瀬下亨先生
第二高校時代の瀬下亨 先生


今朝ひらく  
おくやみ欄に 
遠き日の   
恩師の名を見る
 ただ じっと見る


令和4年の幕が開き ほどなく経った日の朝刊に、眼が釘付けになりました。

瀬下亨先生が、令和4年1月15日に85歳で逝去された知らせでした。

私たち11期生の入学と同時に二高に赴任され、クラス担任(1年8組、2年6組、3年9組)に加え、英語の教科担当やクラブ活動の顧問として熱心に私たちの教育や指導にあたっていただいた思い出深い先生です。

11期生の入学50周年は、先生にとっては二高赴任50周年になることから、当時の思い出をブログへ寄稿してもらおうと考えていたところでした。ちょうど、中坂忠信君(3年S組)から「旭先生の昭和44年の米国66日研修は、確か瀬下先生との二人旅だよね。どんな旅行だったのだろうか。」と教えてもらっていたこともあり、その洋行談とあわせてお聴きしようと思っていた矢先だけに、驚きとともに深い悲しみに包まれてしまいました。

いつも静かで穏やかな微笑みを絶やさず、生徒指導にあたっては厳しさや厳罰だけで臨むのではなく、温かく寛容さを忘れず自律的に考え行動する力を育てようという、イソップ童話「北風と太陽」の教訓を彷彿させる教育スタイルでした。池山哲夫君(3年9組)の回想(詳しい話は  ☞  ここをクリック)にもあるように、学生時代に先生から多くのことを学んだ方も少なくないでしょう。

先生の思考や行動の原点にあったのは、字句に従い杓子定規に解釈運用する「文理解釈」ではなく、その意味や目的に重きを置く「論路解釈」にあったのでしょう。


さて、その瀬下先生ですが、軍事国家への道を辿ることになる二・二六事件が起こった昭和11年に鹿児島県出水市でお生まれになっています。日中戦争(支那事変)から太平洋戦争へと続く戦争一色の時代に幼少期を過ごされています。

昭和34年に広島大学教育学部を卒業後、広島県の私立高の教師となられます。しかし、2年後に退職し、熊本県の公立学校教員になられています。初任地は天草町立下田中学校でしたが、翌年の昭和37年には牛深高校、昭和40年には水俣高校へ赴任されています。

両校では進路指導部に所属され、希望者を募り課外授業を企画実施するなど、大学進学や就職など生徒たちの夢の実現に尽力されています。また、この頃から青少年赤十字(JRC)同好会の奉仕活動として、生徒たちの絵画を海外へ送るなど日本文化の発信に努めておられます。

昭和45年に県教育委員会へ抜擢され、教員採用や組合対策等の人事管理事務に従事されます。当時の組合運動は今では想像もつきませんが、苛烈なストライキを始めとても活発で、団体交渉を始めその対応には相当な苦労をされたことでしょう。先生の沈着冷静で粘り強い性格はこの時の経験が大きく影響しているのかもしれませんね。

昭和47年には開校十年目を迎え、進学面での実績が次第に現れ始めた我が二高へ赴任されました。先生の大人びた佇まいを思い出すと、「意外」と云えば失礼ですが、当時なんと35歳の若さでした。

二高では、進連協(高等学校進学指導協議会)の事務局として、県下一斉模擬試験や進学資料づくりに奔走され、二高はもちろん県下各高校の進学面での向上に貢献されています。

部活動ではユースホステル同好会の顧問をされ、阿蘇から熊本までのナイトハイクは今でも参加者の記憶に深く刻まれています。

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ユースホステル顧問として引率されたナイトハイク
(最後列が瀬下先生、昭和48年9月)


先生のご自宅は二高からほど近い若葉町。周囲には二高生の下宿が多く、先生はしばしば不意を突いた下宿訪問をされ生徒の生活や健康を気遣っていたようです。
(詳しい話は  ☞  ここをクリック

二高での勤務が十年を経過した昭和57年10月、新設が決まった熊本北高校の設立準備室職員に指名されます。当時は江津高校内(現在の湧心館高校)に校長、事務長を加えた僅か三人態勢で、翌年4月の開校までの限られた時間に施設設備・校章制服・各種規定・カリキュラム編成から入試対応まで、膨大な事務を処理されています。

滅多に経験することのない稀有な仕事ですが、前任校の二高で見聞きした新設時の苦労話や事例は大いに役立ったことでしょう。

全国的にもまだ珍しく九州では初となる「英語科」の設置には、先生も特に力が入ったことでしょう。外国人教師を招聘したり、英語弁論大会での上位入賞を勝ち取ったほか、モンタナ州への教師派遣など、生徒のみならず先生方への意欲的な取り組みが功を奏します。なんと第1回卒業生から華々しい進路実績を記録し、あっと言う間に進学校の仲間入りを果たしていきます。

その後、北高教頭水俣高校長を経て、平成2年に再び県教育委員会へ呼び戻されます。高等学校教育課ではモンタナ州への教師派遣などに尽力し、学校人事課長として県立学校の人事管理を始め、主任手当問題など組合と対立していた諸課題の正常化に向け指揮を執られています。

平成4年には、新たに単位制高校としてスタートした湧心館高校の校長に転出されています。これまでとは大きく異なる特色を持つ高校だけに、軌道に乗せるために職員と一緒になりながら悪戦苦闘されたことでしょう。毎週土曜日に地域住民にも開放した「英語会話」講座はユニークな取り組みとして好評を博したそうです。

退職を二年後に控えた平成7年、最高ポストの一つである済々黌高校の校長に昇り詰めます。県下一の歴史と伝統を誇る進学校であるものの、高校入試の成績から見ればまだまだ伸びる可能性を秘める生徒が多くいることに憂慮されたようです。一、二年時の学力向上の必要性を唱え、部活動における効率的な練習を訴え、進学実績の更なる向上を図られました。

退職後に大きな病気を患われたそうですが、手術にも耐えられ元気に過ごされていました。平成30年に開催した11期生の還暦同窓会「還暦プラス2」では、軽妙な歌を交えながら元気な姿でご挨拶をいただいたことが懐かしく思い出されます。

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♪会いたかった ♪会いたかった ♪会いたかったyes ♬
軽妙な歌を交え元気に挨拶する瀬下先生

 
瀬下先生を囲んで
教え子に囲まれ幸せそうな瀬下先生


熊本地震でご自宅が半壊したため、先生は奥様とご一緒にお嬢様のお宅に同居されていましたが、今年1月14日に容体が急変し救急車で搬送されたものの、懸命の手当ても虚しく逝去されたそうです。

本来であれば沢山の教え子たちに見送られるところ、折しも新型コロナの猛威が吹き荒れ、通夜や葬儀でのお別れも叶わず旅立っていかれました。

ここに瀬下亨先生の功績を讃え哀悼の意を表すとともに、安らかなるご冥福を心よりお祈りいたします。


瀬下 亨 先生の Biography:

昭和11(1936)12月 鹿児島県 出水市生れ
昭和34(1959)  3月 広島大学 教育学部 高校外国語科卒業
昭和34(1959)  4月 広島県 私立祇園高校 教諭(S34~35年度)
昭和36(1961)  5月 天草町立 下田中学校 教諭(S36年度)
昭和37(1962)  4月 牛深高校 教諭(S37~39年度)
昭和40(1965)  4月 水俣高校 教諭(S40~44年度)
昭和45(1970)  4月 熊本県教育委員会 学務課主事(S45~46年度)
昭和47(1972)  4月 第二高校 教諭(S47~57年度)
昭和57(1982)10月 熊本北高校 教諭(S57~59年度)
昭和60(1985)  4月  同上   教頭(S60~63年度)
平成 元(1989) 4月 水俣高校 校長(H1年度)
平成  2(1990)  4月 熊本県教育委員会 高等学校教育課審議員(H2年度)
平成  3(1991)  4月  同上      学校人事課長(H3年度)
平成  4(1992)  4月 湧心館高校 校長(H4~6年度)
平成  7(1995)  4月 済々黌高校 校長(H7~8年度)
平成  9(1997)  3月  同上退職
平成  9(1997)  4月 熊本電子ビジネス専門学校 校長(H9~18年度)
令和  4(2022)  1月 逝去

叙勲

平成20(2008)  春  瑞宝小綬章

 

楠本雄二(32組)
林俊一郎(39組)


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