西岡昌紀のブログ

内科医西岡昌紀(にしおかまさのり)のブログです。日記の様な物ですが、過去に書いた小説、単行本の文章、雑誌記事、ネット上の文章、などもここに収録する予定です。

2015年09月

マルコポーロ廃刊事件から20年(33)

*



青木進々さん(2938-2002)は、この「心に刻むアウシュヴィッツ展」と言ふ写真展を各地で開いて来た方でした。



その時、私は、青木さんについても、この写真展についても良く知っては居ませんでした。
ただ、その日のニュースで青木氏が開いて居たその写真展を知っただけでした。



私は、あらかじめ電話で、写真展のスタッフの方に「アウシュヴィッツで公開されて居るガス室の信憑性に疑問を持って居る者です」と丁重な言葉で自己紹介をし、青木氏に面会を申し込みました。そして、会って頂く事に成り、練馬区の会場にお邪魔したのでした。



会場で、私は、スタッフの女性に名を告げ、青木氏の居る場所に導かれました。青木氏は、非常に丁重に私を迎えて下さいました。突然の申し入れを快諾して会って下さった青木氏に、私は謝意を述べました。そして、テレビのニュースでこの写真展を知った旨を話した上で、アウシュヴィッツの「ガス室」について、そして「ホロコースト」全般について、青木氏のお考えをお尋ねしました。



当然と言ふべきでしょう。青木氏は、当惑した様子でした。しかし、青木氏は、非常に礼儀正しく、応対して下さいました。そして、私が、欧米に、「ナチのガス室」の実在性を疑ふ論者が居る事を知っておられますか?とお尋ねしたところ、青木氏は、「知りません」と答えたと記憶して居ます。



私は、そこで、早速、自分が調べた問題点についてお話し、「ホロコースト」と呼ばれる「歴史」には再検討の必要が有る旨を青木氏の前で述べました。



当然と言ふべきでしょう。青木氏は、私の言ふ事に同意出来無い、と言ふ旨の事をおっしゃたのですが、その時、とても面白い事を口にしたのです。



私は、青木氏に、「ダッハウのガス室」の話をしました。即ち、ドイツ南西部に在るダッハウ収容所は、戦争末期の1945年春、アメリカ軍によって占領された収容所です。



(参考サイト:ダッハウ収容所の謎--「ガス室目撃証言」は信じうるか?)
           ↓
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6736682.html




その直後から、ダッハウは、「ナチによるガス室大量殺人」の代名詞と成りました。



多くの報道や出版物において、ダッハウは「ナチによるガス室大量殺人」の現場として取り上げられ、ニュールンベルク裁判においても、「ダッハウのガス室」に関する「目撃証言」が提出されて居ました。ダッハウこそは、戦後間も無い時期、「ナチのガス室」が存在した収容所の代表格だったと言って間違い無いのです。



ところが、1960年代に入った頃から、「ダッハウのガス室」は、マスコミなどでも次第に取り上げられなく成りました。



そして、今日では、「ダッハウではガス室による処刑は行なはれて居なかった」と言ふ話に、説明が変はって居るのです。



「ナチのガス室が在った収容所」として有名だったダッハウ収容所は、何故か「ガス室による処刑は行なはれて居なかった収容所」に変はってしまったのです。



それに代はって、マスコミなどで大きく取り上げられる様に成ったのが、アウシュヴィッツなのです。


つまり、戦争直後には、「ナチのガス室」と言へば、少なくとも西側ではダッハウが有名だったのに、徐々に、ダッハウよりもアウシュヴィッツが取り上げられ、有名に成って行ったのです。その結果、今では、「ホロコースト」と言へば、ダッハウよりもアウシュヴィッツが思ひ起こされるのが一般的に成って居る訳ですが、昔は、ダッハウこそは、「ナチのガス室」が在った収容所として、有名だったのです。


それは、今お話しした様に、戦争直後には、ニュールンベルク裁判の「証言」としてすら語られて居た「ダッハウのガス室」が「使はれて居なかった」と言ふ話に説明が変はったからです。



だから、アウシュヴィッツは、今日の様に有名に成ったとも言へる訳ですが、これは不思議な事ではないでしょうか?



戦争直後には、「ダッハウのガス室」で人が殺されるのを目撃したと言ふ「目撃証言」が有ったのです。



それなのに、今日、通説側の歴史家は、「ダッハウでは、ガス室による処刑は行なはれなかった」と言ふ様に成って居るのです。



では、戦争直後に語られて居た、その「ダッハウのガス室」で「処刑を見た」と言ふ「目撃証言」
は、一体何だったのでしょうか?



嘘だったとしか考えようが無いではありませんか?



私は、この問題を青木進々氏の前で語り、青木氏の意見を求めたのです。



それに対して、青木氏が言った言葉を私は忘れることが出来ません。





(続く)







マルコポーロ廃刊事件から20年(32)

*



毎年、夏に成ると、あの戦争に関連した報道が増えるのは、この年(1994年)の夏も同じでしたが、そんなこの夏の或る日、NHKのローカル・ニュースで、私に興味を覚えさせたニュースが有りました。



それは、東京の練馬区で、アウシュヴィッツと「ホロコースト」をテーマにした子供向けの写真展が開かれて居る、と言ふニュースでした。



『心に刻むアウシュヴィッツ展』と言ふ名の写真展だったと記憶します。21年も前の事なので、細かい事は記憶して居ませんが、首都圏の催しを取り上げたちょっとしたニュースでした。



このニュースを見た私は、その日が休日だったからだと記憶しますが、この写真展に行ってみようと思ひました。



そして、あらかじめ写真展の主催者に電話を入れたと記憶します。丁重に、主催者の方のお話をお聞かせ願へないでしょうか?とお願ひしたところ、主催者の方の快諾が得られたので、自分のパンフレットを持って、練馬区の会場に向かひました。



写真展は、こじんまりとした物で、入場者は余り居なかったと記憶して居ます。



そこで、私は、その写真展の主催者の方とお会ひする事が出来たのでした。



青木進々さんと言ふ方でした。



(続く)



マルコポーロ廃刊事件から20年(31)

*



さて、この1994年の夏は、「戦後49年」の夏だった訳ですが、今思ふと、「戦後70年」の今年(2015年)の夏よりも、マスコミの論調は、あの大戦を「反省する」と言ふ空気が強かった様に思ひます。


時の政権は、「自社さ」の村山政権でした。村山政権と言へば、その翌年(1995年)に発表される「村山談話」が思ひ起こされますが、私の記憶では、この年(1994年)のマスコミは、日本は「反省」が不十分ではないか?と言った論調が非常に強かった様に記憶して居ます。



そんな1994年の夏、私は、お話して居る様に、春から色々な方に自分が書いたパンフレットを送って、「ホロコースト」と呼ばれる「歴史」には大きな虚偽が含まれて居る事を伝えようとして居ました。そして、夏の初めには、花田紀凱編集長から電話が掛かって来て、時期は未定でしたが、「マルコポーロ」誌に自ら寄稿する事にも成ったのですが、こうした私と私の周囲での動きは、この時点では、一部の人々の間でしか知られて居ない事でした。



それから半年くらいが経ち、私が「マルコポーロ」に寄稿した記事を切っ掛けに、「マルコポーロ廃刊事件」が起きる訳ですが、1995年1月にこの廃刊事件が起きると、その前年に私が色々な方やマスコミに情報提供の目的で郵送した私のパンフレット(「今世紀最大の報道操作」)を私が「マルコポーロ」に寄稿した原稿(「戦後世界史最大のタブー・『ナチ・ガス室』はなかった」)と混同する報道が現われました。



1994年に私が、花田編集長を含めた色々な方達にダイレクトメールで送ったこのパンフレット(「今世紀最大の報道操作」)と「マルコポーロ」に掲載された私の記事(「戦後世界史最大のタブー・『ナチ・ガス室』はなかった」)とは、全く別の物です。ところが、この全く別の物を混同して、私が、あちこちのマスコミに「ナチ『ガス室』はなかた」の原稿を送付し、それを花田編集長が掲載したと言った類のデマが、マルコポーロ廃刊事件の際に流布されました。



日本のマスコミが、基本的な事実を確認せず、適当な事を書いて流布する事が良く分かりましたが、今思へば、一部のマスコミは、これを意図的にやったのではないか?と言ふ気もして居ます。



いずれにせよ、1994年の夏には、ワープロで作ったこのパンフレットは、「水面下」で反響を呼び、極めて少数ではありましたが、影響力の有る方達がこの問題の存在を知り、関心を持つ状況を生んで居たのです。



(続く)






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