bullcurry
1930年代に、コネチカット州ハートフォードの路上に逃げてきた子牛を飼っていたことから、ブル・カリーと呼ばれるようになったという。カリーを一目見た子牛は、檻に戻った方が幸せに暮らせると思ったに違いない。カナダ大西洋沿岸で対戦したエミール・デュプリによれば、「やつをやつならしめたのは、あの100万ドルの顔面、悪魔のような見た目だった。一直線のゲジゲジ眉毛は5センチも幅があった。いかにもいかつい風貌をしていた」
フレッド・コーリー・シニアは遺伝子実験の失敗作のごとき風貌をしており、試合ぶりも期待を裏切らなかった。デトロイト地区で活躍したジム・ランカスターによれば、「私に恐怖を与えてくれた最初の人でした。どんなふうに登場してくるかといいますと、相手に頭突きをかまして、流血させるんです。ひたすらそればっかり。延々と終わりなくね。ブラスナックルを取り出して一撃、そして体固め」
リック・フレアーは息の長い選手と言えるだろうか?カリーの勤続年数を超えるには、フレアーにはもう15年頑張ってもらわなければならないし、ジャック・デンプシーとボクシング対決もしてほしい。テキサス州ガルベストンの興行師ノーマン・クラークは1953年、カリーを「これほど集客力の安定したやつはいなかった」と述べた。26年後、65歳になっても、ガルベストンのメインイベントでエディ・サリバンと対戦していた。
1913年5月2日、5人兄妹の一人としてハートフォードで生まれ、幼くして濃密な民族集団の中で生き抜く術を身に着けた。10代の頃、サーカス一座に参加して、腕自慢の挑戦を受けていたところ、デトロイトの興行師アダム・ワイスミュラーの誘いでプロレス入りした。カリーの息子フレッドによれば、「芝居も真剣勝負もできる、そうでないと生き残れない時代でした」 19歳で既にプロレスラーとして、北東部とミシガンで活動していた。1936年のリング・マガジン誌では、世界の強豪軽量級選手と並んでランクインしていた。デトロイトで行われたジャック・デンプシーとの2ラウンド制ボクシング対決に敗れた1940年7月、破壊的な試合ぶりが全米の注目を集めた。UPI通信の記者ブレイク・ヘンケルは、ミシガン州体育委員長の膝に倒れこんで顔面をピシャリとはたかれるなど、リング内外での度重なる脱線行為を称して、この試合は「リング・コメディの新たな高み」と述べた。
bullcurry4
ニューイングランドからテキサスに転戦した1953年、野人ギミックを採用して爆発的人気を呼んだ。しかし、レフェリーのトミー・フーシーによれば、当初は精彩を欠いていた。「テキサスに来て2週間、何もできなくて、お払い箱寸前だった。それがガルベストンで、あそこの古い会場には5つか6つのバルコニーがあって、そのバルコニーを駆け抜けたんだ。これが大受けしてさ」 一躍テキサスの話題をさらい、ダニー・マクシャイン、デューク・ケオムカ、ペッパー・ゴメスらとのブラスナックルを使用した流血の抗争劇を演じた。レスリングじみたことは少々しかせず、大半は底抜けに暴れ回るチンピラそのものであった。フーシーによれば、「観客席にカモを見つけて、靴を奪って、リングに持ち込んでは、相手を殴打していた」 息子のフレッドも、「ハードコアの元祖でしたね。テキサスでは親父用にブラスナックル選手権が創設されて、誰も敵いませんでした。親父のパンチは、相手の頭を吹っ飛ばす勢いがありました」
bullcurry3
痛がると右耳を抑える独特な動きを、何世代ものレスラーが眺めていた。テキサスで対戦したニック・コザックによれば、「どこを攻撃したかに関係なく、右耳を抑えるんだ。ありゃ驚いたね。脚にストンピングしても、右耳を抑える。腹を殴ったのに、右耳を抑える」 しかし壮絶な打撃戦も展開し、これで会場を興奮の坩堝と化していた。コザックによれば、「十八番はこんな調子で、まず横にずれる、それからレフトフックを腹にブチ込む、それがまた大振りなレフトフックだからさ、来るぞ、来るぞって分かるわけだ。手を開き加減にしてるから、いい破裂音がするわけよ。的を空けて構えていたら、バシッとね、そしたらみんな、昇天したみたいになって、あ~ん、もうダメぇ~って」
ルイ・ティレによれば、カリーは相手の攻撃を効果的に見せないことで、同僚に嫌われていたという。しかし、ヒューストンの興行師モリス・シーゲルとその相棒フランク・バークに連戦を組まれたティレは、敬遠しなかった。ティレはカリーの宿泊先を訪ね、稼ぎをよくする演出を開陳した。「『1試合は好きにしてもらっていい、何でも協力するよ。あんたの集客力は言わずもがなだ。何ができるか、楽しみだね』って言いました。僕らはテキサス州フォートワースで、どえらい試合を演じました。コテンパンにやられまくりましたよ。僕がやられたままでは済まさないっていう、先行投資の意味合いを心得てくれていました。これで十分。それからというもの、レオ・ガリバルディが満員御礼興行を打っていた当時のテキサス全域、ダラス、フォートワース、ヒューストン、サン・アントニオ、オースチンを回りました。二人とも大満足でした」
ダラスのテレビアナウンサー、ビル・マーサーは、実際に攻撃に巻き込まれてみて、カリーの代名詞ともいえる予測不可能性をまざまざと実感した。「リングの端の真横に座っていました、エプロンの真下ですね。カリーはバタバタと走り回り、ロープに叩き付けられたりしていました。カリーが走り回り、観客は絶叫していました。突然、カリーが見下ろしたところに目が合うと、顔面を蹴飛ばされました。そのときまず思ったのは、『うわっ、どうか汚い言葉を発していませんように』でした。でも実際はあっさり気絶してしまいました。あの男が何をしでかすか、この世の誰にも分かりませんよ」
bullcurry6
ビールの売り子目がけて放り投げてくれと、対戦相手に頼んでいたらしい。テキサスでディック・ブラウンと対戦した際、試合そっちのけで最前列客にビールを売っている売り子が気に障った。ブラウンによれば、「ブルに、『あの野郎のところに投げ飛ばしてくれ』と頼まれたんだ。場外に投げてやったらさ、売り子の背中に命中してね、ビール瓶があたり一面に飛び散っちゃったよ。ブルはなんとかリングに戻ってきて、あの売り子はそれ以来、リング上の展開を注視するようになったに違いない。ブルこそ、キャラクター中のキャラクターだ」
新聞紙上で“サボテン人間”とあだ名され、戦法を微塵も変えていないにもかかわらず、やがて声援を受けるようになるほど、テキサスで大人気となった。キラー・カール・コックスによれば、「俺が対戦したらカリーが自動的にベビーフェイスになってしまった、そのずっと以前から、あの界隈で活躍していたんだ」 そして、ガルベストン・デイリー・ニューズ紙のクリスティ・ミッチェルの記事によれば、カリーの悪評は完全に払しょくされた。「野蛮人ブル・カリーが、アヒルを水に沈めたり、おばあちゃんたちの相続財産を強奪したといった類の噂話は、完全な誤りである。優しく、花を愛で、詩を愛読する紳士である」
1968年以降、息子が新進気鋭の有望株として売出し中であった中西部に定着した。カリーの試合を裁いたこともあるマネージャーのパーシバル・A・フレンドによれば、ここでもまた声援を受けるようになるほど、カリーの十八番は人気を博した。「凶器はブルの嫁さんみたいなものだった。金色とか銀色の大きなカーテンリングをよく使っていてね、これがまたレフェリーには全然見つからないんだ。どこに行っても抜群の集客力を発揮して、状況に応じて善玉と悪玉を器用にこなしていた」
1970年代には既に高齢者割引を受けられる年齢に達しており、消極的になっていた。「ブルは実際のところは攻撃的じゃなくて、どちらかといえば防御的だった。こっちから攻撃を仕掛けないといけないけど、向こうからは何もしてこない」と語るダン・ミラーは、オハイオ州マリオンで対戦した際の笑い話を振り返った。「サイドヘッドロックから、勝負を決めたんだ。控え室に戻ったら、ザ・シークに言われたよ。『人間の首ってあんなに長く伸びるものなんだな。頭はどっかに行っても、体は元の位置にいたままなんて』」
後年、カリーがランカスターに語ったところでは、熱望していたザ・シークのUS王座を奪取できなかったことが残念でならなかったという。「ブルに言わせれば、ザ・シークよりも動員力のあるヒールだったし、実際その当時、デトロイトに初登場したときのことを考えると、その言葉に頷けるね」 デトロイトの興行権が斜陽化した1970年代末から1980年代初めにかけて、カリー派はオハイオとミシガンで散発的な興行を開催し、70歳に達しようとする年齢で、中心的存在を担った。ファンタスティックスの片割れボビー・フルトンによれば、ハードコアの祖父として依然輝いていたという。「あの人から、イス攻撃を初めて食らったよ。感謝祭の夜にオハイオ州ポーツマスで、イスを掴んで僕に殴り掛かってきて、そしたら突然お客さんがイスを掴んで投げ込んできた。あの人には磁石が仕込まれているんだ」
1985年5月に亡くなり、プロレス史上有数の長く、荒唐無稽なキャリアを終えた。自身の息子“ロケット”も3世代レスラーである、コネチカットの実業家フレッドによれば、「登場すれば観客は立ち上がり、退場する時も立ち上がらずにいられない。いつでもショーの主役でした」
bullcurry5