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1986年に腎臓病と診断され、大半をドイツ人の憎まれ役として過ごした現役生活を退いた。それからは闘いを別の方向に向けた。6年以上人工透析を受け、ようやくドナー(交通事故死した31歳男性)が見つかり、新しい腎臓を手にしたのが1996年だった。トニー・キャノンボール・パリシーはフォン・ヘスと何度も対戦した。パリシーの記憶の中のはヘスは、リング上では「超攻撃的」であった。「彼の相手をするときは、いっぱいいっぱいだったよ」と語るパリシーはプロモーターとして一度ヘスを起用した事もある。
ビリー・レッド・ライオンによると、「彼はこのビジネスに真剣に取り組んでいた。彼はいつでも万全の体調で臨んでいた。それはもう、驚く他なかった」
クルト・フォン・ヘスの名は世界中に響き渡っている。日本と南アフリカには数え切れないくらい遠征した。1970年代はジム・クロケットの南北カロライナ地区を主戦場としていた。カール・フォン・ショッツとのコンビでデトロイト郊外でタッグ王座を獲得した。日本でも、ビッグ・ジョン・クインとのコンビで王座に就いた。1971年にはスタンピード版北米王者にもなった。
(パートナーのレジナルド・ラブことジョニー・エバンスとともに)ハートフォード・ラブとして知られたウェス・ハッチンスは、1960年代初頭にミルトンのジムでビル・テリーと一緒に汗を流した。指導員はベニー・リマであった。「彼は僕の親友だった。よきレスラーで、よき仲間だった」
ハッチンスはレスリングに本腰を入れるべく、ハミルトン地区で経営していたオレンジ・クラッシュ向けの卸売り事業を手放すことにした。そしてその事業をビル・テリーに売却した。テリーは「テーブルに食品を並べた方がいいよ」と小売店に電話していた。
トロント地区のプロモーターで、WWF世界王者ロッキー“ザ・ロック”メイビアの叔父にあたるリッキー・ジョンソンは、1970年代末に自分の成功に貢献してくれたビル・テリーを回顧した。「私が新米だった頃、数多くの試合を通じて私をリードしてくれた彼が懐かしい。彼には大変世話になった。私はビビリっぱなしの小僧だった。彼は私を落ち着かせてくれた」
フォン・ヘスが地元ハミルトン郊外のベアーマン・デーブ・マッキグニーの団体に参戦していたとき、ウェイン・キャッシュマンは、オンタリオ南部で行われたフォン・ヘスの数多くの試合を参考にした。キャッシュマンによると、彼はまるで「10万年もこの業界にいる」かのごとく見え、ビル・テリーとしては「ものすごく紳士的」で、とても「温和な口調」だったとも付け加えた。
マッキグニーの団体では、ルイス・マルチネスと抗争を展開した。キャリアの最後にはトロントのタニー家のところで働いた。1999313日、オンタリオ州ハミルトンで、心臓発作のため死去。享年56歳。