歩道橋の階段を見下ろしていた。細かな雨がパラついて、薄灰色のコンクリートを濃いものに染めていく。滑り止めにも水の膜が貼りついて、リップを塗った唇のようで、滑りそうで、それも楽しそうで、怖い。
 わたしの後ろ姿は今よりも幼くて、たぶん小学校低学年くらい、薄ピンクのパーカーを着て、おかっぱだった。ふっと右側に影が差して、何かが通り過ぎていくのが視界の端に映った。女の子だった。幼いわたしと同い年くらいの女の子。ゴムで縛られた長い髪が、彼女に引っ張られるように流れていく。ゆっくり落ちる。ゆっくりと階段を落ちていく。
 落ちながらの彼女の顔はわたしのほうを向いていた。そこに表情はなく、ただわたしを見つめていた。わたしも彼女を見つめ返していた。感情らしい感情は何も浮かばず、ただ見つめ返していた。
 彼女がどうなったのか、わたしは知らない。いつもここで夢から覚めるから。


 香野に夢の話はしていない。香野とは同じクラスで、席が近くて背の高さも近かったので、掃除の時間で一緒になったり、体育の時間でペアを組んだりしていくうちに仲良くなった。わたしよりも少しばかり気安く、人懐っこい。だから、二人でいるとき、わたしは比較的落ち着いたほうになり、香野は比較的はしゃぐほうになる。
  香野の髪は中学までは長かったそうだけれど、高校では校則の関係で肩までの長さにしている。縛るのがあまり好きではないそうだ。左のこめかみに、言われないとわからないくらいの小さな傷跡がある。小学一年生のとき、河川敷の砂利道で壮絶にこけた跡だと香野は言っていた。派手に血が出て母親を顔面蒼白にさせたらしい。
「その傷」
「ん?」
 放課後、駅までの帰り道、香野はわたしの斜め前をゆらゆら歩いていた。大通りを渡り、ファミレス、業務用スーパーを過ぎて、大きな児童公園横の歩道。公園の中では小三くらいの女の子が、力いっぱいブランコをこいでいた。ブランコの脇のところで弟と思しき小一くらいの男の子が、はしゃいだ歓声を上げ、でも少し不安そうにしていた。わたしはそれを横目で見ながら、指先で自分の右のこめかみに触れる。
「こめかみ」
「うん」
 香野は後ろ歩きをしながら頷いて先を促した。わたしを真似るように指先で左のこめかみを触る。
「本当に砂利道でこけたの?」
 香野はわたしがチラ見していていたブランコの女の子を見つけると足を止めた。わたしも香野の一歩手前くらいで立ち止まる。二人して揺れるブランコの女の子を見ながら話す。
「んー、うちのハハはそう言ってたけどね」
「憶えてないの?」
「あたし、子供のころは落ち着きなくて、けっこう怪我しまくってたみたいだから。また違うときの怪我だったのかも」
 ブランコはキシキシと鎖を鳴らしながら、勢いよく揺れ続ける。女の子は全身をいっぱいに使って、元気そうだ。
「そうなの?」
「傷、目立つ?」
 わたしの問いに別の問いで返した香野に目だけを向けると、彼女はブランコの女の子を見つめたままだった。わたしもブランコのほうに視線を戻して言う。
「ううん。よく見ないとわからない」
「そっ。よかった」
 そう小さく頷くと、香野はまた後ろ向きに歩きはじめた。わたしも一瞬遅れて香野の斜め後ろを進む。今のところ公園横の歩道に人通りはなく、香野が後ろ向きでも誰かとぶつかることはなさそうだ。
 冬だし寒いしやる気もないしで、ぼんやりした欠伸を漏らすと、ちょうどそのタイミングで女の子がブランコの鎖から手を放した。飛んだ。
 短い息が漏れた。宙にいる女の子に、その瞬間見とれた。元気だな、危ないよ、と思いながら。日曜の朝のアニメに出てくる変身ヒロインみたいだった。
 長い一瞬のあと、女の子は両足で着地して、しかし勢いは止まらず、二、三歩足を踏み出してから尻餅をついた。ブランコの脇にいた男の子が慌てて駆け寄っていく。
「こわぁ。あの子、怖いものしらっ」
言葉の途中で、香野は歩道の端の段差で足を滑らせた。「おぅ」と間抜けな声を上げ、しかし体を反転させ、アキレス腱を伸ばすような体勢で踏みとどまる。
「あー、びっくりし……するなよ」
 香野はまた体を反転させ、わたしの顔を見るとそう語尾を変化させた。
「ふぇ?」
 わたしはどんな顔をしたんだろう。香野はわたしのどんな表情を見たんだろう。心臓がどくどくと鳴っていた。ブランコから飛んだ女の子と、歩道橋の階段を落ちる女の子の夢、歩道の段差で足を滑らせた香野、それらが一緒くたになって、頭の中でぐるぐるした。
「ねえ」
 わたしは肩の力を抜くようにして息を吐きながら呼びかける。
「何?」
 香野はどこか照れくさそうにしながら小首を傾げた。
「もう一度、よろけてみて」
「へ?」
「もう一回」
「ん、いいけど」
 香野はぶっきらぼうに言って、そろそろと体を後ろに傾けた。倒れそうなところで、わたしは彼女に手を差し伸ばした。香野はわたしの手に目をやり、ふっと小さく笑って、でもちゃんとわたしの手を取った。少し引っ張られる。でも倒れないし、落ちないし、飛ばない。
 公園のほうに目を向けると、またブランコに向かおうとする女の子を、弟らしき男の子がその腕に掴まって、ブランコとは反対方向に引っ張っていこうとしていた。
「気が済んだ?」
「うん、まあ」
「何これ?」
 ただの茶番だよ。
「さあね」
 するりと手を放して、また帰り道を歩きはじめる。
「ふうん」
 香野は半後ろ歩きから、ゆっくりと前歩きに変えて、わたしの隣に並んだ。