1.「ベルリンの壁崩壊」から30年


 今日は、11月9日である。「ベルリンの壁」崩壊(1989年11月9日)から30年目の日である。(この日が、1938年11月9日の「水晶の夜」と同じ日であった事は、何と言う「偶然」だろうか。)
 この日をもって、「冷戦」が終結したと見る見方が多いが、その「壁崩壊」後、世界は、そして日本は、どれだけ変わっただろうか?特に日本は、あの日から30年を経て、どれだけ変わったと言えるだろうか?私は、ベルリンの壁崩壊後の世界で、日本だけが変わらなかった様な気がするのである。「壁崩壊」の翌年、ドイツは再統一された。続いて、湾岸戦争(1991年)が起きた。そして、ソ連は崩壊した。「壁崩壊」後の30年、世界は大きく変わった。だが、日本は、バブル崩壊の衝撃は有ったものの、政治的には、ドイツとは対照的に、何も変わらないまま、この30年を送ったと言うのが、真実ではないか?と、思うのである。特に、この30年間に、憲法改正が全く行われなかった事は、異常な事ではなかったか?と、私は思うのである。憲法が、中でも憲法9条が、ベルリンの壁崩壊後の30年間、全く手つかずのままであった事は、この間の国際情勢の激変を考えれば、まさに、異常な事である。
 その一方で、もうひとつ気に成る事は、その「壁崩壊」を経て再統一を果たしたドイツとの関係において、日独両国の間に、感情的な距離が広がった様に感じられる事である。特にマスコミがそうで、この30年間に、ドイツのマスコミは、反日的傾向を異常なまでに深めたと言うのが、私の印象である。一方、日本では、特に、保守系のマスコミが、ドイツについて、必要以上に否定的な報道を増したと、私は感じて居る。これは、私だけの見方ではなく、例えば、ドイツに永く暮らすクライン・孝子さんは、こんな事を書いて居る。

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 「日本人の多くがデマゴーグやプロパガンダにめっぽう弱く、この種の情報戦というべきワナを仕掛けられても、気が付かないで簡単にはめられてしまう。これまさに、武器を手にとって戦うだけが戦争と信じ込まされてきた日本の平和ボケ戦後教育のせいであり、戦争には武力戦と切っても切れない情報戦があることを見落としてきたからだ」。これはつい最近二年ぶりに再会した鮮烈な国際情報戦の前線にあって某外国諜報機関の一員として主に日韓情報専門工作戦争に携わっているW氏の溜息交じりの弁である。
 その典型的な例として、W氏はここ数年、日本で吹き荒れている『ドイツ嫌い』旋風を挙げ、「あの一連の反ドイツ・フィーバー現象こそが、現在の日本を如実に示している、これなど、第二次世界大戦後、すでに七十年余経た今日においてさえ、連綿と継承されてきた戦勝国による日独離間工作で、これに中国や韓国が一役買って、その背中を押している」と・・・・・。
 そのW氏の現時点における対韓国諜報活動だが、手短に紹介すると「日本に弱体化並びに破壊工作を仕掛ける韓国の対日工作を事前に感知し、『偏向』と『誇張』と『捏造』を巧みに妨害あるいは潰すことにある」という。


(クライン孝子(著)「日本人の知らないスパイ活動の全貌」(海竜社・2018年)66~67ページ)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%85%A8%E8%B2%8C-%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%AD%9D%E5%AD%90/dp/4759316094/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1544173508&sr=8-1&keywords=%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E5%AD%9D%E5%AD%90

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 私は、別に、「親独派」ではない。だが、この30年間に、日独両国の心理的距離が広がった事は、残念な事だと思って居る。そして、何故、そう成ったのかと考えると、思い当たるのは、共に敗戦国である日独両国が、それぞれのタブーによって足かせをはめられ、そのタブーから解放されない事が、両国のマスコミを制約しており、それが、その背景に在るのではないか?と思えるのである。即ち、敗戦国である日独両国には、それぞれの「閉ざされた言語空間」が有り、それが、両国における相手に対する言論、報道を制約し、歪めて居ると、私は、思うのである。そのタブーとは、何か?それは、日本における「憲法」、そして、ドイツにおける「歴史」である。



2.フルトヴェングラーとドイツ国歌


 国歌の話をしよう。先ず、私(西岡)個人は、国歌や国旗に対して、さほど強い思い入れを持つ人間ではない。国歌が演奏されれば、もちろん、立ち上がるし、国旗にも敬意は示すが、国歌や国旗の大切さを余り強調されると、引いてしまう人間である。国旗、国歌は、もちろん、尊重されるべきだが、同時に、強制される事には反対である。もちろん、学校教育の場では、社会の礼儀としての国歌、国旗への敬意は教えられるべきだし、教師が、自分の個人的信条もしくは感情から、その教育の一環としての国旗、国歌への敬意を子供に教えようとしないのであれば、職務怠慢であると考える。だが、成人した大人が、自分の信条、感情から国旗、国歌に敬意を示さないのであれば、感心はしないが、それも表現に自由の一つだと考える。それが、私の、国旗、国歌に対する姿勢である。
 その私が、国歌について、深く考えさせられた事が有った。それは、今から19年前、或る雑誌で、次の文章を読んだ時の事である。第二次大戦後、演奏を禁じられて居たドイツ国歌が、どの様な経緯で、再び演奏される様に成ったかを、その場に居た日本人が回想した一文である。少し長いが、全文を引用するので、読んで欲しい。


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 今から47年前のことです。当時、厚生省の社会保険局庶務課長だった私は、国連の招きで社会保障の勉強のため半年間、ロンドンに滞在する機会を得たんです。あちらに着いて草々、新聞でフルトヴェングラーとベルリン・フィルの来英を知り、一緒に来ていた同僚とふたり、さっそく切符を購入しました。決して音楽通じゃない私でもその名前は知っていましたからね。お金がなかったから買ったのは桟敷席。当時10シリングほどだったでしょうか。
 1953年4月22日、ロイヤル・アルバートホールは満席でした。日本人は我々だけだったでしょう。舞台に姿を現したフルトヴェングラーの顔は異常に青白く、どこか悪いのだろうか、と思ったのを今も覚えています。それから2年もせずに亡くなったのですから、この頃からすでに体を悪くしていたんでしょうね。
 欧米では外来演奏家の場合、まずホストカントリーの国歌、続けて自国の国歌を演奏し、聴衆はそれを起立して聴くのが慣例ですが、いまだ反独感情の根強く残っていたこの時代、ドイツ国家の演奏は禁じられていました。ですから、英国国歌の演奏が終わると聴衆はみな着席し、この日のプログラムの第1曲目を心待ちにしたのです。ところが、フルトヴェングラーの指揮一閃、続いてベルリン・フィルが奏でたのは、「ドイッチュランド。ユーバー・アレス(世界に冠たるドイツ)」でした。いまだ戦禍のあとも生々しい旧敵国に乗り込んでのこの所業、イギリスの聴衆がどんな反応を示すか--。かたずをのんで見守る私の目の前で繰り広げられたのは信じられない光景でした。ホールを埋めた千人以上の聴衆が次々と起立し、ドイツ国歌に敬意を表したのです。私たちも、いつのまにか彼等にならっていました。フルトヴェングラーの毅然たる姿勢、気迫に圧倒されてしまったんです。
 その後、フルトヴェングラーは何ごともなかったかのように、バッハ「組曲第2番」、ラヴェル「高雅で感傷的なワルツ」、シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」、ブラームス「交響曲第2番」のプログラムを予定通り演奏しました。ですが、どんな曲よりも強烈な印象を残したのは、あのドイツ国歌です。
 これはフルトヴェングラーであればこそなしえたことで、他の演奏家だったら、暴動になっていたかもしれません。実際、イギリスの新聞にはフルトヴェングラーの行為、さらにそれを是とした聴衆を批判する論文も掲載されました。
 後にわかったことですが、これが戦後初のドイツ国歌公式演奏だったそうです。クラシック好きの友人は「音楽のわからんお前にだけは聞かせたくなかった」と随分くやしがっていましたね。

(伊部英男(いべ・ひでお/1921年生まれ。財団法人年金総合研究センター理事長))グラモフォン・ジャパン(新潮社・2000年9月号))

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 この回想を読んだ時の驚きは忘れられない。誰もが知る通り、フルトヴェングラーは、20世紀の大指揮者の一人である。だが、第二次大戦中、ドイツを去らず、第三帝国で演奏活動を続けたフルトヴェングラーに対しては、戦後、「ナチへの協力」が指摘され、その名声にも関わらず、彼は、音楽家としての地位が危うい状況に追い込まれて居た。第三帝国の時代、フルトヴェングラーは、彼の演奏活動に干渉したゲッペルスに猛抗議をしたり、ユダヤ人音楽家を庇護した事が知られて居る。それにも関わらず、彼がドイツを去らず、ドイツで演奏を続けた事を快く思わなかった人々は、戦後、彼を「ナチス」に結び付けようとし、「ナチへの協力」を理由に、フルトヴェングラーへの誹謗、攻撃を繰り返した。従って、戦後、この出来事が有った戦後間も無い時期、フルトヴェングラーは、その名声にも関わらず、危うい立場に在ったのである。
 従って、その不安定な立場に在ったフルトヴェングラーが、つい数年前まで敵国であったイギリスで、突然、当時禁止されて居たドイツ国家を演奏して、国歌演奏の禁止を破った事は、驚くべき事であった。事によれば、彼が、戦後ヨーロッパでの演奏の機会を奪われる結果を生んだ可能性も有った筈である。
 それにも関わらず、フルトヴェングラーは、禁を破って、旧敵国(イギリス)の聴衆の前で、ドイツ国歌を演奏したのである。そして、オーケストラのメンバー達も、あらかじめ、フルトヴェングラーが国歌を演奏する積もりである事をを知らされて居た事は、明らかである。彼らは、それほど、ドイツ国歌を演奏したかったのである。たとえ、戦後ヨーロッパの音楽界での地位を失う事に成っても、である。それが、ドイツ国歌の戦後最初の演奏だったのである。


3.二つの敗戦国


 その戦後初のドイツ国歌演奏から、66年の時が流れた。その間、第二次大戦の二つの敗戦国、日本とドイツは、経済的には復興を遂げ、国際社会で、大きな役割を演じて居る。だが、この二つの敗戦国は、それぞれが、敗戦国としてのタブーを足かせとして嵌められたままの状態に在るのではないか?私は、そんな気がして居る。
 興味深いのは、その「タブー」が、戦後の日本とドイツで、違う事である。
 いささか単純化した言い方をお許し頂きたい。戦後、日本では、憲法がタブーに成ってしまった。一方、ドイツでは、歴史がタブーに成った。戦後日本のタブーは「憲法」であり、戦後ドイツのタブーは「歴史」だった、と言う事である。
 その代わり、日本では、歴史の議論は、ドイツに較べれば、かなり自由であった。一方、ドイツでは、憲法を論じる事は自由で、憲法改正が何度も行われて居る。つまり、日本とドイツと言う第二次世界大戦の二つの敗戦国は、「憲法」と「歴史」と言う二つの課題において、両方に自由を持つ事は出来なかったと言う事である。片方を比較的自由に論じる事が出来ると、もう一つはタブーに成ってしまうと言う、まるで、「二つに一つ」の様な状況が、戦後世界には在り、日本では「憲法」がタブーに成り、ドイツでは「歴史」がタブーに成ったと言う事が出来る。これは、何故だったのか?私は、それを考え続けて来た。


4.「過去を支配する者は、未来を支配する」


 「過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者がその過去を支配する」という言葉が有る。イギリスの作家ジョージ・オーウェル(1903~1950)の小説の中の言葉である。この言葉ほど、歴史が持つ統治術としての役割を言い表した物が有るだろうか?
 私は、日独両国の戦後において、日本では「憲法」が、ドイツでは「歴史」が、それぞれのタブーに成った理由は、それが、旧連合国の利益であったからだと考える。即ち、日本人には憲法を自由に議論させない事が、ドイツ人には、歴史を自由に議論させない事が、旧連合国の利益にかなって居たのである。それに対して、戦後日本における「歴史」の議論がそれなりに自由であり、ドイツにおける憲法論議がそれなりに自由だったのは、それが、旧連合国にとって許容可能の範囲に留まる物だったからだろう。もちろん、日本における「歴史」の議論も、決して完全な物ではない。又、ドイツにおける憲法を巡る議論も、無制約された物ではない筈だ。だが、それは、旧連合国が許容出来る領域だったのだろう。日本の場合、日本人が、「南京大虐殺」や「慰安婦問題」を自由に論じても、アメリカやイギリスやソ連の利益を大きく害する物ではなかったが故に、こうした「歴史問題」では、日本は、ドイツでは想像できないほどの言論の自由が許されたのである。そして、日本の(自称)「平和主義者」、(自称)「リベラル派」は、そうした旧連合国の意向を「国際世論」と呼んで来たのである。


5.護憲は、「国際世論」か?


 しかし、それは、これまでの話である。戦後74年間、これまでは、日本人には「憲法」を論じさせず、ドイツ人には「歴史」を論じさせない、事が、旧連合国の利益にかなって居たとしても、その状況は、今、変わり始めて居るのではないか?と私は感じて居る。特に、アメリカには、日本人が「憲法」を論じる事に消極的である事をアメリカの国益と見なすこれまでの「リベラルな」対日観が、必ずしも主流の対日観ではなくなりつつあるのではないか?と、私は感じて居る。
 日本に憲法9条と言う足かせをはめておく事が、アメリカの安全保障に役立つとする考え方は、戦後、永い間、アメリカの「リベラル派」の間では広く受け入れられて居たと思われる。しかし、その「リベラル派」が退潮して居る今、憲法9条によって日本に足かせをはめておく事が、アメリカの安全保障にとて有益だとする見方は、退潮して行くのではないか?私は、そう予想して居る。その時、梯子(はしご)を外される日本の護憲派、(自称)「リベラル派」は、憲法9条を変えない事を「世界の声」だと言い続けるのだろうか?



6.日本の鏡としてのドイツ


 「ベルリンの壁崩壊」が起きるはるか以前に、それを予想して居た日本人が居る。


 先日、他界した長谷川慶太郎氏(1927~2019)である。長谷川氏は、冷戦時代に、東ドイツを訪れ、東ドイツ軍の兵営を訪れると言う稀有な体験をした。


 その際、長谷川氏は、氏を迎えた東ドイツ軍(当時)の将校たちに感謝するスピーチの中で、以下に引用する様な、驚くべき体験をして居る。それを読んで頂きたい。



 (以下引用)
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朝鮮は第二次世界大戦の事後処理として、同一民族でありながら、南北二つの国家に分断され、ついには戦火を交えるという限りない悲劇を味わった。それは、まさに東西陣営の接点であるがゆえの悲劇といえる。  


だが同じような条件下におかれながらも、東西ドイツは、同一民族間で決定的な悲劇を惹き起こすことはなかった。私は東ドイツ外務省とのある折衝のおり、詳細は省くが、偶然、東ドイツ軍の兵営を訪れる機会があり、そこでその一つの理由を見たような気がした。  


現在の東ドイツの総軍事力は戦車二個師団、歩兵四個師団であり、きわめて弱体である。その弱体な東ドイツ軍を二十二個師団のソ連軍が囲んでいる。すなわち、ポーランドと東ドイツの国境に二個師団、東西ドイツ国境を中心としたドイツ国内に二十個師団である。これらはすべて第一級師団であり、ソ連の最精鋭部隊である。  東ドイツ軍は、前も後ろもソ連軍に囲まれ、きちっと押さえられている。つまり、東ドイツにいるソ連軍は二重の役割を持っているのである。一つは、西側に対する進攻作戦の最先頭に立つこと、そしてもう一つは、東ドイツ国民がソ連に対して反乱することを防止する役割である。  


したがって、ソ連は東ドイツに武器の生産を許さず、東ドイツ軍が装備している武器は、すべてソ連製である。だが訓練は、完全に旧ドイツ軍のそれが行なわれており、軍服も階級章も、プロシア軍時代からの伝統を守り続け、ナチスドイツ時代とそっくりそのままであった。しかし、武器以外にただひとつ、ソ連製のものを身に着けていた。それは鉄カブトである。私はこれを見た時、西ドイツの兵士を思い出さざるを得なかった。彼らは、鉄カブトだけが旧ドイツ軍のもので、軍服その他は、完全なアメリカ式だったからである。  


つまり、東ドイツの兵士は頭(鉄カブト)がソ連、体(軍服)がドイツ、西ドイツの兵士は、頭がドイツ、体がアメリカなのである。これに気ずいた私は、東ドイツの将校に対するお礼のスピーチの中で、次のような話をした。


「私たち(日本人)の祖父や曾祖父は、かつて、あなたがた(ドイツ人)のおじいさんたちから学んだ軍事知識をもって、日露戦争でロシア軍を敗退せしめた。まさにドイツ軍の技術、知識そして軍人精神は素晴らしいものであり、われわれの先生である。今日、私はあなたがたの軍隊を拝見し、その伝統が、今なお脈々と受け継がれているのを知り、喜びに堪えない。ただひとつ、不幸なことは、“二つのドイツ”が存在することである。私は、東西ドイツの統一は急がねばならないと確信した。なぜなら、あなた方の姿にその悲願を見るからである。つまり、東ドイツ軍の体と西ドイツ軍の頭を一つにすれば、伝統ある旧ドイツ軍の姿にただちに戻るからである。私は、このような日が一日も早く来ることを祈ってやまない」  
 ソ連軍将校が監視する中での歓迎パーティーであったが、彼ら東ドイツ軍将校たちは、軍靴を床に打ち鳴らして、私の話に応えてくれたものである。東西ドイツ人たちは、ともに民族統一の希望を強く持っている。東ドイツ軍の本当の敵はソ連軍なのである。

 (長谷川慶太郎『総合比較・日本の国防力/なぜ、ソ連は日本を侵略できないのか』(祥伝社・1980年)より)
http://www.amazon.co.jp/%E7%B7%8F%E5%90%88%E6%AF%94%E8%BC%83%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%8A%9B%E2%80%95%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%82%BD%E9%80%A3%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF-179-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E6%85%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E/dp/4396101791/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1415524255&sr=8-1&keywords=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%98%B2%E5%8A%9B%E3%80%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%A4%AA%E9%83%8E

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 これが、東西冷戦の時代に、ソ連支配下の東ドイツで起きた事なのである。即ち、ドイツが東西に分断され、東ドイツがソ連の支配下に置かれて居たあの時代において、東ドイツの軍人達は、長谷川慶太郎氏の上のスピーチに対して、「ソ連軍将校が監視する中での歓迎パーティーであったが、・・・・・軍靴を床に打ち鳴らして、私の話に応えてくれた・・・。」と言うのである。

 これが、ベルリンの壁が存在した時代、壁の東側に居たドイツ人達の「本心」であった。ドイツ国歌の演奏がまだ禁じられて居た1953年に、イギリス人たちの前で、その禁止を破ってドイツ国歌を演奏したフルトヴェングラーとベルリン・フィルのメンバー達と、長谷川慶太郎氏のスピーチに「軍靴を床に鳴らして」氏の話に応えた東ドイツ軍人たちは、全く同じだったのではないだろうか?

 私達日本人は、「憲法」と言うタブーに制約され、平成の30年間を、そして、ベルリンの壁崩壊後の同じ30年間を送った。

 だが、タブーは打ち破る事が出来る。その事を、日本の鏡であるもうひとつの敗戦国は、教えて居ないだろうか?


(終わり)



西岡昌紀(にしおかまさのり)  


1956年東京生まれ 北里大学医学部卒 内科医(脳神経内科) 著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道・1997年)、「教科書が教えない小林よしのり」(共著:ロフトブックス・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(2003年・リベルタ出版)、「放射線を医学する/ここがヘンだよ『ホルミシス理論』」(リベルタ出版・2014年)「短編小説集『桜』2017」(文芸社・2017年)他が有る。 趣味は、数学とピアノ、クラリネット。