京都五条烏丸のベジタリアンな紅茶店「キトゥンカンパニー」さんで開催中

おうちにゃんこ展  

ブログ「はなうた手帖

十年目、十回で終了。
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2月2日(月)~22日(日)
第10回おうちにゃんこ展
おうちにゃんこフォーエバー
第10回おうちにゃんこ展 おうちにゃんこフォーエバー フライヤー
2月22日日曜日 14:00~18:00
おうちにゃんこファイナルパーティー
【出演】
チェルシーズ
山本紗由 (箱庭コラァル)
おのみものとおやつと楽しいライブ♪
パーティー参加費は2000円 (予約制)


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昨年、テト展10で、テト展を終了したので、なんか、気持ちが動きます。

最近は、一匹(単頭)飼いの人と会うことがなくなってきていて、もう、猫を飼う人と猫の話をしても通じるところは無いなと感じている。

根本的なところで猫観が違う。

猫は、野生動物だと、ぼくは思っている。

愛玩用の家畜ではない。

スズメみたいに都市で人間の暮らしに寄生する野生動物だと思っている。ネズミを駆除するために飼いならしたなどというのは、人間のプライドを守ろうとするためにつく、いつものウソだ。

猫は、唯一、人間が共に暮らしたいと思って飼いだした動物である。

つまり、家畜のように、何かの道具ではなく、ただ「一緒にいたい」という思いから餌をやり寝床を与えてしまう動物である。

だから、仲間がいて家族がいて孤独感が無い人には、猫がどうして必要なのかわからない。

とにかく勝手で恩知らず、話がまるで通じない動物だ。人間にとって、動物が人の言うことがわかるとは、人間の要求に従うということだからだ。

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こういうぼくの見方では、猫は犬化されていくんだなあと思う。つまりペットとかコンパニオンアニマルとか呼ばれる「愛玩用の家畜」になってゆく。

可愛がられたり、可哀想がられたりして、人間を慰める家畜。

猫が家畜となるのは、ぼく個人の気持ちとしては、なんともやるせなく憤りを感じる。

しかし、まあ、人間自体がお互いに誰かのペットであるという人間関係がふつうになってきているので、それもいいのかも。

科学時代のわたしたちは、何かを尊く畏れ多いと感じるのは無知だからだと学校で習う。例えば、誰かを人間より上に置いて天皇だとか言っている日本てバカみたいというのが、まあ、普通に教育を受けた人の考えることだろう。

ヒトが手を出してはいけないという禁断の領域を無くしていくことが文明開化ではあった。

それでずいぶんと便利で快適になったし、今や人類の存亡の危機も招いている。責任は人間にあるのか、人間を作った造化にあるのか。

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ぼくの慰めは、人類がいなくなった時、犬は滅びるが猫は野生に戻って生き延びるという生物学者や動物学者たちの予想。

都市が無くなっても生きていける、そうした猫の「潜在的な野生の本能」も、犬のように人工交配で奇形な「商業種」を作っていけば消えてしまうかもしれない。

猫が犬のように変形されないのは、(犬が調教を受けない限り人間と暮らせないという性質を持つこととは別に)猫が元々の姿で十分に人を魅惑するように出来ているからだろうと思う。

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それでも、室内飼いと飼い足しが続けば、やがて、足を短くしたり、鼻をつぶしたり、胴を引き延ばしたりして、醜く笑える猫(つまり「かわいいーっ」と奇声をあげて女性が喜ぶような奇形猫)が売り出されるかもしれない。