ひらひらとしたゴスロリ風のメイド服を着た妹が、ベッド脇の丸椅子に座り、ぼんやりと窓の外を眺めていた。猫耳をつけていた。ツインテールではなかったが、それはたぶん、そこまでするとやり過ぎだからだろう。
 天井はうっすらクリーム色がかった白で、暖かい印象にしてあるようだった。シーツや枕カバーは真っ白で、清潔で、逆に少し冷たい感じがした。病室っぽいなと思いつつ、仰向けに寝たまま目だけ動かして辺りを見渡す。白い壁。縦長の殺風景な部屋。頭の方向に窓。足のほうにドア。ベッドと壁に挟まれるようにある何かの機器。やはり病室のようだ。そういうドラマや舞台のセットとかじゃなければ。生活感のない白い部屋。病院独特のにおい。
 肘をついて身を起こしかけると、微かな衣擦れの音がした。部屋には僕と妹しかおらず、音楽もなく、だから相対的にその微かな音だけが響いた。妹が僕に気づいて目を向ける。満面とまではいかない、それ相応の笑みを浮かべるところを想像したけれど、妹の表情はほとんど変わらず、ただ角度にして五度くらい首を傾げた。
「起きた?」
 妹はそう掠れた声で言ってから、「ううん」と一度咳払いをし、「起きましたか、ご主人様」と言い直した。……何故言い直した?
「妹?」
 聞きたいことや突っ込みたいことは他にもいろいろとあったが、僕はまず一番気になったところを聞いた。一番気になったところ。妹の胸元。妹は僕の視線を追って自分の胸に目を落とす。そこには名札がついていた。ローソン店員がつけているような名札だ。ローソン店員のように黒マジックで名前らしきものが書かれていた。ただ一文字、『妹』と。
 そういう苗字だろうか。いや、もしかすると下の名前かもしれない。昔、妹を欲していた一人の少年がいた。七夕の日に『いもうとがほしいです』と短冊に書くような、クリスマスイブの夜に『サンタさんへ いもうとをください』という手紙を枕元に置いておくような少年だ。しかし、少年の母親は体が弱く、少年以外の子は望めなかった。やがて少年は成長し大人になり、また幸運な出会いがあり、そして自らが親になるときがやってきた。かつて少年だった彼には心に決めていたことがあった。生まれてくるのが女の子だったら、『妹』という名前にしよう、と。
「これは……」
 妹は名札の左下を持ち、傾けるようにして持ち上げる。名札が窓から差し込んだ光を反射し、斜めに白い線が走る。安全ピンがメイド服の胸元を引っ張っていた。妹の胸は妹らしく、ささやかだった。いや、妹らしく、というのは違うかもしれない。この世界には様々な妹がいる。そう、はち切れんばかりのお胸をお持ちの妹もいらっしゃるだろう。そしてそんな妹を持つ姉の胸は逆にささやかだったりするのだ。だがそれがいい。だがそれがいいのだ。
「記号です」
 妹は僕の思考など当然ながら無視し、短く言葉を紡いだ。
「記号?」
 僕はそう聞き返す。
「そうです。妹という記号」
「……えーと? つまり君は僕の本当の妹じゃない?」
「今のところ妹設定を押し通す所存ではありますが」
「妹設定ってどういうこと?」
「そう言いながらも本当に妹であるというのも今後の展開によってはありでしょう」
「……どゆこと?」
「詳しくはこの参考資料をご覧ください」
 妹設定さんはそう言いながら自分のお尻の下から、つまりメイド服スカートと丸椅子の隙間から、四つ折りにされた紙の束を抜き出し、僕のほうに差し出した。僕はそれを自然と受け取っていた。そのことに何か引っかかるものを感じつつも、僕は妹設定さんの言う参考資料を広げた。また何かが引っかかる。この動作に。彼女が紙の束を差し出し、僕が自然と受け取り、広げる。この動作がひどく身体に馴染んでいる気がしたのだ。まるで何度も繰り返して慣れてしまった動作のように。
 参考資料はずっと彼女のお尻の下に敷かれていただけあって、生温かく、今のよくわからない状況と相まって、よくわからずどぎまぎした。それを誤魔化すように僕は資料の内容を目で追っていく。どうやら何かの病気の説明らしいが、堅苦しい表現と細かい字でびっしりと書かれているため、段々と詐欺まがいの契約書を読んでいるような気分になった。
 眉間にしわを寄せながら読み進めるうちに、何か不穏な気配を感じ、顔を上げると彼女がビクッとして止まった。そのとき彼女は中腰になっていた。彼女の両手にはさっきまで彼女の頭に嵌っていたはずの猫耳があり、そしてそれは僕の頭のすぐそばまできていた。
 僕は『メリーさんの電話』という有名な感動巨編を思い出した。あたしメリーさん、今あなたの後ろにいるの。
「……チッ」
「舌打ち?!」
 彼女は何事もなかったかのように猫耳を再び自分の頭に装着し、腰を下ろすと、わざとらしく「オホン」と咳払いした。
「その資料、長いので三行でまとめますと、
ある日キミは事故にあった。
その事故のせいで記憶が一日しか持たなくニャッた。
今のところ治療法は見つかってないニャー」
「今すごい重要なこと言ってるよね?! なんで猫語なの?!」
「こう……、深刻になるのを避けた……的な?」
「おおぅ、隠す気もなく今考えたよ」
「すまない、深刻になるのを避けたのだ」
「今さらキリッとして言われても」
「深刻になるのを避けたのニャー」
「……どうしろと?」
「ニャー」
「ニャー」
「理解していただけたようで何よりです」
「何が何だか……」
 僕はそう頭を抱えるものの、無表情気味だった彼女の口元にはニヤニヤ笑いが貼りついており、ある種の満足感も胸の奥から湧き上がっていた。
「ところで確認なんですが、昨日のことは憶えていますか?」
 彼女がニヤニヤを抑えつつ上目づかいで言う。
「ん?」
 僕は記憶を探るように天井と壁の境目辺りに視線を泳がせる。じっと見つめると禍々しいものが這い出てきそうで、期待と不安が胸の中で渦巻いた。
「……いや、憶えてない」
 這い寄る混沌への期待と不安は一先ず脇に置き、僕はぼんやりとそう答えた。
 憶えていなかった。探っても何も掴めない。記憶がない。昨日記憶も、一昨日の記憶も、その前も。子供のころの記憶もない。幼稚園、小学校、中学校……。何もない。何も憶えていない。どうして? 忘れてしまった? 事故で? どんな事故? わからない。まるでわからない。記憶が一日しか持たないと彼女は言った。今日のことも明日になれば忘れてしまうのか? どうして? 何故? わからない。何だよそれ? 意味がわからない。
「そうですか、残念です。いえ、むしろよかったのかもしれませんね。まさかキミにあんなマニアックな性癖があったなんて。……まさかフライパン返しであんな」
「意味がわからない! フライパン返しで何したの?!」
「何をしたか……、妹にそんなことを言わせようとするなんて、ご主人様は鬼です。鬼畜です」
「せめて妹なのかメイドなのかはっきりさせてくれ」
「過去にこだわっていても仕方ありません。わたしたちは未来に生きるべきです。また新しい性癖を開発すればいいじゃないですか。ピンヒールとか」
「開発しないから! ピンヒールはあきらかに踏まれる感じだよね! 嫌すぎるよ!」
 僕がそう言うと、彼女は表情を凍らせ、歯を食いしばりながら俯いた。そうしてふーっと深く深く息を吐く。
「……残念です」
 まるで最後の希望を絶たれたときのような、低く掠れた声だった。
「……その、心底残念そうな顔するのやめて。泣きたくなるから」
 俯いたままの彼女の顔を覗き込むと、微かなニヤニヤ笑いが口の端に貼りついているのが見えた。ある種の満足感が胸の奥から湧き上がってくるのがくやしい。


記憶喪失の患者とメイド