西岡昌紀のブログ

内科医西岡昌紀(にしおかまさのり)のブログです。日記の様な物ですが、過去に書いた小説、単行本の文章、雑誌記事、ネット上の文章、などもここに収録する予定です。

2016年02月

Snow of February 26th Incident

(This  essay  was  written  on  27th  February  2013)



As I am a neurologist, I have many patients of dementia. They  are mostly very old people.


The causes of dementia vary. But my patients and their families, who suffer diseases causing dementia, commonly face social probllems,  particularly the problems of care or nursing, as we did and do about my parents.


Many outpatients of dementia visit me every week with their sons or daughters, but I feel sorry there is little I can do for them.


While I meet such patients every week, I have been impressed by one thing about those old people suffering dementia.


It is that those old people, who often forget their address, phone number, or even the names of their grandchildren, remember  their experiences in childhood very well and often surprise their  children.


One example I am referring below may surprise you.


In my area, Sagamihara-city, which is located on the western  suburbs of Tokyo, there live many old people.
They are, however, not necessarily people who were born and grown  up here.


Quite many of them are people who were born and grown up in Tokyo. So, not surprisingly, many of such old people, who are my patients, remember Tokyo before W.W.II well.


Meeting such very old people every week, I have come to make it  my habit to hear their memories of old Tokyo which I have never  seen. It became my little pleasure now. I find it very interesting to hear about their childhood in prewar Tokyo.


And I enjoy surprising their sons and daughters now by making their senile fathers or mothers talk vividly about their childhood  in prewar Tokyo in front of them.--Their sons and daughters are surprised their demented parents remember far old memories very
well.


In such practice every week, I was surprised to find out that  many of my such patients, who were born in Tokyo before the war, remember a certain day of Japanese history for a particular reason.


Read the conversation below.


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Yonoi :How wonderful it would have been, if it could have been invited all
of you to a gathering under our cherry trees.
Lawrence:Yes. My fondest memory of Japan is the snow.
Trees covered with snow.
Yonoi :It was snowing on the day.
Lawrence:What day?
Yonoi :Don't you know? February 26rh, 1936.
Lawrence:Ah, yes. I was in Tokyo on the day.You too?
Yonoi :No. I had been sent off to Manchuria 3 months
before. I was not there for the uprising.
Lawrence:You regret that?
Yonoi :My comrades were executed. I was left to die after them.
Laerence:I see. So, you were one of the shining officers.

(from "Merry Christmas, Mr.Lawrence" directed by OSHIMA Nagisa, 1983)

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This is a conversation in a movie. This conversation is of course  a fictious conversation between fictious persons in the movie.
But the "snow" told about in this conversation is VERY real, since everyone who was in Tokyo on the day remembers the heavy snow on the day.--The two men in the movie are talking about the heavy snow that fell on Tokyo on the 26th February, 1936.
It is the historical day the attempted coup occurred in Tokyo in the heavy snow.--They are talking about the snow of the historical day.



(About February 26th incident)

http://en.wikipedia.org/wiki/February_26_Incident
(English)



My patients, who suffer Alzheimer disease and various other diseases causing dementia, come to my hospital because they cannot remember their phone numbers, address, promise, names of their grandchildren, how to use telephone, etc.
But, surprisingly, among such old people are people who remember the snow of February 26th incident 77 years ago very clearly.


They were, of course, small children, when the attempted coup shook Japan on February 26th, 1936. So, they of course didn't understand what happened in Tokyo on the day.


They have no idea what historical meaning that event had nor do they have idea on what politilal meaning that incident had. But they remember the snow on the day, even if they cannot recall their address, phone number, name of their doctor, name of the hospital they come every week.--They never forget the snow they witnessed on Feb 26th, 1936, in their childhood.



Yesterday(Feb 26) was the 77th anniversary of the February 26th incident in 1936.


So, I was reminded about my patients. And I was reminded of my mother who passed away last week.


My mother was 7 years old when the coup occurred in snow on the 26th, February, 1936.


Very long ago, before my mother began to suffer dementia, she had told me how she was surprised by the heavy snow on the day and that she was surprised her housemaid came to her school to take her home early on the day.--To her it was an unforgettable
adventure in snow.


I regret my mother has now passed away and cannot tell us about the snow on the day--Febryary 26th, 1936--any more.


I look forward to hear about the snow 77 years ago from my patients next week.





(About February 26th incident)




http://en.wikipedia.org/wiki/February_26_Incident
(English)

http://pl.wikipedia.org/wiki/Incydent_z_26_lutego
(polski)

http://cs.wikipedia.org/wiki/Incident_26._%C3%BAnora
(česky)

http://fr.wikipedia.org/wiki/Incident_du_26_f%C3%A9vrier
(français)

http://de.wikipedia.org/wiki/Putschversuch_in_Japan_vom_26._Februar_1936
(Deutsch)




子供達の2・26事件

*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8374112.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950616164&owner_id=6445842
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/879.html



1.外来にて




 私は、神経内科の医者である。神経内科とは、脳や脊髄、末梢神経などの病気を診る内科の一分野である。しばしば混同される心療内科などとは全く違った科である。又、名前が紛らわしい神経科とは精神科の事であり、これも全く違ふ科である。病気の名前を挙げれば、脳梗塞、パーキンソン病、など、或いは、頭痛を診療するのが、神経内科である。神経内科が取り扱う病気の種類は実に多い。



 そうした神経内科が扱う病気の中には、いわゆる「物忘れ」や「ぼけ症状」を症状とする病気も含まれている。たとえば、アルツハイマー病がそうである。又、日本の神経病理学者、小阪憲司氏が発見した「びまん性レビー小体病」なども、そのひとつである。高齢化が進む中、こうした「物忘れ」や「ぼけ症状」を自分から心配して、或いは家族が心配して、神経内科を受診する人々は、本当に増えて居る。
(私は、「認知症」と言う言葉は使はない。この言葉は、「痴呆」の代替語として使はれるようになった言葉だが、「認知症」と言う言葉は、この病気の内容を正しく反映してゐないと思うからである。又、「痴呆」と言う言葉が差別的だとも思わないので、私は、「認知症」という言葉は使わず、「痴呆」という言葉を使ってゐる)


 だから、神経内科の医者である私の外来には、そうした「物忘れ」や「ぼけ症状」を心配してやって来るお年寄りが本当に多い。どちらかと言えば、心配した家族に連れられて来る患者さんが多いが、自分から心配して来る患者さんも居る。とにかく、今、日本中で、そう言ふ患者さんが、沢山、神経内科の外来を訪れてゐるのであり、私の外来も例外ではない。大変な時代だと、外来をやりながら、感じてゐる。その私には、或る、密かな「楽しみ」がある。その事についてお話ししようと思ふ。




2.東京大空襲の記憶




 私は、神奈川県で勤務医をしてゐる。神経内科医であるその私の外来にやって来るのは、当然だが、私の病院の周辺に住む患者さん達が大部分である。従って、「物忘れ」や「ぼけ症状」を心配して、私の神経内科外来にやって来るお年寄りたちも、大抵は、私の病院の近くに住むお年寄りたちである。そんな、私の病院周囲に住むお年寄り達を多く診察する内に、私は、或る事に気がついた。それは、私の病院の近くに住み、私の病院に来るお年寄りの多くが、子供時代を東京で過ごした人々であると言ふ事である。
 それは、そうした「物忘れ」を心配した子供たちに連れて来られるお年寄りたちに、昔の記憶を確かめるために、「どちらのお生まれですか?」と聞いている内に気がついた事である。そんな東京に生まれ、子供時代を東京で過ごしたお年寄りたちに、私は、しばしば、戦争中の記憶を尋ねる事があった。「空襲に遭いましたか?」「疎開はしましたか?」と言った質問をしたのである。大抵の場合、こうした昔の事は良く覚えている患者さんが多い。



 そんな中で、或るお年寄りに「東京大空襲を覚えていますか?」と尋ねた事があった。すると、そのお年寄りは「はい」と答えて、こんな話をした。戦争中、子供だったそのお婆さんは、熱海に疎開していたと言う。東京大空襲(昭和20年3月10日)の時、熱海から見る東の空が真っ赤になった事を良く覚えていると、そのお婆さんは、述べた。その言葉を聞いた時、私は、その光景を想像した。漆黒の夜の闇の中で、熱海から見た東京の空が赤々と燃えている光景を、私は思い浮かべた。その時、子供だったこのお婆さんは、何を思ったのだろうか?東京に居たであろうこのお婆さんの両親の事を思ったのではないか?いや、このお婆さんの御家族は、皆、無事だったのだろうか?そんな事が頭に浮かんだ。その時から、私は、もう空襲の話を聞くのはやめた。たかが私の診察などで、お年寄りの辛い記憶を呼び覚ます事に何の意味が有るのか。私は、空襲の話は聞かない事にしたのだった。




3.2.26事件の記憶




 その後、私は、東京大空襲の代はりに、外来にやって来るお年寄りに、子供時代の記憶を確かめる目的で、東京で起きた別の歴史的な出来事について尋ねるようになった。


 それは。2・26事件(昭和11年2月26日)である。生年月日を確かめた上で、2.26事件の有った昭和11年(1936年)に小学生以上であったお年寄りたちに、私は、「2・26事件を覚えていますか?」と尋ねてみたのである。すると、驚くべき事に、当時、小学校に入学していた年齢のお年寄りであれば、私の記憶では、ほぼ全員が、「はい」と答えたのである。そして、そうしたお年寄り達全員が、口をそろえて言った言葉が有る。それは、「すごい雪でした」と言う言葉なのであった。


 私は、驚いた。一般に、アルツハイマー病をはじめとする疾患において、どんなに健忘が進んでも、遠い過去の記憶は保たれてゐる事が多い事は広く知られている。だから、「物忘れ」がひどく成ったお年寄りたちが、仮に、自分の住所を言えなくなったとしても、子供時代の記憶は失はずにいる事は、驚きに値しない。だが、それでも、当然ながら、あらゆる事を明瞭に記憶している訳はない。ところが、東京に生まれ育ち、2・26事件の際、小学生に達していたお年寄り達は、例外無くと言っていいだろう。誰もが、2・26事件の日を明瞭に記憶しているのである。だから、私が、「2・26事件を覚えていますか?」と質問すると、「はい」と答え、「すごい雪でした」と言って、あの朝の事を、まるで昨日の事のように語り出すのである。



 それを見て驚くのは、そんなお年寄りを病院に連れて来た子供たちである。こうしたお年寄りたちを私の病院に連れて来るお年寄りの子供達は、大体、私に近い50代以上の人々である。彼らは、自分たちの親が、さっき言った事をもう忘れているとか、物をあちらこちらに置き忘れるとか言った状態になったのを心配して神経内科に連れて来る。自分たちの親の記憶は、もうボケ切っている、と思って親を連れて来る人も多い。ところが、「ボケ切ってしまった」と思ってゐたお年寄りが、目の前で、はるか昔の「2・26事件」の事を昨日の事のように語り始めるのを目にして、本当にびっくりするのである。彼らにしてみれば、「物忘れ」が進みきった自分の親たちが、目の前で、学校の授業で聴いた記憶がある、くらいの話でしかない「2・26事件」を自ら覚えて居て、医者に向かって語り出すと言ふ光景は、信じられない物なのである。そんなお年寄りたちの反応と、それに驚く子供たちの表情を、私は、何度も見る事となる。
 私は、面白くなってしまった。




4.母と2・26事件




 今思ふと、私が、2・26事件の事を、東京生まれのお年寄りに尋ねるようになったのには、もうひとつ別の理由があった。それは、三年前他界した私の母が、そうしたお年寄りたちと同じように、2・26事件の日を鮮烈に記憶してゐたからである。2・26事件が起きた時、私の母は、満7歳だった。私の母は、東京に生まれ、虎ノ門で育った。母は、お茶の水にあった文化学院というリベラルな学校で小学生時代を過ごしたが、当時7歳だった私の母は、生前、2・26事件の日の事をこのように語ってゐた。




「あの日の事、すごく良く覚えてる。すごい雪の日だった。そして、学校に行ったら、家のお手伝いさんが迎えに来て、私を連れて帰ったの。普段、お手伝いさんが迎えに来るなんで事は無かったから、びっくりしたのを覚えてる」



 私は、母の口から、この話を数度聞いている。最初に聞いたのは、私が十代だった頃だから、母が40代だった頃である。当然、母のこの記憶は正確であった筈である。そんな母の言葉を聞いて私の印象に残っている事は、母が、とにかく、その日の雪が「すごかった」と強調してゐた事だった。そして、当時、5人家族だった母の家に居たお手伝いさんが、その雪の中、虎ノ門の家からお茶の水まで、7歳だった母を迎えに来た事に、母が驚いたという部分もとても印象的であった。それは、もちろん、2・26事件が起きた事を知った私の祖父母のいずれかが、事態の成り行きを心配して、そのお手伝いさんを迎えに行かせた事を意味しているが、「そんな事は初めてだった」と言った母の言葉に、私は、その日の緊迫した空気を感じたものである。



 母のこの話を何度か聞いていたからだろう。私は、母と同世代のお年寄りが私の外来に来て、そのお年寄りが東京生まれであると知ると、2・26事件の年(昭和11年・1936年)に何歳だったかを確かめたうえで、「2・26事件を覚えていますか?」と尋ねる事が、楽しみになって来たのである。そして、そうしたお年寄りたちが、母と同様、「すごい雪だった」と言うのを聞くたびに、遠いその日の雪の情景が、自分自身の記憶ででもあるかのように、感じ始めたのである。




5.子供達は何を見たか?




 私が、「物忘れ」を心配する子供たちに連れられて来院するお年寄りたちに「2・26事件」の記憶の有無を尋ねるようになったのは、もちろん、診察の一部としてである。だが、そのうちに、私は、この質問をするのが、とても楽しく成ってしまった。そして、色々なお年寄りが語る、子供の目で見た2・26事件の日の東京の情景を聞くうちに、それらの中に、単なる「子供の記憶」で片づけられない貴重な証言が含まれているかも知れない事に、私は、気が付き始めたのである。



 例えば、数年前来院したある男性のお年寄りは、こんな話を聞かせてくれた。「私の家は、四ッ谷にありました。あの日は四ッ谷に居ましたが、四ッ谷で、大砲の音が聞こえました。」2・26事件は、市街戦に発展する事は無かった筈である。しかし、この男性は、四ッ谷で「大砲の音」が聴こえたと言ふのである。これは、何を意味するのだろうか?何か、別の音を聞き間違えたのではないか?と私は思っている。或いは、何かの理由で、軍が空砲を撃ったのだろうか?などとも思うが、答はわからない。又、或る女性のお年寄りは、私の母と同様、お茶の水に居たと言う。この女性は、特段、変わった事は記憶してゐないようだったが、それは、逆に言えば、その日の東京が、反乱軍が占領した地域の外では平穏だった事の現はれとも取れそうである。
 母の場合も、虎ノ門の自宅からお茶ノ水の小学校(文化学院)まで、母がいつもと同じように市電で登校し、そして、母を迎えに来たお手伝いさんも、恐らくは市電でお茶ノ水に来たのだろうから、その日の市電がいつも通りに走っていた事は、母の語った事からも伺えるのである。
 このように、「たかが子供の話」と思われるかも知れない話の数々は、ジグソー・パズルのかけらのピースのように、聞き集めて行くと、歴史の一面を語る立派な証言である事に、私は気がついたのであった。




6.母の帰宅の謎




 「謎」も有る。上述の様に、当時7歳だった私の母は、お茶ノ水の学校に着いて間も無く、虎ノ門の家から母を追いかけて学校に迎えに来たお手伝いさんに連れられて帰宅した。だが、母のこの話について、不思議な点が有る事を、数年前、私は、或る人から指摘された。


 それは、2・26事件が起きたその日、お手伝いさんが母を迎えに学校に来たのが、非常に早いと言ふ事である。
 2・26事件について知識の有るその人によれば、驚くほど早いと言ふのである。即ち、小学校低学年の母が、学校に着いて間も無く、お手伝いさんが迎えに来たと言ふのだから、それは、午前中の比較的早い時間だった筈である。しかし、或る人が指摘してくれた事なのだが、これは、事件の推移の中で、そんなに早い時間帯に、一般人が状況を把握してゐたと言ふのは、驚きだと言うのである。これは、何を意味するのだろうか?一体、何故、私の祖父母は、その人が指摘する様な早い段階で、状況の推移を知ってゐたのだろうか?




 その事の不思議さを指摘されて、私は、その理由を考えて見た。そして、或る事に思い当たった。それは、私の祖父(母の父)である。私の祖父は、町田佳声(1888-1981)と言う民謡学者である。
 祖父は、戦後、全国を旅して日本の民謡を録音し、採譜して出版した学者であり、作曲家でもあったが、戦前は、始め新聞記者となり、その後は、NHKの職員に転職したと言う経歴の持ち主である。 


 2・26事件が起きた昭和11年(1936年)、その私の祖父が、新聞社に勤めてゐたか、或いは既にNHKの職員になっていたのかは分からないのだが、どちらかではあった筈である。つまり、祖父は、2・26事件が起きた日、報道機関に居た筈なのである。その日、既に登校した私の母を帰宅させるために、早い段階でお手伝いさんを母の学校に向かわせたのは、報道機関に居て、早くに情報を得ていた祖父だったのではないか?と、私は思ふのである。
 更に興味深い問題は、それで居ながら、母は何故、一旦は登校したのか?と言ふ事である。つまり、その日の早朝、青年将校たちが高橋是清蔵相をはじめとする重臣たちを襲撃した直後には、報道機関の職員であった祖父も、その事を知らなかったのである。携帯電話など無かったこの時代、報道機関に勤めて居た祖父も、自宅では反乱軍決起の報はまだ知らず、出勤して、事態を知らされたのだろう。その祖父が、虎ノ門の自宅に近い職場に出勤して青年将校の決起を知り、直ちに、お手伝いさんを母の学校に向かわせたのではないか?と、私は推察してゐる。それは、多分、母が虎ノ門の自宅を出て、お茶の水の学校に向かった直後の事だったのだろう。
 だから、母を迎えにお茶ノ水の学校に向かったお手伝いさんは、母が言ったように、「学校に行ったら、すぐ、お手伝いさんが現われた」のに違い無い。この母の登校と祖父が事態を知るまでの短い時間に、この日、反乱軍決起の情報の伝わり方がどのくらいの速さであったのかが伺える事は興味深い。
 又、更に言えば、当時の祖父の勤務先が新聞社だったのかNHKだったのかは生憎不明だが、当時祖父が勤務していた報道機関から、祖父は自宅にこれを知らせる事は出来たのである。つまり、当日の報道管制がどの程度のものであったかを知る上でも、「お手伝いさんがすぐに迎えに来た」と言う母の話は興味有るものに思はれるのである。
 そして、更には、母の登校時にも、お手伝いさんが学校に現われた時間帯にも、市電は普通に走ってゐたのだろうし、お手伝いさんが学校に来るまで、母が何も異常を感じて居なかった事は、この日の午前中、反乱軍によって占領された区域の外では、市民生活がいつもと同じであった事を反映してゐると言えそうである。このように、一人の子供の話の中に、2・26事件の日、東京がどのような状況にあったかを知るヒントが幾つも有る事は面白い事ではないだろうか。




7.東京の雪




 2・26事件を想起する時、私が思ひ出す言葉が有る。それは、ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ監督が言った「悲劇は、正義と正義が戦う時に起こるのです」と言う言葉である。ワイダ監督は、愛国者同士が衝突し、お互いを殺し合う事を念頭にこの言葉を口にしたのであるが、私は、2・26事件を想起する時に思ひ出す。私がこの言葉を思ひ出すのは、2・26事件においては、決起した青年将校たちの中にも、殺された重臣の中にも、日本を愛する人々が居たと確信してゐるからである。だから、この事件は、まさしく、ワイダ監督が言うように、悲劇であったと、思ふのである。



 その日銃撃された重臣たちの全てがそうではなかっただろう。だが、少なくとも、高橋是清などは、日本を愛した青年将校と、違う立場からではあったが、やはり日本を愛した人物であったと私は思ふ。その高橋是清が、同じく日本を愛してゐた青年将校によって殺された事の悲劇は、まさに、ワイダ監督が言う通りの「正義と正義が戦う時に起こる」悲劇であった。知れば知るほど、そして、考えれば考える程、私は、この事件の悲劇性を痛感する。




 だが、その一方で、そんな悲劇が首都を舞台に起きてゐたその日、東京では、多くの子供たちが、大雪に驚き、そして、雪に胸を躍らせて、学校に行ったのである。その雪を、その日子供だった人々は、今も覚えてゐる。そして、どんなに「ボケ」たと言われても、そんなに子供たちがその「ボケ」を心配しても、その日の雪だけは、2・26事件の日の雪だけは、決して忘れなず、藪医者に聞かれれば、「よくぞ聞いてくれました」と言う表情で、語り始めるのである。



 私は、ここに「日本」を感じる。あの深刻な「正義と正義が戦った」悲劇が起きた日にも、子供達は、雪を見てはしゃぎ、そして、いつまでも忘れないのである。そんな2・26事件の子供たちが、あの日の雪について、私達に語りかけてくれる時間は残り少ない。その残された時間の貴重さに気が付くべきではないだろうか。




8.歴史の生き証人たち



 
 話を私の仕事に戻そう。「ボケ」を心配して来院するお年寄りとその御家族に接すると、テレビをはじめとするマスコミが、いかにこうしたお年寄りの「ボケ」の問題で不安をあおり、人々に強迫観念を植え付けているかが痛感される。
 お年寄りの「ボケ」は、家族にとっては、もちろん、深刻な課題である。だが、そんなお年寄りたちの物忘れや勘違いをアラさがしばかりする事に、当の神経内科医である私は疑問を感じてゐる。残念ながら、この領域において、今の医学は、人々が期待するほどには進んでゐない。いや、非常に遅れてゐると言うのが真実である。
 しかし、テレビをはじめとするマスコミは、「認知症」と呼ばれる疾患分野の医学が物凄く進歩していて、病院に行けば、ものすごい検査やものすごい治療が待ってゐるかの様な幻想を振り舞ひてゐる。


 真実は、これと程遠く、この分野の医学は、そうしたお年寄りとその御家族の期待に応えられるところまでは全くもって到達してゐない。それにも関わらず、テレビの「健康番組」は、最初に病気について不安をあおり、それから医学ぬ対する過大な期待を抱かせるといういつもの番組作りを繰り返し、お年寄りとその御家族を神経内科外来に殺到させている。何と罪作りな事だろう、と私は思ふ。



 医学は無力である。そう言ってはいけないのであれば、医学は、少なくとも、テレビの健康番組が伝えるほどすごい物ではない。医学の現実とそれを伝えるマスコミ報道の間には大変な差が有り、アルツハイマー病をはじめとする痴呆性疾患では特にその差が大きい。MRIなど、この領域の疾患を診断する上では、実はそれほど役に立たないし、「ボケ」に対する薬も、まだ、人々が期待するほど劇的な効果を示す物は無いと言うのが実情である。少なくとも、今の医学が、こうした問題に対して出来る事は、本当に、極くわずかである。御家族が大変なのはわかるが、これが現実である。



 その一方で、これは、既に両親を亡くした私が自省をこめて言う事だが、老いた親を持つ人々は、もっと親たちの話に耳を傾けるべきであろう。お年寄り達は、本当に、驚くほどよく昔の事を覚えてゐる。その話の中には、それを語る人が居なくなれば失われてしまふ歴史の断片が必ず含まれている筈である。そうしたお年寄り達が語る歴史の光景に耳を傾け、後世に伝へるべく、心に刻むべきではないだろうか。




平成28年(西暦2016年)2月26日(金)
2・26事件から80年目の朝に





                         西岡昌紀




西岡昌紀(にしおかまさのり)1956年(昭和31年)東京生まれ。北里大学医学部卒。内科医(神経内科)。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する/ここがヘンだよホルミシス理論」(リベルタ出版・2014年)他がある。








「STAP細胞=ES細胞」報道のウソを見破れない人々へ

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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8367568.html


(MIXI日記「STAP細胞は本当にES細胞なのか? 」より転載)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1950442104&owner_id=6445842
2016年02月19日12:21



マスコミが、例によって、「STAP細胞は、ES細胞だった」かの様な印象報道をして居ます。


これは、おととし12月の理研の発表の受け売りです。


ところが、この理研の報告は、全くのナンセンスなのです。


何故ナンセンスなのか?以下の説明をお読みください。




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 STAP細胞も、ES細胞も、同じ系統のマウスを使って作製しているとすれば、原則としてSNPが一致するのは当たり前である。
 したがって、それでもなお、同じ細胞と断定するためには、あらかじめ同じ系統のマウスであれば、どの程度SNPが一致するのか、コントロールをとっておく必要がある。そのうえで、FLS3とFES1がそれよりも高い一致率で一致しているのであれば、そのときはじめて両者は同一細胞と断定することができる。
 たとえば、同じ系統のマウスでは99.何パーセントのSNPの一致率だったとする。その場合、FLS3とFES1が99.何パーセントの一致率だったとしても、それは同一細胞の証拠にはならない。せいぜい、遺伝的背景が同一(用いられたマウスの系統が同一)だということの証明にしかならない。したがって、同一細胞であるというためには、もっと高い精度でSNPの一致率を調べる必要がある。


(佐藤貴彦(著)『STAP細胞 残された謎』(パレード・2015年)148ページ)
http://www.amazon.co.jp/STAP%E7%B4%B0%E8%83%9E-%E6%AE%8B%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%AC%8E-Parade-books-%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6/dp/4434212273/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1452562919&sr=8-2&keywords=%E4%BD%90%E8%97%A4%E8%B2%B4%E5%BD%A6


佐藤貴彦(さとうたかひこ)名古屋大学理学部卒 著書:『ラカンの量子力学』など
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「STAP細胞はES細胞だった」と言ふ話は、こんな低レベルなガセネタでしかないのです。



それが分からない人は、もう一度大学に入り直すべきです。



いや、高校に入り直して、高校の生物を勉強し直すべきです。





2016年2月19日(金)








西岡昌紀(内科医)






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■小保方さん「参考人聴取」 弁護士が一転して「私も立ち会った」と認める
(弁護士ドットコム - 02月18日 17:52)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=149&from=diary&id=3858158




元理研研究員の小保方晴子さん(32)が警察に任意で参考人聴取されたとの報道をめぐり、弁護士ドットコムニュースの取材に「事実ではない」と否定していた小保方さんの代理人・三木秀夫弁護士は2月18日、一転して「参考人の一人として事情を聞かれた」と認めた。




STAP細胞の研究をめぐっては、理研の元研究員が昨年1月、理化学研究所の別の研究室からES細胞が盗まれたとする刑事告発をおこなった。三木弁護士によると、小保方さんはその参考人の一人として、兵庫県警から任意の事情聴取を受けたという。三木弁護士は「日時と場所については控えたいが、私も立ち会って説明した」と話した。






三木弁護士によると、この参考人聴取では、兵庫県警との間で「マスコミに一切公表しない」という事前の約束があったという。ところが、2月17日夜からマスコミ各社が「捜査関係者」からの情報として一斉に報じはじめた。三木弁護士は同日夜、弁護士ドットコムニュースの取材に「事実ではない」と完全否定したが、実際は小保方さんの聴取がおこなわれていた。






なぜ、三木弁護士は「報道は事実ではない」とコメントしたのか。三木弁護士は、弁護士ドットコムニュースの電話取材に対して、こう回答した。






「まさか約束が破られると思っていなかったので、情報の出どころがわからず、いったん報道を否定した。ほかの参考人について情報が出ていない状況であり、しかもマスコミが殺到することは避けたかった。こんなことになるんだったら、事情聴取に協力することはなかった。ひどい話だと思っている」






三木弁護士はさらに、「そもそも、持ちだしたとされるES細胞が入ったサンプルボックスは、若山(照彦)氏が山梨大に移る際に、同氏から移動させるよう指示されて、理研の小保方研で引き継いだものだ」と説明した。






そのうえで、(1)理研の調査委員会が混入した可能性があるとしたES細胞と、持ちだされたとされるES細胞は別のものだった(2)持ちだされたとされるES細胞は小保方氏の研究とまったく関係がなかった(3)持ち出されたとされる時期には、STAP細胞の研究の大半は終わっていたと強調し、「小保方氏には動機すらない」と疑惑について否定していた。



(弁護士ドットコムニュース)



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