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ロイ“リッパー”コリンズが言語を虐殺しながら踏破した行程は史上最高記録と称して差し支えない。地元を離れたときこそ本領を発揮するパフォーマーであり、現地人の発音を毀損したことで、ハワイでは伝説的存在となっている。ドン・レオ・ジョナサンは爆笑しながら、「ハワイじゃね、現地の方々を歯ぎしりさせてたよ。ハワイ人の話し方を、わざと滅茶苦茶に真似してたんだ。『王様はムー・イ(マウイ)に行かれるぞ』とかね」と振り返った。このネタを初めて披露したのは、ロード・ジェームス・ブレアースの隣でインタビューを受けていたときであり、最初は強い南部訛りでハワイの土地柄を馬鹿にしていただけだった。ブレアースが、もっとやれとけしかけた。ファンに“黄色いネズミ”と呼ばれ、着色したゴム製のネズミ人形を投げつけられた。
ハワイの興行師エド・フランシスの息子で、アメフトの名選手ラス・フランシスは、コリンズの大ファンであった。自称ハワイの王様に関して、「素のまんまってくらい、役柄がお似合いだった。アカデミー賞を受賞してもいいくらいの名優だったね。タイミングのよさとか、センス抜群だったね。民族的な特徴を型にはめるのが流行っていた時代で、リッパー本人も、ウスノロなハワイ人やサモア人を抹殺してやるとか言ってた」
ハワイの1時間半番組で、インタビュー時間の尺を伸ばされたことから、真骨頂を存分に発揮した。178センチと小柄な体格で、贅肉のたるんだ中年ながらも、尊大な感じを発散しており、喋りの才能で抜群の集客力を誇った。ハワイでの日程は気楽でもあり、週の大半を浜辺で日光浴に勤しんだが、悪役組と善玉組が行く浜辺は別々だった。ハワイとテネシー州ナッシュビルで“リッパーとホイッパー”コンビを組んでいたフィル・ワトソンは、「ハワイ大好き人間だったね。地元も同然だった。終の棲家にしようとしていた」と語った。
ハワイから遠く離れたオクラホマ州マスコギーで1933年10月8日、ロイ・リー・アルバーン・コリンズは生まれた。母親が小さな食堂を切り盛りしていた、テキサスの小さな町で育った。プロレス入りしたものの実績が皆無の頃、ウエストバージニアの食堂で女性レスラーのバーバラ・ベイカーと出会った。「気がふれたのってくらい大はしゃぎしていました。『あっ、これは』って思いました。私も彼に大はしゃぎしました。強く惹かれるものがありました。もう彼にゾッコンでしたから、恋の病に侵されていたんだと思います。何をするにも二人一緒になりました。テキサスで試合があると、一緒に遠征しました。私は試合がありましたが、彼はナシでした。そこで結婚しました。まずはお義母様のお友達の自宅で、それからリング上で挙式しました」
新婚カップルで街から街へと転戦して、各地で男女混合タッグ戦を行った。カリフォルニア滞在中に最初の養女を迎え、ハワイからバーバラに声が掛かると、旦那と娘も帯同した。「そしたら彼も試合してくれと頼まれて、それから7年もずっと居残りました。彼はハワイでは神のごとき存在でした」
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ハワイとともに、常連となった米国太平洋北西沿岸部では、ジミー・スヌーカ、ダッチ・サベージらと抗争し、ブル・ラモスと組んでタッグ王座も獲得した。ニュースレター「リング・アラウンド・ザ・ノースウエスト」の編集主幹マイク・ロジャースによれば、「リッパー・コリンズを超える悪役はお目にかかったことがありません。友人が歯にヤスリがけするリッパーの話をしていて、インパクト絶大でした。レパートリーの多くはフレッド・ブラッシーから拝借したものだったんでしょうが、ノースウエストでは効果抜群でした」。サベージによれば、観客動員の術を心得た、職人中の職人であった。「リッパー・コリンズは業界最高水準のヒールで、喋りも上手いし、どこの会場でも自在に暴動を起こすことができた」
後年、オカマキャラに変身して、毛皮で飾った長いピンク色のマントとお揃いのブーツ、トランクスを着用してリングに登場したが、舞台裏の姿を知る者にとっては、これは演技ではなかった。二児を持つ妻帯者でありながら、同僚の評判は芳しくなく、警察当局の覚えも悪く、カルガリーとルイジアナで収監されたのは、未成年の少年に買春を持ちかけたからとされている。性癖に嫌悪感を催す者に迷惑がられており、リング上でふざけたり、意味ありげに股間を擦ったりしていた。
性癖を気にしない者は、単なる同僚として接していた。“官能的”ラリー・シャープは、“うっとり”リッパー・コリンズとカルガリーでタッグを組んでいた。初めて遠征を共にした際に、コリンズはゲイであることを否定した。しかし直感的に見抜いた。「頭ん中は、ホモの世界にどっぷり浸かっていたからな。その場を離れて、商売女を買って、ホテルに連れて戻った。コリンズがドアを開けたら、俺が女と一緒にいたから、下に降りて、ロビーに座って、翌朝8時に俺が下りていくまでずっと足で床を鳴らしていて、憤懣やるかたないといった様子で、今にも暴発しそうだった。女が一緒なら部屋に入ってこなかった」。一緒に日本遠征もした。「嫁さん連れみたいだった。タイツを洗って、干して、女性がしてくれるような身の回りの世話を全部焼いてくれたね」
ボーレガード(ラリー・ピッチフォード)は、コリンズを親友であり、恩人であるとしている。「大変お世話になりました。ゲイであることは、ひた隠しにしていました、パット・パターソンみたいにね。それは私生活のことだから。控え室では、ゲイらしいところは一切見せませんでした。素振りすら見せませんでした。軽度のゲイだったんでしょう。鼻息荒くしてるわけじゃありませんでした。誰とでも仲良くしてました。ジョークの天才で、みんなで車座になって、リッパーの笑い話を聞いていました。お笑い芸人顔負けでした」
試合にも参加するマネージャー役、テレビ実況解説として、お笑いの素質を存分に発揮した。ロサンゼルスでは1971年、KCOP局内スタジオ収録において、有名なプロレス実況担当者ディック・レーンを否定することと、ゴードン・ネルソンの入場紹介を担当した。ネルソンによれば、「煽り上手だった。みなさん太ってますねえとか言って、当時はなんてことを言うんだって、みんな怒り心頭だった」。リア・メイビアの番組「ポリネシアン・パシフィック・プロレス」がフィナンシャル・ニュース・ネットワークで放送されていた1980年代半ば頃、同番組の司会を務めた。
ベーカーとコリンズの関係は、二人が行った男女混合タッグ戦よりも遥かに複雑な様相を呈していた。ベーカーによれば、「ザ・シークだって負かしたことがあるんですよ、試合でってことじゃなくて、口喧嘩でね。説教師だって言い負かしちゃうんです、私には敵いませんでしたけど!」。現在でも、ベーカーはコリンズが同性愛者であったことを否定しており、コリンズに対する愛情に変わりはないとする。しかし1978年ごろ、コリンズは夫婦関係から距離を置こうとしていた。肉体と年齢的衰えに伴い、出場機会が減少し、貯金も底をついた。「そのうちに、音信不通になりました。社会保障制度が彼の所在を教えてくれないなんて、変ですよね、妻だったのに」
コリンズはハワイに戻り、警備会社に勤めた。メイビアの団体を手伝いながら、自ら興行開催を試みた。日光浴の誘惑に抗うことはできなかった。1991年11月11日、ハワイのマウイ島で、ワキから進行した黒色腫により亡くなった。ベーカーが夫の死を知ったのは6か月後だった。遺族宛に送られる遺品が何もなかったからであった。「ビーチに人生を捧げました。日光浴が大好きでした。真っ黒になって、見事に日焼けしていました。でも目を閉じると彼の姿が浮かんできて、両手を頭の後ろに当てて、ワキの下は日焼けしないものですから、元々どんなに白かったかを見せてくれます。日焼けし過ぎたんですね。ハワイで腕の裏まで焼こうとしたんですね」。コリンズは愛したハワイの伝統的方法で埋葬され、遺灰は海に撒かれた。