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猫などの動物が、「顔」をどのくらい認識しているのかという研究は、まだ、統一的な見解が出てないようです。

問題は、動物が人間の影響を受けて認知能力の増進を見せること。

野生の動物であっても、実験や観察の必要があって人間が共に暮らしていると、親しみ交流があるほどに、動物は人間のようになってくる。

つまり、人間のような認知、意識を示すようになる。

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ふた昔くらいまえは、猫がテーブルに上ろうとしたら、大きな音を立てろと言っている動物学者や猫専門家がいました。

びっくりした瞬間、今まで何をしていたか忘れるから。

そりゃ、あんたやろ。

集中して一つのことを思考できるのは人間とチンパンジーだけだと信じられていた。

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西洋の文化は、一神教。

一神教がどうして生まれたかというと、作物を育てられるだけの土壌にめぐまれない土地では、動物を育てて殺して食べるしかなかったからだ。

ところが、人間は、人間以外の動物にも自分と同じような心を感じるように造られている。(原始人がマンモスなんかを狩猟している絵は間違っている、あれは環境が悪化して食べる穀物が無くなって仕方なくやってることで、人間は元々が農耕サルだ)

だから、生き物を殺すことは感情的な不快を伴う。

そのため、人間そっくりの神様が「動物は食べ物、つまり《動く物質》なのだ」と保証してくれる必要があった。

人間は生まれたまま、教育されないと、本能的に、生き物を殺すのが苦手である。

一神教は、殺すことに、爽快感や充実感以外の余計な感情を感じないように人間を後天的に教育するための装置だった。

一神教の教義によって、動物を殺すことが楽しみ(スポーツ)として感じられる人間を育てることができた。

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ユダヤ教やキリスト教やイスラム教といった一神教の宗教では、必ず、慈悲や平和を説く。

経典には、言葉巧みな説教がたくさんある。

ところが、千年二千年とやってきていることは殺戮と侵略である。

慈悲や平和の理屈は、動物殺しの宗教の影みたいなもので、日当たり部分を見ると、狩り(スポーツ)に見られるように、殺した相手を踏みつけて、にこやかに記念写真を撮るという精神である。

こういう一神教の文化から発した科学では、動物のこころというのは、長い間、タブーだった。

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科学者の間でさえ、動物も人間のような認知能力があるのかという疑問を持つと何を非科学的なことを言っているんだと嘲笑われるという空気が二十世紀に半ばまであった。

表向きは、擬人化を戒め、科学的に観察しようという主張になっていた。

今は、擬人化という言葉そのものに意味がなくなっている。

人が特別な存在だという根拠は、もはや、無い。

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ぼくも、或る時期まで、こうして言葉で自分の思うことを語る人間は、やはり、特別な存在だと思っていた。

しかし、言葉によって語られる体験や心情は、語っている人間の占有物ではない。

黙ってはいるが、猫は、体験し、感じている。

貧しさに敗けた、いいえ、世間に敗けたぁ~

テッちゃんの写真と共に写っていたぼくの足。
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はいてる靴下に穴がありました。

ジーンズの膝が抜けているとか、帽子がボロボロなのはファッションらしいが、靴下の穴は、?

貧乏って何だろうか?と、ふと考えてしまいました。

今の日本のイデオロギーには反するかもしれませんが、ぼくは、貧乏であるには、
①雨風を完全に防げる寝室を確保できない、
②食べるものに困る、
②医者に行けない、
というのが最低条件だと思っています。

今となればバカみたいな考えですが、100年前、いや、50年くらい前なら、日本でも、この貧乏基準は使えたと思います。

今の人類が出現してから五万年くらいは、この基準が使えた。

エアコンを備えた部屋で暮らして、お腹が空かないけど時間が来るから食事をして、風邪をひいたり歯が痛くなったら医者に行けるのに、それでも、現金収入の数字によって、貧乏が決まるというような社会は、百年前、先ずはアメリカのニューヨークあたりで初めて出て来ました。

あっと言うまに、その基準が日本の標準になったようです。

明治末期から大正時代にかけて、「日本の国民は貧しい」ということが欧米帰りの人から言われ始めました。

その頃の日本では、田舎にいくと、子供は裸足、大人も夏冬一張羅の服を着てすごし、住んでる家は雨漏りして風が吹き込み、病院なんてものは無い、人は夏の伝染病で死に、冬のインフルエンザで死んでいったから、冬を越しても生き残れた老人たちは、「また生きて新年を迎えられた」と喜び合った。

こういう人々に、資本主義の文明国の観点から、「貧しい」というラベルが貼られるようになった。

そして、貧しさから脱出することで人は幸せになれる、平和に生きる、そして文明はますます繁栄するという「PHP教」(開祖松下幸之助)が生まれた。

年収が、幸せを明示するというコモンセンス(「みんな」が疑いなく認める真理)が確立した。

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ぼくの感覚では、繰り返しますが、貧 しいというのは、衣服の替えが無い、病気になってもお金がなくて医者にかかれない、食費が尽きて月末は、三度の食事を二度にしている、寝床に雨漏りがする ような家に住んでいる、高利貸しから逃げるために夜逃げをしたことがある、食費や医療費に困って仕方なく万引きや置き引きをしたことがある、・・・という ような境遇を強いられること。

だから、現代日本に貧乏は存在しない。

なんてこんな発言、人に聞かれたらえらいことになりますね。
このブログはほとんど誰も見てない、机に仕舞っているぼくの日記みたいなものなので、こんなことも書いてしまいます。

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ただ、生活保護を受けている人は医療費が行政から払われる。

そこで、医者たちが生活保護者を狙って脅し賺して(かつては拉致して入院させて胃瘻にするってのもあった)患者にして薬をどんどん与えて金儲け。

まあ、こういうのは、貧しいっちゃ、貧しい。最もお金を持っている階層の人が思い切り貧困な行為をしてみせてくれるところが、人間という喜劇役者の真価を発揮しているなあと思います。

戯れせんとや生まれけん

ますますこどもみたいに遊び好きになるテッちゃん。

遊びをせんとや生まれけん、たわぶれせんとやうまれけん

(しばらくテッちゃんのことを記事にする余裕が無かったので、続けざま^^)
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