右翼

政治思想的な事柄について、自分の意見を持つと、その持ち方に右翼か左翼の傾向がつきまとうのは、避けて通れない。

時々、わたしは真ん中だという人がいるが、それは自分は神だと言っているようなものだとぼくは思う。

或る物体を観察する。観察するには、物体に対して自分の位置を定めることになる。

だから、立方体が、或る人には長方形、別の人には円、第三の人には線として観察される。

どれも、「観察事実」なのだ。

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こういうことを踏まえて、最近、耳にする「国家」とか「国益」という言葉について思うのだが、ぼくが若い頃には「国益」とか「国家」とかいう言葉を人前で口にすることはできなかった。

国益や国家ではなく、世界の平和や市民でなければならなかった。

日本を国で捉えて、日本だけのことを考えると、戦前の軍国主義に戻る。

そういう空気があった。

ところが最近は「国家」や「国益」という言葉が、若い人の口からも出る。

六十以上の左翼の人と話をすると、今の時代を心底、憂えている。

右傾化、国家主義化、若者がインターネットの間違った情報に騙されてネトウヨにされている。

そう嘆く。

いてもたってもいられず、「戦争をさせない」「アベを許さない」というゼッケンをつけて街を歩き回っている人もいる。

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ぼくは、思想的には右翼(と言うと、大型街宣車からバカだの死ねだのとがなりたてている戦闘服にサングラスの人たちを思う浮かべるだろうが、あれは右翼のイメージを作る情報活動だと思う)的だが、なんか変な形で右への揺り戻しが来ているなと感じる。

足腰はふらふらなまま、上半身だけ右に傾いている。

これは、ぼくから言わせると、戦前の日本と同じだ。

戦前の日本は軍人が国民を戦争に巻き込んだと教えられるが、実際は、国民が戦争を望んでいきりたち政治家たちの話を聞かなくなり、軍人がそれに便乗した。

そして、国民をたきつけたのは新聞だ。

当時も、立ち位置を定めないまま、ナチスドイツに憧れたりして上半身だけ国家主義に傾いたのだ。

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国家や国益ということを足元から考えるなら、先ずは、日本はスイスのように民兵組織を整えるべきだとぼくは思う。

一人一人、家族ぐるみで、国を守る、男性は国のために命を投げ出す覚悟で戦争に参加する、そういうことが共同体で「立派なことだ」と称賛される、それが国家だと思う。

(「国のために命を捧げるのは立派なことだ」という共同体意識を利用して、欧米の国々の富豪たちは戦争をして利権を維持拡大しているわけだが)

この国家観は、近代国家というより、群れ社会の氏族的な集団意識だ。

群れは排他的で、自分たちの群れに侵入し破壊しようとする他の群れに対しては、犠牲を厭わず、戦って撃退しようとする。

こういう姿勢の底には、個人よりも群れが大事だという考えがある。個人で生きているのだが、その個人として生きられるのも群れあってのことであり、人間は群れないと生きていけないという認識だ。

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シロアリが外敵に巣を襲われると、一般の働きアリは逃げ出すが、兵隊アリは戦闘フェロモンを出して死ぬまで戦う。

逃げよう、戦おうというのは、シロアリ一人一人が自分で考えて選んだことではない。

逃げるように生まれついているアリは、戦おうと思っても逃げてしまう。

反対に、戦うように生まれているアリは、もしかしたら反戦思想の親に育てられたかもしれないが(笑)、それでも、戦争になるとなぜか、戦いに参加してしまう。

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人間も群れ動物であるから、集団を作る。

そして、集団のメンバーには、集団が脅かされると集団を離脱して逃げる人たちがいる。

一方、自分を犠牲にしても集団のために闘う人たちが必ず出て来る。

人間は、シロアリと同じで、そういうように出来ている。

絶対平和を唱える人、黙って闘いに出かける人、その両方が、集団を作る動物には遺伝的に備えられているように思う。

徴兵制

今後日本には徴兵制なんてありえないという人たちもいる。

その主張の根拠は、「今の兵器を使いこなすには何年もの訓練が必要だから、素人をひっぱって来ても役に立たない」というものだ。

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しかし、戦争では、必ず「損耗」がある。

例えば、大鑑巨砲主義の時代の話だが、戦艦同士が交戦する時、先ずは駆逐艦などが砲撃範囲の中に突進してゆく。

駆逐艦が戦艦から砲撃されて沈められているうちに、味方の戦艦が敵艦砲撃の射程内まで進んで攻撃を始める。

地上戦でも、「突撃する」とは、隠れていたら撃たれない場所から出て行くということだ。

突撃すれば、「損耗」無しということは有り得ない。

ひとりの犠牲も出さないようにして完成を目指す建設工事なんかとちがって、戦争は人身や兵器が損なわれることを前提にしている。

自分の駒を取られることが作戦の中に含まれる将棋のような遣り取りである。

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もし多大の損耗が予想される戦争をするなら、戦争をする責任者としては、消耗品としての兵隊は、やはり、徴兵によって備えたいと思うだろう。

職業軍人から成る士官たちが戦艦なら、戦艦が威力を発揮できるように状況を整えるための駆逐艦を徴兵された一般兵士が担当することになるだろう。

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だから、戦争は絶対にしてはならない。

と考える人もいるが、そう考えない人もいる。

してはならないと思っても起こるものは起こるから、考えるのは「戦争はしてはならない」ということではなく、「どうやったら一番ましな戦争が出来るか」にしよう。

そう考える人もいる。

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時々、どこの国の兵隊も、だれもかれもが「戦争をしない」と言い出したら、戦争はなくなるのになあ、と思う。

世界中の人が同じ、一つの考えになると、戦争がなくなる。

逆に言えば、

人間が、ひとりひとり自由に生きたい、自分の考えを持ちたいと願うことが、争いの原因である。

ちょっとした口論からママ友グループでの主導権争い、政治の世界の権力の奪い合い、そして殺戮と破壊の戦争まで、人間がそれぞれ「自分自身でありたい」という煩悩が原動力だ。

誰もが「あなたのおっしゃる通りでいいです」と言っていたら、争いは起きない。

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或る考えに対して「そんなことは絶対に許されない」と思う人がいるから、戦いは始まる。

人によって何が正しいかに関して考えが違う。これが戦争がなくならないことの根本原因だ。

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日本では「戦争をしなければ、戦争は起きない」という考えがあるようだ。

この考えで行けば、憲法九条があるから、戦争にならないことになる。

手を上げて「わたしは丸腰ですし、何をされても戦う気持ちは一切ありません」とわかってもらえたら、相手は武器を向けるのをやめ、仲良く平和に暮らせるという考え方だ。

しかし、世界の大半の国々は「すみません、すべてわたしがわるかったです、生きている限り反省し続けます」と謝罪し賠償することで戦争を防ぎ国を守るという日本式を採用しない。

「いざとなったら戦争をするぞという気構えと能力」を示して戦争を防ぎ、必要な戦闘は行うという作戦を取っている。

そんな世界の中で、ノルウェーでは、女性も男性と同等に徴兵するようになったのだそうだ。

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男女平等ということを理詰めで実際生活の中で実現していけば、こうなるのはもっともだ。

日本でも四十歳以上の男女には、十年に二年ずつくらい、生きている限り、兵役義務を課すようにすればいいなと思う。

徴兵制を免れるのは、四十未満の若い人となる。

そうすれば、「若者を戦争に行かせるな」と言っている全共闘世代の老人たちの願いもかなう。

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日本はダメになったと言う人がいるが、その原因は、戦争に行かなかった八十代以下から四十代の人たちの責任だ。

八十以上から四十代くらいまでの世代の生き方、暮らし方。それは、動物園の拘禁性ノイローゼの動物たちと似ている。

檻の中の安全と給餌。自分が生きる目的は、幸福のみ。

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幸福の追求によって、人間は絶対に幸福になれない。

動物は、日々、安全と食を求めて生きている。

ところが、

動物が檻の中で安全を保障され、毎日餌を与えられることでは幸福になれない。

それと同じで、幸福そのものを追及して、安全と豊かさの中で暮らすと、人間は幸福になれない。

そのように出来ている。

本来、野生のサバンナで生まれて生き延びるために日々工夫を凝らし戦っている動物たち。それが動物園に入れられれば、どうなるか。

生は緊張を失い、空気の抜けた風船のように目的を失って同じ場所をぐるぐると廻る。

終わらない日常を徘徊する、戦後の日本人と似ている。

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人生の午後にさしかかって、徴兵が待っている。

軍隊生活の中では、事故死もあるし、いじめもあり、自殺者も出る。

場合によっては戦争、つまり殺し合いに参加する。

十年毎に、そんな二年間の軍隊生活がある。

そうなると、動物園の動物たちように拘禁性ノイローゼにかかったような中高年たちも、少しは自分の人生、それから自分たち暮らす社会の在り方について、真剣に考えるようになるのではないか。

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猫などの動物が、「顔」をどのくらい認識しているのかという研究は、まだ、統一的な見解が出てないようです。

問題は、動物が人間の影響を受けて認知能力の増進を見せること。

野生の動物であっても、実験や観察の必要があって人間が共に暮らしていると、親しみ交流があるほどに、動物は人間のようになってくる。

つまり、人間のような認知、意識を示すようになる。

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ふた昔くらいまえは、猫がテーブルに上ろうとしたら、大きな音を立てろと言っている動物学者や猫専門家がいました。

びっくりした瞬間、今まで何をしていたか忘れるから。

そりゃ、あんたやろ。

集中して一つのことを思考できるのは人間とチンパンジーだけだと信じられていた。

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西洋の文化は、一神教。

一神教がどうして生まれたかというと、作物を育てられるだけの土壌にめぐまれない土地では、動物を育てて殺して食べるしかなかったからだ。

ところが、人間は、人間以外の動物にも自分と同じような心を感じるように造られている。(原始人がマンモスなんかを狩猟している絵は間違っている、あれは環境が悪化して食べる穀物が無くなって仕方なくやってることで、人間は元々が農耕サルだ)

だから、生き物を殺すことは感情的な不快を伴う。

そのため、人間そっくりの神様が「動物は食べ物、つまり《動く物質》なのだ」と保証してくれる必要があった。

人間は、生まれた時点では物質にすら心をみようとする本能がある。

だから、「動物をいじめ殺す楽しさ」を教育されて学習しないと、本能的に、生き物を苦しめたり殺したりするとイヤな気持ちになる大人に育つ。

一神教は、殺すことに、爽快感や充実感以外の余計な感情を感じないように人間を後天的に教育するための装置だった。

一神教の教義によって、動物を殺すことが楽しみ(スポーツ)として感じられる人間を育てることができた。

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ユダヤ教やキリスト教やイスラム教といった一神教の宗教では、必ず、慈悲や平和を説く。

経典には、言葉巧みな説教がたくさんある。

ところが、千年二千年とやってきていることは殺戮と侵略である。

慈悲や平和の理屈は、動物殺しの宗教の影みたいなもので、日当たり部分を見ると、狩り(スポーツ)に見られるように、殺した相手を踏みつけて、にこやかに記念写真を撮るという精神である。

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科学は、一神教の文化から発達した思考法である。

だから、科学の世界では、動物も人間のような認知能力があるという仮説を設けるだけで、非科学的なことを言っていると嘲笑われるという空気が二十世紀の八十年代までは、西洋と日本で、はっきりとまであった。

九十年代からの脳科学の研究が、「人間は動物ではない」という神学形成の動機となった願望を、事実が崩壊させていく契機となった。

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表向きは、擬人化を戒め、科学的に動物を動物として(人間とは区別して)観察しようという主張になっていた。

今では人間との区別の根拠(例えば理性や自己意識といったもの)が崩れており、擬人化という言葉そのものに意味がなくなっている。

人が、情動や意識において、生き物の中で特殊な存在だという根拠は、もはや、無い。

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ぼくも、或る時期まで、こうして言葉で自分の思うことを語る人間は、やはり、特別な存在だと思っていた。

しかし、言葉によって語られる体験や心情は、語っている人間の占有物ではない。

黙ってはいるが、猫は、体験し、感じている。
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