サリー・マーラ全集 『皆いつも女に甘すぎる』の三年後に刊行された、サリー・マーラ名義のもうひとつの作品。


レーモン・クノー(中島万紀子訳)「サリー・マーラの日記」『サリー・マーラ全集』水声社、2011年。

 翻訳の難しさという点では、『皆いつも女に甘すぎる』をも上回るのではないか。この日記はサリーがフランス語で書いたという設定になっているのだが、使われている単語がフランス人なら眉をひそめるようなものばかり、外国人なら「こんな言葉は使ってはいけないよ」と教わるどころか、完全に黙殺されてしかるべき単語だらけなのだ。その秘密というか責任は、『皆いつも女に甘すぎる』では翻訳者として登場していたミシェル・プレル、ここではサリーのフランス語教師にある。

「「わたしがちゃんとフランス語を話していないっていうんですか? あなたはわたしのことを誇らしく思っていると思ってましたけど」
 「うん、でもきみに謝らなくちゃいけないことがあるんだ。どうやらぼくはきみに下品な言葉を教えてしまったようだ」
 「そんなのがあるんですか、下品な言葉なんてものが?」
 「ぼくの同国人なら、きみの話すのを聞いておったまげるだろうね」
 「アタナーズみたいに?」
 「ああ、そうだ。きみは彼に会ったんだよね。きみ、彼のことどう思う?」
 「汚いやつ、へどが出そうな、ばかです」」(259ページ)

 日本語には下品な言葉が少ない。外国語を学んで初めて知るのだが、ほんとうに少ないのだ。そのことを喜ぼう。そうでなければ、軽々しく引用などできなかっただろう。というのも、最後の一行、原文では「Que c'est un salaud, un dégueulasse, et un con」となっているのである。なんてこと! フランス人がこれを聞いたら、まちがいなく「おったまげる」。しかも、こんなふうな翻訳できない下品な言葉が、作品中にあふれているのだ。

「自分の日記の最初の数ページを読み返してみて、わたしは自分が「処女」という言葉を正しく使ったかどうか自問している。というのも辞書には、「開拓されたり、耕されたり(キュルティヴェ)していない土地について言われる」とある。で、わたしはといえば、うぬぼれるわけではないが、どちらかというと教養がある(キュルティヴェ)。しかしわたしはこのまちがいを避けがたいものとして甘受しなければならない、後世にだけ向けられたこれらのページの中には、一つならぬまちがいが今後も出るだろう」(23ページ)

「昨日はわたしの誕生日だった。これからわたしは十八歳なのだ、プラムの実る十八回の春、わたしの歯は、後ろも前もしっかりと生えそろって、ああ、ちくしょう、美しい日だ」(72ページ)

 いちいち解説を加えていたらきりがない。おまけに、言葉遊びがすさまじいのだ。訳文の日本語がおかしなことになっているように感じられるのも、原文を尊重しているからである。最初は読みづらく感じられることもあるのだが、じきに慣れてくると、これがたまらなくおかしくなってくる。

「わたしがまだ自己紹介をしていないということ、それにわたしの日記用のノートが、おのがページの上にいろいろ書き散らしている人物をもっとよく知りたくてうずうずしていることには気づいている。というわけで、そうすることにしよう、親愛なる打ち明け相手よ。わたしはマーラという苗字で、名前はサリー。十三歳と六ヵ月の頃から生理がある。おそらく始まるのは少し遅かったが、この観点では、わたしは真の小さな振り子時計であると、白状しなければならない。わたしにはもう父がいない。十年前、父はマッチの箱を買いに行って、そしてとんと帰ってこなかった」(20ページ)

 これは簡単に言ってしまえば、サリー・マーラというアイルランドの少女がおこなった「性についての探究」の記録である。小説『皆いつも女に甘すぎる』では黒子的な作者でしかなかったサリーと、彼女をとりまく狂人たちが中心人物となっている。なかでもサリーの兄、ジョエルのキャラクターは強烈だ。

「「ママ、ママ」と彼は突然めそめそした声で叫んだ。「もうおれを愛してないの? もうおれを愛してないの?」
 「いえ、愛してるわ、いえ、愛してるわ」とママが安心してほろりとした様子で答えた。「ただ、あたしがもし結婚するような歳でも、あたしが選ぶのはあんたじゃないでしょうね」
 「そんな! で、なんでなの、それは?」
 「あんた飲み過ぎよ」
 「じゃあパパは飲んでなかったの、パパは?」
 「ふつうだった。週に八回から十回酔っぱらうのを決して超えはしなかったわ。そこへいくとあんたは、四六時中じゃない。母親としては、それは不愉快じゃないけど、でも妻としてだったら、それはあたしの気に入らないわね」」(79ページ)

 ジョエルが登場してくるたびに、テンションが上がる。この酔っぱらいの狂人(サリーの言では、詩人)は、マーラ家の人びとのなかでも際立っている。

「ジョエルが自分のブレックファーストをとりに降りてきたときはもう時間はとても遅かった。彼の嘆かわしい顔色はわたしに哀れみの情を起こさせていた。わたしを見ずに、彼は座って自分のナイフをバターの中に沈めると、それから自分の手のくぼみにそれを塗りつけた。彼は手にトーストを乗せるのを忘れていたのだ。わたしはそのことを彼に知らせてやった」(42ページ)

「春のおとずれを祝うために、ジョエルは八日間の《バッター》をやることに決めた、つまり、彼は自分の部屋に、二十本のウヰスキーと、ギネスの小さな樽二つを持って閉じこもったのだ」(54ページ)

 ちなみに「ウィスキー」がわざわざ「ウヰスキー」と書かれているのは、原語が「ouisqui」となっているからだ。英語の「whisky」は、そのままフランス語でも通じるというのに。

「「あんたこれから何するつもりなの?」
 「おれはいつだってフランス外人部隊に入れるさ」
 「すてきな見通しね!」
 「でもママ、あんたがゼニを持ってる間は、おれは何も怖いものないよ」」(82ページ)

「「酔っぱらうんじゃないよ、坊や!」とママが彼に叫んだ。
 「うん、ママ! 明日よりは飲まないさ」」(84ページ)

 とくにすばらしい、というか、すさまじいのが、マック・アダム家で開かれた「パーテー」の一幕だ。ああ、ジョエル!

「ここではだめって、何が? 彼は何をほのめかそうとしていたのだろうか? わたしはこのダンスの後で彼に説明を求めたことだろう、もしこのダンスがある事件によって中断されなかったのなら。その事件にわたしは驚かされたのだが、それはまだ起こってはいなかった。ボストンはその五十二拍目まで来ていた(わたしは甘い言葉をささやきながらも、拍を数えていたのだ)、その時中断されたのだ。胸を引き裂くような叫び声とともに、ジョエルが、じっさい、そこに突進してきていて、ボストンが刻まれていたレコードをむさぼり食い始めていたのだ。何人かの勇気ある男たちが、この罪なきものの救出に向かっていたが、それは無駄だった。ふた口目には早くも、わたしの兄はぐったりと倒れこみ、粉々になってしまったボストンを回収するあらゆる希望を決定的に失わせてしまった。しばらく動かない状態でいてから、ジョエルは陰鬱な騒がしい叫び声を押し出しながらとんぼ返りをしはじめた。わたしたちはこの詩人の周りに輪になった、しかし彼のインスピレーションは、主題として、現前する調度品の否定しか取り上げないようであった。カイン・マック・アダムは、自分の父のことに思い至り、家具のことに関して危惧の念を抱き、わたしの兄弟の頭で酒の小瓶をかち割ることで彼をびっくり仰天させ、そしてわたしに、彼をマイホームに連れて帰ってくれと礼儀正しく懇願した。そこでわたしはそうした」(240〜241ページ)

「四十八時間眠ってから、ジョエルは自分の家に帰っていった。彼の出立でわたしは悲しくなった。彼の存在は、鼻腔と同時に歯の間も通ってくる呼気のいびきとしてしか表れてきていなかったけれども、彼の存在のおかげで、わたしはわたしのかわいそうな母親の存在支えることができていたのだった」(241ページ)

 ちなみにこのジョエルは、天性の詩人としてサリーにもさまざまなインスピレーションを与えている。この『日記』は『皆いつも女に甘すぎる』よりも前に書かれたということになっていて、あの小説を生んだのは、じつはジョエルがなにげなく放った一言だったのだ。

「「おれはあんたに甘くしすぎた」とジョエルが大仰に言った。「そもそも、皆いつも女に甘すぎる」」(131ページ)

「「あたし小説を書きたいの」
 「何について?」
 「わからない」
 「でも、それが小説になりそうだっていうことは確信してるのか?」
 「それは、そう。それに、しかもアイルランド語で」
 「じゃあ、おれはそれを読めないじゃないか」
 「題名は思いついたような気がする」
 その題名はちょうどわたしの頭にひらめいたところだった。
 「言ってみろよ」
 「『女はいつも男に甘すぎる』」
 「そりゃ長いな」
 「あるフレーズがあたしをはっとさせたのよ、あんたがある日あたしのいる前で発したあるフレーズがね、ほら、パパが戻ってきた夜、キラーニーさんがサロメを連れてきて、それであたしたちがそんな話は聞きたくないって言ってたときよ」
 「盛りだくさんだったな、あの晩は。険悪だったよな」
 「あんた、こんな風に言ったのよ。『皆いつも女に甘すぎる』って」
 「おれがそう言ったのか? おれが?」
 「そう。でもあたしは、ちょっと変えて、『男に』にするの」
 「で、その本の中ではなんの話をするつもりなんだ?」
 「それについては何にもわからないわ」
 「たまらなくおかしい本になりそうだな、でもそれだったら、『女に』にしたら、もっと独創的になるぜ」
 「そう思う?」
 「当然」」(223〜224ページ)

 サリーはいつかアイルランド語で小説を書くために、この言語を習いに行っている。教授の名は、パドライック・バオガル。彼もまた変態である。

「アイルランド語の綴りは、うそみたいだ。もしわたしが、このケルトの言葉で一つの小説を書きたいという非常に強い欲求を本当には持っていなかったら、わたしはこれを少しも習わないだろうに。oidhceと書いて「イ」と読み、cathughadhと書いて「カユ」と読むのだ。パドライック・バオガルはこれをすばらしいと思っている、なぜならこれはフランス語よりもさらに読まない字が多いからだ。あたかもこのことで利益があるとでも言わんばかりに」(38ページ)

「「で、あんたにもう一度言っておくけど、うちのお手洗いをあんたはいつでも使っていいのよ」
 「ありがとうございます、パトリシア叔母さん」
 「で、あんたのバオガルには、わたしがあいつのことを雌ヤギの糞で味つけした肥溜めの飾りみたいだと思ってるって伝えるのを忘れないでちょうだい」
 「伝えないようにします、パトリシア叔母さん」
 「そうだろうね。あいつはあんたに目をつけてるよ。かわいそうなおしゃべりばか娘。去年の聖パトリック祭からぶら下げられてるあの大ばかソーセージ野郎、あの尻でかの五十がらみの間抜け野郎はきっと、痴漢に狙われそうな雛鳥ちゃんに、つまりあんたに、のぼせ上がってるんだ。わたしの姪っ子、用心おし、わたしの姪っ子」」(95ページ)

 ブルトン編纂の『性についての探究』のなかで、クノーはプレヴェールとともに、尻に対する偏愛を告白していた。そのためか、『サリー・マーラの日記』に登場する男たちは、異常に高い確率で尻フェチである。

「「あなたは、わたしのスカートをめくり上げ、わたしのパンティを下ろして、わたしのおケツを赤くしたいのですか?」
 「おお、ひどい言葉を! サリー、恥ずかしくないのですか? 二倍罰を与えますよ」
 「そうなんでしょう、ちがうんですか? わたしに尻たたきをしたいんでしょう?」
 「はい、そうです」と彼は内気な感じでつぶやいた」(161ページ)

 サリーとともにバオガルのもとに通っているもうひとりの生徒、バーナベの存在も忘れがたい。おたふく風邪にかかったりもするこの間抜けは、必死にサリーを口説こうとする。

「「あなたは、ぼくが、この作品を見に、あなたを連れて入れると思いますか?」
 「この女優は教会から断罪されているんですか?」
 「ぼくは今週、セント=ジャック教会で貼り紙を読んだんです。それによると、これは、大人にさえ禁じられている映画なんです」
 彼は唾を飲み込んでから、つけ加えた。
 「もし入ったら、プロテスタントみたいな様子をしましょう」」(63ページ)

「バーナベがわたしに棒つきアイスをおごってくれる。二人でしゃぶる。おいしい。堅くて冷たくて、冬のある雨の日の大理石の彫像の足の親指みたい」(64ページ)

 バオガルもバーナベも、サリーとともに印象的な会話(?)を繰り広げている。ほとんど反則的なやり口である。

「「あの……」と彼は言った。
 「え?」とわたしは尋ねた。
 「……じゃないですか?」と彼は続けた。
 「……もしかして……じゃないですか?」とわたしは反駁した。
 「……のように思います……」
 「……わたしは……」
 「……あなたは……」
 「……市電……」
 「……ええ……」
 汗のしずくがいくつも、転げ落ち始めた、彼の言語学者的な美しい額を。
 「……わたし、ないですか、あなた?……」と彼は尋ねた。
 「……て、わたしのでき、こと……」とわたしは答えた。
 「……でしたら、あなたあなたあなた、はいはい……」と彼は言い張った。
 「……でももし、あなたそれ、その、したら……」とわたしは抗弁した。
 「……ばらぶれぶれひひ……」と彼は続けた。
 「……ああ……。ああ……」とわたしは言った。
 「……うう、うう……うう、うう……」
 彼はすぐにこの話題に戻った。
 「……うう、うう……うう、うう……」」(34ページ)

「「これなんかは、体のこの部分がわたしには誇張された規模のように思えます」
 「あおああ……」
 「そうお思いになりませんか、バオガル先生?」
 「おおああ……」
 「それにこれなんかは、自然によって本当にあまりにも優遇されているようにわたしには見えます」
 「おあおお……」
 「これについて言えば、脚がからまってしまうにちがいないわ、これを斜めに肩からかけでもしない限り」
 「あおおお……」
 「よく均整が取れているようにわたしには見えるのがやっとあったわ。それを針の穴には通せないだろうっていうことは認めなければならないけれども」
 バオガルの顔つきはわたしを魅了していた。これほど高尚な顔つきがこれほどばかみたいに、これほど荘重な顔つきが偽善的に、これほど安定した顔つきが脆弱になるのだ。彼はわたしの言葉を呆然としながら嚥下していた、まるでわたしが、自分でもそうとは知らずに神託を述べているかのように。
 「それにこれは、すてきな一対を持っていますね」とわたしはおそらくウラン星のとおぼしき精霊の、広げた翼を指し示しながら明言した。
 「ううううぴいいい!」と突然猛り狂ったバオガルはわめきはじめた」(168ページ)

 だが、じつはいちばん狂っているのは、穏やかに靴下を編みつづけるサリーの母親だ。考えれば考えるほど、まともな人間などただのひとりも出てこない作品ではあるが。

「「そう」と彼女は今度は彼に向かって、再び口を切った。「何をぐずぐずしてるの? 早く自首しに行きなよ」
 「どうしてあんたはパパに自首しに行ってほしいの?」とママが唖然として尋ねた。
 「どうしてって、犯人はこの人だからよ」
 「犯人が全員自首するわけじゃないわ」とママが言った。「もし犯人がみんなそうしたら、もう探偵小説が読めなくなっちゃうでしょ」」(216〜217ページ)

「「おやまあ!」とキラーニーさんは言った、「まさかあなたが、マーラのお嬢さま、そんな下品な質問をなさるなんて……」
 「そうよ、わたしもみとめなくちゃならないわ」とママが言った。「あんたが許容範囲を超えてるってことをね」
 「マーラのお嬢さま、わたしはぞっとするほど不快になりましたよ」
 「サリー、開いた口がふさがらないわ!」
 「恥ですよ、マーラのお嬢さま、誠実な女の前でそんな淫蕩な言葉を言うなんて」
 「サリー、母親を赤面させるのね!」
 「わたしはこれほど品のない言葉をかつて一度も耳にしたことがありません」
 「自分の娘がポルノ作家だったなんて知らなかったわ!」
 「ああ! おかわいそうなマーラのお嬢さま、現代の若者はじつに堕落しているんですね!」
 「そうよ」とママが言った。「若者はあれについてしか考えてないの」
 「一体何についてよ?」とわたしは尋ねた。
 「屠殺解体についてよ」とママが答えた」(248ページ)

 そういえばこの作品の舞台も、『皆いつも女に甘すぎる』と同様、アイルランドだ。クノーはここでも、ときおり思い出したかのようにそのことを活用する。ジョイスの定義はひどい。あんなに尊敬してるくせに!

「「これ、嗅いでみてよ」とわたしは彼の鼻っつらの下に「スキャンダル」の小瓶をかざしながら彼に言った。
 「なんてひどい」と彼はうめいた。「くせえ」
 「ミシェル・プレルからのプレゼントなの!」
 「フランス人どもめ」と彼はうめいた」(108ページ)

「それから彼はわたしに、ダブリンの、ジョイスとかいうやつについて話した、自分の本をパリで印刷させる羽目になったポルノ作家だ」(262ページ)

 輝く一文が随所に散りばめられているのは、言うまでもない。語り口がひたすら軽いので、あっという間に読めてしまうのが惜しいほどだ。

「わたしはしばらくの間、彼が彼の迷信的な漬け汁の中にマリネされるがままに放っておいた」(41ページ)

「正確には何を意味してるのよ、例の文章は? 何にも意味してないわ。それって文学よ」(80ページ)

 何度も何度も読み返したい作品だ。翻訳を一度読みとおしたおかげで、原書にも再挑戦したくなった。くだらなくて、ひたすら下品。それをかぎりなく真剣に書く。クノー、やっぱり大好きだ。