2004年12月17日

神を忘れて

 敬愛するheteheeteさんのblog「愛のまぜご飯」に、神を忘れて、祝へよX'mas timeという記事がありました。 

 「神を忘れて」は、私にとって強い意味があります。私だけの個人的なことなのですが、なんとなくこの歌にも関係があるような気がするので書きます。


 私の両親は無心論者で、特に父は、節操もなくクリスマスをやる(「祝う」ではないよね?)人たちの批判をよく口にし、神妙にそれを聞くのがわが家の毎年のクリスマスでした。サンタクロースなんていない、というのが、物心ついたときからの私の常識でした。ですから友だちが「○歳までサンタクロースを信じていた」なんていうのを聞いたときには、ほんとに違う世界の人かと思ったほどです。
 クリスマスをするのはいけないことだと、意識よりもっと深いところに刷り込まれていた私は、親元を離れても、周りの人たちがクリスマスをする中で、どうしてもそこに入ることができませんでした。友だちがクリスマスパーティーをするなんていうと、「あなたもクリスマスやるのか」と失望に似た寂しい気持ちになりました。

 そんなある日、うちに来たエホバの証人(ものみの塔)の人が、クリスマスはもともとキリスト教には関係ない「太陽の祭」だと言ったのです。それは、だから本当に神を信じるならばクリスマスを祝うべきではないのだという、クリスマス批判だったわけですが、私には救いの言葉でした。
 半年近い間、暗い空と雪に閉じ込められる北海道の山間に育った私には、火を表す赤と、木々の葉を表す緑と、光を表す金色に象徴される、いわゆるクリスマスは、本当は焦がれるほど惹かれるものだったのです。
 1月2月の本格的な重苦しい冬を迎える前に、明るく楽しく過ごしてしあわせな気持ちになる、親しい人とやさしくし合う、そういうイベントは、神なんかに関係なくとっても必要だと思ったのです。
 太陽の祭なのだとしたら、それはまさに私が求めていたものでした。

 そうして私は、クリスマスというものに強い感情のわだかまりを感じて苦しむことから解放されました。そのときにはもう、恋人とクリスマスを祝うというライフステージではなかったのですが、家族で飾りつけをするというくらいのことはできるようになりました。

 神という概念が、なにかを阻んでしまうことがある。神なんかじゃないんだということで、解放されることがある。神という概念が、人間が作り出したものなら、そこから自由になって本当のことをつかむことも、あるのじゃないか。そんなことを思ったのでした。

niwatori5555 at 18:32│Comments(24)TrackBack(4)自由がなくちゃね 

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3. アナタハ カミヲ シンジマスカァ  [ 日々妄言 ]   2004年12月22日 01:07
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この記事へのコメント

1. Posted by アキラ   2004年12月18日 00:41
わたくしは、キリスト教に非常に関わりの深い者と自認しておるのですが (^o^)、確かに、イエス・キリストの誕生とリンクしたお祭りが、東方にあったんだよということを記憶してます。
詳しく分かったら、またコメントしますね。

んでも、お話の腰を折るようですが、それは「なんとか」という民俗的なお祭りで、「クリスマス」ではありません。キリストの神を本当に信じるならば、「クリスマス」を祝うべきでしょう。
だって、「クリスマス」はどう転んでも、キリスト生誕を祝う行事ですもの (^o^)。

それを、何も関係なく、というかそういうこと気にせずに浮かれ騒げる人々も、不思議っちゃぁ不思議ですが・・。
というか、なんで「恋人達のクリスマス」になってるのか、よく分からないし・・ (^o^)。
サンタクロースも、「クリスマス」に後からくっついた北欧の「なんとか」でしょう。
そういう外国のお祭りをも浮かれ騒げる、その感性が逆にすごいですよね。

日本の場合、最初っからクリスマスには神なんかいないんですから、神が阻んでるものなんて、何もないんじゃないですか。クリスマスについては。
アメリカには、あるかもしれませんけどね (^o^)。

まきこさんを阻んでいたのは、「神」じゃなくて「記憶」なんじゃないんでしょうか。
2. Posted by アキラ   2004年12月18日 07:08
すみません、上のコメントは、意図がよく分からないものになってました。
僕が言いたかったのは、本当にキリストの神を信じる者が祝う「クリスマス」は、「しみじみ」するものであって、浮かれ騒ぐようなものではないです、ってことです。

ですから、大いに浮かれ騒ぐ分にはそれは「単なるイベント」でしかありませんから、大いに浮かれ騒いで「クリスマスをやる」のが、キリストの神など信じない、知らな〜いな人たちのスジってもんじゃぁないでしょうか (^o^)。
3. Posted by Izumi   2004年12月18日 08:05
北のクリスマスか〜。なるほどね。おもしろい。
南半球では夏なんですよね〜。
サンタはアキラさんおっしゃるように、聖ニコラウスというヨーロッパの聖者が起源。
これもクリスマスとはもともとなんら関係ありません。
セントニコラウス→サンタクロースね。

聖ニコラウスの祭りは未だに北欧あたりではやるらしいんですが
なんか各家をまわって子供を怖がらせ、いい子になるんだよ、と言って
プレゼントを渡す、というものだそうで、な〜んだなまはげじゃん。

そんで何の関係もない聖ニコラウスをクリスマスと結びつけたのが
巨大資本コカコーラ社だそうです。 赤い服もその時から。
なもんで、「恋人たちの〜」や「ただのイベント〜」も
私にはさほど不思議ではありません。

というまあなんとも夢のない話ですみません。
バンドマンは稼ぎ時なので、今年も仕事です。
4. Posted by KEN-NYE   2004年12月18日 10:05
 私は無神論者というよりは宗教的無節操なので、宗教的なものは基本的に「歴史的・文化的イベント」として考えています。正月は近くの神社に行くし、盆だの彼岸だのといえば墓参り、そしてクリスマス。

 クリスマスがパーティーになったのは企業の策略ですか。バレンタインにチョコレート渡すのがモ○ゾフ(伏せ字になってない?)の策略なのと似たようなものなのかな。
5. Posted by まきこ   2004年12月18日 12:46
 日本の無神論の全体がそうかどうかはわからないのですが、私のうちの「無神論」は、「幽霊なんていないんだよ」というのと同じレベルで「神様なんていないんだよ」という、底の浅〜いものでした。(笑)

 私の場合、クリスチャンではないので、神の子がこの世に送られたことを祝うほんとのクリスマス、というものをするわけにもいかないし、かといって楽しくパーティーをする、というのも、それがただの冬のイベントだったらできたのでしょうが、「ニセのキリスト教行事」であるがためにできなかったんですよね。

 アキラさんのおっしゃるように、それを阻んでいたのは実は「神」ではないという指摘もある意味では正しいのかもしれないなあ。でも、「キリスト教」的なものがくっついているからできなかったというのはあるわけです。そうであっても「そんなもん関係ないじゃん」といえなかったのは、融通の利かなさとかバカ正直さとかなのかもしれないけれども。

 世界的にみれば、私の個人的な体験と一緒にしてはいけないかもしれないけど、クリスマスだからということで移出される「思いやり」みたいなものを受け入れがたい人はやはりいるんじゃないかと思っていて、「クリスマスだからあなたにもしあわせを分けてあげます」じゃなくてもっとほかのいいかたをするデリカシーはないのかな、とか思ったりするんですよね。

Izumiさん、
キリスト教のサンタさんも、ちょっとなまはげっぽくない?
「サンタが街にやってきた」っていう歌の歌詞、「気をつけたほうがいい。泣いてちゃダメだ。サンタが街にやってきて、どの子がいい子かチェックするから」っていうようなのじゃなかったっけ。

サンタの服を赤にしたのがコカコーラなんだって知ったときは、「やられた!」と思いました。(笑)

KEN-NYEさん、
そうそう、バレンタインと同じかもしれませんね。で、ちょと情けないのが、本を送るという「サンジョルディの日」はあまり定着しないということですね。(笑)
6. Posted by KEN-NYE   2004年12月18日 16:53
 おお?
 「サンジョルディの日」って・・・わたくし存じ上げませぬ・・・^^;

 よかったら詳しく教えてくださいな。
7. Posted by まきこ   2004年12月18日 18:25
よござんすとも。
といっても私も詳しくはありませんが、春になると本屋さんに表示してありませんか? 「4月23日はサンジョルディの日です。本を贈りましょう」って。
詳しいことは、以下に譲りまする。これを読むと、別にみんなが本を読まないからではなく、定着し難い理由がいろいろあるようですね。

http://www.ffortune.net/calen/kinenbi/04/st-george.htm
8. Posted by gegenga   2004年12月18日 22:09
人に本をあげるって、すごく難しいと思いませんか?
相手の趣味、自分の主張、相手に伝えたいこと。
そんなこんなで、サンジョルディの日って定着しないんじゃないかなぁって、本好きであるからこそ、私は思ってしまいます。

クリスマスはね、ケーキを食べる日っていう以上の意味を感じたことがありません。
ただ、子どものころは貧しかったので、ケーキを食べられるっていうだけですごく嬉しかったなぁ。
みんなで分けるのが嬉しかったし。
ただ、バタークリームは苦手でした。
それでも「ケーキ」であるからには残せなかった、貧しくも美しい思い出です(笑)
9. Posted by yoshihiroueda   2004年12月18日 23:02
先日はニセモノを派遣してすみません(というのもウソ)。
私は何にでも神様が宿っていると考えている原始宗教信者ですので、他の宗教に対しても寛容です。ヤホウェと呼ばれている神様もアラーと呼ばれている神様も、私の神様が形を変えて出てきているだけです。私は自分の神様を祝い敬うため、クリスマスもしますし、初詣もいきます。いただきます、ごちそうさまといいます(こころの中でいう場合もあります)。また、初詣等できなくても信仰は変わりませんので気にしません。
世界がみんな多くの日本人のようであれば、戦争もずっと少なくてすんだと思います。以前の記事ですがトラックバックを送らせていただきました。
10. Posted by heteheete   2004年12月19日 09:46
大変遅ればせながら・・・
心にしんしんと降り積もるような記事を
TB頂きどうもありがとうございます。

『そこから自由になって本当のことをつかむことも、あるのじゃないか。』

私もそう思います。

熱心に信心している方には叱られてしまうと思いますが
もし、その信心が自分や他人を苦しめることがあるとしたら
ちょっと休んだり、ちょっと違う考え方をしてみる機会を
もつことが出来たら良いのではないかな・・・と。
その機会にクリスマスがなってくれたらと、こっそり願っています。
11. Posted by まきこ   2004年12月19日 09:58
gegeさん、
そうですね。「この本いいよ!」って、貸すならできるけど、わざわざ買ってその人のものとしてあげるってことは、重いメッセージになりすぎてしにくいですよね。その人が欲しがっていた本とか写真集ならいいけど。
もしあげるとしたら、私なら文庫本にしちゃうな。内容に関わらず、形でいくらか軽くなるから。
その意味で、ちょっとまえ流行った「もし世界が100人の村だったら」って、人にあげやすかったんでしょうね。

ケーキ、私もバタークリーム苦手だった。バラの花とかになってるやつ。というか、ケーキといえばクリームはバタークリームだった。
でもうちではあれを生クリームと呼んでいて、ほんとの生クリームを私は知らなかったので(スポンジの間に塗ってあるのはジャム)、私はおとなになるまで、自分は生クリームは嫌いだと思っていました。人にそう言って、「へえ〜めすらしいね。おいしいのに」と言われていました。どや、貧乏やろ。(笑)

uedaさん、TBありがとうございます。
んですねー。そのうち私もその辺のことについて書きます。
実際、いまイラクに行っている米兵は貧しさゆえであることは否めないんですが、同時に彼らがもしキリスト教徒でなければ、この攻撃をすることができただろうか、とも思うんですよ。
12. Posted by アキラ   2004年12月19日 12:59
まきこさんが拒否しているのは、「キリスト教」のように感じられるのですが、それならば「親の影響」を抜いた上での「キリスト教のそもそも」を知ることも、大事なんじゃないでしょうか。

キリスト教の本義を知れば、世の中はエセクリスチャンばっかりだって分かりますよ。キリスト教の皮をかぶった「ヤクザな商人」を、キリスト教だと思ってしまうのは、危険かな・・。

それが面倒なら、あんまり短絡的に宗教のせいにしない方がいいような・・・。
13. Posted by まきこ   2004年12月19日 15:53
アキラさん、んー、そう読めてしまったか。無理もないかもしれないですね。
実はちょっと違うのですが。
込み入ってしまうので、小出しに書きますね。

まず、私は特定の宗教をもたないけれど、特定の宗教だけを拒否もしていないと、自分では思います。
ただ、こちらに侵入しようとすれば、NOといいます。町内会に入っているときは神道が侵入しようとしてきたので、それは拒否しました。

親の影響でクリスマスができなかったのは、自分がクリスチャンではないからなんです。キリスト教を拒否していたわけではなく、子どものころ、実は親に隠れて、プロテスタントの教会に熱心に通っていました。日曜学校が終わって帰る子どももいたけど、そのあとの礼拝にまで残ったり。聖書もお小遣いで買いました。新約も旧約も。旧約はあまり読まなかったけど、新約はいくらか読みました。のちには、カトリックの教会に通ったこともあります。

ただ、私は結局クリスチャンにはならなかったんです。なので、それなのにクリスマスをやることに抵抗があったんです。クリスチャンがちゃんとしたクリスマスをやることは、全然構わなかったわけですが。
まずここまで。
14. Posted by まきこ   2004年12月19日 15:58
つまり、本文中「クリスマスをするのはいけないことだと」思っていた、というのは正確には「クリスチャンでもないのに、ニセクリスマスをやるのがいけないことだと思っていた」なんです。ほんとに書き方が悪かったですね。
15. Posted by まきこ   2004年12月19日 16:21
「クリスチャンでもないのに、ニセクリスマスをやるのはいけない」
これにはねじれが入っていますね。

クリスチャンがニセクリスマスをやるのは変だし、クリスチャンでない人がちゃんとしたクリスマスをやるのは変だけど、クリスチャンでない人がニセクリスマスをやるなら別にいいように、一見見えます。

なんでここに文句を言う人がいるんだろう。(父のような)
それはきっと、ニセクリスマスであってもキリスト教とまったく無関係だとは思えないからなんでしょう。

クリスチャンでない人は、クリスマスの日には何も特別なことはしない

これだったら納得できるけど、ということですね。で、私はニセクリスマスができなかったわけです。

ここにはもしかしたら、父が無神論者であることは関係なかったかもしれませんね。たとえ父がクリスチャンであっても、この無節操が気にいらなかったかもしれません。問題は、父が無節操を許せなかったことのほうですね。
16. Posted by しみっち   2004年12月20日 00:15
こんばんは。「無節操が気に入らない」のはどうとも言えませんが(たしかに浮かれるにもホドがある…ってことも時に見受けられますな)、「クリスチャンじゃないから楽しく過ごすのはおかしい」ってことはないんじゃないでしょうか。クリスチャンにとってはとても喜ばしい夜ですし、一緒に喜んでくれる、楽しく過ごしてくれるのは誰であれ歓迎するのじゃないかしら。キリスト教のクリスマスに限らず、日本各地の神事だって、そうですよね。異教徒(あるいは他郷のもの)はくるなー、楽しむなーというハナシはあまり聞きませんし。
なんか知らんが喜ばしい、楽しげだ!という人々と、その喜びはこういう意味なんだ!って知ってる人たちの違いはあるのでしょうが。
あと、自分の信じるものをないがしろにすることだと思われる方に無理に一緒に喜んでよ!っていうのは不適切かもしれませんけどね。


17. Posted by アキラ   2004年12月20日 15:35
ふむむ、なるほど。こちらの方こそ、短絡に過ぎましたね。すみませぬ。
自分のブログで、書いてみました。TB貼らせていただきましたので、よろしくどうぞ。
いずれにしても、宗教ってやつは、厄介きわまりないもの、ですね (^o^)。
18. Posted by まきこ   2004年12月20日 20:18
しみっちさん、どうも!
うーん、そうかもしれませんね。自分が無節操にしないのは自分の勝手だけど、楽しむ人を批判することもないですね。「自分はキリスト教徒ではないからやらないのに、みんな無節操にやっちゃって・・・。楽しそうだ!おもしろくない!」って、ほんとは彼もやりたかったのか? (爆)今度父に聞いてみます。(笑)
彼は、子どもがどう思っているか知ってみようと思ったことはあるのだろうか。もっとも、私は自分がクリスマスをやりたいと思っているなんて気づいていなかったから、「やりたいか?」なんてきかれても「いいよそんなの」と答えたでしょうね。難しいですね。
19. Posted by まきこ   2004年12月20日 20:35
アキラさん、返信コメント尻切れトンボのまま、書けなくなっててすみません。
しかも、まともに答えられていないのにすごーく許してもらった気分・・・。

私が教会に通っていたのは小学校の後半2年ぐらいですから、自分がキリスト教についてよく知っているとは思いません。得たこと、今でもよく覚えていることはいくつかありますが、とても断片的なことだし、自分にとって意味のあったことでしかありません。
でも、今みたいな「自分が正義」みたいなアメリカのやり方がキリスト教の本義ではないであろうことくらいは、もちろん想像します。
ただ・・・、よくわかってもいないのに安易かもしれませんが、自分が信じている宗教の名を使って行われることに対して、人は強く批判しにくいということがあるなら、教義の内容からいえば間違っていることにでも、その名を使って人を動かしてしまうことができる、のではないかと思うのです。実はこれは宗教には限らず、集団とはそういうものかもしれないのですが。「国」でもいいしね。
でも、「自分には神の御加護がある」って強いよな〜と思ったり。それが、イラクにいる兵士たちの「心の支え」になっている感じがしたのです。クリスマスとはちょっと離れちゃうんですが。

あ〜、確かに宗教は厄介ですね。失礼なこと、書いていると思いますが、ごめんなさい。
20. Posted by まきこ   2004年12月20日 21:56
heteさま。
お返事たいへん遅くなりました。
heteさんの記事にかこつけて、結局自分のことを書いてるだけやないか、みたいな私の記事でしたが、アキラさんがすんごいのを書いてTB送ってくださったので、heteさんのところからこれ経由でアキラさんとこに行かれる方が何人かでもいるならば、この記事の存在もそれに免じてお許しいただけるかも。

ユキヒロ氏の曲は、さがしていつかきっと聞いてみますだ。
21. Posted by アキラ   2004年12月20日 21:59
いやぁ、お父様に、是非あらためていろいろ聞いてみていただきたいですねぇ。
すんごい興味あります (^o^)。

いえ、全然失礼じゃないですよ。多分、僕自身がクリスチャンに対して失礼なヤツです、はい。
確かyoshihirouedaさんも書かれていたと思いますが、確かに「動員」に使われますし、それに安易に動いてしまう人たちも多いと思います。
宗教って、信じるものであって、考えるものじゃないですからね (^o^)。だからシモジモは、うまく利用されちゃう。考えてくれるのは「上の人たち」ですから、こうなると「天ちゃん」と一緒ですな。
まきこさん仰るように、宗教でなくてもなんでも一緒ですね。やっぱり的確な自己批判が出来ないのは致命的ですよね。

個人的な「心の支え」としては、宗教、というか神さまは最強でしょうな。
でも、その神さまが、必ず助けてくれるとは限らないのに、土壇場来ると、助けてくれるって信じちゃうんでしょうね。
そうでもしないと正気が保てない、んじゃないかと思いますよ。
だったら、そもそもそんなことしなきゃいいのにねぇ。
22. Posted by KEN-NYE   2004年12月21日 12:12
うわっ、コメントがすごいことになってる(笑
サンジョルディの日について、読みました。ふむふむ、なるっほど。

本読むのは好きなので、友人とかに「読んでほしい」本はあるけど、貸しても読んでもらえなかったりするんですよね。まして「贈る」となると難しいのかな。

で、宗教観ですが、なるほどな〜と色々考えさせられます。結局、市民としては、宗教に名を借りた盲目になってはならない、というところでしょうか。

そういえば昔、教会に通っていたことがあります。「日曜教会」ってやつだったのかな?小学校低学年の頃ですね。何がきっかけだったのか、どのぐらいの期間行ってたのか、全く覚えてない。なんとなく、教えて貰う内容に「そんなんあるわけないやん」ってツッコミを入れつつ遠ざかっていったような気がします。

物語としてのファンタジーは大好きなんですけどね。だって、空飛んだり、手から炎が出たり、あこがれるじゃないですか。でも、幽霊とかはもう小さい頃から話題になった時点で議論の輪から外れるような子でした。夜道を歩いていて、幽霊に狙われるより「怖いおっちゃん」に襲われることの方をよほど恐れてました。

なんか、エントリーの内容とずれてきたので、このへんで。
23. Posted by まきこ   2004年12月21日 16:38
KEN-NYEさん、
たぶん日曜学校、私が行っていたやつと同じですね。
私はそこで、「信じる」ということについて考えさせられました。
たとえば、海に7回浸かるとらい病が治るとイエスに言われて、
6回目までは何も起こらないのに7回目で突然治る。
途中何も兆候がないからといって、疑ってやめてしまうべきではない、7回と言ったのだから7回目まで信じるのだ、とかね。
あと、何匹だったかの魚を、集まった群集(ちょと違うかも)にイエスが分けるんだけれど、全員がお腹いっぱい食べるに足りたとか。この話は妙に印象深かったです。不思議と信じられる気がしました。
24. Posted by KEN-NYE   2004年12月25日 22:16
>途中何も兆候がないからといって、疑ってやめてしまうべきではない

これって、とっても大事なことですよね?「宗教」って形を借りてるけど、生きるために大切にしたい「哲学」だと思います。
理屈じゃなく「信じる」ことが有効な場合だってあるんですよね。それによって思考停止したり視野狭窄になったりという副作用にさえ気をつけていれば。

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