶がないよ」と語った。
弟によれば、父親を除いて、悪党は家族と緊密な関係を築いており、遠征からお土産持参で帰ってきたという。しかしそこでも、事件とは無縁でいられなかった。ニューヨーク州ケマング郡に帰ってきたとき、家族の居住地近くで闘鶏が行われていることを知った。弟によれば、「雄鶏は非常に高価でした。なので、雄鶏を盗んできました。所有者は新聞に広告を出して、懸賞金付きの大きな広告でしたから、兄は返しに戻って、あっちこっちから雄鶏を捕まえてきましたよ、なんて出鱈目を言っていました」
一連の馬鹿騒ぎに近隣住民は迷惑しており、警察を呼んで対処を依頼した。しかし警察がミラー家を訪問すると、オブライアンは忽然と姿を消していた。弟によれば、「大きなソファがありましてね、その当時に革張りですよ、背もたれを倒すとソファベッドみたいになりました。マットレスを取り外して、アーランドが中に潜り込みました。州警察が来てソファに座るんですが、兄はその中にいるわけです。胆の据わり方が違うでしょ」
西海岸に戻っても、相変わらずの反則三昧であった。治安妨害容疑で出廷した際の服装は、明るい青シャツにバギーパンツ、派手な柄のサスペンダー、つばを逆向けにした野球帽であった。ハリウッドでは、200作品を超える映画とテレビ番組に出演し、オブライアンの弟ソニーを名乗ることもあった、端役俳優フランク・マーロウを盗んだ女性用コートでスマキにした騒ぎに参加した。
終焉は突然に、呆気なく訪れた。1941年10月、強盗の嫌疑をかけられて一人の警官と対峙した。ロサンゼルス・タイムズ紙の記事では「典型的なレスラーのやり方で」警官を攻撃したという。病院送りにされて、数日後に亡くなった。32歳の若さだった。
死後に、亡き夫の自由奔放で無謀な生き様が、自らの首を絞めることになったと、妻はスチュアート・ミラーにこぼした。店内を物色して、プレゼント用にファーコートをひったくって、女友達の気を惹こうとしていたのは明らかだった。呼びとめた警官に乱打されたとのことで、そのまま意識を回復しなかったと、ミラーは語った。
「いつも問題を起こしていましたから、いつも渦中に巻き込まれ、イザコザが絶えませんでした。周囲に絶えず試練を課していたんだと思います。恐れるものは何もありませんでした。抜群のショーマンでした。なんでもやりました。あんな人は二人と見たことがありません」
1936年11月 アリゾナ州フェニックス
バディ・オブライアンはトランクスから紙束を取り出し、着火して、燃え盛る煤煙を対戦相手アル・ハファートの両目に擦り付けた試合後、留置所で一晩過ごした。レフェリーもKOした。公共の建造物内で着火したことにより逮捕された。
1937年9月 カリフォルニア州サンタモニカ
バディ・オブライアンがロープでラバーン・バクスターの手首を拘束して、非常識にも壊れたリングサイドのベンチの破片で滅多打ちにして1時間以上経過してから、警官隊は会場を取り巻く、2,600人以上の平常心を失ったファンに対する警備を続けていた。
1938年1月 カリフォルニア州エル・リオ
冷凍の世界記録26分40秒を破るとした企画において、バディ・オブライアンは2,200キロの氷の下に埋葬されたが、わずか1分少々しか持たなかった。脱出した際、137キロの氷塊がマット上を滑走して女性客に衝突する寸前となり、冗談があわや惨劇になるところであった。
1909年にニューヨーク州北部で生まれたアーランド・C・ミラーことオブライアンにとって、この類の暴力沙汰は日常茶飯事で、実のところ、リング外の人格もその延長線上にあった。弟のスチュアート・ミラーが笑いながら語った。「ショーマンでしたね。現在のプロレスで行われている多くのことの元祖でした。正直、今のレスラーよりもずっと悪どいことをしていましたね。何だってやりました。いつだってトラブル上等でした。でも心の広い人でしたよ」
大家族に囲まれて育ち、14人兄妹であった。少年時代、運動に熱中し、ニューヨーク州サザンティア郡ウェルズバーグ近郊の自宅近くの、起伏のある鉄道線路上を走っていた。ミラーによれば、「兄が16歳か17歳の時だったと思いますが、兄のトレーニング風景を覚えていますよ。冬場に短パン、手袋姿で、鉄道線路上を走っていました。それが兄のトレーニングでした」
消火栓のように、背は低くともガッチリした体格をしており、ニューヨーク州エルミラ近郊でボクサーとして少々の実績を積んでから、大恐慌時代にカリフォルニアに移ってレスラーに転向した。
容貌がアイルランド系に似ていたことからアイルランド風の名字に改め、そして、悪役レスラーとして大事なことなのだが、容易に鼻血を流せることから、“ブラディ”バディ・オブライアンと名乗った。
1936年までに、集客力のある暴れん坊はリング・マガジン誌の年間ランキングにおいて、国内のウェルター級の有力選手に挙げられており、王者であるジャック・レイノルズ、ジョニー・ストーテ、“ワイルド”レッド・ベリーらに近い位置にいた。メインイベントを飾るようになると、非常識極まりない行動は伝説の域に達した。人気者ニック・ルッツェと対戦した試合では、チョーク攻撃を繰り返し、タバコ袋から取り出した粉末をルッツェの両目に押し込み、スツールを投げつけ、試合終了後にはタオルで首を絞めた。ある記事によれば、この光景に「6人か8人の」のファンがオブライアンを制裁すべくリングに乱入したという。フェニックスでの機先を制した目潰し攻撃は、「リプレーのビリーブ・イット・オア・ノット」の記事にされ、同月にカリフォルニア州ベンチュラでは、警察当局に退場を命じられた腹いせに、カイモン・キュードーの両目を花束で攻撃して暴動を誘発したとして、審判団から罰金100ドルを課された。シアトルでは、リング上に石鹸を持ち込んで、レフェリーの背後でスタン・メイスラックの両目にこすりつけ、レフェリーが振り向くと石鹸を口に隠した。ベンチュラ郡スター紙のラリー・マルバニーは、「業界最高峰のレスラーではなかろうが、最も嫌われている」と結んだ。
1936年9月の試合では、セコンドのふりをして、サンダー・ザボーを目潰しするために、かのドン・レオ・ジョナサンの父であるブラザー・ジョナサンに紙やすりを差し込んだ。その後に発生した騒乱を鎮圧するために、地元の警官隊は催涙弾を発射した。試合後の暴走を抑止すべく、警官隊が投入されるのは日常茶飯事であった。カリフォルニア州体育委員会も監視の目を光らせており、1937年から1940年にかけて、少なくとも4回の出場停止処分を受けた。ワシントン州とオレゴン州では、ジェネラル・ハロルド・オブライアンを名乗っていた。1937年10月にシアトルで、リング上でドロシー・キング・オブ・ハリウッドと挙式した同じ晩に、メインイベントの最中に狂暴化して、粉末でパット・フラレーの両目を潰して、レフェリーも滅多打ちにした。シアトル地区で長年スポーツ記者とラジオ番組の司会を務めるプロレス史家J・マイケル・ケニョンは、「太平洋沿岸を北から南まで、大規模暴動を誘発しなかったなんていう、第二次世界大戦前の時代の試合記事を、一つも読んだ記憶がないよ」と語った。
弟によれば、父親を除いて、悪党は家族と緊密な関係を築いており、遠征からお土産持参で帰ってきたという。しかしそこでも、事件とは無縁でいられなかった。ニューヨーク州ケマング郡に帰ってきたとき、家族の居住地近くで闘鶏が行われていることを知った。弟によれば、「雄鶏は非常に高価でした。なので、雄鶏を盗んできました。所有者は新聞に広告を出して、懸賞金付きの大きな広告でしたから、兄は返しに戻って、あっちこっちから雄鶏を捕まえてきましたよ、なんて出鱈目を言っていました」
一連の馬鹿騒ぎに近隣住民は迷惑しており、警察を呼んで対処を依頼した。しかし警察がミラー家を訪問すると、オブライアンは忽然と姿を消していた。弟によれば、「大きなソファがありましてね、その当時に革張りですよ、背もたれを倒すとソファベッドみたいになりました。マットレスを取り外して、アーランドが中に潜り込みました。州警察が来てソファに座るんですが、兄はその中にいるわけです。胆の据わり方が違うでしょ」
西海岸に戻っても、相変わらずの反則三昧であった。治安妨害容疑で出廷した際の服装は、明るい青シャツにバギーパンツ、派手な柄のサスペンダー、つばを逆向けにした野球帽であった。ハリウッドでは、200作品を超える映画とテレビ番組に出演し、オブライアンの弟ソニーを名乗ることもあった、端役俳優フランク・マーロウを盗んだ女性用コートでスマキにした騒ぎに参加した。
終焉は突然に、呆気なく訪れた。1941年10月、強盗の嫌疑をかけられて一人の警官と対峙した。ロサンゼルス・タイムズ紙の記事では「典型的なレスラーのやり方で」警官を攻撃したという。病院送りにされて、数日後に亡くなった。32歳の若さだった。
死後に、亡き夫の自由奔放で無謀な生き様が、自らの首を絞めることになったと、妻はスチュアート・ミラーにこぼした。店内を物色して、プレゼント用にファーコートをひったくって、女友達の気を惹こうとしていたのは明らかだった。呼びとめた警官に乱打されたとのことで、そのまま意識を回復しなかったと、ミラーは語った。
「いつも問題を起こしていましたから、いつも渦中に巻き込まれ、イザコザが絶えませんでした。周囲に絶えず試練を課していたんだと思います。恐れるものは何もありませんでした。抜群のショーマンでした。なんでもやりました。あんな人は二人と見たことがありません」