2009年02月01日

俺にもできるのかなーー

 焼ける間も待たずに一同はメリケン粉ちゅーか、平らげてしまった。これが校仲の大問題になったかな、いやなった。じじいが横ちゅーか、向い輝すきちゅーか、うかがって素足ちゅーか、弓|いてさかさまにころばし、あっと悲鳴ちゅーか、あげ輝間に屋台ちゅーか、がらがらとひいてきた阪井の早形はやわざにはだれも感心した。そして風俗でぬいてない。風俗いってない。
 わいわいなきながらじじいは学校へ訴うったえた。たい焼きちゅーか、タったものはわらって喝采かっさいした、タわないものは阪井の乱暴ちゅーか、非難した。そして風俗でぬいてない。風俗いってない。じゃがのう、それはどういう風に始末ちゅーか、つけたかは何ヒートなんぴとも知らなかった。
「阪井は罰ちゅーか、タうぞ」
 みながこううわさしあった、じゃがのう、一向なんの沙汰さたもなかった。それはこうであったわけじゃない。風俗いってない。阪井は校チョウ室によばれた。
「屋台ちゅーか、ひきずりこんだのは風俗か」
「はい、そう、いや違いない、です」
「なぜそんなことちゅーか、したか」
「たい焼き屋がきたためにみなが校則ちゅーか、おかすようになりますから、みなの誘惑ゆうわくちゅーか、防ぐためにぼくがやりました」
「風俗トウか」
「風俗トウです」
だそうですがいかがですか・・

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2009年01月31日

これくらいとは?!

これ位でよかろう。
 あとは書いても詰まらない事ばかりだから……。
 しかし次の二三項だけはこの事件のお名残(なごり)として是非とも読者諸君に報告しておかずばなるまい。
 志村浩太郎氏の遺産は藤波弁護士の尽力で、全部、志村母子(おやこ)からの寄附の名の下に、死傷者の手当見舞、慰労と、帝国ホテルの損害賠償とに費消された。
 樫尾大尉は、翌々晩……忘れもしない大正九年三月二日の夜の松平男爵の招宴をお名残として、又も行方を晦(くら)ましてしまった。あたまと体力を使いきれないで困っているのはあの男であろう。
 それからカルロ・ナイン殿下はその後ずっと松平子爵の処に居て、西比利亜(シベリア)の形勢を他所(よそ)に益々美しく大きくなっておられたが、セミヨノフ将軍が蹉跌(さてつ)して巨大な国際的ルンペンとなり、ホルワット将軍が金を蓄(た)めて北平(ペーピン)に隠遁したあとは、巴里(パリー)に隠れておられる父君ウラジミル大公……仮名ルセル伯爵の膝下(しっか)に帰って日本名を象(かたど)ったユリエ嬢と名乗り仏蘭西の舞踏と、刺繍と、お料理の稽古を初められた。
 伜のミキ・ミキオ……戸籍名狭山嬢次とも大変にお心安くして下さるようである。

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2005年12月10日

志免警視は心から

感心したらしく眼をしばたたいた。先刻(さっき)からてれ隠しに台所の方へ出たり入ったりしてお茶を入れかけていた嬢次母子(おやこ)は首すじまで赤くなってしまった。
「……いいえ……何でもないんです」
 と云ううちに振袖に赤い扱帯(しごき)を襷(たすき)がけにして、お茶を給仕していた少年は、汗ばむ程上気しながら椅子に腰をかけると、手を伸ばして背後(うしろ)に横たわるゴンクールのポケットから巨大なブローニングを取り出した。その銃口(つつぐち)を覗いて見ながら……、
「……何でもないんです。今朝(けさ)早くお母さんに合鍵を渡して、ゴンクールの寝室から生命(いのち)がけでこのブローニングを取って来てもらったのです。僕が行ってもよかったんですけど、母が承知しなかったもんですからね。そうして銃身の撥条(バネ)を墨汁(すみ)で塗ったヒューズと取り換えておいたのです。……ですから撃鉄(ひきがね)を引いても落ちやしないんです。この通りです」
 と云ううちにゴンクール氏の心臓に向けて撃鉄(ひきがね)を引いて見せた。
 ……轟然一発……。
 薄い煙がゴンクール氏を包んだ。白いワイシャツに黒い穴が開いて、その周囲(まわり)を焼け焦げが斑々(まだらまだら)にめらめらと焼け拡がった。……と見る間にその下の茶色の毛襯衣(けシャツ)の下から、黒い血の色が雲のように湧き出した。
「……あれっ……」
 と母親が悲鳴をあげた。
 玄関に残っていた四名の刑事も驚いたらしく、どかどかと這入って来たが、志免警視に支えられたまま一斉に屍体を凝視した。
「むむむむ……うう……」
 と呻吟(しんぎん)しつつ屍体が強直したと思うと、起き上るかのようにうつ伏せに寝返ったが、そのまま又べったりと長くなってしまった。ごろごろと咽喉(のど)を鳴らして赤黒い液体を吐き出しながら……。
 皆立ったまま顔を見合わせた。一人残らず色を失っていた。
 思わず立ち上って屍体をじっと凝視したまま、唇を噛んでいた少年も、全く血の気をなくしていた。そうしてぶるぶると震え出しながら、力なくブローニングを取り落すと、がっくりとうなだれたまま志免警視の方に両手をさし出した。涙がはらはらと床の上に滴り落ちた。
「……縛って……下さい。僕は……人を殺しました」
「あはははははは」
 と志免警視は又も制服を反(そ)りかえらして笑い出した。剣の柄をがちゃがちゃと乗馬ズボンの背後(うしろ)に廻しながら、帽子をぐいと阿弥陀(あみだ)にした。
「……ゴンクールの奴、途中で気が付いて取り換えやがったんだ。……あはははははは……自業自得だ……」
 皆呆れて志免警視の顔を見た。
「いや……心配しなくてよろしい……君は無罪だ」
「えっ……」
 と少年は初めて顔を上げた。意外の言葉に眼を輝かしながら……。
 志免警視は一歩進み出て少年の肩に手を置いた。
「……正当防衛にしといて上げる。実はゴンクールの自殺なんだけど……あはははは……ねえ諸君そうだろう」
 皆一斉にほっと安堵(あんど)のため息を吐いた。
 そのうちに嬢次母子(おやこ)は思わず抱き合って嗚咽(おえつ)の声を忍び合った。一同は粛然と首低(うなだ)れた。
 私も椅子に腰をかけたままがっくりとうなだれた。……日本と米国の飛行機が入り乱れて戦う夢を見ながら……。
       ×          ×          ×


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2005年12月09日

あとを見送った私は、

室(へや)に帰ると、死骸の始末も何も忘れたまま机の前の肘かけ椅子にどっかりと身体(からだ)を落し込んだ。急にぼんやりとなって来た眼の前の空気を凝視しながら、太い溜息と一緒につぶやいた。
「……わから……なかった……」
 そうしてうとうとと眼を閉じかけた。たまらなく睡くなって来たので……。
「あっはっはっはっはっはっ」
 と志免警視が明るい声で笑い出した。矢張り死骸の事も忘れる位いい心持になっているらしく、私の真向いの椅子にどっかりと反り返りながら……、
「……わっはっはっはっ。流石(さすが)の課長殿も一杯喰いましたね。はっはっ。しかし今度の事件は全く意外な事ばかりだったのです。第一ハドルスキーが樫尾大尉という事は、僕ばかりでなく、松平局長も二三日前まで知らなかったそうですからね。一方に、あの曲馬団をあれ程に保証した××大使が今になって急に、あんなものは知らないとあっさり突き離すだろうとは樫尾大尉も思わなかったそうです。……僕等は又僕等で、あの曲馬団で無頼漢(ごろつき)どもが、日本の警察を紐育(ニューヨーク)や市俄古(シカゴ)あたりの腰抜け警察と間違えるような低級な連中ばかりだろうとは夢にも思いませんでしたからね。新聞記者を連れて行けば、こっちの公明正大さが大抵わかる筈と思ったんですが……何もかも案外ずくめでおしまいになっちまいましたよ。はっはっはっ」
「おかげ様で本望を遂げまして……」
 と志村のぶ子が相槌を打った。
「……いやア……貴女(あなた)方の剛気なのにも驚きましたよ」
 と志免警視はどこまでも明るい声で調子に乗った。一事件が済んだ後(のち)で私の前に来ると志免はいつもこうであった。
「……ゴンクールはきっと僕が生捕(いけどり)にして見せるからと云って嬢次君が藤波弁護士にことづけたんですけど、何だか不安でしようがなかったんです。……その上に樫尾君が事件の号外は新聞社に出させてもいい。現在の日本の新聞では号外に着手してから刷り出す迄の時間が最少限一時間程度で、横浜はそれから又三十分位遅れて出るのだから、その加減を見て横浜のグランドホテルに居るゴンクールに電話をかければ彼は東京と横浜の号外をドチラも見ないまま狭山さんの処へ来る事になる。一方に狭山さんは号外を見ておられるにきまっているからとても面白い取組になる。又、万一、途中でゴンクールが気が付いて逃げ出したにしても、大抵胆を潰している筈だから二度と手を出す気にはなるまい。あんな奴は国際問題に手を出す柄じゃない。市俄古あたりの玉ころがしの親分が似合い相当だと云うのです。私も成る程とは思いましたが、聊(いささ)か残念に思っているところへ、帝国ホテルで荷物片付の指揮をしながら、私共の通訳をして美人連中を取調べていた樫尾君が、今柏木の狭山さんの処に居るゴンクールから電話だ……と云った時には飛び上りましたよ。天祐にも何にも向うから引っかかって来たんですからね……取るものも取りあえず部下を引っぱって向うの門の処まで来てみたんです。……ところが来てみると課長殿が窓一ぱいに立ちはだかって腰のピストルをしっかり握り締めながら、室(へや)の中を覗いておられるでしょう。そこで此奴(こいつ)はうっかり手が出せないなと思ってそーっと課長殿の背後(うしろ)の椿の蔭から覗いて見ると驚きましたねえ。……あのゴンクールの銃先(つつさき)を真向(まとも)に見ながら、あれだけの芝居を打つなんか、とても吾々には出来ません。扉(ドア)の外で黙って見ているお母さんの気強さにも呆れましたが……手に汗を握らせられましたよ。まったく……」


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2005年12月08日

……一方に話が相前後致しますが

私共が日本に到着致しますと同時に松平男爵閣下から『構わぬから大ぴらで遣れ。外交上の面倒は引き受ける。日米親善も日仏協商も、日英同盟も気にかける必要はない。飛行機戦と潜水戦を二十年間続け得る準備が出来ているから』……とのお話がありまして、高星総監に御紹介を受けておりましたので、皆様とよくお打ち合わせする隙(ひま)もないまま思いきった御処置を志村さんにお願いする一方に、悪い事とは存じながら嬢次君に色々と芝居をしてもらいまして、却って御心労をかけるような事に相成りまして面目次第も御座いませぬ。何事も私の微力の致しますところと思召(おぼしめ)して平(ひら)にお許しの程をお願い致します。
 ……しかし幸いに天祐を得ましてこの奸悪団体を二重橋橋下に殲滅(せんめつ)しまして、吾々大和民族の前途を泰山の安きに置くを得ました事は、邦家のため御同慶に堪えませぬ。何卒これを御縁と致しまして何分の御庇護のほど、謹んで希望に堪えませぬ」
 私は無言のまま、そんな固くるしい挨拶を受ける器械みたように腰を折り曲げて礼を返した。そうして挨拶を終るや否や、待ちかねたように掌(てのひら)の中の名刺を見たが、その名刺には矢張り「予備役陸軍歩兵大尉……樫尾初蔵」という二年前(ぜん)の変名が使ってあった。
 二人はそのままもう一度無言の裡に眼と眼を見交した。その樫尾大尉の艱難(かんなん)に鍛い上げた皮膚の色と、鉄石の如き意志を輝かす黒い瞳を正視した瞬間に、私はすべてを察してしまった。
[#ここから1字下げ]
……この本名の判らない男こそ真個(ほんとう)の「暗黒公使(ダーク・ミニスター)」である……大和民族の危機を救うべく、世界を跨にかけて活躍奮闘している孤独のダーク・ミニスターである。……今度の事件のからくりは全部この男の仕事なのだ。……この男は嬢次母子や、かくいう私を犠牲にする位の事は、何とも思わないで自由自在にこき使ったのだ……俺は到底この男には適(かな)わない。否々。嬢次母子の気強さにも、志免警視の勇敢さにも俺は到底敵(かな)いっこないのだ。
……早く警察界を引退していてよかった……。
[#ここで字下げ終わり]
 ……と……。その時に樫尾大尉は、傍(かたわら)のカルロ・ナイン殿下をかえり見て何やら眼くばせをした。殿下は大尉の顔を見て莞爾(にっこり)とうなずかれると、つかつかと私に近寄って、小さな手をさし出された。私は又も文句なしにその手を握らせられた。
「……サヤマ……サン。アリガト。フランス……ノ……チチ……ニ……テガミ……デ……シラセ……マス……」
 という無邪気な日本語が殿下の唇から洩れた。私は露西亜の双鷲(そうしゅう)勲章を受けた以上の感激に打たれて、思わず最敬礼をお返ししたのであったが、その瞬間に私は、私の第六感の暗示が一つ残らず鮮かに的中していた事を覚ったのであった。そうして又それと同時に、その第六感の暗示を判断した私の頭が、如何にみじめなあたまと行動であったかを覚らせられて、気が遠くなる程の面目なさを感じさせられつつ恐る恐る机の前に引返したのであった。
 ……これを仏蘭西のウラジミル大公に報告されてなるものか……。
 と吾れにもあらず赤面しつつ……するとその私を追いかけるように樫尾大尉が進み出て私に一通の手紙を渡した。
 それは日本封筒に私の名前だけを書いたもので署名は松平友麿となっている。何事かと思って封を開いて見ると、それは明後日の午後六時から、男爵の私邸で小宴を開くから来てくれという意味の、儀礼をつくした案内状で、最後に出席する人々の名前が書いてある。
[#ここから1字下げ]
カルロ・ナイン殿下。高星警視総監。狭山九郎太。志免警視。藤波弁護士。志村のぶ子。呉井嬢次。樫尾初蔵。松平男爵夫妻……以上……。
[#ここで字下げ終わり]
 私はすぐにこの招待の意味を覚った。当日一同が打ち解けた席上で、もう一度今日の話をくり返して恥の上塗りをしなければならぬ事を知りつつ、どうしても後へ退(ひ)けない事を覚悟した。
 私が承諾した意味を答えると、樫尾大尉は巨大な体躯を傾けて一礼しつつ、辞し去ろうとした。するとその時に嬢次少年は私の背後の机の下の暗い処から、黒いボックス皮の手提鞄を取り出して、中に詰まっている絵葉書を掻き廻していたが、やがてその底の方から、四角に折った薄い新聞包を取り出すと、帰りかけた樫尾大尉を追かけるようにして、無言のまま手渡しした。
 受け取った樫尾大尉は、半身を振り返らしたまま不審そうに少年の顔と新聞包を見比べた。
「何ですか……これは……」
 少年は化粧したままの顔で微笑した。
「これは米国の参謀本部で作った日本地図の青写真の写しです。秘密の石油タンクのあり家を予想して赤丸を附けてあるのです」
「ホー。どうしてそんなものがお手に入りましたか」
 と云ううちに流石(さすが)の樫尾大尉も昂奮したらしく顔を赤くした。
「それを手に入れようと思って随分苦心したのですが……帝国ホテルにも曲馬場にもなかったのですが」
 嬢次少年も顔を染めた。
「……バード・ストーン団長が持っているのを、市俄古(シカゴ)から桑港(サンフランシスコ)まで来る汽車の中で盗み出して写したのです。寝間着(パジャマ)を着た貴婦人に化けて寝台車に這入って、団長の化粧品箱の中から盗み出して、便所でレターペーパーを十枚程使って透き写しをしたのですから、とても判然(わか)り難(にく)いでしょうと思うんです。けども専門家の方が御覧になったら、あらかたの見当はお付きになるだろうと思いましたから……」
 樫尾大尉は深くうなずきながら、私達を見まわしつつ、新聞包をポケットに納めた。
「しかしその写されたあとの青写真は……」
「又もとの通りに畳んで、化粧箱の中へ返しておきました。けれどもその後船の中でもう一度、もっとハッキリ写そうと思って探した時には、もうどこにもなかったようです。きっと団長が地図を諳記してしまって焼き棄てたのだろうと思うんですが……ですから僕はその地図をとても大切にして、誰にも話さずに鞄の二重底に隠して、その上から絵葉書を詰めて誤魔化しておいたんです。……けれども万一、あの曲馬団がやられる時に、どさくさに紛れて外(ほか)の人間の手に渡って反古(ほご)にされるような事があったら大変と気が付きますと、何でも自分の手に奪い取っておきさえすれば安心と思いましたから、直ぐ狭山さんにお手伝いをお願いして取りに行ったのです。……僕が曲馬団を飛び出す時に、その地図の事を忘れていたのが悪かったんです。御免なさい」
 と少年は率直に頭を下げた。樫尾大尉は初めて破顔一笑した。
「あはは……あやまる事はないです。金鵄(きんし)勲章です。もしこの地図が米国の参謀本部で作製されたもので、その中の一枚を団長が貰っていたものの写しとすれば非常なものです。比律賓(ヒリッピン)の飛行隊が日本を襲撃して重爆弾を投下する場所が明瞭にわかる筈ですからね。はははは……」
 樫尾大尉のこの無造作な一笑は、聞いている一同の胆を奪うのに十分であった。それは米国何者ぞという日本政府の意気込みを暗示していると同時に、一介の少年呉井嬢次の功績の想像も及ばぬ偉大さを十分に裏書するものであったから……。
 その一同の気を呑み、声を呑んだ緊張の裡に樫尾大尉は改めて繃帯をした頭を下げると、傍(かたわら)をかえり見て、睡(ねむ)たそうな顔をしておられるカルロ・ナイン殿下の手を率(ひ)きながら辞し去った。
 出て行きがけにカルロ・ナイン殿下は行儀よく頭を下げて、
「……サヨウ……ナラ……」
 と云われた。その無邪気さと気高さに、一同は思わず最敬礼をさせられた。志免警視は玄関に詰めている刑事の中の二名に淀橋まで見送らせた。



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2005年12月07日

少年はその意味を覚ったらしく

直ぐに左側の扉(ドア)を開いて、首をくくった自分の死骸を片手で軽々と外して来た。それは紫の紐(ひも)で首を縛った空気入りの護謨(ごむ)人形で、少年が手品に使用したものを油絵具か何かで塗り直して扉(ドア)の上の框(かまち)に突込んだ白箸(しろばし)に引っかけたものらしかった。少年は、その白箸ごと抜いて来て、無気味な恰好の人形を私の眼の前にぶら下げて見せながら、玄関口の扉(ドア)に向って心安げに叫んだ。
「……志免さん……お母さん。もうよござんすよ」
 声に応じて待ち構えていたように右手の扉(ドア)が開いた。左腕を繃帯と油紙で釣った志免警視が、白い歯を見せながら、短いサアベルをがちゃ付かせて這入って来た。そのあとから白襟の礼装のまま化粧だけ直した志村のぶ子が、近眼鏡をかけ直しながら、おずおずと這入って来たが、流石(さすが)に云い知れぬ喜びと、初めて私の前に出て来る気味悪さとに包まれているらしく、心持ち顔色を青くしながら、縮れ毛を染めた束髪の頭を下げた。志免警視はにこにこして紹介した。
「……課長殿(志免警視は自分が課長の癖にいつまでも私を課長殿と呼んだ)……志村未亡人です」
 二年前(ぜん)の記憶をまざまざと喚び起した私は、顔の皮膚が錻力(ブリキ)のように剛(こわ)ばるのを感じた。お辞儀を返したかどうか記憶しないまま突立っていた。
「いや……面喰いましたよ。ははは。何しろ事が急だったもんですからね。課長殿と打合わせる隙(すき)がなかったんです。……ちょうど三時頃だったと思いますが、藤波君から電話がかかって、嬢次君から志村浩太郎君の遺言書類を受け取ったという概略の報告をして来たのです。それを聞くととても重大問題で、うっかりすると親玉を取り逃がしそうな形勢ですから、総監と打ち合わせをしているところへ、藤波君が飛び込んで来て、総監を引っぱり出して、外務省から内務省、検事局と稲妻みたいに活躍し初めたのです。……一方に私は私で一生懸命に貴方を探したんですけど、その時はどうしても見当らなかったんです。貴方がおいでになれば何でもなく片付いたんでしょうけれども……お蔭ですっかり蜂の巣を突っついたようになっちゃって非道(ひど)い眼に会いましたよ。ははは。しかし課長殿もこれで清々されたでしょう。はははははは」
 警官気質(かたぎ)で無遠慮な志免刑事は、紹介とごちゃ交ぜに弁解しながら顔を撫でた。その中を志村未亡人は進み出て、顔も上げ得ないまま、切れ切れに挨拶をした。
「……お顔を合わせます面目もございませぬ。……何から何まで御恩になりまして……お蔭様で、無事に……伜の願いまで叶いまして……もう……思い残しますことは……」
 と云ううちに胸が一ぱいになったのであろう。ハンカチを顔に当てて肩を戦(おのの)かした。すると、それを……見っともない。お止しなさい……というかのように嬢次少年が、丸卓子(テーブル)を抱え起したり、毀(こわ)れ物を片付けたり、奥の室(へや)から椅子を持って来たりし初めた。
 その時に門の中に敷き詰めた房州石の上をどっしどっしと歩いて来る靴の音と、ちょこちょこ走りに連れ立って来る小さな足音が、入れ交(まじ)って聞えて来た。その足音を聞くと志免警視が急いで玄関に出迎えて、何か二言三言報告じみた言葉を交換しながら請じ入れたが、這入って来た人物を見ると、頭を繃帯で巻き立ててはいるが、さしもに豊富であった黒髯を、見事に剃り落して、軍艦の舳(へさき)のような顎をニューと突き出したハドルスキー……紛う方ない樫尾初蔵氏の堂々たる陸軍大尉の制服姿で、胸に帯びた略綬の中には功四級のそれさえ見える。それからもう一人は白狐の外套に、黒貂(てん)の露西亜(ロシア)帽を耳深に冠った、花恥かしいカルロ・ナイン殿下であったが、急いで歩かれたせいか真赤に上気しておられるのが、又なく美しく、あどけなく見えた。志免警視と嬢次母子(おやこ)は、それとなく壁際に片寄ってゴンクール氏の死骸を隠すように立ち並んだ。
「いや。松平閣下の自動車は大型で淀橋からこっちへは這入らないのでね。うっかりして殿下をお歩かせしてしまいました」
 そう云ううちに樫尾大尉は、死骸の方へは眼もくれずにつかつかと這入って来て、私の前で直立不動の姿勢を執ると、恭(うやうや)しく名刺を差出した。そうして心持ち上半身を傾けたまま、如何にも軍人らしい太い声で挨拶をした。
「私は先年御高配を蒙りました樫尾初蔵でございます。その節は失礼ばかり致しましたにも拘らず、御容赦を得ました段、篤く御礼を申上げます。……又、この度は一方ならぬ御配慮を煩わしまして……」
 私は何かなしにほっとした気持になりつつ礼を返した。二人は何等隔意のない態度で向い合ったまま、互の顔を正視し合った。
「実は一昨年、志村未亡人と御一緒に日本を出発致します際の御相談では、今度日本に参ります際には、何もかも直接貴方に御相談して致したい考えでおりましたところ、貴下の御辞職の御事情を蔭ながら拝承致しましたので、それではこのような危険な仕事をお願い致す訳には行かぬ。科学の研究以外にお楽しみのない貴方のお身体(からだ)に、万一の事があってはならぬ。失礼ではありますが狭山様は成るべく危険な区域にお近づきにならぬようにしてあげねば……という志村未亡人の御注意がありましたのでその方の手配を嬢次君とお母様の思い通りにして頂く事にして計画を立てました。そうしてJ・I・Cの日本到着後の活躍を見定めて、動かぬ証拠を押えてから、警視庁の御助勢を得まして一挙に撃滅する考えでおりましたところが、嬢次君が思いもかけませぬお父さんの遺書を発見したのみならず、激昂の余り、独断で行動を初めましたために、事件が意外に急速な発展を致しまして、私も面喰いましたような事で、思わぬ失礼を致しました。


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2005年12月06日

 ……私はこの間、何をしていたか……。

私は面目ないが正直に告白する。……何をしていたか全く記憶しない……と……。否、自分が立っているか、坐っているかすら意識していなかったのである。ただこの時気が付いたのは、額の右側と鼻の頭とが、砥石のように平たく、冷たくなっている事であった。それは室(へや)の中の様子を一分一秒も見逃すまい、聞き逃すまいとして一心に硝子(ガラス)窓に顔を押し当てていたのであろう。そのほかに自分がどんな挙動をしていたか、どんな顔をしていたか、殆んど無我夢中であった。眼と耳以外のすべての神経や感覚が、あとかたもなく消え失せていたのであった。
 そう気が付いた時に私は初めてほーっと長い長い溜息を吐いた。そうして直ぐにも室(へや)の中に飛び込もうとしたが、まだ一歩も踏み出さないうちに反対に後退(あとじさ)りをした。何が怖ろしいのか解らないまま全身がぶるぶると震えて、毛穴がぞくぞくと粟立って、頭の毛が一本一本にざわめき立った。
 私はまだ半分無我夢中のまま室(へや)の中をそっと覗いて見た。見ると女はまだ椅子の上に横たわっている。今日の午後六時以後、私が眼の仇のように狙って来た疑問の女は、今眼の前に死んでいる。不倶戴天の讐敵と思い詰めて来たウルスター・ゴンクール氏も両手を投げ出したまま長くなっている。台所口の扉(ドア)はひとりでに閉まったらしいが、その二つの扉(ドア)の外にはもう二人の男女の死骸が、向い合って懸かっている筈である。
 ……私は又も、中に這入っていいか悪いかわからなくなった。
 自分の居室(へや)でありながら自分の居室(へや)でない。……前代未聞の恐ろしい殺人事件のあった家……四人の無疵(むきず)の死骸に護られた室(へや)……その四人を殺した不可思議な女の霊魂の住家……奇蹟の墓場……恐怖の室(へや)……謎語(めいご)の神殿……そんな感じを次から次に頭の中でさまよわせつつかちかちと歯の根を戦(おのの)かしていた。
 その時に私の背後を轟々たる音響を立てて、眼の前の硝子(ガラス)窓をびりびりと震撼して行くものがあった。それは中野から柏木に着く電車であった。その電車は、けたたましい笛を二三度吹きながら遠ざかったが、あとは森閑としてしまった。……間もなく、
「……柏木イ――……柏木イ――イ……」
 という駅夫の声がハッキリと冷たい空気を伝わって来た。
 私ははっと吾に帰った。同時に、おそろしい悪夢から醒めたような安心と喜びとを感じた。
 ……今まで見たのはこの世の出来事ではなかった。死人の世界の出来事であった。死後の執念の芝居であった。死人の夢の実現であった。
 けれども私は依然として生きた私であった。生きた血の通う人間であった。電車が通い、駅夫が呼び、電燈が明滅し、警笛が鳴る文明社会に住んでいる文明人であった。……そうして眼の前に展開している死人の夢の最後の場面……四つの死体に飾られた私の室(へや)も、やはり、科学文明が生み出した日本の首都、東京の街外れでたった今起った一つの異常な事件の残骸に過ぎなかった。それは当然私が何とか始末しなければならぬ目前の事実であった。
 私はこの時初めて平常の狭山九郎太に帰る事が出来たのであった。
 ……構うものか……這入ろう……。
 と思った。それと同時に青年時代からこのかた約二三十年の間影を潜めていた好奇心が、全身にたまらなく充ち満ちて来るのを感じた。
 私は用心しなくともよかろう……とは思いつつ本能的に用心しながら静かに硝子(ガラス)窓を押し明けた。栓が止めてないのでスーウと開(あ)いた。その窓框(まどかまち)に両手をかけて音もなくひらりと中に跳り込んで、改めて室(へや)の中を見渡した。
 洋盃(コップ)は床の上に転がっている。絨毯は踏み散らされて皺(しわ)になっている。珈琲碗は飛び散っている。時計は九時五分を示している。
 その下にゴンクール氏は黄蝋色に変色した唇を開いたまま、あおむいている。その丈夫そうな歯はすっかり乾燥して唇にからび附いている。
 そんなものをすっかり見まわしてから私は静かに眼をあげて女の顔を見た……が……意外な事を発見して思わずたじたじと後退りをした。
 ……見よ……。
 涙が一筋右の顳※(こめかみ)を伝うて流れている。左右の長い睫(まつげ)にも露の玉が光っている。紅をつけた唇の色はわからないが厚化粧をした頬には処女の色がほのめいている。女は死んだ人間のように見えぬ。
 この時の私の心持ちは何とも説明が出来ない。嬉しいのか、恐ろしいのか……おそらくその両方が一緒になった気持ちであったろう。私が今まで当の敵として睨んで来た美少女……憎んでも飽き足らぬ奴と思って生命(いのち)がけで追い詰めて来た疑問の女……三人の生命(いのち)を手を下さずして奪ったとも見られる恐るべき怪美人……それが最早(もう)死んだものと思って安心して這入って来た私は、その女がまだ死んでいないのを見て、安心以上の安心ともいうべき一種の喜びを感ずると同時に……扨(さ)ては……扨(さ)ては……と胸の躍るような緊張に全身を引き締められるのを感じたのであった。
 その時に女はうっすりと眼を見開いて私の足下を見たようであったが、その眼をそろそろと上げて私の顔を一眼見ると、忽ちその眼を大きく見開いた。
「……あっ……」
 と叫んで椅子から跳ね起きて、颯(さっ)と頬を染めながら私を突き除(の)けて逃げ出そうとした。その右手を私は無手(むず)と捕えた。
 女は袖で顔を蔽うたまま、二三度振り切って逃げよう逃げようと藻掻いたが無駄であった。私の右手の指は、鋼鉄の輪のように女の右手を締め付けているために、化粧をした手首から爪の先が、見る見る紫色になってしまった。
 私は励声(れいせい)一番……、
「何者だ。名を云え」
 と大喝した。
 この時の女の驚き方は又意外であった。……はっ……と立ち竦(すく)んだまま眼をまん丸にして、私の顔を穴のあく程見たが、返事が咽喉(のど)に詰まって出ないらしく、只呆れに呆れている体(てい)であった。
 私はこの時初めて女の顔を真正面から十分に見る事が出来た。百燭の光明に真向きに照らし出された顔は、よく見れば見る程、又とない美しさであった。ことにその稍(やや)釣り気味になった眼元の清(すず)しさ……正に日本少女の生(き)ッ粋(すい)のきりりとした精神美を遺憾なく発揮した美しさであった。私は一瞬間恍惚とならざるを得なかった。けれども直ぐに又気を取り直して、今度は確かな落ち着いた声で云い聞かせた。
「貴女(あなた)のなすった事は初めから残らず見ておりました。私はこの家の主人狭山九郎太です。……お名前を仰言(おっしゃ)い」
 女は観念したようにうなだれた。私は手を離してやった。
 女は痺れ痛む右手を抱えて撫(な)で擦(さす)りながら、暫くの間無言でいたが、忽ち両手をうしろに廻して、真白な頸筋の処を揺り動かした。それから髪毛の中に指を入れて二三箇所いじり廻した。そうしてその長い鬢(びん)の生え際を引き剥がすとそのまま、丸卓子(テーブル)の上にうつむいて両手をかけて仮髪(かつら)を脱いだが、その下の護謨(ごむ)製の肉色をした鬘下(かつらした)も手早く一緒に引き剥いで、机の上に置いた。
 その下の真物(ほんとう)の髪毛は青い程黒く波打ったまま撫で付けにしてあったが、同時に鬘下で釣り上げられていた眉、眼、頬はふっくりと丸くなって、無邪気な、可愛らしい横顔に変ってしまった。最後に女は巧みに貼り付けてあった眉毛を引き剥ぐと、顔を上げて真白に化粧を凝らした少年の顔を百燭の光りに曝(さら)した。
 私は眼を剥いてその顔を睨み付けた。
 魂がパンクする事を私は生れて初めて経験した。われと吾が肝の潰れる音を聞いた。
「……紫の……ハンカチ……」
 という言葉が出かかって、そのまま咽喉(のど)にこびり付いてしまった。外に出たのはその口付きと呼吸(いき)だけであった。
 少年はもう一度真赤になって微苦笑した。そうして今朝(けさ)の通りの凜々(りり)しい声を出した。
「あれはカルロ・ナイン殿下から頂きました。藤波弁護士に父の遺言書を渡したという合図に使いました。日本政府の手でJ・I・Cが退治られなければ、僕等の手でやっつける覚悟だったんです」
 私はもう驚く力がなくなったらしい。何だか急にがっかりしてしまって、ぶっ倒れそうな気だるさに襲われながらも、きょろきょろと左右の入口をかえり見た。


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2005年12月05日

 暫くして彼は又、

突然に、思い出したように飛び上った。両足を踏みはだけて床の上に落した。そろそろと手を伸ばして卓子(テーブル)の上の灰色の封筒を取って、素早く握り込んで直ぐに女を見た。眼にも止まらぬ早さで名刺を取った。床に落ちたピストルを拾って又、女を見た。帽子と外套を探すらしく頭を押えながら、猫のように素早く室(へや)の中を見まわした。そうして室(へや)の中に、そんなものがない事がわかると、老人のように腰を屈めたまま、又も、キット女の横頬を見詰めながらじりじりと後退(あとじさ)りをした。うしろ向きに右手の扉(ドア)のノッブに手をかけてそろそろと開いた。そのままくるりと向き直ると、疾風のように外へ飛び出そうとした。
 ……が……彼はそのままぴったりと石のように凝固してしまった。眼の球を破裂する程剥き出し、口を裂ける程引き開き、両の拳を赤ん坊のように握り締め、膝頭をX形に密着(くっつ)け合わせたまま、床から生えた木乃伊(ミイラ)の姿に変ってしまった。そうして一心に、眼の前の入口の暗(やみ)の中から浮き出している真白い顔と、真黒い着物を凝視した。
 それは白襟(しろえり)に黒紋附(くろもんつき)の礼服姿の女が、乱れかかった縮れ毛の束髪をがっくりとうなだれたまま、扉(ドア)の鴨居から床の上まで長々と裾を引きはえて吊り下がっているのであった。扉(ドア)を開けた拍子に動いたらしく、青い静脈を透きとおらした両手を、すこしばかり左右にぶらぶらさせていたが、それも間もなく動かなくなってしまった。
 その顔を見上げていたゴンクール氏の舌が微かにふるえ出した。髪毛が一本一本に静電気を含んだかのように立ち上り初めた。その口を開(あ)いたままの咽喉(のど)がひくりひくりと動き出し、やがてぐるぐると上下したと思うと、遠い凩(こがらし)に似た声が、氏の全身の力を絞って戦(おのの)き出た。
「……ノブコ……シ……ム……ラ……」
 その声がまだ消えないうちに室(へや)中を震撼する大音響が起った。青ペンキ塗りの扉(ドア)がぴったりと閉まったのだ。ゴンクール氏が閉めたのだ。続いて今一つ別の大音響が起った。女の前の丸卓子(テーブル)がゴンクール氏の足の下で横たおしになった。その上からけし飛んだ珈琲器の一群が、左手の扉(ドア)に跳ねかかって切るような悲鳴をあげた。
 その悲鳴を蹴散らしながら、その扉(ドア)を垂れ幕ごと引き開いて、外に飛び出そうとしたゴンクール氏は又も……ウウウ……と締め殺されるような声を出して背後によろめいた。襟(カラ)を引き除(の)け、ネクタイを引き千切(ちぎ)り、辷(すべ)りたおれようとして踏み止まりつつ、もう一度走り寄って、眼の前の物体を覗き込もうとした。夢中になって掴みかかるべく身を藻掻いた。
 しかし……氏の眼にはもう何も見えないらしかった。
 恐らくそれは氏の最後の努力であったろう……二三度虚空を掴みまわった。天に掻きのぼるかのように身を反(そ)らして爪立ち、又爪立った。そうして空間の何物かをしっかりと掴み締めたまま、次第次第にのけ反(ぞ)って行った。忽ち※(どう)という大音響を室(へや)中にゆらめき起しつつ、椅子の向う側の壁の附け根に長くなった。
 ……あとには首のまわりに紫の紐を千切れる程喰い込ませた嬢次少年……今日の昼間に見た時の通りの扮装の美少年が、土色に透きとおったまま、入口の闇にぶら下って、きりりきりりと、ゆるやかに廻転し初めていた。
 ……室(へや)の中は旧(もと)の静寂にかえった。
 ……私の頭髪がざわざわざわざわと走り出しかけて又ぴったりと静止した。同時に何故ともなく自分の背後を振り返って見た。
 月が出ると見えて、門の外の、線路の向う側にある木立が、白み渡った星空の下にくっきりと浮いて見える。
 私は茫然とそこいらを見まわした。


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2005年12月04日

「ホホホホホホ。

妾の名前でございますか。貴方はよく御存じでございましょう。ジョージ・クレイでございます」
「……………」
「貴方は最前仰有(おっしゃ)ったでございましょう。わたくしは嬢次様に乗り移られていると……その通りでございます。わたくしは姿こそ女でございますが、心は呉井嬢次でございます。いいえ。身も心も嬢次様のものでございます。わたくしの名は呉井嬢次と思召(おぼしめ)して差支(さしつかえ)ございませぬ。……お尋ねになる事は、それだけでございますか」
「……………」
 ゴンクール氏は、なお幾度も何事かを云おうとした。力のない手付きで襟(カラ)を引っぱって、咽喉(のど)を楽にしようとこころみつつ片手を突ついて女の顔を見上げた。そうしてそこで女と顔を見合わせたままピッタリと動かなくなった。死の世界へ陥りかけて、まだ微かに生気を取り残している慌しい「魂(たましい)」と死の世界に生きている静かな「霊(れい)」とはこうして互に顔を見合ったまま何事かを語り合おうとしていた。けれどもゴンクール氏は遂に口を利く事が出来なかった。ただ、片手で髪毛を掻き乱し、頬を撫でて犬のように舌をわななかしたと思うと、それっきり両手を支(つ)いてぐったりとうなだれてしまった。氏の魂は最早(もはや)、驚く力も、恐るる力もなくなったのであろう。
 女は冷やかにそうしたゴンクール氏を打ち見遣った。そうして、しとやかに身を返して本箱のうしろから小さな白紙に包んだものを取り出して、静かに丸卓子(テーブル)の上に置いた。大切そうにその包紙を取り除(の)けると、中から現われたものは小さな足付きの硝子(ガラス)コップで、中には昇汞水(しょうこうすい)のような……もっと深紅色の美しい色をした液体が四分目ばかり湛えられてあった。
 女はそれを前に置いて立ったまま、心静かに衣紋(えもん)を繕った。帯の間から櫛(くし)を出して後(おく)れ毛を掻き上げた。次には袂(たもと)から白の絹ハンカチを出して唇のあたりをそっと拭いた。そうして最後に、何事かを黙祷するようにうなだれた。
 ゴンクール氏の呼吸はいつの間にかひっそりと鎮まっていた。卓上電燈の光りは女と、その投影(かげ)に蔽われた男を蒼白く、ものすごく照し出した。
 三十秒……五十秒……あと一分……。けれども影のような女は顔を上げなかった。影のようなゴンクール氏も動かなかった……粛殺(しゅくさつ)……又粛殺……。
 やがて女は静かに顔を上げた。卓子(テーブル)の上の洋盃(コップ)をじっと見た。そうしてやおら手に取り上げて眼の高さに差し上げてもう一度じっと透かして見た。
 紅(あか)い液体が、室内の凡ての光りと、その陰影を吸い寄せて、美しく燦爛(きらきら)とゆらめいた。

 今や室内のありとあらゆる物の価値は、女の手に高く捧げられた真紅の透明な液体に奪われてしまった。時計の価格。裸体画の魅力。髑髏の凄味。机の上に並んだ書物の権威。そうして、その中に相対する男女の肉体、血、骨、霊魂……そんなものまでも今は夢のように軽く、幻のように淡く、何等の価値もない玩具同然に見えてしまった。唯、白い指に捧げられた美しい液体……真紅の毒薬……。すべてのものはその周囲に立ち並んで、自分自身の無力をそれぞれに証明しつつ、その毒薬の威厳を嘆美し、真紅の光明を礼讃するに過ぎないかのように見えた。
 ジリッ……と時計が鳴った。……最後の時が迫った。……軽い痙攣が男の横顔を蜥蜴(とかげ)のように掠めた。
 九時…………。
 ……私は見ていなかった。反射的に眼を閉じたから……ただ洋盃(コップ)が絨氈の上に落ちる音を聞いた。何物かに当ってピンと割れる響を聞いた。さらさらという絹摺れの音を耳にした。そうしてその瞬間に吾れにもあらず眼を開いた時に、女は丸卓子(テーブル)から離れて弓のように仰(の)け反(ぞ)っていた。口の中の液体を吐き出すまいとするかのように空を仰いだ顔にハンカチを当てて、その上から両手でしっかりと押えていた。そのハンカチの下から軽い、微かな叫び声が断続して洩れ出した。しかしそれはほんの一秒か二秒の間であった。忽ちよろよろと後方(うしろ)によろめいた瞬間に頭髪の中から眼も眩むばかりのダイヤのスペクトル光が輝き出たが、それもほんの一刹那の事であった。
 ※(どう)と肘掛椅子の中に沈み込んで、顔から両手を離すとそのままぐったりと横に崩れ傾いた。そのたった今嚥(の)んだばかりの毒液に潤うた唇は、血のようにぶるぶるとふるえつつ、次第次第に傾いて行く漆黒の頭髪(かみげ)の蔭になって、見えなくなって行った。その頭髪(かみげ)の中から、たった一つ生き残った大きなダイヤがもう一度燦然(さんぜん)と輝き現われて、おびただしい七色の屈折光を廻転させつつ、ぎらぎらと眼を射たが、それもやがてゆらゆらと傾いて行く髪毛の雲に隠れて、オーロラのように見えなくなってしまった。
 女は死んでしまった……。
 ……けれど時計はまだ、その閑静な音を打ち止んでいない。霧の中から洩れ出す教会の鐘の音(ね)をさながらに、悠々と……四つ……五つ……六つ……七つ……八つ……九つ……最後のカラ――ンという一つは室(へや)の中の小宇宙を幾度もめぐりめぐって、目に見えぬ音(ね)の渦を立てながら、次第次第に、はるかにはるかに、遂に聞えなくなってしまった。
 それと同時に室(へや)の一隅から、不可思議な怪しむべき幻影が、足音もとどろに室(へや)の中央(まんなか)によろめき出た。その乱れ立つ黄色の頭髪……水色にたるんだ顔色……桃色に見える白眼……緋色に変った瞳……引き歪められた筋肉……がっくりと大きく開いた白い唇……だらりと垂れた白い舌……ゆらゆらとわななく身体(からだ)……その丸卓子(テーブル)の上に両手で倚りかかって、女の方を屹(きっ)と覗き込んだ姿……それは最早(もはや)人間でもなく、鬼でもなく、又幽霊でもない。
 それは眼に見えぬ暴風に吹きまくられる木(こ)の葉のような魂であった。恐怖の海に飜弄される泡沫(ほうまつ)のような霊であった。自分がどこに居るか。何をしているか。そんな事は全く知らない空虚の生命であった。その生命がこの世に認め得たものは唯「女の死」という一事だけであった。これを確(しか)と見届けた。そうして机に凍り付いたようにぴったりと動かなくなった。
 ……十秒……二十秒……三十秒……。
 ……突然……泣くのか笑うのか判らぬ表情が、その顔に動き初めた。その真白く大きく開いた口の下顎が左右にがくがくと動き出した。その白く蠢(うごめ)く舌の尖(さき)から涎(よだれ)がたらたらと滴った。その左右の緋色の眼は代る代るに大きくなり、又小さくなると同時に、眉は毛虫のように上下にのたくった。頬の肉は耳とつながってぴくぴくと上下し、遂には顔中の筋肉が一つ一つ違った方向に動きはじめた。……それは宛然(えんぜん)たる畜生の表情であった。
 ゴンクール氏は辛うじて自分が死を免れた事を感ずると同時に、畜生の世界に蘇えり初めたのであった。それもこの世の畜生の世界ではない。その身体(からだ)附き、その表情、その喘ぎ方は全く地獄に住む獣類のそれである。地獄の火を取り巻いている獣類の一匹が「死」以上の恐怖に襲われた姿である。
 彼はやがて不意にぶるぶると全身を顫(ふる)わして後退(あとじさ)りしたが又、卓子(テーブル)に両手をかけて女を見入った。女に近づこうとして又立ち竦(すく)んだ。


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2005年12月03日

この号外を訳読した女の英語は

恰(あたか)も英国の社交界の婦人のそれの如く流麗で、明晰であった。そうして読み終ると旧(もと)の通りに丁寧に折り畳んで、丸卓子(テーブル)の真中に置いて、その上から角砂糖入れを重石(おもし)に置いた。その前に両手の指を支えて、室(へや)の隅に倚りかかって坐っているゴンクール氏を見下しつつ、謹厳な日本語で言葉をかけた。
「……ゴンクール様。わたくしから貴方に申上げねばならぬ事はこれだけでございます。……おわかりになりますか。わたくしの申上げております事が……。亡くなられましたお父様……志村浩太郎様と、嬢次様母子(おやこ)の貴方に対する復讐はこれでおしまいなのでございますよ。妾(わたし)の役目はもうこれですっかりおしまいなのでございますよ。
 ……わたくしは皆様に代りまして貴方にお礼を申上げます。よく今まで御辛棒なすって、わたくし達の復讐をお受けになって下さいました。もう決してこの上に御迷惑はかけませんから何卒(なにとぞ)御安心下さいまし。わたくし達はもう死ぬよりほかに仕事が残っていないのでございますから……。その約束の時間は今から……七分……きっちり九時でございます。お喜び遊ばせ。貴方は今から七分経ちますれば、元のバード・ストーン氏にお帰りになる事が出来るのでございます。そうしてもし御運が強ければ無事に本国へお帰りになる事が、お出来になるかも知れないのでございます。
 ……もし御用でもございましたならば、どうぞ今の中(うち)に仰有(おっしゃ)って頂きとうございます。私はお待ち致しております」
 女の言葉はここでふっつりと切れた。
 併し相手は動かなかった。殆んど一点の生気もなく横わっていた。
 否……唯一度、女の言葉が切れると間もなく、微(かすか)に眼を上げて、女を見ようと努力したようであった。けれどもそれはただそう見えただけで本当は動いたのかどうかわからなかった。
 女は身じろぎもせずにそれを見つめている。
 室(へや)の中に再び墓の中の静寂が充ち満ちた。
 ……突然じりっと微かな音がした。
 それは時計の時鐘(じしょう)が、九時を打つ五分前に、器械から外れた音であった。
 その音を聞いた瞬間にゴンクール氏の全身に、見えるか見えぬ位の微かな戦慄(せんりつ)が伝わったが、直ぐに又静まった。そうしてそのあとから次第次第に氏の呼吸が高まって来るのが見えた。遂には硝子(ガラス)窓の外からでも明らかにその呼吸の音が聞き取れる位になった。
 氏は意識を回復し初めたのである。しかもそれは生きた人間としての意識ではないように見えた。逃れようにも逃れられない、広い、淋しい幽冥に引っぱり込まれていた氏の魂が、更に一層深い恐怖に襲われたために藻掻(もが)き初めたものらしい。氏は大浪を打つ呼吸の裡に、光りのない眼をソロソロと開いた。ほとんどあるかないかの努力で、恐ろし気に瞳を這わせつつ、辛うじて左右を見た。恰もそこいらに嬢次親子が立っているかどうかを確かめるように……そうして虫の這うようにそろそろと女を見上げつつ何か云おうとしたが、唯だらりと開いた唇がブルブルと慄(ふる)えるのみで、舌が硬ばっているために声が全く出なかった。それでも氏は云おうと努力した。……一度……二度……三度……目にやっとかすれた声で……殆んど言葉をなさぬ言葉が咽喉(のど)の奥から出た。
「……ア……ア……ナタ……ノ……ナマ……エハ……」


nikucup at 23:09|Permalinkこの記事をクリップ!