ZebraKid
シマウマ小僧と称されたレスラーは、昔から多数存在した。しかしその名もズバリのゼブラ・キッドは一人しか存在しない。20年にわたり、ジョージ・ボラスは有名なシマウマ柄の覆面と衣装、プロレス界最初の動ける巨漢であった事実を覆い隠していた人目を奪うショーマンシップを携えて、世界を股にかけて活躍した。
ギリシャ系移民の息子として1923年に生まれ、父親が食堂を経営していたオハイオ州ウォーレンで育った。12歳にして約90キロに達した大柄な少年で、当然のごとくアメフト選手となった。体重145キロの新入生として、オハイオ州立大学アメフト部の門を叩いたが、レスリングを勧められた。息子のジョージ・ボラス・ジュニアによると、「レスリングを始めたきっかけは、フットボールをするには身軽さと敏捷性が少々足りないと感じたアメフト部の指導者が、レスリングをやらせて、そのあたりを鍛えさせようとしたからなんです」
“ドレッドノート(弩級戦艦)”と呼ばれて一躍有名選手となり、同大レスリング部の観衆を75~100人程度から、2000人程度に押し上げた立役者となった。当時監督だったローレンス・ヒックスは、「あれほどの巨体で体重がありながらも、驚くべきスピードと狡猾さの持ち主でした」と語った。1年次に中西部10大学ヘビー級選手権に優勝し、2連覇した2年時には、NCAA選手権も制した。当時米国内有数の勢力を誇っていたオハイオ州コロンバス地区を運営していたプロモーターのアル・ハフトが、この活躍に注目した。覆面姿のミステリーマンとしてハフトの興行に出場し、プロレスを本業とするために1947年に大学を中退した。息子によれば、「プロレス入りした理由は、祖父が病に倒れたからだと思います。大学を辞めて、家族のために稼ぐことにしました」
当初は本名のジョージ・ボラスを名乗っていたが、際立った活躍をすることもなく、新人時代の有名な事件と言えば、1948年にニューヨークでレフェリーと乱闘して、州体育委員会から出場停止処分を下されたことであった。同年、南北カロライナでインターカレッジエイト・ダーク・シークレットとして3か月間活動してから、世界的名声を確立することとなるギミックにたどり着いた。突飛な発想力を持つプロモーターのジャック・フィーファーが、体重の増減によって刻まれた、ボラスの特徴的な肉割れを茶化して、ゼブラ・キッドを考案した。息子によれば、「実に名誉なことと思ってたみたいですよ。誰かに減量痕の筋を見せてくれ、肉割れがどこにできたかと言われて、縞々の部分をつまんで見せたら、こりゃシマウマ柄みたいだなと言われたんです」
1948年9月14日、137キロのゼブラ・キッドはサンディエゴに初登場して、マイク・ミハラキスを破り、力道山、ルー・テーズといった伝説的大物選手と世界的規模で対戦することになるキャリアを発進させた。1959年のインタビューの中で、シマウマ柄の覆面姿がファンの印象を一変させたと語った。「俺は心配ご無用なほどデカイと思われているから、みなさんは俺が倒されるところを見たがっているんだ。覆面を被って対戦相手を強襲するようになるまでは、俺は平凡なレスラーだったよ」
ヒルズデール・カレッジ教授で、ボラスのキャリアを研究しているプロレス史家のウィル・モリッシーは、覆面は様々な点で有益であったと語った。「覆面なしには、ジョージ・ボラスの見てくれは並かそれ以下、正直なところ、平凡な巨漢でした。覆面はオハイオ出身の移民の息子、ジョージ・ボラスであることから解き放ってくれました。逆説的ともいえますが、覆面によって、ファンはボラスが優秀なアスリートであり、ショーマンであると見做すようになりました」
巨体に似合わず敏捷性に優れていた。元レスラーのフィル・メルビーは、「40ヤード走で勝負してみろよ、なかなか勝てないぜ」と語った。それでいて、一緒に練習してみると、巨体にモノを言わせてきたという。「上に乗られると、下から抜け出せなかった。重みには耐えられたけど、抜け出せるほどの怪力はなかった、デカすぎだって、ありゃ」
1962年に数か月間、タッグを組んでオーストラリア遠征したポール“ブッチャー”バションも、「デブだった、ズングリムックリっていうかな、でもレスラーとしての実力は相当なものだった。信じられないような動きをしてさ、軽量級みたいな動きだった」と語った。詐欺師の才能も少々あったと、バションは語った。「昔ハンドボールをやってたんだって。オーストラリアでもジムに通ってて、精力的に鍛えていたけど、150キロはありそうで、全然スポーツマンに見えなかった。それでハンドボールコートのあたりをうろついて、何人かと一緒に試合に参加して、『いくらか賭けようか』なんて言い出したんだ。日が暮れる頃、賭け金をせしめていた」
際限なく観客を罵倒して、観客からも同じく罵倒を浴びた。1957年6月13日、コロンバスでレフェリーの不可解な裁定でベアキャット・ライトに勝利した試合後、50人ほどの集団から投石攻撃を受けた。「死ぬ気で走って通りに出ても、集団が追いかけてきた。何とかして流しのタクシーに飛び乗ったんだが、投石で唇を割られていた」 タクシーは車体をへこませながら100ドル分走り、ボラスは顔面と頭部裂傷の治療を受けた。
覆面の着脱を繰り返し、1953年にはコロンバスでダーク・シークレットを再演し、ハワイやテキサスではジョージ・ボラスで登場することもあった。覆面姿で荒稼ぎしたものの、毎晩布きれを被ることのマイナス面も考えていた。「どのみち、そのうち覆面を外さにゃならんだろうから」と、1959年にポリス・ガゼット誌上で正体を明かした。「試合をするには快適じゃないね。暑すぎるよ。窒息しそうになるし、視界が遮られて相手がよく見えないんだ」 リング外では、有名なレスラーを一目見るためだけに、フィラデルフィアの駐車場から脇道までクルマを探し回っていた少年ファン、ジム・マリソンに、ボラスの好意が多大なる影響を与えた。「親切に接していただいたので、『自分もいつか、同じことをしたいと思います』と申し上げました」と語ったマリソンとは、後にレスラー、マネージャーとなったJ・J・ディロンである。「お手紙をいただけるようになったんですよ、英国や日本なんかからも何度も、大きな青い大四つ切サイズの紙に書いた手紙をきれいに折りたたんで、封筒に入れてありました。もうひたすら感謝するばかりです」
1963年、国内のどこからでも試合当日に帰宅可能な英国に、家族同伴で活動拠点を移した。親類とともにギリシャでの興行活動も行ったが、事業は大失敗に終わり、5,000ドルから6,000ドルの損害を被った。試合出場を増やして負債を帳消しにして、1968年まで現役生活を続けた。年齢とともに体調も悪化し、両膝の負担が蓄積したことで、運動と体重調整がままならなくなった。1977年1月に亡くなったが、忘れ去られることはなかった。1998年9月、オハイオ州立大学から、同大学構内にある2万人収容の体育館ジェローム・ショッテンスタイン・センターに設置されたスポーツ殿堂に列せられた。
息子が語った。「是非行ってみてください、ショッテンスタイン・センター内に全国大会に優勝したレスラーの壁画が飾ってある場所があります。そこに重厚な父の壁画が飾られていて、殿堂内には、レスリングを始めて1,2年で達成した偉業を讃える記念銘板があります。非常に誇らしいですね」