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            三つのチーク県の民謡


                201


    富樫健一郎先生

    謹啓 盛夏の頃、富樫先生におかれましては、御多忙な
   日々をお送りの事と拝察致します。
    さて、悲しいお知らせをさせて頂きます。母孝江は、去
   る7月29日、闘病の末、入院していた仙台の病院で他界
   致しました。享年52歳でした。
    富樫先生には、生前、母がお世話になり、更に、この冬
   には、お忙しい中、遠路東京から、この寒い土地に母をお
   見舞い頂きました。その際には、御挨拶すべきところを御
   挨拶もせず、大変失礼致しました事をお詫び申し上げます。
   そして、先生の温かいお気持ちに、娘として、心より御礼
   申し上げます。本当に、ありがとうございました。
    その先生のお見舞いと励ましにも関わらず、母は、他界
   致しました。ここに先生の生前の母への御厚情の数々に厚
   く御礼を申し上げるとともに、母の他界のお知らせが遅れ
   ました事を深くお詫び申し上げます。
    母は、最期まで、癌と闘い続けました。先生がお見舞い
   に来て下さった頃には、既に、体のあちこちに癌が転移し、
   末期的な状態にありましたが、それでも、母は、病気と闘
   う事をやめようとしませんでした。母は、これまで、多く
   の患者さんに病気と闘うようにと言って励まして来た自分
   が、病気から逃げる事はできないのだ、と私に言っていま
   した。その言葉通り、母は、抗癌剤による治療をやめよう
   とはしませんでした。しかし、そう言う一方で、母は、自
   分が、最終的には、癌に負けると知っていたと思います。
   母は、自分が、最終的には癌に負けると知りながら、癌と
   の闘いをやめようとしなかったように思えてなりません。



                202


    御存知でいらっしゃるかもれません。3月に、母は、肺
   炎で入院しました。その肺炎自体は大したことはありませ
   んでした。しかし、その入院中、母の体の中で、癌の転移
   が予想以上に広がっている事がわかりました。特に、CT
   で頭を調べたところ、脳に幾つもの転移がある事がわかり
   ました。
    その日の夜、私が病院に行くと、主治医の先生は、私に
   そのCTを見せ、「今日、頭のCTを撮影しました。脳に
   これだけ転移があると、もう絶望的な状況です。お母様と
   の約束で、病状は、すべて隠さずにそのままお話しす事に
   なっています。ですから、このCTも、もうお母様に見せ、
   状況をありのままにお話し申し上げています。」と、おっ
   しゃいました。先生からそうお話を聞いた後、私が、母の
   病室に行くと、母は、いつも通り明るい顔をしていました。
   そして、「来てくれたのね。ありがとう。」と言って、私
   を迎えてくれました。

   平成28年(西暦2016年)11月14日(日)



                203


    私は、何も言えずに母の顔を見つめました。すると、母
   は、不思議そうな顔をして、「どうしたの?」と尋ねまし
   た。私は、何も言えませんでした。そして、何も言えない
   まま、母の前で、ぼろぼろ涙を流しました。すると、母は、
   全てを悟り、ベッドに座ったまま、私を招き寄せました。
    私が近寄ると、母は、微笑みを浮かべて、私を抱きしめ
   ました。私は、何も言えませんでした。そして、母も、何
   も言おうとしませんでした。私は、母の腕の中で泣き、母
   は、その私を無言で抱き続けました。

   平成28年(西暦2016年)11月25日(金)



                204


    その日から、私は、もう母との会話で、病気の事は話さ
   ない事にしました。
    私と母に残された時間はもうわずかです。私は、その残
   された時間を大切にしたいと思いました。その大切な限ら
   れた時間を病気について話す事は、余りにももったいない
   事だと、私は思ったのです。ですから、私は、残り少ない
      母との時間を、母の病気について話すためにではなく、母
   のこれまでの人生について、そして、看護師としての私の
   これからの人生について、話す事に使おうと決めたのです。
    特に、私は、母のこれまでの人生を知りたいと思いまし
   た。と言うのは、母と私に残された時間が残り少なくなっ
   てから、私は、自分が、いかに母の事を知らなかったかに
   気がついたからです。私は、母の事を何も知らなかったの
   です。自分の母親なのに、その母のこれまでの人生につい
   て、私は、本当に、知らない事ばかりだったのです。   

   平成28年(西暦2016年)11月28日(月)



                205


    私は、母と色々な事を話しました。そして、母のそれま  
   での人生について、色々な話を聞きました。母は、自分の
   人生について明るく話し、昔を懐かしがりました。特に、
   自分の子供時代の事や、十代の頃の思い出を話す時の母は
   楽しそうで、余命短い進行ガンの患者だとは思えないほど
   でした。ただし、母にとって、そうした思い出は、震災前
   のこの地域の思い出でもありました。ですから、子供の頃
   の思い出を話すうちに、東日本大震災と津波で失われた町
   や地域のお祭りなどに話が及ぶと、それらの思い出にまつ
   わる光景が、5年前の震災と津波で失われてしまった事を
   意識させられて、暗い表情を見せる事もありました。
 
   平成28年(西暦2016年)12月3日(土)



                206


    特に、津波で犠牲と成った知人や友人を、あるいは、そ
   れらの方たちの犠牲となった御家族を思い出した時、母は、
   本当に暗い表情を見せ、何も言わなくなりました。私は、
   もちろん、そう言う話題は、極力避けました。しかし、こ
   の土地に生まれた母が、自分の子供時代の思い出について
   語ろうとすると、どうしても、それらの人々の記憶を呼び
   起されてしまうのでした。
    そんな時、私は、何も言わずに、母が語る言葉に耳を傾
   けました。何もいわないことが、私にできる唯一の事でし
   た。
    一方で、母は、時に、それらの亡くなった人々を、ただ
   懐かしく思いだしているのではなく、それらの亡くなった
   人々の居る世界に心を惹かれていると思われる事がありま
   した。母は、しばしば、死んだ人々との再会を心待ちにし
   ているような言葉を口にしました。母が、そんな言葉を口
   にする時、私は、本当に、せつなくなりました。しかし、
   そんな自分の感情を顔に出すと、母が、もっと辛くなる事
   はわかっていたので、そんな自分の感情は隠して、いつも、
   明るい顔で、母の思い出を聴くようにしていました。
 
   平成29年(西暦2017年)1月7日(土)



                207


    母が、懐かしく語った思い出のひとつは、花火の思い出
   でした。
    子供の頃、毎年、お盆の頃に、今は津波で流されたあの
   港町で行われていた夏の花火を、母は、私に懐かしそうに
   語って聞かせてくれました。
    それは、私も知っている花火大会です。私自身、子供の
   頃、母に連れられて、その花火大会に言った事を良く覚え
   ています。ですから、母と私は、その花火の話を二人で懐
   かしがったのですが、看護師だった母は、私を花火大会に
   連れて行くために、勤務を調整するのに苦労したのよ、と
   も言っていました。
    その夏の花火についての母の思い出は、死んだ人々の思
   い出でもありました。
    その母の思い出にある死んだ人々の中には、私が知らな
   い人々も多く含まれていました。母にとって、その夏の夏
   の花火について話す事は、亡くなった母の祖父母や、叔母
   などを思い出す事でもあったのです。子供だった母を花火
   に連れて行ってくれた祖父母や、母を肩車に乗せて花火を
   見せてくれた祖父の思い出など。
    そんな母の思い出を聞きながら、私は、自分が生まれる
   前のこの土地の事を、そして、自分が会った事のない、既
   に死んだ人々の事に思いを馳せました。
    今、この世に生きているのは、ほんのわずかな人々です。
   それよりも、はるかに多くの人々が、死者の世界にいるの
   です。私は、その事を、母の話から知ったのでした。
   
   平成29年(西暦2017年)1月9日(月)



                208


    ある時、母は、こんな事を言いました。
   「私は、死んだ人たちが、本当は、どこかに居るような気
   がするの。」
    私は、母を見ました。しかし、母は、私を見ませんでし
   た。母は、前を見たまま、独り言のように、言葉を続けま
   した。
   「不思議ね。死んだとわかっていても、死んだ人たちが、
   みんな、本当は、どこか遠い所に居て、今に、ここに戻っ
   て来るような気がするの。」
    私は、何も言いませんでした。
   
   平成29年(西暦2017年)1月10日(火)



                209


    母は、言いました。
   「きっと、又、会えるのよ。」
   私は、何も言わないまま、母の顔を見つめました。
   「死んだ人たちとは、又、会えるのよ。そして・・・」
   母は、そう言って、微笑みました。
   「昔の事を楽しく語り合うのよ。」
    そう言うと、母は、何処か遠くをみつめました。
   


                210


    母は、そして、こんな事も言いました。
   「人だけではない気がするわ。昔見たすべての物が、何処
   かにそのまま残されている気がするの。死んだ人たちだけ
   ではなくて、遠い昔の光景も、きっと、何処かに残されて
   いると思うのよ。お母さんが子供だった頃のこの辺りの風
   景も、遠い昔のこの土地の風景も、何処かにそのまま在る
   ような気がするの。死んだら、そんな懐かしい景色をもう
   一度見たり、遠い昔の風景を見れるような気がするの。子
   供の頃に見た花火も、震災前の街並みも。」
    私は、母の言葉を何も言わずに聴きました。

   平成29年(西暦2017年)1月26日(木)



                211


    母は、宗教を信じては居ませんでした。しかし、母は、
   死が近づく中で、このように、死んだ人たちと再会する、
   と言った事をしばしば口にしました。母が、そんな事を口
   にする時、私は、いつも聞き役でした。それは、死にゆく
   母が、死後の世界を信じるようになったのだとしたら、私
   は、母の言う事に疑問を投げ掛けたりしてはいけないと思
   ったからです。残された時間が少ない死にゆく母にとって、
   死後の世界を信じる事は、母に残された唯一の希望なのだ
   と、私は、思いました。ですから、私は、いつも、聞き役
   となって、母のそんな言葉をただ聞くだけにしていたので
   す。しかし、或る日、私は、母にこう尋ねました。
   「お母さんは、いつから、そう言う事を考えるようになっ
   たの?」
    私は、母の言う事に疑問を投げ掛けたのではありません。
   そうではなくて、ただ本当に、特別宗教も持たない母が、
   いつから、そんな事を信じるようになったのか、知りたい
   と思ったからでした。すると、母は、こう言ったのです。
   「お母さんね、会いたい子が居るのよ。」
    私は、母が言ったその言葉の意味がわかりませんでした。
   すると、母は、続けて言いました。
   「昔、東京の病院で小児科の病棟に居た頃にね、死んだ白
   血病の女の子が居たのよ。」
    そう言って、母は、黙り込みました。

   平成29年(西暦2017年)1月28日(土)



                212


    それは、日曜日の夕方の事でした。病室の窓の向こうに、
   素晴らしい夕焼けの光景が広がっていました。
    「どんな子だったの?」と、私は尋ねました。
   すると、母は、こう答えました。
   「寂しがり屋だったわ。」
    母は、微笑みながら、そう答えました。
    私が、母からその女の子の話を聞いたのは、それが初め
   てでした。
   「病院の個室にずっと居て、他の子たちと遊べなかった
   のよ。でも、少し良くなって、クリスマスの前に個室から
   出してあげたの。でも、そうしたら、何日か後に急変した
   の。」
    母は、そう言って、窓の外の夕焼けを見つめました。そ
   して、その女の子が急変した時、富樫先生が、本当に必死
   で、その子を助けようと、蘇生した事を私に語って聞かせ
   ました。


                213


    私は、なぜか、その女の子の事が気に成りました。そし
   て、母にその子の事を尋ねました。
   「何て言う名前の子だったの?」と、私は尋ねました。
    すると、母は、夕日を見つめていた目を私に向けて答え
   ました。
   「千恵ちゃんていう子だったの。『千と千尋の神隠し』の
   千に、恵むと言う字よ。」
    母は、そして、こう言いました。
   「お母さんは、その子と或る約束をしたの。でも、その約
   束は守れなかったわ。」
    母は、そう言って、再び、夕日を見つめました。
   「だから、千恵ちゃんに会ったら、謝らなくちゃいけない
   わ。」
    私は、母の言葉の意味がわかりませんでした。
   「約束って?」と、私は尋ねました。



                214


    母は、何も言わずに微笑みました。そして、しばらくそ
   うして何も言わずにいました。しかし、私が、それでもな
   お母の答えを待っているのを見ると、静かに言いました。
   「千恵ちゃんは、私に、治って見せるって、約束したの。」
    母は、言葉を続けました。
   「だけど、千恵ちゃんは、その約束を守ってくれなかった
   わ。」
    母は、そう言って、寂しく微笑みました。そして、こう
   言いました。
   「でも、お母さんも、千恵ちゃんにある約束をしたの。そ
   して、その約束は守れなかったわ。」
    母は、独り言を言っているように見えました。
   「だから、千恵ちゃんに会ったら、謝らなくちゃいけない
   のよ。」
    母のその答えに、私は、「どんな約束をしたの?」と、
   尋ねました。
    すると、母は、夕日を見て答えました。
   「それは、秘密よ。」

   平成29年(西暦2017年)2月4日(土)



                215


    母は、それきり、何も言おうとしませんでした。そして、
   何も言わないまま、窓の外の夕日をじっとみつめ続けまし
   た。
    私は、その時、母に、その女の子の事をそれ以上尋ねる
   事はしませんでした。けれども、その時、母が語り掛けた
   その亡くなった女の子の事が、病院を後にした後も、気に
   掛かり続けました。


                216


    それから数日後の事でした。夜、私が、仕事を終えて、
   母の病院に行くと、母は、イヤフォンで、何かを聞いて居
   ました。私が来た事に気がつくと、母は、イヤフォンを外
   して、微笑みました。私も微笑みました。母は、「今来た
   のね。」と言って、私を迎えました。私は、母に、「何を
   聴いていたの?」と尋ねました。すると、母は、パソコン
   を閉じて、こう答えたのでした。
   「富樫先生が、家に来た時、弾いてくれた曲よ。」
    母の口から、富樫先生の名前が出たのは、久しぶりの事
   でした。それで、私は、少しどきっとしました。すると、
   母は、続けて、こう言いました。
   「死んだ千恵ちゃんが好きだと言った曲なのよ。」  



                217


    母は、外したイヤフォンを手にして、私に、「聞いてご
   らんなさい。」と言いました。
    私は、うなずいて、イヤフォンをつけました。そして、
   パソコンの画面にあるその曲の題名を見ました。それは、
   先生が、冬にこちらにいらした時、母の前でお弾きになっ
   た「三つのチーク県の民謡」という曲でした。



                218


    私が、その曲を聴いたのは、それが初めてでした。聴き
   終わると、私は、イヤフォンを外して、母の顔を見ました。
   「この曲を、千恵ちゃんは好きだと言ったのよ。」母は、
   そう言いました。そして、続けて、こう言ったのでした。
   「子供って素晴らしいわ。」
    私は、母の顔を見ました。
   「こんな曲がわかるのよ。」母は、そう言って、私の顔を
   見ました。
    私は、音楽の事はわかりません。でも、その曲を聴いて、
   何て悲しい音楽だろうと、思いました。そして、美しい、
   とも思いました。でも、同時に、難しい曲のようにも思い
   ました。それで、その時、私は、その曲について、何と言
   っていいのか、わかりませんでした。すると、母は、こん
   な言葉を口にしたのです。
   「私たちは、幸せだわ。」
    私は、母の言葉の意味がわかりませんでした。
    すると、母は、こう続けました。
   「私たちは、今もこうして、自分の生まれ育った土地に居
   られるわ。」
    そして、更に、
   「生まれ育った故郷に居られるのだから、私たちは幸せな
   のよ。神様をうらんじゃいけないわ。」と、言ったのでし
   た。
    私は、黙ったまま、母の顔を見つめました。

   平成29年(西暦2017年)2月6日(月)



                219


    私には、母が不意に口にしたその言葉の意味がわかりま
   せんでした。と言うより、母が、私たちは幸せだと言った
   理由がわかりませんでした。すると、黙っている私に、母
   は言いました。
   「富樫先生が言ってたわ。」
    母は、先生のお名前を口にして、言いました。
   「この曲を書いた人は、故郷に帰れなかったそうよ。」
    その時、母は、病室の宙のを見つめていました。
   「故郷を思いながら、外国で一生を終えたそうよ。」
    母のその言葉は、娘である私に、母の死が近ずいている
   事を意識させずにはいませんでした。私は、何と言えばい
   いのか、わからなくなって、黙り込んでしまいました。  

   平成29年(西暦2017年)2月7日(火)



                220


    私は、母と、死について話をする事はできませんでした。
   母は、真近に迫る自分の死を驚くほど冷静にみつめていま
   した。そして、すでに書いたように、自分の死について、
   しばしば語りました。しかし、娘である私は、その母と、
   もう真近に近ずいていた母の死について語る事などできま
   せんでした。また、母の死のみならず、母の死を連想させ
   る誰か他の人の死についても、母との会話の中で口にする
   事はできませんでした。
    私は、母が、自分の死であれ、誰か他の人の死であれ、
   死について語る時は、ただ黙って、母の言葉を聞くだけで
   した。
    この時も、例外ではありませんでした。私は、母が口に
   したその異国で死んだその作曲家の死について何かを言お
   うとはしませんでした。誰の死であれ、死期が迫った母と
   の会話で、死について話をする事は、できなかったのです。
    代わりに、私は、白血病で亡くなったその子が好きだと
   言ったその曲を作曲したのは、何という作曲家なのか?と
   言った当たりさわりのない事柄に話題をそらしました。
   「その曲を作曲したのは、何ていう人?」と、私は、聞き
   ました。すると、母は、「バルトーク」と答えました。

   平成29年(西暦2017年)2月8日(水)



                221


    私は、その作曲家の名前を聞いた事がありませんでした。
   それで、「どこの国の人?」と、母に尋ねました。母は、
   「ハンガリーよ。」と答えました。
    母は、それから、そのハンガリーの作曲家が、若い頃、
   祖国の民謡を記録するために、色々な土地を旅行した事、
   それらをピアノの曲にして残した事、それから、その作曲
   家が、晩年、アメリカに渡ったものの、不幸な生活をし、
   貧困と病気の中で、世を去った事などを、私に語って聞か
   せてくれました。そして、その作曲家は、遠く離れた自分
   の祖国を、故郷を、思いながら死んだのだろうと、言いま
   した。
    私は、驚きました。私は、母は、クラシック音楽につい
   て、そんなに知識も関心も無いと思っていたからです。そ
   の母が、そのバルトークと言う作曲家について、そんなに
   色々な事を知っている事は、私にとって、驚きだったので
   す。
   「この人は、自分の国を愛していたのよ。」と、母は言い
   ました。
   「外国で、自分が生まれ育った故郷の風景や、昔、旅先で
   聴いた自分の国の歌を思い出しながら、死んだのよ。」
    母は、そう言って、口を閉ざしました。

   平成29年(西暦2017年)2月9日(木)



                222


    その日、病院を後にして、家に帰る道で、私は、母がそ
   の名を口にしたこの作曲家の事を検索して読みました。そ
   して、母が言った通り、このバルトークと言う作曲家が、
   晩年、亡命したアメリカで白血病にかかって闘病生活を送
   った事、アメリカで、祖国ハンガリーを思い続けた事など
   を読みました。
    それらの逸話を読みながら、私は、母は、癌にかかり、
   死に直面する自分自身とこの作曲家の晩年を重ねているの
   だと思いました。そして、更には、遠い異国の地で、自分
   が失った故郷の風景や音楽を思い続けたこの作曲家と、東
   日本大震災で、故郷の人々と愛する風景を失った自分を、
   母が、心の中で、重ねている事に、気が付きました。

   平成29年(西暦2017年)2月16日(木)



                223


    「私たちは、幸せだわ。」と、母は言いました。
   「私たちは、今もこうして、自分の生まれ育った土地に居
   られるわ。」
    母は、東日本大震災で、多くの物を失った私達が、それ
   でも幸せだと言ったのです。私は、母は、本当にそう思っ
   たのだと思います。故郷を思いながら、遠い異国で死んで
   行った作曲家と自分を心の中で重ねる内に、母は、自然に
   そう思うようになったのだろうと、思います。母のそんな
   言葉は、私を辛い気持ちにさせました。



                224


    母は、原発事故の事も考えていたと思います。御存知の
   通り、私たちの住む町では、原発事故による避難はせずに
   すみました。しかし、福島第一原発事故の後、住み慣れた
   故郷を後にし、今もその故郷に戻れない人々が多くいます。
   母は、その方たちと自分を較べていたのだと思います。母
   は、たとえ癌をわずらっても、故郷に居られる自分は、避
   難を余儀なくされ、今も故郷に戻れない人々よりも、幸せ
   だと、思ったのでしょう。
    母が口にした「私たちは、幸せだわ。」と言う言葉には、
   原発発事故で被災し、故郷を思い続けている人々への母の
   そんな感情もあったに違いありません。母の心の中では、
   異国で故郷の風景と歌を思い続けたバルトークと、原発事
   故で故郷に戻れずにいる人々が、重なっていたのではない
   でしょうか。
    
   平成29年(西暦2017年)2月17日(金)



                225


    バルトークについて、その会話を交わした日まで、母の
   容体は比較的良好でした。しかし、その翌日から、母は、
   体調を崩したのでした。母は、食事が取れなくなりました。
   そして、「体が、ものすごくだるい。」と言いました。
    数日後、母は、「息苦しい」と訴えるようになりました。
   主治医の先生がレントゲンを撮ると、それ以前から、すで
   にあった母の右側の肺の胸水が、増えている事がわかりま
   した。それが、母が訴える息苦しさの原因でした。主治医
   の先生は、少し迷った後、穿刺をして、胸水を抜きました。
   すると、母の息苦しさは軽くなりました。
   「ああ、楽になったわ。」と、母は言いました。母は、そ
   う言って、私を見ました。母は、微笑んでいました。思え
   ば、母が、私に母らしい笑顔を見せたのは、それが最後だ
   ったように思えます。


    

                226


    私は、主治医の先生から、母の状態について、話を聞き
   ました。先生は、もうまったく悲観的な状況だとおっしゃ
   いました。そして、「今後は、お母様の苦痛を緩和する事
   を最優先にしましょう。」とおっしゃいました。私も、同
   じ意見でした。それで、その日から、母に投与されるモル
   ヒネの量は増え、服薬の内容も変更され、ただ母が苦しま
   ない事だけを目的にした治療だけが続けられる事に成りま
   した。その結果、母の苦痛は、一定程度緩和されたと思い
   ます。その代わり、母は、薬の作用で、終日朦朧とした状
   態になりました。
    
   平成29年(西暦2017年)3月2日(木)



                227


    母は、それまでしていたような会話ができなくなりまし
   た。
    母は、半ば眠っているような状態でした。呼びかけると
   目を開けて返事をするものの、簡単な会話しかできなくな
   りました。母をがんの苦痛から救うためには、仕方の無い
   事でした。しかし、その代わり、私は、母と今までのよう
   には会話ができなくなったのでした。私は、病院に来ても、
   ただ、母の横に座っているだけの時間が多くなりました。
   そして、意識が朦朧となった母の表情を見守り続けました。



                228


    私は、もう、このまま、母と話ができなくなるのだろう
   かと思いました。すでに書いたように、私は、もっと、母
   の事を知りたいと思っていました。私を生んでくれた母の
   事を、もっと知りたい。母の口から、母のこれまでの人生
   について、もっと聞きたいと思っていました。しかし、そ
   の母の意識は、朦朧となって、それまでのように私と会話
   をする事が、できない状態になって行ったのでした。
    私は、自分は、母について、もうこれ以上知る事ができ
   ないまま、母との別れを迎える事になるのだろう、と思い
   ました。残された時間も、もうわずかになり、もう、母に
   ついて、これ以上、知る事はできないのだと自分に言い、
   あきらめる事にしました。
        しかし、そうして、母の事を知りたいと言う自分の気持
   ちを捨てようとすると、私は、ますます、自分が、母の事
   を何も知らなかったと思うようになりました。そして、特
   に、母の人生におけるある事柄について、もっと知りたい
   と言う気持ちが強くなって行くのをどうする事もできませ
   んでした。
    それは、富樫先生の事です。母が、富樫先生に出会い、
   先生を愛した日々の事を、私は、母が死ぬ前に、母の口か
   ら、もっと聞きたいと、思ったのでした。  



                229


    母からお聞きになられたと思います。先生が、今年の冬、
   母をお見舞い下さるために、こちらにいらっしゃる直前、
   私は、富樫先生の事を知りました。母は、私に、富樫先生
   の事を語って聞かせ、その方が、ここに来る事になったの
   よと、言いました。私が、富樫先生の事を知ったのは、そ
   れが初めてでした。
    私は、驚きました。母が、離婚した父と出会う前に、他
   に愛した男性が居た事にではありません。そうではなくて、
   私が生まれるずっと前に、母が愛した男性が、母の事を忘
   れずに居た事に驚いたのです。そして、その男性が、母を
   見つけ、小児科のドクターとして多忙を極める中、東京か
   ら、はるばる私たちの家まで来て下さる事に、驚かされた
   のでした。正直に言えば、私は、母が突然語った富樫先生
   の話に、頭が混乱したと言うのが、本当のところでした。
    私は、何も言う事ができませんでした。すると、母は、
   微笑みました。そして、「みんな、昔の事よ。」と言って、
   笑ったのでした。
   

                230


    「ピアノがとても上手な先生なの。」と、母は言いまし
   た。
    「あなたに紹介できるのが嬉しいわ。」と言って、母は、
   私を見つめました。
   「一緒に、その先生のピアノを聴きましょうよ。」
    母は、そう言って、その日、母が納戸から出して飾った
   雛人形たちに目をやりました。
     
   平成29年(西暦2017年)3月3日(金)
   雛祭りの晴れた日に



                231


    私は、母を訪ねてやって来るその先生に、一目お会いし
   たいと思いました。母の昔の恋人であるその人は、一体、
   どんな方だろうと言う気持ちで、一杯になりました。
    しかし、その一方で、母と富樫先生には、二人だけで話
   したい事が沢山あるに違い無いとも思いました。
    母の昔の恋人である富樫先生が、多忙な中、わざわざ東
   京から来る理由は、ただひとつだと思いました。母の病気
   です。御自分の御家庭があり、かつ、休日も十分に休めな
   い小児科の先生が、今、東京からこの土地にやって来られ
   るのは、母が、進行癌にかかっているからに違いありませ
   ん。その先生は、今、母に会わなければ、もう二度と会え
   ないのではないかと思ったに違いありません。だからこそ、
   今、東京から、母に会いに来る違いありません。当然、母
   も、先生のその思いを理解しているはずです。だからこそ、
   母は、今、先生と会おうとしているに違いありません。
    私は、母と富樫先生が、そんな思いを抱いてで再会する
   場に、自分が居て良いのだろうか?と思いました。
    そこで、私は、本当は、その日は家に居る事ができたの
   ですが、「用事があるわ」と言って、母に、富樫先生には、
   御挨拶だけして、出かけなければならないと、嘘を言った
   のでした。


                232


    私は、母と富樫先生に、二人だけで話をして欲しいと思
   いました。それは、もちろん、母と先生の間には、二人だ
   けで話す事が沢山有ると思ったからです。しかし、その時、
   席を外したいと思った理由が、もうひとつ、ありました。
   それは、富樫先生がおいでになって、母と話をすれば、当
   然、母の病気の話が出るに違いなかったからです。私は、
   それが怖かったのです。
    本当の事を言えば、母の癌との闘いには、ほとんど望
   みがありませんでした。母は、その事をよく知っていまし
   た。しかし、母は、娘の私から希望を奪わないために、癌
   と最後まで闘うと言ったのだと思います。
    母は、看護師になったばかりの私に、希望の大切さを教
   えようとしたのです。母は、病人とともに生きるとはどう
   いう事かを、身をもって、私に教えようとしたのに違いあ
   りません。
    そして、そこには、昔、母が、小児科の病棟で担当して
   いた千恵ちゃんと言う白血病で亡くなった女の子への思い
   があったのではないかと、私は、今、思います。



                233


    本当の事を言えば、私と母は、母の癌との闘いは、望み
   の少ない闘いである事を知りながら、お互いに希望を与え
   合おうとしていた部分がありました。
    母は、私を励ますために、明るく振る舞い、逆に、私は、
   母を励ますために、明るく振る舞い、お互いを勇気づけ合
   っていました。
    それが、富樫先生がいらして、母と母の癌について話を
   する場に同席した場合、今まで通り、母の前で明るく振る
   舞えるかどうか、私は自信がありませんでした。
    私には、母の死を意識させられる会話を聞いて、冷静で
   居られる自信は、とても無かったのです。それで、私は、
   富樫先生がいらしたら、御挨拶だけして、「用事がある」
   と言う理由で、席を外す事にしたのでした。
    母は、「そう。」と言いました。その時、母は、かすか
   に笑っているようでした。私が用事があると言ったのは、
   本当は嘘で、私は、母に気を遣って、出かけようとしてい
   る事を、母は見抜いたようでした。母は、そういう勘の鋭
   い人でしたから。でも、母は、私が、母と富樫先生が、母
   の癌について話すのを聴くのが怖いと思っていた事には、
   気づいていなかったのではないかと思います。


                234


    そうして、富樫先生が、家にいらっしゃる日が、来まし
   た。
    先生が着くと、私は、玄関を開けて、先生をお迎えしま
   した。そして、そこで、玄関の前に立つ先生のお姿を目に
   しました。その瞬間、私は、母が、先生を愛した理由がわ
   かった気がしました。先生が、どの様な方で、どの様な心
   を持った方かが、先生とそこで目が合った瞬間、わかった
   ような気がしたのです。  

   平成29年(西暦2017年)3月4日(土)


                235


    そして、私は、富樫先生が、小児科の先生である事を感
   じました。先生が、子供が好きな方である事と、そして、
   同時に、医療現場で、緊張した毎日を送っておられる方で
   ある事を、お会いした瞬間、感じたのです。私が看護師だ
   からでしょうか。それとも、私が、母の娘だからでしょう
   か。失礼でしたらお許し下さい。でも、先生にお目に掛か
   った時、私は、先生から、そんな印象を受けたのです。


                236


    御記憶の通り、私は、その後、御挨拶をして、家を出ま
   した。そして、図書館に行って本を読んで時間を過ごしま
   した。家に戻ったのは、もう日が沈んだ時間でした。
    家に戻ると、母は、居間に座って、紅茶を飲んで居まし
   た。私が、「ただいま。」と言うと、母は、「お帰りなさ
   い。」
   と言って、微笑みました。そして、雛人形をみつめながら、
   「夕日がきれいだったわ。」と言いました。
   「そう。」と私は言いました。
   「あなたも居れば良かったのに。」母は、そう言って、私
   を見ました。私は、何と言っていいのかわかりませんでし
   た。
   「富樫先生が、ピアノを弾いてくれたわ。」
   母は、そう言って、幸せそうな顔を浮かべました。
   「昔、クリスマス会で弾いた曲を弾いてくれたの。」
    私は、「そう」と言う言葉しか、口にする事が出来ませ
   んでした。
   「あの子が好きだと言った曲も弾いてくれたわ。」そう言
   うと、母は、何も言わずに、ただ前を見つめました。

   平成29年(西暦2017年)3月5日(日)
 

                237


    それから数日後、東日本大震災から5年目の日が来まし
   た。
    震災が起きた時刻に、私は、家には居ませんでした。で  
   すから、母と一緒に5年目のその時刻を迎える事はありま
   せんでした。
    もし、一緒に居たら、辛い思いをしたと思います。母に
   は母の、私には私の辛い記憶があるからです。ですから、
   母と私が、震災が起きた時刻を別々に迎えた事は、良かっ
   たと思います。
    夜になって、私は、家に戻り、母の顔を見ました。母は、
   「お帰りなさい。」と言って微笑みました。それは、まる
   で、5年前の震災と津波が無かったような笑顔でした。
    「あれは、夢だったのだろうか?」と、私は、思いまし
   た。そして、もしかすると、母も、同じ事を思っているか
   も知れないと、思いました。それは、震災が起きた時刻に、
   一緒に居なかったから、持ち得た錯覚だったような気がし
   ます。


                238


    その夜、テレビのニュースは、東日本大震災の事を大きく
   取り上げていました。
    私は、母と二人で、震災を特集するNHKのニュース番組
   を見ました。でも、テレビを見ながら、母も私も何も言おう
   とはしませんでした。
    その東日本大震災に関する番組を見ながら、私は、不意に、
   富樫先生の事を思い出しました。
   「富樫先生は、今日、どうして居ただろうか?」と、私は、
   思ったのです。
    震災から5年目の今日、富樫先生は、被災地に居る私の母
   の事を思い出し、考えたに違い無いと、私は、勝手に考えま
   した。
    そして、富樫先生が、東日本大震災の後、母を探し、連絡
   を下さった事を思い出しました。つまり、富樫先生と母は、
   この震災を切っ掛けにして再会した事を、その番組を見なが
   ら、思い出したのです。
    多くの人々の命を奪ったあの地震と津波が、余命わずかと
   成った私の母に、昔、愛した男性との再会をもたらしたので  
   す。この事実を、どう考えたらいいのか、私は、考え込みま
   した。

   平成29年(西暦2017年)3月6日(月)
 


                239


    母は、東日本大震災で、愛する人々と愛する土地を失い
   ました。そして、母は、癌にかかり、死に対峙していまし
   た。
    その母が、余命わずかとなった時、かつて恋人であった
   富樫先生から連絡を受け、再会したのです。そして、昔、
   小児科のクリスマスで聴いた曲を、富樫先生のピアノで、
   もう一度聴く事ができたのです。
    私は、神様が、そうしたのだろうか?と、思いました。
   東日本大震災を経験した私が、神様は、居るのかも知れ
   ないと、本当に思ったのです。

   平成29年(西暦2017年)3月6日(月)
   平成29年(西暦2017年)3月7日(火)



                240


    それから後の母の経過は、この手紙の最初に書いた通り
   です。3月に肺炎を起こして入院した後、その肺炎自体は
   治りましたが、母の体調は、徐々に、悪く成って行きまし
   た。
    それでも、母は、最期まで、癌と闘おうとしました。そ
   の事における母の姿勢は、確固とした物でした。
    今思うと、母が、そうして、最後まで癌と闘おうとした
   のは、自分のためではなかったのではないか?と言う気が
   してなりません。母の心の内は、母にしかわかりません。
   しかし、私には、母が、最後まで癌と闘う事にこだわり、
   生き続けようとしたのは、あの日、あの地震と津波で命を
   失った人々に対する母の気持ちによるものだったのではな
   いか?と言う気がするのです。
    あの地震と津波で死んだ人々は、どれだけ生きたかった
   事でしょうか。母は、その事をとても意識していました。
   そして、更には、昔、助ける事が出来なかったあの白血病
   の女の子の事も、母の心の中にあった筈です。
    母は、あの震災で命を落とした人々の無念さを、そして、
   昔、助けられなかったあの女の子が、どれだけ生きたかっ
   たか、を知っていました。そして、だからこそ、東日本大
   震災で、命を落とさずに済んだ自分自身について、母は、
   「生存者の罪悪感」と呼ぶべき感情を持っていました。そ
   の「生存者の罪悪感」があったからこそ、母は、自分は、
   癌と闘って生きなければならないと、思ったのだと、私は、
   思うのです。死んだ人々の分まで、自分は生きなければな
   らないのだ、と母は思ったに違いありません。その気持ち
   が、母に、癌との闘いを続けさせたのだと、私は、思うの
   です。


                241


    もしかすると、異国で白血病と闘いながら、作曲を続け
   たと言う、あのハンガリーの作曲家も、私の母が、死者た
   ちに対して持ったのと同じ感情を、故国の死者たちに対し
   て持っていたのではないでしょうか?
    私は、そんな気がします。


                242


    結局、私は、母について、知らない事が沢山あるまま、
   母との別れの日を迎えました。
    お話ししたように、モルヒネを多量に投与されるように
   なって、母の意識は朦朧となり、私は、母と会話らしい会
   話ができなくなりました。そのため、私は、母の人生につ
   いて、聞きたいことを聞けぬまま、母の死を迎える事にな
   ったのでした。
    特に、富樫先生との出会いと別れについて、そして、再
   会について、母の心の奥にある物が何であったのかを知り
   たいと願いながら、それを聴く事が出来ないまま、私は、
   母の死を迎えてしまったのでした。
    人生の最後が近くなった頃、再会した富樫先生に対して、
   母は、どのような気持ちを抱いていたのでしょうか?母は、
   その事を私に言わぬまま、遠い世界へと旅立ってしまいま
   した。

   平成29年(西暦2017年)3月7日(火)


                243


    私が、母と最期に、会話らしい会話を交わしたのは、母
   が亡くなる二日前の事でした。
    その前日、母は、少しですが、状態が良くなりました。
   母の苦痛の訴えは、一時的にではありましたが、軽くなり、
   母は、主治医の先生に、「楽に成りました」と言いました。
    それで、主治医の先生は、その日、モルヒネの投与量を
   少し減らしたのでした。それは、主治医の先生が、毎日母
   を見舞いに来る私が、短い時間でも、母と会話が出来るよ
   うに、母の意識レベルを、元に戻したいと思って下さった
   からだと思います。
    それまで、意識の朦朧とした状態が続いていた母は、そ
   のため、その日は、それまでよりも少しですが、意識がは
   っきりとしました。そして、かろうじてですが、私と会話
   をする事が出来るようになったのでした。
    私は、母が亡くなる直前まで、病院で仕事をしていまし
   た。その日も、日勤で働いた後、日が沈んだ頃、病院に来
   て、母の個室に入りました。すると、母は、ベッドの上で
   座位になって、イヤフォンで何かを聴いていました。ただ
   し、やはり、ぼうっとしていたので、母は、私が来た事に
   は気付きませんでした。


                244


    私は、母が、そのぼうっとした状態で、何を聴いている
   のだろう?と思いました。そして、母の後ろに回り込んで、
   母のイヤフォンが繋がれた、テーブル上の母のパソコンを
   覗き込みました。
    見ると、母が聴いているのは、あの曲だったのです。
   『三つのチーク県の民謡』だったのです。


                245


    私は、その曲名を見つめました。そして、母が、それを
   聴き終わった時、「お母さん。」と、小さな声を掛けまし
   た。
    母は、ようやく、私が来ている事に気がつきました。そ
   して、私を見て、微笑みました。それは、本当に、久しぶ
   りに見た母の微笑みでした。
   「お母さん。」
   「なあに?}
    私は、母に、ずっと聞きたかった事を尋ねました。
   「お母さん、なぜ、富樫先生と結婚しなかったの?」
    母は、やはり、朦朧としていました。ですから、私がそ
   う聞いても、すぐには、答えようとしませんでした。です   
   が、少し考えると、笑いながら、その問いに答えました。
 


                246


    「馬鹿ね。あなたが、生まれなかったじゃない。」
   それが、母の答えでした。
    私は、小さくため息をつきました。そして、母と一緒
   に、笑いました。
    それが、母と私の間の、最後の会話らしい会話でした。
   その二日後、母は、この世を去ったのでした。


    これが、私が、先生にお話しできる母の死までの全て
   です。
    あの日、死に対峙していた母を訪れて下さったことを、
   娘として、もう一度、深く御礼申し上げます。母にとっ
   て、先生がおいでになって、ピアノを弾いてくださった
   あの日は、人生で最後の美しい思い出になりました。
    先生が、これからも、多くの子供達を救う小児科医と
   して御活躍される事を、そして、ピアノを続けられる事
   を、被災地の片隅から、お祈りしております。

                         敬具



  
              (終)
 


   平成29年(西暦2017年)3月8日(水)



(バルトーク『三つのチーク県の民謡』)
https://www.youtube.com/watch?v=lOP3tas-oYA



(『三つのチーク県の民謡』(1)-(143))
http://livedoor.blogcms.jp/blog/nishiokamasanori-alacarte/article/edit?id=65497608

(『三つのチーク県の民謡』(144)-(180))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-alacarte/archives/72711961.html
http://archives.mag2.com/0000249630/20161017181109000.html

(『三つのチーク県の民謡』(181)-(200))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-alacarte/archives/72712038.html
http://archives.mag2.com/0000249630/20161113133321000.html

(『三つのチーク県の民謡』(201)-246))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-alacarte/archives/72712082.html

(『三つのチーク県の民謡』(あとがき))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-sakura1/archives/28898086.html



        『三つのチーク県の民謡』 Web目次


(『三つのチーク県の民謡』(その1))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9470299.html

(『三つのチーク県の民謡』(その2))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9472301.html

(『三つのチーク県の民謡』(その3))
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9472302.html

(『三つのチーク県の民謡』あとがき)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9472303.html



以下は、まぐまぐのバックナンバーです。

(『三つのチーク県の民謡』(1)-(60))
http://archives.mag2.com/0000249630/20160512192804000.html

(『三つのチーク県の民謡』(60)-(100))
http://archives.mag2.com/0000249630/20160725211402000.html

(『三つのチーク県の民謡』(101)-(143))
http://archives.mag2.com/0000249630/20160916121358000.html

(『三つのチーク県の民謡』(144)-(180))
http://archives.mag2.com/0000249630/20161017181109000.html

(『三つのチーク県の民謡』(181)-(200))
http://archives.mag2.com/0000249630/20161113133321000.html





                  西岡昌紀(にしおかまさのり)


  (この小説は、フィクションであり、実在の人物、団体、出来事とは
   一切関係が有りません。又、登場人物の独白、発言は、作者の見解
   とは無関係です。この小説の著作権は、作者(西岡昌紀)の全ての
   作品と同様、執筆開始から現在まで、常に、一貫して、作者である
   西岡昌紀に有ります。(この作品の著作権が、一時的にも作者以外
   の個人、企業、などに移動した事は、全く有りません)批評、批判
   の為の引用は自由ですが、この作品の概要または部分を他の小説、
   詩、随筆、日記、紀行文、劇画、映画、ドラマ、戯曲、ゲーム、
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