2005年08月26日

戦死した人を慰霊するということ

8月30日 7:00 追記にリンクを入れました。
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 たまごのお客さん向けの、8月15日あたり発行の通信に載せる筈だった記事が、遅れに遅れてやっと書きあがったもののタイトルが決まらず。

 ここはblogなので、わりと気軽にタイトルつけて、以下にその記事を掲載します。あまり硬いタイトルにしたくはないが、最初にテーマがわかるようにしておかないと、やたらと「死」という言葉が出てくるので異様な感じになっちゃうし。こまつた。いいタイトル思いついたかたは、入れ知恵タノム。

(以下、たまごの通信用の記事)


 鶏をたくさん飼って暮らしていると、その死に出会うこともある。たとえば、今まで目の前で元気にしていたヒナたちが、何かに怯えてすみっこにぎゅうぎゅう集まって、あっという間に一番奥のが死んでしまう、なんていうことがある。

 ヒナたちを掻き分けて取り出した、たった今死んでしまったヒナは、生きていたときと何も変わっていないように見える。何かが無くなったわけでも、壊れてしまったわけでもない。体の中だって殆ど変わっていないだろう。それなのに2度と動くことはない。全てがそこにあるのに、何かが決定的に違ってしまって、決して戻らない。いのちとは本当に不思議な現象だと思う。
 「生きているということは活動しているということで、死んでいるということは活動していないということなのだな。」もう動かないきれいなヒナを見て、私は、生きているのと死んでいるのとの違いについて、そんなふうに思う。


 以前、『死を食べる』という写真絵本をみた。
そこでは「死がい」を、ほかの生物の食べ物としてとらえていた。私はそのことを面白いと思ったし、そのとおりだと思った。けれど、「死を食べて、ほかの生き物がいのちをつなぐ」「死が、いのちをつないでいる」という表現には、罠が潜んでいると思う。
 いのちをつないでいるのは、死そのものでもなければ、死の結果でも産物でもない。それはさっきまで生きていた肉体であり、生きるという活動の産物だ。死とは、生きるという活動が断ち切られることであって、それによって何かが生まれたりはしないものだ、と私は思う。


 「尊い死」といういいかたがある。だけど、言葉の心地よさに流されずに考えてみると、やはり死そのものは、何かを生み出したりはできない。その人がなした何事かは、たとえどんなに死の瞬間に接近していても、間違いなく生きている時に行われたはずだ。
 だからもし「尊さ」があるならば、「死」にではなく、生きているときの行動にあるのではないだろうか。厳しい言い方かもしれないが、死には尊いとか尊くないとかはなく、生きていたときの行為に、それらはあるのだと思う。

 揚げ足を取っているわけではなくて、これは重要な違いなのだと思う。ここからが大切なのだけれど、尊さが、死にではなく生きて行なった行為にあるのなら、その行為をした上で死なずにすめばもっとよかったということになる。そう考えれば、行為の尊さは、そのあとの死を受け入れる理由には、実はならないことがわかる。
 このことを逆からいえば、行為をではなく死を尊いとすることは、死を受け入れる素地をつくるのではないか。とりわけ、社会がその成員の死を尊いとすることは、成員に死を受け入れろと要求することにつながるように思う。極端だと思うかも知れないが、前の戦争のときは戦死が「名誉」とされ、死を避けることも、死ぬなと願うこともできなかったらしい。
 そんなことにしたくないと思うなら、「死には、尊いとか尊くないとかはない」と考えることは、厳しいけれど重要なことだと思うのだ。

 また、死には尊さはないのだと考えればこうもいえるのではないか。何かを行なって死んでしまった場合と、死ななかった場合とでは、行なった行為の意味は変わらないと。たとえば、自分が溺れるかもしれないのに人を助けて、その結果死んでしまったのと、死ななかったのとでは、助けたという行為の意味に違いはない。
 それでは死んでしまった人がかわいそうかもしれない。ではその人のために何ができるか。もし、生きていたその人を大切に思うのならば、その死に対しては嘆き悲しむことしかできないのではないかと、私は思う。その人の生が断ち切られてしまったことについては、悲しむ以外、実際にどうすることもできそうにない。
 そして、死をただ嘆き悲しむことは、決して意味のないことでも後ろ向きなことでもないとも思う。前の戦争の時には、家族でさえ「名誉の戦死」を悲しむことが抑圧されたらしい。逆を考えれば、死に対して価値を与えずただ嘆き悲しむことは、死の要求を受け付けないための、戦争を拒むための前提になる態度なのではないだろうか。

 「名誉だ」といって大切な人を戦争に送り出してしまった人のつらい気持ちは、わかろうとしても私にはわかりきれない。だからそういう人が、今さらあれは名誉じゃなかったなんていえないと思うことは、私にはどうしようもない。
 だけど私は、せめて私にできることとして、戦争で死んだ人を、死に価値を与えることから解放してあげたいと思う。死んで神になったのだと考えることを拒否しようと思う。死に価値を与えることが、その人をして死を拒否できなくさせてしまった原因だと思うから、死はただの死として、その生を断ち切られたことをただ悲しもうと思う。
 そして、その人を送り出した側に自分がいるという自覚も悔恨もないのに、「尊い死」だの「英霊」だのと口にする人や風潮には、十分気をつけようと思う。
 死んでしまった人のために。これからを生きる私たちのためにも。



追記:以下の記事もどうぞ。

犬死という考え方、靖国への視点 by Pagan(異教徒)の説話
靖国神社、本質的な誤解で美化されている by PACOLOG!



niwatori5555 at 09:17│Comments(248)TrackBack(6)靖国という装置 

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この記事へのコメント

1. Posted by アキラ   2005年08月26日 18:03
死に意味や価値を見出す人たちというのは、生にも意味や価値を見出す、見出しているってことですよね?
2. Posted by まきこ   2005年08月26日 19:11
う、どうなんでしょう。
死に意味や価値を見出す人たちが、生に意味や価値を見出さないとは、特に思えないですね。きっと見出していると思います。
ですが、死に意味や価値を見出さないという人も、生に意味や価値を見出すと思うので、
きっと私はアキラさんの質問の意味が、わかっていないようです。
3. Posted by アキラ   2005年08月26日 23:07
問題は、まきこさんが問題にしたいポイントがどこにあるか、ということなんですが、
まぁ、それはさておき。

僕自身は、10年生きたということは10年死んだということだ、という実感があるので、生と死とが切り離された形では把握できないというか、したくないというか、まぁ、そんな個人的実感を持っています。
つまり、死は生を断ち切るものではなく、生は死である、みたいな・・。
4. Posted by 南郷力丸   2005年08月27日 02:14
 普通、誰でも「価値」のあるものが欲しいわけです。ですから他者の「死」に価値を認めようという人は、他者の「死」が欲しい人だと、私は思っています。
 殉職した消防士の「死」には、たいていの人が「価値」を認めます。それは、誰もが生命の危険のある仕事についてくれる人が欲しいからです。
 ですので、私の場合、死者の生前の行為について、様々な「価値」を見いだすことがあっても、「死」について「価値」を感じることは、あまりありません。
5. Posted by まきこ   2005年08月27日 07:59
あ、もしかして、ことばの意味に単純にズレがあるかもです。

実は書いているときからちょっと気になったものの結局この言葉にしてしまったのですが、「死に価値を与える」という言葉に、
私は「価値を見出す」という意味よりも「評価を与える」という意味のほうを強く込めて使っています。
「尊い死」「尊くない死」と評価する、というような意味です。

そう考えると、そういう人というのは生にも、「尊い生」「尊くない生」という評価をしたがるものだといえるかもしれません。

しかし私が今回問題にしたのは、評価を与えることそのものではなく(そのものも問題ですが百歩譲っています)、生きてした行為に与えるべき評価を「死」に与えているのではないか、ということですね。
6. Posted by まきこ   2005年08月27日 08:10
評価を与えるということをしたいなら、死から切り離して、生前の行為に与えましょう、そしてそれにかかわらず、死は死として悲しみましょう、ということで何をいいたいかというと、

あの戦死が尊いというのを否定される苦しみゆえに、あの戦争の行為は正しかったのだ、というところに向かいがちになる気持ちの解決方法を、私たちは探さないといけないのではないかと思ったのです。

靖国問題は、A級戦犯が合祀されているから参拝すべきでない、というように簡単には解決できないと。

「A級戦犯は、実は戦犯ではない」という主張の人はとりあえず置いておくとして、それを戦犯だと認めるとしても、それが合祀されているからといって普通の戦死者も慰霊できないのは心苦しい、と考えるのも無理はないと思ったからです。
7. Posted by まきこ   2005年08月27日 08:21
そして、ほかの慰霊施設を別に作るとしても、もし「みなさんの死は尊かったです」「みなさんの尊い死のおかげで今の繁栄があるのです」といって参拝するとしたら、あまり変わらないなと思うからです。

靖国問題というのは、A級戦犯を別にしてすむものでもないし、神道から切り離してすむものでもないと、私は思うんですよね。

死に評価を与えるという発想から脱却しないと、同じことが起こるのかなと思ったんです。

戦死は、とりわけ前の戦争での戦死は、無残なものだと思うんですが、そのやりきれなさを、「名誉」とすること以外の方法で受け止めるようにしたいなと。
そして、そのことで翻って、戦争行為をもありのままに評価できるようになるといいなと、そういう展望はないかなと、いうことですね。
8. Posted by まきこ   2005年08月27日 08:28
南郷さんのコメントをヒントに、勝手な想像。

消防士の「殉死」に価値を認める(死に評価を与える)人は、自分は消防士にならない人かも。

自分が消防士になる人というのは、消防士の「行為」に価値を認める人かも。

なーんて。想像ですよ。でも、なんかここらへんにありそうじゃないですか?

9. Posted by アキラ   2005年08月27日 10:03
では生前の行為に「価値を与える」ことであれば、オッケーということでしょうか?

それは、生前の行為の正当化には結びつかない、んでしょうか?
10. Posted by まきこ   2005年08月27日 14:18
生前の行為は、死と切り離すことができれば、比較的正当化を避けやすいのではないかと思うんです。

死と行為とが結びついていると、死という重いものと結びついているがゆえにその行為を悪くいうことはできない、という正当化の動機が働くと思うんですね。
犬死だったとは思いたくないから、あの行為は正しかったのだと思いたい、というようなことです。

死を死として、意味を問わずに悲しむことができれば、さてではあの行為はなんだったのだろう、と考えることができるのではないか、ということです。
11. Posted by gegenga   2005年08月27日 14:19
タイトル案(表バージョン)
「名誉」も「責任」も、「生」の中にある。

タイトル案(裏バージョン)
死んじまったら、お終いよ。
12. Posted by まきこ   2005年08月27日 14:55
gegeさん、どうも!

裏バージョンがいいなあ。記事の内容とベストマッチではないような気がするけど、そこに行き着くってことかも、ですね。
13. Posted by u'   2005年08月27日 22:22
尊厳死、の事とか考えてみたのです。

あなたの生の歓びも、死の気高さも、あなたに帰するために、わたしにはやっぱり、あなたに、生きて欲しい、としか言う言葉が無いのです。

死の賛美が公的な規範になると、これはかなりつらいです。
おれは、それは公私混同だ、と言いたい。

わたしは自分の死くらいは自分のものだとおもっているけれど、でもあなたには、こっそりどこかで、「...命どぅ宝」とささやいてもらいたいのです。
14. Posted by まきこ   2005年08月28日 08:28
なるほどそうか。

尊厳死を認めてもいいのじゃないか(生命維持装置で無理やり生き長らえたくないという希望をかなえてもいいのではないか)ということは、いのちを軽くすることではない筈ですよね。
充実したその人らしい生を生きて欲しい、その実現のために限りなく努力するよ、ということがあって初めて、その人は、自分らしく死ぬこともできるわけでしょうね。
生が大切にされないところに、尊厳死が可能なわけはないか。

死が私的領域だ、というのは全くそのとおりだと思います。
「あの人は星になって私を見ている」と個人が思うのはいいですが、社会がそういうことを言い出したらヤバイです。
靖国じゃなくてもですね。
15. Posted by サンド   2005年08月28日 21:57
名誉の死、ですか。
私個人の意見としては、死に様まで人に評価なんてされたか無いです。
生きているうちは人に評価なんてされたくも無いのに絶対に評価されてしまう。それを、どうして死んでからまで誉れ高い死だとか言われなければならないのか。(まぁ、その人にとってはもう、死んでるので何をいわれても関係ありませんが)
靖国に祀られてる人たちにしたって、彼らはそういう時代に生きて、彼らなりの信念を持って死んでいった。それに尊いも尊くないも無いですよ。それはただの事実であり、歴史の結果です。後世の人間がそれに価値を与えるなんて間違ってます。(歴史的な評価はするべきだと思いますが)
16. Posted by ロスト   2005年08月29日 16:15
#価値を見いだすのは止められないです...



お題いただきました。どうも。


『大切なあなたへ』


とかいって、参加してみる。
17. Posted by うちゃ   2005年08月29日 21:26
>#価値を見いだすのは止められないです...
 私もそう思います。でも、その上でやっぱり”名誉ある死”というのはどこかに納得いかないところがあります。気に入らない。何も語れない相手に名誉を与えるってのが不遜に思えるのかもしれません。
 靖国、というか国家に関してはもうひとつ言いたいことがあります。戦死した兵士達っていうのは、文字通りの献身、その身を国家にささげたわけで、この上、魂まで欲しいと言うなら、それは欲が深すぎやしないかい? 生あるうちに国家に貢献したというならば、死後は親しい方達の元に戻してあげればいいのに。
18. Posted by まきこ   2005年08月30日 09:54
サンドさん、
私もそう思うんです。
で、これは天皇制や神道に限ったことではなくて、「国家のために」だろうが「民主主義のために」だろうが、「名誉ある死」っていうふうに国家が評価を与えるのは、なしだろうと、思うんです。

この辺は、靖国という装置に反対の人でも、反論があるかもしれないところです。
19. Posted by まきこ   2005年08月30日 10:10
で、イラクで殺された人に勲章を与える、というのも好きではありません。
行なった仕事だけだったら勲章を与えたりはしなかった筈で、死んでしまったから与えたのに間違いないから。

http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt57/20031205AS1E0500505122003.html
20. Posted by paco   2005年08月30日 11:06
TBありがとうございます。
とてもいい文章ですね、ていねいに、そして現実を出発点にかかれている。心がぐいっと動かされました。

僕のブログに記事へのコメントを書いてTBしておきます。
また来てみますね〜。
21. Posted by pagan   2005年08月30日 11:50
TB、そして記事の中で紹介していただきありがとうございました。

遺されたものの為に、死の価値は必要だとは思っています。
でも、それを誰かが強制してはダメ。

そして、たぶんこの死の価値は「宗教」の範疇なんだと思います。
宗教であるならば、何を信じるも信じないも自由。

社会の仕組みが、そうあって欲しいものです。
22. Posted by まきこ   2005年08月30日 15:58
ロストさん、
そうですね。最終的にはなくせないかもしれないです。(「彼の死は尊かった」などと思おうとする気持ち)

と、思いながら、自分で、「溺れている人を助けるために、自分も溺れるかもしれないけど飛び込んで、溺れて死んでしまった」という事件と、「同じ状況なんだけど死ななかった」という事件とが、お隣で同時期に起こった場合のことをイメージしてみています。

結果的に死ななかったとしても、死ぬかもしれなかったのは一緒だから、飛び込んだ行為(気持ち?)のすごさは一緒なんだと、やはり思います。
死んでしまった人の方ばかり称えられて、死ななかった方が大したことないように、もし思われるとしたら、おかしいよ、と思います。
23. Posted by まきこ   2005年08月30日 16:09
このケースにおいては、行為と、死とは、私にはわりと切り離しやすく感じられるんですが、どうでしょうか。

行為はどちらもすごかった、死んでしまった人は本当に気の毒だ、死ななかった人は本当によかった、というふうに。

もし周りの対応が、「死んだ方がえらいのかよ」と思うような感じだったら、おかしいと私はわりと素直に思えるんですが、どうでしょう。

で、これを反復してイメージすると、行為と死とを切り離して、死のほうには「尊い」とかを持ち込まないようにするメンタリティも、結構可能なような気がしてくるんですよね。

いや、理屈を納得すると、変われないんじゃないかと思った気持ちも結構変われるな、という話なんですが。
24. Posted by まきこ   2005年08月30日 16:22
で、変われるかどうか、(この場合の「れる」には、その方がいいという意味はなくて、単に可能かどうかという意味ですよ)は別として、

最終的には変わらなくても、つまり死を尊いと思う気持ちがなくならなくても、いいのではないかとは思っているんです。
それを公的な価値としてはいけないんだよな、ということさえ思っていられれば。自分の気持ちとしてはあるけど、他者には求めてはいけないよなと思っていられれば、いいのではないかと思います。

第一、上で私がイメージしたケースは、溺れたのが他者の場合ですもんね。もし自分の大切な人だったら・・・。
いやー、やはり尊い死とかは思わないかなあ。「ばか。でもあんたらしいよ」とか思うほうかな。これは良い悪いではなく、単なる私の人柄ですが。
25. Posted by サンド   2005年08月30日 18:32
ちょっと質問なんですが、皆さんは「死」という現象そのものに対して、それを尊ぶ気持ちがあるのでしょうか?
それとも、何らかの行動を起こし、それに「死」が付加された場合に、その「死」には価値がつくのでしょうか?

私にとって「死」という現象はあくまでも自然現象の一つです。ですので、それに(+であれ-であれ)価値を付属する事に意味を見出す事が出来ません。理解も出来ません。

「尊い死」とか言う言葉を使う人は、「死」自体が尊いと思っているのですか? それとも、死の直前に行った行動のすえに死んだからその人の「死」は尊くなったのですか?

ちょっと単純に疑問だったので…。
26. Posted by まきこ   2005年08月30日 20:02
細かく外出しているので、返信が切れ切れでごめんなさい。

うちゃさん、私もそれに近いことを思います。

自衛隊員が公務中に死亡して、妻はキリスト者なので、神社に祭って欲しくないと要望したが、自衛隊が勝手に護国神社に祭ったという事件があります。
http://letterfromthewind3.cocolog-nifty.com/letter_from_the_wind_3/2005/06/_1869629__1b8a.html

「士気を高める」という理由で利用されるのはおかしいですね。

27. Posted by まきこ   2005年08月30日 20:10
pacoさん、ようこそいらしてくださいました!

しかも新しい記事を起こしてくださったんですね。そちらにコメントしに行きます。

> 現実を出発点にかかれている

いやあ、あまり繋がりがわかりやすくないのは自分でもわかっているので、そうおっしゃられると、なんというか、赤面です。

「逆を考えると」っていう論の進めかたは、納得していない人には騙されたように感じるものなので、これもあまり良くないんですが・・・。やってしまいました。
28. Posted by まきこ   2005年08月30日 20:14
paganさん、ようこそお越しくださいました!

「死んだら○○になる」っていうのは、まったくもって宗教の世界ですよね。
それを「国家神道は宗教にあらず」とかいって、みんなに押し付けたんだから、大変なことですね。

「彼の死は尊い」とかいうのが宗教の範疇だということは、しかし、あまりそう思われていないような気がするんですよ。
その辺も、くっきりはっきりわかるようにまとめてみたいとは思っています。力不足ですが。

paganさんの記事にも期待しています。
29. Posted by たろう   2005年08月30日 22:12
よーわからんのですが
戦争で死んだ人に限らず災害救助などで不幸にも亡くなられた方々を
「尊い死」または「神」として祀ってはいけないのでしょうか?
死者に「名誉」を与えられるのは他の動植物にはない人間の文化・特権で
不幸を繰り返さない為、また将来起きうる有事や災害に教訓に
するためにも「死」を尊ぶことは大切なことと思いますね。

そもそも何が「神」として祀られているかわからない神社を
わけわからなく拝むより国民国家のため尊い命を犠牲にされた方々を
「神」として祀られている神社を参拝する方がよっぽどか理解できますよ。
30. Posted by うちゃ   2005年08月30日 22:50
>それとも、何らかの行動を起こし、それに「死」が付加された場合に、その「死」には価値がつくのでしょうか?

 一つの仮説。”等価交換の法則”。
 世界は”私の大切なあの人”を奪ったのだから、私に対してそれに相当するだけの価値のある”何か”をくれたはず。という風に考えることでバランスをとろうとする。
 でも、本当のところは、生きているあの人に会えなくなったことが淋しくて哀しい、ってだけかもしれない。
31. Posted by まきこ   2005年08月30日 22:57
たろうさん、
この記事は、たろうさんが今書かれたような考えに対して、そもそも書かれています。
ですから、「よーわからん」ままに「いけないのでしょうか?」と質問するのではなく、記事を読んで、「それはこうではないか」というふうにコメントしていただければ、たいへん有意義にやりとりできると思われます。
今回のコメントは、記事を読まずに、ただ自説を書いたのみと思われますので、返信を控えさせていただきます。
32. Posted by まきこ   2005年08月30日 23:09
うちゃさん、

そう、寂しくて悲しくて、それを埋めてくれる何ものがあるわけでもなくて、ただ失ったということ・・・。
これを受け止めるキャパシティが、あればいいのかもしれません。でもむずかしいですね。

溺れた人を助けようと、自分だってすごく泳げるわけでもないのに飛び込んだ、たとえば自分の恋人のことは、「ばかだけどあんたらしい」と、その人の生のありかたとして(死ではなく生のありかた、これがこの記事の主題なんですよね。飛び込んだのは生きて行なった行為だとみる)受け入れることがまだ可能でしょう。

でも、国家の行為である戦争に徴兵されて死ぬことは、あんたらしいも何もない。受け入れがたい死でしょう。なにかで埋め合わせなければ耐えられそうもない。そこに人を動員するために、「名誉」というのを使ったんでしょうね。
33. Posted by まきこ   2005年08月31日 08:16
サンドさん、

> 質問なんですが、皆さんは「死」という現象そのものに対して、それを尊ぶ気持ちがあるのでしょうか?
> それとも、何らかの行動を起こし、それに「死」が付加された場合に、その「死」には価値がつくのでしょうか?

その辺が、この記事で問いかけていることそのものですよね。
たぶん、「尊い死」というふうに考える場合でも、もっと細かく内省していけば、息を引き取るという現象そのものを尊いといっているのではないはずなんですよ。

それで私は、「尊いとか尊くないとかは生前の行為にあるのではないか?」と突っ込んでみたわけ。「確かにそうだな」という答が得られれば、何らかの行為をして死んでしまった場合でも、行為を死から切り離して冷静に評価できるのではないかと。
34. Posted by まきこ   2005年08月31日 08:23
簡単に言うと、死とくっつけられると、行為の正当化は行なわれやすい、行為が非難されにくい、というのは、まあ、もしかしたら自然な感情に近いかもしれないです。

そこを越えてみようよ、という提案だと思ってもらってもいいです。

それを、冷淡・機械的と感じられるやりかたで、人の気持ちを逆撫でして行なうのではなくて、死は死として嘆き悲しむことで受け止めるようにしようよと。
35. Posted by まきこ   2005年08月31日 08:35
例えば、「死に方」という言葉がありますよね。
自分はこういう死に方をしたい、舞台の上で死にたい、とかね。これを私は、「それは死に方のようでもあるけど、実は生き方ではないか?」といっている感じです。
「そのように生きたい」ということと同義ではないかと。

なるべく、死を、サンドさんのおっしゃるように、息を引き取ることそのものに狭めようとしています。
だから、「死を食べる」のようなレトリックを罠だといっているわけです。

逆に、死を恐れてもらっては困る場合は、なるべく死の概念の範囲を広くして、そこにいろいろな意味(価値)をつけようとするものだと思うんです。そして、「望ましい死に方」を演出するのではないでしょうか。
そこから、ちょっと厳しいようだけど脱出しよう、という呼びかけです。
36. Posted by まきこ   2005年08月31日 08:37
しかし・・・。
これだけ自分で解説しないといけない元記事って・・・。

ダメじゃん。
37. Posted by アキラ   2005年08月31日 10:04
もっと練ること、希望〜。
ポイントが多すぎるトピックだと思います。
38. Posted by Izumi   2005年08月31日 10:44
生や死に焦点を当てると、たぶんどうしても宗教的になってしまうと思うんです。
だから、捉え方自体の提案、という意味では、死に価値を与えよう、ということも、価値を与えないようにしよう、ということも、どちらも宗教的な提案のように感じます。

コトは近代化のセンスの問題な気がして、たとえば上記提案(どっちの提案であれ)をまきこさんが言っている分には問題ないけど、役人や政治家が言うと問題じゃねーか、という話。 仮にまきこさんと同じ提案を、首相が言うなら私は問題視します。 狙いがまきこさんと同じであっても。 心の、魂の領域まで踏み込むな、と。

死んだ人が神社に祀られること自体は本人や家族に異論がなければ問題ない。
しかし上記の中谷さんの件は大いに問題にすべきでしょう。 ひどい話です。
39. Posted by Izumi   2005年08月31日 10:45
↑続きっす

個人的にはアキラさん同様、生と死を分けて考えられないので、死の価値だけを生に対して大きくも小さくもできないように感じます。 そもそも生や行為や死に価値があるかどうかも疑問です。 そこから崩していきたい。 そっちのほうが厳しいのかな?
40. Posted by pagan   2005年08月31日 19:22
少しテーマとはずれたかもしれませんが、トラックバックさせていただきました。

やっぱり、ずれているかなぁ(笑)
41. Posted by まきこ   2005年08月31日 21:02
アキラさん、
> もっと練ること、希望〜。

はーい。

Izumiさん、
> 仮にまきこさんと同じ提案を、首相が言うなら私は問題視します。 狙いがまきこさんと同じであっても。 心の、魂の領域まで踏み込むな、と。

あ、そうですね。今私は、体制が死に意味を持たせることをしようとしているので、それを切り離そうと提案していますが、もし体制が「死には意味はない」と決め付けようとするなら、話は違ってきますね。
42. Posted by まきこ   2005年08月31日 21:07
> そもそも生や行為や死に価値があるかどうかも疑問です。 そこから崩していきたい。

そうですね。

実は、今回私のいおうとしているテーマなら、「死に意味を見出す」というより、「死に優劣をつける」としたほうが、焦点が絞れたかもしれません。
当時は、「名誉の死」を設定しただけではなく、「非国民としての死」というのも同時に設定していたわけで、要するに死に優劣をつけて、劣になることを恐れさせたわけですよね。家族に不名誉が及ぶということで。

優劣をつけられるのを拒否する、ということだと、話どうなっただろう。
43. Posted by まきこ   2005年08月31日 21:09
paganさん、
うにゃ、ずれていないと私は思いますです。

TBいただいたpacoさんの記事にも通じますが、私は、「感謝する」っていうのに感じる違和感をもう少しぴったり言い当てたいです。
なんだろう。無責任、かな。
44. Posted by アキラ   2005年09月01日 10:42
無責任、あぁそれは感じますね。
(戦争は)「その死でもって終わったこと」という感じがしますね。
ありがとう! わたしたちは幸せに生きていくから、というような、反省のなさ。
我が身の問題として、引き続き背負っていくことを嫌がる、そんな感じも受けます。

だいたい神社って「祟らないでね」って祀って、あらぶる魂を鎮めるところでしょう?
(このへんは、ロストさんが詳しいのかな?)
だからやっぱり「あなたの死のお陰で、私たちは幸せに生きていくよ。だから祟らないでね」という都合のよさが、滲み出ている気もしますね。
45. Posted by まきこ   2005年09月01日 18:24
「自分はこの人を『名誉だ』といって送り出したのだから、今さら名誉じゃなかったなんていえない」という人の気持ちには、ある種の責任感が感じられるんですよね。

その人はたぶん、死んでしまった人と一緒に、その時点に留まろうとしているんだと思います。世間が前へ進んでも、自分は死ぬまでそこに留まるよと。

そういう人の靖国参拝は、たぶん誠実な気持ちなんだろうと思う。そしてそういう人は、ほかの人に靖国に参拝しろとはきっと言わないと思うんですよね。

そうじゃなくて思いっきり気持ちが前に進んでいる人が、靖国に参拝したり「英霊」なんていったり感謝を口にしたりするのは・・・。

そうか、「祟らないでね」なのかな?
46. Posted by うちゃ   2005年09月01日 22:28
>そうか、「祟らないでね」なのかな?
 ちょっと違うような感じがします。「祟らないでね」だと少し加害者であることを意識しているけれど、「感謝します」だとそれはほとんど感じられない。
 私も感謝というのは違うと感じてますが、良く考えるとそれも二つあって、当事者ではない人間が使うことへの違和感と、政府が使うことへの違和感はまたそれぞれ異なってます。後者の理由はわかるんだけど、前者の理由がなんか上手く言えない。
47. Posted by まきこ   2005年09月01日 22:55
> ちょっと違うような感じがします。

やっぱり?
拝まないと祟られると思っているんだったら、責任あると感じていることになりますよね。

政府が「感謝」と口にする腹の中は、私の感覚では、そのことによって自分の地位が正当性を帯びる・・・そのための演出みたいなことでしょうか。
遺族会に支持されるという意味ではなくてね、えーと、自分が、「日本の正しい後継者」であるという演出、かなあ。

それと、やっぱりあれは間違ったことではなかったという正当化もできますねえ。必要なことだったという感じが出せるので。
48. Posted by アキラ   2005年09月02日 00:10
いやいや「祟らないでね」というのは神社の本義ということで、チャカしですよぉ〜。

やっぱり、論点は、百歩譲らないで、「評価を与えることそのもの」なんじゃないですか?
49. Posted by pagan   2005年09月02日 00:33
たぶん、ヒトは普段は身近でない人の死に鈍感で無頓着な存在なんだと思う。
人の死に無頓着というか、意識しない様にしているというか。
そうでないと、生命体として、他の生命体を食する食物連鎖が崩れてしまう。
基本的に、動物は生存本能が一番強いはずだから、その本能の前に無頓着になるのはある意味当然なのかもしれない。

でも、何か人知の及ばない災いが発生すると、何かのせいにして、それを鎮めようとする。
日本の神社なんて、そのお陰で色んな神様がいる(笑)。

そんな、神社の成り立ちからすれば、靖国はやっぱり異様。
そこで、感謝することで日本人としてのアイデンティティを保つ、あるいは、日本人らしく見せることができるのではないでしょうか?

ん?
また、ずれましたか?
50. Posted by まきこ   2005年09月02日 06:49
> チャカしですよぉ〜。

あ、ごめんなさい。

ああ〜〜っ。大爆笑なことを思い出しました。
この家に越して来た時、古井戸がぽっかり口をあけていて危険だったので、埋めようと思って砂利やさんに埋め方を訊いたのね。
単純に技術的なことのつもりで。
そしたらなんと砂利やさん、神社に問い合わせてくれて、井戸に梅干と葦の葉を入れて、「埋めてよし」ってことで埋めるといいそうだって教えてくれたのでした。

あれが神社の本義だったの〜?
そうなの? それは靖国は異様ですね。
51. Posted by まきこ   2005年09月02日 07:18
あ、コメント読み返していて、面白いこと発見。

> 当時は、「名誉の死」を設定しただけではなく、「非国民としての死」というのも同時に設定していたわけで、要するに死に優劣をつけて、劣になることを恐れさせたわけですよね。家族に不名誉が及ぶということで。

これ、家族に祟りがおよぶ、じゃないですね。
死んで神になるとか、天皇は神だとかいっているんなら、非国民として死んだら神に祟られてもよさそうじゃないですか。
そのわりには、そういう発想があったという痕跡を聞いたことがないですね。私の無学かな。

あくまで非国民として死んだ人の家族をいじめるのは、この世の人間だ。これ、歪んでませんかねえ。
52. Posted by うちゃ   2005年09月02日 12:40
http://tadanorih.hp.infoseek.co.jp/tondemo/tondemo07.htm
 これ、昭和14年の雑誌の付録だそうです。家族を亡くした人に向かって感激感謝って言うのが作法、おめでとうと言うのが一番故人を讃えること……すごいです。ほんとにこんなことやってたんでしょうか? 

53. Posted by ロスト   2005年09月02日 13:01
>神社の本義
わかりません(・´ω`・)ノ
地縁・血縁・心縁とまあ色々あるでしょうが。

祭祀権やら政治を考えないとすれば
何かを想う気持ちが残るのでしょうから、やはり止められない。


神社について

・社
「産土神をいう。山川叢林の地はすべて神の住むところで、そこに社樹を植えて祀った。」
『字通』

「神を祀るとき、神を迎える地として土地を清め、神の宿るべき小屋を設けた。「や」は神霊の宿るところをいう。「屋代」の意。祭りの時だけの臨時のものであるが、のちその建物が残され、神が常住する社となった。」
『字訓』

・神
「[形声]声符は申(しん)。申は電光が屈折して走る形で、
神威のあらわれと考えられ、神の初文。」
『字通』

「神秘な力を持つ神聖なものをいう。
 すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなものも、
 神意のものとして神とされた」
『字訓』
54. Posted by まきこ   2005年09月02日 14:50
うちゃさん、これ、すごいですね。
真顔でこんなの編集していたんですよねえ。

これだったら私は、「埋めてよし」神社の方が断然いいな。
55. Posted by u'   2005年09月02日 15:10
星野道夫の「イニュニック(生命)」という本を読み返していました。
その中にキスカ島での日米合同慰霊祭がレポートされているのです。
以下引用。
「玉砕の波の最初の火蓋を切ったのがアッツだった。しかしキスカは、この海域特有の霧をついて、約五千五百名もの日本兵がわずか四十分で奇跡の脱出を計るのである。」
56. Posted by u'   2005年09月02日 15:11
続き
「その四日前、一機の米戦闘機が撃ち落された。駆けつけると、中で若き米少尉がすでに死んでいる。果敢な戦いをしたその兵士のために、そこに集まった約五十人の日本兵が十字の墓標を建て、英語を刻んだのだった。

“青春と幸福を母国のために進んでささげた勇敢な英雄ここに眠る”

鬼畜米英と言う風潮の当時、それは決して口外できる行為ではなかったらしい。その墓標を建てた一人が菅野豊太郎さんだった。手を合わせながら、
“間もなく自分達も死ぬ。あの世で一緒に語り合おう”と話しかけたという。」

殺し合いのしがらみから逃れて語り合える幻の公共圏。それは当時の世界が幻でしか、与えられなかったものであるけれど。
57. Posted by u'   2005年09月02日 15:12
無宗教のおれですが、たまにはあの世とやらを想像するのも悪くない。
どうしても地獄八景亡者戯調になっちゃうんですが。
テケテンテン・・・

霧がかかった丘を登りきると、現れたのが満艦飾のド派手なたてもの。

「・・・あれはなんです?」

「あー、あれね。YASUKUNIだよ。やけに目立つんで、待ち合わせにゃ便利でね。」

-- 靖国で会おう。
58. Posted by まきこ   2005年09月02日 15:34
待ち合わせ場所かあ。
半分笑えるけど、半分泣けるな。
だって多分、ほんとにそんな気持ちだったんだろうと思ったりして。与えられていた靖国神話を信じていたわけじゃなくてね。

それにしてもu'さんって読書家っていったら変だけど、努力家(?)ですねえ(なんていったら伝わるのか結局わからない)。
なんか、ここで出会う人は、私以外みんな読書家っていうか、いろんなこと知ってるし、労を惜しまないし、すごいなあ。
59. Posted by まきこ   2005年09月02日 15:47
ちょっと戻るんですが、
戦死して「おめでとう」っていうのが変だということはわかりやすいけど、感謝っていうのが変なのは、なんでなのかをうまくいえない。

うーん、「封じ手」なのかな。たとえば、職場でつらくてやりきれなくて、処遇を変えてもらおうと意を決して上司のところへ行ったら、開口一番「ありがとう。君には本当に感謝しているよ」って言われる。で、言い出せなくなってしまう。

でも、どんな役割を果たしているかはわかるけど、変なのはなぜかの答にはなっていない・・・。

あ、相手の立場を遮断しているから変なのか。封じる、つまり、相手の立場に立たないぞと宣言していることになるのか。な?
これ近くないですか?
60. Posted by u'   2005年09月02日 18:49
感謝の念って言うぐらいだから感謝って念力、テレパシーの一種ですよ、たぶん。(^_^)

その前提にゃどうしようもなく越えられない距離の認識ってのがあるはずだけど、その上司さんには無いみたいですね。勝手に自分の側にしてしまってる。と思いました。
61. Posted by u'   2005年09月03日 13:37
↑考えてたら考えが違ってきました。撤回。
62. Posted by まきこ   2005年09月03日 14:58
あれれ?
u'さんの次のコメントが、メールでお知らせ来ているんですが、blogにはありませんねえ。見えないの私だけ?

ようやっとリニューアルされたみたいなので、そのせいでしょうか。これは投稿できるかな。テスト。
63. Posted by まきこ   2005年09月03日 15:02
あ、すごく変だ。
私が投稿したら、u'さんのが反映されました。でも私のはまだ。
1こずつずれるなんてことある? 
まあいいや。そのうち反映されるだろう。

で、u'さんに返信です。

初めのコメントには、考えあぐねていて、返信できなかったんです。むずかしくておいらにはわからないからもうちょっと説明して〜、と書こうと思っていました。
どんなことになるのか、楽しみですぅ。
64. Posted by まきこ   2005年09月03日 15:03
それとうちゃさん、

> 私も感謝というのは違うと感じてますが、良く考えるとそれも二つあって、当事者ではない人間が使うことへの違和感と、政府が使うことへの違和感はまたそれぞれ異なってます。後者の理由はわかるんだけど、前者の理由がなんか上手く言えない。

の、後者の理由を、私にもわかるように説明していただけませんか。
65. Posted by うちゃ   2005年09月05日 12:43
 私のそのコメント、政府=日本政府という意味で使ってます。戦没者に対する責任を取っていないものが、感謝などする資格はないだろう、と思えるのです。
 東京裁判でその手のケリはついている、というのは無しです。あれは戦勝国による裁きであって、日本軍が日本兵に対して行ったことについては問われていませんから。
66. Posted by u'   2005年09月06日 00:00
> もうちょっと説明して〜、

少し自分語り入れないとうまく説明できそうにないんすが。ま、いいや。

数年前に祖母を亡くしたんです。んで、おれは良い孫では全然ありませんでした。今でも思い出すと壁にパンチ入れたくなります。その気持ちを言い表せば、後悔、に近い。
感謝ってのは、今はありえない。いつかはありえるかもしれない。一口では言えない。

一方でご先祖様に、おれは簡単に感謝できます。知りませんから。

理屈で言えば祖母だってご先祖ですけどね。私的な関係から、おれは感謝するのを自分に許していない。
67. Posted by u'   2005年09月06日 00:02
感謝できるってのは、いい関係ですよ。理想と云ってもいい。さて、この理想形をXとする。いきなりだな。

空虚な関係の中にXを早々と代入するなんて事をヒトは時々やっちまうわけです。これ自体は良くも悪くも無い。関係なんて最初はみんな空虚です。問題はXがしばしば抑圧的にふるまう事です。そうなると、Xは理想です、完成してます。関係はそのまま動かない。

まきこさんの喩えで云うと、上司は、ありがとうと言える関係でありたいからありがとうと言った。実際の関係は置きざりです。

靖国へ行って感謝をささげるのが唯一の過去との関係だって奴も一杯いるんでしょう。今の奴らなんてみなしごばっかりだ。
けれど、そういう感謝の関係において、英霊個人個人の違ったカオなんてのは、むしろ邪魔になる。英霊として感謝している間は、彼らに決して会えないし、関係を築くなんてできない・・・

という理解の仕方をしました。
68. Posted by まきこ   2005年09月06日 05:50
「感謝するのを自分に許していない」・・・か。
つまり、この場合、「感謝」の持つ意味は関係を虚飾することなのかなあ。

うわ、いま自分ですげえ気持ち悪い例をイメージしてしまった。

たとえば小学校のあるクラスで、いじめられていた子がいるとして、その子が死んでしまう。自殺ではなくて。そのあといじめていた子どもたちが、「いままでありがとう」なんていう儀式をしたら、なんか確信的に悪ですよね。つまり、いじめたことを悪かったと思う気がないことを意味する。最後まで揺るがないというか。関係を虚飾することにも確信的ですよね。イジメなどなかったかのようにふるまう。自分がいい友だちででもあったかのように。
69. Posted by まきこ   2005年09月06日 05:56
実は気持ち悪かったのはそっちじゃなくて、

たとえば小学校のクラスで、侵入者がいきなり意味もなくクラスメイトを殺してしまう事件が起きたとする。で、残った子どもたちがきれいな似顔絵を書いたり花を飾ったりして「いままでありがとう」っていうのをイメージしたらなぜか気持ち悪かった。

なんでだろう。意味がわかってない感じ、なのかしら。
わからないままに、いいと言われそうなこと(世間で言われていそうなこと)をして済ませる感じ・・・かな?
しかもこの気持ち悪さは、集団でないと出ないです。

やっぱり私は、封じ込める感じが気持ち悪いみたいです。

なお、上のイメージは、たいへんリアリティを欠いたイメージです。実際には、いろんな経緯を経てそういう行為になることはあると思うし否定しません。
70. Posted by まきこ   2005年09月06日 06:07
u'さん、

自分のことを語ってまで教えてくださってありがとうございました。
「感謝することが許されない」というのは、自分に対して許していないという例であれば、私にも感じることができました。

抽象論では、私には理解しにくかった。私はこういう言葉が理解できにくい傾向があります。

自分は自分に許していないという例があって、そこから、「お前もこの人とはそういう関係にあるはずじゃないのか?」というのなら、なるほど、とわかるんです。
71. Posted by まきこ   2005年09月06日 06:22
「空虚な関係の中にXを早々と代入する」それ自体はありうる。

これ、私の脳内のクラスメイトの例でもいえますね。

クラスメイトなんて、同じクラスになったというだけだから、関係が空虚なことの方が普通です。クラスメイトが死んだからといって特別に何も思わないことを私はとりあえず変だとは思わない。
だから、「何か言えよ」といわれて意味のない「ありがとう」が出てきてもおかしくない。個々人は。もしかしたらクラスの全員が、そういう意味のない言葉しか思いつかないというケースもありうる。別にそれは気持ち悪くはない。関係がなかったんだな、と思うだけ。

でも、クラスとして「ありがとう」をやっちまったら気持ち悪い。
72. Posted by まきこ   2005年09月06日 06:34
なぜかというと、

「個人個人の違ったカオなんてのは、むしろ邪魔になる」

というのとたぶん似ていて、カオのないのっぺりとしたものに、その子を集団で塗りつぶしていく感じがする。

特に私がイメージしたのはクラスに侵入者が来て殺されてしまうというものだったので、「そんなわけないだろ!」になったわけですが。

あと、「みんなで『いいこと』をしましょう」という感じが気持ち悪かったのかな。
73. Posted by まきこ   2005年09月06日 07:38
なんでこんな、学校の例を思いついてしまうかというと、学校では今、感謝が大流行なんですよ。
両親に感謝、地域に感謝って、ことあるごとに気持ち悪いです。

社会全体もそうじゃないですか?
(「笑金」のテーマソング「ココロ花」もそうですし。トータス調子悪いのかなあ?)
確かに、感謝できる(自然に)というのは幸せなことなんですが、この誘導は一体何なんでしょう。
74. Posted by まきこ   2005年09月06日 10:43
うちゃさん、ありがとうございます。

「感謝する資格がない」・・・。u'さんの例で、ちょっとわかったような気がします。

で、同じ「資格がない」ことをするのでも、食べる資格がないのに食べるとかだと「なにやってんだお前」なわけですが、「感謝する」って道徳的に肯定される行為ってことになっているので、資格がなくても「なにやってんだお前」にならずに、下手をすると「なんだ。ちゃんと戦没者のことを考えてるじゃん」に見えるので、「なんか違和感」と感じたということになるのかな。

75. Posted by u'   2005年09月06日 20:06
なんかずれた事書き込んでしまった気がすごくしますが...ま、いいか。

それにしても「感謝」って、具体的に何に対してするんでしょうか。
プレゼントくれて♪とか笑い飛ばしてくれて♪とか、普通はなにかしら対象となる行為なりなんなりがあるでしょう。
ご先祖崇拝の場合は子孫を生み育ててくれて、でいいのかな。

英霊の場合は、戦死してくれて?まさか。
76. Posted by u'   2005年09月06日 20:49
模範解答はなんだろう。
日本を守ろうとしてくれて?そのために死んでくれて?
そのために戦ってくれて?ありがとうって?

http://www.eireinikotaerukai.net/E01Ayumi/E0101.html

↑何が一大叙事詩だ。むかむかしてきた。
77. Posted by u'   2005年09月06日 21:04
むかむかしているのはおれ個人なので、むかむかしない人はくれぐれもこのブログにからまないように。どうかお願いします。
78. Posted by u'   2005年09月06日 21:23
自粛。
79. Posted by うちゃ   2005年09月06日 22:18
 日本軍ってあきれるくらい同じ失敗を繰り返すんですよね。これは兵士の死を本気では悼まなかったからではないでしょうか。”英霊に感謝しよう”と言う人たちは、彼らは無駄死にだったなどと言うと怒りますが、無駄に死んだことの責任は彼らにはないわけです。無駄死にということを認めてしまうと、死なせた側の責任がわかってしまう。だから無駄に死なせたことを認めない。そうして責任をとらないから、しょうこりも無く同じ失敗を繰り返す。
 彼らの死は無駄ではなかった。価値あるものだったんだから、感謝しよう。それでいいのか? 違うだろう。
80. Posted by まきこ   2005年09月07日 10:54
u'さん、こちらこそ。

なんだか毎日毎晩、戦死とか餓死とかの記述や、戦争の「泣ける」話を集めて泣いてよろこんでいる掲示板なんかを読んでいたら、感覚がおかしくなったようです。

気持ち悪いのは私のイメージ力のほうですね。すみません。

学校で教える「感謝」については、改めて書かねばならないような気がしていますが、戦死の「感謝」の対象は、私もいつも謎です。

死んでくれてありがとう、ではありえないし、「日本の礎を築いた」とかよく言われますが、そりゃあみんな、過去の人たちがやったことの上にあるわけで、戦争にいった人だけの問題じゃない。
81. Posted by まきこ   2005年09月07日 11:01
・・・っていうか、戦争とは関係ない。

むしろ戦争はいろんなものを壊したわけで、もちろん戦争に行かされた人にその責任を求めるわけにはいかないけど、戦争がなにか築いたわけじゃない。

今の平和をつくってくれたことに感謝っていうのも変。軍国主義が止まるまでにはこれだけの人が死ななければならなかったのか、というのならわかるけれども、それはなぜ止らなかったのかを研究する問題で、死んだ人が無残でかわいそうだという話にはなるけれど、感謝する問題ではないし。

今の平和に貢献した部分をあげれば、よくぞ軍の検閲を逃れて「死にたくない」という手紙を書き残してくれたとか。だからそういう手紙をどんどん公開して学ぶのならわかるけれどもね。
82. Posted by まきこ   2005年09月07日 11:20
うちゃさん、

そう、「おまえたちの代わりは1銭5厘でいくらでも来る」という言葉が、人を大切に思っていなかったことをよく表していますよね。そしてどんどん死なせて、祀って感謝すりゃいいってことにした。

「尊い死」に対置して「いや無駄死にだ」というのは、死んだ彼らを否定しているのではなくて、そういうやりかたを問題にしているのですが、死んだ人に対する侮辱だと曲解して返してくる。

でも結局、「無駄死にだ」といういいかたは、死の価値についての議論になっちゃうので、そうではなくて、死は死、尊いも尊くないもない、痛ましいから悼みましょう。
で、やったことはなんだったの? というふうに進みたいんですよね。
83. Posted by ロスト   2005年09月07日 13:00
私がご先祖様に感謝するのは

「今の私があるのはあなた方のお陰です」

って感じですかね。

私には西郷隆盛や名も無きお百姓さまも
朝鮮半島から渡ってきて律令国家の礎を築いた方々も

感謝を捧げるに値するご先祖様ですが。


84. Posted by ロスト   2005年09月07日 13:16
で、まきこさんの
2005年08月27日 08:21
>靖国問題というのは、A級戦犯を別にしてすむものでもないし
>神道から切り離してすむものでもないと、私は思うんですよね。

>死に評価を与えるという発想から脱却しないと、同じことが
>起こるのかなと思ったんです。

これは、どうだろう?(と絡んでみる


だって、彼らがどこに線引きをするかは
あくまで彼らの勝手、自由だから。

神社本庁にも属さない
一宗教法人の信仰対象というだけの話。

そういう、考え方の集まりでしかない。

それに、意見するのはまさに
「内心」に立ち入る様なものでは?
85. Posted by まきこ   2005年09月07日 15:32
あ、「靖国問題」といったのは、靖国神社がどのようにあるべきか、という問題ではないです。言い方が悪かったですね。

靖国神社が何をどう祀ろうと、信者が好きでそうして拝んでいる以上は、ほかの宗教団体が何をどう拝もうと構わないのと同じだと思います。(法律に触れなければ、ね。)

ただ、今のような状態なら、再び靖国神社が「お国」のために命をささげることを鼓舞する装置として働かないとはまったく言い切れない、と私は思っています。

それはなぜかというと、日本人であって戦死した人の恩恵を受けていながら、それを尊ばないとはけしからん、という理屈を成り立たせる感情が、靖国神社と無関係に存在するわけではないと思うからなんです。
86. Posted by まきこ   2005年09月07日 15:46
たとえば靖国神社が、対戦国の人を○○人以上殺した人を祀る神社であってもいいし、特攻隊を向かわせた人を祀る神社であってもいいし、天皇を神だと祀る神社であってもいいです。

ただ、そういう一宗教の施設に、天皇が年2回の勅使を使わすのはダメだし、総理大臣が個人でこっそりならともかく、「内閣総理大臣である△□として」参拝するのもダメでしょう。

考えやすい基準としては、元オウム真理教の「アレフ」に対して行なってはいけないことは、靖国神社にも行なってはいけないはずなんです。

そういうふうになっていれば、問題ないとは思うんですが。
87. Posted by まきこ   2005年09月07日 15:56
でね、いまはそういうふうになっていないので問題だと思うのですが、それがね、靖国神社からA級戦犯と呼ばれる人たちを出せばいいのか(首相が参拝しても)というと、そうも思えない。
無宗教の施設にすれば(首相が・・・参拝とはいわないだろうから、感謝の意を表しても)いいのかというと、そうも思えない、んです。

> 死に評価を与えるという発想から脱却しないと

というのは、もちろん、靖国神社にそうしろといっているのではなくて、私たちがもし靖国神社を無力化したければ、私たちが脱却しないと、といっているんでした。
無力化したいと思っている人へのおさそいです。
88. Posted by ロスト   2005年09月07日 17:27
>靖国神社がどのようにあるべきか、という問題ではないです。
>言い方が悪かったですね。

そう取ってはないので、あやまらんといてください。


>靖国神社を無力化したい
分祀やら代替施設やら、相手の土俵に乗らんと
スルーが一番だと思ってます。
話題にのぼる・関心が集まる・共感するものが増える
となる訳だし。

「死に評価を与えるという発想」をしているのは
この場合、あくまで靖国やそれに参拝する側なので
無力化したい側が「死に評価を与えるという発想」から
脱却したとしても「靖国神社を無力化」することは
出来ないのではないでしょうか?
#憲法判断をしっかりしたら良いかと思うんですが...

>天皇が年2回の勅使を使わすのはダメだし
これは何故でしょう?

私は、立場的にバランスがとれており、
仕方ないかな?と考えてる口なのですが。
89. Posted by まきこ   2005年09月08日 06:55
ロストさん、どうも!

> そう取ってはないので、あやまらんといてください。
あ、それは失礼!

> スルーが一番
たしかに、おっしゃるとおりかもしれません。
しかし、いつもこういうことで悩むのですが、進めようとする側は、どんどん話題を作るじゃないですか。何も起きていないなら、わざわざこちらから話題を作ることもないのですが、今の状況でスルーはあまり有効でないような・・・。
90. Posted by まきこ   2005年09月08日 08:32
> 無力化したい側が「死に評価を与えるという発想」から
> 脱却したとしても「靖国神社を無力化」することは
> 出来ないのではないでしょうか?

んーと、靖国神社が、戦死した人のお墓みたいなもの(眠る場所)ではなくて、その人たちを英霊・軍神として祀る神社であるとして(事実そうみたいですが)、まったくそのとおりだと思う人たちにとってそこが力があるという状況は、別にいいです。
まったくそのとおりだと思う人がこの社会の仮に8割だとして、私はそういう社会は嫌だけど、仕方はないです。

でもその8割が、2割に力を及ぼすとしたら、それはおかしいと思います。

私の主観ですが、死者とかご先祖様を大切にしないとは何たることか、という文脈で、2割(仮定の数字をそのまま使っています。意味はありません)に対して力を持つ可能性がある、と感じているのです。
91. Posted by まきこ   2005年09月08日 08:38
で、死者とかご先祖様を大切にしないとは何たることか、という文脈が、そこで力を持たないようにしようとしている、というところかなあ。

ああ、それは私には効かないよ、というふうに。

ロストさん、お手数ですが、変なところはどんどんつっこんでくださいね。助かります。
92. Posted by ロスト   2005年09月08日 09:37
>それは私には効かないよ
「靖国神社を無力化」するより
「自分がしっかりする」ほうが早いかもですね?


何日か前の読売新聞にイラクのパニックの記事で(共同配信かも)

川に入ってシーア派信徒を救い、自らはおぼれて
死亡したスンニ派の少年の話が載ってました。
近くのスンニ派のモスクから
「泳げるものは、川へ。兄弟姉妹を助けよ」
と拡声器から呼びかけたとか。
#拡声器の件は眉唾が良いのかな?とか目頭熱くしたやつの戯言


これで、両派が仲良くなればいいねという善意ではあるけれど
「死」を利用した記事でもあるわけですよね。


人の死は良くも悪くも利用され続けるのではないでしょうか。
93. Posted by まきこ   2005年09月09日 07:45
ロストさん、TBも!ありがとうございます。

ああそうか。私の言葉が変だったのかも。

私は、例えば靖国神社前で抗議行動を行なったり、「参拝反対」と参拝する人にいうことを「対抗」といい、
そういうことをしてもそれ以外の人に影響力をもたないようにすることを「無力化」というと考えたわけですが、

靖国神社そのものを変化させて力を及ぼせなくすることを「無力化」といい、
なにかしてもそれ以外の人が影響を受けないようにすることを「しっかりする」というと考える方が、
語の意味では適切というか、普通かもしれませんね。

ふむふむ。
94. Posted by まきこ   2005年09月09日 07:51
「自分がしっかりする」のひとつとして、

私は「死を評価しない」(価値を与えない)ということが有効かなと思ったのですが、

それはとうてい無理ではないかと。

で、ここから先は、他者に強要できることではなくて、私の考えですが、そのスンニ派の少年の話に涙するのは、その死が尊いからではなくて、その行動に感銘を受けた&死んでしまって痛ましいからだと考えたほうが私の気持ちにはむしろぴったりきます。
ロストさんはどうですか。後者では、気持ちの収まりは、やっぱり悪いものでしょうか?
95. Posted by まきこ   2005年09月09日 08:18
それと、
> 人の死は良くも悪くも利用され
ることについてですが、
私はやはり「よい利用」というのはないように感じるのです。
この記事が死んでしまった少年を取り上げていることは「死を利用」していることだというのは、私も共通する認識です。
で、私はここに既に、危険な匂いを感じてしまうのです。

「シーア派の人を助けようとしたスンニ派の人もいた」で、伝えるべきことの本質としては十分だと思うのです。

助けて死んだことを「えらいねえ」と感じ入る風潮に接していると、そこまで助けずに自分が危ない段階で戻ることは卑怯なんじゃないかと思ったり、自分もそうやって人を助けて死ぬことを空想したり、するようになるような気がするんです。
96. Posted by まきこ   2005年09月09日 08:23
そうなると、そういうメンタリティは、「いつかは自分も何かのために死ぬ」と覚悟するメンタリティと、もはや非常に近いところにあるなと思うんですよね。

「シーア派の人を助けようとしたスンニ派の人もいた」ことを伝えるのに、助けて死んだ人の例を使うのは、そういうことを準備していると思うのです。

しかし「シーア派の人を助けようとしたスンニ派の人もいた」のように抽象をしてしまうと、「この戦争で○○人死亡しました」が戦争の悲惨さを伝えないのと同じことになってしまいますよね。
では助けて死んだ人の例を使わないでほかの例を、というのも恣意的で、操作が入っていることになります。

どうすればいいのか。
97. Posted by まきこ   2005年09月09日 08:30
私は、それを考えるには、もっと基本的なことから考えなければいけないのかも、と思います。

たとえば、助けようとした人はいたがそれで死んだ人はいない場合に、ちゃんと「助けようとした人がいた」ことを同じくらいの重みで報道しているかどうか。

これが常に行われていれば、「助ける」とは必ずしも死んでまで助けることではない、ということが当たり前になると思うのです。

これをしないで、死んでまで助けた時にだけ報道しているなら、それが既に恣意的です。そして実は、そういうことがあったときのほうが報道が飛びついている可能性は、高いのではないかと思っているのです。
98. Posted by まきこ   2005年09月09日 08:39
だから、「人間同士、グループを作って怯えあい憎み合うことがなくなればいいね」ということを伝えたいのなら、死ななくても、助けようとしたスンニ派の人がいたら報道すべきだし、助けようとしなくても、この事件に泣いたり祈ったりしたスンニ派の人がいたら報道すべきだし、もっと積極的に、「どこかにそういうスンニ派の人がいるはずだ」と探してもいいと思うのです。(ヤラセはだめだけど)
そのメッセージを伝えたいのなら、ですよ。

もしそれをやっていないのなら、この記事のメッセージは、「死んでまで助けるなんて尊い」になってしまうかもしれないのです。記事を書いた人の意図を離れて。

私はそう思います。どうでしょうか。
99. Posted by まきこ   2005年09月09日 10:22
あ、ちょっと注釈を。

その前に、私の語の用法が変なのをご指摘くださってありがとうございました。変な用法で紛らわせた上、お手間を取らせてすみませんでした。>ロストさん

注釈:「死の『よい利用』はないと思う」についてですが、ここで考えた「死の利用」には、例えば薬害で誰か死者が出たときに、「ほらみろ死んだ人がいるじゃないか」ということなど、は含みません。
100. Posted by アキラ   2005年09月09日 10:38
「お前のために死ねる」というオトコ性的感性が、やっぱりどうしても前提にあるような気がしますね。
そして、これまでの歴史は、その感性でしか作られてこなかったという、動かしがたい事実がある。
だから、まきこさんの仰るような「いや、生きよう」というオンナ性的感性が、パブリックなレイヤーでは、いやガバメンタルなレイヤーかな、そのへんでは全然一般的になっていないような気がします。

僕自身は、このオンナ性的感性がどうしたら「当たり前のこと」として、フツーになっていけるか、そのあたりが21世紀的課題だと想ってます。
まずは「家父長制をぶっ壊せ」かな (^o^)
すみません、ズレたコメントになってしまいました。
101. Posted by u'   2005年09月10日 12:00
「お前のために死ねる」ような奴の安っぽい死なんて誰も要らねえよ、と文句をたれてみる。

すると奴はふっと笑って、「いや、おれが死にたいから、勝手に死ぬのさ」なんて云いやがる。

まったくダンディズムってやつは。


ヤスクニにゃダンディズムが足りないと思った。
102. Posted by まきこ   2005年09月10日 22:40
この重いテーマの、しかも論点の定まらない元記事のコメントに、こんなに長くつきあってくださってありがとうございます。

アキラさん、
「お前のために死ねる」って、普遍的なオトコ性なんでしょうか。
それとも特定地域(日本とか)限定かなあ。

同じ家父長制にしても、「私はこの家族を守るために絶対に死なない」っていうのがあってもよさそうなんですが。
だって女には多分、「私のために死んで」なんて、少なくとも普遍的にはないと思うんですよ。
それなのに、男の側にだけそれがあっても噛み合わない。

「私のために死んでくれ」っていうのは、女じゃなくて、領主とか国家とかじゃない?
103. Posted by まきこ   2005年09月10日 22:51
あと・・・、

そのスンニ派の少年は、助けるために死んでもいいなんて全く思っていなかったんじゃないか、という可能性は、残しておかなければいけないと思います、絶対に。

夢中になって助けていたら、自分が危なくなった、まずい、こんなはずじゃなかった、深入りしすぎた、母さん助けて・・・。

であった可能性を、私たちはきちっと踏まえないといけないだろうと思うんです。

そんなはずはない、自分のいのちを顧みず、敢然と深みへと向かったのだ・・・というストーリーは誰かの好みである可能性。

こんなはずじゃなかった、助けて・・・だとしたら、少年の死の評価は下がるのでしょうか。
104. Posted by アキラ   2005年09月11日 08:15
>「お前のために死ねる」って、普遍的なオトコ性なんでしょうか。

僕は、そう感じていますよ。
「アルマゲドン」とか (^o^)

女が「私のために死んで」と言うから、男が「お前のために死ねる」って思うわけじゃないと思いますけど・・・。

死の要求というのは「種族保存の要求」です。
観念だけの問題じゃない。
だから、話がややこしくなる。
宗教的感性は、この絡みだと僕はみています。

「死の評価」は、しないんじゃなかったんですか? (^o^)
105. Posted by アキラ   2005年09月11日 08:21
あ、補足です。
「普遍的」というのはちと引っかかりますが、一応のっかりますと、
「普遍的なオトコ性」というのは、「普遍的な男の感覚」ということを僕は意味しておりませんので、その点はよろしく。

そして、その意味の違いを踏まえたいがために、「オトコ性」「オンナ性」と表記しています。
男と女の話ではありません。
それやると、「男」でも「女」でもない人は困りますよ〜。
106. Posted by アキラ   2005年09月11日 08:25
連投すみません。
んで、それをまた踏まえた上で、
>「私のために死んでくれ」っていうのは、女じゃなくて、領主とか国家とかじゃない?

ですから、これまでのパブリックなレイヤー、あるいはガバメンタルなレイヤーは、オトコ性的感性でしか作られてきていない、と言っているのです。
107. Posted by まきこ   2005年09月11日 23:43
アキラさん、

> 「普遍的なオトコ性」というのは、「普遍的な男の感覚」ということを僕は意味しておりませんので、その点はよろしく。

あ、りょうかい。


> >「私のために死んでくれ」っていうのは、女じゃなくて、領主とか国家とかじゃない?
> <
> ですから、これまでのパブリックなレイヤー、あるいはガバメンタルなレイヤーは、オトコ性的感性でしか作られてきていない、と言っているのです。

ん、とすると、「死んでくれ」「死ねるぜ」って、どっちもオトコ性的感性の持ち主同士でやってる世界ってことに・・・。
108. Posted by まきこ   2005年09月11日 23:50
んー、だからね、もしかして、

「死ねるぜ」=オトコ性的感性
んでもってガバメントがその感性で作られてきている

のではなくて、

「死ねるぜ」=もともとガバメンタルな感性
だったりはしないのかなー、
なぜそう思うかというと、対応する「死んでくれ」がガバメンタルな感性である気がするからさ・・・

ってことなんですが。

検証しようがないかもしれませんが。
109. Posted by まきこ   2005年09月12日 00:19
> 「死の評価」は、しないんじゃなかったんですか? (^o^)

あれ、どっかで私、評価しましたっけか。


もし、「こんなはずじゃなかった、助けて・・・だとしたら、少年の死の評価は下がるのでしょうか」 のことでしたら、
これはおいらが評価していったのではないです。
少年の死を「尊い」とする人だったら、死の実際がそうだとしたら評価は下がっちゃうのかな、ということ。

でも、こんなわかりやすいところじゃないような気がするし・・・。
110. Posted by まきこ   2005年09月12日 02:57
イラクの川の事件で、助けた人がいたことを伝える3種類の記述を見つけました。

それぞれかなり違っています。
読み比べてみると、なにか感じるかもしれません。

http://www.nishinippon.co.jp/media/news/news-today/20050905/morning_news019.html

http://d.hatena.ne.jp/bigwave5/searchdiary?word=%2a%5b%b5%ad%bb%f6%5d

http://peaceonyatch.way-nifty.com/peace_on_iraq/2005/09/post_8f5d.html
111. Posted by アキラ   2005年09月12日 08:36
>「死んでくれ」「死ねるぜ」って、どっちもオトコ性的感性の持ち主同士でやってる世界ってことに・・・。

そういうことです。
そして、それに巻き込まれてしまう、多くの人たち。

僕には「死ねるぜ」の感性があります。
実際に死ぬかどうかは、それは知りません。
でも、しっかりあります。
まきこさんには、ほとんどない、ということなんでしょう。

男・女だけで言えば、もちろん、「死ねるぜ」のオトコ性的感性をもたない男性もたくさんいらっしゃるでしょうし、
「死ねるぜ」のオトコ性的感性をもつ女性もたくさんいらっしゃるでしょう。
112. Posted by u'   2005年09月13日 00:23
> 夢中になって助けていたら、自分が危なくなった、まずい、こんなはずじゃなかった、深入りしすぎた、母さん助けて・・・。
であった可能性を、

まきこさん、ここら辺がちょっとヤな感じがします。何でかな...
ニュースの語り口がある種のフィクションを醸し出すのを避けたいからといって、また別のフィクション差し替えても同じじゃないでしょうか。
かといって、そう想像するのが悪いとも思えない。何だろう。
あからさまに言葉に出して公表したとたん違ってくる感じ。

リアルに敬意を払い、それを損なわない語り口というのは難しいです。こころあるジャーナリストやノンフィクションライター達が苦労するところでしょう。
113. Posted by u'   2005年09月13日 00:45
もうひとつ、リアルの側の我々は生み出したフィクションに少しばかり責任がある気がします...

なんですかね、フィクションの「彼」がかわいそうなんです。
たいして差し迫った理由も無いのに、わざわざ彼をひどい場面に突き落とすリアルの側の我々の罪深さを感じるのです。

ちょっと変ですかね?
114. Posted by u'   2005年09月13日 00:56
関係しそうな他ブログの記事とか:

http://blog.livedoor.jp/zentoku2246/archives/15348127.html

http://blog.livedoor.jp/baroq/archives/14307180.html#comments


115. Posted by ロスト   2005年09月14日 11:21
配信する側に求めすぎるとアレかな、と。

100%の客観が存在しない以上
自分のmedialiteracyを高めるほうが
手っ取り早いしね。


ちなみに
イラクの上記記事で私が「うるっ」ときたのは

「泳げるものは、川へ。兄弟姉妹を助けよ」

という、rhetoric部分だけです。
簡素かつ、非常にうまい表現です。
当然、眉唾で聞き流すべき部分ですが
これで仲良くなれるなら私は目くじらたてたりしません。


親が子供を助けようとして双方とも死亡、という
ニュースなどは、極力ぜい肉を排除して
川の事故には気を付けよう、と脳内変換します。

だって、双方とも助かったらニュースにならないし。
ニュースとはそういった性格のものですからね。
116. Posted by まきこ   2005年09月15日 11:51
返信が遅くなってすみません。

まずアキラサンのコメントへ

実はたいへん恥ずかしいのですが、私も「死んでも構わない」と思うことがないわけではありません。そのために積極的に死ぬということではないのですが、「これをやると殺されるだろうな。でもやるべきときにはやるだろうな」というようなことです。

内容は、私の考えでは政治とは関係なくて個人の意思の問題なのですが、今の日本で使われる言葉でいうと、政治がらみかもしれません。

ですので、私が「オトコ性的感性」になってそう思うのか、それとも「政治的感性」になってそう思うのか、考えが分かれるところかもしれません。
117. Posted by まきこ   2005年09月15日 11:59
「死ねる」というのはオトコ性のものだ。政治はずっとオトコ性のものだったから、人は政治的になるとき自然とオトコ性に傾くことになる。だから政治的になるとき「死ねる」と思うのだ。
と解釈するか、

「死ねる」というのはもともと政治性のもので、オトコが政治に携わってきたからオトコ性は「死ねる」と親和性をもってしまった、と考えるか。

いや〜ん、語の定義の話になって、わけわかめになるかなあ。

でも、変える方向性を考えるとき、どっちであると考えるかによって違ってくるような。
118. Posted by まきこ   2005年09月16日 07:33
u'さん、

もし私の読みが違っていたらごめんなさいですが、u'さんは、

> 夢中になって助けていたら、自分が危なくなった、まずい、こんなはずじゃなかった、深入りしすぎた、母さん助けて・・・。

というフィクションを、少年を貶めているように感じるのでしょうか。もしそうなら、私の感覚とはだいぶ違うんだなあと思うのです。ひとそれぞれ感じかたは違って当たり前なのですが、改めて、違うんだなあと感じ入るというか。

私にも16歳の息子がいるのですが、彼に当てはめて考えた時、もし他者が「いのちを顧みず助けた英雄」というように定説化するなら、彼がかわいそうで、救済したい気持ちになるのです。
119. Posted by まきこ   2005年09月16日 07:44
たぶん川に入る時、助けることしか考えていなかったであろう少年(息子)。死にたくないとも、死んでもいいとも、どちらも思っていなかったのではないか。
ある段階で、自分が戻れないと気づいた時、「悔いはない」なんてとても思えなかったであろう彼(息子)。焦り、恐怖に怯え、助けを懇願したであろう彼(息子)。
その無念を、誰も代弁せず、英雄視するとしたら、彼をおいてきぼりにして、勝手に違う像を作るとしたら、救済せずにはいられない気持ちになるのです。

もちろん、この少年のことは知りません。でも、本当のことは誰にもわからないともいえますし、誰でもいろんな可能性をさぐれるともいえるでしょう。だから、英雄視が片方にあるとき、「違うかもしれないんだよ」という視点を片方にもつことを忘れないようにしなければ、と思うのです。救済なんては、できはしないのですが。
120. Posted by まきこ   2005年09月16日 08:03
今の私が、このようなフィクションを作ることについて、たしかに差し迫った必要はないかもしれませんが、いま、死を・・・しかも死んだ人を大切にしようと思う場合その死をどう考えればよいかというやりとりの中でこの例が出されましたので、
「尊い死」とすることの中で捨象されていくものはなにか、「尊い死」とすることが、必ずしもその人のためではないのではないか、ということを考えるために、フィクションを作りました。

この例に限らず、この記事、およびそれについてのやりとりで、私は非常にたくさん「死」、「殺される」、「殺す」という言葉を使い、たくさんのイメージを勝手に作っては壊しています。
こういう自分にうんざりもしているし、自分の罪深さを感じてもいます。「お前が一番いのちを冒涜している」といわれてもしかたないかなと思ってもいます。
そのことは、まあ、背負うつもりではいるのです。
121. Posted by まきこ   2005年09月16日 08:07
ロストさん、

私はロストさんに対して、間違ったイメージを持っていたかもしれません。
とてもニュートラルなかたなのですね。
私の知らないタイプのかたのようで、まだ、うまくイメージができません。お会いしてみたい人です。

私のほうは、配信する側に何か求めたつもりはなかったのです。
むしろ読み手がわに、「こうかもしれないじゃん」といってみたつもり。
122. Posted by アキラ   2005年09月16日 09:16
お、進んでいるからちょっと安心して投稿しよう。

>でも、変える方向性を考えるとき、どっちであると考えるかによって違ってくるような。

そうですね。大事な違いです。
観念の遊びみたいに言葉を定義していってもしょうがないですから、現実をよくよく観察しなければなりませんね。
でも、僕の感じは、どっちでもないんです。
「死ねる」はヒトの情動であって、「政治的」なものとはそもそも関係がない、と思っているからです。
123. Posted by アキラ   2005年09月16日 09:17
(続き)
「死んでくれ」は、確かにそのどうしようもない情動(と僕が思っている)「死ねる」の組織的利用、ですね。
政治的利用と言ってもいいでしょう。
だから、あくどい。
僕としては、これを「利用する」ことが「政治的」なんだと思うんですが。
ですから、この関係の上で対をなしているからといって、「死ねる」の方も政治的と言えるかどうか・・・。
僕は、例えば自分の子どもが僕の心臓さえあれば生きられる、となれば、きっと「死ねる」でしょう。
これは政治的か?

「死んでくれ」があるから「死ねる」があるのではなくて、「死ねる」というカラダにくっついた情動があるからこそ、それを「死んでくれ」と利用する者が出てくるのではないか?
124. Posted by アキラ   2005年09月16日 09:18
(さらに続き)
また、例えば「かめ?」のgegengaさんの書いた「まったく、男のコってヤツは!」
http://blog.livedoor.jp/gegenga/archives/29858783.html
の中の、女のコの話は、僕にとっては非常に「政治的」な振る舞いのように感じられるのですが、これはどうか?
あれは政治と言えるのではないのか、そうでないか。

すっごい千歩ぐらい引いてみると、もしも「何かのために自分の命を投げ出すなんて、とてつもなく恥ずかしいことだ」という「文化」で育ったならば、「死ねる」は100%ないか?
ないなら、カラダにくっついた情動ではないことになりますね・・・。
「教育」によってつくられるもの、ですから。
125. Posted by まきこ   2005年09月17日 03:41
> 僕としては、これを「利用する」ことが「政治的」なんだと思うんですが。

ああ、そうですね。
まずこれは間違いなく「政治的」です。

そして「政治的」はたしかに、「オンナ的」なもののなかにもありますね。

さらに、「死ねる」は「オンナ的」にもあるでしょうね。

じゃ、政治的に利用される「死ねる」がオトコ性的感性なのかな。日本の特攻隊なんか、絶対、「オトコだろ」って迫っていますもんね。

あ、いや、インドでは女性に夫の死への追随死をもとめるなあ。未亡人というのも、「いまだなくなってない人」なのかしら。封建制の中では、女性も「死んでくれ」といわれるんですね。
126. Posted by ncd108   2005年09月17日 16:30
初めまして。コメント欄での皆様のやりとりに対してではないんですが(申し訳ないです)、ちょっとエントリーの方に幾つか感想を述べさせて頂きます。

>「死を食べて、ほかの生き物がいのちをつなぐ」「死が、いのちをつないでいる」という表現には、罠が潜んでいると思う。
ん〜、、これは生態系として見れば「正しい」表現ですよ。生産者としての植物(や一部の細菌)→消費者としての動物・私達人間→植物や動物の分解者としての微生物、この物質の循環がなければ、新しい生命が生まれません。地球上のあらゆる資源には限りがありますから。
物質循環と、人間が「死」について考えることは別次元の話だと思うのですが。
127. Posted by ncd108   2005年09月17日 16:31
(続き)
>死はただの死として、その生を断ち切られたことをただ悲しもうと思う。
これは私も重要なことだと思います。そもそも死者を祀る行為は、祀ることによって天災を防いだり被害を小さくできないかと考えたり(その後はその考えが逆転して人身御供を差し出すことで天災から逃れよう守ろうと手段になりますね)、権力者が戦争(権力闘争)で殺してしまった敵や戦争に狩り出して戦死した味方の怨霊・祟りを恐れたがために勝手に神にしてしまったりってことです。
128. Posted by ncd108   2005年09月17日 16:33
漢字辞典を引いて頂ければ分かりますが、神・社・禊・祀などの漢字に使われる「示す偏」の「示」という字は、「木の台に乗せた神に捧げる生贄から血がしたたるさま」を表した象形文字でもあります。

で、靖国について言えば、元々は明治維新の時に「官軍=体制側」の戦没者だけを祀るために造られた神社です。やはり大きな神社というのは、大抵が戦争・権力闘争の勝者が自らの行為を正当化するために造ったもので、その点は忘れちゃいけないでしょうね。
(長文で失礼致しました)
129. Posted by アキラ   2005年09月19日 13:52
まきこさん、
>日本の特攻隊なんか、絶対、「オトコだろ」って迫っていますもんね。

僕の見解を述べておきますと、この「オトコ」は僕からすれば、文化や制度が育むジェンダーとしての「男(らしさ)」であって、僕の表現するところの「オトコ性」とは、全くの別次元の別問題です。
「オトコ性・オンナ性」とは、セクシュアリティの要素の問題です。
130. Posted by u'   2005年09月21日 05:48
今自分のコメント読み返したら、つみぶかさなんて生煮えな言葉使ってやがるのに冷や汗をかきますよ...
返答ありがとうございました。

>...というフィクションを、少年を貶めているように感じるのでしょうか。

どっちかというと、もっともっとフィクションを、という気持ちなんです。
死んだ人に手が届かないから、フィクションの形で考えたり想ったりするわけでしょう。手の届かなさ具合は大変なもので、貶めることすら難しい。けど、彼を考えたい、想いたい。
なら、せっかくフィクションなんだから、とことんそれを自立させて突きつめる方がいいな、と思ったのでした。どんな物語が紡げるだろうか、と。そうすると彼や彼の周囲の世界を自分が驚くほど何も知らない事に気づきました。Newsでちょっと知った気になってただけで。
131. Posted by u'   2005年09月21日 05:49
この、知った気でいる状態がわが事ながら憎たらしいんですよ。
で、まきこさんについからんでしまったらしい。

前に、かわいそうだなんて書いたのは、リアルの一可能性としてのフィクション、英雄伝説の反転としてのフィクションとしてStopしてる事、に対してなんです。
「本当」はこうかも、というタイプの想像力がかえってNewsの円を完成させて、円の外側の手の届かない「本当」に想いが及ばないという罠があるんじゃないか、と思ったのです。
分かった気を補強するんじゃなくて、こんなにも分かってない、って所に、最後には立ちたいんですね。
132. Posted by まきこ   2005年09月21日 10:18
返信遅れまくっていてすみません。

ちょっとここのところバイトが忙しくて、読めるんだけど書けずという状態でした。

ncd108さん、ようこそ!

> 物質循環と、人間が「死」について考えることは別次元の話だと思うのですが。

あ、それはそうですね。ほんとだ。別次元だ。
(生態系を物質循環に還元しちゃうのは、「⊂」だけど「=」ではないと思うので違和感ある気もしますが、おっしゃりたいことはわかったと思います)

じゃあなおさら、物質循環をとりたてて「死を食べる」と表現するのって、意味ありげじゃないです?
まあ、「死」は忌み嫌うようなものじゃないよといいたいためなのかも知れませんが。
133. Posted by まきこ   2005年09月21日 12:30
続きます。ncd108さん、

> 祀ることによって天災を防いだり被害を小さくできないかと考えたり(その後はその考えが逆転して人身御供を差し出すことで天災から逃れよう守ろうと手段になりますね)

ああ、そうも考えられるのでしょうか。なるほど。
生贄とは、生きていることによって価値が高い供物なのだと私は思っていましたが、死を祀って災難を逃れたい→そのために死んでもらいたい、ということなのかもしれませんね。

ああ、私はなんて考察が甘いんだろう。

そしたら、なんか、「死んで神になる」ことを目指せというのも、皮肉じゃなくてほんとに生贄に近いところで発想されるのかもしれないという気がしてきました。
134. Posted by まきこ   2005年09月21日 12:35
権力維持のためにたくさん死なせたので祟られそうだから祀るというのであれば、いくら祀るからいいとはいっても、死者は少ない方がやっぱり祟られる可能性が少なくて安心じゃないですか。

そうじゃなくて、たくさん死んでもらってたくさん祀ったほうがより安心になるという、やっぱりクレイジーな宗教だった部分もあるのかしら。

そうなるためには、祀りさえすれば絶対に祟らないという確信が必要なんですが。
まあ現実的におそれがあるのは、死者のたたりりより生きている人の反逆のほうなわけで、仲間を死なせても死なせても絶対に反逆しないという確信が持てるって、すごい状態の社会だなと改めて思いますね。
135. Posted by まきこ   2005年09月21日 13:15
アキラさん、

> 僕の見解を述べておきますと、この「オトコ」は僕からすれば、文化や制度が育むジェンダーとしての「男(らしさ)」であって、僕の表現するところの「オトコ性」とは、全くの別次元の別問題です。
「オトコ性・オンナ性」とは、セクシュアリティの要素の問題です。

えー、そうなんですか。
私は、前にアキラさんが書いてくれた

> 男・女だけで言えば、もちろん、「死ねるぜ」のオトコ性的感性をもたない男性もたくさんいらっしゃるでしょうし、「死ねるぜ」のオトコ性的感性をもつ女性もたくさんいらっしゃるでしょう。

という文からも、「オトコ性」とはジェンダーの問題だと理解していました。セクシュアリティが男でも、「死ねるぜ」じゃない人はいるし、女でも「死ねるぜ」の人はいる、と。

違うとなると、ちょっと私、こんがらかります。
136. Posted by アキラ   2005年09月21日 17:51
(^o^)、やっぱり。
どうも、話がかまないと思った。
だから、カラダにくっついている、と言ってたんですよぉ。

文化的・制度的なジェンダーの問題は「男・女」しかないので、男、女で言えば済むし、それで構わないっすよね。
ところが、生物的見地に立てば、それにはまらない人たちはたくさんいるわけで、それを「男・女」にはめる必要もないので、「男・女」論は、そもそもあんまり現実的でない。

んで、僕はたまたま整体を学んでいるので、カラダのところまでいつもひいてみてるんです。
そうすると、「性的な要素」というものが、カラダにくっついてある、ということが分かる。
そこを敢えて、言葉に「抽出」してみているんです。
ジェンダー的な「男・女」とは、全く別次元の話です。
137. Posted by まきこ   2005年09月21日 22:53
んじゃあ、「死ねるぜ」はカラダにくっついた「オトコ性」にあるっていうこと???

うー、なんかイメージがむずかしいです。

セクシュアリティが女性の人の、「死ねるぜ」は?
それは別の問題???

138. Posted by まきこ   2005年09月21日 23:03
u'さん、

> 前に、かわいそうだなんて書いたのは、リアルの一可能性としてのフィクション、英雄伝説の反転としてのフィクションとしてStopしてる事、に対してなんです。
> 「本当」はこうかも、というタイプの想像力がかえってNewsの円を完成させて、円の外側の手の届かない「本当」に想いが及ばないという罠があるんじゃないか、と思ったのです。

うーん、u'さんはいつも私の想像を気持ちよく越えるな。
前のコメントは、書きながら、「u'さんのいいたいことがこういう事なわけないよな」と思っていたのですが、それでも私は自分の視野を変えられなかった。
こんなにも私は、単一の視野しか持てていません。
そう、この偏狭さこそが、たぶん一番の問題。
139. Posted by アキラ   2005年09月22日 00:04
u'さんの、
>「本当」はこうかも、というタイプの想像力がかえってNewsの円を完成させて、円の外側の手の届かない「本当」に想いが及ばないという罠があるんじゃないか、と思ったのです。
分かった気を補強するんじゃなくて、こんなにも分かってない、って所に、最後には立ちたいんですね。

に、強く共感。。。

>「死ねるぜ」はカラダにくっついた「オトコ性」にあるっていうこと???

です、はい。

>セクシュアリティが女性の人の、「死ねるぜ」は?

ですからそれは、セクシュアリティが女性の人の中の「オトコ性」 (^o^)。


140. Posted by まきこ   2005年09月22日 22:20
> ですからそれは、セクシュアリティが女性の人の中の「オトコ性」 (^o^)。

ん〜。
そうなんだ。
セクシュアリティが女性である人の中にある「オトコ性」なのであれば、それはカラダにくっついてないんじゃ? と、私なら思うんですよね。
それはカラダにくっついてないもので、社会習慣上オトコかオンナかのどちらかに振り分けられた、ジェンダーなんじゃないの? と、私なら解釈するんですよ。

だからアキラさんとは枠組みが違っているみたいなので、別の機会にもっと詳しく伺ってみたいです。
141. Posted by アキラ   2005年09月23日 00:33
はい、そうですね。
近いうちに、自分とこでエントリーにします。
とりあえず、これを参考に↓
http://blog.livedoor.jp/appie_happie/archives/11323758.html

自然界に、男と女しかいないのであれば、男のカラダにくっついているのが「オトコ性」、女のカラダにくっついているのが「オンナ性」でしょう。
でも、そうはいかないですよね。
ところが、現実問題として、動きや感受性に表れるオトコ性的なもの、オンナ性的なもの、がある。

フェミニズムは、これを全て「敢えて」文化的・制度的なものだ、としたわけです。
しかし、はたしてそうか?
カラダを観察していると、そういう疑問が湧くのです。
そこで僕は、とりあえず男とか女とか関係なく、性的な動きや感受性のある種の要素を「オトコ性」「オンナ性」として観ている、ということです。
142. Posted by u'   2005年09月23日 14:11
> フェミニズムは、これを全て「敢えて」文化的・制度的なものだ、としたわけです。

うーん...
カラダにくっついた種々の要素を「オトコ」/「オンナ」に区分してゆく視線を批判したのがフェミニズム、というのではいけませんか?

要素を反復・強化・訓練・固定させる力を文化etc.に見出したって事だと思ってましたけど...
143. Posted by ncd108   2005年09月23日 14:24
>じゃあなおさら、物質循環をとりたてて「死を食べる」と表現するのって、意味ありげじゃないです?

え〜と、我々人間・動物の「消費者」は、植物=生産者や他の消費者を食って生きてますから、言い換えればそれらの死を食べてるとは言えるでしょうし、菌類や節足動物などの分解者にとっては、そのまんま動植物の遺体(消費者が分解できない有機物)や老廃物が栄養源なので、これも「死を食べてる」と表現できます。
私は、この「死を食べる」という表現は、文字通り何の深読みもなしに解釈していますし、私が言いたかったのは、この話(自然の理で言う「死」)から「人間が同胞の死を悼む・死の意味について考える」話(観念上の「死」)につなげない方がいいんじゃないだろうかってことだけです。
144. Posted by ncd108   2005年09月23日 14:49
>そうじゃなくて、たくさん死んでもらってたくさん祀ったほうがより安心になるという、やっぱりクレイジーな宗教だった部分もあるのかしら。

ん〜・・まぁそれはなかったと思いますよ。人身御供にしたって、そんなに数多く選ばれてた訳でもないでしょうし。

ただ、病気や天災が、死んだ人間の怨霊・祟りによって起きるというのは当時の「科学」、つまり「そんな恐ろしい怨霊には神になって頂いて自分達を守ってもらおう」という、怖いお兄さんを用心棒にするみたいな発想が「祀る」という行為な訳で、祀られる死者については、数よりも「質(より非業の死)」が重視されたと考えられます。菅原道真公が手厚く幅広く祀られているのは「そういうこと」です。
145. Posted by ncd108   2005年09月23日 15:32
あ、でも日本でも(少なくとも)埴輪のできる前は殉死制度ってのもあった訳だし・・・(しかもこれは古代ギリシャ、古代中国など全世界的に行われていた風習のようですね)

疫病や天災に対して全くの無力だった古代では、「たくさん死んでもらってたくさん祀ったほうがより安心」的発想はあったかもしれません。
146. Posted by u'   2005年09月23日 17:10
↓この記事面白いなあ...

笙野頼子の大傑作『金比羅』の凄さは伝わるか:
http://kujronekob.exblog.jp/i8/

金比羅、詠んでみようかな。

147. Posted by アキラ   2005年09月23日 23:33
u'さん、
>カラダにくっついた種々の要素を「オトコ」/「オンナ」に区分してゆく視線を批判したのがフェミニズム、というのではいけませんか?

あ、そうも言えますね。
僕の表現で言えば、「男」/「女」に区分してゆく。

それはそうなんですが、そうなると、オトコもオンナも人間だろうというあたりが、出てくることになりそうな・・・。
僕が、人の体を観ていて感じることで言えば、しかしやはり、例えばオンナの人の体とオトコの人の体と、その感受性や動きというものは、全く別の生き物だと言い切ってしまっていいくらいに、別のものだという感じがあるんです。

同じ人間で括ろうとすることの方に、まず非常に無理がある。
そんな感じも、一方であるんですよねぇ。
148. Posted by まきこ   2005年09月24日 10:13
> フェミニズムは、これを全て「敢えて」文化的・制度的なものだ、としたわけです。

この、「敢えて」とおっしゃる意味は、たぶん私、わかると思います。

それが文化によるものだと証明されていなくても、あまつさえ、なんとなく男っぽい、女っぽいんじゃないかと、やっぱり思えるとしても、女として、あるいは男としての肉体がそれを要請するものでないならば、とりあえずは「女の行動」「男の行動」と決め付けるな、という意味ですが、そこを「文化的・制度的なものだ」と言い切ったわけですね。

これは、そういう考えが全くなかったときに初めて出した考えかたですから、これでよかったのだと思います。「まあ、やっぱり男っぽい行動、女っぽい行動というのはあるが・・・」では世界を引っくり返せなかったでしょう。
149. Posted by まきこ   2005年09月24日 10:19
そこはアキラさんもご存知のとおりですし、私のこのコメントも、アキラさんに対する反論というニュアンスはないです。

今もまだ世界は少ししか変わっていないので、引き続き「文化的・制度的なものだ」といい続ける方法もあるけど、「そうではない部分もあるのでは・・・?」ということに気づいてきたのにいつまでも「敢えて」をやっていると、「その理論は間違いだ」ってなことになって、全否定されてしまう可能性も高まってきますね。

ここはやはり、なるべく真実に近くなるように考えていったほうがいいと私も思います。

アキラさんの連載、楽しみにしてまっせー。
150. Posted by まきこ   2005年09月24日 12:06
ということで、9月9日10:38のアキラさんのコメントに戻ると、

「死ねるぜ」はオトコ性のカラダにくっついた自然なものなんだけど、それが政治の場面で利用されているのが問題、ということになるのでしょうか。
政治をオトコ性の人間がつかさどっていたために、「生かそう」←→「生きよう」という指向性でなくて、「死んでくれ」←→「死ねるぜ」という指向性になってしまったと。

で、この場合、性別に関わる言葉を使わずに「○×性を持った人間が政治をしていたから」と表現するような問題でなく、まさに「オトコ性」というしかないと、いうことなんですね?
151. Posted by まきこ   2005年09月24日 12:14
んで、今度は、u'さんのコメントに対するアキラサンの返信に対してなんですが、

> しかしやはり、例えばオンナの人の体とオトコの人の体と、その感受性や動きというものは、全く別の生き物だと言い切ってしまっていいくらいに、別のものだという感じがあるんです。

ですが、オンナ性の人の中にもオトコ性の「死ねるぜ」がありうるわけでしょ?

だったら別ものではないのでは? 
「死ねるぜ」のありかたは、たしかに文化・制度のせいではなくて、カラダにくっついた違いではあるにしても、実際はオトコにもオンナにもあって、そのありかたはグラデーションでしょ、ということになるのではないのでしょうか。
152. Posted by まきこ   2005年09月24日 13:40
なんか、元記事と違う話題になっていっているので、この続きはアキラさんがTBくださった記事でやりとりするのがいいかと思うのですが、

オトコ性の人にもオンナ性の人にもあるものを、敢えて「オトコ性的感性」と表現するということは、同時にその一方で、オトコ性の人の中にもオンナ性的感性があるし、オンナ性の人の中にもオトコ性的感性がある、それはあたりまえで普通のことだよ、と表明することによって、実際から遠ざかって観念が一人歩きすることを防げるのではないかなと、私は思うわけですね。

だから、「その感受性や動きというものは、全く別の生き物だと言い切ってしまっていいくらいに、別のものだという感じがあるんです」ということは、どういうことになるのかなと、興味があります。
153. Posted by まきこ   2005年09月24日 14:53
u'さん、
あれ、すんげえ書評ですね。私も「金毘羅」読みます読みます。
154. Posted by まきこ   2005年09月24日 15:57
ncd108 さん、

> 「死を食べてる」と表現できます.

はい。可能か不可能かといわれたら、もちろん可能です。
あとは、そうすることを選ぶかどうかに、その人の考えが現れてくるのだと私は思うのです。

私自身は、生き物が何かを食べて生きるということは、太陽エネルギーを蓄えたものからそれを取り出すことだと言い換えることができる、と思っていますので、「死を食べて生きる」という表現は選びません。ここら辺についてはこのエントリーを。
http://blog.livedoor.jp/niwatori5555/archives/20066547.html

「死を食べて生きる」といういいかたは、科学的にいえば、決して正確ではないのだと思います。では文学的にみるとどうか。
155. Posted by まきこ   2005年09月24日 16:10
まずその前に、ある言い方が科学的に見て正確ではなく、文学的なのだとすれば、そこには、ある「意味」があるのだと、私は思うのです。というか、ある「意味」を伝えずにはおれないのだと。

ncd108 さんは、「私は・・・文字通り何の深読みもなしに解釈していますし」とおっしゃっているのですし、そうなのでしょうが、私には、そこに別の考えへと繋がる道が、ほそーくあるように見えたのですね。

あ、すみません。出かけます。帰りは遅いです。
156. Posted by アキラ   2005年09月24日 18:09
まきこさん、
え〜っと、言葉の意味とかが混乱している嫌いがありますので、続きは僕のエントリーをじっくり読んでから、改めてお願いします。
ここの元エントリーの内容とも、ズレてしまっている感じもしますし。
ごめんなさいね、毎度毎度。

一応、コメントしておきます。
僕が言いたかった「オトコ性・オンナ性」は、個体の問題ではなくて、要素の問題です。
「オトコ性の人がいる」とかってわけじゃなくて、ヒトの性の要素に、オトコ性(ウーイング)・オンナ性(ツーメセント)がある、ということです。
性ホルモンと同様、当然これはある割合でもって、一人一人の中に両方あるわけです。
だから、例えば、ある女の人の中に「オンナ性85%:オトコ性15%」みたいな感じである、というイメージが近いでしょうか。
157. Posted by アキラ   2005年09月24日 18:10
(続き)
まきこさんが仰るように、ですから実際にはグラデーションな感じになるでしょう。
その上で、もちろん、オトコ性100%の男もいるでしょうね。

だから、
>オンナ性の人の中にもオトコ性の「死ねるぜ」がありうるわけでしょ?

ではなくて、「女の人の中にもオトコ性の「死ねるぜ」がありうる」・・・ということになります。

「死ねるぜ」はウーイングの究極だと思うんですが、その本能的なものを「あざとくうまいこと利用する」ヤツらがいる、それが問題だ、と僕は認識しているということです。
158. Posted by アキラ   2005年09月24日 18:15
(さらに続き)
あ、それで、人の体を観察していると、
やっぱり、オトコ(体も脳ミソもオスの人)の人には、圧倒的に「オトコ性」が多く、オンナの人には圧倒的に「オンナ性」が多い場合がほとんど、なんです。
実感としては。
だから、別の生き物って感じがする、ってことです。
それほど、オトコ性(ウーイング)とオンナ性(ツーメセント)は、ニュアンスが異質のもの、なんだろうなぁ・・。
実感から言うと、そうとしか今は言えません。
もうちょっと、「抽出」のために練ってみます。
159. Posted by まきこ   2005年09月24日 21:27
> ある女の人の中に「オンナ性85%:オトコ性15%」みたいな感じである

ああ、これわかりやすいですね。

> やっぱり、オトコ(体も脳ミソもオスの人)の人には、圧倒的に「オトコ性」が多く、オンナの人には圧倒的に「オンナ性」が多い場合がほとんど、なんです。

ん、実感としてそうならば、そうなのでしょう。
ただ、それが社会的な方向付けによるものでないかどうかは、残念ながら「現在の事実」からは、証明するのが難しいですね。

方向付けは、生まれたばかりの赤ちゃんに対する態度から、すでに行われていますのでね。

> 続きは僕のエントリーをじっくり読んでから

りょうかいです。私も、どうしても自分の考え方の枠組みから外れられていないのかもしれない。
160. Posted by まきこ   2005年09月24日 22:35
ncd108 さんへの続きです。

「太陽エネルギーを蓄えたほかの生き物の体から太陽エネルギーを取り出して生きる」という自然の理に比べて、「死を食べて生きる」は、すでに観念的だろうと思います。

そんなわけで、ご指摘のように、私は本来つなげるべきでないものをつなげてしまったわけですが、私は、私がそうする以前に道筋ができていたので反論したつもりだったんですね。

でもなあ、そういうものは、明確に主張し始めるまでは放っておいた方がいい、という意見があることも確か。
161. Posted by まきこ   2005年09月24日 22:59
>> そうじゃなくて、たくさん死んでもらってたくさん祀ったほうがより安心になるという、やっぱりクレイジーな宗教だった部分もあるのかしら。(まきこ)

> ん〜・・まぁそれはなかったと思いますよ。人身御供にしたって、そんなに数多く選ばれてた訳でもないでしょうし。

ちょっと考えすぎだったでしょうね。
だけど、ncd108さんのコメントを読んで、たしかになにか閃いたものがあるんですよ、私の中で。
きっと、なんかの回路と回路とがつながったんだろうな。今はわからないけど、きっとどういう形でか、私の思考を広げると思います。ですので、感謝してます。
162. Posted by ncd108   2005年09月25日 06:53
>「太陽エネルギーを蓄えたほかの生き物の体から太陽エネルギーを取り出して生きる」という自然の理に比べて、「死を食べて生きる」は、すでに観念的だろうと思います。

ん〜、、私の理解力・知識不足もあるんですが、まきこさんとどうも上手く表現できない食い違いがあるような(苦笑)

太陽エネルギーのくだりは、科学的、というより化学的な話ですね。それはまぁいいとして、「死を食べて生きる」が何故"既に"観念的なのかは私にはちょっと分からないです。
「消費者」たる動物や我々人間、及び「分解者」がエサにしてるものは基本的には死んだ個体(排泄物を栄養にする微生物などは別ですし、植物は少し食べられただけでは死にませんが)であって、エサにされた生物の命がエサにした生物の中で生きてる訳じゃないですよね。

163. Posted by ncd108   2005年09月25日 06:55
(続き)
今生きている生物の「死」は、次に新しい生物が生まれる前提であって、今生きている生物が仮に「死なない」となると、植物はそれでいいかもしれないけど、動物が利用できるのは植物が作ってくれる有機物の余剰分だけしかない。それじゃぁ、新しい生命も生まれないどころか、とりあえず肉食動物や人間などの第二次以上の消費者は生きる余地は殆どありません。
まきこさんが、植物とごく一部の草食動物だけの世界をお望みであるというならこの話は終わってしまいますが(苦笑)、ある程度生物が「食べられ」て死なないことには、食物連鎖も物質循環も今の形では成り立ちません。

164. Posted by ncd108   2005年09月25日 07:03
(続き)
「死を食べる」という表現に何かひっかかりを感じられるのであれば、「食べる=利用する」でもいいんですけど。
観念的というなら、むしろ「太陽エネルギーを取り出して生きる」という表現の方が観念的じゃないでしょうか。肉食動物や人間や菌類などの多くの従属栄養生物にとってみれば、大抵エネルギーを「取り出そうと」すれば、その個体を殺さざるを得ないんですから。
165. Posted by まきこ   2005年09月25日 07:29
死んだ肉体=死 ではない、ということでしょうか(私のいいたいこと)。

さらには、欲しいのは肉体であって、それを奪うことが相手の死を結果するとしても、欲しいものそのものは死ではないということ。

ncd108さんは、「死を食べる」とどうしても表現しなければならない必然はありますか?
166. Posted by アキラ   2005年09月25日 11:20
まきこさん、
>方向付けは、生まれたばかりの赤ちゃんに対する態度から、すでに行われていますのでね。

そうなんですよねぇ。

>ただ、それが社会的な方向付けによるものでないかどうかは、残念ながら「現在の事実」からは、証明するのが難しいですね。

これは面白いですね。
違う立ち位置から、おんなじ方向のことを思ってる (^o^)。
僕の場合は。「それが生物的なものでないかどうかは・・・証明が難しい」ということになっちゃうんですよね。
ギリギリの削ぎ分けが必要なようです。
167. Posted by アキラ   2005年09月25日 11:32
いのちをつないでいるのは、生とか死とかではなくて、「いのち」なんじゃないでしょうか・・・。
と言ってみる。

なぜ、
「生を食べて、ほかの生き物がいのちをつなぐ」
ではなくて、
「死を食べて、ほかの生き物がいのちをつなぐ」
なのかなぁ。
あ、「死がい」の写真だからかな。
168. Posted by まきこ   2005年09月26日 07:36
> 僕の場合は。「それが生物的なものでないかどうかは・・・証明が難しい」ということになっちゃうんですよね。

そうですよね。で、どっちだろうかと論争をしていても始まらない、と考えたのが、フェミニズムの「とりあえず社会的なものだとする」だったんじゃないかと思うんです。

今、もうこんな分離不可能っぽい状態になっているのだから、いったん「生物的ではないんだ」と思ってやってみる。社会的な再生産を止めてみる。それでも残るものがあった時にわかるだろう、という、実証的な方法。

まあ中には、本当に生物的では全くないんだ、と思っている人もいるんだろうと思うけど、そう思って実行しないと再生産が止まらないんだからまあそれもありかと。
169. Posted by まきこ   2005年09月26日 08:58
> いのちをつないでいるのは、生とか死とかではなくて、「いのち」なんじゃないでしょうか・・・。

そう。同じ文学的ないいかたをするなら、ちょっと食傷気味ではあるけれど、「いのちをいただいている」のほうが、まだしも私は違うところにつながる道を感じないですね。素直な気がします。

死がいの話だからといっても、
「死がいには栄養がいっぱい」
「死がいはおいしい」
という方法もあるわけで(私なんかが言うまでもなく)。

でもこれじゃあたりまえすぎてつまらないんでしょ。だから「死を食べる」という表現を選んだ。でもそのときになにか起きているとしたら、その責任は問われると思うな、書き手は。
170. Posted by u'   2005年09月26日 21:55
豚肉でもなんでも食ってるとき、「それ、死体を食べてるね」なんて云われたら、たぶんすごい嫌だろうけど、なんかおれは言い返せませんね。

だって本当ですもん。身もふたも無く客観的記述です。確かに死体ですしね。あ、そっか誰かが殺したもん食ってるんだなとか思う。

「命を食べてるね」なんて云われたら、けっ、とか思っちゃいそう。現に死んでるしなあ。いくら新鮮でも食べてる時点で命は無いしなあ。

「殺した事」やらなにやら背景も含みの「死体」を意味したいってことなら「死」って抽象化はおれは、うなづける。写真家ゆえのオブジェクト思考っていうか。そこにほら、「死」が転がってる。目線はちょっと狩猟民族的かもしれない。撮影はShoot(射殺する)ですしね。

なにかあったら責任問えば良いと思います。表現者ですからそれくらいはとっくに覚悟済みでしょう。
171. Posted by u'   2005年09月26日 23:25
うーん、やっぱりおれの感覚では、
「死を食べる」より「いのちをいただいている」の方が「尊い死」にずっと近いです。
172. Posted by まきこ   2005年09月27日 00:14
なるほどなあ>「死を食べる」より「いのちをいただいている」の方が「尊い死」にずっと近い

実際には、「寄生」を考えればわかるように、生きるためにはいのちを食べる、もしくは死を食べる、ことが必ずしも必要ではなく、要するに他の生物が取り込んだ太陽エネルギーが取れればいいわけですから、それ以外の記述をする時には、何にしてもそれ以外の意味が入りますね。やはり。

173. Posted by まきこ   2005年09月27日 00:27
私は、自ら殺して食べる人間なので、いのちをいただくの「いただく」は、食べるという意味もあるけど奪うの意味もありますね。

さらに白状すると、いわゆる死体を食べたこともあります。
初めて名古屋コーチンを飼ったとき、おとなになったばかりのが事故で1羽死にました。死んで間もなく、まだ暖かいうちに発見しました。これを土に埋めるのはいかにももったいなかった。私たちはたまごを産まなくなった鶏を食べるので、若鶏を食べるということは基本的にできないのです。名古屋コーチンの若鶏。なんでこれを泣く泣く埋めなければならないのだ。油で揚げて、家族4人で奪いあって食べましたね。最高にうまかったです。

174. Posted by まきこ   2005年09月27日 00:31
しかしそれでも私はやはり、「死を食べた」という実感はなかったし、いま思い返してもそのように再現はできにくいです。楽観主義者なのかなあ。私たちの腹にたまったのは死ではなく、程よく充実した筋肉、若さ漲る肉体であったのです。

「死を食べる」という捉えかたは、いささかペシミスティックな気がします。それは逆説的なようではありますが、自ら殺すものの実感ではなく、死の現場から遠い人の贖罪の意識なのかもしれない、な〜んてことを、あまり深い考察もなしに思ってみました。

「死体を食べる」は、別にペシミスティックではないと思います。それは私にとっては、すんごく普通の事実です。
175. Posted by まきこ   2005年09月27日 08:48
「私たちの腹にたまったのは死ではなく、程よく充実した筋肉、若さ漲る肉体であったのです。」

あらら、これでは「死を食べる」に対応していませんね。

「私たちの中にたまったのは死ではなく、小躍りしたくなるほどの生の喜びだったのです」か。

でもこういう書き方、事実ではあるけれども、くさいよなあ。
「死を食べた」「私の腹は死で満たされた」というほうが、今の時代の雰囲気には合っているのでしょう。
176. Posted by gegenga   2005年09月27日 09:07
死んでから食っても、生きているうちに食っても、食ったものは「肉」。
などという、身も蓋もないことを感じてしまうワタクシ。

なんか、この議論にうまくついていけないなぁと思っていたのですが、ここまできてやっと「このへんがよくわからない」という部分がわかってきました。
「死を食べる」っていう言葉が、しっくりこない。
「死」を食べるのは死に神だけでしょう、みたいな。

生き物は「死」も「生」も「命」も食べないで、「肉」を食べる。
「肉」が体の中で、「生」になっていくんじゃないかなぁ。

「生」を自分の中で作れるから「生き物」で、「命をつなぐもの」で、だから「生き物万歳」みたいな(笑)
177. Posted by まきこ   2005年09月27日 09:58
いやいや、そうなのさ。
その、身も蓋もなさ、私たちが生きていることのリアリズム。

これをわざわざ「死を食べていのちをつなぐ」という風にいうこと。これはなにか。
ここに私はひっかかったのよ。

そんなニヒリズム入れてる場合か。っていうかね。私たちは殺し、肉を食らい、そして肉はうまい。私たちの身体は、肉を食らって悦ぶ。
178. Posted by まきこ   2005年09月27日 10:03
私たちが日頃食べているものを、「食品」としか感じられないこと。これはまずいだろうと私も確かに思う。
道端に落ちている生き物の死がいを、「さっさと掃除すべきもの」としか感じられないこと。これもまずいだろうと思う。

だったら私なら「死がいはおいしい」「私は今日も死がいを食べる」と書くね。そしてgegeさんのおっしゃるように、「死がいを食べて、『生きる』ができる」と書けばおもしろいかな。

まあ、どう書くかは自由で、宮崎氏は「死を食べる」だったわけだが、そこに「本当にそうか?」と疑問を投げかける人間がいるのも止められないわけだ。
私がいった書き手が責任を問われるとはそういうことで、だから私は責任を問うているわけ。そして私も責任を問われる。
179. Posted by ncd108   2005年09月27日 16:19
あー、ようやく(前よりは)まきこさんの仰っていること、理解しました。と同時に、まきこさんと私の食い違いってのも多分分かりました。

まきこさんが仰っているのは、「私達が食っているものは『死体・死骸』という形のある物体であって、『死』という現象・概念を食っている訳ではないんだから、『死を食べる』という表現はおかしいんじゃないか?」ってことでよろしいでしょうか?

180. Posted by ncd108   2005年09月27日 16:22
で、私の場合は、とりあえずこれまでの生態系の・生物学的な話の中では、その「『死』という現象・概念』」に対して「生命活動が停止すること」以上の意味を何一つ考えていなかった、言い換えると「死=(≒)死体」という扱いでその表現の差異には拘らずに書いていましたから、それでまきこさんと食い違うところがあったのかな、と。

まぁでも、私達は多細胞生物ですので、別に「食べる」行為に限定しなくても、幾らでも生命を殺しながら生きてる訳です。
トイレで排便しても大腸菌を何千万と殺しているし、風呂に入って体こすっただけで同様に何千万何億って細菌が知らないうちに死んでます。
181. Posted by ncd108   2005年09月27日 16:24
人一人、生きてること自体があまたの死の上に成り立っている事実は避けようがないですし、「欲しいのは肉体であって、それを奪うことが相手の死を結果するとしても、欲しいものそのものは死ではない」と言ってみても、我々はバクテリアでも植物でもありませんから、そうしたくたって不可能です。「ごめんなさい。私は他の生命奪ったりなんてしませんから」って言って自殺したって、今度は自分の身体の中で生きている細菌を道連れにして殺してしまいます。

でも、その事実があって、つまり地球上で、「生きている時には一番多くの生物殺してそうな人間」だって高々100年前後で一個体はちゃんと死ぬ(他の生物に捕食されたり分解者に死体を利用させたりは現代の人間はなかなかしてないけれども)、そのことによって生態系のバランスは何とか保たれている訳ですね。
182. Posted by ncd108   2005年09月27日 16:36
だから、別に「死体・死骸を食べる」という直接的な・見たままの表現でもいいんだけれども、「死を食べる」という無味乾燥な端的な表現でも悪くはないのかな、と私は思います。
少なくとも私はその表現に悲観的なものも虚無的なものも見出してはいません。私達が、自身が生きるために他の生命の死を待って(あてにして)いる、これから生まれてくる個体も自身も含めた今の生命の死を待っているのは事実ですからね。

183. Posted by アキラ   2005年09月27日 18:42
↑事実、なのでしょうか・・・?
ある出来事があって、それがそう見えるということは、どちらにしても言えると思いますが、その「見え方」は「事実」なのでしょうかね?

そのへんの「決めつけ」が、気になりますです。
184. Posted by u'   2005年09月27日 22:21
オレは「死を食べる」って聞いて、そっかー死を食べて生に変えるわけね...生き物強し!死が何ぼのもんじゃい!と思った方なので、ニヒリズムは感じませんでした。
我ながらアホっぽいけど。

「死」というと、まず「死ぬという出来事」だけれど、生者を死者に変える力、のようなニュアンスもある気が。
その場合、生き物に死が「訪れて」生き物を死骸に変える。
後者の意味で取ると、確かに、食うと元気が無くなる気がしますね。ここらで反発を喰らうのでしょうか。
185. Posted by ncd108   2005年09月28日 00:03
>アキラさん
どの部分を指していらっしゃるのかはちょっと分かりかねますが、私が「事実」という言葉を使って書いたことは、解釈も何もしてませんよ。そのままです。

原始の地球には古細菌やシアノバクテリアといった細菌しかいませんでした。細菌ってのは利用できる必要なエネルギーが十分にあれば、事故以外では死ぬことはありません。分裂して増殖し放題です。
186. Posted by ncd108   2005年09月28日 00:09
でもそのエネルギー=資源も無限ではなくやっぱり限りはある訳で、その有限な資源が今生きている生物だけで過不足なく使われていれば、新しい生命が生まれる余地は本来はない。ただそこで、新しい環境に適応した生物なんかがでてきてしまうと、生存競争せざるを得なくなる。そうなって個体の「死」が"必要になって"、物質循環も行われるようになったと考えられます。

だから、『私達が、自身が生きるために他の生命の死を待って(あてにして)いる、これから生まれてくる個体も自身も含めた今の生命の死を待っている』というのも、比喩や文学的表現でもなく、そのままの意味です。

187. Posted by ncd108   2005年09月28日 00:27
単純な話、医療が進歩して、今の私達が死ななくなるという状況を仮定してみて下さい。ただでさえエネルギー問題は深刻なのに、今生きている私達が死ななくなって更にどんどん子供が生まれてきたら、枯渇が早まって全滅に近づくだけです。(その間に新たな技術が発明されなければ尚更)
188. Posted by アキラ   2005年09月28日 10:21
>ncd108さん
はい、わたしが「事実」なんでしょうか?と言ったのは、
>『私達が、自身が生きるために他の生命の死を待って(あてにして)いる、これから生まれてくる個体も自身も含めた今の生命の死を待っ討い襦

についてです。

ncd108さんにとっては、そのままの意味なのでしょうが、わたしにとってはそうは見えません。
ですから、「事実」と言われてもね・・・です。
わたしにとっては、ncd108さんが仰るように「循環している」ということは、当たり前のことであって、「必要なことでも」「当てにして」いることでも「待っている」ことでも、何でもなくて、ただただ「当たり前のこと」なので、ncd108さんの「表現」が「事実」とは思われません。
189. Posted by アキラ   2005年09月28日 10:22
(続き)
同様に、まきこさんの意見にも、賛成しかねるわけですが。
まぁ、そういうように物事を見る人がいてもいいなぁとは思います。
「死を食べる」を含めて。

でも、それは「見え方」の問題ですから、「事実」とか言ってしまうのが危険かな・・・と。
そんなわけです。
ま、自戒をかなり込めて、そのへんには自覚的でありたいなという、そんな程度です。
190. Posted by まきこ   2005年09月28日 12:12
ncd108さん

私は、「死んでは生まれ、生まれては死ぬ」、「死なないならそれ以上生まれられない」ということが事実だということを疑うものではありません。
しかしそのことと、「死を待っている」ということとは、イコールではないですね。

たぶん、「死を待っている」というのは「だってどう考えたってほんとのことだもん」と感じられるのでしょうが、
「待っている」というのは主観的表現である、ということは共有できるでしょうか。

なかなかそう思えない状態というのは、実は私もわかるのですが。(^^;
191. Posted by ncd108   2005年09月29日 10:12
え〜、、私の表現が適切でなかった、或いは説明が足らなかったでしょうか。

「待つ」というのは確かに主観的、主体的、意識的な表現なんですが、『私達が、自身が生きるために他の生命の死を待っている』での「待つ」は、「非常に大きな視点で言うと、待っていると客観的に認識され"得る"」というような意味です。

私も文章上手くないのでアレなんですが、私は最初から、この話については個人それぞれの価値観に照らした話をしているつもりはなかったんです。
だから、まきこさんがアキラさんが客観的事実をどのように認識してそれぞれご自分の価値観世界観にされていらしゃるかってことには私は触れるつもりはなかったしないので、その点はご理解下さい。
192. Posted by アキラ   2005年09月29日 22:20
ncd108さんの「主観的認識」として、了解しました。
193. Posted by ncd108   2005年09月30日 00:48
>アキラさん
まだ説明が足りなかったようですが、それで了解されても困ります。

なかなか上手い言葉が思いつかないんだけど、あの一文の「待っている」というのは、「待機している"状態にある"」程度の意味で、具体的に誰それが意識して待ち"望んでいる"という意味ではないと解釈して下さい。
(もっとも細菌を除く従属生物の殆どは他の生物が死んでくれないと食べることができないんだから、『私達』について言えば、望む望まざる意識する意識せざるに関わらず、結果的に「待っているという状態にならざるを得ない」とは言えましょうが)
194. Posted by ncd108   2005年09月30日 00:58
元々あの一文は、「今生きている生命に死が存在しないと、他の・次世代の生命が生まれる余地がなくなる」ってことを(これは客観的事実としていいでしょう)強調するために付けただけです。

9.28/00:09の書き込みで「比喩ではない」と書いてしまったのは間違いでしたが(語彙が貧困で表現が適切でなかったので)、前の書き込みでも言ったように、アキラさんやまきこさんの主観的認識にケチをつけようと思った訳でもなく、また私自身の主観的認識を披露しようと思った訳でもないことをご理解下さい。
195. Posted by u'   2005年09月30日 09:16
夕飯つつきながら(えー、死を食べてる?...)とか考え込んだ人、ほかにいませんか。(^_^)

とりあえずの結論。旨そうだなんて思えるうちは、その死体=死という感じはしない。

これが干からびたり腐って悪臭を放ったり自分とってよそよそしい感じになると、死体=死って言ってもいいような感じが。

「死」という言葉が浮かぶのは、自分の居るある種のサイクルから外を観る視点からなのかな、と。このサイクルの大きさをどこでとるかで違ってしまうのかなと思いました。

上の例でも、腐ったものをリサイクルするのが日常な人は、また感じ方が違うかもしれない。
196. Posted by u'   2005年09月30日 09:24
まきこさんがこの言い方に批判的なのは、戦争を天災かなんかのようにみなすヤスクニ的状況とかぶらせてるからなのか?とちょっと推理。

(まきこさんがなぜ彼の写真家に批判的なのかが、いまいち分からない...)
197. Posted by まきこ   2005年09月30日 09:27
返信が追いつかず、申し訳ありません。

事実と主観的認識との話になっていますが、これ、元記事の話の根本かもしれません。

私は(たぶんアキラさんも)、ケチをつけられたとは思っていませんのでご心配なく。

ncd108 さんの、「この話(自然の理で言う『死』)から『人間が同胞の死を悼む・死の意味について考える』話(観念上の「死」)につなげない方がいいんじゃないだろうか」というのは、私にとってハタとひざを打つようなご指摘で、「そうか、それが全体に通じる問題点なのだな」と思ったのです。

ただ、つなげる道を作ったのは宮崎氏じゃないかと私が思ったのに対して、ncd108 さんはあちらは客観的な事実だろうとおっしゃったようだったので、それはどうかなといっただけです。
198. Posted by まきこ   2005年09月30日 09:33
u'さんの、「『死を食べる』って聞いて、そっかー死を食べて生に変えるわけね...生き物強し!死が何ぼのもんじゃい!と思った」というのは私は結構好きな感じです。

わかりました。「死を食べる」=悲観的、虚無的 というのは、当然ではありますが私の感想であって、それ以上のものではありません。

しかしこれが文学的な表現であって科学的な表記ではないということは、たぶん否定できないところですよね。

うー、つまりたとえば、小学生に理科の時間に、「私たちは死を食べていのちをつないでいます」と教えたらおかしいだろう、というようなことで、そう感じられませんでしょうか。
199. Posted by まきこ   2005年09月30日 09:36
それは、日常見えている世界のカラを突き破って、違う視点からものを見ることを促すための、すぐれて文学的な手法だとは思うのですが、もし子どもたちに「私たちは何を食べて生きていますか?」と問い掛けて、正解が「死」だったらちょっと待てよと思うでしょう?

200. Posted by まきこ   2005年09月30日 09:45
あ、自分で書いててわかってきたぞ。

私がひっかかったのは、実際はそうだったわけではないんだけど単純にしていうと、学校でそう教えているようなイメージが見えちゃったということでしょうか。
学校でそう教えて、子どもたちが「私たちは死を食べて生きています」と普通にいうようになっていたら、カルトな感じだと思うのですが、どうでしょう。(ちょっと自信なくなってくるが)

このカルトな感じが、靖国に通じている気がしたのですねきっと。
「お兄さんたちが死んでくれたおかげでニッポンは立派な国です。私たちは幸せです」「私たちもいつか立派に死にたいです」みたいな。私にはあの写真集から、ついそこまで見えちゃったということです。
201. Posted by まきこ   2005年09月30日 09:48
写真そのものからではなく、この事実から「死を食べる」という言葉を引き出したということからです。<そこまで見えちゃったのは

202. Posted by u'   2005年09月30日 12:44
なるほど。
現代社会・文明から「死」が不可視化・排除されている、という問題意識をおれはこの写真家と共有しているので、わざわざ「死を食べる」という言い方の選択に、すんなり納得がいったのですが、
日本には、「死」を積極的に組み込んだ忌まわしい(教育も含めた)システムの記憶がありますからね。国という一種の生態系が仮想されていたようなもんです。

生態系上で廻っている限り、本質的な死はたぶんありませんね。生態系の輝かしさによってその死を肯定する、というのはおれもやるかもなあ。ただその「生態系」を国にしないってだけで。国にしない、てのが本質的な差になるかどうかは、まだ良く分からないです。
203. Posted by まきこ   2005年09月30日 14:44
> 国という一種の生態系が仮想されていたようなもんです。

そうですそうです。
「死は、否定するようなことじゃないんだよ」というのは、生物的には当然そうなわけです。
さらに、生物的ではあるんだけれどももうちょっと社会性を帯びて、「お父さんお母さんも死ぬけれどもそれでいいんだよ」というのも、当然なわけですよね。ここまでは。

さらに社会性を帯びて、先人の、自然死ではなくて、なにかと闘って村を守って死んだ、というストーリーがあるとします。
だから私たちがあるんだよと。
こういったらたぶん、本質的に違ってくると思います。
204. Posted by まきこ   2005年09月30日 14:49
なぜならば、生物的には、別に「私たち」といわれる個体たちが存在しなくてもいいからです。

u'さんの言葉を借りれば、「生態系上で廻っている限り、本質的な死はたぶんありませんね」という意味においては、生きているのは私たちでなくてもいいわけです。

闘って、先人が敗れて他の人たちが生きて、その人たちがここにいるのであっても全く等価でしょう。

闘った相手が人間でなくて洪水か何かで、人が全滅して植物と動物たちの生きる場所になっていてもいいのです。

だから、ここに一線があるのではないかなと、実は私は思います。
205. Posted by まきこ   2005年09月30日 15:15
意味伝わるかなー。

だから、生物的なことを考えると、闘って死んだ先人に、あまり感謝の気持ちは湧いてこないです、私は。

環境汚染を防ごうとした人にだったら、感謝の気持ちはめっちゃ湧くと思いますが。

えー、たとえば北海道には、開拓に携わった屯田兵の人たちがいるわけですが、その人たちが寒い中で死ぬような目に合いながら開拓したということには、私は特別に感謝の念を持ちません。なぜなら開拓前の原始林はアイヌの生活の場であり、北海道開拓とは、同時にアイヌ侵略でもあるからです。

私は、そういう意味では、私という人間が存在しなくても、全く問題ないと思っているのです。
206. Posted by まきこ   2005年09月30日 15:18
話を戻して、宮崎学氏の写真絵本ですが、それは確かにこの一線を越えるようにはつくられていませんね。

ですから、私が反応したのはまさにu'さんのおっしゃる記憶、「『死』を積極的に組み込んだ忌まわしい(教育も含めた)システムの記憶」のためでしょう。
207. Posted by まきこ   2005年09月30日 21:55
ああっ、もとい〜。

違うわ。>国という一種の生態系

生態系というより、やはり一つの群として見なしているのでしょう。普通で面白くないけど。

だから、年寄りの体制を守るために若者が死に赴いたりするんですよね。それはきっと体制が頭脳に模されているから。だから、生態系だったら年寄りが死んで若い者に席を譲りそうなものなんだけど、逆が起こる。群が生き残ればいいので、そのために多少の個は死んでも構わない。

これ(群が生き残れば多少の個は死んでもいい)は、生態系の中の死が次に生かされるのとは、意味が違うのではないでしょうか。
208. Posted by ロスト   2005年10月01日 09:21
>国という一種の生態系
こういう表現好きです。


いつのまにか
standpointさんのblogが再開してる!

http://plus-ultra.cocolog-nifty.com/ultra/2005/10/post_ff75.html

ヤスクニ絡みということで。
209. Posted by u'   2005年10月01日 18:36
> これ(群が生き残れば多少の個は死んでもいい)は、生態系の中の死が次に生かされるのとは、意味が違うのではないでしょうか。

何というか、特攻とかを連想していましたね。彼らの自分の気持ちの納得のさせかた、とか。彼らの中には、現体制ではなく、後世の人間への視線がある。この行為の輝きによって自分達の命が後の日本人の運命に繋がるのを信じるとかね。民族の魂とか...ミームの生態系?

はっきり言えば、おれは彼らを行かせた側の気持ちや考え方なんか、どうでもいいのです。

一つ思ったのは、人が自分の死の後にも存続する何かを求めるのは否定できない、ということ。

まきこさんの場合は、自然環境になりますか?
おれは、何かな...

実はアキラさんやまきこさんが、死ねる気持ちがある、と割とあっさりと?答えられたことに驚いています。
210. Posted by u'   2005年10月01日 20:23
> 体制が頭脳に模されているから。

も一つの位相だと、国を一つの生き物のようにとらえたりする。
意外にこういう見方しますよね。
これに弱肉強食みたいなステロタイプを重ね合わせる。
とするとおれらは、ミトコンドリアかなにかだろか?(^_^)

国=我、ということなんでしょう。

おれがあの時代に生きていたら、どういう言葉や態度をもてたかな、と時々考えてしまいます。

竹内浩三に共感。
http://www.h4.dion.ne.jp/~msetuko/tkozo/takeutisakuhin.html
211. Posted by ncd108   2005年10月02日 11:37
>現代社会・文明から「死」が不可視化・排除されている、という問題意識をおれはこの写真家と共有しているので

これは私もそうですね。養老センセーが口酸っぱく仰っていることでもありますが。

>もし子どもたちに「私たちは何を食べて生きていますか?」と問い掛けて、正解が「死」だったらちょっと待てよと思うでしょう?

ただ、食べる以上はそこで死は発生するってことは教えないといけないでしょうね。それこそ畜産業でも営んでいる家庭でなければ、自分が食べてる料理から死体をイメージできなくなっているのが現代ですから。
昔は虫を食べる文化も日本にはありましたが、それもなくなりつつあるし。
212. Posted by ncd108   2005年10月02日 12:07
>「『死』を積極的に組み込んだ忌まわしい(教育も含めた)システムの記憶」

戦争・殺戮というのは昔からあった訳ですが、死体を社会から隠すようにし死を観念的なものに押しやろうとしたのは、富国強兵の名のもと外国との戦争を国家が積極的に考え始めた明治時代からですね。

火葬の起源は飛鳥時代にまで遡ることができるみたいですが、火葬されるのはごく一部の身分の高い人間だけで、その後も浄土真宗などでは霊魂の存在を否定するために火葬させていたようですがまだまだ一般的なものではなく、江戸時代ぐらいから漸く民間に火葬が広がるようになる。
213. Posted by ncd108   2005年10月02日 12:26
それでも今ほど率は高くないし、土葬ってのも珍しくなかったし、江戸時代くらいまでは道端で行き倒れた死体や川に浮いてる土左衛門を見る機会も結構あったそうです。

つまり現実として江戸時代くらいまでは死はまだ身近なもので、明治になって壬申戸籍が作られ一夫一妻制が導入され、家ごとに一人一人把握されるようになって、火葬も増えてきて、この辺りから死が観念的な方向に向かっていって(向かわされて)おかしくなってきたと考えられます。

214. Posted by u'   2005年10月02日 18:41
一日たって考えたら、まきこさんの、先の戦争が生態系的におかしい、という指摘は正しい、と思うようになりました。
ミームなんて言い出さなきゃなんないおれの方が、圧倒的におかしい。

一方で、宮崎学さんの「死がいのちをつないでる」も、文学的かもしれないが、真実をついている気がします。

こうは考えられないでしょうか。あの戦争のおかしさは、「死がいのちをつないで」いないところにある...

特攻の死は、いのちをつないだか?
捕虜を無法に殺す事は、誰かのいのちをつないだか?
沖縄戦の南部撤退によって生じた死は、誰かを救う事につながったか?

「死がいのちをつないでる」は平和主義を導かないかもしれないけれど、決して虐殺も一億玉砕も導かない。

自然界における死は命をつないでいるが、人間が引き起こす死は果たして...?と、こんな風に読んだっていいかも。
215. Posted by u'   2005年10月02日 18:44
↑しかし間にヤスクニやら民族の魂やらが入り込むと、とたんに
「死がいのちをつないでいる」ようにみえる気がします。
216. Posted by まきこ   2005年10月02日 22:15
さっき、カミナリで蛍光管がぴかっと光ったなり切れてしまい、真っ暗な中でPCに向かっています。見た目おたっきーです♪

なんかすごく、考える手がかりをもらえて、嬉しい私。

ncd108 さん、

> 自分が食べてる料理から死体をイメージできなくなっているのが現代ですから。

そうなんでしょうね。生き物を殺して食べているということを、できればお説教にならず、かつ否定的にならず、表現できるといいですね。その意味では、あの写真絵本は悪くないかも、ですね。
217. Posted by まきこ   2005年10月02日 22:23
> 死体を社会から隠すようにし死を観念的なものに押しやろうとしたのは、富国強兵の名のもと外国との戦争を国家が積極的に考え始めた明治時代からですね。

うーむ。そして火葬が出てきましたか。
なるほどなあ。私は、火葬というのはずいぶん死者に対して乱暴な仕打ちだなあと思っているのですが、そうか。それで死が観念的になるというのは、ありえそうな気がしますね。

死体が腐敗したり、虫に食べられたり、するのを見ないんですもんね。
焼かれて煙になって天国へも行くし、神にもなりそうか。うーむ。
218. Posted by まきこ   2005年10月02日 22:40
ロストさん、

おや、standpointさんのblog、休止していたんですか?
知らずにいました。論点がハッキリしていてわかりやすいなあ。
私とは大違い杉。
219. Posted by まきこ   2005年10月03日 00:59
u'さん、

私たちはどの程度に「個」で、どの程度に「種」なのでしょうかね。

たとえば、スズメバチなどの働き蜂は、巣を守るために闘っていのちを落としたりします。
でも、個々の働き蜂にそれぞれの個別な人生(蜂生)はなさそうだし、もともと自分の子孫系というものはなくて、女王蜂とオス蜂を世に送り出すために生きて死ぬので、それでいいのかもしれません。
だけど、餌を見つけて食べる「喜び」などは個々の働き蜂にもあって、死ねばそれがなくなっちゃうのだから、やはり死は嫌なのかな。

人間には、もう少し「個」があるようにみえますよね。しかしそれも幻想なのか? もしくは「個」はあっても、その個々の目的は結局、種の発展へと収斂されていくのでしょうか。
220. Posted by まきこ   2005年10月03日 01:13
> こうは考えられないでしょうか。あの戦争のおかしさは、「死がいのちをつないで」いないところにある...

うん、そうかも。
それを「あなたたちの死のおかげで今があります」ということに、疑いを覚えるのかもしれない。

うーん。人間の場合、人間の死がいを食べたりしないから、「今がある」のはあの戦争に限らずとも「先人の死のおかげ」ではなくて「先人の生きて行なった行為のおかげ」だよなあ、とまた元記事にループするわけだが・・・。

221. Posted by まきこ   2005年10月03日 01:16
しかし、あれですね。
生物として考えると、北海道がいまだ原生林で、私が存在しなかったとしても問題ないんですが、逆にはアイヌの人たちが殺されて和人にとって代わられたのも、問題ないわけでして。
何かの動物が絶滅しちゃっても問題ないような感じですよね。それとも、個体の死は問題ないが、種の絶滅は問題なのか? いやいや、地球誕生からこれまで、絶滅した種なんて数え切れなくあるわけで。

で、人間が絶滅しても問題なくて、実際私は、「それ全然OK」と深いところで思っているわけです。

人間が絶滅してもいいから、他の生き物まで道連れにするなよなとも思いますが、それが人間という生き物だともいえるので、それもまあ致しかたなく、・・・と、どんどんなんでもOKになってしまいますね。変でしょうか?
222. Posted by u'   2005年10月04日 00:01
> うーん。人間の場合、人間の死がいを食べたりしないから、「今がある」のはあの戦争に限らずとも「先人の死のおかげ」ではなくて「先人の生きて行なった行為のおかげ」だよなあ、とまた元記事にループするわけだが・・・。


お。「いのちをつなぐ」の「つなぐ」って「食いつなぐ」の延長で解釈してましたよ。

いのちA−被捕食者の死ーいのちA' でAとA'は同じ個体だと...

食物網のことだったか。(こっちが自然っすよね...)

捕食者のいのちー死ー被捕食者いのち。

でもこっちだとますますこの「死」を戦争やらの死と結びつけて考えるのはおれには厳しいっす...。まして魚の写真のキャプションとしての文だし。

というわけで、上のおれのコメント、没ですね、ハイ。
223. Posted by まきこ   2005年10月04日 08:43
うーん、頭が悪いな私は。

基本的なこととして、生態系で考えるならば、ある生き物の死は直接にその子どもの役に立たなくてもいいわけよね。
たとえばお魚の死がいが虫の食べ物になっても全然いいわけでしょ。
いいというか、そうじゃないと系がまわらない。

ここのところが、「ニッポンの繁栄のためになら」自分が死んでもいいというのとは全然違いますよね。しかも、「ニッポンの繁栄のためになら」他者を殺してもよくて、その結果として自分が死んでもいいというのが戦争だから、もう全然これは違う話ですよね。

ここ、まず押さえとこうっと。
224. Posted by ncd108   2005年10月04日 13:42
まぁちょっと私の前の書き込みの表現も悪くて、「死が観念的なものになりつつあった」ことと「あの戦争が起こった」ことにはほんの少しぐらい対応・相関関係はあるかもしれないが、因果関係は流石にちょっと認めにくいですね。

日本においての第二次世界大戦というのは、「極端に」大雑把な解釈をすれば、「日本が近代化を目指して、ヨーロッパの真似をしようとし続けた結果」起こった戦争です。
ヨーロッパの真似というのは当時世界を席巻していたアジアの植民地化であり帝国主義ですね。ペリーの来航があって大政奉還〜明治維新になるまでの間に、インドはイギリスの直轄地になって中国もアヘン戦争〜アロー戦争を通じてイギリスやフランスに半植民地化されている。
225. Posted by ncd108   2005年10月04日 15:43
ほかっとくと日本もその植民地化の流れに飲み込まれかねなかった訳で、日本は「じゃぁ俺達もマネしてアジア諸国を植民地にしよう」ってなって、日清戦争をやり日露戦争をやり、勝ってしまったもんだから益々ひっこみがつかなくなって、国内でも大正時代あたりから政府と軍の軋轢がひどくなって最終的には軍部が暴走して満州事変になって、日中戦争〜第二次大戦って流れですね。

根本的なところは、日本が満州に乗り出した時点で既に国力を考えれば「ムチャ」だったんだけど、それを国民が誰も理解し得ないまま「もう手遅れ」の日本本土への空襲まで行ってしまったことです。
226. Posted by ncd108   2005年10月04日 15:58
日本がムチャというかバカをやらずに、戦争のルールも知っていて「賢く」立ち回っていたら、日本が焦土になることはなかったし、そうなれば歴史は変わっていたでしょう。
善悪や是非を抜きにして言うなら、日本の戦後の経済発展は、日本がバカをやって自滅して何にもなくなっちゃったのが契機にはなっており、小泉首相が靖国に参拝したい心情にはそういうことも含まれているであろうことは推測できます。

勿論、私は首相の靖国参拝には賛成も反対もなく、靖国の存在自体疑問視している立場ですけどね。
227. Posted by アキラ   2005年10月04日 19:24
うんちく好きなんですねぇ。
>それを国民が誰も理解し得ないまま

ってことは、ないと思いますよ。
理解していた人たちは、少なからずいたでしょう。

何故それが、活きなかったのか、というところがキモじゃないんですかね。
228. Posted by u'   2005年10月04日 20:31
> 私たちはどの程度に「個」で、どの程度に「種」なのでしょうかね。

個体間には「違い」が、ありますよね。「種」の間にも「違い」がある。種の間の違いは生殖に関する違い。犬と猫の間に子供は生まれないとか。個体間の違いは、それ以外の違い。

生殖の違いが、その他の違いの拡大を促す仕掛けもあるけど、基本はこんな風に解釈してます。

だから基本はみんな「個」なんじゃないですかね?

ダーウィンは「進化論」って言い方、あまり好きじゃなかったそうです。「進化」だと後代の種の方が優れてる感じがするから、だそうです。

「種の発展」なんてないんじゃないんでしょうか。みんな環境に合わせて必死に生きているだけで。種の運命なんてだれも知らない。種の保存なんてものが「本能」に刻み込まれてるとは、おれは思わないです。生きろ、悦びを味わえ。それくらいじゃないかな...
229. Posted by u'   2005年10月04日 21:18
最低限の必然の死で、「違い」を背負った生き物たちが最大限共存している。そのように「うまいこと廻っている」状況を、俺ら人間は「生態系」と呼んでいる...
で、うまいこと廻っていないと、「生態系の破壊」というわけです。(^_^)

ちっちゃな違いでてんぱっている人間は、生態系のエリート達を観て範とすべきでしょう。
230. Posted by u'   2005年10月04日 21:42
それが「自然」だからOK、ってとても人間的な思いだと思う。

何かのために死ぬ、というのも結局観念的な不死をめざしていて、「生きる」の人間的屈折だと思います。
231. Posted by まきこ   2005年10月04日 23:15
新しく書き込まれたコメントにまだ対応できていなくて、朝の自分のコメントの続きです。

生態系を考えたときにいえるのは、「死んだらその死がいは他の生き物の役に立つ」ということであって、

これは、「○○のために死んでもいい」ということとは意味が違う。

前者でいっているのは死んだ結果としての死がいの話であって、死の目的の話ではないのよね。

やっぱり「死がい」と「死」とは、峻別されるべきではないのかなあ。
「死がい」というべきを「死」と言い換えてしまうと、「死が役に立つ」→「死を役立てる」「役に立つ死」のようにちょっとづつ言葉を動かすだけで、後者につながっていく可能性が出てくると感じます。
それが、私がいいたかった「罠」があるということなんだと思う。
232. Posted by まきこ   2005年10月04日 23:35
あの写真が示しているのは、「死がい」というとても具体的なものなのに、
キャプションはそこに「死」という観念を滑り込ませたのだと思う。

「死がいのちをつなぐ」という言葉は、死がいの写真から離れて、たとえば私たちの社会が先人たちの死の上に成り立っているとかいうところまで広がっていきがちだと思う。
だけどそれは、観念なんだよね。事実はただ、生まれて、死んで、生まれて、死んで、を繰り返しているということであって、それは「死の上に成り立っている」というのとは実は違う。と思う。

私が最初にひよこの話を出したのは、死というのが観念ではなくて、壊れた肉体という物質でもなくて、「もう動かないようになる」という現象であったからなんだと思うんだけれど。
233. Posted by アキラ   2005年10月05日 00:11
>「もう動かないようになる」という現象であったから

そうなんですよねぇ。
あのですねぇ、個体の死を埋葬するほどの感受性・慣習・自意識をもった「種」と、その他の「種」をごっちゃにしてはいけないと思うんですよね。

別に「死」じゃなくったって、「死がいが役に立つ」とかいう時点で、そんなの人間以外は思わないわけでしょう。
他の生き物には、役に立つとか立たないとか、関係ないですもの。
ただただそうである、というだけで。

だから、実は「人間の死」を、その他の生き物のそれとか生態系とかと結びつけて、あるいは同列のようなニュアンスをもって提示すること自体が、すでに「罠」になっていると思うんですが・・・。
234. Posted by ncd108   2005年10月05日 19:02
>アキラさん
言葉尻捉えて重箱の隅つつくのがお好きな方のようですねぇ。
「それを国民が誰も理解し得ないまま」は、結果から見て大雑把に解釈してるだけです。情報操作がどのくらいあったのか、情報操作があったからこそ当時の現状を把握できる国民が少なかったのか、或いは国民の側がそもそも正確に把握しようという意図がなかったのかは分からないけど、国民の大半が正確に日本の状況状態を把握できていれば、手遅れにはなっていなかったんじゃないかってことを言いたかっただけです。

ちなみに、私の書いたことは薀蓄レベルでもありません。ただ、靖国のことを考えるのであれば、そうした歴史的経緯も含めて考えた方がいいとは思っているから表面的なことを書いたまで。
235. Posted by ncd108   2005年10月05日 19:04
「靖国のことを考えるのであれば」→「靖国と第二次大戦を絡めて戦争における人の死ってことまで考えるのであれば」
236. Posted by アキラ   2005年10月05日 20:59
>ncd108さん
あ、尻だったんですか。それは失礼しました。
どこが頭なのか尻なのか、分かりませんでした。すみません。
そうですね、常識レベルですものね。
10行以上もわざわざ費やすべきものかな、とふと思ったものですから。
それだけです。

しかし、いつも思うんですが、まきこさんとこはすごいですね (^o^)。
このエントリー一本で、一ヶ月以上遊べちゃうんですもんね。
さすがっ!!
237. Posted by u'   2005年10月05日 21:19
反対意見をば...

> だけどそれは、観念なんだよね。事実はただ、生まれて、死んで、生まれて、死んで、を繰り返しているということであって、それは「死の上に成り立っている」というのとは実は違う。と思う。

食物網って観念ですよね?この網の結び目には、殺す・死ぬという出来事があったりする。
食物網の観念を使えば、一見関係ない生き物との関係を想像できる。死追いかけてきたこの写真家がここで述べてるのは、ほとんどこれだけです。

全ての死はいのちをつなぐ、でもなく、いのちをつなぐ死があるってだけです。いのちをつなぐのは死だけってわけじゃない。
238. Posted by u'   2005年10月05日 21:21
先人の死でこそ先人と今の我々は繋がっているのだ、というのは主張する方がおかしいのであって、それに対してその都度反論すべき事柄でしょう。ヤスクニはその意味で生態系を模しているのです。というか、生態系を観て我々がある種の慰めを得る力学を収奪しているのです。

生まれて死んでを繰り返すってのも観念だと思います。
生態系、食物網と同じ、一部分から全体や続きを想起できる人間のちからです。

...ってこんな感じで。

しかし、あらためて見ると長いっすね...
239. Posted by ncd108   2005年10月06日 05:42
>アキラさん
そう(=10行以上もわざわざ費やすべきものかな)本心で思っているんなら最初からはっきり言えばいいと思うんですがね。何か言えない理由でもおありで?

私の書き込み(主張)や私自身が気に食わないっていうんなら、それもはっきり書けば前の私の書き込みのような余計なこと書かなくても済むんですけどねぇ。

しかも気に食わないなら、そもそもあの書き込み自体あなたに向けて書いたものではないからシカトしてりゃ済む話なのに、わざわざねちっこくつっかかってくるとはよっぽどお暇な方なんですね。

240. Posted by ncd108   2005年10月06日 05:44
ここはまきこさんのブログですし、私もそれほど暇じゃないんで、残念ながらこれ以上は相手できませんよ。どうしてもアキラさんがまだ文句言いたくて、その文句を第三者から見ても根拠があって筋の通ったものにできるのであれば、私のブログの上から3つめのエントリーの中にメアドが書いてあるんで、そっちに送って下さい。時間に余裕ができたら、レスも考えます。

>まきこさん
アキラさんがこの書き込みと上の書き込みを読んだことが確認された時点で、一連のやりとり、削除して下さい。本題からはどう見ても逸れてますし、不適切な発言内容ですので。
241. Posted by まきこ   2005年10月06日 08:27
> エントリー一本で、一ヶ月以上遊べちゃうんですもんね。

ははは。アキラはん、それは私の元記事とコメントがぐだぐだやちゅうことでんがな。きっついわあ。

ncd108 さん、

靖国と第二次大戦を絡めて戦争における人の死ってことまで考えるのであれば、歴史的経緯も考えた方がいい、というのはおっしゃるとおりかもしれません。

それで、ふと思ったのですが、戦争が起きるときとは、実は誰かが戦争を起こそうとするときで、もしかしたらそのときには、

「国民の大半が正確に日本の状況状態を把握できていれば」止められるというものでもなく、もっと事前には、「国民の大半が正確に日本の状況状態を把握」できないようになっているのかもしれませんね。

私たちには何ができるんだろう。本当に。
242. Posted by まきこ   2005年10月06日 08:47
u'さん、かかわってくださったかたがた、

ほんとに、たくさんのコメントをいただきました。
もうここまでくると、これがまきこのぐだぐだな思考に付き合っただけで得るものがなかったな、ということでなければいいがと、それだけが心配です。

u'さんやアキラさんには、ちょっとこれから考えなきゃいけないことを提示されたままの状態で、考えるのはこれからですね。
243. Posted by アキラ   2005年10月06日 08:54
>ncd108さん
あらら、そっち方面いっちゃうんですか。
はいはい、了解です。

>まきこさん
いや、マジでさすがだと思ってるんですよ。
ぐだぐだというより、いろんな観点が出てくるので、そしてそれでずーっとやりとりできているから、ホントすごいですよ。
たくさん勉強になりますし。

出来ること、
自分に引き寄せて言えば、「空気」に水を差し続けること、
これはまず出来るかな、ですかね。
その意味で、このエントリーでの提示は、非常に的確だと想います。
244. Posted by アキラ   2005年10月06日 16:16
>まきこさん
あ、それからくだらないことですが、ncd108さんのコメントを削除されるのは本人のご希望なのでよいと思いますが、僕のは残して下さいね。
戯れ言書いてるわけではありませんから、消されるいわれはないと思いますので。
悪しからず。
245. Posted by まきこ   2005年10月06日 23:18
消しませんよ。
ncd108さんのも、ご本人のたってのご希望なら消しますが、このblogに配慮してのことなら、私は消さないでおくつもりです。
246. Posted by u'   2005年10月07日 18:39
ここ、興味深かったです。↓

挾本佳代・社会学講義:
http://www.lian.com/HASAMOTO/univ/sociology1.html
247. Posted by KEN-NYE   2005年12月25日 18:14
あああO=(__;;; パタ...

こんなところにものすごく参考になるギロンが・・・
アキラさんが「1ヶ月以上遊べちゃう」っておっしゃってますが、それ以上でっせ^^;

この記事を読む前に私が書いたエントリー、TBしておきます。とにかく違和感を感じるのが「死に感謝する」なんですよね。その意味が元記事から皆さんのコメントを読んで少しずつ見えてきた、というところでしょうか。

まきこさんはいつも食い付き甲斐のあるエントリーを書かれますよね。だからみんなが食い付いて、さらに面白いものになっていく、と。
248. Posted by まきこ   2006年01月02日 18:57
KEN-NYEさん、よくこんな古い記事を見つけてくださいましたね。

そちらの記事、読ませて頂いておりました。そのときはコメントしませんでしたが、わかりやすくていいなあと思っておりました。

私のほうは、まとまらずヘロヘロしていますのでね、ツッコミどころが多いというわけ。

私自身、理解がついていかず、失礼になってしまうことも多いです。
u'さん、最近ここではお見かけしませんが、どうしていらっしゃるかな。

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