西岡昌紀のブログ

内科医西岡昌紀(にしおかまさのり)のブログです。日記の様な物ですが、過去に書いた小説、単行本の文章、雑誌記事、ネット上の文章、などもここに収録する予定です。

2017年01月

阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件--22年目の冬に

*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8728423.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958380825&owner_id=6445842
http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/753.html



あれから、22年が経ちました。


阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件からです。


阪神大震災は、22年前(1995年)の1月17日の早朝起こり、6000人を超える人々の命を奪ひました。


又、マルコポーロ廃刊事件は、阪神大震災と同じこの年の1月17日(日)に発売された文藝春秋社の月刊誌「マルコポーロ」が、私が寄稿した記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)へのシオニスト団体からの抗議を切っ掛けに、同年1月30日(月)、同誌の突然の廃刊決定に至った事件です。


この二つの出来事は、私にとって、不可分の記憶と成ってゐます。


その為、毎年、1月17日が来ると、私は、阪神大震災が起きたあの日の事を思ひ出すと同時に、その日から1月30日のマルコポーロ廃刊までの時間を思ひ出します。



(関連する記事「マルコポーロ廃刊事件」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html



特に、阪神大震災が起きた直後、当時、厚生省直轄の病院に勤務して居た私が、震災当日に、当時の私の病院院長に、被災地に行って医療活動に参加したいと申し出たのにも関はらず、院長からその許可が下りず、神戸からの報道を見ながら、関東で空しい時間を送らざるを得なかったあの時の焦燥感が心に蘇るのを、毎年この時期、私は、どうする事も出来ません。



(関連する記事:「医師たちは何故足止めされたのか?--阪神大震災の時、厚生省は何をしたか」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7760795.html


(関連する記事: 厚生省は何故国立病院職員の現地派遣を遅らせたのか?
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6253936.html





今年は、何故か、特にその気持ちが強かったのですが、その間に、私は、当時の或る雑誌記事を読み返しました。


それは、ジャーナリストの江川紹子さんが、阪神大震災発生とマルコポーロ廃刊の後、月刊『創』に寄稿した記事でした。


その冒頭を引用し、御紹介します。



-----------------

 明石市から被災地に入って、毎日少しずつ移動しながら8日目に西宮市に到着した。もちろん今回の阪神大震災の取材のためである。1月30日、今回の取材日程も最終日となった日の午後3時頃のことであった。携帯電話が鳴った。「突然ですが・・・」聞こえた文藝春秋社の月刊誌『マルコポーロ』のKデスクの声は暗く深刻だった。「マルコが廃刊となりました。今売られている号で最終号です。次号は出ません」「ウソでしょう。なぜ・・・」
 ユダヤ人のホロコーストを巡る記事が問題になって、ユダヤ人の団体から抗議を受けたとのこと。交渉中だったが、会社が廃刊を決め、それが産経新聞に出るという話だった。青天の霹靂とはまさにこのことだ。
 確かに私も問題の記事を読んで、疑問を抱いた。「こういうのを一方的に、無批判に出していいのかなあ」という思いもあった。ユダヤ人団体が抗議するのは当然と思いつつも、廃刊という結論だけを通告された身になってみれば、唖然とするばかりであった。なにしろ私は、『マルコポーロ』に掲載するために、震災の取材をしていたのだ。
 
(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号110ページより)

-----------------


江川さんが書いておられる様に、江川さんは、阪神大震災が発生した直後、被災地に急行し、毎日少しずつ移動しながら、現地の悲惨な状況を取材して居ました。その江川さんが、取材開始から8日目の1月30日、突然、電話で知らされたのが、御自分が取材して居る震災の状況についての記事が掲載される予定だったマルコポーロ誌が廃刊と成った言ふ知らせだったのです。



周知の通り、文藝春秋が、マルコポーロの廃刊を決定した理由は、私が寄稿した記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)に対するアメリカのシオニスト団体サイモン・ヴィーゼンソール・センター(SWC)からの抗議とそれによる影響が深刻化したから、とされて居ます。(本当の理由は、他に有ったとする説も有ります)


いずれにしても、同年1月30日(月)、文藝春秋社はマルコポーロの廃刊を発表し、それから大騒ぎが始まる訳ですが、この廃刊事件が、阪神大震災の発生直後に起きた為、被災地を取材して居た江川さんは、御自分の取材が無に成ると言ふ辛い目に遭ひます。


その悔しさを江川さんは、この記事の中で、こう書いてゐます。



-----------------

 廃刊とするにしても、その顛末をきっちり読者に報告してからやめるのが、読者への礼儀だろう。
 しかも、責任は他の筆者や読者に対してだけではなく、取材協力者に対してもある。私の場合、被災者たちに「次号の『マルコ』に掲載する」として取材している。中には「次号の『マルコ』を買うからね」と言ってくれた被災者もいた。私はもちろん送るつもりでいたのだが、「家がなくなったので、雑誌が出るころにはどこにいるか分からないから」と言われた。また、対策で多忙な中「『マルコポーロ』ならいいですよ」とインタビューに応じてくれた首長もいた。そういう人々への責任をどう考えているのだろうか。
 私は、住所がわかっている人たちに対しては手紙を書いて、せっかく協力してもらったが、それを掲載できないことを伝えた。しかし、伝えることができない被災者たちがいる。私はその人たちに申し訳なくてたまらない気持ちなのだが、文藝春秋社の幹部たちにはその思いはわかってもらえなかったようだ。田中社長の口から、とうとうそうした協力者たちへのお詫びは出なかった。
 
(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号118ページより)

----------------- 



これを読む度に、私は、本当に辛い気持ちに成ります。


そのマルコポーロの廃刊について、江川さんは、次の様に書きます。


先ず、私が寄稿した記事については、

 
-----------------

  第一に、問題の記事をどう考えるかという点だ。私は前述のように、この記事を支持しない。

(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号113ページより)

-----------------



と、明確に述べて居ます。そして、そう断った上で、マルコポーロ廃刊直後に文藝春秋社とSWCのクーパー師が開いた共同記者会見に出席した際の事を踏まえて、この様に、文藝春秋を批判します。



-----------------

  第二の問題点は、サイモン・ウィーゼンタール・センターのとった、広告ボイコットという手法についての評価だ。(中略)この点についての私の結論を申し上げる。ウィーゼンタール・センターの今回の手法は、民主主義のルールを踏み越えていると思う。クーパー師は「広告拒否という強硬手段は異例なことだった。ボイコットは大変深刻な場合のみである」と述べたが、私はその答えでは納得できない。『マルコ』側は反論の機会を用意していた。(それが同じ号に掲載するべきだったことは前述の通りだが)。『マルコ』に西岡氏の記事の倍のスペースを求めて、同センターが調査したホロコーストの実態を伝えることもできた。あるいは謝罪を求めるにしても、『マルコ』で出された記事については『マルコ』誌上で詫びさせるのがスジだろう。ところが、同センターはなんの交渉もせず、広告主へのボイコット要請を行った。(今私の手元にあるマイクロ・ソフト宛のボイコット要請文書は1月19日付である)。当初から広告による圧力を行ったのだ。仮に文春あるいは『マルコ』編集部の側に交渉の誠意がない場合は、このような強硬手段もやむを得ないだろうが、この場合はそうではない。(中略)確かに、言論の自由は面倒くさい側面がある。分かり切ったことであっても、異論が出た時には、きちんと言論によって反論しなければならない。いちいちそうした手間をかけるのは、時に面倒なものだ。しかしそれは、いかなる内容のものであれ、優秀な独裁者を抱くよりも民主主義を選択している私たちにとって最も大切な原則の一つ言論の自由を守るための、いわば経費である。私たちが惜しんではならない手間ではないだろうか。自由な議論の中で、事実に反する言論は淘汰されていくだろう。

(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号115~116ページより)

-----------------



そして、SWCについては、次の様に、批判します。



-----------------

 ウィーゼンタール・センターの今回の措置は、私にはアンフェアであるのみならず、ユダヤ人に対する漠然とした脅威を感じさせる要因になるのではないかとも危惧している。

(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号117ページより)

-----------------



今読むと、私は、江川さんのこの「危惧」の的確さには驚かずに居られません。そして、更には、江川さんが、この記事において、次の様に予言して居た事に、驚かずには居られません。




-----------------

  今回の事件で、ユダヤ人を巡る問題は完全なタブーになるだろう。前出の木村氏は、西岡氏と同じ立場で単行本を出す予定だが、「新聞広告は出してもらえないし、流通も通常のルートからは拒否されそうな状況」(出版社)という。ホロコースト否定でなくても、ユダヤ人批判は当分マスコミから消え失せるだろう。それがユダヤ人に対する新たな偏見や差別を生む危険は大いにある。同センターとは別に、冷静に(かつ 毅然と)交渉を持とうとしたイスラエル大使館が「これが原因で、強大なユダヤの力によって雑誌を廃刊させたなどといわれ、ユダヤに対する偏見を助長させないかと心配しています」(『週刊現代』に対するコメント)と危惧するのも当然だろう


(江川紹子「『マルコポーロ』廃刊事件で何が問われたか」月刊『創』1995年4月号118~119ページより)
-----------------



事件から22年が経った今、阪神大震災の只中で起きたこの事件について、当時、江川さんが書いてゐたこの記事を読み直すと、私は、江川さんの「予言」が当たってしまった事に驚かずには居られません。そして、その後発生したオウム真理教による地下鉄神経ガス事件(1995年3月20日(月))の記憶と共に、これらの事件が起こった1995年と言ふ年の特異さに戦慄を覚えるばかりです。







平成29年(西暦2017年)1月30日(月)

マルコポーロ廃刊から22年目の夜に





西岡昌紀(にしおかまさのり)








関連する記事



(「医師たちは何故足止めされたのか?--阪神大震災の時、厚生省は何をしたか」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7760795.html


厚生省は何故国立病院職員の現地派遣を遅らせたのか?
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6253936.html



http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html


(「マルコポーロは特攻隊だったんだ」--戦後70年目の訃報)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8724442.html


「火垂るの墓」と阪神大震災
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8720918.html


マルコポーロ廃刊事件から18年--SWCを批判したユダヤ人たち
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6258062.html


アンネ・フランクは何故死んだか?--ユダヤ人大量死の原因は発疹チフスの爆発的発生だった。
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791375.html


「ホロコースト」は何処まで本当か?--「ユダヤ人絶滅」の命令書は発見されて居ない。
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7790102.html


「ホロコースト」は何処まで本当か?--ガス室で殺された死体は一体も発見されて居ない。
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7790027.html


「ホロコースト」は何処まで本当か?--ディーゼル・エンジンの一酸化炭素でガス室を作れるか?
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791247.html


「ホロコースト」は何処まで本当か?--「ガス室大量殺人」の科学的不合理の数々
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791285.html


ダッハウ収容所の謎--「ガス室目撃証言」は信じうるか?
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6736682.html


彼らにとって原爆とは何なのか?(2011年01月30日ミクシイ日記)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5138919.html


或る在日レスラーの言葉(2010年01月30日ミクシイ日記)
http://livedoor.blogcms.jp/blog/nishiokamasanori/article/edit?id=5138892




*




STAP細胞発表から3年目の日に

*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8726712.html



今日(1月27日)は、理化学研究所が、STAP細胞作製成功の発表をして3年目の日に当たります。


周知の通り、この発表の後、当初は小保方さんを持ち上げたマスコミが、手の平を返した様に小保方さんをペテン師呼ばはりするキャンペーンを展開し、STAP細胞は、小保方さんがES細胞を使って捏造した物に過ぎなかった、とする印象報道を展開して行きます。


しかし、今日まで、小保方さんが捏造を行なった証拠は、何一つ提示されて居ません。


それどころか、小保方さんが、自分の担当した実験部分は再現する事に成功して居るにも関はらず、若山教授の担当した部分を理研職員が再現に成功しなかったと言ふ理由で、小保方さんまでがペテン師であったかの様な印象報道を今日まで、マスコミは維持して居ます。


この日に当たって、私は、小保方さんに対する魔女狩り報道を展開した日本の新聞、テレビ、雑誌に、改めて、抗議を表明します。



2017年1月27日(金)





西岡昌紀


------------------------
------------------------
(参考資料)


 小保方さんの間違いは、検証されて批判されるべきである。しかし、彼女を犯罪者のように取り扱うこれまでの多くの報道は、最早、メディアによる個人に対する暴力のレベルに達している。
 そんなマスコミの暴力を目の当たりにすると、ドレフュス事件の時、ドレフュスに対する冤えんざい罪に怒って、エミール・ゾラが述べた「私は弾劾する!」(J'accuse!)という言葉を思い出す。
 STAP細胞の問題などとは全く関係のない当事者のプライバシーなどを、これでもかこれでもかと書いた『週刊文春』など、恥ずかしくないのだろうか?
 繰り返して言うが、私は一介の臨床医に過ぎない。だが、あえて言う。私は一介の臨床医であるからこそ、小保方さんを擁護するのである。
 四月九日の記者会見に現れた時、小保方さんが記者たちの前で語った言葉のなかに、STAP細胞の研究が「誰かの役に立つ」ことを願ってやまない、という言葉があった。彼女が口にした「誰か」とは誰のことだろうか? 病気に苦しむ患者たちである。
 これほどの誹謗、中傷と呼ぶべきマスコミのバッシングを受けながら、彼女は自分は悪者にされてもいいのでSTAP細胞の研究を中止しないでほしい、と訴えたのだった。
 ノーベル医学賞を受賞した山中伸弥教授は、会見でこう述べている。
「iPS細胞は、万能細胞と言われることもあり、今日明日に病気が治ると誤解を与えてしまっているかもしれない。実際は、まだまだ研究が必要な病気が多い。 世界や日本で日夜、研究者が一歩一歩進んでいる。大変な苦労をしていると思うが、(患者さんたちは)希望を捨てずにいてほしい」
 彼女の言葉は、この山中氏の言葉を想起させるものだった。


(西岡昌紀「週刊誌、TVの小保方叩きの異常」(月刊WiLL6月号))

http://web-wac.co.jp/magazine/will/201406_w


-------------------------

「マルコポーロは特攻隊だったんだ」--戦後70年目の訃報

(平成27年(2015年)12月10日(木) ミクシィ日記再録)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8724442.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1948530176&owner_id=6445842#feedback
http://www.asyura2.com/12/social9/msg/629.html



今から20年前の1995年、マルコポーロ廃刊事件と言ふ事件が有った事を御記憶でしょうか?文藝春秋者が発行して居た月刊誌マルコポーロが、私(西岡昌紀)が同誌に書いた記事に対する国内外からの圧力によって廃刊に追ひ込まれた事件です。⇒ http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6696978.html



私が同誌に寄稿したその記事は、「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」と言ふ記事で、題名が語る通り、戦後永く信じられて来た「ナチのガス室」は、実は存在しなかったとする内容の記事です。細部には誤った記述も有りましたが、この結論ーー「ナチ『ガス室』は存在しなかった」に、私は、当時も今も、絶対の自信を持って居ます。第二次世界大戦中、ドイツがユダヤ人を差別。迫害した事は明白な史実です。しかし、そのドイツと言へども、戦後語られ続けて来た様に、(1)ユダヤ人をただユダヤ人であると言ふだけの理由で「絶滅」しようとした。(2)その「絶滅」の手段として処刑用ガス室を作り、ガス室で人々を殺した。とする主張は本当なのか?この二点に限っては何も証拠が無い事、そして、結論から言へば、今日、アウシュヴィッツで公開されて居る「処刑用ガス室」なる物は、戦後、ソ連かポーランドが捏造した物としか考えられない、と言ふのが、この記事における私の主張でした。この記事の掲載を切っ掛けに、内外から文藝春秋社に圧力がかかり、同誌は、記事の著者である私には連絡をしないまま、同誌を廃刊にしました。(この事件と、この記事で私が述べた首長の論拠は、事件から2年後の1997年に私が発表した「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道・1997年)に詳細に述べてありますので、同書をお読み下さい。)


マルコポーロに掲載された私の記事は、こうした記事でしたが、東京に在る大宅壮一文庫が、同年(1995年)、戦後50年の年に当たって選んだ「戦後50年間の雑誌記事10選」において、、私のこの記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)を、戦後50年間に日本の雑誌に掲載された全ての記事10本のひとつに、第7位の記事として、選んでくれた事は、誇りを持って申しあげておきたいと思ひます。(第一位は、立花隆氏の「田中角栄・その金脈と人脈」(文藝春秋・1974年)でした、)



今年は、このマルコポーロ廃刊事件から20年目の年でした。



そのマルコポーロ廃刊事件について、語って来なかった逸話は沢山有るのですが、今日、ここで、そのひとつを書こうと思ひます。



マルコポーロが廃刊と成り、花田紀凱(はなだかずよし)同誌編集長が解任された直後の事です。東京千代田区の文藝春秋本社に、ひとりの作家が現はれました。その作家は、(禁酒して居たと聞いて居たのですが、)その日、大酒を飲み、顔を真っ赤にして、文藝春秋を訪れ、マルコポーロの編集者の一人に面会を求めました。



その編集者が喜んで面会すると、その作家は、真っ赤な顔で、こう言ったのだそうです。



「マルコポーロは特攻隊だったんだ」



つまり、マルコポーロが「ガス室神話」と言ふ戦後永く信じられて来た作り話に体当たり攻撃を決行し、自らを犠牲にして、この空母(「ガス室」)に大打撃を与えた、と言ふ意味です。



その作家は、野坂昭如(のさかあきゆき)氏です。



野坂氏は、永く、お酒を絶っておられた様でした。しかし、マルコポーロが廃刊されて間も無いその日、禁を破って(?)、酒で顔を真っ赤にし、花田編集長に面会を求めて、文春に現れたのでした。




マルコポーロ廃刊事件が起きるまで、1年近くに渡って、私の問題提起に真剣に耳を傾け、この問題(「ナチのガス室」は本当に存在したのか?)を検討する為の研究会を立ち上げる為に援助をして下さったのが、野坂氏でした。 



野坂氏は、私がワープロで書いたパンフレットを知人の言論人から入手し、「ナチのガス室」が、実は存在しなかったのではないかとする私の主張の論拠を知って、私に面会を求めて来られました。そして、その年の或る日、私は、初めて野坂氏にお会ひしました。 




「虐殺をしたと言ふなら、その死体をどう処理したのか、を語るべきだ」と、初めて新宿のホテルで会った夜、野坂氏は言ひました。そして、餓死した自分の妹さんの事に触れ、「どのように殺したのか、どのように死体を処理したかをきちんと説明するべきだ」と強く言った事が忘れられません。「虐殺」と言ふような話を軽々しく語るな、と言ふ意味だったのだと思ひます。



その日の出会ひを切っ掛けにして、私は、野坂氏と度々お会ひする事と成りました。その過程で、私は、野坂氏の真剣さに、本当に圧倒される思ひがしました。




1994年の事でしたが、野坂氏は、本当に真剣に、私の意見を聴いて下さいました。そして、「ナチのガス室」は作り話だと確信した野坂氏は、私に、「『朝まで生テレビ』で自分(野坂氏)がこの事を言ってしまおうか」と言った事も有りました。生放送ならば、誰にも制止出来ない、と言ふ意味です。



その後、野坂氏は、研究会の為に場所を提供して下さり、マルコポーロに私の記事が掲載される以前の数ヶ月間、多くの助言をして下さいました。



その過程で、私は、野坂氏と何度も会ひ、「ホロコースト」の問題のみならず、実に色々な事を野坂氏と語り合ひました。神戸の空襲の事も、栄養不良で命を落とした妹さんのお話も聞きました。そして、マルコポーロ最終号の発売日(1995年1月17日)と同じ日に起きた阪神大震災について、震災が起きたその日都内で会った私に、「虫の知らせだったんだ」と言って、震災直前に、コラムで「神戸に地震が起きたら・・」と書いて居た事を、私に熱い言葉で語って下さいました。



今日、野坂先生の訃報を聞いて、阪神大震災の日に、マルコポーロ最終号が発売されたのは、偶然だったのだろうか?と、私は思ひました。




野坂先生の御冥福をお祈りします。






平成27年(2015年)12月10日(木)




西岡昌紀





-------------------

「火垂るの墓」野坂昭如さんが死去、直木賞作家&タレントでも活躍。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=84&from=diary&id=3752920





「火垂るの墓」などで知られる直木賞作家の野坂昭如さんが、12月9日に亡くなったことがわかった。85歳だった。




野坂さんは1930年に神奈川・鎌倉で生まれ、戦後に上京。7年間在籍した早稲田大学第一文学部仏文科時代にCMソング、コント、テレビ台本などの執筆を始めた。1967年に「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞受賞。同年には歌手デビューも果たしている。



1983年には参議院選挙に出馬し、比例代表で当選。しかしその半年後に衆議院選挙に出馬するため辞職し、新潟3区で田中角栄と票を争ったが及ばず落選した。

テレビ番組にも多数出演し、タレントとしても活躍したが、晩年は脳梗塞を発症し在宅介護を受けていた。





「火垂るの墓」と阪神大震災

*
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8720918.html
http://www.asyura2.com/15/jisin21/msg/745.html
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1958133321&owner_id=6445842




阪神大震災から、22年が経ちました。



その22年目の日に当たる今日、ふと、思ひ出した事が有ります。



22年前の今日(1995年1月17日)、私は、東京で、作家の故・野坂昭如(のさかあきゆき)氏にお会ひして居ました。



或る会合で御一緒する目的で、銀座でお会ひしたのですが、二人で食事をしながら、その日起こった阪神大震災について、野坂氏から、驚くべき話を聞いたのです。



野坂氏は、「あれは、虫の知らせだったんだ。」と言ひました。



それは、当時、野坂氏が執筆してゐた、或る週刊誌のコラム(記憶では、週刊文春だったと思ひます)についてです。野坂氏に依ると、野坂氏は、阪神大震災が起こる少し前に、自分が書いてゐたその雑誌コラムに、「神戸は地震に備えるべきだ。」と書いてゐたと言ふのです。



周知の通り、野坂氏は、「火垂るの墓」の作者です。



「火垂るの墓」は、野坂氏の実体験に基づいて書かれた物語であり、戦争中から終戦直後の神戸の状況と、その中で、若き日の野坂氏が、飢餓に苦しみ、命を落とした自分の妹さんの死を語った作品です。ですから、その「火垂るの墓」の舞台であった神戸は、野坂氏にとって、特別な場所でした。



その神戸について、阪神大震災が起こるほんの少し前(数か月前、と野坂氏は言った気がします。)、野坂氏は、自分が担当してゐるコラムで、「神戸は、地震に備えるべきだ」と書いてゐたと言ふのです。



野坂氏は、興奮して居ました。そして、その事を「虫の知らせだったんだ。」と言って、私に語って聞かせてくれたのです。



今日、阪神大震災から22年目の日に、22年前の今日、野坂氏が私に言った「虫の知らせ」と言ふ言葉を、私は思ひ出しました。





平成29年(西暦2017年)1月17日(火)
阪神大震災から22年目の日に





西岡昌紀(にしおかまさのり・内科医)



(関連する記事)

医師たちは何故足止めされたのか?--阪神大震災の時、厚生省は何をしたか」)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7760795.html


---------------------


■阪神大震災から22年 遺族らが各地で犠牲者を悼む
(朝日新聞デジタル - 01月17日 06:06)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4387619


 6434人が亡くなった阪神・淡路大震災は17日、発生から22年を迎え、各地で遺族らが犠牲者を悼んだ。


 神戸市中央区の東遊園地では午前5時から「1・17のつどい」があった。「1995 光 1・17」の形に並べられた約7千本の竹灯籠(どうろう)に火がともされ、発生時刻の午前5時46分、遺族や市民らが黙禱(もくとう)した。


 神戸市の自宅が全壊し、妻の裕美子さん(当時32)を亡くした大鳥居慎司さん(58)=大阪府和泉市=が遺族代表としてあいさつ。「震災から22年、これだけ経つと、歴史の世界になってしまう。でも私にとっては歴史で済ますことはできない。夢の中でも妻に会って、これまでの話を聞いてもらいたい」と語った。


 兵庫県西宮市の西宮震災記念碑公園や同県淡路市(淡路島)の北淡震災記念公園などでも、参加者らが祈りを捧げた。

記事検索
プロフィール

西岡昌紀

カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ