ピンポンの音は、実家のよりも低くて小さい。あんまり壁の厚くない安アパートだからかもしれない、というのに最近気づいた。正解かどうかわからないけれど。
観てもないのに点けていたテレビを消して立ち上がり、いつもポケットに入れている部屋の鍵を条件反射で確認する。ジーンズとセーターの上にコートを羽織った気軽な冬の格好で、玄関先に向かった。
一応用心してチェーンロックをかけたままドアを開ける。隙間から見えた彼女、小首を傾げるような仕草の塔野さんに、わたしは口の端で微笑んで頷いた。塔野さんは隣の住人だ。一人暮らし。三十前後だとどこかで聞いた憶えはあるけれど、正確なところは知らない。背はわたしよりも頭半分低く、たぶん百五十センチくらい、そのせいもあって、ふとしたときに大学生のわたしよりもずっと年下に見える、ずるい人だ。
「じゃあ、いきましょうか」
つま先を床にぶつけるようにしてスニーカーを履いて、部屋を出て鍵を閉める。ふと塔野さんに叱られたときのことを思い出した。
二ヶ月ほど前、鍵を閉めないまますぐそこのコンビニに向かおうとして、たまたま通りがかった塔野さんに「無用心でしょ」と上目遣いで睨まれたことがあった。全然怖くなかったばかりか、「あ、うん、そうだね、ありがと」とか言って頭を撫でたい衝動に駆られ、わたしは反射的に辺りを見回していた。人目がなければ、と思っていたのだけれど、そのときアパートの前を高校生の男女が自転車で通り過ぎていったので、その機会はあっさりと失われた。
「寒いね、もう二月の終わりなのに」
塔野さんは肩をそびやかす。今日はいつもしているマフラーをしていなかった。往復で十分か十五分程度だから、まあ、いらないかな。
「朝がつらいですよね」
塔野さんの頭を撫でる機会がもう一度訪れないだろうか、と、こっそり思いながら並んで歩く。向かう先はディスカウントストア。そこは調味料やカップ麺、清涼飲料水、あと主にお酒を売っている。
一ヶ月と少し前、回覧板で知った地域の新年会に、面倒くさいな普段なら出ないけどでも塔野さんも出るって小耳に挟んだし一回くらい出てもいいか、というテンションで参加した。何だわたしは年上に憧れる男子高校生か、と自分に突っ込みながら。そこで目的通り塔野さんと少し話をして、同じ銘柄の発泡酒を愛飲していることを知った。
まとめて買ったら安いよね。近くにディスカウントストアもある。でも一人持って帰るのは重いし。じゃあ二人で半分ずつする? という流れで、今日は塔野さんと初めての共同作業だった。
ゆるい下り坂を降りていく。坂の一番下に踏み切りがあり、そこを越えると今度はゆるい上り坂になっている。踏み切りから二十メートルほど歩いたところでディスカウントストアの看板が見えた。
「んふふ」
鼻を鳴らすような小さな声が聞こえた。ちらりと目をやると、塔野さんはにんまり嬉しそうに笑っていた。お酒好きなんだ、と当たり前なことを思う。子供のような笑顔だった。「あそこまでいけばおやつがあるよ」と聞かされたときのような。塔野さん側にある右手が何だかむずむずした。撫でたくて。
ロゴ入りの大きなレジ袋に入った発泡酒24本入りケース。言われなかったけれど、たぶんサービスでレジ袋を二重にしてもらった。トートバックでも持ってくればよかったかな、という類のことは大抵手遅れになってから気づくものだ。それでも塔野さんが機嫌よさそうだったので、わたしもそれを見て気分をよくする。動物や子供の癒し効果というもの。塔野さんは年上だけど。
わたしの左手と塔野さんの右手でレジ袋の持つところを片方ずつ掴んで発泡酒のケースを持ち上げる。たぶん、こういうのは車か、自転車やバイクの荷台に括りつけて運ぶものなのだろう。よくこんなケースが入る大きさのレジ袋があったなと思う。一人で抱えて持ったほうが楽そうな気もするのだけれど、何となく言い出せないまま歩き出していた。
真ん中に子供を挟んだ親子みたいだなあ、と思ったものの、あまりにベタ過ぎる気がしたので言葉にはしなかった。
「なんか、親子みたいだよね。真ん中、子供の手を繋いで」
でも言っちゃったよこの人。これが男子高校生だと顔を真っ赤にしてツンデレする場面なのだろうけど、年齢も性別も違うので、「そうですねえ、実際はお酒ですけど。重くないですか」と無意味にはぐらかしたりした。
あと二十メートルほど歩けば踏み切りというところで、カンカンカンと警報機が鳴り出した。走れば間に合いそうな気がしなくもなかったけれど、どうしましょう? どうしよう? と顔を見合わせているうちに遮断機が降りた。
「重いからちょっと休もうよ」
「そうですね」
踏み切りの前までいって発泡酒のケースを地面に置いた。塔野さんが顔をしかめながら右手を振る。
「痛いよー。寒いのと重いのとで」
手袋を持ってくればよかった、というのも手遅れになってから気づく。遮断機の矢印は、右方向左方向の両方に光が点っていて、少なくとも二本通ることがわかった。トートバックや手袋のことを話そうかなと顔を向けたところで、後ろからきた自転車が塔野さんの隣で止まった。塔野さんは半歩ほどわたしのほうに寄ってきて、そのときにすっと一瞬だけわたしの手の甲に塔野さんの手の甲が触れた。冷たいはずの塔野さんの手を、わたしはさほど冷たいとは感じなかった。つまり、わたしの手も塔野さんの手と同じくらい冷たくなってるってことだろうな、とぼんやり思った。
話すタイミングを失って、何となく踏み切りの向こう側に目を向ける。タクシーとその後ろに白の軽トラック。歩道に徒歩と自転車の踏み切り待ちの人が一人ずつ。
ふいに左手の小指に冷たい人肌を感じた。指の感触。わたしの小指が二本の指に捕らえられ、遊ぶように揺らされている。右から電車がやってくるのが見えた。すぐにガタゴトと轟音を上げて、踏み切りに差しかかる。それを機会にして、わたしは塔野さんの手を握った。自然な感じを装って。
塔野さんは一瞬ぴくんとして、それから繋いだ手を一度だけ軽く揺らした。ほんの少しうつむくと、小さく息をついて、何かを呟いたのだけれど、電車の轟音にかき消されてほとんど聞こえなかった。「なんか照れる」とか言っていた気がした。かき消されそこねた微かな声と口の動きを読んでの想像だけれど。
右から左に電車が通過していき、今度は左から電車がやってくる。わたしは遮断機の矢印にちらりと目を向ける。左方向の矢印の光が消えている。もう一度点かないかな、と普段なら絶対に思わないことを思う。何だわたしは初デートの中学生か、と自分に突っ込みながら。
観てもないのに点けていたテレビを消して立ち上がり、いつもポケットに入れている部屋の鍵を条件反射で確認する。ジーンズとセーターの上にコートを羽織った気軽な冬の格好で、玄関先に向かった。
一応用心してチェーンロックをかけたままドアを開ける。隙間から見えた彼女、小首を傾げるような仕草の塔野さんに、わたしは口の端で微笑んで頷いた。塔野さんは隣の住人だ。一人暮らし。三十前後だとどこかで聞いた憶えはあるけれど、正確なところは知らない。背はわたしよりも頭半分低く、たぶん百五十センチくらい、そのせいもあって、ふとしたときに大学生のわたしよりもずっと年下に見える、ずるい人だ。
「じゃあ、いきましょうか」
つま先を床にぶつけるようにしてスニーカーを履いて、部屋を出て鍵を閉める。ふと塔野さんに叱られたときのことを思い出した。
二ヶ月ほど前、鍵を閉めないまますぐそこのコンビニに向かおうとして、たまたま通りがかった塔野さんに「無用心でしょ」と上目遣いで睨まれたことがあった。全然怖くなかったばかりか、「あ、うん、そうだね、ありがと」とか言って頭を撫でたい衝動に駆られ、わたしは反射的に辺りを見回していた。人目がなければ、と思っていたのだけれど、そのときアパートの前を高校生の男女が自転車で通り過ぎていったので、その機会はあっさりと失われた。
「寒いね、もう二月の終わりなのに」
塔野さんは肩をそびやかす。今日はいつもしているマフラーをしていなかった。往復で十分か十五分程度だから、まあ、いらないかな。
「朝がつらいですよね」
塔野さんの頭を撫でる機会がもう一度訪れないだろうか、と、こっそり思いながら並んで歩く。向かう先はディスカウントストア。そこは調味料やカップ麺、清涼飲料水、あと主にお酒を売っている。
一ヶ月と少し前、回覧板で知った地域の新年会に、面倒くさいな普段なら出ないけどでも塔野さんも出るって小耳に挟んだし一回くらい出てもいいか、というテンションで参加した。何だわたしは年上に憧れる男子高校生か、と自分に突っ込みながら。そこで目的通り塔野さんと少し話をして、同じ銘柄の発泡酒を愛飲していることを知った。
まとめて買ったら安いよね。近くにディスカウントストアもある。でも一人持って帰るのは重いし。じゃあ二人で半分ずつする? という流れで、今日は塔野さんと初めての共同作業だった。
ゆるい下り坂を降りていく。坂の一番下に踏み切りがあり、そこを越えると今度はゆるい上り坂になっている。踏み切りから二十メートルほど歩いたところでディスカウントストアの看板が見えた。
「んふふ」
鼻を鳴らすような小さな声が聞こえた。ちらりと目をやると、塔野さんはにんまり嬉しそうに笑っていた。お酒好きなんだ、と当たり前なことを思う。子供のような笑顔だった。「あそこまでいけばおやつがあるよ」と聞かされたときのような。塔野さん側にある右手が何だかむずむずした。撫でたくて。
ロゴ入りの大きなレジ袋に入った発泡酒24本入りケース。言われなかったけれど、たぶんサービスでレジ袋を二重にしてもらった。トートバックでも持ってくればよかったかな、という類のことは大抵手遅れになってから気づくものだ。それでも塔野さんが機嫌よさそうだったので、わたしもそれを見て気分をよくする。動物や子供の癒し効果というもの。塔野さんは年上だけど。
わたしの左手と塔野さんの右手でレジ袋の持つところを片方ずつ掴んで発泡酒のケースを持ち上げる。たぶん、こういうのは車か、自転車やバイクの荷台に括りつけて運ぶものなのだろう。よくこんなケースが入る大きさのレジ袋があったなと思う。一人で抱えて持ったほうが楽そうな気もするのだけれど、何となく言い出せないまま歩き出していた。
真ん中に子供を挟んだ親子みたいだなあ、と思ったものの、あまりにベタ過ぎる気がしたので言葉にはしなかった。
「なんか、親子みたいだよね。真ん中、子供の手を繋いで」
でも言っちゃったよこの人。これが男子高校生だと顔を真っ赤にしてツンデレする場面なのだろうけど、年齢も性別も違うので、「そうですねえ、実際はお酒ですけど。重くないですか」と無意味にはぐらかしたりした。
あと二十メートルほど歩けば踏み切りというところで、カンカンカンと警報機が鳴り出した。走れば間に合いそうな気がしなくもなかったけれど、どうしましょう? どうしよう? と顔を見合わせているうちに遮断機が降りた。
「重いからちょっと休もうよ」
「そうですね」
踏み切りの前までいって発泡酒のケースを地面に置いた。塔野さんが顔をしかめながら右手を振る。
「痛いよー。寒いのと重いのとで」
手袋を持ってくればよかった、というのも手遅れになってから気づく。遮断機の矢印は、右方向左方向の両方に光が点っていて、少なくとも二本通ることがわかった。トートバックや手袋のことを話そうかなと顔を向けたところで、後ろからきた自転車が塔野さんの隣で止まった。塔野さんは半歩ほどわたしのほうに寄ってきて、そのときにすっと一瞬だけわたしの手の甲に塔野さんの手の甲が触れた。冷たいはずの塔野さんの手を、わたしはさほど冷たいとは感じなかった。つまり、わたしの手も塔野さんの手と同じくらい冷たくなってるってことだろうな、とぼんやり思った。
話すタイミングを失って、何となく踏み切りの向こう側に目を向ける。タクシーとその後ろに白の軽トラック。歩道に徒歩と自転車の踏み切り待ちの人が一人ずつ。
ふいに左手の小指に冷たい人肌を感じた。指の感触。わたしの小指が二本の指に捕らえられ、遊ぶように揺らされている。右から電車がやってくるのが見えた。すぐにガタゴトと轟音を上げて、踏み切りに差しかかる。それを機会にして、わたしは塔野さんの手を握った。自然な感じを装って。
塔野さんは一瞬ぴくんとして、それから繋いだ手を一度だけ軽く揺らした。ほんの少しうつむくと、小さく息をついて、何かを呟いたのだけれど、電車の轟音にかき消されてほとんど聞こえなかった。「なんか照れる」とか言っていた気がした。かき消されそこねた微かな声と口の動きを読んでの想像だけれど。
右から左に電車が通過していき、今度は左から電車がやってくる。わたしは遮断機の矢印にちらりと目を向ける。左方向の矢印の光が消えている。もう一度点かないかな、と普段なら絶対に思わないことを思う。何だわたしは初デートの中学生か、と自分に突っ込みながら。

本当はあと4回ぐらい拍手を続ける予定でした。
ええと、「んふふ」とか「あそこまでいけばおやつがあるよ」とか、「そうですねえ、実際はお酒ですけど。重くないですか」という、取りつくろい度数高めの言葉とか。よかったです。