西岡昌紀のブログ

内科医西岡昌紀(にしおかまさのり)のブログです。日記の様な物ですが、過去に書いた小説、単行本の文章、雑誌記事、ネット上の文章、などもここに収録する予定です。

2012年05月

ソルジェニーツィンが絶賛した「裸の島」

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ソルジェニーツィンが絶賛した「裸の島」2012年05月31日ミクシイ日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1849117664&owner_id=6445842




新藤兼人監督が他界されました。100歳でした。




(新藤兼人監督について)
     ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%97%A4%E5%85%BC%E4%BA%BA




この訃報を聞いた時、私は、昔、私が中学生の時に読んだ、或るインタビュー記事を思ひ出しました。



そのインタビューとは、今から45年前(1967年)、東京新聞に掲載された、或るロシア人作家へのインタビューです。



私が、そのインタビューを初めて読んだのは、私が中学生だった1970年か1971年の事です。東京新聞の記事から、或る単行本に再録されたそのインタビューを読んだ時、中学生だった私が受けた強烈な印象は、今も忘れる事が出来ません。


そのインタビューを何故、私が最近読み直したかは、後でお話しますが、そのインタビューの一節を以下に御紹介したいと思ひます。



東京新聞がインタビューしたそのロシア人作家とは、ロシアがソ連であった時代に、共産主義体制の中で、そのソ連の政治体制を批判する作品を次々に発表し、作品を発禁にされた後、1973年にソ連から追放されたアレクサンドル・ソルジェニーツィンです。



(ソルジェニーツィンについて)
       ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3



そのソルジェニーツィンが、ソ連から追放される前、まだソ連に居た時代に、東京新聞がソ連国内で行なったソルジェニーツィンへのインタビューの一節に、こんな箇所が有るのです。そのインタビューの中で、ソルジェニーツィンが、日本と日本人について語った部分です。




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(以下引用)


 わたしは常に、充実させて書く、つまり少ない分量の中にぎっしり盛りこむよう心がけています。遠く離れた、わきの方から見ているわたしには、この特徴は日本の民族的性格の中で重要な特徴の一つに思われます。--地理的状況そのものが、日本人の内にこうした特徴を育てあげたのです。このことはわたしに、日本人の性格との「親近性」の感じを与えてくれます。とはいうものの、これには、日本文化に対するなんら特別な勉強の裏付けはまったくないのですが(例外は、山鹿素行の哲学です。彼の哲学との、ごく表面的な接触ですら、ぬぐいがたい印象をわたしにもたらしたからです)。
 人生の大部分というもの、あるいは自由を剥奪され、あるいは生計の資をもたらす唯一のものであった数学や物理にかかりきりだったわたしは、残りの時間を自己の文学的な仕事にあててきたため、現代の世界文化のさまざまなできごとあまり通じていませんし、外国の現代作家や、芸術家、演劇、映画などもろくに知りません。
 このことは日本に関してもいえます。日本の芝居はかぶきをたった一度見ることができただけですし、日本の映画も三本しか見ていません。それらの中で強い印象を残したのは「裸の島」でした。わたしは、常に容易ならぬ自然条件の中で発揮される、日本民衆のなみはずれた勤勉さと才能とを、深く尊敬しています。

(「ソルジェニツィン集・新しいソビエトの文学6」(頸草書房・1968年)に「わが文学を語る」と言ふ題で収められた1967年1月の東京新聞紙上のインタビューより(同書333ページより))

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ソルジェニーツィンが日本のジャーナリストのインタビューに答えて語ったこの告白を読んだ時の驚きは、今も忘れる事が出来ません。



誰もが知る通り、ソルジェニーツィンは、第二次大戦中、東プロイセンで、友人への手紙の中でスターリンを批判し、その手紙を検閲によって当局に読まれた結果、逮捕され、シベリアに流刑とされます。およそ10年のシベリアへの流刑の後、ソルジェニーツィンは名誉を回復され、当時のソ連で作家としての地位を獲得するものの、ソ連の体制を批判し続けた為、1973年、ソ連から西ドイツ(当時)に追放されるのですが、追放される6年前、彼は、日本の新聞のインタビューに答えた際、日本と日本人について、この様な事を語って居たのです。



これを読んで、私は、何と偉い人だろうと思った事が忘れられません。



人生の大切な10年間をシベリアで過ごし、外国の文化に触れる機会も殆ど無かったにも関はらず、ソルジェニーツィンは、日本にこれだけ関心と知識を持ち、当時中学生だった私が名前すら知らなかった山鹿素行について語ったのみならず、「日本の芝居は歌舞伎を一回見ただけ」、「日本の映画も三本しか見て居ない」と言って、日本の文化への渇望とも呼ぶべき関心を抱いて居たからです。



これを読んだ時、中学生の私は、自分が、いかに自分の国(日本)の文化について何も知らないかを痛感させられたのでした。そして、ソルジェニーツィンと違って、これだけ自由な国で、幾らでも物を学ぶ事が出来るのに、自国の文化について何も知らない自分を恥ずかしく思ったのです。



そのソルジェニーツィンが日本と日本人について語った、このインタビューの中で、彼が、「強烈な印象を受けた」と言って絶賛した日本映画が、お読みの通り、新藤兼人監督の「裸の島」だったのです。




(裸の島について)
    ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E5%B3%B6




「裸の島」は、新藤兼人監督の1960年の作品です。



この作品は、瀬戸内海の小島に小作人として生きる夫婦の生活を一言(ひとこと)の台詞(せりふ)も無い、無声映画の様な手法で描いた作品です。水の少ない小島に、毎日小舟で水を運び、島の急な斜面の畑に植えられた作物の水を与え続ける、貧しい農民の生活を、林光(はやしひかる)氏の美しい音楽に重ねて描いた映画で、世界中で公開され、絶賛された新藤兼人監督の代表作です。特に、ソ連では、1960年のモスクワ映画祭でこの作品がグランプリを受賞した為、旧ソ連では、「ゴールイ・オーストロフ(裸の島)」と言ふロシア語の題名で、広くこの作品が知られる事と成りました。
(ソルジェニーツィンがこの作品を見る機会を得たのも、そうした経緯で、この作品がソ連国内で広く見られた為でしょう)



この映画(「裸の島」)に描かれて居るのは、もちろん、その貧しい農民の夫婦の生活です。しかし、同時に、その夫婦の生活の場である瀬戸内海の海と島を描く事によって、この映画が、ロシアを含む世界中の人々に、日本の自然の美しさと非情さを、共に強烈に印象づけた事は想像に難くありません。そんな美しくも非常な自然の中で生きる日本人とは、どんな人々なのか?と、当時、この映画を見た世界の人々は思ったに違い有りません。




このインタビューを読み、私は、この映画(「裸の島」)を見たいと、切望しました。しかし、当時は、まだVHSすら無い時代で、古い映画を見るには、その作品が名画座などでリバイバル上映されるのを待つか、或いは自主上映会などに足を運んでその作品を見る以外、方法は有りませんでした。




ですから、私が、「裸の島」を見たのも、それから4、5年経ってからの事でしたが、それはともかくとして、このインタビューを読んだ当時中学生の自分が、「自分は、何と自分の国(日本)の文化を知らないのだろう」と思った時の事は、今も忘れる事が出来ません。



その、上に引用したソルジェニーツィンが「裸の島」について語った言葉を、私は、最近、ふと思ひ出しました。



その理由は、東日本大震災の被災地に関する報道に接し、現地で暮らす人々の事を思って居た時、ソルジェニーツィンが上のインタビューで「裸の島」について語って居る事と、テレビで見る被災地の光景が、私の心の中で、ふと重なったからだったのです。



東日本大震災の後、世界中の人々が、被災地で苦難に耐えて生きる日本の民衆の姿に感動し、絶賛の言葉を送り続けて居る事は、皆さんの知る通りですが、数週前、被災地の春を伝える報道を見て居た際、私は、世界の人々が、被災地で黙々と生き続ける日本人を称賛する言葉と、1960年代に、ソ連の反体制作家(ソルジェニーツィン)が、「裸の島」に描かれた、厳しい自然の中に生きる日本の民衆の姿への感動の言葉が、余りにも似て居る事に、私は、不意に気が付いたのです。



新藤兼人監督が、「裸の島」で描いた日本人と自然の関はりの光景は、ソ連の反体制作家(ソルジェニーツィン)をこれだけ感動させた訳ですが、今、世界の人々が、報道を通じて、被災地に生きる日本の民衆の姿に感動して居るのも、これと同じ事ではないのか?私はそう思ひ、ソルジェニーツィンが、「裸の島」について語った言葉が、今、被災地に生きる日本の光景についての予言ででもあったかの様な不思議な気持ちに捉はれたのでした。



その矢先に、新藤兼人監督の訃報を、昨日聞き、私は、その不思議な気持ちを更に深めて居ます。



心より御冥福をお祈り致します。





平成24年(西暦2012年)5月31日(木)







                西岡昌紀(内科医)




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http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2032895&media_id=2

<新藤兼人さん死去>「人間」を鋭く洞察
(毎日新聞 - 05月30日 21:15)

ドキュメンタリー映画「陸に上がった軍艦」の撮影で、カメラの前に立つ新藤兼人監督=兵庫県宝塚市で2005年9月16日、西村剛撮影
 自主独立の映画製作を貫き、100歳で亡くなる直前まで旺盛な創作意欲を持ち続けた映画監督・脚本家の新藤兼人さんが、29日死去した。幾度も苦境を乗り越え、映画芸術を追求した生涯だった。


 ◇最後まで創作意欲旺盛


 生家が破産して苦しい少年時代を過ごし、映画に憧れ、つてを頼って京都の新興キネマに現像係として入社。後に美術部に移り、脚本家を志す。戯曲集を読破するなど独学で脚本を研究した。


 1944年、召集されて広島・呉海兵団に入団。ここでの理不尽なしごきや、同期の若者がほとんど戦死したことなどから、反戦の思いを強く抱くようになった。復員後は松竹で「安城家の舞踏会」「わが生涯のかゞやける日」などヒット作の脚本を手がけ、評価を確立。しかし会社の方針に反発して独立プロ「近代映画協会」を設立する。アクションやメロドラマまで、依頼があれば職人的に脚本を書く一方で、監督として描きたいテーマを追求した。


 近映協は厳しい経営が続くが、60年、農民一家の孤島での生活をセリフを一切排して描いた「裸の島」が翌年、モスクワ国際映画祭グランプリを受賞して息を吹き返した。スタッフ、キャストが合宿する方式で、少人数、低予算の映画作りを継続した。


 「裕福だった生家の没落で養った」という観察眼で、きれい事を排し低い視点から人間と社会を見つめた。その洞察は「母」(63年)、「性の起源」(67年)など、性や欲を捉えた作品に結晶。また戦争や核兵器への憤りは「原爆の子」(52年)、「第五福竜丸」(59年)、「一枚のハガキ」(11年)などで繰り返し描かれた。自らが年齢を重ねるにつれ、老いもテーマとなった。「午後の遺言状」(95年)、「生きたい」(99年)などでは、老いと死をユーモアを交えて描いた。


 「生きている限り、生き抜きたい」と語っていたとおり、孫で映画監督の風(かぜ)さん(35)と2人で暮らし、最後まで生活の全てを創作にささげた。最後の作品となった「一枚のハガキ」が毎日映画コンクール日本映画大賞を受賞し、今年2月の表彰式には車いすで出席した。


 最近は体調を崩し静養していたが、29日朝に容体が急変、風さんが見守る中、息を引き取った。




(映画レビュー)「裸の島」

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(映画レビュー)「裸の島」
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1849119383&owner_id=6445842




(レビュー)裸の島 [DVD]
乙羽信子 (出演), 殿山泰司 (出演), 新藤兼人 (監督) | 形式: DVD
http://www.amazon.co.jp/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E5%B3%B6-DVD-%E6%96%B0%E8%97%A4%E5%85%BC%E4%BA%BA/dp/B00005LJV0/ref=sr_1_1?s=dvd&ie=UTF8&qid=1338438472&sr=1-1


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ソルジェニーツィンが「強烈な印象を与えられた」と絶賛した映画 2006/6/16


By 西岡昌紀(2006年6月16日)


 私が、この映画(『裸の島』)の名を知ったのは、『イワン・デニーソヴィチの一日』や『ガン病棟』等の作品で知られるロシア(ソ連)の作家、ソルジェニーツィンが、1970年前後に、日本の新聞(東京新聞であったと記憶する)によるインタビューの中で、この映画(『裸の島』)について語って居るのを読んだ時の事だった。--彼は、そのインタビューの中で、『裸の島』を、「強烈な印象を与えられた」と言ふ言葉で絶賛して居た。--それから、数年後、都内の自主上映でこの映画を観た時、私は、ソルジェニーツィンがこの作品を絶賛した理由が分かった気がした。言葉の無いこの映画が私に語る物は、強烈であり、深かった。この映画は、言葉を持たない故に、上のソルジェニーツィンの賞賛がそうである様に、世界のあらゆる人の心を、直(じか)に打つのである。--数年前、アメリカの或る音楽家にこの映画のビデオをプレゼントした事が有る。この映画を観た彼女の感動も深い物だった。
 この映画は、『砂の器』(野村芳太郎監督・1974年)に似て居るかも知れない。それは、この映画が、かつて、この国に在った貧しさを、美しい自然の中で描く事によって、見る者に、その貧しさの悲劇をより鮮烈に印象ずけて居るからである。
 若い世代に見続けて欲しい、日本映画の名作である。小学校の総合学習で、生徒達にこの映画を見せたら、とても良いのではないだろうか?(日本の学校は、生徒達に、日本映画の名作を見せる時間を設けるべきである。)

(西岡昌紀・内科医/畠山彩香ちゃんの冥福を祈りながら)



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(以下資料)


 わたしは常に、充実させて書く、つまり少ない分量の中にぎっしり盛りこむよう心がけています。遠く離れた、わきの方から見ているわたしには、この特徴は日本の民族的性格の中で重要な特徴の一つに思われます。--地理的状況そのものが、日本人の内にこうした特徴を育てあげたのです。このことはわたしに、日本人の性格との「親近性」の感じを与えてくれます。とはいうものの、これには、日本文化に対するなんら特別な勉強の裏付けはまったくないのですが(例外は、山鹿素行の哲学です。彼の哲学との、ごく表面的な接触ですら、ぬぐいがたい印象をわたしにもたらしたからです)。
 人生の大部分というもの、あるいは自由を剥奪され、あるいは生計の資をもたらす唯一のものであった数学や物理にかかりきりだったわたしは、残りの時間を自己の文学的な仕事にあててきたため、現代の世界文化のさまざまなできごとあまり通じていませんし、外国の現代作家や、芸術家、演劇、映画などもろくに知りません。
 このことは日本に関してもいえます。日本の芝居はかぶきをたった一度見ることができただけですし、日本の映画も三本しか見ていません。それらの中で強い印象を残したのは「裸の島」でした。わたしは、常に容易ならぬ自然条件の中で発揮される、日本民衆のなみはずれた勤勉さと才能とを、深く尊敬しています。

(「ソルジェニツィン集・新しいソビエトの文学6」(頸草書房・1968年)に「わが文学を語る」と言ふ題で収められた1967年1月の東京新聞紙上のインタビューより(同書333ページより))

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日本映画専門チャンネルで新藤兼人監督の追悼放送が決定
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2033927&media_id=17

日本映画専門チャンネルで新藤兼人監督の追悼放送が決定
(RBB TODAY - 05月31日 17:20)



 スカパー!、ケーブルTV、ひかりTVほかで放送中の日本映画専門チャンネルでは、新藤兼人監督の訃報を受け、6月3日に追悼放送を実施する。

 社会派の映画監督として、原爆をテーマに取り上げた初の劇映画「原爆の子」(1952年)や、瀬戸内の孤島を舞台にした実験的な意欲作「裸の島」(1960年)を手掛け、日本アカデミー賞脚本賞受賞作品「事件」(1978年)など名脚本家としても活躍した新藤監督が、5月29日に100歳で死去した。

 日本映画専門チャンネルでは、新藤監督の追悼放送を実施する。6月3日15時15分からは、故郷広島での少年時代から新進気鋭のシナリオライターとして自立するまでを描いた自伝ともいえる映画「石内尋常高等小學校 花は散れども」を放送。15時39分からは、新藤監督を敬愛して止まない世界的名優のべニチオ・デル・トロと新藤監督との貴重な特別対談番組「ベニチオ・デル・トロが新藤兼人監督に『映画』の話を聞いた」、17時40分からは監督の100年の歩みを紹介する特別番組「新藤兼人の100年」を放送する。

 また、8月には追悼企画として、遺作となった「一枚のハガキ」、代表作「原爆の子」ほか、同チャンネルでしか見られない特別番組の放送を予定している。

 新藤監督は1912年4月22日、広島県生まれ。1934年、新興キネマ京都撮影所に入社し、溝口健二監督に師事。映画制作の裏方からキャリアをスタートさせ、建築監督、脚本家を経て50年には吉村公三郎監督らと独立プロ「近代映画協会」を設立し、翌年、死別した最初の妻をモデルにした「愛妻物語」(1951年)で監督デビュー。以降、映画監督、脚本家として活躍し、「裸の島」ではモスクワ映画祭グランプリ、「午後の遺言状」(1995年)では日本アカデミー賞5部門、キネマ旬報ベストテン1位ほかを受賞した。2002年には文化勲章を受章、日本最高齢の現役映画監督として活躍した。



偉大な音楽評論家の思ひ出

偉大な音楽評論家の思ひ出
2012年05月28日ミクシイ日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1848428219&owner_id=6445842



今から頂度39年前の5月の事です。クラシック・ファンの方で、当時物心着いて居た方は御記憶ではないかと思ひます。ロシア(ソ連)の指揮者ムラヴィンスキーが、レニングラード・フィルを率いて初めて日本を訪れ、5月26日に、東京上野の東京文化会館で演奏会を開きました。


ムラヴィンスキーは、20世紀を代表する指揮者の一人であり、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の初演者でありながら、永く日本を訪れませんでした。そのムラヴィンスキーが、ついに日本を訪れ、初めて東京で演奏会を開いたその夜は、ムラヴィンスキーの来日を長年待ち望んだ日本の音楽ファンにとって、歴史的な日でした。曲目は、前半がベートーヴェンの交響曲第4番で、後半は、ムラヴィンスキーが初演者であったショスタコーヴィチの交響曲第5番でした。


その1973年5月26日の、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルの歴史的とも呼ぶべき東京初の演奏会の客席に、一人の音楽評論家が座って居ました。


吉田秀和氏です。その夜の演奏会について、吉田秀和氏が朝日新聞に寄稿した感想を以下に御紹介したいと思ひます。先ずは、前半のベートーヴェンについてです。




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 レニングラード・フィルが世界屈指の大交響楽団であることは前二回の来日公演でようくわかっていたが、その中心人物である指揮者ムラビンスキーについては、来る来るという前評判ばかりで一向にきけなかった。その彼がついに姿を現したのだが、まず背の高いのにびっくりした。二メートルもあろうか。ぜい肉をそぎ落としきった痩く(そうく)の上に、ひろい額とひきしめられた口もとをもった長い、いかめしい顔がのっている。
 東京公演初日(五月二十六日、東京文化会館)はベートーベンの第四交響曲ではじめられたが、ふだんききなれたのとは相当ちがう響きがした。というのも、まず編成が独特で、管が作曲者の指定通りフリュート一本のほかはずべて二管に厳格に制限されているのに対し、弦は十六本(多分)の第一バイオリン以下八本のバスに至るまで現代的大管弦楽の大きさだった。指揮者のねらいの一つは、このやや均衡のとりにくい両者から、さまざまの響きをひき出すのにあったのだろう。
 事実、こうすると、それぞれの管の独奏的な動きがあざやかに浮びあがり、まるで、シューベルトをさきどりしたような、とりどりに咲きみだれ、笑いさざめく色彩のたわむれが感じられてくる。しかも、(特に目立つ)ソロのフリュートをはじめ、菅たちはどちらかというとビブラートの少ない、飾り気も艶(つや)も目立たない響き--つまりパリの管弦楽などと正反対に--なので、素朴でやや大味な感情とか、暖かくてやわらかい素肌をのぞかせるような味わいとかが感じられる。
 こういった管に、一糸乱れぬ鉄の規律で統制された弦楽器群との間に、対照が生れ、緊張が生じ、解け合いの楽しみが加わる。
 それはきびしくて、しかも人なつこさに欠けていない。その上にスケルツォのトリオの思いきったおそさや終楽章のきめのこまかいウィットなどを思いあわせると、ムラビンスキーという人には、インテリ風で厳格に知的な面と敏感で機知にとんだ面とが隣あわせに共存していることがよくわかってくる。ベートーベンをききながら、こういう精神のあり方を感じさせられたのは、私は、はじめてだ。

(吉田秀和「妥協許さぬムラビンスキー/レニングラード・フィル演奏会」朝日新聞・1973年5月30日夕刊)


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今から9年前、ムラヴィンスキーに関する本を書いた時、吉田氏のこの文章を30年ぶり(2003年)に読み直して、その豊かな日本語の表現に感心した事を覚えて居ます。


そして、後半のショスタコーヴィチの交響曲第5番については、更に、こんな面白い感想を書いておられます。



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 私は、正直いって、この曲は好きになれない。真実のものと自分に無理を加えて手を入れたものとが雑居しているみたいで、ムラビンスキーの妥協のない誇張の卓抜な指揮をもっても、これは覆(おお)えない。いや、ますますはっきりする。きく人の心を刺すように興奮さすが、熱くしない。」---

(吉田秀和「妥協許さぬムラビンスキー/レニングラード・フィル演奏会」朝日新聞・1973年5月30日夕刊)


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吉田氏のこの記事について、自著からの引用で恐縮ですが、私は、自分の本の中で、こう書いて居ます。



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 吉田秀和氏は、先ほどの批評をこんな言葉で結んでいる。「ムラビンスキーの指揮は、彼の胸を飾る勲章と同じように、すごくりっぱだ。が、もうちょっとロマンチックでもよかった。」
 この言葉は、当時、私のまわりでも少々話題になったものである。高校生だった私たちは、吉田氏のこの言葉は、もしかすると揶揄(やゆ)なのだろうかと思ったものである。いま思えば、吉田氏は別にそんな積もりではなかったのだろう。しかし、吉田氏が書いた「彼の胸を飾る勲章と同じようにりっぱだ」という言葉には、やはりショスタコーヴィチの交響曲第五番に対する前述のようなアイロニーが感じられる。そして同時に、その初演者であったムラヴィンスキーに対する吉田氏の、基本的には好意的なのだが複雑な感情がにじみ出ていると思うのである。
 ムラヴィンスキーが来日した1973年当時、日本人の間には、上述のような作曲の経緯から、ショスタコーヴィチを「体制的な」作曲家と見なす見方がかなり強くあった。吉田氏の見方は決してそんな単純なものではなかったと思うが、当時、日本人の多くが、第五交響曲などを非常に愛した一方で、当のショスタコーヴィチについてそうした気持ちを持っていたことは確かである。しかし私は、そうした見方は皮相なもんだと思っている。
 数年前、NHKのテレビ番組「N響アワー」で、ジャーナリストの江川紹子さんがショスタコーヴィチの交響曲第五番について語っていたことがあった。その中で江川さんは、「私は、ショスタコーヴィチがこの曲を保身のために書いたとは思わない」と発言していたが、私も同感である。この曲が作曲されるきっかけに彼の「保身」がまったくなかったとは誰にも言えないが、この曲の精神的深さは、単なる「保身」によってはとうてい生み出されないものだからである。---

(西岡昌紀『ムラヴィンスキー・楽屋の素顔』(リベルタ出版・2003年)55~56ページ)



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お読みの通りです。



この事に限らず、私は、吉田氏の音楽批評に共鳴する事も有れば、共鳴しない事も有りましたが、こんな個性的で、真の意味で日本人であった音楽評論家と同時代を生きて来た事を幸福に思ひます。



心より御冥福をお祈りします。






平成24年(西暦2012年)5月28日(月)






                   西岡昌紀



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■文化勲章受章の音楽評論家、吉田秀和さん死去



(読売新聞 - 05月27日 10:53)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2028964&media_id=20

文化勲章受章の音楽評論家、吉田秀和さん死去
(読売新聞 - 05月27日 10:53)


死去した音楽評論家の吉田秀和さん(神奈川県鎌倉市で、2011年1月5日撮影)


 クラシック音楽評論の第一人者で文化勲章受章者の吉田秀和(よしだ・ひでかず)さんが、22日午後9時、急性心不全のため神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。



 98歳だった。告別式は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く。喪主は長女、清水眞佐子(まさこ)さん。



 東京都生まれ。1936年に東京帝大仏文学科を卒業後、音楽評論を書き始め、戦後に本格デビュー。流麗で味わい深い文章表現と鋭い洞察力で、日本における音楽評論を確立した。対象は美術や文学にも及び、文明批評としての奥深さがあった。90年には芸術評論全般を対象とした「吉田秀和賞」を創設した。



 戦後まもなく桐朋学園「子供のための音楽教室」の設立にかかわるなど音楽教育の振興にも貢献、指揮者の小沢征爾さんらを育てた。88年から水戸芸術館の館長を務めていた。75年、「吉田秀和全集」で大佛(おさらぎ)次郎賞、93年、「マネの肖像」で読売文学賞。




曽野綾子さんがスカイツリーを酷評

曽野綾子さんがスカイツリーを酷評


2012年05月22日ミクシイ日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1846937725&owner_id=6445842




昨日(2012年5月21日(月))の毎日新聞夕刊に、曽野綾子さんが、インタビュー記事(特集ワイド・ツリーは必要?/曽野綾子さんと考えた)に登場し、こんな事を言っておられます。



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「東日本大震災前に計画されたものだから、ぜいたくに浮かれたんですかね。日本人って本当に無駄、ぜいたくをしていました。しなくていいことをして、買わなくていい物を買って。ひとのぜいたくを何とも言えませんけど、嫌なのは『これを見ないと』というあの熱狂ぶり。それを『軽薄だ』と教える人がいない、教育不在ですね」(曽野綾子)

「高さ競争は後発国のやることではないですか。もっと大人になってもらいたいですね。どんな高い塔も今に抜かれます」(曽野綾子)


(「特集ワイド・ツリーは必要?--曽野綾子さんと考えた/大魔神か巡礼地か」毎日新聞2012年5月21日夕刊2面より抜粋)

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全く同感です。バカ騒ぎにウンザリして居ます。





平成24年(2012年)5月22日(火)







                西岡昌紀




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スカイツリー 小雨の中で開業
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2023445&media_id=2

<スカイツリー>小雨の中で開業 王貞治さんらテープカット
(毎日新聞 - 05月22日 11:45)


 高さ634メートルを誇る世界一の自立式電波塔、東京スカイツリー(東京都墨田区)と商業施設「東京ソラマチ」などがある街区「東京スカイツリータウン」が22日、開業した。あいにく周辺は朝から小雨が降る天気となったが、新たな東京の観光名所を一目見ようと周辺は早朝から多くの人でにぎわった。開業後の1年間でタウン全体には3200万人が訪れると見込まれている。



 オープンセレモニーで、東武鉄道の根津嘉澄社長(60)が「建設中、東日本大震災がありましたが、無事故無災害で終えることができました。今日の雨はスカイツリーにとって栄養をくれる恵みの雨」とあいさつ。ツリーの近くで少年時代を過ごした福岡ソフトバンクホークス球団会長の王貞治さん(72)らと共に、テープカットをした。王さんは「本当に立派なツリーが完成し、地元の人間としてこんなにうれしいことはない。今までより多くの人が来て大変なにぎわいになる。今から上に上がるのを楽しみにしている」と話した。



 続いて開かれたツリー本体の開業式には、名称を決める全国投票で「東京スカイツリー」に投票した“名付け親”の中沢歩(あゆみ)さん(42)と長男謙太君(12)も埼玉県から駆けつけた。中沢さんは投票した3万2699人の中から抽選で選ばれ、開業日に一番最初に上る権利を得た。「通勤電車の中の広告を見て投票しました。一番文字がきれいだったので選びました」と話した。



 ツリーは東武鉄道の貨物列車ヤード跡地に08年7月着工、今年2月に完成した。タワーのみの事業費は約650億円。高さ634メートルは、東京や埼玉、神奈川の一部にあたる旧国名「武蔵」と語呂を合わせた。展望台は天望デッキ(350メートル)と天望回廊(450メートル)があるが、7月10日までは事前購入のみで、販売は終了している。



 ソラマチには312店舗が出店。タウン全体の広さは約3.69ヘクタールで、水族館やプラネタリウムもある。【大沢瑞季】



自閉症は病気ではないのか?

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自閉症は病気ではないのか?



(2012年05月16日ミクシイ日記)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1845515950&owner_id=6445842




神経内科の医者として言ひます。



何が「病気」で何が「病気」でないかは、実は患者や社会が決定する事で、医学は、患者や社会が「病気」とみなした現象の原因を究明し、患者と社会の要請に答えて治療する事が使命です。



ですから、自閉症は「病気」なのか?と問はれれば、本当の事を言へば、それを決めるのは患者と社会であり、医者が決める事ではないとは言へます。



しかし、です。現に多くの家族が自閉症と診断された人々の社会への適応性について悩み、苦しみ、そして医療機関を訪れて居ます。そして、それに応える形で、多くの臨床医と研究者たちが、自閉症の治療法について研究を続けて居ます。



と、言ふ事は、矢張り、社会は自閉症を病気と見なし、その治療法を見つける事を医師と研究者に求めて居るのですから、自閉症は病気なのではないでしょうか?



もし、自閉症が病気でないと言ふなら、何故、自閉症と診断された患者さんたちは医療機関を受診し、検査を受けたり投薬を受けるのでしょうか?そして、何故、自閉症の治療が研究されて居るのでしょうか?



自閉症が病気だからではないのでしょうか?



私は、このニュースを全く理解出来ません。自閉症を「病気」と呼ぶ事が、自閉症を持つ人々への「差別」だとでも言ふのでしょうか?



魔女狩りもここまで来たのか?と思ひます。テレビ朝日が謝罪する理由が、私には全く理解出来ません。








平成24年5月16日(水)





              西岡昌紀(神経内科医)






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■番組で自閉症を「病気」、テレビ朝日がおわび
(読売新聞 - 05月16日 14:54)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=2017615&media_id=20

番組で自閉症を「病気」、テレビ朝日がおわび
(読売新聞 - 05月16日 14:54)


 テレビ朝日は14日放送のクイズ番組「Qさま!!」中で、先天的な脳の機能障害と考えられる自閉症を病気として扱ったとして、同番組の公式ホームページにおわびと訂正を掲載した。



 テレビ朝日広報部によると、14日の放送中に、「ここ10年で患者数が増えている病気を選びなさい」という問題を出題、自閉症を正答の一つとした。視聴者から放送中に指摘があったことから誤りが発覚した。



 広報部では「設問の事前チェックが不行き届きで、誤解を与えてしまった」と話している。




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