テレビとネトウヨ

或るジャーナリストの文に、

「テレビのコメンテーターは、国民百万人単位の意見を代弁してる。

ネットの世界では批判される鳥越都知事候補が、テレビのコメンテーターには褒められ支援されている。

自分はネットで語られることと同じような疑問を感じていたので、

テレビのコメンテーターの意見を聞いてショックを受けた。自分は、国民の感覚からずれて、ネトウヨ、ヘイトスピーカーになっているのではないかと恐ろしくなった。

しばらくは自分の考えを出さず、ゆっくりと様子を見たい」

という意味のものがあった。

石田純一さんが鳥越さんと同じように「わかりません」と言ったら、コメンテーターたちに「正直でいい」「爽やかだ」「したたかである」なんて褒められずに、政治をやりたいならちょっとは勉強しろバカなどと、同じコメンテーターたちからぼろくそに言われるのだろうが、人徳の差なのか?

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まだテレビを国民の総意だと信じている人たちがいるんだなと驚いた。すでに今は昔にこんな討論もあったようなので、すっかり結論が出ていると思っていた。

幸い、若い人にはテレビを視ない人が出て来たらしい。

サヨク的な人は、テレビを視ないでネットから情報を得ると、どうしてもものの見方がヒダリへの偏りを維持できなくなるので、ネトウヨ(「こういう考えをして意見を言うとネットウヨク、ヘイトスピーカーと罵られる内容、たぶん、多くの人がこんなのはウソだ!と腹を立てて最後まで読めないかもね」)というレッテル貼りやネットでの情報の氾濫の規制を考えているようだ。

試しに、近現代の日本の歴史についてネットで情報を集めてみたら、戦後体制に染まっている人は非常な反発を感じ、危険な思想教育がネットで行われていると思うだろう。

そこからさらに俯瞰して、情報を吟味できる人なら、それまで自分の頭に嵌まっていた思考の枠が見えてくると思う。

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ぼくは、正しい思想があるとは思っていない。

ウヨクにもサヨクにも「自分は中道だ」と言っている人がいるが、

三島由紀夫の戯曲『わが友ヒットラー』の幕切れのセリフは、こうだ。

クルップ「きみは、左を切り、かえす刀で右を切ったのだ」

ヒットラー (舞台中央に進み)「そうです」

「政治は中道をいかなければなりません」

ヒットラーにしろ、毛沢東にしろ、スターリンにしろ、蒋介石やポルポトも、思想的弾圧と虐殺をおこなう独裁者は、主観的には予断と偏見から解放され、「真理」を発見している。

彼らは思想の教祖であり、

そして、彼らの独裁と圧政は、「真理の体現」なのだ。

それは、そうだろう。

正義を行うにあたって、躊躇することは必要ないし、それどころか、正義の具現をためらうことは、とりもなおさず、この世にはびこる資本主義、物質主義、拝金主義、市民の人権蹂躙への加担である。

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人間はものを考えたら、必ず、偏っている。

政治に関心を持てば、中道は有り得ない。

砂漠を真っ直ぐ歩いている(つもりの)人のように、どんなに気をつけても、微かに、ミギかヒダリに、曲がっていって、何年か経てば、円を描いている。

それが「自分の考えのある人」のメーキングだ。

そして、後は、ぐるぐる同じ場所を回るのである。

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それは仕方がない。

しかし、ミギ寄り、ヒダリ寄りという、自分の立ち位置を自覚できない場合は、有害だと思う。

自分が客観的に事実をとらえ、それに基づいて正しい判断をしていると思っている人は、キチガイだ。

それくらい言っておいたほうがいいのだ。本当に、正義は危険だ。悪の被害は限りがあるが、正義の人は何百万を拷問にかけた上に惨殺しても爽やかに笑っている。

だいぶ前ならキリスト教、少し前なら共産主義、最近ならイスラム、これら正義の人たちが腐敗した社会を救うために、どんなふうにどれくらい「悪い人たち」を殺しているか、ちょっと調べてみてほしい。ネットですぐわかる。ショック死しても自己責任でお願いします。

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護憲平和とか原発反対というのは、戦後の価値観では、たとえお花畑と揶揄されるような理想であろうと本来わたしたちの世界のあるべき姿だ。

クリスチャンにとってのイエスの復活に等しい、宗教的事実だ。

しかし、実は、意見なのだ。

意見とは、願望である。

どうにも変えられない、そして受け入れられない現実を、頭の中の解釈によって、なんとか自分の願望に合わせて変質させようという工夫である。

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そして、意見とは、そもそもが偏見という意味である。

或る立場の人の都合によって選んだ考え方が、意見だ。

その人の利益を増し損失を減じる方向にものごとを持って行きたいというエゴイズムから出たものが、オピニオンだ。

民主主義は、エゴイズムを自由に出し合って、利益の最大公約数を導き出して、最後は多数決という、正しい判断とは何の関係も無い方法によって総意を決定してしまう。

それでも、これが殺し合いや暴力を背景にした搾取を回避するには一番いい方法なのだ。

民主主義を破壊するのは、正義の人であり、オピニオンを出さず、正論を人々に吹き込む人だ。

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テレビは、今の社会で「正しい」と思われていることを基準に、報道する。

「正しい」「あるべき世の姿」を実現するには、先ず、邪魔になるのが、腐敗と利権の温床である民主主義である。

テレビはスポンサーに媚びて報道していると言われる。それなら、大した害は無い。

毎日自分と自分の家族の幸福のために嘘をついたり人を出し抜いたり、見つからないとなると平気で不正を働いているわたしたちと同様のことをしているのだなと、すぐに、わかるからだ。

政府や大企業の意のままに報道しているとしたら、それはすぐにわかるし、わたしたちは自分を見るような思いをして、それに気づくまいとあわてて(政治家批判の時と同様)ありったけの侮蔑を向け、せせら笑う。

危険なのは、正義だ。

マスコミで働く人には、政治家でもないのに自分が世の中をよくしようと思っている人がいるようだ。

そういう人が番組を作っているらしい。

だから、有害なのだ。

テッちゃんと空を見る

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夜明け。
テッちゃんがバルコニーに出て、段ボールの上でくつろぎました。

ぼくも横で寝ころんでみると、けっこう快適。

仰向けで空を見ていると、上下が逆転して空に浮いているような、空という深海の奥へ奥へと降りていくような、不思議なイメージに包まれました。

こうして世界を知覚している自分、自分の意識って何なんだろうか?

この疑問は四歳から感じているけど、近頃、ますます不思議に感じる。

同じように意識を持っている、人類という生き物が、もう何万年も、こうして世界を心に映し出しているそうだが、一体、何をしているのだろうか?

時間や空間を捉える意識がなければ、宇宙は存在できないかもしれない。

常識的には客観世界の中に事物が存在している、と思っている。

しかし、事物のある世界を認識する意識がいて、初めて、客観世界と考えられる状況が成立するのではないだろうか?

麻酔で意識の無い間、世界は消えている。もし、10年麻酔が覚めなかったら、10年間、世界は存在しない。

もしそうだとすると、無数の世界投影機によるホログラムが「現実」なのだろう。

ホログラムの投影を成立するのに必要な時空が、ぼくら一人一人の意識なのかな。・・・

・・・そんなことを、テッちゃんと寝そべりながら、ぼんやりと考えてました。

テッちゃん イン ザ・手作りテント

工作名人のみーたんが、段ボールを使ってテッちゃんのテントを造りました。
折りたためます。

今度の住まいのバルコニー*はけっこう広くて、日向ぼっこ大好きなテッちゃんはとても気に入っています。
いろんな場所で日向ぼっこを楽しめるように、工夫しています。

*今、辞書を調べたら、ベランダというのは、屋根のあるバルコニーなんだそうで。
知ってました?ぼくは、今の今まで区別なく使ってました(^_^;)

バルコニーは、「露台。室外に貼りだして作った、屋根の無い手すり付きの台。」(広辞苑)
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