http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/9562553.html
http://www.asyura2.com/17/nihon32/msg/198.html




1.「マルコポーロ」廃刊事件

 

「マルコポーロ」廃刊事件(1995年1月)から25年の時が流れた。四半世紀である。この年にあたって、事件の当事者として、あの事件は何であったのか?を2020年の視点で回想してみたい。

「マルコポーロ」廃刊事件は、文芸春秋社が発行していた月刊誌マルコポーロが、私(西岡昌紀)が執筆した記事「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」に対する抗議を切っ掛けに、廃刊となった事件である。その「抗議」には、広告ボイコットと言う手法が含まれていた。事件から25年が経ち、事件の事を知らない若い世代も多いと思うので、まずは、簡単に記事の内容と事件の経過を説明しよう。

記事の内容は、大旨、以下の通りである。――第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を差別・迫害した事は、明白な史実である。しかし、従来の「定説」の主張の内、(1)ドイツは、ユダヤ人をただユダヤ人であると言うだけの理由で「絶滅」しようとした。(2)その「民族絶滅」の手段として、ドイツは、アウシュヴィッツをはじめとする複数の収容所に処刑用ガス室を作り、それらのガス室でユダヤ人ほかの人々を処刑した。と言う二つの主張には証拠が無い。(3)真実は、ナチス・ドイツは、確かにユダヤ人を差別・迫害し、収容所に収容したが、その目的は、ソ連を打倒した後、収容したユダヤ人をソ連領内に強制移住させる事だったのであり、それが、東部戦線におけるドイツの敗退によって不可能になった結果、アウシュヴィッツほかの収容所では衛生状態が悪化し、発疹チフスの大発生を招いた結果、多くのユダヤ人が、悲劇的な大量死を遂げた、と言うのが、歴史の真実である。しかし、連合軍は、こうした病死者の死体をガス室の犠牲者であったかの様に戦時宣伝の材料として使い、それが今日の「定説」に転化した。――こうした趣旨の論述を展開しながら、私は、ドイツの目標が「絶滅」ではなく、「強制移住」であったにせよ、こうしたドイツのユダヤ人政策は間違った物であり、ユダヤ人が体験した運命は悲惨であった、と述べて居る。

この記事には、細部に多くの間違いもあり、それらについては、この廃刊事件後、パソコン通信を通じて訂正と自己批判をした上で、2年後の1997年に、「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道)を出版し、マルコポーロの記事の誤った部分を訂正した。しかし、「マルコポーロ」の記事には、細部の誤りは有ったにせよ、何が歴史の真実だったのか?についての私自身の認識は、今も変わっていない。歴史問題としてのこの問題それ自体については、私は、1997年の上の著書で、詳細に論拠を示して、論じているので、それに譲る。今回、私が、語りたいのは、あの事件の裏で何が起きて居たかと、そして、この事件が、2020年の日本と世界にとって、いかなる意味を持って居るか?である。

 

2.私は、いかにしてこの問題を知ったか?

 

そもそも、私が、どの様にして、この問題の存在を知ったか?からお話ししよう。1987年に、私は、馬野周二氏の著作で、「ホロコースト」の通説に疑問を投げかける人々が居る事を知った。しかし、この時は、「何をバカな」と言う気持ちしか持たなかった。私は、固く「定説」を信じて居たのである。だが、1989年に、ニューズウィーク日本版が掲載した或る記事を読み、「ホロコースト」の基本的な事実関係について、実は、論争が存在すると言う驚くべき事実を知ったのである。それは、ニューズウィーク日本版1989年6月15日号に掲載された「ホロコーストに新解釈/『ユダヤ人は自然死だった』でゆれる歴史学会」と言う記事であった。記事の内容は、高名な歴史家であり、アメリカでは「左翼」と見なされているプリンストン大学のアーノ・メーヤー教授が、アウシュヴィッツで命を落としたユダヤ人の多くは、実は、病死で命を落としたのだ、とする見解を新著の中で発表し、非難を浴びている、と言うものであった。その記事の一部を紹介しよう。

 

「左翼をもって任じるこの著名な歴史家は、自らもヒトラー支配下のヨーロッパからの亡命者だ。1940年、家族とともにルクセンブルクから逃れてきたが、祖父の一人は強制収容所で亡くなっている。」

「メーヤーの主張を一言で言えば、ヨーロッパの全ユダヤ人を殺戮しようという意図的政策は、本来存在しなかったということだ。ユダヤ人絶滅計画はヒトラーの最も主要な妄想だったとする歴史家とは違って、メーヤーは当時の状況がもたらした産物だったとみる。つまり、ナチの他の衝動、なかでも対ソ連戦から自然発生的に生じた一つの結果にすぎないというのだ。メーヤーにとっては、ナチの指導者や陸軍将校、企業経営者といった当時ドイツを牛耳っていたエリートの反共主義こそが、あの戦争の原因なのだ。そしてユダヤ人絶滅は、反共主義の副産物にすぎない。『もし東部における電撃戦が成功していれば、ユダヤ人はおそらく虐殺されることなく、国外退去になっていただろう』とメーヤーは書く。ロシアとの泥沼戦争にはまりこんだ1941年秋になって初めて、ナチはユダヤ人大量虐殺を開始したのだと、彼は確信している。それ以降でさえ、メーヤーによればナチの多くは、殺戮よりも労働力としてユダヤ人を利用することに関心をもっていた。つまり多くのユダヤ人は、過酷な労働と飢えによって死んだというのだ。とりわけアウシュビッツでは「多くのユダヤ人が『人為的理由』よりも[過労や飢えといった]いわゆる「自然の理由」で死んでいった」と彼は述べ、銃殺や絞首刑、ガス室による死者のほうが少なかったとみている。」

(ニューズウィーク日本版1989年6月15日号「ホロコーストに新解釈/『ユダヤ人は自然死だった』でゆれる歴史学会」)

ここで、メーヤー(Mayer)のこうした見解の是非は論じない。又、そのメーヤーを極めて批判的に取り上げたニューズウィークのこの記事の評価も行わない。ここで、私がこの記事を紹介するのは、天下のニューズウィークが、極めて批判的な文脈の中でではあるが、この様な歴史家(メーヤー)が居る事を紹介していた事実を皆さんに知って頂きたいからである。そして、私が、この記事を読んで、「ホロコースト」の事実関係について、実は、この様な論争が存在する事を知った事を知って頂きたいからなのである。メーヤーの見解が正しいか、正しくないかは別として、とにかく、「自らもヒトラー支配下のヨーロッパからの亡命者」であり、「祖父の一人は強制収容所で亡くなっている。」プリンストン大学の教授が、こうした主張をしたのである。そして、それを極めて批判的にではあるが、ニューズウィークの様な権威ある雑誌が取り上げたのである。これを読んで、「ホロコースト」を巡る論争に関心を持たない人の方がおかしくはないだろうか?

 

3.私は、なぜ、この問題に関心を持ったか?

 

その後、私は、このメーヤーよりも更に根本的な疑問を投じる論者が、欧米に多数存在する事を知る。そして、彼らの著作の多くが、アメリカのIHR(Institute for Historical Review:歴史見直し研究所)と言う出版社から出版されている事を知り、アメリカからIHRの出版物を購入して、この論争についての知識を深める様になる。そして、1991年頃には、相当の資料を手元に置く様に成った。ただし、ここで誤解して頂きたくないのだが、私は、この問題(「ホロコースト」)にそれほど熱中した訳ではないのである。

私は、医者として働く一方で、社会の様々な事柄に関心を持って居た。特に、原発には深い関心を持って居た。(私は、反原発派である。)当初、私は、そうした様々な関心事のひとつとしてしか、この問題(「ホロコースト」)には関心が無かったのである。私は、「ホロコースト」よりは、原発問題や中東問題に関心が有ったし、同じ歴史問題でも、私の主たる関心は、むしろ他の様々な事柄に有った。だから、その私を「ホロコーストの研究家」などと呼ぶ方が居るが、それは、全くの「かいかぶり」である。又、この問題が、「ナチス」や「ユダヤ人」に関連する事柄なので、私が、「ナチス」や「ユダヤ人」に特別関心を抱く人間であるかの様に誤解している人が居るが、これも誤解である。繰り返して言うが、私には、「ホロコーストよりも関心の有る事柄が、沢山有ったのであって、「ナチス」も「ユダヤ人」も、私にとって、中心的な関心事では全くなかったのである。

では、その私が、何故この問題に、「それなりの」関心を持ったかと言えば、私が、それ以前から、マスコミに強い不信感を持って居たからである。私は、「ホロコースト」について、このメーヤー教授の様な論者が居る事を知って以来、日本のマスコミは、なぜ、この様な論争の存在を報じないのか?と考える様になった。それが、私が、この問題に関心を持った最大の理由なのである。ちなみに、過去数年、私が、SNSで「ホロコースト」に疑問を投じる投稿をすると、それに「いいね!」を押したりして共感を示す人の多くが、反原発派の人々であるのは、驚くばかりである。これは、偶然ではないだろう。

 

4.私は、なぜ、マルコポーロの記事を書いたか?

 

その私が、マルコポーロにあの記事書く様に成った経緯を話そう。上述の様に、私は、1989年に上のニューズウィークの記事を読んで以来、この問題に関心を持ち続けて来たが、私は、この問題よりも、他の様々な問題の方に自分の主たる関心を寄せて来た。だが、1994年になって、私は、この問題の重要性を再認識したのである。それは、この年に入って、ドイツで、「ホロコースト」に関する言論に対する規制が大幅に強化され、「ガス室」の実在性を疑ったりすると、禁固刑に処されると言った段階にまで、言論統制が強化されたからである。そして、何より私が恐ろしい事と感じたのは、朝日新聞をはじめとする日本のマスコミが、ドイツにおけるこうした言論規制の動きを肯定的に伝え始めた事であった。

私は、これは、ファシズムだと思った。そして、「言論の自由」を建前とする「民主主義社会」において、ひとつでも言論の自由に「例外」を設ければ、その「例外」は必ず拡大する事を確信した。だから、私は、何かをしなければならないと、思ったのである。全く無名だった私は、当初、自分自身がいずれかの媒体に記事を書くことは考えなかった。その代わりに、自分がそれまでに収集して来た英語の文献を名の有るジャーナリストや学者に提供して、そうした人々が問題提起を行なう手伝いをしよう、と考えたのである。

 

その目的で、私は、最初に、左翼系フリー・ジャーナリストの木村愛二氏に電話を掛けた。そして、「ホロコースト」について、実は、根本的な疑問を投じる人々が居る事を知って居るか?と尋ねた後、木村氏の要請に従って、木村氏に、英文資料の一部を、私が書いた説明とともに、郵送したのである。その後、しばらく間をおいてであったが、木村氏から電話がかかり、更に詳しく教えて欲しいと言う要請を受けた私は、木村氏に、自分が集めて来た大量の資料をコピーして、次々に木村氏に郵送した。すると、木村氏は、それらの資料を日本語の解説とともに、色々な人に郵送するべきだと私に勧めた。木村氏は、特に、私が書いた日本語の解説を褒めてくれたので、気を良くした私は、氏の助言に従って、自筆の解説文をダイレクト・メールにして、多くのジャーナリストや学者に送付したのであった。その結果、人数は少なかったが、一部の方たちから、私は、私の問題提起に対して、非常に肯定的な反応を得る事となった。そうした肯定的な反応を示した方の中には、共に故人なので、名を書くが、京都大学教授であった高坂正堯(こうさかまさとし)氏や作家の野坂昭如(のさかあきゆき)氏が居た。そして、当時、マルコポーロの編集長だった花田紀凱氏が居たのである。その花田マルコポーロ編集長からの要請を受け、私は、「マルコポーロ」に問題の記事を執筆したのである。それが、その年(1994年)の7月であったと記憶する。その後、その年の8月に、私は、ポーランドを訪れ、8月25日にクラコフからタクシーでアウシュヴィッツに行って、ポーランド人ガイドの案内を受けながら、同収容所跡を自分の目で見た。私は、そこで公開されて居る「ガス室」が、処刑用ガス室などではなかった事を確信した。その再撮影した写真は、マルコポーロの記事や、1997年の私の著作に掲載されて居る。

 

 

5.野坂昭如氏と情報操作研究会

 

 

帰国した直後、私は、野坂昭如氏が開く事を提案し、立ち上げたこの問題(「ホロコースト」)の研究会で、このアウシュヴィッツ訪問を含めた自分の調査の現況を語った。

野坂氏は、この問題に非常に熱心だった。この時、この研究会は、新宿のホテルのロビーで開かれたが、野坂氏は、その後、この研究会の為に、自身が所有する画廊を提供してくれて、定期的に研究会を開いてくれた。参加者は、ジャーナリスト、大学教授、評論家、などで、当時の朝日新聞の論説委員も居たし、驚く人も居ると思ふが、本多勝一氏も、この問題(「ホロコースト」見直し)に関心を持ち、非常に好意的な姿勢で、この研究会に出席した事も有ったのである。この研究会は、同年(1994年)の8月から、毎月1回開かれ、主に、私と木村愛二氏が語った事柄について、参加者から意見を求めると言ふ形で討論を進めたが、私にとって、この研究会でのやり取りは、雑談を含めて、非常に勉強に成るものだった。特に、その会に毎回出席して頂いた大学教授は、科学史の専門家で、731部隊研究の第一人者であった。この大学教授は、「化学兵器」と言ふ視点から、色々な意見を聞かせて下さり、アウシュヴィッツの「ガス室」について、その建物の内部で、「毒ガス」がどの様に拡散するか、コンピューターでシミュレーションをしてみよう、と言ふ提案もして下さったが、このシミュレーションが実現しなかった事は、残念である。

私は、この研究会を「情報操作研究会」と名付けた。マルコポーロ廃刊事件によって、この研究会は、消滅してしまったが、この研究会の立ち上げを提案し、場所を提供してくれた野坂昭如氏には、今も、深く感謝して居る。この研究会が、最後に開かれたのは、マルコポーロ最終号が発売された1995年1月17日(月)であったが、この日は、マルコポーロの発売日であると同時に、野坂氏が愛した神戸で、阪神大震災が起きた日であった。

 

 

6.私は、何を書いたか 

 

 

私がマルコポーロに寄稿した記事の冒頭箇所を引用しよう。

 

 

―――獣をいけにえとして捧げ、火で焼くというユダヤ教の儀式を「ホロコースト」と言った。これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を意味するようになったのは、ナチスドイツがアウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さらにそれを焼いた――という恐ろしい話とイメージが重なったからだ。ところが、このホロコーストが作り話だったという説が、今、欧米で野火のように広がりはじめている。戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人はいないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。私は一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁るようになった。そして、今では次のような確信に達している。

「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室などは存在しなかった。現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けたソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツでもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地域で、「ガス室」による「ユダヤ人大量虐殺」などは一度も行なわれていなかったのだ。こう断言する理由は後述するが、その前に二つのことを言っておきたい。まず、第一に私は、第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。たとえ「ガス室による大量虐殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を否定する者ではないことをここで明白にしておく。第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱人々が急速に増えつつあるのに、日本の新聞、テレビが、そのことを報道せず、結果的にはそのことを日本人の目から隠しているという事実である。最近は、論争を断片的に伝える報道もでてきたが、そうした報道は、「ホロコースト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」か「極右」であるかのような「解説」を加えている。

事実は全く違う。「ホロコースト」に疑問を投げかける人々の中には政治的には明白に反ナチスの立場を取る知識人やユダヤ人さえ多数含まれているのだ。例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授は子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカにわたったユダヤ人の一人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことは一九八九年六月十五日号のニューズウィーク日本版でも取り上げられている。また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話だと、はっきり主張しているのである。「ネオナチ」の中にも「ホロコースト幻説」を取り上げる人間はいるだろうが、ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかったと主張する人間が現われていることは注目に値する。

とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのリスト』も一旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究を一口に要約し結論を述べ、証拠はあとから示そう。そうした方が、皆さんにとって後の話が理解しやすくなると思うからである。

  1. ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもない事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配下に置かれたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。

  2. しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収用したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど一度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らはこのユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決(Endlösung)」と名付け、東部戦線でソ連を打倒 した後、実行するつもりでいた。

  3. ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したことは、一度もなかった。

  4. ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。

  5. 戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。

    読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる方がどうかしている。私も最初は信じることが出来なかった。読者と同様、私も物心ついてから、あの恐ろしい「アウシュヴィッツのガス室」についてくりかえし教えられ、聞かされてきた者の一人であって、あるきっかけから真実を知るまでは、「ガス室による大量虐殺」を疑ったことなど、ただの一度もなかったのである。

    しかし、ある機会から「ホロコースト」について実は論争が存在することを知った私は、この論争に関する文献を買いまくり、読みまくった後、「ホロコースト」が作り話であるという確信に至ったのである。「ホロコースト」に疑問を投じる人々は、自分達のことを「ホロコースト・リビジョニスト(Holocaust revisionist)」、すなわち「ホロコースト見直し論者」と呼んでいる。筆者は、一医師であり歴史学を専攻したわけでは全くないが、六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビジョニストたちの主張を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいられなくなったのである。また、英字紙マイニチ・デイリー・ニュースの投書欄で一九九三年五月に大論争をやったことがあるが、その時もリビジョニズムの正しさを確信する経験をしている。

    気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか?このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。

     

    (西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)より――――

     

     

    文中のデイヴィッド・コウルの主張の要約は、単純化され過ぎて居る。又、ラッシニエは、大学教授ではなく、教員であった。この様に、この記事には、細部に、不正確な記述が、色々有った。だが、それは別として、私は、こうした自分の主張の根拠として、私は、例えば、次の様な事実を指摘した。

     

    ―――連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書は一枚もなかったのである。実際、連合国は、ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。

    これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅計画は極秘事項だったので、命令は全て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そうした主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日まで一枚も発見されていない。もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなりの「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラーが1943年10月4日に行なったとされる談話の筆記録、ヴァンゼー会議の記録、ヘルマン・ゲーリングが1941年731日に書いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。

     

    (西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)よりーーー

     

     

     又、次の様な事実も指摘した。

     

    ――――アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で戦争末期にチフスが発生し、多くの死者を出したことは、明白な事実である。このことについては「ホロコースト」があったとする人々も異論を唱えてはいない。ナチスが建設したユダヤ人収容所で衛生業務に当たったドイツ軍軍医による記録、ドイツ西部で解放直後の強制収容所の衛生状態を観察したアメリカ、イギリスの医師たちによる報告などは、一致して、戦争末期から戦争直後にかけての強制収容所でのチフスの発生のひどさを詳細に記録しており、このことについては論争の余地はないものと思われる(JE・ゴードンなど)。問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したかったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。「死亡率は、絶対に低下させなければならない」この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?

     

    (西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)よりーーー

     

     

      そして、記事は、次の様に終はる。

     

    ―――ナチスドイツがユダヤ系市民に対して行なった様々な差別政策や弾圧は、民主主義の原則に対する明白な挑戦であり、その最終局面としての強制移住計画は、私自身を含めて、誰もが不当と言わざるを得ないものである。しかし、だからといって、ドイツがやっていないことまでやったと強弁することは間違っているし、そのことで、戦後生まれの若いドイツ人が罪人扱いされることも、こうした事実を検証しようとする言論を政府が抑圧することも明らかに間違ったことである。詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。
    最後に、一言言っておきたい。アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生命を落としたユダヤ人達の運命は、悲惨である。彼らは、その意志に反して各地の収容所に移送され、戦争末期の混乱の中でチフス等の疾病によって生命を落としていった。その運命の悲惨さは、日本軍によって苦しめられた中国の民衆や、原爆の犠牲者と同様、現代に生きる我々が、忘れることを許されない今世紀最大の悲劇の一つである。現代の世界に生きる我々は、それを忘れる権利を持たない。しかし、そうであるからこそ、真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。この記事をアウシュヴィッツその他の地で露と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。

     

    (西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」(マルコポーロ・1995年2月号)よりーーー

     

     

    これが、私が書いた記事の主要部分である。ただし、文中のサイクロンB(チクロンB)の物性と毒性についての私の記述は、間違って居た。そして、繰り返して言うが、その他にも、この記事には、細部に多くの間違いがあった。それらの間違いについては、この廃刊事件後、パソコン通信を通じて訂正と自己批判をした上で、2年後の1997年に、「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道)を出版し、この記事(「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」)の誤った部分を訂正して居る。しかし、そうした細部の誤りは有ったにせよ、何が歴史の真実だったのか?についての私自身の認識は、今も変わっていない。そうした私の見解については、1997年の上の著書で、詳細に論拠を示して、論じているので、それに譲り、ここでは深入りしない。

     

     

     

    7.中央官庁からの圧力 

     

     

    こうして、マルコポーロ1995年2月号は、発売された。しかし、その直後から、イスラエル大使館とアメリカのサイモン・ヴィーゼンソール・センター(SWC)は、私の記事に対して抗議を展開した。

    特に、SWCの抗議は激烈で、SWCは、日本政府に書簡を送り、同時に、文芸春秋社に対する広告ボイコットを呼びかけた。マルコポーロの発売日が、1995年1月17日(火)、阪神大震災が発生した日であった事から、この抗議は、震災の報道の陰に置かれ、直ちには注目されなかったが、文芸春秋社内部では、次第に、この抗議に対する対応が、深刻な社内問題に成って行った。そして、1月30日(月)、文芸春秋社が、マルコポーロの廃刊を発表した事は、既に報道された通りである。

    この廃刊までの経緯は、繰り返さないが、ひとつだけ語っておきたいことは、この廃刊発表の直後、文芸春秋社の一方的な決定に異議を唱えた私が、2月1日(水)、都内で記者会見を開こうとした際、或る官庁が、私の職場(病院)の上司を介して、記者会見中止の圧力をかけ、私に沈黙を強いようとした事である。

    当時、私は、医師であると同時に、国家公務員であった。だが、国家公務員であっても、勤務時間外に雑誌に記事を執筆する事も、記者会見を行なう事も、もちろん、全く自由である。それにも関わらず、その官庁は、職員に職権を乱用させ、私に記者会見を開かせまいと、すさまじい圧力を加えて来たのである。詳細は書かないでおくが、私の職場(病院)で、私に記者会見中止を強要しようとしたその官庁の職員は、私に向かって、「お前(西岡)の行動に、日本と言う国の運命が掛かっている」「言論の自由などと言う物は無いんだ」などと大声で怒鳴っている。

    私は、24時間以上にわたって続けられた彼らによる事実上の軟禁と脅迫を逃れて、私に取材したいと言って、私の病院前まで来たサンデー毎日の車に飛び乗り、車内で同誌の記者のインタビューを受けながら、記者会見にたどり着き、記者会見を開いたが、あの時受けたその官庁職員による脅迫の恐ろしさは、今も忘れる事ができない。あの廃刊事件の際、私に、「ユダヤ人って怖いですね」と言った意味の事を言う人が複数いたが、その度に、私は、彼らのこの言葉を否定した。そしてこう答えた。「いいえ、ユダヤ人は何も怖くありませんでした。私が怖かったのは、日本人です。」これは、私の本心である。そして、怖いと思った事は、私が、その官庁による記者会見中止の圧力・脅迫について、私が、2月1日(水)の記者会見で、官庁名は出さずに言及し、抗議したのに、翌日の報道を見ると、一部を除いて、主要各紙が、私が記者会見を開いたこと自体は報じながら、私の発言のその箇所を報じなかったことである。日本の官庁と新聞の関係を垣間見た様な経験であった。

     

     

    8.事件に対するマスコミ・学者の反応 

     

     

    この中央官庁による記者会見中止の圧力と脅迫は、正直に言って恐ろしかった。だが、記者会見を開いてからは、この圧力も無くなり、それ以降は、恐ろしい思いなどは全く無かった。それどころか、廃刊事件に関する報道は、「高見の見物」の気分で眺めていた。マスコミは、この廃刊事件を大々的に取り上げたが、一部を除けば、マスコミの大部分は、私が書いた記事の内容については議論を避けたからである。私は、もう恐ろしい事は何も無かったので、連日の報道を見守るだけだったが、私から見れば、議論を避けた「逃げの一手」の報道ばかりだったので、中身の無いマスコミ報道を嘲笑的に眺めた。学者のコメントも、滑稽な物ばかりだった。時間が経って、私は、自分が書いた記事には、細部に誤った部分が幾つも有った事に気付くが、廃刊事件を取り上げるマスコミ各社は、それら間違いに気が付かない事も、笑うに笑えない報道のレベルの低さだった。一方、非常に懸念した事が有った。それは、事件後、文芸春秋社に寄せられたおよそ40通の読者からの手紙の中に、「ユダヤ人は怖い」と言った趣旨の手紙が複数有った事である。これは、私や花田編集長の思いとは真逆の声である。これほど、私や花田編集長の心情からかけ離れた物は無い。私も、花田編集長も、ユダヤ人に対する悪意、敵意などは微塵(みじん)も持って居なかった。これは、事件当時、私を激しく非難した岩上安身ですら「悪意の不在」と言う言葉によって認めている事実である。しかし、皮肉なことに、抗議側の姿勢と、文芸春秋社の余りに卑屈な「無条件降伏」を目にして、多くの一般読者が、「ユダヤ人は怖い」と言う気持ちを持ってしまった事は、返す返すも残念でならない。又、もうひとつ、非常に失望したことは、「言論の自由」と言う視点からこの問題を論じるマスコミが極めて少なかった事である。

    私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(と言ったヴォルテール(1694~1778)や「自由とは、常に、異なる人々の為の自由である」と言ったユダヤ人ローザ・ルクセンブルク(1871~1919)とは、懸け離れて居たのが、あの時の日本のマスコミであった。私は、事件直後に、「私は、ガス室は無かったと思って居ますが、もし、仮に、ガス室が無かったと言う説が『定説』とされ、ガス室が有ったと言う説が禁止される社会に成ったら、ガス室は有ったと主張する人々の言論の自由を断固守ります」と言ったが、この気持ちは、今も、もちろん、変わって居ない。

     

     

    9.「リベラル」は、ローザ・ルクセンブルクの言葉を忘れたのか?

     

     

    その「マルコポーロ」廃刊事件から25年が経った。25年が経った今、あの事件を振り返ると、正直、あの事件が、日本の報道・言論にどんな影響を与えたのか、私自身、よくわからないと言うのが正直な気持ちである。上述の様に、私がマルコポーロに記事を執筆した最大の動機は、欧米で広がり始めた「ホロコースト」に関する言論規制を批判し、日本の言論の自由を守る事に有った。そして、併せて、「戦後50年」であったこの年(1995年)に、戦後50年間、この問題の検証を怠って来た日本のマスコミ、アカデミズムに、「あなた達は何を検証したのか?」と問う事も、私のもうひとつの動機であった。だが、私のこうした動機がどれほど理解されたのか、はなはだ疑問である。特に、今日、「ヘイトスピーチ規制」と言う大義名分の下、行政が言論を規制する動きが広がり始め、マスコミがこれを肯定的に報道している状況を目にするにつけ、上述の「自由とは、常に、異なる人々の為の自由である」と言ったローザ・ルクセンブルクの言葉が、脳裏によみがえらずに居ない。周知の通り、ローザ・ルクセンブルクは、共産主義者であったが、反ナチスの哲学者ヤスパースが賞賛した言葉の真の意味でのリベラル派であった。省みて、マルコポーロ廃刊事件から25年後の日本では、「リベラル」を自称する人々が、「ヘイトスピーチ規制」を叫び、真のリベラル派であったローザ・ルクセンブルクの言葉(「自由とは、常に、異なる人々の為の自由である」)とは真逆の行動をとって居る。こうした「リベラル・ファシズム」こそは、25年前、私がその台頭を懸念し、それへの警鐘として、私があの記事を書いた自由の敵なのである。彼らは、「リベラル」を名乗って居るが、本来のリベラルではない。彼らこそは、「ヘイトスピーチ規制」と言う名のファシズムの走狗である。その事を言って、この一文を終わりたい。

     

    (終わり)



     

     

     (参考サイト:「マルコポーロ」廃刊事件)
     http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/52050190.html

     (参考サイト:「ユダヤ人絶滅計画」は実在したか?)
      http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53569129.html

     (参考サイト:「ガス室」は実在したか?)
      http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570697.html

     (参考サイト:「証言」の問題)
      http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570734.html

     (参考サイト:真の悲劇は何だったのか?)
      http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53570801.html

     (参考サイト:「ホロコースト」の政治学)
     http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53692325.html

     (参考サイト:戦時報道は終わらない)
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/53692325.html




    (参考サイト:阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件)
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori-rekishiokangaeru/archives/77546944.html


    (参考サイト:「マルコポーロは特攻隊だったんだ」--戦後70年目の訃報)
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8724442.html


    (参考サイト:「火垂るの墓」と阪神大震災
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/8720918.html


    (参考サイト:マルコポーロ廃刊事件から18年--SWCを批判したユダヤ人たち
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6258062.html


    (参考サイト:アンネ・フランクは何故死んだか?--ユダヤ人大量死の原因は発疹チフスの爆発的発生だった。
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791375.html


    (参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?--「ユダヤ人絶滅」の命令書は発見されて居ない。
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7790102.html


    (参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?--ガス室で殺された死体は一体も発見されて居ない。
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7790027.html


    (参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?--ディーゼル・エンジンの一酸化炭素でガス室を作れるか?
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791247.html


    (参考サイト:「ホロコースト」は何処まで本当か?--「ガス室大量殺人」の科学的不合理の数々
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791285.html


    (参考サイト:ダッハウ収容所の謎--「ガス室目撃証言」は信じうるか?
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6736682.html


    (参考サイト:彼らにとって原爆とは何なのか?(2011年01月30日ミクシイ日記)
    http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/5138919.html


    (参考サイト:或る在日レスラーの言葉(2010年01月30日ミクシイ日記)
    http://livedoor.blogcms.jp/blog/nishiokamasanori/article/edit?id=5138892




    令和2年(西暦2020年)1月30日(木)
    マルコポーロ廃刊事件から25年目の日に




    西岡昌紀(にしおかまさのり)  

    1956年東京生まれ 北里大学医学部卒 内科医(脳神経内科) 著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか」(日新報道・1997年)、「教科書が教えない小林よしのり」(共著:ロフトブックス・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(2003年・リベルタ出版)、「放射線を医学する/ここがヘンだよ『ホルミシス理論』」(リベルタ出版・2014年)「短編小説集『桜』2017」(文芸社・2017年)他が有る。 近く、東日本大震災を主題にした小説「三つのチーク県の民謡」(文芸社)を発表の予定。趣味は、数学とピアノ、クラリネット。