熊本県立第二高等学校 11期生ブログ
































 




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                                            作:渡邊大 君                                             「205) 切り絵で辿る二高の思い出」から

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瀬下亨先生
第二高校時代の瀬下亨 先生


今朝ひらく  
おくやみ欄に 
遠き日の   
恩師の名を見る
 ただ じっと見る


令和4年の幕が開き ほどなく経った日の朝刊に、眼が釘付けになりました。

瀬下亨先生が、令和4年1月15日に85歳で逝去された知らせでした。

私たち11期生の入学と同時に二高に赴任され、クラス担任(1年8組、2年6組、3年9組)に加え、英語の教科担当やクラブ活動の顧問として熱心に私たちの教育や指導にあたっていただいた思い出深い先生です。

11期生の入学50周年は、先生にとっては二高赴任50周年になることから、当時の思い出をブログへ寄稿してもらおうと考えていたところでした。ちょうど、中坂忠信君(3年S組)から「旭先生の昭和44年の米国66日研修は、確か瀬下先生との二人旅だよね。どんな旅行だったのだろうか。」と教えてもらっていたこともあり、その洋行談とあわせてお聴きしようと思っていた矢先だけに、驚きとともに深い悲しみに包まれてしまいました。

いつも静かで穏やかな微笑みを絶やさず、生徒指導にあたっては厳しさや厳罰だけで臨むのではなく、温かく寛容さを忘れず自律的に考え行動する力を育てようという、イソップ童話「北風と太陽」の教訓を彷彿させる教育スタイルでした。池山哲夫君(3年9組)の回想(詳しい話は  ☞  ここをクリック)にもあるように、学生時代に先生から多くのことを学んだ方も少なくないでしょう。

先生の思考や行動の原点にあったのは、字句に従い杓子定規に解釈運用する「文理解釈」ではなく、その意味や目的に重きを置く「論路解釈」にあったのでしょう。


さて、その瀬下先生ですが、軍事国家への道を辿ることになる二・二六事件が起こった昭和11年に鹿児島県出水市でお生まれになっています。日中戦争(支那事変)から太平洋戦争へと続く戦争一色の時代に幼少期を過ごされています。

昭和34年に広島大学教育学部を卒業後、広島県の私立高の教師となられます。しかし、2年後に退職し、熊本県の公立学校教員になられています。初任地は天草町立下田中学校でしたが、翌年の昭和37年には牛深高校、昭和40年には水俣高校へ赴任されています。

両校では進路指導部に所属され、希望者を募り課外授業を企画実施するなど、大学進学や就職など生徒たちの夢の実現に尽力されています。また、この頃から青少年赤十字(JRC)同好会の奉仕活動として、生徒たちの絵画を海外へ送るなど日本文化の発信に努めておられます。

昭和45年に県教育委員会へ抜擢され、教員採用や組合対策等の人事管理事務に従事されます。当時の組合運動は今では想像もつきませんが、苛烈なストライキを始めとても活発で、団体交渉を始めその対応には相当な苦労をされたことでしょう。先生の沈着冷静で粘り強い性格はこの時の経験が大きく影響しているのかもしれませんね。

昭和47年には開校十年目を迎え、進学面での実績が次第に現れ始めた我が二高へ赴任されました。先生の大人びた佇まいを思い出すと、「意外」と云えば失礼ですが、当時なんと35歳の若さでした。

二高では、進連協(高等学校進学指導協議会)の事務局として、県下一斉模擬試験や進学資料づくりに奔走され、二高はもちろん県下各高校の進学面での向上に貢献されています。

部活動ではユースホステル同好会の顧問をされ、阿蘇から熊本までのナイトハイクは今でも参加者の記憶に深く刻まれています。

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ユースホステル顧問として引率されたナイトハイク
(最後列が瀬下先生、昭和48年9月)


先生のご自宅は二高からほど近い若葉町。周囲には二高生の下宿が多く、先生はしばしば不意を突いた下宿訪問をされ生徒の生活や健康を気遣っていたようです。
(詳しい話は  ☞  ここをクリック

二高での勤務が十年を経過した昭和57年10月、新設が決まった熊本北高校の設立準備室職員に指名されます。当時は江津高校内(現在の湧心館高校)に校長、事務長を加えた僅か三人態勢で、翌年4月の開校までの限られた時間に施設設備・校章制服・各種規定・カリキュラム編成から入試対応まで、膨大な事務を処理されています。

滅多に経験することのない稀有な仕事ですが、前任校の二高で見聞きした新設時の苦労話や事例は大いに役立ったことでしょう。

全国的にもまだ珍しく九州では初となる「英語科」の設置には、先生も特に力が入ったことでしょう。外国人教師を招聘したり、英語弁論大会での上位入賞を勝ち取ったほか、モンタナ州への教師派遣など、生徒のみならず先生方への意欲的な取り組みが功を奏します。なんと第1回卒業生から華々しい進路実績を記録し、あっと言う間に進学校の仲間入りを果たしていきます。

その後、北高教頭水俣高校長を経て、平成2年に再び県教育委員会へ呼び戻されます。高等学校教育課ではモンタナ州への教師派遣などに尽力し、学校人事課長として県立学校の人事管理を始め、主任手当問題など組合と対立していた諸課題の正常化に向け指揮を執られています。

平成4年には、新たに単位制高校としてスタートした湧心館高校の校長に転出されています。これまでとは大きく異なる特色を持つ高校だけに、軌道に乗せるために職員と一緒になりながら悪戦苦闘されたことでしょう。毎週土曜日に地域住民にも開放した「英語会話」講座はユニークな取り組みとして好評を博したそうです。

退職を二年後に控えた平成7年、最高ポストの一つである済々黌高校の校長に昇り詰めます。県下一の歴史と伝統を誇る進学校であるものの、高校入試の成績から見ればまだまだ伸びる可能性を秘める生徒が多くいることに憂慮されたようです。一、二年時の学力向上の必要性を唱え、部活動における効率的な練習を訴え、進学実績の更なる向上を図られました。

退職後に大きな病気を患われたそうですが、手術にも耐えられ元気に過ごされていました。平成30年に開催した11期生の還暦同窓会「還暦プラス2」では、軽妙な歌を交えながら元気な姿でご挨拶をいただいたことが懐かしく思い出されます。

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♪会いたかった ♪会いたかった ♪会いたかったyes ♬
軽妙な歌を交え元気に挨拶する瀬下先生

 
瀬下先生を囲んで
教え子に囲まれ幸せそうな瀬下先生


熊本地震でご自宅が半壊したため、先生は奥様とご一緒にお嬢様のお宅に同居されていましたが、今年1月14日に容体が急変し救急車で搬送されたものの、懸命の手当ても虚しく逝去されたそうです。

本来であれば沢山の教え子たちに見送られるところ、折しも新型コロナの猛威が吹き荒れ、通夜や葬儀でのお別れも叶わず旅立っていかれました。

ここに瀬下亨先生の功績を讃え哀悼の意を表すとともに、安らかなるご冥福を心よりお祈りいたします。


瀬下 亨 先生の Biography:

昭和11(1936)12月 鹿児島県 出水市生れ
昭和34(1959)  3月 広島大学 教育学部 高校外国語科卒業
昭和34(1959)  4月 広島県 私立祇園高校 教諭(S34~35年度)
昭和36(1961)  5月 天草町立 下田中学校 教諭(S36年度)
昭和37(1962)  4月 牛深高校 教諭(S37~39年度)
昭和40(1965)  4月 水俣高校 教諭(S40~44年度)
昭和45(1970)  4月 熊本県教育委員会 学務課主事(S45~46年度)
昭和47(1972)  4月 第二高校 教諭(S47~57年度)
昭和57(1982)10月 熊本北高校 教諭(S57~59年度)
昭和60(1985)  4月  同上   教頭(S60~63年度)
平成 元(1989) 4月 水俣高校 校長(H1年度)
平成  2(1990)  4月 熊本県教育委員会 高等学校教育課審議員(H2年度)
平成  3(1991)  4月  同上      学校人事課長(H3年度)
平成  4(1992)  4月 湧心館高校 校長(H4~6年度)
平成  7(1995)  4月 済々黌高校 校長(H7~8年度)
平成  9(1997)  3月  同上退職
平成  9(1997)  4月 熊本電子ビジネス専門学校 校長(H9~18年度)
令和  4(2022)  1月 逝去

叙勲

平成20(2008)  春  瑞宝小綬章

 

楠本雄二(32組)
林俊一郎(39組)


瀬下先生からのメッセージは以下をクリック



明けましておめでとうございます。
2022年。新年を迎えました。

ここ1、2年はコロナに一喜一憂の年でした。「今年こそは...」という言葉を何回使ったことか。
昨年の秋口から初冬にかけては一段落した感はありましたが、新たな変異株の出現・感染拡大と、やや心配な状況になってきました。
果たして「今年こそは...」を使うことなく、コロナを気にせずに暮らせる年となるのか、祈るばかりです。


今回は、「熊本復興支援プロジェクト」として、現在、県内8ヶ所に設置されたマンガ「ONE PIECE」(作:尾田栄一郎氏)を題材にしました。

このプロジェクトは、熊本地震からの復興をテーマとして6年前にスタートしました。この間、大きな水害ありコロナ禍ありで、どれもキーワードは復興

復興」=「平和な日常への道」ととらえ、ピースつながり?で、海賊団「麦わらの一味」が、すべて人々の平和な日常を make してくれたらいいな! なんて思いながら、製作しました。(ちょっと大げさ)

切り絵は、写真をもとにデザインし、切り取りました。ですから、人物の表情、細かな明暗や凹凸がはっきりせず、実際の姿や形からかけ離れている面も多いです。雰囲気だけでも感じていただけたらうれしいです。

ストーリーと各キャラクター、そしてその設置場所は・・・・。

波乱と冒険に満ちた大海賊時代に、海賊王が残した財宝「ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)」をめぐり海賊たちが戦っていくなか、1人の少年が信頼できる仲間を集め「麦わらの一味」を結成、〝海賊王〟をめざし大海原へ乗り出していく物語。

① ルフィ N
① ルフィ 熊本市 県庁
主人公で、海賊団「麦わらの一味」の「船長」です。



② チョッパー N
 ② チョッパー 熊本市 動植物園
麦わらの一味の「船医」で、獣・人型に変身できます。


③ ウソップ N
③ ウソップ 阿蘇市 阿蘇駅前
麦わらの一味の「狙撃手」。臆病でお調子者キャラです。


④ ロビン N
④ ロビン 南阿蘇村 東海大学阿蘇校舎
麦わらの一味の「考古学者」です。

⑤ ナミ N
⑤ ナミ 西原村 俵山交流館 萌の里
麦わらの一味の「航海士」。かなりの酒豪です。


⑥ フランキー N
⑥ フランキー 高森町 高森駅前
麦わらの一味の「船大工」。
体内に様々な武器を隠し持つサイボーグ。


⑦ サンジ N
⑦ サンジ 益城町 ミナテラス
麦わらの一味の「コック」。常にタバコを加えるヘビースモーカー


⑧ ブルック N
⑧ ブルック 御船町 ふれあい広場
麦わらの一味の「音楽家」。ョークを飛ばす、ひょうきん者。


⑨ ゾロ
ゾロ大津町 中央公園
麦わらの一味の「剣士」。異名は「海賊狩りのゾロ」。



ジンベイ  未定



※「ジンベイ」は設置および公開され次第、また、お届けします。


3年5組  渡邉 大



ケンケン

ストレスフリー
笑顔の愛犬ケンケン 


世の中にはストレスがいっぱいある。
逃げれる小さなストレスからは逃げればいい。でも逃げれない大きなストレスは皆さんどうしてますか?

コロナ禍や自粛生活などの「環境の変化」で、将来への不安を抱え「大きなストレス」を感じやすくなっています。ストレスを溜め込みすぎると、体調を崩したり、鬱などのメンタル疾患に陥ってしまいます。

鬱は心の風邪。誰でも風邪くらいは引くけど🤧 長引く風邪は辛いですよね。
ストレスには「怒り、不安、悲しみ」があります。

「怒り」
の特徴は、
  *すぐカッとなる
  *不機嫌になる
  *ひどく腹だたしい

「不安」
の特徴は、
  *心配事が多い
  *気持ちが落ち着かない
  *心細い

「悲しみ」
の特徴は、
  *みじめに感じる
  *自分はできないと感じる
  *希望が持てない

あなたに当てはまる事がありますか?? そのストレスのタイプによって対処法が違ってくるのです。

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クリスマスバージョンの寄せ植え
土いじりで心が安らぐ💕


怒らないことを目指すといった精神修行ではなく、知識と技術を使って「怒り」を取り扱う「スキル」が必要です。そのスキルは「アンガーマネジメント」と呼ばれています。

まずは、あなたの怒りのタイプはどれか診断してみましょう。

(1)公明正大タイプ マナー違反や社会的に正しくないと思うことについて怒りを感じやすいタイプ

(2)博学多才タイプ なんでも白黒をつけないと気がすまないタイプで、はっきりしないことや人に対してイライラする傾向がある

(3)威風堂々タイプ 自分が一番でいたいと思っているタイプで、軽んじられたり、大切にされなかったりすると、怒りを感じやすい

(4)外柔内剛タイプ 自分が決めたルールから外れることを嫌がるタイプで、表向きは穏やかだが、自分ルールから外れるとイライラしやすくなる

(5)用心堅固タイプ ものごとをネガティブな方に誇張して考える傾向があり、周りが大ししたことがないと思っていることでも、必要以上に悪くとらえて怒ってしまうことが多い

(6)天真爛漫タイプ 後先考えずにとにかく行動し、なかなか思ったように進まない、時間がかかるということにイライラしやすいタイプ

たとえば、あなたが天真爛漫タイプに当てはまるのならば、イライラし始めた際に「思ったとおりにいかないから、イライラしているだね!」と自分で判断し、「焦らなくてもよいから、もっと寛大な心でいよう」と思い直すことで、無用なイライラを防ぐことができます。

自分の「怒り」の傾向を知ることは、「怒り」をコントロールするはじめの一歩になります。

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ご馳走様のケンケン 


☆「不安」はどんな人にもあります。過去や現在は見えても未来は見えないから当然です。
それが酷くなったら不安障害という病名が付き、抗うつ薬などの薬物治療になります。

その前に不安にのみ込まれない為には,心と体をリラックスさせる事が重要です。そこで,リラッ クスを貯めておける「自己統制法」があります。脳は,体温が上がると「体がリラックスして いる」と判断し,さらにリラックスするように体に指令を出します。この仕組みを使って行います。 

① 椅子に座って背筋を伸ばし,体の力が抜ける程度に息を吐きながら寄りかかる(背中はあまり 丸めない)。

② 目を軽くつぶり,手を太ももの上にのせる。

③ 首から肩,肩から両腕の力が抜ける感じをイメージする。

④ 両手のひらで太ももの温かさを感じる。

⑤「気持ちが落ち着いていて、両手のひらが温かい」と2回ほどイメージする。

⑥「気持ちが落ち着いていて、両ひじから両手の指先まで温かい」と2回ほどイメージする。

⑦「気持ちが落ち着いていて、両肩から両ひじ,両手の指先まで温かい」と2回ほどイメージする。

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温泉に行きたいなぁー


体温を上げると言う意味ではランニングなどの有酸素運動も効果的です。散歩は思考を整理でき、ランニングは思考をオフ状態にできると言われています。

可愛い動物の動画を観たり、自分の腕を撫でたりするだけでもリラックス効果があります。またヨガも呼吸法や適度な運動になるシークエンスにより、セロトニンが分泌され、幸福感がアップすると言われています。

私は3時間 時間がとれれば温泉やジムのサウナに行って無理やり自分をリラックスさせた後、仕事をします。友達を誘ったら、ゆっくりできないと断られました。 笑

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熊本地震の一ヶ月後、14歳で天国に
思い出ありがとう👋


☆「悲しみ」には、身近な人やペットとの死別や別れなど抱え切れないほどの大きなストレスがあります。そんな悲しみのストレスを受けると、幸せホルモンのセロトニンが不足します。

すると、活力がなくなり、無気力になってしまいます。我慢せずに泣くのも治療になりますが、そんな時に一定のリズムの運動を行うと幸せホルモンが分泌され活力が戻ってきます。

オススメの方法は、まな板の上で包丁をトントンと一定のリズムで動かす事。他にも、散歩やペン回し、ガムを噛む事でも幸せホルモンが分泌されるそうです。

また悲しい時は何もやる気がなく、いわば受け身の状態になります。そんな時に川のせせらぎを聞いたり、揺れる炎を見つめたり、炎のパチパチとした音を聞いたりすると副交感神経が優位になりストレスが軽減し心がリラックスできます。

本物の火だけでなく、動画でも同等の効果が期待できるそうです。

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暖かい薪ストーブで癒される


いかがでしたか?
このブログで少しはリラックスできましたか?

人生思うようにはならないよねー
自分の身は自分で守らないと誰も守ってくれません💦

私も今回ストレスの中 いろいろ調べてみました。因みに私は「⑥天真爛漫タイプ」でした。考え過ぎて自分でストレスを作る事もあるよね💦 

ストレスは細胞レベルにまで影響を及ぼし寿命を縮めることが明らかになっています。ストレスで心臓などの循環器やガンなどの病気を引き起こさない様にしましょう!

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地球脱出 🌏 無重力で心も体も解放しましょ ❣️


では またお会いしましょうねー
年末の忙しい中 コメントはしなくていいですよー
皆さま こころの刃にやられない様にストレスと上手に付き合って良いお年をお迎えください。


       EIKO(3年9組)


☆☆☆ 追伸 ☆☆☆:

無料で新型コロナウイルスの抗原検査PCR検査が薬局で受けれる様になります。

飲食、イベント、旅行、帰省などの為、ワクチンを接種できない人にも、薬局で陰性証明をもらい行動制限される事のない日常生活が戻ってきます。

飲み薬も承認されたり、もう出口がそこまで見えてきました💕


参考文献:
NHKためしてガッテン科学のワザで脳から若返る
日本アンガーマネジメント協会
厚生労働省こころもメンテしよう


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芦北地域に伝わる伝統「うたせ船漁」


連日の夏日から一転、寒気団に覆われた10月の日本列島。幸いにも寒すぎることもなく穏やかな秋日和となった10月24日(日)。池山哲夫君の企画・プロデュースによる探訪遠足第三弾が開催されました。

第一弾は  ☞  こちらをクリック👆
第二弾は  ☞  こちらをクリック👆

今回は、彼のホームタウンである「山」から、趣味のプレイランドである「海」へと探訪の範囲を広げ、「芦北観光うたせ船体験ツアー」を企画立案してくれました。

うたせ船」とは、大きな白い帆で風を受けながら潮の流れに身をまかせ、底引き網漁を行う船のことです。「不知火海の貴婦人」とも呼ばれる優美な姿は、八代海・不知火海の原風景の一つになっています。

午前十時に「イオンモール熊本」(嘉島町)に集合の予定だったのに、コロナ禍で久し振りとなるお出かけに、参加した8名は嬉しくてうれしくて夜明けを待ちきれず(多分…)、予定より30分も早く全員集合してしまいました。

船酔いするかも・・・」と、池山君からの脅し(?)とともに一錠ずつ酔い止め薬を渡され、一瞬みんなに不安が広がりました。(実は、彼はああ見えても新幹線でも酔ってしまうほどの極度の酔い症でした(^^;) )。脅しが効いたのか、慌ててマスクを着けたまま薬を口に放り込むオッチョコチョイもチラホラ。

早速、車2台に分乗して芦北町の「計石(はかりいし)港」を目指し出発しました。
余裕で到着した港で待機していた船は、快適なラウンジとトイレや洗面台が完備された「レディース船」で思ったよりも大きな船でした。

出航時刻まで待ちきれず、はしゃぎまわるジジ・ババ達を見かねた船頭さんの粋な計らいで、予定を早めてもらい11時過ぎには計石港(航跡図のA地点)を出航!

航跡図4
観光うたせ船の航跡図


天草市の御所浦島(ごしょのうらじま)と上天草市龍ヶ岳町の樋ノ島(ひのしま)、そして芦北町田浦の御立岬(おたちみさき)に囲まれたトライアングルの真ん中付近の漁場(B地点)を目指し、しばしクルージングの旅を楽しみます。

幸い波は穏やかで、心地よい海からの潮風を受け一同ホッとしたところに、お待ちかね昼食の時間です。

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大漁を祈願して何はともあれ先ず乾杯!


ラウンジのテーブルには食べきれないほどの新鮮なお刺身や魚介類の御馳走がいっぱい。船上で食べる食事は殊のほか美味しく、ついつい食べ過ぎてお腹がいっぱいになってしまいます。

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新鮮なお刺身や魚介類がいっぱい!


出航から30分ほどで目的地の漁場(B地点)へ到着。
水深70㍍の海底まで底引き網を下ろし、帆を広げ風の吹くまま網を引く芦北地域に伝わる昔ながらの伝統漁法を満喫します。(C地点→Ð地点

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熊本地震からの復興を願い全国の小学生から集めた
「太陽の笑顔」を虹色に染めた帆のレディース船

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船上でのんびり過ごしながら記念撮影

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 虹色の帆をバックにハイポーズ ✌

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何が釣れるか期待に胸を膨らませる11期生元乙女


底引き網を引く三時間の間、「太刀魚釣り」にも挑戦です。昔ほど釣れなくなったそうですが、それでもしばらくすると釣り糸の先にキラキラと輝く銀色の太刀魚が!さらに、刺身にできる丸々と太ったアジも釣れるなど、期待に違わぬ釣果にみんな大感激!

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湯島に4年赴任していた中ちゃんも大感激 (^^♪
 
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クジラが釣れたらどうしましょう (^^;) 
おやおや、こちらは捕らぬ狸の皮算用 (^^)/


風と潮にまかせて網を引くこと三時間、気が付けば船は芦北町の海浦(うみのうら)の沖合付近(Ð地点)まで流されていました。

さあ、いよいよ、先程入れた底引き網の巻き上げ開始です (*^^)v
なにが網にかかっているのか固唾を呑んで見守っていると、女性陣の黄色い歓声とともに魚や海老が次から次へと姿を現します。

なかにはエイやフグも混じっていて、その不気味な姿に女性陣もおっかなびっくり!

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ギョギョ魚ーッ😨
いろんな獲物におっかなびっくりの女性陣


でも、不知火海の名物「アシアカエビ(足赤海老)」を見つけると、生きたままその場で皮をむいて丸かじり。新鮮だから醤油など一切無用! 甘くて美味しいうえにプリプリした食感は絶品ものでした。なかには4~5尾をペロリと食べた貴女もいましたっけ (^^;)/

漁期としてはシーズンオフとのことで、「あんまり釣れないかも・・・」と心配していた船頭さんも一安心。

感動と感激、そして沢山の釣果に満足顔のみんなを乗せた船は、午後三時頃に計石港に無事帰港しました。釣果を心配した船頭さんがあらかじめ用意してくれた魚も配られ、とても食べこなせないほどの大豊漁となりました。

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船酔いする人もなく、沢山の収穫と
貴重な思い出を乗せて無事に帰還


帰路の途中には、道の駅「芦北でこぽん館」に立ち寄り、地元の特産品もゲット。参加者宅のその夜の夕食は、きっと芦北のグルメで大宴会になったことでしょう。

心地よい疲労感とともに満喫した秋の一日を過ごすことができました。
こんな素晴らしい休日が過ごせたのも池山君のおかげです。感謝の気持ちと次回企画への期待で胸が一杯だよ~ (^^)/

あ💡 池山君は早くも次の企画を思案中のようです。
そうなのです! 彼はご幼少の頃から正義感の強いボス猿(失敬!級長さん)的存在でしたが、仲間のためなら何でも一肌脱ぐとても献身的で気立てのよいナイスガイなのです。
(ヨイショっと... (^^;) )

11期生の皆んななら、だれでも大歓迎だよ!」とは彼からの心優しいメッセージです。次回はあなたも是非、参加してみませんか 🙋


参加メンバー8名  (旧姓で統一)
  
田添幸子、田端志保美、村上ひとみ
池山哲夫、古瀬健司 、中坂忠信 
林俊一郎、山口敬介       

       

我が家のコスモスもすっかり花は終わり、晩秋の雰囲気となりました。

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現役を離れて約二年半経ちました。
最近は今年小学校に上がった上の孫と保育園に通う下の孫の孫守り生活が続いています。
三月までは両親が保育園まで迎えに行き、たまに仕事が遅くなるときだけ私が迎えに行く程度でしたが、四月の異動で親の部署が変わり、なかなか定時には帰れなくなりました。そこで毎日プータロー生活の私が中央区にある小学校に児童育成クラブが終わる頃に迎えに行き、保育園に下の孫を迎えに行って北区の我が家で親が迎えにくるまで孫守り。迎えが遅くなる時は夕食を食べさせます。

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仕事を離れて約二年半経ちますが、テレビや新聞で選挙のニュースを目にしたり、外出先でポスターを見かけたりすると思わず見てしまう。
これっていまだに「職業病?」と苦笑してしまいます😊(笑)。

そんな中、10月に衆議院議員総選挙が行われることになりました。
選挙があれば臨時職員として雇ってもらおうかなぁなどと勝って思ってましたが、毎日の孫守りがあるので今回は無理だなぁと思っていました。
すると前の職場から電話があり、臨時職員として来てくれないかとのお誘い。
しかしながら孫守りがあるので今回は難しいとお断りしました。ところが市役所の臨時職員採用の方法が変わり、一日5時間半勤務が出来るとのこと。
そこでそれで良ければ大丈夫ですよと答えるとOKとのことで、さっそく履歴書を持って雇用面接に行きましたところ、採用していただけることとなりました。

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風も冷たくなった朝もやの中をスクーターに乗り久しぶりの通勤です。
相変わらずの通勤渋滞、見覚えのある通勤の車や以前もすれ違っていた同じくスクーターで通勤される方や通学の学生たち。
もちろん一面識もなく話したこともない方々です。
しかし変わった風景もあります。
家がなくなったり新しく建て替えられたり平地になってたり、お店も変わってたりなくなったり。自転車通学の学生も当然生徒は変わってます。
徒歩で通勤されていた方の中にはお見かけしない方も……。

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職場の職員の顔ぶれは少し変わりましたが、幸いなことに以前一緒に仕事をしたことがある方々で、二年半のブランクも感じることもなく、すぐに馴染んでしまいました😅
同じフロアーの他課の方も「お元気でしたか?」と挨拶していただき、「やっぱり来ましたね」と笑顔の後輩たちも暖かく迎えてくれました。
その優しさと暖かさに感謝感謝です。

庁舎ですれ違う職員の中には顔馴染みもいて、一瞬二度見されて「えっ❗」と言うような顔をされて挨拶してくれます☺️
それでも今までお気楽なプータロー生活をしていたため、果たして体力が持つかなぁと心配してましたが、選挙期日が予想より1週間も早くなり職場はバタバタ。
それにつられてきついと思う暇もなく仕事が出来ました。
それでも最初土日はバタンキューでした。

選挙も終盤になると忙しくなり、仕事をしている妻に時間休を取って孫守りを交代してもらい土日も出勤、時には午後9時過ぎまで仕事したり、投開票日の31日は久しぶりの朝帰りでした😁💧。

それでも皆さんに支えられて、「よもや よもや」で始まった臨時職員も無事に終わりました。
やっぱり疲れました😖💦
体力の衰えはさすがに隠せません。

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ちなみに「復活の日」は「日本沈没」でもお馴染の「小松左京さん」のSF小説で、現代とも重なる「新型インフル」にまつわる話です。
1980年には映画化され「草刈正雄さん」主演、主題歌を「ジャニス・イアンさん」が担当された大作です。

果たして私には「復活の日 」が再び訪れるのか?
それは自分の気力と体力次第で、神のみぞ知るところでしょう😊(笑)



追伸
今年も11月となり「年賀状発売」の頃となりました。
お正月の楽しみのひとつでもあり、離れている友人知人たちの近況を知る数少ない機会のひとつですが、時には突然の訃報に接する時期でもあります。
これまでは友人たちのご両親の訃報がほとんどでしたが、昨日届いた訃報は中学高校と同じ学校で、時には家まで遊びにいったり、就職浪人中には友人数人と今は移転してしまいましたが千葉城の県立図書館のスタディルームで朝から夕方まで、希望の就職先を目指して勉強し、全員揃って笑顔で春を迎えた仲間です。
お互いに退職し、同じ熊本に住んでいるのだからいつでも会えると思いつつ最近のコロナ禍でなかなか会えずいたところでした。
「しまった! こんなことになるなら「還暦プラス同窓会」の時にもっと話しておけば良かった。」
その時には「元気?」と一言二言言葉を交わしただけで、それが最後の別れになるとは………😭
笑顔の素敵な友人でした。
あの笑顔はいつまでも心の中にいます。


生かされている奇跡に感謝します。
皆さんも身体には気を使ってご自身を大事にされて下さい🙋
また、みんな元気でお逢いしましょう☺️



三年四組 坂本眞二



大規模校で勉強するように」との恩師の計らいで玉名高校へ異動して8年。働き盛りの36歳となった昭和41年4月、旭先生はふたたび恩師のもとに舞い戻ります。新たな赴任先は熊本市内で実に60年ぶりの県立普通高として開校まもない第二高校でした。


1. 二高躍進に向けて

1.1 恩師の奮闘努力

二高の初代校長である広永政太郎氏の手記 1)には、創立まもない二高の先生方について、「若い前途に富む溌溂たる有為な人物を集めた」と記されています。進路指導で頭角を現し始めた旭先生も恩師である広永校長が呼び寄せられたお一人だったことでしょう。
 
広永校長と松田教頭
開校を目前に改修を終えた本館前にて
左:松田教頭(第二代校長)、右:広永初代校長
(昭和37年3月、二の丸にて)


広永校長が有為な人材にこだわった背景には、「大衆教育化した高校教育において、今日の異常なまでの入学時の学力格差は、生徒の間にエリート意識や挫折感を入学当初から植え付け、教育環境上からも甚だよろしくない 1)」と、伝統と偏差値で序列化された熊本市内の高校間格差の是正が必要との信念があったからでしょう。

広永校長は機会あるごとに「総合選抜制」の必要性を訴えておられます。しかし、ヒエラルキーの頂点に君臨する伝統校がみすみすその座を放棄するはずもなく、表向きは「各学校の伝統破壊」を論拠とした反対を受けます。

それでも、「学校の伝統なるものは、質を前提としたものでは絶対になく、またあってはならない」と一歩も引かず、テレビ討論会などを通じ世論喚起に尽力されました。しかし、自校エゴイズムと批判されたり、理数科の設置でお茶を濁され、いつしか立ち消えになってしまいました 1)
 
3-S
三年間担任した理数科の諸君と旭先生
(昭和49年秋頃)


広永校長としては、高校間格差の是正には伝統校に引けを取らぬ『生徒から選ばれる魅力ある学校』づくりが重要との思いに至り、校名変更や有為な教師集めに尽力されたのでしょう。

第二高等学校二十年史 2)」を編纂・執筆された山野勲先生 ― 二高在籍が16年(S44~59)もの長期に及んだ理由は、この「二十年史」の執筆を命ぜられたからだそうです ― は、この校名変更について次のような秘話を語っています。

広永校長は東町への移転と同時に『時習館高等学校』と改称することで県当局と調整を図り、校名変更となるはずだった。しかし、一部の卒業生らの知るところとなり思わぬ反対運動が起こり、当局も県議会への提案を断念することになった。

卒業生や在校生へのアンケート調査では変更賛成が多数 2)であったことを考えると、俳人であり校名の大切さを熟知していた広永校長はさぞ無念であったことでしょう。総合選抜や校名変更に注いだ努力は水泡に帰したものの、有為な教師集めは実を結びます。

その狙い通り、旭先生が赴任された頃の二高は、例えば、熊大への現役合格者は僅か1名という年もありましたが、先生が去る十年後には現浪併せて60名に達するなど、進学校の仲間入りを果たしていきます。

1.2 生徒から刺激を受けて

旭先生が卓越した指導力を発揮できたのは、生徒と切磋琢磨する機会を得たことが大きな原動力だったようです。先生は昭和44年から20年間、県の許可を得て毎週日曜日に予備校「壺渓塾」で浪人生に英語を教えています。

一度受験に失敗したものの捲土重来を心に期した人たちの集団です。「教室は凄まじいばかりの熱気にあふれ真剣そのもの。授業が終わると質問する生徒が列をなし、自分自身の学力のなさに驚き、『生徒に刺激を受けて』勉強しなければならないことを自覚した。ここでの20年がなかったならば、きっと違った高校教師の道を歩んでいたはず。」とのちに回顧しています 3)

また、受験は学力だけでは合格できず人間性も試されることを生徒たちから教えられ、「自分自身の人生勉強になった」とも記しています 3)

そんな頑張っている人たちを見ていると、無気力・無関心で怠惰な時間を過ごしていた当時の私たちに、先生の指導が厳しくなるのは無理もなかったでしょう。でも、いま振り返えれば、生徒を思いやる温かい心遣いの裏返しだったと気付かされます。

旭先生1
 第二高校時代の旭美輝夫 先生


1.3 緊張と笑いの授業

さて、その旭先生の授業といえば、とてもユニークなものでした。リーダーの授業ではテキストは開かないのです。事前に単元まるごと暗記してくることを求め、センテンス毎に指名し暗唱しているか確認するのです。

その際、名前と出身中学が書かれたカードを、トランプを繰るようにシャッフルし、出てきた順に次々に当てるのです。答えられないと立たされたままです。いつ当たるか分からない恐怖と緊張の連続でしたが、予習復習の重要性を知らしめ習慣化を狙っていたのでしょう。

緊張は授業の開始前から始まります。始業チャイムが鳴る2~3分前に先生は勢いよく職員室を飛び出し、渡り廊下を猛然と駆け足でやってくるのです。その鬼気迫る血相を見て、「うわ~、くるぞ~」と教室中に緊張が走ったものです。はたして始業チャイムが鳴り終わる頃には、恐怖のカード・シャッフルの餌食がチラホラ...。

でも緊張ばかりではありません。しばらくすると脱線したり笑いの渦に包まれます。
今の君たちにとっては、東大も商大も一緒だ!どっちも通らない!
耳にタコができるくらい聞かされた先生一流のハッパをかける挑発フレーズです。

その甲斐もあってか、先生が回答を求める際に発する「Anyone?」(誰か分かる者は?)を聴くや否や、教室中のみんなが我先にと勢いよく手を上げたのはとても印象的でした。なかには分からぬまま手を挙げる強者もいましたが、あんなに活気溢れる授業は後にも先にも経験がありません。

”旭マジック”とでも呼ぶ不思議で巧みな魔術を持っていたのか、それとも経験によって研ぎ澄まされた勘どころに裏打ちされたものだったのでしょう。

1.4  爆笑「放屁」事件

先生の授業は緊張に満ちた50分でしたが、こんなこともありました。

いつものように、カード・シャッフルで次々と当て、教室中の緊張が最高潮に達していた時、最前列に座っていた○○君が当たりました。よほど彼は緊張で力が入っていたのでしょう。

起立した途端、あろうことか「ぷー」という音が教室中に鳴り響きました。まさかの事態にクラス一同、顔を引きつりシーンと静まりかえった次の瞬間、こらえ切れずに一斉に噴き出し大爆笑!

真正面にいた先生は、突然の出来事に「ぼ、ぼくも二十年近く教師をしているが、授業中に目の前でオナラをされたのは、は、はじめてだ!」と、鳩が豆鉄砲を食ったように目をまん丸にして呆然とされた顔がまた可笑しくて、さらに大爆笑! いま振り返ってみても、緊張と笑いに包まれた懐かしい授業でした。

陽気な先生
厳しい先生も酒宴では、一転して気さくで陽気です
後方には、軸屋一郎先生もいらっしゃいます。
 
同窓会3
初めての11期生ミニ同窓会(S50夏)
真中が旭先生。左には瀬下亨先生も写っています。


2. 「黒い秀才」~名門復活へ向けて~

黒い秀才」を合言葉に、学校・同窓会・PTAを挙げて名門復活へ向けた運動を展開する学校がありました。かつては五高や医学部への合格者を数多く輩出していながら、その後は進学面での物足りなさが著しかった宇土高校です。

同校では英語や数学の進路指導に熱心な先生方を招かれ進学体制を少しずつ整えており、その司令塔として白羽の矢が立ったのが旭先生でした。二高で十年が経過した昭和51年の春、先生46歳の時に招聘されたのです。

当時、宇土高校長であった原田栄作氏(その後、第二高校13代校長)の手記 4)には、宇土高時代の旭先生について次のような記述が残されています。

時あたかも進路部長が旭先生で、当時先生は壺渓塾の講師もして居られ、予備校の進学指導のノウハウを即時的に持ち込まれた。不振だった本校の英語教育に新しい流れを作られたと思う 4)。」

地元の中学校成績優秀者で熊本市内の高校に進学している生徒達の三年後の進学先を調べた後、宇土高校に来ている生徒達の方が三年後にいい結果を出していることを説明して回られた。その結果、優秀な中学生が少しずつ地元の宇土高校に志願してくれるようになったようだ。職員の景気づけ、元気づけのいわゆる飲み方もこのころから増えて行った 4)。」

早朝の課外授業から深夜まで、同僚の先生方への配慮も怠らず、宇土高復活へ向け一生懸命に尽力されていたことがうかがえます。

その結果、旭先生が赴任直前の宇土高の熊大合格者は現役4名だったものが、徐々に増加の一途を辿り、ピーク時には現役だけで78名、浪人を含めると92名と、熊大合格者の上位常連校の熊高・濟々黌を凌ぎ一躍トップに躍り出るまでになりました。
 
進路ニュース
進路指導部長として寄稿した宇土高進路ニュース 5)
(昭和57年7月15日、第56号)


この頃、先生が書いた宇土高の進路ニュース 5)が残っています。それを読むと、「輪切り現象と称せられる高校間格差問題こそ、熊本県教育界最大の問題点である」と指摘し、「地元の成績トップの生徒らが熊本市内の高校へ流出する現象」にくさびを打ち込もうとする意気込みを感じます。

先生は「高校時代は精神の発達が著しく、挫折しやすい危険な時期でもある。この時期に、毎日の親子の対話がどれほど大切であろうか。その意味で大学時代はともかく、高校時代までは親元から、そして最も近い高校へ進学することが基本」との持論を述べたうえで、地元の要望に応えられる学校づくりに情熱を燃やされました。

恩師の広永校長の意志を引き継ぎ、高校間格差の解消に向けて旭先生も奮闘したことがうかがい知れます。

宇土高の躍進にはいろんな意見もあるようですが、進学を希望する生徒がいる以上、その夢の実現に向けて教師が叱咤激励するのは自然なことのように思います。宇土高が残した驚異の記録は、もちろん旭先生お一人の力ではないにしても、古豪復活の立役者のお一人だったことは確かでしょう。


3. 母校の教壇へ

昭和60年の春、定年を六年後に控えた先生は、母校の熊高へ異動します。言わずと知れた本県を代表する進学校です。母校の教壇に立つことは、教師にとってはなにより無情の喜びだったことでしょう。

旭先生の卒業証書
旭先生の卒業証書 6)、7)
(上)熊中 最後の年の卒業証書
(下)熊高 最初の卒業証書(卒業番号第1号)


放っておいても自主的に学習する秀才集団ですから、予習や復習を習慣化させる必要もなかったでしょう。逆に、優れた生徒たちからは絶えず鋭い質問が飛んできて、ごまかしたり立往生でもすれば信頼と信用をなくしかねず、ある意味張り合いの連続だったことでしょう。

二高生を鼓舞する「今の君たちにとっては、東大も商大も一緒だ!」の挑発フレーズは、さすがにここでは使えなかったでしょう。

先生はチョークを捨てて管理職へ進む道もあったでしょうが、生涯一教師を貫き教壇に立ち続けました。普通であれば、「チョークとともに38年間の教師人生の幕を下ろしました」となるところですが、そこで終わらないのが旭先生でした。

平成2年に退職した後は、真和高校で教鞭をとりますが、5年後には再び母校熊高に講師として迎えられます。

奥様によると「母校での再度のご奉公は、本人もずいぶん嬉しかったようです。毎日、朝早く出勤して正門の掃除をしていたほどです。」と、先生の嬉しさが伝わるエピソードを聴かせていただきました。
 
熊高正門
朝早く出勤され掃除をしていた母校の正門
再度のご奉公はとても嬉しかったようです


おりしも熊中・熊高の創立百周年が間近に迫っていたこともあり、授業に加えて百年史の編纂委員と記念資料展の実行委員長を兼ねることになり、忙しくも充実した毎日を送られていたようです。なお、この時に編纂された記念誌 7)は、熊日出版文化賞の候補作にノミネートされる素晴らしい力作になりました。


4. 永訣の旅立ち

熊高卒業証書第一号」、「県内最高齢の現役教師」として、熊高の生徒たちに親しまれていた先生は平成18年まで母校の教壇に立たれました。

ところが最近分かったことですが、なんと翌年の平成19年度には真和高校へ招かれていたことが分かりました 8)。さすがに常勤ではなかったと思いますが、孫のような生徒を相手に78歳まで現役教師を貫かれました。

今日まで病気のために授業を休んだことは一時間もない 9)」と健康が自慢だった先生も、さすがにその頃から体調を崩されていたようですが、教壇を降りてからは暫し悠悠自適の生活を楽しまれたようです。

時間的余裕もでき、若い頃からの英語研究の成果を専門誌へ投稿 10)ここをクリック)するなど、相変わらずエネルギッシュな活動をされています。

仕事が趣味だったような先生も、海外旅行はお好きでした。「日本の長所や欠点を外国から眺めるのは外国訪問の効用であり、英語の授業にどれほど役立ったか分からない 3)」と、どこまでも勉強熱心でした。昭和48年に国際教育交換として米国六十六日研修を始め、夏休みを利用してヨーロッパ11か国、香港、マカオ、中国、エジプトなど主要な国を訪問されています 3)

下の写真は平成21年、先生が79歳の夏、前編でご紹介した初めての教え子との同窓会で撮ったスナップ写真の一枚です。夏の真っ盛りにも拘らず、いつもと変わらぬ陽気で元気な姿が写っています。
 
清和村立小峰中(2009)004
初めての教え子と最後となったスナップ写真
右は、初任地の清和村小峰で朝夕の食事を
提供した「隣のお宅」の生徒、倉岡征之氏
(2009.8.17)


しかし、その僅か二年半後、春まだ浅い平成24年3月、突然の悲報に接することになりました。82歳の誕生日を間近に逝去されたのです。教壇を降りて四年後というあまりにも早い旅立ちでした。

通夜と葬儀には11期生を始め、斎場に入りきれない沢山の教え子たちが弔問に駆け付け、先生との最後の別れを惜しみました。

どこか憎めない愛嬌のある顔で、厳しくもあり優しくもあった先生は、天国でもいつもの調子で駆けまわっているのでしょうか。最後までチョークを持ち続け生涯一教師を貫いた先生は、きっと充実した人生だったことでしょう。

私たちにとって、学ぶことの楽しさと努力することの大切さを教えてくれた先生。出会えたことに感謝するとともに、心からご冥福をお祈りします。
ありがとうございました。


林俊一郎(3年9組)


旭美輝夫 先生の Biography:

昭和  5(1930)  6月 下益城郡生れ
昭和18(1943)  4月 旧制龍山中学(現ソウル市)入学
昭和20(1945)11月 旧制熊本中学(三年次)編入
昭和23(1945)  3月 旧制熊本中学卒業
昭和24(1949)  3月 新制熊本高校卒業
昭和28(1953)  3月 熊本大学教育学部卒業
昭和28(1953)  4月 清和村立小峰中学校(S28~29年度)
昭和30(1955)  3月 同上退職、即日採用
昭和30(1955)  3月 御船高校(S30~32年度)
昭和33(1958)  4月 玉名高校(S33~40年度)
昭和41(1966)  4月 第二高校(S41~50年度)
昭和51(1977)  4月 宇土高校(S51~58年度)
昭和59(1984)  4月 熊本高校(S59~H1年度)
平成  2(1990)  3月 定年退職
平成  2(1990)  4月 真和高校 高校部長(H2~6年度)
平成  7(1995)  4月 熊本高校 講師(H7~18年度)
平成19(2007)  4月 真和高校 (H19年度)
平成24(2012)  3月 逝去



出典:
1) 広永政太郎:私の灰皿、熊本壺渓塾、1972.10. 
2) 第二高等学校二十年史、1983.10
3) 旭美輝夫:回顧録、壺渓塾七十年、2000.10.
4) 宇土中学・宇土高校 創立70周年記念誌、1991.4.
5) 進路ニュース、「鶴城」70周年記念誌、1982.7.15
6) 熊中・熊高 写真で見る百年史、2001.3.27.
7) 熊中・熊高百年史、2000.10.30.
8) 真和50年史、2012.10
9) 旭美輝夫:私の熊中・熊高生活、敗戦-15歳の夏、2001.11.30.
10)CHART NETWORK、数研出版、56号、2008.9


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1. 事の始まり

三十代の半ば頃だったろうか、思いがけないことを訊かれました。

君は旭先生の教え子なのかい?

職場の先輩 ― と云っても、同勤したことはないのだけれど、背が高く浅黒い精悍な顔をしたジェントルマン ― からの突然の質問でした。

当時すでに重要なポストに就かれており15~16歳ほど年上の方でしたので、一瞬驚くと同時に、尊敬する先輩でもあったので妙に嬉しくもありました。

え!? は、はい。そうです! 高校でお世話になりました。

返事を聴くと、引き締まった先輩の顔は一気ににこやかな表情に変わり、とても興味深い話を語ってくれました。


2. 意外なスタート

私たち11期生にとって、旭美輝夫先生は英語の教科担当として三年間受け持たれたことから、先生の薫陶を受けた方は多いことでしょう。とりわけ、理数科の皆さんはクラス担任として、高校三年間の苦楽をともにした思い出深い先生でしょう。

さて、その職場の先輩が語ってくれた興味深い話とは、次のようなものでした……。

敗戦の混乱から立ち直りつつある昭和28年4月、高度経済成長という言葉とはおよそ無縁の山深いへき地の上益城郡清和村小峰(現 山都町小峰)に、一人の若者が降り立ちました。その若者は新制大学の一期生として、希望に胸を膨らませ教師人生をスタートさせました。

IMG_3682
校庭には九州脊梁の美しい山並みが広がります


道路の改良が進んだ今でも、熊本市内から車で2時間はかかる九州山地の秘境「緑仙峡」にほど近い小さな集落です。離合さえ困難な狭くて曲がりくねった山道を、ボンネットバスを乗り継いで行かねばならず、移動には一日がかりの時代でした。長く厳しい冬ともなれば、陸の孤島となり帰省どころではなかったことでしょう。

山合いのへき地ですから、アパートや食堂といった便利なものはなく、先生方は学校近くの民家に間貸りで住んでいました。その若者も学校から10分ほどの民家に間貸りを始めたものの、食事の世話まではできぬというので、朝夕の食事は隣のお宅で頂くことになりました。その「隣のお宅」は、若き教師が初めて受け持つ生徒の自宅でもありました。

清和村の下宿
今も残る間借りのお宅(左)と
朝夕の食事を頂いたお宅(右)
(旧清和村小峰、令和3年5月撮影)


もうお分かりでしょう。その「隣のお宅」の生徒が私の「職場の先輩」で、「若き教師」が「旭美輝夫先生」だったのです。

初めての教え子である清和村立小峰中学校(現在は廃校)の昭和29年度卒業生は、旭先生と齢の差が十歳しかなく、先生というよりは兄貴のような存在だったのでしょう。
週末には、近所の子供たちと一緒になって遊ぶ先生の姿があったそうです。

同窓会には毎回、先生をお招きして和気あいあいと賑わっていたそうです。その席上で職場の話題から偶然、私の名前が出たことが先輩からの唐突な質問につながったのです。

清和村立小峰中(S30)001
初めての教え子との記念写真 1)
二列目の右から3人目が旭先生
(昭和29年4月撮影)


へき地への赴任は教師であれば避けて通れませんが、意外にも旭先生の教師人生のスタートは高校ではなく中学校だったのです。


3. 一念発起

新米教師として2年が過ぎた昭和30年の春、25歳を目前にした旭先生は転勤されます。転出先は同じ上益城郡内の御船高校でした。

教職員異動を伝える当時の新聞記事を見ると、中学校の部には「退職者」の欄に、高等学校の部では「新任者」の欄に名前が載っています。

一方、御船高校の資料 2)では、当時一緒に赴任された先生方が「4月1日発令」なのに対し、旭先生だけが「3月31日発令」となっています。

御船高職員(昭和30年度)
御船高校での職員写真 3)
最上段の左から7人目が旭先生
(昭和30年度)


不思議に思い教職員人事に詳しい方にお尋ねすると、「その当時は義務教育学校(小中学校)から高校への人事異動はなかったからでしょう」との見解でした。

どういうことかといえば、新制高校は旧制中学から移行した歴史的経緯があるからだそうです。旧制中学の教師は主に東京や広島に設立された高等師範学校もしくは帝国大学で養成されていたのに対し、義務教育学校(小中学校)は各県に設置された県立師範学校等で養成されていたのです。
(そう云えば、夏目漱石は東京帝大を卒業して、旧制松山中学で教えていましたね)

教師に求める内容や免許の種類、さらには給与表にも違いがあったことから、人事交流は叶わなかったようです。そのため、小中学校から高校へ配置転換を希望する場合は、採用試験を受け直すしかなく、旭先生も自身のキャリアアップを目指し、再度チャレンジされたものと推察されます。

夜ともなればひっそりと静まり返える山村の間貸しの部屋で、高校教師の夢に向かってきっと頑張っておられたのでしょう。


4. 辛い少年時代

その旭先生ですが、幼い頃から随分と苦労をされたようです。
不況が深刻化し、都会では「ルンペン」があふれ、農村では「娘の身売り」が当たり前となった昭和5年のお生まれです。

小学2年生(八歳)の時にお母様を亡くされ、「そのため、小学校を5回転校した」と述懐されています 4)。まだまだ甘えたい年頃の少年にとって、母との別れだけでも辛かったはずなのに、ご親戚の家を転々とされたのでしょうか。毎年のように転校が続けば友達ができる暇もなかったことでしょう。

小学5年生からは京城(現ソウル市)に転居され、現地の旧制龍山中学へ進学します。しかし、3年生の夏、勤労動員中の開墾畑で玉音放送を聞きます。

数日後、「校庭に並んだ戦車の上でチューインガムを噛みながら眺める米兵の前で、学校長が廃校宣言。泣きながら校旗を焼いた。この稀有な経験は今なお鮮やかに我が脳裏に焼き付いている」と語っています 4)

終戦後、命からがら外地から引き揚げたものの、「最も苦しい食糧難の時代で、この時の耐乏生活は一生忘れられない」とも吐露されています 4)

帰郷した昭和20年11月に旧制熊本中学の3年生に編入が許可されたのは幸運でしたが、夜は線香送電となり灯油ランプの下で本を読む有様。卒業時に受験した五高には合格できず、学制改革でスタートした新制高校3年生になります。

5年2組
旧制熊本中学5年生のクラス写真 4)
上から二列目、右から4人目が旭先生
(昭和22年撮影)


5. 運命の出会い

さて、御船高校で高校教師をスタートさせた旭先生には、その後の人生を左右する二つの運命の出会いが待っていました。
一つは恩師との再会。もう一つは奥様との出会いでした。

旭先生は昭和24年3月に新制熊本高校の一期生として卒業されます。先生はそこで、ある人物の薫陶を受けておられます。

二高生の皆さんはよくご存知の広永政太郎先生(第二高校初代校長)でした。

山鹿校長時代の広永先生1(国体事務局だより)
若かりし頃の広永政太郎氏 5)
(昭和34年頃の山鹿高校長時代)


広永先生は、戦前から旧制熊本中学(以下、「熊高」で統一)で教鞭を執られていましたが、開戦直前の昭和16年に東京の陸軍士官学校の数学科教授に転じ、若桜の養成に献身されます。戦況が悪化した昭和18年には、希望が叶い熊本城内二の丸にあった陸軍熊本幼年学校へ配置転換となります 6)

しかし、そこで待っていたのは過酷な現実でした。三十路を過ぎて招集され、陸軍教授の恩典もなく一転して二の丸兵舎での過酷な二等兵生活が待っていました。その時に二十歳そこそこのチンピラ上官から受けた理不尽な暴力が原因で左目を失明。

戦後は職を失い医専や壺渓塾など数え切れぬ程の学校を掛け持ちするアルバイト生活。その頃を振り返り「筆舌に尽くせぬ苦しみを受けた」と回想されています 6)

終戦から二年ほど経って、「再び熊高で拾って頂くことになった時には、辛かっただけに嬉しさに涙が出たものです」とも綴っています 6)

その復帰した熊高で待っていた生徒の一人が、旭先生でした。その当時の思い出を綴った旭先生の文集 4)を見ると「数学の授業は、高度な授業のエノケン広永先生」と敬意を込め愛称で呼んでいたことが分かります。つまり、二人は師弟関係にあったのです。

御船高校での二年目の春。旭先生が再会することになった恩師とは、新任校長として赴任してきた広永先生だったのです。熊高を卒業後7年ぶりの師弟の再会となりました。

熊高(広永先生)101
昭和25年頃の熊高の職員写真 7)
前列左から6人目が広永政太郎氏


もう一つの運命の出会いは、奥様でした。
奥様の話によれば、「御船町の化粧品店に勤めていた頃、よく買い求めに来られていたのが旭先生」だったそうです。そういえば、先生はとてもお洒落でダンディでした。近くに寄ると良い匂いがしていたことを思い出します。

先日、旅先でご一緒になった年配のご夫婦が、偶然にも旭先生のご近所さんでした。その方曰く「奥様がとても綺麗で可愛らしくて、近所では評判のマドンナでした!」と何度も何度も仰っていました。

私も高校生の頃にお会いしましたが、若かりし頃の 園まり に似てとてもキュートで素敵な奥様だったことを憶えています。さぞ先生は頻繁に化粧品店に通われたことでしょう。

先生ご夫妻
仲睦まじい旭先生ご夫妻
(昭和56年秋)


先生にとって御船高校時代は、奥様との出会いに加え、恩師の下での勤務であり、俄然張り切って教育や生徒指導に取り組まれたことでしょう。その活躍されている姿が目に浮かぶようです。


6. 独自性の芽生え

御船高校で三年を過ごした昭和33年4月、「大規模校で勉強するように」と広永校長の計らいで、旭先生28歳の時に玉名高校へ異動となります。

玉名高校といえば「日本マラソンの父金栗四三氏が真っ先に思い浮かびますが、「男はつらいよ」で味のある演技をみせた俳優の笠智衆氏、さらには、激戦地ペリリュー島で壮絶な闘いの末に玉砕した日本軍守備隊長中川州男中将の母校でもあります。文武両道・質実剛健を誇る県内屈指の伝統校ですが、県北を代表する進学校でもあります。

教師としての仕事にも慣れ、オリジナリティを構築するにはもってこいの職場です。進学を目指し日夜努力する生徒たちを目の前にして、学生が習得するのは単なる知識や技術だけではなく、チャレンジすることの大切さや挫折を恐れない逞しさを伝えようと試行錯誤を重ねられたことでしょう。

少しでもやってみる価値があることなら、なんでも立派にやる価値がある」と、生徒たちへ送った先生のエールが残っています 8)。進路指導や英語研究のやりがいや面白さが実感できる絶好の環境に恵まれ、この頃から独自性の確立に取り組み始められたものと思われます。

なお、同校の百年史 9)を見ると、ほぼ同時期に山野勲先生と同勤していたことが分かりました。お二人はその後、二高でも同勤、さらに退職後は真和高や熊高でご一緒するなど、通算すると19年間も職場をともにした深い繫がりがありました。

山野先生
今年「米寿」を迎えられた山野勲先生
好きな言葉は「短気は損気、明日は天気」
旭先生の思い出を熱く語ってくれました。
(令和3年10月9日、ご自宅にて)


山野先生によれば、「玉名高時代の二次会は、立願寺温泉近くのバーが多かったが、旭先生は兎に角、ダンスがお上手でした。ワインがお好きで、ご自宅へお招きいただいた時に、初めてワインなるものを飲み、『やっぱり英語の先生は違うな~』と感激したことを憶えています。

一方で、「旭先生はとても勉強家で、自身の英語磨きにも手を抜かれることはありませんでした。『時事英語研究』という専門誌で開催されていた英作文の懸賞問題に毎月投稿されていましたね。席が隣同士だったこともあり、課題を英訳する前に日本語で別の言い方がないかよく相談を受けました。」と、懐かしそうに語ってくれました。

二人は四歳違いの先輩後輩ですが、その後も北海道旅行に一緒に出かけるなど親密な交友が続いたそうです。

昭和41年4月、8年間勤務した玉名高校から、旭先生は恩師が校長となった新設間もない第二高校へいよいよ異動されます。そのお話は後編をお楽しみに。

次回へ続く


林俊一郎(3年9組)


出典:
1) 清和村立小峰中学校記念誌、1995.3.
2) 五十年史・御船高等学校、1973.12
3) 御船高校80年のあゆみ、2002.2
4) 旭美輝夫:私の熊中・熊高生活、敗戦ー15歳の夏、2001.11.30.
5) 国体めざして、国体事務局だより、熊本県、1960.
6) 広永政太郎:私の灰皿、熊本壺渓塾、1972.10.
7) 熊中・熊高 写真で見る百年史、2001.3.27.
8) 江原創立百周年記念号、NO.36、2001.3.
9) 玉名高校百年史、2009.6




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『クラフト・イン・上益城 2021』の案内状

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約二千点もの多彩な工芸品がお迎えします


陶芸家である高田一道君(3年8組)ら上益城在住の匠人による工芸展が下記により開催されます。
陶芸、服、バック、アクセサリーやインテリア雑貨など8人の匠による元気な作品展です。

コロナ禍で大変な時ではありますが、いろんな工芸品に触れ、気持ちだけでも明るくなって頂ければ」と代表を務める高田君が語っています。ご来場をお待ちしてます。



  日時:8/11(水)~15(日) 9:30~17:30 (最終日は16:30迄)
  場所:熊本県伝統工芸館(熊本市中央区千葉城町)

高田君の作品については、当ブログ「157) 「一道窯」作陶展を観覧して」をご参照ください。
なお、開催を伝える紹介記事が熊本日々新聞に掲載されておりますので、ご参考までに (^^)/


熊日報道001
熊本日日新聞(令和3年8月12日朝刊)



ビルマの竪琴」は、小説家 竹山道雄が書いた児童文学です。私たちが生まれた1956年と1985年には、ともに市川崑監督によって映画化もされています。

ビルマの竪琴


太平洋戦争直後のビルマ(現在のミャンマー)を舞台にした物語です。亡くなった日本兵を鎮魂するために現地の僧侶となった竪琴の名手である日本兵が主人公となっています。

お話の中で「埴生の宿」という歌が歌われます。(歌詞は後述。原曲はイギリスのビショップ作曲の「ホーム・スウィート・ホーム」)

「埴生の宿」は「埴(土)むきだしで、みすぼらしい、粗末な家」という意味ですが、歌詞からは「みすぼらしくとも我が家に勝るものはない」という思いが伝わってきます。

主人公の水島上等兵たちが歌う日本語の「埴生の宿」にあわせ、イギリスの兵士たちも英語で歌いだし、敵も味方も関係ない大合唱となる場面が描かれています。双方にとってこの歌は、故郷を彷彿とさせるものだったのでしょう。

戦争で身も心も傷ついた彼らにとって、遠く離れた我が家を恋しく想う気持ちは同じ。「埴生の宿」には、故郷に帰りたいという切実な願いが込められていると思います。


「埴生の宿」歌詞


まもなく迎える8月15日。戦後76年、戦争の悲惨さや愚かさ、平和の大切さやありがたさをこの作品は教えてくれます。

また、8月に入り、新型コロナウイルスによる感染が拡大し、首都圏を中心にまたまた緊急事態宣言が出されました。しばらく帰省できていない方、お盆を前に帰省したいけども見合わせるという方も多いと思います。

遠くにいて故郷を思う」、その心境はこの作品に重なります。自由な移動、多くの人との交流が早くできるように祈るばかりです。

冒頭の切り絵は、竪琴とミャンマーの寺院の写真を組み合わせて切りました。


渡邉 大(3年5組)

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