43

非常で非情な出来事だとかそういったところ

 夜にお腹が空いたので、台所の電気を点けて非常食の籠を漁った。シーフードヌードルを見つけ出し、それを片手に小鍋でお湯を沸かす。パッケージのビニールを剥いていると足音が聞こえて、見ると姉が眠そうにしながら居間に入ってくるところだった。物音で目を覚ましたのかもしれない。
 姉も台所に足を踏み入れて、わたしと鍋とシーフードヌードルをぼんやり眺めると、わたしと同じように非常食の籠を漁った。和歌山ラーメンを見つけ出し、それを持って居間に戻る。こたつの電気を点けて座って足を入れ、和歌山ラーメンのビニールを剥がし始めた。蓋を三分の一ほど開けてからこたつの上に和歌山ラーメンを置き、それまで働いていた両手をこたつの中に入れて休ませた。「さむぅ」と小さな声が聞こえた。
 わたしはコンロの小鍋を持ち上げ、シンクまで移動させ、ようやく泡を立て始めていたぬるま湯に非情にも水道から流れ出る冷たい水を足した。
 沸くまでにもう少し時間がかかるので、手持ち無沙汰もあって冷蔵庫を開けた。野菜室にりんごが入っていた。みかんのせいで食べようと思いながらもついつい忘れてしまうのだりんごはいやみかんのせいにしてはいけないみかんに罪はないみかんはおいしいしりんごもおいしいしシーフードヌードルも和歌山ラーメンもおいしいのだ、などと妙な方向に思考を走らせながら、わたしはそのりんごを取り出した。
 右手に小鍋を持ち、左手にシーフードヌードルと、その上に八つ切りにされたりんごののった小皿をのせ、居間に向かう。左手のものをこたつに置き、右手のものの中身を使い捨ての器に囲われた乾燥した麺類に注いだ。
 カップ麺の上にお箸を置き、そうしてすべての仕事を終えたわたしは、姉と同じようにして両手を休ませた。りんごを剥いていたせいで手がちょっと冷たい。
「りんごだ」
 交代のように姉はこたつから手を出した。
「りんごです」
 麺がふやけるまで三分ほどかかる。姉は一つ取って自分の口に入れた。シャリシャリと鳴らしながらもう一つ取り、わたしの口の前に持ってくる。わたしは少しばかりためらったものの、手を出すのがめんどいのもあって姉に促されるまま口を開けた。
「おいしい?」
 シャリシャリ鳴らしながらわたしが頷くと、姉は嬉しそうに口元を綻ばせた。
 りんご切ったのはわたしだしりんごがおいしいのも別におねえのおかげじゃないんだけどね、というのもめんどいので言わない。

トリイさん

 二つ上の推定十九歳。去年まで同じ高校に通っていて、何度か廊下や校庭ですれ違ったことがあった。トリイさん。彼女がまだ高校生だったとき、渡り廊下で誰かがそう呼びかけていたのを憶えている。「鳥居」なのか「鳥井」なのかはわからない。また違う字なのかもしれない。だから、頭の中で呼ぶときは「トリイさん」とカタカナにする。
 美術館の建物自体にはただで入れる。他の美術館は知らないけれど、ここは入り口の自動ドアを過ぎてすぐにインフォメーションカウンター、その奥に展覧会場に向かうためのエレベーターとエスカレーターがある。エスカレーター脇のところに、小部屋のようなスペースがあり、そこにテーブルと椅子がいくつか置かれている。片側の壁がガラス張りになっていて、外の景色を眺めることができた。海が広がっていた。
 今日は風が強く、荒れた海になっていた。分厚そうな灰色の雲が水平線近くの空に浮かび、その合間から太陽が顔を覗かせ、海にオレンジ色の柔らかな光を落としていた。
 ここから眺める景色はいつも絵画のようだった。日によって、時間によって、少しずつ違う絵がガラスの向こうに現れる。そんなありきたりな感慨を抱くのは、やっぱり「ここが美術館だから」という意識があるからかもしれない。
 スペースの端に自販機が備えつけてある。私は硬貨を三枚その機械に落とし入れ、ミルクティのボタンを押した。温かい缶をてのひらの上で転がしながらテーブルの隙間を縫って、トリイさんの斜め後ろの席に腰かけた。トリイさんのテーブルにも私が買ったのと同じものが置いてある。いつものように。彼女の後姿の陰でハードカバーの本が組んだ膝の上で広げられていた。紙カバーがかかっているので、何の本なのかはわからなかった。
 私がテーブルに缶を置くと、トリイさんはその音にぴくりとだけ肩を震わせた。
 トリイさんはたぶん私を知らない。けれど、私が着ている制服は知っている。去年まで自分が着ていたもので、だから私が同じ学校の後輩だということはわかっているはずだった。
 私も鞄から文庫本を取り出し、本の背をテーブルの端に引っかけるようにして広げた。たまに顔を上げて景色を眺める。現実感のない、絵画のような、作り物のようなこの景色を私は気に入っている。トリイさんも私と同じように、ときどき顔を上げてガラスのほうに目を向けていた。
 しばらくするとトリイさんは、広げていた本を鞄の中に収め、それを肩にかけて立ち上がった。空になった缶を指先で軽く持ち、自販機のほうに歩いていく。私は顔を本のほうに向け、けれど意識はトリイさんのほうに向けていた。トリイさんは自販機横のゴミ箱の前で立ち止まる。
 トリイさんは缶を捨てるとき、一瞬だけ間を空ける。そのほんの一瞬が、どきどきする。よくわからない不安が胸に湧いたりする。私はそろりと目を瞑り、特に理由もなく息を止める。耳をそばだてる。不安になる。その不安な一瞬がずっと続いてほしいと願う。何故そんなことを願うのか、自分でもよくわからない。
 カコンと軽い音が響いて、私は止めていた息を吐いた。スペースから出ていくトリイさんの足音。私はいつものようにトリイさんのほうを見なかった。トリイさんは私のほうをちらりとでも見ただろうか。わからない。
 私はガラスの向こうの景色を眺める。日が暮れて、濃い灰色と群青色の、薄暗い景色に変わっていた。でもそれも、その前までと同じく現実感のない、作り物のような景色だった。
 缶の底に残ったぬるいミルクティを飲み干し、深く息を吐いてから鞄に文庫本を収めて立ち上がった。空になった缶を指先で軽く持ち、ゴミ箱のところまで歩く。
 缶を捨てるとき、私はトリイさんのように一瞬だけ間を空けた。いつものように。その不安な一瞬のあと、カコンと軽い音が響いた。

プラスチック

 細い路地を抜けて大通りに出ると、夕方の冷たい風が吹きつけてくる。受験勉強で家に篭りっぱなしの俺には少しつらい風だった。クリスマスだからか、通りがかりに見えたコンビニ店員はサンタの仮装をしていた。
 俺のコートのポケットにはダイヤモンドが入っている。親指と人差し指でわっかを作ったくらいの大きさの、ダイヤの形をした子供の玩具だ。
 八年前、小学四年生だった俺は、幼馴染の二つ下の女の子とある約束をした。俺が十八歳、彼女が十六歳になったとき、その年のクリスマスの日に結婚するという約束。たぶんテレビか何かでそういうのがあったのだろう。ダイヤはそのときに約束の証として渡したはずのものだった。他人には言えない恥ずかしい過去だ。

 商店街の角にケーキ屋がある。八年前に、甘い物好きの小二女子が決めた約束の場所だった。
 小学生以降、彼女を近所で見かけることはあっても、一緒に遊ぶことはしなくなっていた。仲違いをした覚えはなかったが、十代にとって二歳の年齢差というのは意外と大きいものだったりもする。
 ケーキ屋の前で、すぐに彼女を見つけた。面影を残しながらも当時とはいろいろと変わっていた。サンタの仮装をしてケーキの店頭販売をしていた。
 立ち止まり、軽く困惑しながらも今の状況を頭の中で整理する。そんな俺にしばらくしてから気づいた彼女は、じろじろと確かめるように眺めたあと、嬉しそうに顔をしかめて言った。
「ロマンチスト、恥ずっ」
 いやおまえ、何年かぶりの会話でそれはどうなんだ。
「人のこと言えねえだろ」
「違うよ。私はここでバイトしてるだけだよ」
 何だそのわかりやすい言い訳バイトは。
「俺もちょっと通りがかっただけだよ」
「ふーん。じゃあ、ケーキ買ってく?」
 意味がわからん。
 数日前、受験勉強の息抜きに部屋を掃除していたら、引き出しの奥から玩具の宝石が出てきた。それで思い出して何となく、外の空気を吸うついでに寄ったのだと俺が言うと、彼女はまた「ふーん」と、からかうような懐かしむような声と表情で応えた。
「受験かぁ」
「そう。大変なんだよ」
「ねえ、持ってきてる?」
「何を?」
「ダイヤ」
 俺はコートのポケットから安っぽい玩具を取り出す。表面に細かな傷のついた偽物の宝石。
「へえ、綺麗。というか、かわいいね」
「そうか?」
「懐かしい。……ねえ、これ、くれない?」
 元々彼女にあげたはずのものだった。それが何故、俺の机の引き出しに入っていたのだろう。もしかしたら覚えていないだけで、何かのときに仲違いをしていたのかもしれない。
「ケーキのお金、半額でいいから」
「いいって、ちゃんと払うよ。元々そのつもりだったし。ケーキは一番安いのな」
「毎度あり。あとそれと……、受験、頑張ってください」
「あ、はい、頑張ります」
 反射的に敬語で返したのがおかしかったのか、彼女は唇をむにむにさせて、箱詰めされた一番安いケーキを「はい」と差し出した。

閑話

『mistoa』で『幸せな日曜日』という話を書きました。よければどうぞ。

冬の放課後

 委員会のある日は大抵一人で帰ることになる。人気のない廊下を歩いていると、閉めきった窓の向こうから風の音が聴こえてくる。私は微かな不安を誤魔化すために鼻歌を歌う。もっと不安になりそうな掠れた声で。
 理科室の戸を開けると、電気がついていないのに人の気配がした。その瞬間は窓際にいた彼女に気づかなかったけれど、室温が少しだけ高い気がした。
 黒縁の眼鏡をかけて、肩までの長さに切り揃えられた髪、スカートはやや長め。優等生な姿だったけれど、野暮ったい感じはしなかった。あとから考えると先入観があったのかもしれない。彼女は最近、私の友達が「いい」と言っていた男子とつき合い始めた。私はその友達の呪詛を真面目な顔して聞き流したりしていた。彼女と話したことはないけれど、隣のクラスで体育が合同なので顔は知っていた。
 私はたぶん面倒そうな顔をしたんだろう。彼女が困ったように眉を寄せた。その表情につい口元で笑ってしまった。

 何年か前までアトピーで首とか汚くて、小学生の頃は菌扱いもされた。だから今は触られるのが嬉しい。人の体温が嬉しい。だから気安く触ってくる男子にすぐ惚れてしまう。
 要約するとそんなことを、彼女はもう少し詳しく、けれどあっさりに話した。
「みんながそうってわけじゃないけどね」
「うん」
「でもわたしはそうみたい」
「へえ」
「えっと、理科室、何か用だった?」
「ん……、煙草吸いに」
「あはは、不良だ」
「ストレスたまるんすよ、会議とか」
 私はポケットに手を入れて小さな箱を触る。表面を撫でて、また外に手を出した。
「そっちは?」
「んー、暗い場所でぼーっとしたかった?」
「あー」
「わかる?」
「まあ」
「ふふ」

 少し話しただけで仲良くはならない。私は彼女を置いて学校を出て駅に向かう。すぐ近くの信号で立ち止まる。広い通りの信号。吹きつける夕方の風が私の頬を冷やした。
 まだ車道の信号は青だったけれど、ふいに車の行き来が途切れた。静かになった広い通りに、びゅうっと風の音が響いて、ひどくさみしい感じがした。
 ふうっと息を吐いて、信号に背を向けた。学校の前を通り過ぎ、そのまま進むと商店街が見えてくる。その端にたこ焼き屋がある。たこ焼きは大抵熱かったり温かかったりするのだ。
 彼女はまだ理科室にいるだろうか。暗い場所でたこ焼きをつつく場面が浮かんだ。恥ずくて、「何それ?」とも思いながら、私は二人分と、十個入りを注文した。

 ちょっとしたデザイングラスに水を注いで、そこに可愛い眼球をちゃぽんと沈め、夜寝る前とかにうっとりと眺める。
 彼女がそれを思いついたのは、夕方の地下街を歩いていたときで、ふといつもの帰宅ルートから外れてふらふらとさ迷い、ショーウィンドウにグラスを並べている雑貨屋を見つけて足を止めた。並べてあるグラスに目を落としながらゆるやかに進み、また戻りながら眺めて、何度もそれを繰り返したのち、財布と相談した上で、青みがかった冷茶用のグラスに決めた。
 さて、可愛い眼球はどこで売っているのだろう。
 彼女はぼんやりとそんなことを考え、しかしそんなのどこにも売っていないことに気づく。しいていうなら魚屋か。でも魚の眼球は可愛いだろうか。人によっては可愛いと言うかもしれない。ただ彼女はそう思わなかった。

 家に帰ってから彼女はグラスを濯いで、こぽこぽとミネラルウォーターを注いだ。テーブルに置くとため息を一つ、眼球の代わりになりそうなものを探し始めた。引き出しを開ける。棚を覗き込む。押入れから段ボール箱を引っ張り出す。段ボール箱の中から両手で輪を作ったくらいの缶を取り出す。缶の高さは十センチほど。濃紺色で、著作権的なことでときどき話題になるキャラクターが描いてあり、蓋はなかった。
 彼女がその中を漁ると、カランと乾いた音がした。三本の指で中のものを摘んで取り出し、てのひらにのせた。赤みがかった半透明の塊、プラスチックの玩具で、漫画に出てきそうな宝石の形をしていた。
「これでいっか……」
 ぽつりと彼女は呟いて、赤い宝石をてのひらの上で転がしながらグラスまで歩み寄る。グラスの上でてのひらを傾けると、すぐにちゃぽんと水音がした。
 デザイングラスは内側が凹凸にしてあって、光が当たるとキラキラして、なかなかいい感じだと彼女は思う。底に沈むプラスチックの宝石も、水とグラスが青みがかっているおかげか、どこか神秘的になっている気がした。彼女はそれをうっとりと眺めながら、可愛い眼球を想像する。

 彼女は玩具の入ったグラスを窓際に置くようになった。ときどき水を替える。たまにロゼワインを入れることもある。白よりも赤よりもロゼのほうが、彼女としては眼球を想像しやすいのだった。
 一緒に住んでいる恋人が彼女のすぐ横で寝転んで、何となくのようにテレビを観ていた。彼女が振り向くと、テレビの光が恋人の目に映っているのが見えて、なかなかいい感じだった。彼女はそっと手を伸ばす。瞼に触れた指先が、その上をさらりと滑り、目の端までいくとまた戻ってくる。瞼を撫でる。彼女は愛おしそうにゆっくりと恋人の瞼を撫でる。

コイントス

 ピンとコインが親指の爪で弾かれ、クルルルと回りながら目の高さまで。そしてまた落ちていく。彼はてのひらで受け止める。銀色のコイン。百円玉。わたしの明日の予定はこのコインで決まる。表なら彼の望み通り、裏ならわたしの望み通り。
 てのひらにのったコインは裏だった。今のは練習で、そのことはわたしも了承しているのだけれど、何となく悔しい気持ちになる。
 どっちが表か裏かで揉めることもある。とりあえず「100」と書いてあるほうを表だということにした。本当は違うのかもしれないけれど、今このときのわたしと彼との間では一先ずそういうことにした。
 彼は右手の親指の爪を人差し指の腹にくっつけて、その上に銀色のコインをのせる。どこか慎重な仕草で。
「いくよ?」
「オッケー」
 わたしはコインをじっと見つめる。じんわりと緊張感を抱いて、ふっと息を吐いた。そんなに緊張することじゃない。そのはずなのだけれど、でも何故かどきどきして、そんなふうになるのも楽しい気がした。
 彼の右手の親指に力がこもって、第一関節が直角近くに曲がる。第一関節の下から手首までの、ゆるりとしたライン。わたしは手フェチじゃないつもりだけれど、そこをつーっと指でなぞってみたくもなった。彼のぽかんとした顔を思い浮かべる。口元がゆるみそうになるのを堪えた。
 ふと、彼の左手が握られていることに気づいた。と同時に、ピンとコインが弾かれる。コインはクルルルと回りながら宙へ、彼の目の高さまで、そして落ちていく。彼は今度は手の甲を上に向けていた。すぐに左手が被せられる。
「開けるよ」
「うん」
 右手の甲の上にコイン。「100」の文字が見えた。
「表だね」
「うん。……まあ仕方ないか。つき合うよ」
 ため息を一つ。彼が嬉しそうに口の端を上げた。
 これはある種の手品。弾かれて落ちてきたコインは、たぶん彼の右手の中にある。今わたしが見ているコインは、さっきまで彼の左手に握られていたものだろう。手品というよりインチキか。
 落ちてきたコインを小さく手首を返すようにして右手の中に収め、左手に握っていたコインを右手の甲に被せた。表になるように。すばやく。
 もちろんそれが見えたわけじゃなくて、ただの想像でしかないけれど、でも彼は今も右手を握ったままでいる。
 右手開けてみて、とか言ったら、たぶん明日はわたしの望み通りになるだろう。でも彼の一連の動きはなかなかに自然で、けっこう練習したんじゃないのかなと思うと、悪くない感じの苦笑がもれた。なので、仕方ないかとため息一つ吐いて、騙されてあげることにした。

美術館の街並み

 午後の授業をサボらないかとのお誘いメールがきたのは、お昼休みのこと。クラスの友達に一言断って席を立ち、教室の窓のほうに歩みながら携帯電話を操作する。どうしようかと迷うついでにちらりと窓の外に目をやって、私は空を覆う薄灰色の雲を眺めた。
 朝からずっと曇り空で、気分は沈んでいるというほどでもないけれど晴れてもいない。つまりは積極的に授業をサボりたい気分でもなくて、メールを送ってきた子に「今日はあと一時間だけだからそれでいい?」と返した。五分ほどしてから了解の返事があり、それに書かれていた待ち合わせ時間と場所を覚える。「了解」とだけ打ったメールを返して、ぱたんと携帯電話を閉じた。と同時にメールの送り主のしれっとした顔が思い浮かんだ。
 しれっとした彼女とは去年同じクラスだった。最初のころは仲良くも悪くもなく、本当にただのクラスメイトで、正直なところを語ると、「学校の外で会うくらい仲良くなる」可能性は低そうだなぁと思っていた。その印象は今も変わっていない。遊ぶようになったのは去年の今くらいの時期だったと思う。何かきっかけがあったような気もするのだけれど、もう憶えていない。きっと何でもない、思い出して「何だそんなことか」と呟いてしまうような出来事があったんだろう。
 彼女はときどき学校をサボる。私にこんなメールを寄越すときがわりとそうだ。彼女が学校をサボる理由は特にない。学校がつまらないとか、補導されそうなことをして遊びたいとか、そんなではなくて、何となくふらっといなくなる感じで、人には「芸術家タイプ」と説明するのがわかりやすいかもしれない。実際に絵を描いたり写真を撮ったりもしていた。
 今のメールも美術展のお誘いだった。前に一度、彼女といったことのある大きな美術館。すぐ裏が海だったのを憶えている。


 改札を通り階段を降りる。同じようにこの駅で降りる人が何人かいた。目的地は同じかもしれない。地上に降りてから辺りを見渡し、すでにきているはずの彼女の姿を探した。そう大きな駅じゃないせいか、駅前は閑散とした印象で、お店は左手のほうにぽつんと小さなコンビニがあるだけだった。こんな場所だと彼女は風景に溶け込んでいたりする。学校をサボったのだから私服だろうし、見つけにくいことこの上なくなっているはずだ。
 カーキ色のフードコートを着た誰かが近づいてくるのを目の端で捉えて、ちょっと負けた気分になる。私は我知らず「どっちが先に相手を見つけるか」の勝負をしていたようだった。
 ショートで眼鏡で私よりも頭半分背の高い子が立ち止まり、唇の片端を上げるように微笑む。
「お越し頂いてありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそお呼び頂いてありがとうございます」
「……いこか」
「うん」
 並んで歩き始める。駅から続く道を真っ直ぐ進めば美術館に辿り着く。ゆるやかな下り坂で、けれどところどころで急になっていて少し怖い。ポケットに手を入れたままの彼女の肘にときどき掴まって歩いた。彼女はこの坂を歩き慣れている様子だった。きっと何度もきてるんだろうな、と思いながら歩いているうちに美術館が見えてきた。


 最初は何てことない、でもわかる人にはわかるんだろうね、という絵が並んでいて、けれど三つ目のブロックに入ったあたりから、心がざわつくような、さみしげで、眩暈がしそうに不安な絵が並び始めた。見ていると足元がぐらつきそうになる。ああ、何これ、やばい、と思いながらも夢中になって次の絵、次の絵へと目を移していた。彼女は私のそんな様子を察してか、最初は雑談じみたことを話しかけていたのに、途中から斜め後ろくらいについて、たぶん邪魔をしないように、けれど私の視界からは消えないようにして館内を巡っていた。
 最後のほうのブロックでは、絵は憑き物が落ちたような穏やかなものになっていた。次の絵に目を移すたび、ほっと息をついて、その穏やかさに心を和ませた。絵のタッチなんかは同じなのに、本当に同じ人が描いたものなのかと疑うくらいに印象が変わっていた。
 そのころになってからようやく彼女が話しかけてきた。この絵を描いた人の話。ものすごく尊敬していた画家の人にものすごいダメ出しをされて、あんな不安な絵を描き始めた。苦悩しながらも絵を描き続けて、けれど最後のほうの穏やかな絵も精神的にはまだ不安定なままだったそうだ。
「へえ。……何か、すごい」
「この人もう亡くなっているんだけど……、幸せだったのかな、そうだったらいいのにな、とか、勝手に思ったりする」
「うん、そうだね。……そうだったらいいね」
 こんな穏やかな絵を描いた人が幸せじゃなかったのなら、何だか少し悲しい気がする。


 美術館の裏側にだだっ広い階段があり、そこに腰かけて海を眺める。同じように海を眺めている人も何人かいた。前のほうに座っているカップルらしき二人が寒そうに身を寄せ合っていた。ときどきポーッという汽笛の音が聞こえて、時間が穏やかに流れていく。音が少なくて、後ろの大きな建物に半ばさえぎられた車の音が微かに聞こえてくる。
 前にきたときは夏休みで、直射日光を避けて、日陰になっていた階段の端のほうに座った。今は階段の真ん中あたり、ずっと曇りだった空が晴れ間を覗かせて、もちろん寒くはあったけれど、冬のゆるやかな日差しが心地よかった。
 彼女は肩にかけていたバッグを開けて魔法瓶を取り出した。カラカラと蓋を開ける彼女の手を、特に意味もなくじっと見つめる。彼女は居心地悪そうにちらりと私のほうに目を向けたけれど、何も言わずにコポコポと魔法瓶の中身を蓋のコップに注ぐ。赤みがかった茶色の液体が湯気を立て、少し甘い香りがした。
「アップルティ?」
「そう」
「へー、へえぇ」
「いや、ティパックだから」
 照れたようにそう言うと、私に蓋のコップを差し出した。
「ありがと」
「ん」
 彼女はまた鞄をあさって、ステンレスのコップ(お気に入りらしい)を取り出し、自分にもアップルティを注いだ。
 ふーふーやりながら少しずつ飲む。隣の彼女も、私ほどではないにしても猫舌だった。でも冬だから、つい飲み物を熱くしてしまう気持ちはわかる気がした。
 ふいに赤いりんごが頭に浮かんで、それから帰り道の街並みを思った。さっき見た不安な絵が浮かんだのはそのあとで、連想の順番のばらばらさに不思議な気持ちになる。
 さっき見た絵の中に、街並みを描いた絵があった。さみしげで不安な絵。夕暮れどきでぼんやりと薄暗い影が差して、その中で女性が一人ぽつんと佇んでいた。赤いコートを着た女性だった。
 ここの閑散とした街並みは、夕暮れどきだと、あの絵の雰囲気に近くなりそうな気がした。さみしげで、不安で。この街の風景と彼女はよく似合っていた。溶け込んで見つけられなくなってしまうくらい、似合っていた。
 私はいつの間にか彼女の横顔を見つめていた。ステンレスのコップにふーふーと息を吹きかけていた彼女は、私の視線に気づくと横目で見て、「何?」と言いたげな顔をした。
 そんな顔されてもわからない。わからないのだけれど、冬の寒さもあって、私は彼女のほうに身を寄せた。「え、何?」と彼女の戸惑った声を聞いた。
「……ちょい寒い」
 呟くようにそう言ってから、赤いコートを着た彼女の姿を想像する。でも彼女に赤はあんまり似合わなさそうだったから、それで少しほっとした。

裏庭の窓ガラス

 校舎を出たところで彼女は同じクラスの友達と手を振って別れた。校舎沿いを右手に進み、裏庭の曲がりくねった小道に足を踏み入れ、靴と砂利が乾いた音を立てる。裏庭はおそらく校長か理事長かの趣味で、小さな植物園のようにもなっており、春や夏は花が咲き乱れて、それを見にふらりと立ち寄る生徒もいるけれど、今の季節に人気はなかった。
 一年校舎がすぐ横にある。今日の授業はとっくにすべて終わっていて、生徒の姿はほとんどない。ただ一人、女子生徒がいた。一番奥の教室、窓際の席に座り頬杖をついて、春や夏よりずっと色の少ない裏庭の景色を物憂げに眺めている。滑らかな長い髪が肩を撫でていた。
 小道を歩いていた彼女は、その物憂げさんの背中を見つけると、小道から外れて裏庭を横切った。校長か理事長かに見つかったら怒られそうだけれど、彼女の気軽な足取りからすると常習犯なのかもしれない。それでも一応は草木のない土の場所を踏んでいるようだった。
 校舎と裏庭の隙間にある道なき道を、平均台の上を渡っているかのようにそろそろと進む。物憂げさんはまだ彼女に気づかず、ふと頬杖を解くと身体を傾かせ、すぐ横の窓ガラスに、ぴとりとこめかみをくっつけた。
 彼女は物憂げさんのすぐ斜め後ろにまでくると立ち止まり、気づかれないよう気配を殺して、そのたたずまいを眺める。ほんの少しだけ目を細めて。それからそっと手を伸ばし、おそるおそる窓ガラスの、こめかみがくっついているところを触った。裏庭を横切るときよりもずっとためらいがちに。
 冬の空気にさらされた窓ガラスは冷たく、次第に彼女の指から熱が奪われていく。けれど彼女はそれを気にする様子もなく、ただ静かに指を触れさせていた。窓ガラスに。窓ガラス越しのこめかみに。彼女は物憂げさんが気づくまでずっとそうして、やがて驚いてビクつく様子ににんまりした。
「帰るよ」
 窓越しなので彼女はほとんど声を出さなかった。物憂げさんには口の動きで伝わる。けれど、自分の発したその声が思いもよらず優しげだったので、彼女は内心慌ててそっと目を逸らし、「じゃあ、校門のところで」と、どこかぶっきらぼうに続けた。その声も窓越しだったから、物憂げさんにはほとんど聞き取れなかっただろう。
 物憂げだった女子生徒が、「うん」と笑みをこらえながら頷く。

朝練工作部

 冬っぽくなってきたけれど、まだ息は白くなかった。玄関の段差に腰かけて靴を履く。ローファーのつるりとした感触が冷たくて、これから冬になるんだなぁとぼんやりと思う。右肩に学校指定の紺鞄をかける。立ち上がりながら左手に古いラジカセを持った。昨日の晩、押入れの奥から引っ張り出してきたものだ。
 早朝、いつもより一時間早いとやっぱり人は少ない。古いラジカセは古いだけあってなかなか重くて、わたしはときどき肩に担ぐように持ったりする。駅前には人が集まってはいたけれど、それでもまばらな感じだった。駅員のいない自動改札を通り過ぎ、階段を上り、ホームに立つ。電車が入ってくるのを待つ間、ラジカセを地面に置いて、その上にしゃがみ込むようにして自分の膝を置いた。冷たくて気持ちいいかどうかはぎりぎりのところ。背筋に寒気が通っていった。
 五分ほどしてから入ってきた電車に乗り込み、普段の時間なら座れない座席に腰を下ろした。幸運なことに端っこの席が空いていた。鞄を膝の上に。ラジカセを踵と座席の隙間に。学校までは電車で十五分、そこから歩いて十五分。明日筋肉痛になりそうだなぁと思いながら、ラジカセを踵でこつんと蹴った。

 わたしの学校には工作部という、ちょっと珍しいクラブがあり、末永カズキというクラスメイトがそこに所属している。末永は男の子っぽい名前の、どこか男の子っぽい性格の女の子だ。機械いじりが好きで、一度彼女の部活振りを見学しにいったことがあるのだけれど、何か知らない機械をいじっていたとき、お前はどこの小学生かと突っ込みたくなるほど目をきらっきらさせていた。「男の子っぽい」というより「少年っぽい」と言ったほうがいいかもしれない。
 昨日、古いラジカセが押入れにあって捨てようと思っていることを友達に話して、それを聞きつけた末永が「分解したいから持ってきて」と言ってきたのだった。重いし、あれを持って混み合った電車になんか乗れない。わたしがそう渋ると、末永はわたしの腕に抱きついて、「お願いだから」と拝み倒してきた。腕を絡めてどこか甘えた感じの声を出す末永が珍しくて、ほだされる形で約束をしていた。いつもの一時間前、まだ電車が混み合っていない早朝に持ってくると。末永は朝から自分の趣味を堪能できるのが嬉しかったらしく、やっぱり目をきらっきらさせていた。

 工作部の部室の前で立ち止まり、ラジカセを一旦床に置いて、しびれた左手の指をぶんぶん振った。それから目の前の戸に手をかけて、カラカラと開けながら中を覗き込む。
 末永は部室中央に置いてあるテーブルの端の席で、背もたれに身体を預け、目を瞑り、ふらふらと頭を揺らしていた。思わず壁の上のほうにかけてある時計に目をやる。ちゃんと約束の時間だった。たぶん、待ちきれなくてもっと早くにきたんだろう。ほんと小学生みたいだなぁと吹き出しそうになった。
 ラジカセを持ち、自然と忍び足になって部室に侵入する。さっきよりも音を立てないようにしながら戸を滑らせる。また忍び足。テーブルを挟んだ末永の正面にまわり、ラジカセを持ち上げる。音を立てないよう、そおっとテーブルの上に置いた。コッという小さな音がしたけれど、末永は目を瞑ったまま、ゆらふらと揺れたままだった。ほっと息をついてから、軽く浮かすように椅子を引いて、そろそろと腰を下ろす。椅子の冷たさに声を上げそうになりながらも何とか堪える。
 そのミッションは一応の成功を収めたらしく、揺れる末永が正面にいる。わたしは頬杖をついて、彼女の寝顔を見つめる。シャープな頬と顎のライン。薄い唇が微かに開いている。今は瞼で隠されて、その向こうにある大きな目は見えない。
 寝顔は本当に子供みたいだった。小さな寝息が聞こえる。コチコチという時計の音。
 欠伸が漏れて、少し慌てて自分の口をふさいだ。道端で日向ぼっこしながら眠る猫を眺めているような気分で、つられて眠くなってくる。外は寒いけれど、室内はわりかし温かい。瞼が重い。眠い。このまま目を閉じて、二人とも眠って、予鈴で目を覚ましたりなんかしたら、末永は悔しがるんだろうな。せっかく早起きしたのにと。そんな末永の顔も見てみたい気がして、ちょっとだけのつもりで目を閉じると、するりと眠気が入り込んできた。眠い。眠ってしまいそう。ああ、ごめんね末永。そのきらっきらした目も嫌いじゃないけどさ。「おやすみ」と声を出さずに呟く。それから末永に倣って、ふらふら。

Info
西直が書いています。

連絡先
nishina043@mail.goo.ne.jp
メールフォーム

41というところで黒いほうがあまり趣味のよくないものを書いています。

mistoa”vol.8に参加しました。


Archives
記事検索
  • ライブドアブログ