西岡昌紀のブログ

内科医西岡昌紀(にしおかまさのり)のブログです。日記の様な物ですが、過去に書いた小説、単行本の文章、雑誌記事、ネット上の文章、などもここに収録する予定です。

2016年05月

アメリカ人が原爆に対する日本人の感情を理解できない理由

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http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8469879.html




アメリカ人が原爆に対する日本人の感情を理解できない理由





      1.或るフランス人の言葉




 2年前、広島を訪れた。本当に久しぶりだった。数えてみると、30年ぶりの広島だった。原爆ドームは、もちろんそのままである。だが、平和資料館をはじめとする関連施設は変わっていた。そして、印象的だったのは、外国人旅行者がとても多かった事である。近年の日本への関心の高まりと円安などの影響なのだろう。原爆ドーム周辺には、驚くほど多くの外国人旅行者の姿が見られた。そんな多くの外国人旅行者を目にして、私は、その時から数えて30年以上前、或る人物が口にした言葉を思ひ出した。それは、或るフランス人医師の言葉である。
 1980年代の初めの夏、夫人と二人で広島を訪れたそのフランス人は、広島を訪れた直後、私にこう言ったのである。
「自分には、日本人の原爆に対する感情が理解できない。」
 彼は、次の様な事を口にした。
「広島の博物館(平和祈念資料館を指す)に行ったら、日本人の男性が、自分たちに展示の内容を説明してくれた。ところが、その日本人男性が着ているシャツには、AMERICAと言う文字があった。」
そして、彼は、次の様な意味の事を言ったのである。--日本人が原爆について語るのを聞いていると、そこにアメリカに対する憎しみや怒りが感じられない。一体何故なんだ?--
 すると、横にいたスウェーデン人の医学生はこう言った。
「もし、誰かがパリに原爆を落としたら、100年は憎しみが消えないだろうね」彼のその言葉に、そのフランス人医師はうなずいた。
 この二人のヨーロッパ人が言った言葉は、今も忘れる事ができない。彼らから見ると、日本人は、原爆を落とした国に対して、全く憎しみを抱いて居ないと映るのである。もちろん、全てのヨーロッパ人がそう観察するとは限らないだろう。だが、それから後も、私は、外国人たちが、広島・長崎への原爆投下について日本人が持っている感情について、「不可解だ」と言うような気持ちを持っている事に気が付く事がしばしばあった。
 注目すべき事は、当の日本人の多くが、この事に気がついていない事である。多くの外国人は、日本人が原爆について抱いている感情に接すると、上述のフランス人と同様、アメリカへの憎悪が驚くほど乏しい事に驚くのである。それどころか、日本人が、原爆について話す中で、自国(日本)を批判するような言動をする事が少なくない事に、彼らは本当に驚かされているのである。このパーセプション・ギャップは、戦後の国際社会における日本人の立場にも影響を及ぼしているのではないか?と私は感じている。


                     2.被爆者たちの戦後



 実は、私自身が、広島と長崎で原爆投下の日を体験した生存者たちの心理について、不思議な気持ちを持ち続けて来た一人なのである。原爆生存者たちの回想を読むと、或る事に気が付く。それは、生き延びた被爆者たちが、戦後、自身が被害者であるにも関はらず、自らを責め続けて来たと言ふ事実である。原爆を落とした者たちを、ではない。被爆した自分たちを、なのである。広島でも、長崎でも、自ら原爆の被害に遭った生存者の多くが、戦後、原爆が投下された日を回想する中で、自分自身を責め続けて来た。その事に、私は、不思議な気持ちと、そして深い悲しみの気持ちを持ち続けて来たのである。


 原爆が投下されたその日、広島で、或いは長崎で、助かった人々は、原爆で命を落とした人々に対して、深い罪悪感と呼ぶべき感情を抱いて来た。彼らは、その罪悪感と共に、戦後を生きて来たのである。

 あの時、自分は、火の中で助けを求めてゐた人々を助ける事が出来無かった、大やけどを負った自分の家族を助けられなかった、等。生存者たちは、自分にはどうしようも無かった原爆の残酷さについて、アメリカをではなく、自分自身を責め続けて来たのである。或る時、その事に気が付いた私は、この事に衝撃を受けた。


 言ふまでも無く、彼らには、もちろん何の罪も無い。しかし、生存した被爆者の多くは、あの日、誰かを救えなかったと言った理由で、自らを責めながら、戦後を生きて来たのである。又、中には、自分が死ななかったと言ふだけの理由で、自分を責め続けた人々も少なくないと、私は感じてゐる。それは、被爆者たちの回想を読めば、誰もが感じるに違い無いのだが、私は、原爆それ自体の残酷さはもちろんであるが、生き残った被爆者たちの多くが、この様に、何の罪も無い自分たちを責め続けて戦後を生き続けなければならなかった事に、原爆のもうひとつの残酷さを見ずに居られないのである。


 私は、或る時、出版物やマスコミで取り上げられる被爆者の証言や回想は、出版社やマスコミの人間の意向によって「選別された」物なのではないか?と考えた事が有る。アメリカへの怒りや憎しみを語る証言、回想が、余りにも少ないからである。だから、活字に成った被爆者たちの証言や回想は、必ずしも、被爆者たちの多数派の本心ではないのではないか?と、疑ったのである。

 この疑問は、今も持ち続けてゐる。しかし、或る時、私は、広島出身の若者に、この疑問をぶつけてみた事が有った。だが、その若者は、私の疑問を明確に否定した。彼は、彼が広島で出会った被爆者たちは、実際、皆、そうした自責の感情に支配されて居ると言ふ意味の答えをして、被爆者たちは、出版物で伝えられて居る様な感情を持ち続けて居ると、断言したのであった。彼によれば、これは、マスコミや出版物におけるバイアスではなく、本当に、被爆者の本心だと言ふのである。その若者の答えを聞いて、私は、ますます暗い気持ちに成った。被爆者たちは、あの日、炎の中で助けを求める人々を救えなかった、と言った理由から、自分たちを責め続けて来た。原爆を投下したアメリカよりも、原爆の被害者である自分たち自身を責め続けて、戦後を生きて来たのである。だが、この事をアメリカ人は、そして、世界の人々は知らないのである。


3.炎の中の母親


 ここで読んで頂きたい一文が有る。これは、71年前の8月6日、広島に原爆が投下された時、倒壊された家の下で、迫り来る火災の炎に包まれた幼い子供たちが直面した、余りにも残酷な運命についての記述である。


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「・・・一緒に『お母ちゃん、お母ちゃん・・・』と叫ぶと、お母ちゃんの声がしたから、その方向に向かって屋根板とか瓦礫を必死になってはいだ。ようやく体の一部が見えるようになったが、柱や壁が押さえつけていて、どうしても助けることができない・・・・・・・(中略)・・・・・・・いよいよ火が迫ってきて、母親のところまでじりじりと焼けはじめたと。焼かれながら苦しみの中で、お母ちゃんが言うのに『早く逃げなさい、早く逃げないとあんたたちまで焼け死んでしまう・・・・・』そう叱り飛ばされるように言われても、それでも子供たちはそこを離れようとしなかったが、もう熱くていたたまれなくなったので、二人は泣きながら逃げたそうです。」

(江成常夫(著)『記憶の光景・十人のヒロシマ』(小学館文庫・2005年)26~28ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%AE%E5%85%89%E6%99%AF%E3%83%BB%E5%8D%81%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%83%9E-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B1%9F%E6%88%90-%E5%B8%B8%E5%A4%AB/dp/4094051511/ref=sr_1_6?ie=UTF8&qid=1436432612&sr=8-6&keywords=%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%81%AE%E5%85%89%E6%99%AF

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 毎年、8月6日が来る度に、私はこの一文を思ひ出す。そして思ふ事は、原爆による火災の炎が迫って来た時、自分たちの母親を炎の中に残して逃げなければならなかったこの子供たちが、戦後、どの様な人生を生きただろうか、と言ふ事である。


 想像するのが余りにも辛い事であるが、この子供たちは、戦後、それぞれの人生を生きる中で、この日、母親を火の中に残して逃げなければならなかった記憶に、どれだけ苦しめられた事だろうか?そして、毎年、8月6日が来る度に、どんな思ひをして、その日を過ごした事だろうか。私は、それをただ想像するだけであるが、言ふまでも無く、これは、広島と長崎で起きた無数の悲劇のひとつでしかないのである。想像して欲しい。それだけ多くの人々が、この子供たちと同様の記憶を抱いて、「戦後」を生きたのだろうか。




4.「生存者の罪悪感」


 私は、心理学者でもなければ精神科医でもない。(ただの内科医である)だが、71年前、原爆の惨禍を目撃し、体験した人々の言葉を読む内に、そうした生き残った被爆者たちには、ある心理的傾向が特徴的に見られるのではないか?と思ふ様に成った。それは、生き残った被爆者たちに最も顕著な心理的特徴は、アメリカへの憎悪ではなく、この様な被爆者たちの自責の感情であると言ふ事である。


 こうした感情は、心理学の用語で「生存者の罪悪感(survivors'  guilt)」と呼ばれる物であると、私は考える。この「生存者の罪悪感(サヴァイヴァーズ・ギルト)」と呼ばれる心理的傾向は、自然災害や事故、犯罪などの犠牲者にもしばしば見られる物である。例を挙げれば、阪神大震災(1995年)や、東日本大震災(2011年)の生存者にも、認められる物であるが、私は、広島、長崎の生存者たちには、この「生存者の罪悪感」が、事の他強いのではないか?と言ふ気持を持ってゐる。

 被爆者たちが、自分たちの原爆体験について語る時、アメリカへの憎悪を語る事が少ないのは、被爆者たちが抱くこの「生存者の罪悪感」が、余りにも強い為だと、私は思って居る。痛ましい事である。その日、自分が助けられなかった人々の声が脳裏に残って消えない為に、被爆者たちは、原爆を落とした者たちの事など考える精神的余裕が無かったのである。

 第二次世界大戦は、世界の多くの場所で、多くの人命を奪った。そして、生き残った人々に深い精神的傷痕を与えた。だが、そうした世界中の戦争被害者の中でも、広島と長崎の原爆生存者たちは、他の戦争被害者と比較して、この「生存者の罪悪感」が、ことの他強かったのではないか?と、私は考えて居る。


 そうした被爆者たちの「生存者の罪悪感」は、原爆を直接体験した人々だけではなく、戦後、原爆について考え続けた日本人の多くにも影響を与えて居ると私は思ふ。例を挙げれば、こうの史代さんの劇画『夕凪の街・桜の国』(双葉社・2004年)は、戦後、広島に生まれ育ったこうのさんが、被爆者である女性とその家族を描いた名作であるが、その中で、広島に原爆が投下された日、苦しむ人々を救えなかったその若い女性が、「生存者の罪悪感」に苦しみ続け、その罪悪感から、恋をする事も出来ないと言ふ逸話を描いて居る。又、井上ひさし氏の戯曲『父と暮らせば』(1994年)にも、そうした「生存者の罪悪感」から人を愛する事に躊躇する女性が描かれて居る。更には、黒澤明監督の晩年の作品『八月の狂詩曲』(1991年)にも、被爆者の「生存者の罪悪感」が隠れたモチーフではないか、と思はせられる部分が有る。この様に、広島、長崎の被爆者たちが戦後抱き続けて来た「罪悪感」は、被爆者たち自身だけの物ではなく、戦後、広島と長崎の出来事を記憶し、伝えようとして来た日本人たちに共有されて来たと言へそうである。それは、なかば無意識に共有された感情であるが、私は、そこに、死者に対する日本人の深い思ひ入れの精神的土壌を見る。




5.アメリカ人が理解できない日本人の感情

 

 

 もちろん、被爆者の感情は多様である。又、日本人一般の原爆に対する感情も多様である。だが、それでも、一般的な傾向として述べるならば、冒頭で紹介したフランス人医師が気付き、不思議に思った通り、日本人の原爆についての感情は、世界の人々が想像するものとは違い、驚くほど憎悪を欠いた感情なのではないかと、私は思う。

 フランス人だけではない。原爆を投下したアメリカの人々は、日本人が原爆に対して抱いている感情を更に理解できずにいるように思われる。たとえば、こんな逸話がある。

 

 

 

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 ・・・・・筆者もよく知るE氏という人物がいる。彼はアメリカの保守運動とも親しい付き合いがある。あるアメリカ軍の情報将校が来日して、「アメリカは広島と長崎に原爆を落としたから、日本人はさぞかし怨みを持っているんだろう?」とE氏にしつこく聞いたそうだ。E氏は「そんなことはない」と否定したが、彼は納得がいかないらしく、日本のいろいろなところへ行っては同様の質問を日本人に投げかけてみた。彼は「アメリカに原爆を落として、報復してやろうという考えはないか?」と聞き歩いたが、日本人は右の人から左の人まで誰もがそれを否定した。
 その結果、彼は日本人に対して不信感を持つにいたった。そこでE氏が、「実は、われわれはアメリカを怨んでいる。本当は原爆をつくって、ニューヨークかロサンゼルスあたりに一発落としてやりたいと思っている」と冗談を言ったら、そのアメリカ人は怒るどころか、E氏の両手を握り、「日本に来て、本当のことを言ってくれたのはあなただけだ」とものすごく感謝したという。これが、今のアメリカ人の常識であり、真剣に日本の核武装を論議するアメリカと、論じることをタブーにしている日本との驚くべきギャップなのである。



(藤井厳喜『NHK捏造事件と無制限戦争の時代』(SOWA・2009年)384ページ)
http://www.amazon.co.jp/NHK%E6%8D%8F%E9%80%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A8%E7%84%A1%E5%88%B6%E9%99%90%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%E8%97%A4%E4%BA%95%E5%8E%B3%E5%96%9C/dp/4862860370/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1383704216&sr=8-1&keywords=%EF%BC%AE%EF%BC%A8%EF%BC%AB%E6%8D%8F%E9%80%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A8%E7%84%A1%E5%88%B6%E9%99%90%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3


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 これが、日本人の原爆に対する感情について、アメリカ人が考えている事である。私自身、1980年代の事だが、アメリカの或る精神科医が、夫人と二人で日本を旅行した際、広島では、自分たちがアメリカ人である事を隠した、と言うのを聞いた事が有る。この愛すべき精神科医夫妻は、大の日本びいきで日本中を旅行していたのだが、広島に行く時だけは、とても緊張したと、私に真剣な顔で言った。そして、広島の公園で、偶然アメリカ人の若い女性に出会った際、その若いアメリカ人女性に、「どこの国から来たと言うのがいいだろうか?」と相談したと言う。するとその若いアメリカ人旅行者は、「広島では、私はスウェーデン人だと言う事にしている」と言ったので、「それはいい考えだ!」と思い、広島では、夫婦でスウェーデン人を名乗っていたのだと言う。その精神科医夫妻が、そんな事を真面目に話すのを聞いて、私は、アメリカ人は、こんなにも原爆を意識しているのかと驚かされた。そして同時に、アメリカ人が、原爆に対する日本人の感情を全く理解していない事に驚いた経験がある。

 藤井氏が紹介して居るアメリカの情報将校も、このアメリカ人精神科医夫妻も、良識あるアメリカ人である。そして、彼らのこうした逸話は、苦笑すべき逸話に違いない。だが、アメリカ人のみならず、外国人たちが、これほどまでに、日本人の原爆に対する感情を理解していない事を日本人は知っているだろうか?と、思ふのである。


6.死者との対話


 『こころ』は、今年、没後100年を迎えた夏目漱石(1867-1916)の代表作と呼ぶべき小説ある。『こころ』は、部分的には、漱石自身の自画像とも思はれる謎の知識人「先生」が、若き日に親友を裏切って恋を成就さものの、その事で良心の呵責に苦しみ続け、明治天皇の崩御とそれに続いた乃木大将の殉死に触発されて、自死するまでの過程を主題にした小説である。その終はり近くにける先生の言葉を引用する。
 

 

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 私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月(まいげつ)行かせます。その感じが私に妻の母の看護をさせます。そうしてその感じが妻に優しくして遣れと私に命じます。私はその感じのために、知らない路傍の人から鞭(むちう)たれたいとまで思ったこともあります。こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭たれるよりも、自分で自分を鞭つ可(べ)きだという気になります。自分で自分を鞭つよりも、自分で自分を殺すべきだという考が起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。
 私がそう決心してから今日(こんにち)まで何年になるでしょう。・・・・(中略)・・・・・・
 死んだ積りで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺激で躍り上がりました。然し私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否や、恐ろしい力が何処からか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私に御前は何をする資格もない男だと抑え付けるように云って聞かせます。すると私はその一言(いちげん)で直(す)ぐたりと委(しお)れてしまいます。しばらくして又立ち上がろうとすると、又締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他(ひと)の邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷(ひやや)かな声で笑います。自分で能く知っている癖にと云います。私は又ぐたりとなります。
 波瀾(はらん)も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。


(夏目漱石(著)『こころ』(新潮文庫・2015年)320~322ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%A4%8F%E7%9B%AE-%E6%BC%B1%E7%9F%B3/dp/4101010137/ref=sr_1_fkmr2_1?ie=UTF8&qid=1436414888&sr=8-1-fkmr2&keywords=%E6%BC%B1%E7%9F%B3%E3%80%80%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E3%80%80%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%80%80%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%95


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 私には、先生のこの言葉が、広島、長崎の被爆者たちの戦後の自責の感情に重なって見える。いや、被爆者のみならず、あの戦争を体験した日本人の多くが共有した戦後の思ひに重なって見える事が有る。--若い読者は、『こころ』を「恋愛小説」ととらえる傾向が強いが、私は、『こころ』は恋愛小説だとは思って居ない。『こころ』は、生者の死者への思ひを主題にした小説なのである。


 毎年、8月が来る度に、私は、『こころ』の末尾の「先生」の遺書を想起する。そして、原爆を生き延びた被爆者のみならず、あの戦争で自らを悲惨な体験をしながら、被爆者たちと同様、「生存者の罪悪感」に苦しみながら戦後を生きて来た人々の心の中を想像する。


 被爆者たちの、そして多くの戦争体験者が抱き続けた「生存者の罪悪感」は、戦後生まれの私などの想像を超える物であった。それは、時には、盲目的な「平和主義」の温床にも成って来た面が有っただろう。そうした「生存者の罪悪感」から、日本人が、日本の歴史について過剰な自己批判をする傾向に陥った側面は有っただろうし、過酷な国際社会で、日本が生存して行く為には、それが危険である場合も有ると、私は思ふ。



 しかし、死者に対するこうした思いは、日本の精神的土壌と深く結びついたものである。
 極限すれば、日本文化は、「死者の文化」なのである。日本人にとって、死者への思いは、その死者が、生前行なった事の善悪を超えた何かあのである。そうした日本人が死者に対して抱く思ひの深さを、多くの外国人は、理解出来ないのである。

 
そうした人々の思いの深さをアメリカ人を含めた外国人に直ちに理解させる事は至難の業(わざ)だろう。だが、こうした被爆者たちの心の奥を語り、伝えて行く事は、日本と世界の対話にとって重要である。その事を、オバマ大統領の広島訪問は考えさせたと、私は思ふ。


(終はり)


 


 

西岡昌紀(にしおかまさのり)

 

1956年東京生まれ。内科医(神経内科医)。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔』(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する」(リベルタ出版・2014年)などが有る。趣味はピアノとクラリネット、外国語。




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若冲の国に生まれて

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若冲展が終はった。



私は、二度見に行った。そして、今まで、自分がいかにこの偉大な芸術家(若冲)を知らなかったかを痛感した。



若冲(じゃくちゅう)は、誰にも似て居ない。もちろん、当時の画家たちから全く影響を受けて居ない訳は無い。だが、「誰にも似て居ない」と言ふのが、私が、若冲について感じる事だ。



彼の芸術はモダンだ。彼が他界して今年で216年に成るが、まるで、現代の生きて居る画家かと錯覚するほど、彼の芸術はモダンだ。



釈迦三尊像をはじめとして、若冲(1716~1800)の傑作の数々をこれだけ一堂に集めた展覧会は初めてではなかったか。



二度とも数十分、行列に並んだ。中には、5時間くらい並んだ人達も居たそうだから、自分は幸運だったが、この行列も、会場に入ってからの混み方も、むしろ嬉しい事だった。



何故嬉しいか?それは、若冲を愛する人がこんなに沢山居る事を目の当たりにしたからだ。



若冲は日本に生まれた。そして、日本でこれだけ愛されて居る。



その事が嬉しかった。



私は、若冲と同じ国に生まれた事を誇りに思ふ。






平成28年(西暦2016年)5月25日(水)







西岡昌紀(内科医)




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日本フィルハーモニー交響楽団 第7回 相模原定期演奏会

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今日の午後、相模大野のグリーン・ホールでラザレフ指揮の日本フィルを聴いた。(日本フィルハーモニー交響楽団 第7回 相模原定期演奏会)


素晴らしかった。考えてみると、日本フィルの演奏会には数えきれないほど行って来た自分だが、ラザレフを聴いたのは初めてだったかも知れない。

前半は、モーツァルトの『フィガロの結婚』序曲に続いて同じくモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番。ヴァイオリン独奏は渡辺玲子さんだった。『フィガロの結婚』序曲は面白いほど速かった。ムラヴィンスキーによるこの序曲も速いが、それ以上だったかも知れない。小気味良かった。



続くモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番が良かった。自分は、渡辺玲子さんと言ふヴァイオリニストに感嘆して居る。演奏会で初めて聴いたのは、昔、サントリー・ホールで、アルブレヒト指揮の読売日本交響楽団がライマンのヴァイオリン協奏曲の日本初演をやった時だったと記憶する。


...

以来、自分は、渡辺玲子さんの演奏を演奏会やCDで聴いて来た。生の演奏では、以前、浜離宮ホールで聴いたブラームスのヴァイオリン・ソナタや、東京文化会館で渡辺さんが都響とショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏した時などが印象に残ってゐる。素晴らしいヴァイオリニストだ。



CDでは、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番やベルグのヴァイオリン協奏曲が素晴らしい。世界のどこに出しても通用する最高のヴァイオリニストだと思ふ。今日は、その渡辺玲子さんが弾くモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番を聴いた。いぶし銀の様な素晴らしいモーツァルトだった。



渡辺玲子さんは、何を弾いても素晴らしい。そして、演奏にむらが無い。演奏会では、いつもコンスタントにいい演奏を聴かせてくれる。むらの有るヴァイオリニストもいいが、やっぱり、このコンスタントな良さがいい。

後半はベルリオーズの『幻想交響曲』。この曲は、ヴェルディのレクイエムと並ぶ日本フィルの十八番かも知れない。だいぶ前から、広上さんが指揮した演奏で日本フィルのこの曲を聴いてゐたので楽しみにして聴きに行ったが、期待以上だった。すごいなあ、日本フィルって。



もちろん、ラザレフも素晴らしかった。聴きながらふと思ひ出したのは、年が知れるが、1967年に(!)小学校5年生だった自分が、東京文化会館で、アルヴィド・ヤンソンス指揮のレニングラード・フィルが演奏する『幻想交響曲』を聴いた時の事だった。あれは、凄かった。子供心に、クラシック音楽の凄さを感じさせられた演奏会だった。


もしかすると、ロシアの指揮者とこの曲は相性がいいのかな。

これから、ラザレフが日本フィルを振る時は、なるべく行こうと思った。いい休日に成った。





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