イル・フォルモサ

急なことでございますが本日をもちまして本ブログを閉じさせていただきます。
実は私、昨年12月はじめに血小板減少症紫斑病を発症いたしました。血小板値が6000まで下がっていると知ったのは救急搬送された後のこと。最初大量の鼻血が出て、それから口内に赤い斑点が出来、それぞれ耳鼻科に行ったり口腔科に行ったりしていたのですが、さしたる答がありませんでした。それが12月最初の金曜日、濃いワイン色の血尿がでて、顔や手足に紫斑が現れ、驚いて、マンションに入っているクリニックにかけつけました。紫斑をみるなりドクターの顔色が変わり、電話にとりついて、救急病院を探されました。何軒もの病院にさんざん断られたあげく、横浜の公立病院が受けつけてくださいました。すぐ救急車で搬送され、ERで血液検査を受け
血小板値が6000まで下がっており、もう一日おそければ死ぬ可能性もあったとドクターがいわれました。応急処置を受けた後、難病病棟で一ヶ月の入院となりました。
現在血小板値は落ち着いておりますが、厄介なのはハシモト病を併発していることで、これを治療するのは投薬治療しかないのですが、この薬は血小板減少症に悪影響をあたえる可能性があるやもしれずということで、二人のドクターが慎重になっておられます。ハシモト病は身体がだるくなり、食欲衰え、無気力になり、なにをする気もおこらず、ついには寝たきりになる可能性もあるようです。小説「イル・フォルモサ」も上梓不可能になるところを奇蹟的に出版できました。私はものを書いていると元気が出るので、ハシモト病に負けないようにとブログを始めました。しかしあまりにしんどい。ハシモト病は血液検査では悪化しているようです。ブログはいいかげんなことは書けないと資料で確認しつつ書くのでかなりしんどい作業でした。
一日分が長いブログなのにお読みくださった方々感謝にたえません。
さらにコメントをよせてくださった方々、本当にありがとうございました。ブログ上であなた方にお逢いできて幸せでございました。
私が現在治療を受けているお二人のドクターは信頼出来る立派な方たちで、お二人のおっしゃることをよくきき、そのうち、ブログとは違う表現形式で皆様におめにかかりたいと存じます。では、どうか皆様お元気で。
                                             西村美智子

5年生の担任のG先生から戦意高揚の勇ましい話を聞いた記憶がない。不思議なことだが。
先生の話で一番印象に残っているのは、「らい」という恐ろしい病気があるということだ。現在ハンセン病とよばれて日本国が患者の人々にひどい人権蹂躪の扱いを長年にわたってしてきた病気だ。先生は患者が離島や僻地に隔離されて生涯をすごさねばならないことを話された。先生は文学好きだったから、おそらく北条民雄や島木健作の作品を読んでいられたにちがいない。今から思えば、先生は病気の恐ろしさと伝染性を強調されすぎた感があるが、当時としては、仕方ないことだったのだろう。
もうひとつ印象に残っているのは、これから話すのはかしこきあたりの話だから、不動の姿勢できくように、また家に帰って家族に軽々に話してはいけないと前置きして話された。私たちはどんな話かと緊張して話し出されるのをまった。話されたのは大正天皇の奇行の数々だった。私たちは目をまるくして聞いていた。
「らい」の話は神国日本にそんな不幸な人がいたのかという驚きと恐怖、大正天皇の話は、神様がなぜそんな奇行をなさったのだろうという驚きと恐怖を、私にあたえた。私はG先生が好きだったから、先生が憲兵に引っ張られないかと心配した。P子とこの話について感想を話し合った記憶はない。家でも話さなかった。
G先生は私がよく本を読んでいることと作文が上手なことを、父兄会で、私の母に話してほめてくれた。母は大喜びで父にその話をし、父も喜んだ。私はもう「出来損ない」とはいわれなくなった。先生がとくにほめたのは、私の「鉄棒」という作文だった。鉄棒を庭につくってもらってうれしかったこと、友達が遊びに来てくれるようになったこと、上達が楽しみだったこと、それをお国のために献納しなければならなくて、悲しいけれど、お国に役に立つと思えばうれしいことなどを書いた。
G先生とは国民学校を卒業して以来お会いしていない。

昨日の記事についてのお二人のコメントに触発されてこの記事を書きます。
私は1946年(昭和21年)3月に基隆港から田辺港まで貨物船の船底で4晩5日の船旅をして引き揚げてきた。苛酷な船旅だった。赤ん坊が死に皆で甲板に集まって水葬をした。
父の郷里の京都に帰り祖母が身をよせている親戚の家にたどりついた時、母が大声をあげて泣いた。その泣き声に、台北の空襲の恐怖に耐えた経験、疎開地での苦労の経験、疎開地から台北にもどっても住む家もなく知人の家を転々とした苦労、引き揚げ船の苦痛すべてがこもっていた。それまで母の能天気な面しか見てこなかった私は、母が可哀想でたまらなくなり、一緒に声をあげて泣いた。
私は編入試験を受けて京都府立第一高女の3年に入ることができたが、戦災も受けずに勉強を続けた同級生との学力差は大きく苦労した。編入試験にそなえて私なりの試験勉強はしていたのであるが。
その2年後、男女共学、633制が実施され、男子生徒が入ってきた。たちまち青年共産党同盟が組織され、彼らの中から生徒会の役員の立候補者がでた。戦災を知らぬ街京都で生長した彼らの演説はまことに純粋で激しくかつ清々しかった。私は舌をまいて感心していたが、私の心は遠いところにあった。さびしかった。

私はふたつの難病をもっていて、そのリハビリのためにデイケアに通っている。デイケアの一日はカラオケで締めくくられる。「同期の桜」を美声で歌う80代半ばの男性がいる。海軍の水兵であったそうだ。潜水艦に乗っていたそうで、声が大きい。彼が「同期の桜」を歌うと実に感情がこもっていて、いつかデイケア全体の大合唱になる。男女あわせて40人ほどで、みなもとよりなにかしらの不自由をかかえている。男の人たちは完全に「同期の桜」に感情移入している。彼らこそ戦争体験者である。戦場を体験し、空襲を体験している。そしてあの戦争にノスタルジーを抱いている。彼らからみれば、昭和6年生まれの私は「子供だったお前に何がわかる」である。
同世代の戦争被害者の証言はもとより大切だ。反戦・非戦の志をおもちの方もおられよう。しかしいかに熱い志をもっていようとも、寿命はあらそえない。
隠ぺいされた真実を後世のために明らかにしていくのは戦争を知らない子供たち、戦争経験者の子・孫世代にこそ託すべきだと思う。「戦争を知らないお前らに何がわかる」と言ってしまえばおしまいである。
私より40歳以上若い歴史学者が、私の友人にいる。彼は一本の真実という針を探しあてるために砂漠を掘り返すような努力をしている。願わくば権力という大砂塵がおそって、彼がさがしあてた真実の一本の針が吹き飛ばされないようにと私は祈る。

ブログを読んでくださる方からメールをいただいた。コメントでないのが残念であるが、ブログをもってお答えしたい。メールの主旨は簡単に言えば、敗戦の責任は南雲艦隊にある。大本営は敗戦を知っていたのだから、山本についての私の非難は八つ当たりであるという二点である。はずなのにである。小説「イル・フォルモサ」を書くにあたって、またこのブログを書くにあたって、資料も読まないほど私は大胆無謀の人間ではない。しかしそれを全部あげる必要はないと思うので、ここには両極端と思われる二氏の説をあかぎあげておく。ひとつは半藤一利氏の「山本五十六」であり、もう一つは中川八洋氏の「山本五十六の大罪」である。
半藤氏は山本五十六と同じ戊申戦争の幕府方長岡藩の出身、中学も同窓の長岡中学。明治政府は実は薩長政権であるという主旨の著書がある。一方中川氏のほうは山本五十六は長岡藩の出身であるために敵日本に怨念を抱き故意に敗戦に導いたというのである。
先ず半藤説から紹介すると、「山本五十六」p358に「海軍中央の秘密主義は完璧なものであった。国民にたいしてはもちろん、陸軍にも、政府にも、いや、海軍内部にも。ひた隠しに事実を隠しとおしたのである」という一文があり、続いて東条も大元帥陛下も真相を知らされていなかったと述べている。山本五十六はもとより真相を当事者として知っていた。半藤氏によると、燃えさかりつつ沈まない赤城を魚雷で撃沈せよと命じたのは山本である。「陛下には私がお詫びする」しかし陛下は真相をしらされず、「神色自若」としていられたそうだ。
私はミッドウェイ敗戦について本を読み散らしたから敗戦の責は南雲艦隊にあることは承知している。私がこのブログで繰り返し主張しているのは、「都合の悪い真実ほどあきらかにすべきだ」ということである。敗戦が口惜しいわけではない。だからミッドウェイの敗戦について山本五十六の責任を問うなんて夢にもおもわなかった。真珠湾の奇襲以来粉飾にまみれた海軍の報道が、結局特攻隊で有為の青年を死なしめ、はては原爆による無辜の大量虐殺にいたる一因となったことが悲しい。どこかで潔く降伏しておけばよかったのにと思う。ミッドウェイで山本が言葉通り「陛下にお詫び」すればよかったのにと思う。以上、引用したのは山本五十六贔屓とされる半藤氏の著書からのみととなった。
中川氏の著書は筑波大学名誉教授とも思えない激しい罵詈雑言にみちているので、引用をやめる。興味のある方は直接「山本五十六の大罪 弓立社」を読んでください。

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