2016年03月22日

病床メモ 2016.03.22

ネクサバールを再開して、身体的には副作用は感じないのですが、倦怠感が強いように思います。まあ要するに元気がでないのです。


3月15日(火)
7:10/36.0。晴れ。
ブログ定期更新。量が少ない。
午后、短歌教室。今日は歌会。題詠「糸」というのは難しかったようで低水準だった。私の歌には残念ながら一点も点かなかった。当然と言える。結局謎掛けみたいな歌しか出来なかったのだ。で、解けたのは極々少数の人だったようだ。一席は廣田さんの「袖口の毛糸のほつれ繕ひて同じセーター着続けし母」。私も採ったのだが、なぜお母さんは着続けたのかという処が気になった。始末な人いうことがテーマなのか、なにか特別な思い出があるセーターなのか、本当に着心地がいいからなのか。
廣田さんが東京での「雲珠」の例会のスナップを見せてくれたが、10人余寄っていて徳島より規模が大きいと改めて感じた。そういえば私は所属する結社に関心がなさ過ぎるな。
今日は短歌教室の後、竹村大明神とお茶をしたが、いつもの「クレメント」でなく、杉田君の絵を見るために「森珈琲店」にする。杉田君は日芸らしいのだが何をやっていたかは知らない。ラーハのライフステージになってムクムクと自己表現意欲が出現して来たのだろう。が、まだ「絵を描く」段階にあって、なにを描きたいのか(ま、自己に決まっているのだが)伝わってこない感じがした。ま、私の短歌のようなものだ、と言ったら怒られるか。竹村君は健診で糖尿病と脅されたそうだ(HbA1cが6.4とかになっている)。まあ歳を考えると大局に問題があるとも思えないのだが、本人はすっかり健康志向になり、甘いものは止め、テニスに励んでいるようだ。テニスは奥方に付き合って来た賜物で有り難いことだと思う。本人は離婚したら下流老人転落は目に見えている、とか言っているが。
その後、伊月病院に廻って母を見舞う。調子は良いようで、その分退屈しているようだ。
24:00/36.2。


3月16日(水)
7:30/36.4。晴れ。
今日は午后帰還拉致被害者の蓮池薫さんの講演を聞きに教育会館へ行く。ホールの入り口で長井君と一緒になった。文理の同僚の阿部先生と一緒で、後述する蓮池透氏の近著を読んで関心を持ったようだ。主催者は「あいぽーと徳島」(徳島県立人権教育啓発推進センター)で、目立った広報はしてなかったように思うのだが(私は新聞で開催を知った)満席だった。関心を持っている人が多いのだ。そしてやはりライブは報道と違って情報量が多い。蓮池薫さんの誠実で思慮深い人格が感じられた。実は最近出版された「拉致と決断」という著作を読もうかと思っていたのだが、その必要はあるまい。何倍も良かった。
「命以外の全て奪われた」という演題で、拉致された状況から、「招待所」で工作員(スパイ)として養成され(生活の様子は語られたが、スパイ教育の詳細は語られなかった。拉致を行ったのは複数の機関で、蓮池さんはあくまでその一つである朝鮮労働党の機関に拉致されたケースに過ぎないからかもしれない)、一緒に拉致された恋人と結婚し子どもを作り、「一時帰国」の形で日本に送り返され、そのまま北朝鮮に帰らなかった経緯が分かり易く纏められて話された。たぶん本に書いたので整理がついたのだろう。講演の後質疑応答がなされたが、この質問がなぜ蓮池さんが一時帰国要員になったかと、兄の蓮池透氏の拉致に対する取り組みが弱まったのではないか、という実に良い質問で、今日の講演会の成功の大きな要因となった。
印象に残ったのは、北朝鮮に居てどこまで分かったのかは疑問だが、完全に隔離されているようでも情報は耳に入ってきたということだ(だから、自分たちが日本に帰ったことを知って、今も拉致されている人は希望と絶望が交差し苦しみは増しているだろうと言う)。ソ連崩壊といった国際情勢や、北朝鮮が拉致を行っていることがレバノンの女性誘拐事件や、日本人に関しては大韓航空機爆破犯である金賢姫の「拉致された日本人女性から日本語を習った」という証言から、国際社会に隠しおおせぬ状況となり北朝鮮としては何かアクションを起こさざる得ない状況に追い詰められていた、という認識だ(繰り返しになるが、どこまでがリアルタイムに認識していたかは疑問だが)。
で、質問に答える形で、なぜ横田めぐみさんでなく自分たち夫婦が一時帰国に選抜されたか話した。北朝鮮のシナリオは、上述したように拉致の事実は認めざるを得ないので、一時帰国した者が「現状は北朝鮮で幸せに生活しており、今後も北朝鮮で暮らす」という意思表明をすることだった、と言う(そして北朝鮮に帰った後、父母を北朝鮮に招待するという段取りだった、と言う)。で、蓮池さんは、子供達が人質となっていることがあり、その方針に従うつもりだったと言う。まあそうでなければ一時帰国要員に選抜されることはなかったわけだ。しかし、帰国二日目の晩、帰宅した柏崎の実家で家族会議が持たれ、その場で「北朝鮮に帰るな」と言う兄(蓮池透さん)と大喧嘩になったそうだ。「24年ぶりに会ったら兄弟喧嘩をするのか」と、母親は泣いたそうだ。「子供を捨てることは出来ない」という薫さんに、透さんは先に言ったような北朝鮮のおかれた立場等を説き、「子供達は必ず日本に帰ってくる(はずだ)」と説得したようだ。それを受け入れた薫さんは次に妻・祐木子さんを説得したそうだが、祐木子さんは狂乱状態になったと言う。これは透さんが「家族会」と上手く行かなくなったり、「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」(帰宅して即アマゾンにオーダーした)という本を書く動機にもなったのだろうが、蓮池薫さんに北朝鮮に帰らないように説得したのは外務省やまして安倍晋三ではなく兄・蓮池透だったという事実を語ったものだ。日本政府の一時帰国に対するシナリオはどんなものだったのかは国民(少なくとも私)には明らかにされていない、ということだ。
実はこのように大人数が集まるとは思っていなかったが、いずれにせよ教育会館は駐車場に問題がある施設なので、吉野川の河川敷に停めて行った。で、今日の散歩は済んだ気分だったのだが、ケンタの散歩に付き合った。近所廻りでどっと草臥れる。ネクサバールを飲むと草臥れるという副作用に目をつぶる訳にはいかないな。
24:00/36.5。

  岸辺には藻を食む鴨のあまたゐて満ちくる汐はその足洗ふ


3月17日(木)
7:10/36.2。晴れ。暖かい。
今日は彼岸の入りで親戚のご婦人方がお参りに見える。
「下流老人」のノートを採る。この本の価値は「下流老人」の定義を行ったことだ。「p.25  2013年の厚労省の「国民生活基礎調査」では、等価可処分所得の中央値(244万円)の半分(122万円)未満が貧困状態ということになる。2人世帯では約170万円、3人所帯では約210万円、4人世帯では約245万円に相当する。その基準以下の収入がない場合、日本では「貧困」に分類される。下流老人の所得も、概ねこの辺りが目安となる。このレベルになると「普通の家にあるべきものがない」ケースが増えてくる。健康な食事がとれていない、十分な医療や介護を受けていない。洗濯機やエアコンが壊れたままになっている、月に一度の外食もできないなど、生活に必要な物やサービスを享受できなくなる。要するに、人間らしい暮らし(健康で文化的な生活)の水準を下回るレベルでの生き方を強いられるようになるのだ」。思わずわが家の家計簿をチェックしたくなったのは私だけではあるまい。ま、「月に一度の外食」などと言われると、今の老人の感覚ではない。その当事者ではない若い筆者の視点と煽動性もこの本の特徴だ。あとはどうってことはない。問題の本質は中間層の消滅にある。ということは、日本の中間層はいかにして生まれたかに遡らなければならないのであろう。
江戸時代の中間層は農家だが、その骨幹は家制度であり、限られた生産力に応じた適応した人口規模の維持に力が注がれた。近代資本主義(産業社会)になって経済成長・富の拡大が始まり、次男三男にも資産が造れる時代となった。成長のトリクルダウンとして多くの人が資産を持つことができるようになった。それが新中間層だ。資産を作るにはどうすれば良いか。それは企業村社会のメンバーになることだった。今はそれが失われている。とすると、低成長時代においては形成された資産をどのように継承していくかを思考しなければならない。「家」はおろか「家族」まで崩壊していく時代に、日本人のドリームがマイホームでは可笑しいだろう(結局空き家だらけになっている)。北欧などは富を国家に集中させて再分配するという適応の形を示しているようだが、日本は(たぶんアメリカも)新しい時代に適応出来ていないのだ。
また、「誰がアメリカンドリームを奪ったのか?」(ヘドリック・スミス)にも共通しているのだが、分析はいい線いっているのだが、処方箋は実にプアだ。住宅政策を考え直すというのが唯一面白かった。上記したマイホーム主義が破綻しているという面もあるし、具体的には新町西地区の再開発は老人用の市営アパートと、その老人をボランティアでケアする大学生用のシェアハウスにすれば良いと考えているからだ(某君には語ったのだが聞く耳は持たないようだ)。
夕方、ケンタと土手まで散歩した。途中で左足が痺れてきた。やはりもう衰弱は止まらないのだろう。下痢もなく食事も摂れているのだが。
「クローズアップ現代」が今晩で終了した。それも番組の最後に、いきなり国谷キャスターの挨拶があって知った。3月末まであると思っていたので驚いた。23年間続いたというから、あって「普通」になっていたのに、あっけないな。良識の標準が変わるのに抵抗感を持つのは、単に歳をとっただけではあるまい。
23:50/36.2。


3月18日(金)
7:00/35.7。晴れ。
「雲珠」提出の詠草の整理をする。今回は色んな事件があって多くの歌が産まれ、贅沢な話だが絞り込むのに困る。
雨の心配をしながら家内はママ友の亭主の葬式に行った。やはり降られて帰ってきた。ご亭主は私より一つ上で、肺癌だったらしい。急死ではないのだ。まあ私みたいに公表する方が例外なのかもしれないが、家内も病気とすら知らなかったようだ。私が現役の経営者だったら公表しただろうか? たぶん公表し、闘病より仕事の始末をつけてリタイアする方に全力をあげたと思う。なにせ体調が悪いときは意識して仕事から離れたものだ。「フラジャイル」じゃないが100%の仕事ができないからだ。逆に言うとそれだけ経営者の責任を感じていた。余談だが、二日酔いのときは出社しなかった。伊藤忠で働いていたとき、「二日酔いでも必ず定時に出勤しなさい。その後は空いてる会議室で寝ていなさい」と教えられたものだ。
「アマゾンは偉大なり」。早くも「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」(蓮池透著、2015)が届いた。今日は雨でケンタの散歩もパスだったので、一気に夕食までに読んでしまった。2002年9月の小泉電撃訪朝・日朝平城宣言と同年10月の蓮池薫氏らの「一時帰国」がハイライトだ。そこで拉致被害者や家族にとっての拉致事件と政府にとっての拉致事件の差が顕現する。
本の最後の章として収録されている、青木理氏との対談において日朝平城宣言の意義について話されている。「青木;国際政治は時の運みたいなところもあります。先ほども述べたように、日朝首脳会談実現の背景には、南北の和解という素地があった。考えてみれば、金大中という政治家は戦略家でした。もちろん相当なマキャベリストだし、韓国内でもさまざまな評価はあるけれど、南北対話を実現しつつ日本との関係を改善し、日朝対話の道筋を後押しした。大きな絵を描きながら個々の政策を決める構想力がありました(p.273)」(今の感覚では違和感を持つが、当時はそういうムードだったのだ)。こういう流れの中で、田中均と「ミスターX」の秘密交渉が行われ、日朝正常化の話が進んだ(米国の支持があったかどうかは疑問だ。単独外交だった)。メインテーマはもちろん宿題となっている戦後処理の話だ。ただ、そういう大事の前に小事である拉致問題を片付けなければならなかった。そこで、北鮮が拉致を認めて謝罪しいわゆる「安否リスト」の授受でもって拉致問題は決着した、というシナリオが作られた。しかしどうやら田中均氏ですら「5人生存、8人死亡」という内容は知らなかったようだ。あまりにも拉致問題を軽視していたのだ。
当然、家族も日本国民も衝撃を受け、特に死亡と聞かされた家族としては、単に死亡と告げられただけでは納得がいかなかった。ここらの詰めが外務省は甘かった。一発で決めなければいけなかったのだ。9月17日の福田官房長官による家族への説明も家族の気持ちに寄り添ったものでなかったし、「P.146 2002年9月27日。田中均氏は「家族会」の面々に向かって、見るからに事務的な表情で、被害者の本人確認をするため身体的な特徴などの情報を提供するよう切り出した。「何をいまさら言っているのだ。長年の不作為について謝罪せよ」という「家族会」の要求には(「不作為(今まで何もしてこなかった)」というのは透氏の主張だったと思う)、一切応じようとはしなかった。この日を最後に、田中氏は「家族会」の前に顔を出すことがなくなり、あとは斎木審議官に任せる、丸投げする形となった」とある。田中氏の計略は日朝の正常化であり、拉致被害者の救出には目配りが欠落していたのだ。「大事の前の小事」に足を掬われた気持ちだったのではなかろうか。この政府と家族会の目的の解離が拉致問題を政治問題とする連中の付け入る隙間となったのだと思う。
次いで、「一時帰国」の問題だ。実は、透氏がこの本を書くことになった動機はこれじゃないかという出来事がある。2015年9月6日の朝日新聞に、当時官房長官だった福田康夫氏のインタビュー記事が載った。そこには「「一時帰国」の5人を北鮮に戻さない決定は国が行った」、と書かれていた。透氏としては事実と異なるだけでなく、弟を説得して帰国を翻意させたのは自分だという誇りを傷つけられたのだ。
「一時帰国」に先立ち、中山恭子内閣官房参与から「実は生存とされた5人が帰ってきます。ただし今回は5人だけが対象で、期間は一週間程度の「一時帰国」です。次回は家族全員揃って帰国する。そういう約束が北朝鮮側とできています」と案内があり、「今回の「一時帰国」をみなさん受け入れますか」と同意を確認されたという(p.123)。そして、10月15日の帰国以来、弟が日本に留まる決断をするまでの9日間、中山参与が弟の帰朝を止めたことは一度もなかった。中山参与を責任者とする「参与室」の職員は、「一時帰国」した5人は日本でのスケジュールを大過なく消化することだけに労力を傾注しているように見えた。10月24日、赤倉温泉滞在の三日目の早朝、弟の「北朝鮮には戻らない」という決断を電話で聞いた中山参与は、弟の決断が固いのを見てようやく動き出し、「約束を破ることになる」と渋る官邸や外務省と協議し、その結果「滞在延長」という日本政府の方針が決定されることになった(p.126)、と語る。一方、件の朝日の記事で福田氏は、「日本政府が苦慮したのは、5人を再び北朝鮮に戻すか否か、ということだった」と語る。「北朝鮮に戻れば、5人が再び日本に来られる保証はなかった」と言う。これは先に述べた中山参与の家族への説明(「次回」は家族全員で帰る)とは異なる。また、中山参与は10月22日、首相官邸の官房長官室で、「国の意志として戻すべきではない」と主張した、と記事にあるが、中山参与がその時点でそう思っていたとは信じられないと透氏は言う。ついで、10月23日午后2時半ごろ、安倍晋三官房副長官らが「5人を戻さない」との方針を掲げた文書案を持ってきたので、福田氏は5人の意向を確認するよう指示し、その日の午后4時過ぎ、安倍氏から「携帯で全員の確認を取りました。帰らなくてもよいということでした」との報告があったので、福田氏も戻さないことに決め(外務省抜きで決めれることとは思わないが)、小泉首相に報告した、という(p.129)。これに対し、透氏は、弟が「北へは戻らない。日本に留まる」と中山参事に電話で伝えたのは、上述したように10月24日の朝であるとする。10月23日に、透氏等は小泉首相宛に「弟たちを北朝鮮へは戻さない」という声明を発したが、あくまでそれは家族の思いであって、その時点では弟はまだ決断していない、と言う。そもそも福田氏はなんの目的でこのインタビューに応じたのか分からないが、透氏は事実を語っているように思う。
ただ、幾つか間違っていると思う。中山参与の「国の意志として戻すべきではない」と言った件だが、もともと福田官房長官も中山参与も北朝鮮との「約束遵守派」だったのは確かだろう。しかし透氏など「帰さない」という家族の声もあり、それは止め難いものだと思っていたのだろう。その結果薫さんらが「北へは帰らない」と言い出した場合、それでも強制的に「国の方針」だと言って北に帰すことは人道上も出来ない、という意味だと思う。中山参与は薫さんに決して帰れとも留まれともプレッシャーは掛けなかったのだと思う。
しかし、安倍副官房長官の動きは、福田氏の嘘か、安倍氏の嘘ではなかろうか。安倍氏達(米国も含む)は「そもそも」日朝正常化をおもわしく思っていなかったのではあるまいか。で、北鮮との関係が拗れるように、「携帯で全員の確認を取りました。帰らなくてもよいということでした」と嘘の報告をして一芝居打ったのではないか(しかし、薫さんたちが「北に帰る」と方針を変えなかったらどうするつもりだったのだろう。いずれにせよ本人の意思は無視された訳だ)。国民世論の受けも良さそうだし。しかし、ことは外交であり、外務省は、特に田中均氏は「約束遵守」を主張したと思う。それを最終的に小泉首相は蹴ったわけだ。その思惑はどこになったのか。北朝鮮との関係をどう取っていくか、何か考えがあってのことだったのだろうか。彼独特の政治的センスだったのだろうか。いずれにせよ田中均氏と「ミスターX」に口を開いてもらわないと分からないということだろう。が、北朝鮮にとっては、日朝首脳会談で最高指導者による謝罪までしたのに、対価は何も得られなかった失敗の外交であり、「ミスターX」は粛清されたとの説もあるようだ。まあ田中氏としても汚点なので話さないだろう。
ま、政治という魑魅魍魎の世界に引きずり込まれると、素人は何度も不幸な目に遭うということだ。その魑魅魍魎も必要悪なんだろうが、悪人の自覚は無いのだろうな。
23:50/36.2。


3月19日(土)
7:20/失念。曇り。
10:30過ぎ、ヒコが鳴門まで走ってみると言って出掛けた。彼は痩せるためにランニングを始めたのだが、先般なんと今春の「とくしまマラソン」にエントリーしたのだ。無謀だと思った。そして今日、だいたいハーフマラソンにあたる距離を走ってみるというのだ。「ピックアップに行ってやるから何処からでも電話しな」といって送り出す。ところが13:30前に「鳴門駅に着いた。JRかバスで適当に帰るから」と連絡があった。ビックリポンだ。やがて別に草臥れた様子もなく帰って来たので、「凄いな」と褒めて様子を聞くと実態が分かった。要するに彼にとってマラソンは競走ではなく、制限時間内に目的地へ到達するスポーツなのだ。とすれば山登りと同じことで、適宜休憩を取って栄養補給することがコツということになる。それならお手の物、ということだ。私はもしトレイルランをするならトシだろうと思っていたが、ヒコなのかも知れない。
お八つの後、ケンタと大岡川沿いを散歩する。今日は汐が満ちており、鴨がのんびりと浮かんでいた。そろそろ北へ帰っても良い頃ではないのか。
「怪盗山猫」も全く意味不明の最終回だった。今シーズンのドラマはどれもこれも終わり方が良くない。
00:20/36.7。


3月20日(日)
7:10/36.6。晴れ。
坂本便は欠航。お彼岸で墓参りとか行くらしい。
「雲珠」提出詠草を纏め、続いてエッセーを書き始める。連載もあと二回なので締めも視界に入れねばいかん。筆が進まない。
今日は少し遅くなったが17:00からケンタと近所廻りをする。だいたい30分ぐらいで、日も延びたし暗くなる心配もない。今日はケンタが好きな徳住橋の袂の水際公園まで行ってやった。旧動物園跡と旧聾学校跡に隣接している。今日が徳島市長選の告示だが、こういった遊休地について語る候補者は一人もいない。
晩、「家族ノカタチ」最終回を視る。今シーズンはこのドラマが一番良かったのではあるまいか。終わり方も良かった。改めて上野樹里は良い女優だと思ったし、香取慎吾もSMAP騒動の中このドラマをやっていて良かったのではあるまいか。
体温を測らないうちに寝てしまった。


3月21日(月)
7:20/36.1。晴れ。
一日遅れで坂本便就航。日経のアラを期待してくれているようだが、当分出来そうもない。
徳新にJCの北島先輩の死亡広告が載っている。近頃は一日に二つのことをするとめっきり草臥れる。明日は妹を空港に迎えに行って、一緒に墓参りをして、母の見舞いに行くつもりだ。不義理をさせてもらおう。2014年の秋にiphoneを買いに行っていたドコモで出くわしたのが最後になった。
「雲珠」のエッセー「音楽と私」で「カラオケ」をテーマにしようとしているのだが、よく歌っていた曲をYouTubeで検索すると、由紀さおりの「愛を切り札にして」とか中尾ミエの「淋しいから」といった相当レアな曲も全て出てくる。YouTubeは偉大なり。結局次々と聴いただけで執筆活動は終わってしまった。フフフ。
17:00からケンタと土手まで散歩した。今日は土手の上を歩く。風はあったが空が爽快に晴れていて気持ちがいい。大げさだが、やはりこの世こそが浄土なんだと感じる。いまこの世にあることが悦びなのだ。
晩のニュースでAIの書いた小説が文学賞の一次審査にパスした、と言っていた。日本の話だ。「アルファー・ゴ」以上に驚いた。碁だと「勝つ」という「真」を達成するわけだが、小説を書くということは「嘘」を創造することだ。思わずヒコに「法令に沿った文章なんて簡単に作れるから、市の職員はリストラされるんじゃなか」と言ってしまった。マジそうなる。これがIT革命の本当の姿だったということだろう。私は楽勝で逃げ切れるが、子供達はAIに喰われてしまうかもしれない。
24:00/36.3。


nikonikobutubutu at 11:08│Comments(0)TrackBack(0)

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